私は奈良にT新夫婦を訪ねて、一週間ほど彼らと遊び暮した。五月初旬の奈良公園は、すてきなものであった。初めての私には、日本一とも世界一とも感歎したいくらいであった。彼らは公園の中の休み茶屋の離れの亭ちんを借りて、ままごとのような理想的な新婚の楽しみに耽ふけっていた。私も別に同じような亭を借りて、朝と昼とは彼らのところで御馳走になり、晩には茶屋から運んでくるお膳でひとり淋しく酒を飲んだ。Tは酒を飲まなかった。それに、Tのところで飲むと、その若い美しい新夫人の前で、私はTからいろいろな説法を聴かされるのが、少しうるさかったからでもある。 互いに恋し合った間柄だけに、よそ目にも羨うらやましいほどの新婚ぶりであった。何という優しいTであろう、――彼は新夫人の前では、いっさい女に関する話をすることすら避けていた。私はある晩おおいに彼に叱られたことがある。それは、私がずっと以前に書いたものの中に、けっして彼のことを書いたのではないのだがサーニン主義者めいたものを書いたのを、彼は自分から彼のことを書いたもののように解して、蔭では怒っているのだそうである。 ﹁君のように、ある輪郭を描いておいて、それに当てはめて人のことを書くような書き方はおおいにけしからんよ。失敬な! 失敬な!﹂ 彼はその晩も、こう言って、血相を変えて私に喰ってかかった。酒を飲んでいた私は、この突然な詰問に会って、おおいに狼ろう狽ばいした。 ﹁あれは、けっして君のことを書いたというわけではないじゃないか。あんな事実なんか、全然君にありゃしないじゃないか。君はKに僕と絶交すると言ったそうだが、なぜそんなに君が怒ったのか、僕の方で不思議に思ったくらいだよ。君がサーニン主義者だなんて、誰が思うもんかね。あれはまったく君の邪じゃ推すいというものだよ。君はそんなことのできるような性質の人ではないじゃないの﹂私はいちいち事実を挙げて弁解しなければならなかった。 ﹁そんならいいが、もし君が少しでもそんな失敬なことを考えているんだと、僕はたった今からでも絶交するよ。失敬な! 失敬な!﹂彼はこう繰返した。 ﹁いやけっしてそんなことはないよ。そんな点では、君はむしろ道徳家の方だと、ふだんから考えているくらいだよ﹂ ﹁それならいいが……﹂ こんな風で、私は彼の若い新夫人の前で叱られてからは、晩のお膳を彼のところへ運びこむのを止しにした。これに限らず、すべての点で彼が非常に卓越した人間であるということを、気が弱くてついおべっかを言う癖のある私は、酒でも飲むとつい誇張してしまって、あとでは顔を赤くするようなことがあるので、淋しくても我慢してひとりで飲む気になるのである。 ﹁浪子さんと言っちゃいけないだろうか?﹂ ﹁いけないよ……﹂ ﹁なんて言うの? 奥さんと言うのもあまり若いんで、少し変じゃないか?﹂ ﹁そんなことないよ。やっぱし奥さんと言ってやってくれたまえな﹂と、彼は言った。 こうしたところにも、彼の優しい心づかいが見られて、私はこの年下の友だちを愛せずにいられなかった。しかし私には、美しくて若い彼の恋人を奥さんと呼ぶのは何となくふさわしくないような気がされて、とうとう口にすることはできなかった。 私たちは毎日打連れて猿にお米をくれに行ったり、若草山に登ったり、遠い鶯うぐいすの滝の方までも散歩したりして日を暮した。鹿どもは毎日雨戸をあけるのを待ちかねては御飯をねだりに揃ってやってきた。若草山で摘つんだ蕨わらびや谷間で採った蕗ふきやが、若い細君の手でおひたしやお汁つけの実にされて、食事を楽しませた。当もない放浪の旅の身の私には、ほんとに彼らの幸福そうな生活が、羨ましかった。彼らの美しい恋のロマンスに聴き入って、私はしばしば涙を誘われた。私はいつまでもいつまでも彼らのそばで暮したいと思った。が私にはそうしてもいられない事情があった。 あしたお別れという晩は、六畳の室に彼らと床を並べていっしょに寝ることにした。その晩は洋画家のF氏も遊びに来た。酒飲みは私一人であった。浪子夫人がお酌をしてくれた。私は愉快に酔った。十一時近くになって皆なで町へお汁粉をたべに行った。私は彼らのたべるのをただ見ていた。大仏通りの方でF氏と別れて、しめっぽい五月の闇の中を、三人は柔かい芝生を踏みながら帰ってきた。ブランコや遊動円木などのあるところへ出た。﹁あたし乗ってみようかしら? 夜だからかまやしないことよ……﹂と浪子夫人が言いだした。 ﹁あぶないあぶない! それにお前なんかは乗れやしないよ﹂Tはとめた。 ﹁でも、あたし乗ってみたいんですもの……﹂ 浪子夫人はすっと空気草履を穿はいたまま飛び乗って、そろりそろりと揺がし始めた。しんなりした撫なで肩がたの、小柄なきゃしゃな身体を斜にひねるようにして、舞踊か何かででも鍛えあげたようなキリリとした恰かっ好こうして、だんだん強く強く揺り動かして行った。おお何というみごとさ! ギイギイと鎖くさりの軋きしる音してさながら大おお濤なみの揺れるように揺れているその上を、彼女は自在に、ツツツ、ツツツとすり足して、腰と両手に調子を取りながら、何のあぶな気もなく微笑しながら乗り廻している。実際驚異すべき鮮かさである。私にはたんにそれが女学校などで遊戯として習得した以上に、何か特別に習練を積んだものではないかと思われたほどに、それほどみごとなものであった。Tもさすがに呆あっ気けに取られたさまで、ぼんやり見やっていたが、敗けん気を出して浪子夫人のあとから鎖につかまって乗りだしてみたが二足と先きへは進めなかった。たちまち振り飛ばされるのである。が彼は躍起となって、その大きな身体を泳ぐような恰好して、飛びついては振り飛ばされ、飛びついては振り飛ばされながらも、勝ち誇った態度の浪子夫人に敗けまいと意気ごんだ。 ﹁梅坊主! 梅坊主﹂ 私はこう心の中に繰返して笑いをこらえていたが、ふっと笑えないようなある感じがはいってきて、私の心が暗くなった。 ﹁禅骨! 禅骨!﹂ 私は今度はこう口へ出して、ほめそやすように冗談らしく彼に声をかけたが、しかし私の心はやはり明るくならなかった。私たちみたいな人間に共通したある淋しい姿を見せられた気がして、――それは恋人にも妻にも理解さすることのできないような。…… 浪子夫人はますます揚々とした態度で、大濤のように揺れる上を自在に行ったり来たりした。鎖の軋きしる音が、ギイギイ深夜の闇に鳴った。