○ 短歌が滅亡するかしないかといふやうなことが先頃だいぶ問題になつてゐたやうである。尤もそれは最初誰かその方面の人が問題にしたのではなくて、雜誌編輯者の提出した問題がもとゝなつて一部の人々がそれについての意見を述べたのであるらしい。だから嚴密にいへばそれは或る歌人の心におのづから切實な問題として來たのでなくて、偶然第三者から問題を提出されたことがもとゝなつたことで、隨てさう眞劍にとりあげるほどのこともないと云へる。 そも〳〵、歌をよみ、且歌をよむそのことに生命のよろこびを感じてゐる人に、短歌が亡びるか亡びないかなどといふ疑問が起つて來るやうな心のスキなどあるべき筈がない。たま〳〵單なる智識上の疑問としてそんな考が起つて來たとしても、そのことが自己の歌をよまうとする心にまで陰を投ずるやうなことがあらう筈がない。よまずに居られずに歌をよんでゐる者にとりては、歌が亡びる時があるかないかなどいふことは、どうでもよいことであるべき筈である。一體、亡びるか亡びないかの心配をし出した日には、此の地上のもので何一つ其の心配の種とならぬものはない。私達が生きてゐるのは、人類が永遠に生きるものであるか否かによつてゞはない。人類の生命が永遠であらうとなからうと、生きずには居られぬから私達は生きてゐる。短歌だつていつか滅亡する時があるかも知れない。それだつていゝではないか。よしそれだからといつて歌はずに居られなかつたらしようがないではないか。そんなことよりも何よりも心配するとしたら現在私達の使用してゐる言葉から先に心配してかゝらなければならないわけだ。そんなことはどうでもいゝぢやないかと投げ出して知らん顏でゐるところに、私達は本當の歌人としての面目を見たく思ふ。 ○ それから又よく世間には、﹁君たちのやつてゐる事は、遊びぢやないか﹂とけなされたりすると、むきになつて﹁俺達のやつてゐることは遊びなんかぢやないぞ﹂といふことに辯解これ努める歌人などが少なからず見うけられる。これも一方から考へると、いかにも、尤もなことのやうであるが、一方から考へると必ずしもさうではない。 なぜさうした場合、﹁うん、おれたちのやつてゐることは遊びだ、だが一體遊びだから何故いけないのだ、遊びの尊さがわからないのか﹂といふやうな態度に出る人が少いのであらう。 總じて今の世では﹁遊び﹂といふことがあまりに勘違ひされ過ぎてゐる。眞劍々々と眞劍といふ言葉に囚はれすぎて、﹁遊び﹂といふことに對してあまりに忘恩になり過ぎてゐる。食ふこと、働くこと、鬪ふこと、苦しむこと……の外に、遊ぶといふことが人生の重大事であることは解り切つた事である筈である。殊に幼少年時代の人間にとりては、遊ぶこと即ち生きることであるほどそれほど遊ぶことが重大な意義を持つてゐる。子どもばかりではない、すべての人間から遊ぶといふことを奪つて見たらどうなるであらう、﹁遊び﹂のない人生などは私達には想像することも出來ない。 自分のやつてゐることが﹁遊び﹂だからといつて、又それが他の人々を遊ばせることであるからといつて、何の恥づるところがあらう。そんなことを考へるよりも﹁如何に遊ぶべきか﹂といふ問題の重大さから先づ自覺してかゝるがいゝのである。私は﹁おまへのやつてゐることは遊びぢやないか﹂といはれてむきになる多くの所謂眞劍な人々よりも、遊ぶといふことに無上の意義を認めて、生涯を如何に遊び了らうかの一途に委ねた芭蕉その人に、眞の眞劍さを感じさせられる。 ○ 遊戲文學そのものが惡いのではない。それが眞の遊戲文學でないから惡いのである。作るその人が既にびく〳〵ものでやつてゐるやうな遊戲文學が惡いのである。 ﹁遊び﹂の最高の意義を自覺し﹁如何に遊ぶべきか﹂といふ問題の重大さを自覺した上で、しつかりと腰を据ゑた遊戲文學ならば、それは至極貴かるべき筈である。 ﹁君! 少しは僕のところへも遊びに來たまへよ﹂といふ挨拶は、よくも云ひならはされたものだ。そこに聊かの不眞面目さもない。むしろいかに豐かな味はひがその一語のうちに藏されてゐることぞ。 人と遊び、天地と遊ぶ――その道を選んだ古人の心を私はむしろなつかしくも尊くも思ふ。