和歌批判の範疇

折口信夫




      




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使使()()

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ひとへづゝ八重山吹はひらけなむほどへて匂ふはなとたのまむ


郭公あかずもあるかな玉くしげ二上山の夜はのひとこゑ
の判詞に、「ふたかみ山、あかずなどいふ、いとをかし」云々とあるもの、
建保五年の歌合の、二十三番の、
須磨の浦に秋をとゞめぬ関守ものこる霜夜の月は見るらむ

鹿()


まちわびぬ心づくしの春霞花のいざよふ山の端の空
を評して、「右、こもりて、愚意難」云々と、見えて居るもの、
六十四番歌結に、三番子日友の右、
たちまじり小松ひく日はわれならぬ人のちとせもいのられにけり
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居候醋のこんにやくをいつも喰ひ
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茲に集合概念というたのは、厳格な意味に於て用ゐたのではなく、唯二つの内容が集合して一種特別な意味をなす点を捉へていうたのみで、勿論この集合概念の上には意味ある予定ある思想が働いて居るので、無意味の中から、意味を取り出すといふのではない。
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便



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一、主観的表現
二、客観的表現
三、絶対的表現
此三つの場合について、簡単な説明を試みよう。
(一)主観的表現といふのは、写象をとほしてある主観が認めらるゝもの。
しのぶにやつるるふる里は松虫の音ぞかなしかりける(古今)
わが庵は都のたつみしかぞ住む世をぢ山と人はいふなり(同)
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ましみづの細きながれは居ながらも手をひたすらになつかしげなる(大隈言道、草径集)
兎も角、読者は僅かな音を媒介として、作者の思想と見ゆる者を二種以上くることが出来るのであるから、非常に重宝な方法といはねばならぬ。
(二)客観的表現は、客観事象によつて惹き起された興味の印象が、全体的又は部分的に、実質的内容を蓋うて居るもので、此には叙景的のものと叙事的のものとがある。
(イ)桜さく遠山どりのしだり尾のなが/\し日もあかぬ色かな(後鳥羽院、新古今)
忍れどこひしき時はあしびきの山より月のいでゝこそ来れ(貫之、古今)
波まより見ゆる小島のはま楸ひさしくなりぬ君にあひ見で(勢語)
津の国の浦のはつ島はつかにも見なくに人の恋しきやなぞ(雅成親王、玉葉)


(ロ)ますらをがさつ矢たばさみたち向ひ射るまとかたは見るにさやけし(万葉)
よひにあひてあしたおもなみなばりにかけながき妹がいほりせりけむ(同)
あしびきの山どりの尾のしだり尾のなが/\し夜をひとりかもねむ(同、作者未詳)
たちのしり鞘にいり野に葛ひく我妹ま袖もて着せてむとかも夏葛ひくも(万葉)
叙事的表現といふのも、畢竟、此うちにこめて説く事が出来ようと思ふ。ある観念、又はある思想を喚び起す為に、他の事実現象を述べて、それを契機として言語の類似、又は同一思想を捉へて、本題目に入る手段であるが、質朴な万葉時代の修辞法には屡用ゐられて居る。しかも、多くは本題よりも遥かに長く、形式の大部分を占めて居る事は注意せねばならぬ。
此法においては、最も形体的内容の聯想が、実質的内容と傾向を同じくする必要がある。最も形体的内容が明らかにあらはれて居るのは、此法であるが、それだけにまた、実質的内容を融合することも困難である。極めて単純なる感情をばあらはす手段であるから、形体的内容を述ぶることに低徊して、なるべく、事実よりも印象を深く与へて、実質的内容の量を深く感ぜしむるといふのが眼目である。此点は象徴派の参考とすべきものであらう。
(三)此表現法は、美的仮象を分解して、空想的と感覚的との両写象にして仕舞つては、完全な内容を形くることの出来ぬ者、即主観客観の融合した者と、主観客観を超越した者とを併せていふので、名称に稍不穏当な処あるが、シバラく絶対的といふ名称の下にるゝことゝした。
時鳥まつにしもさく藤の花人の心のなびくなりけり(加納諸平、柿園詠草)
身をうみのおもひなぎさは今宵かなうらに立つなみうち忘れつゝ(大和物語)
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君恋ふるなみだのうらにみちぬればみをつくしとぞわれはなりぬる(新撰万葉)
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若鮎のひれふる姿みてしよりこの川上の家ぞ恋しき(加納諸平、柿園詠草)
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2008724

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