神楽と言ふ名は、近代では、神事に関した音楽舞踊の類を、漠然とさす語のやうに考へてゐる。さう言ふ広い用語例に当るものとして、神カミ遊アソびと言ふ語があつたのである。一体日本古代の遊びとか舞ひとか言はれるものには、鎮魂の意義が含まれてゐる。﹁神遊﹂は、神聖な鎮魂舞踊とか、或は神自ら行ふ舞アソ踊ビとか言ふ意味らしいのである。其神遊びの一種として、平安朝の中頃から宮廷に行はれ始めたのが神楽で、最初は﹁琴歌神宴﹂と称して、大嘗祭の一部分の、夜の行事から出たと言ふ説が、有力になつてゐる。 通説には、天岩戸の神出現に先立つて、天鈿女命の舞踊したのが起源だといふ事になつてゐるが、此は神楽よりも古い鎮魂祭の初めを説くものと思はれる。 恐らく宮廷以外の神社で発達したものが、天子を祝福する意味から、宮廷年中行事の一つに入りこんだものと思はれる。其にも順序があつて、最初に豊ブラ楽ク殿の清セイ暑シヨ堂ダウに行はれたのが、後、内侍所にも行はれることになつたらしい。天子の御為にするのであつた事は、庭上で之を奏してゐる間、御座に出御になつてゐた事からも察せられる。 主要な楽器は琴で、之に笛・篳篥が伴つてゐる。歌は本モト方カタ・末スヱ方カタに分れて、所謂﹁掛け合ひ﹂の様式で謡ふのである。舞ひは、此神カミ態ワザの長ヲサと言ふ風に解せられてゐる人ニン長ヂヤウがするので、其も主として、初めの﹁採トリ物モノ﹂に行はれる。採物は、其一つ〳〵が、此鎮魂呪術に用ゐる呪具だつたのだらう。其を携へて出て舞ふと、歌が之に伴ふ。之がすんで後、数回の勧ケン盃バイがある。其間に古来のと今様のと、民謡に唐楽風の節をつけた、当時の歌謡曲の様なものが謡はれた。此が大オホ前サイ張バリ・小コサ前イバ張リである。其後は﹁朝歌﹂とも言ふべき星の歌・星の呪文・朝倉などがあつて、昼ヒル目メ・其ソノ駒コマなどを含む雑歌でをさめることになつて居る。正式に之を行へば、宵から夜明けまで夜を徹したものだが、曲目も殖えて次第に其を本格的に行ふことが出来ず、時々の選択を加へて、抜きさしするやうにもなつたと見える。 神楽の主要部は、やはり採物にあるので、其後で、鎮魂を行つた慰労として出る酒を頂く。謝意を表する為の芸廻しとも言ふべきものが、其々の才サ技イで召された男たちによつて行はれ、其後なごり惜しみして別れて行く。其朝の部に属するものが分化して、﹁雑ザフ歌ノウタ﹂を生じたと言ふことになるのであらう。今度催される﹁其駒﹂なども、雑歌のをさめに謡ふことになつてゐた。朝の神あげで還つて行かれる神に別れを惜しむやうな感情が、此部の歌には全体として現れてゐるのだが、朝は日神が来臨するのに、之になごり惜しみすることの矛盾を感じて、こゝで一しきり悲別とも讃歎ともつかぬ歌群が出来た訣である。﹁さゝのくま ひのくま川に駒とめて︵昼目︶﹂と﹁其駒ぞや 我に草こふ﹂とを比べて見ても、同じ目的の分化したことは窺はれるのである。 神楽が宮廷に栄えて後、宮廷以外の地方の社で行ふものを、里サト神カグ楽ラ、夏の祓ハラへに関聯した舞踊を夏神楽、伊勢国の片田舎で発達したのが、神宮直属のものゝ様に僣称して、病気災厄の祓へをして廻つたのが、伊勢神楽と言ふやうに、神楽と言ふ称へが、圧倒的な勢力を、神事舞踊の上に持つて来るやうになるのである。