序
大奸は忠に似て大智は愚なるが如しと宜なり。此書は三遊亭圓朝子が演述に係る人情話を筆記せるものとは雖も、其の原を美作国久米郡南条村に有名なる皿山の故事に起して、松蔭大藏が忠に似たる大奸と遠山權六が愚なるが如き大智とを骨子とし、以て因果応報有為転変、恋と無常の世態を縷述し、読む者をして或は喜び或は怒り或は哀み或は楽ましむるの結構は実に当時の状況を耳聞目撃するが如き感ありて、圓朝子が高座に上り、扨て引続きまして今晩お聞きに入れまするは、とお客の御機嫌に供えたる作り物語りとは思われざるなり。蓋し当時某藩に起りたる御家騒動に基き、之を潤飾敷衍せしものにて、其人名等の世に知られざるは、憚る所あって故らに仮設せるに因るならん、読者以て如何とす。
明治二十四年十一月
春濤居士識
﹇#改ページ﹈
一
美みま作さか国のくに粂くめ郡ごおりに皿山という山があります。美作や粂の皿山皿ほどの眼まなこで見ても見のこした山、という狂歌がある。その皿山の根ねが方たに皿塚ともいい小皿山ともいう、こんもり高い処がある。その謂いわれを尋ねると、昔南みな粂みく郡めごおりの東ひが山しや村まむらという処に、東ひが山しや作まさ左くざ衞えも門んと申す郷ごう士しがありました。頗すこぶる豪ごう家かでありますが、奉公人は余り沢山使いません。此の人の先祖は東山将軍義よし政まさに事つかえて、東山という苗字を貰ったという旧家であります。其の家に東山公から拝領の皿が三十枚あります。今九枚残っているのが、肥ひ後ごの熊本の本願寺支配の長ちょ峰うほ山うざん随ずい正しょ寺うじという寺の宝ほう物もつになって居ります。これは彼かの諸方で経済学の講釈をしたり、平へい天てん平へい地ちとかいう機械をもって天文学を説いて廻りました佐さだ田かい介せ石き和尚が確かに見たと私わたくしへ話されました。何どの様な皿かと尋ねましたら、非常に良い皿で、色は紫がゝった処もあり、また赤いような生しょ臙うえ脂んじがゝった処があり、それに青貝のようにピカ〳〵した処もあると云いますから、交こう趾ちや焼きのような物かと聞きましたら、いや左そ様うでもない、珍らしい皿で、成程一枚毀こわしたら其の人を殺すであろうと思うほどの皿であると云いました。其の外ほかにある二十枚の皿を白菊と云って、極ごく薄手の物であると申すことですが、東山時分に其そ様んな薄うす作さくの唐物はない筈、決して薄作ではあるまいと仰しゃる方もございましょうが、ちょいと触っても毀れるような薄い皿で、欠けたり割れたりして、継いだのが有るということです。此の皿には菊の模様が出ているので白菊と名づけ、あとの十枚は野菊のような色気がある処から野菊と云いました由で、此の皿は東山家伝来の重ちょ宝うほうであるゆえ大事にするためでも有りましょう、先祖が此の皿を一枚毀す者は実子たりとも指一本を切るという遺言状をこの皿に添えて置きましたと申すことで、ちと馬鹿々々しい訳ですが、昔は其様なことが随分沢山有りましたそうでございます。其の皿は実に結構な品でありますゆえ、誰たれも見たがりますから、作左衞門は自慢で、件くだんの皿を出しますのは、何どういうものか家かれ例いで九月の節句に十八人の客を招しょ待うだいして、これを出します。尤もっとも豪家ですから善よい道具も沢山所持して居ります。殊に茶器には余程の名器を持って居りますから自慢で人に見せます。又御領主の重役方などを呼びましては度たび々〳〵饗応を致します。左様な理わ由けゆえ道具係という奉公人がありますが、此の奉公人が頓とんと居附きません。何な故ぜというと、毀せば指一本を切ると云うのですから、皆道具係というと怖れて御免を蒙こうむります。そこで道具係の奉公人には給金を過分に出します。其の頃三年で拾両と云っては大した給金でありますが、それでも道具係の奉公人になる者がありません。中には苦しまぎれに、なんの小指一本ぐらい切られても構わんなどゝ、度胸で奉公にまいる者がありますが、薄作だからつい過あやまっては毀して指を切られ、だん〳〵此の話を聞伝えて奉公に参る者がなくなりました。陶器と申す物も唐か土らには古来から有った物ですが、日本では行ぎょ基うき菩ぼさ薩つが始まりだとか申します。この行基菩薩という方は大やま和との国くに菅すが原わら寺でらの住じゅ僧うそうでありましたが、陶器の製法を発明致されたとの事であります。其の後ご元祖藤とう四しろ郎うという人がヘーシを発明致したは貞てい応おうの二年、開山道どう元げんに従い、唐土へ渡って覚えて来て焼き始めたのでございましょうが、これが古こ瀬せ戸とと申すもので、安あん貞てい元年に帰朝致し、人にも其の焼やき法ほうを教えたという。是これは今こん明治二十四年から六百六十三年前ぜんのことで、又祥しょ瑞んず五いご郎ろだ太ゆ夫う頃になりまして、追々と薄作の美くしい物も出来ましたが、其の昔足利の時代にも極ごく綺麗な毀れ易い薄いものが出来ていた事があります。丁度明めい和わの元年に粂くめ野のみ美まさ作かの守かみ高たか義よし公こう国替で、美作の国勝かつ山やまの御城主になられました。その領内南粂郡東山村の隣りん村そんに藤ふじ原わら村むらと云うがありまして、此の村に母おや子こ暮しの貧民がありました。母は誠に病身で、千ち代よという十九の娘がございます、至って親孝行で、器量といい品格といい、物の云いよう裾すそ捌さばきなり何うも貧乏人の娘には珍らしい別嬪で、他たから嫁に貰いたいと云い込んでも、一人娘ゆえ上げられないと云う。尤も其の筈で、出が宜しい。これは津つや山まの御城主、其の頃松まつ平だい越らえ後ちご守のかみ様の御家来遠とお山やま龜かめ右え衞も門んの御内室の娘で、以前は可なりな高を取りました人ゆえ、自然と品格が異ちがって居ります。浪人して二年目に父を失い永らくの間浪々中、慣れもしない農作や人の使いをして僅わずかの小こは畠たをもって其の日をやっと送って居おる内に、母が病気附きまして、娘は母に良い薬を飲ませたいと、昼は人に雇われ、夜は内職などをして種いろ々〳〵介抱に力を尽しましたが、母は次第に病が重おもりました。こゝに以前此の家に奉公を致していました丹たん治じと申す老じゞ爺いがありまして、時々見舞に参ります。
丹﹁えゝお嬢様、何うでがす今こん日ちは……﹂
千﹁おや爺じいやか、まアお上りな、爺や此こな間いだは誠に何よりの品を有難うよ﹂
丹﹁なに碌なものでもございませんが、少しも早く母かあさまの御病気が御全快になれば宜よいと心配していますが、何うも御様子が宜くねえだね﹂
千﹁何うかして少しお気をお晴しなさると宜いいが、私はもういけない、所詮死ぬからなんて御自分の気から漸だん々〴〵御病気を重くなさるのだから困るよ、今朝はお医者様を有難う、早速来て下すったよ﹂
丹﹁参りましたかえ、あのお医者さまはえらい人でごぜえまして、何でもはア此の近辺の者で彼あの人に掛って癒なおらねえのはねえと云う、宅うちも小さくって良いお出でい入り場ばも無ねえようだが、城下から頼まれて、立派なお医者さまが見放した病人を癒した事が幾いく許らもありやすので、諸方へ頼まれて往ゆきますが、年い老とって居るから診みようが丁寧だてえます、脉みゃくを診るのに両方の手を押つかめえて考えるのが小こい一っと時きもかゝって、余り永いもんだで病人が大儀だから、少し寝かしてくんろてえまで、診るそうです﹂
千﹁誠に御親切に診て下さいますけれども、爺や彼の先生の仰しゃるには、朝鮮の人参の入ってるお薬を飲ませないとお母っかさまはいけないと仰しゃったよ﹂
二
其の時に丹治は首を前へ出しまして、
丹﹁へえー何を飲ませます﹂
千﹁人参の入ってるお薬を﹂
丹﹁何どのくらい飲ませるんで﹂
千﹁一箱も飲ませれば宜よいと仰しゃったの﹂
丹﹁それなら何も心配は入りません、一箱で一両も二両もする訳のものじゃアございやせん、多た寡かの知れた胡にん蘿じ蔔んぐらいを﹂
千﹁なに胡蘿蔔ではない人参だわね﹂
丹﹁人参てえのは何だい﹂
千﹁人の形に成って居るような草の根だというが、私は知らないけれども、誠に少ないもので、本こっ邦ちへも余り渡らない物だけれども、其のお薬をお母っかさまに服たべさせる事もできないんだよ﹂
丹﹁何うかして癒らば買って上げたいもんだが、何どの位のものでがす﹂
千﹁一箱三拾両だとさ﹂
丹﹁そりゃア高たけえな、一箱三拾両なんて魂たま消げた、怖ろしい高え薬を売りたがる奴じゃアねえか﹂
千﹁なに売りたがると云う訳ではないが、其のお薬を飲ませればお母さまの御病気が癒ると仰しゃるから、私は其れを買いたいと思うが買えないの﹂
丹﹁むゝう三拾両じゃア仕様がねえ、是れが三両ぐらいのことなら大事な御主人の病やめえには換えられねえから、宅うちを売ったって其の薬を買って上げたいとは思いますが、三拾両なんてえらい話だ、そんな出来ねえ相談を打ぶたれちゃア困ります、御病人の前で高でけえ声じゃア云えねえが、殊ことに寄ったら其そ様んな事を機し会おにして他ほかへ見せてくんろという事ではないかと思うと、誠に気が痛みやすな﹂
千﹁私も実は左そ様う思っているの、それに就ついて少しお前に相談があるからお母さまへ共とも々〴〵に願っておくれな、私が其のお薬を買うだけの手当を拵こしらえますよ﹂
丹﹁拵えるたって無いものは仕様があんめえ﹂
千﹁そこが工夫だから、兎も角お母さまの処へ一緒に﹂
と枕元の屏風を開け、
千﹁もしお母っか様さま、二番が出来ましたから召上れ、少し詰って濃くなりましたから上り悪にくうございましょう、お忌いやならば半分召上れ、あとの滓おりのあります所は私が戴きますから﹂
母﹁此の娘こは詰らんことを云う、達者な者がお薬を服たべて何うする、私は幾ら浴あびるほどお薬を飲んでも効きゝ験めがないからいけないよ、私はもう死ぬと諦らめましたから、お前其そん様なに薬を勧めておくれでない﹂
千﹁あら、またお母さまはあんな事ばかり云っていらっしゃるんですもの、御病気は時節が来ないと癒りませんから、私は一生懸命に神さまへお願がん掛がけをして居ますが、あなた世間には七十八十まで生きます者は幾いく許らも有りますよ﹂
母﹁いゝえ私は若い時分に苦労をしたものだからの、それが矢やっ張ぱり身体に中あたっているのだよ﹂
千﹁あの爺やが参りましたよ﹂
母﹁おゝ丹治、此こっ方ちへ入っておくれ﹂
丹﹁はい御免なせえまし、何うでござえますな、些ちっとは胸の晴はれる事もござえますかね、お嬢さんも心配しておいでなさいますから、能よくお考えなせえまし、併しかしま旧もとが旧で、あゝいう生くら活しをなすった方が、急に此こ様んな片田舎へ来て、私わしのような者を頼みに思って、親一人子一人で僅かな畠を持って仕つけもしねえ内職をしたりして斯こうやって入らっしゃるだから、あゝ詰らねえと昔を思って気を落すところから御病気になったものと考えますが、私だって貧乏だから金ずくではお力になれませんが、以前はあなたの処へ奉公した家来だアから、何うかして御病気の癒るように蔭ながら信心をぶって居りますが、お嬢さまの心配は一通りでないから、我慢してお薬を上んなせえまし﹂
母﹁有難う、お前の真実は忘れません、他にも以前勧つとめた﹇#﹁勧つとめた﹂は﹁勤つとめた﹂の誤記か﹈ものは幾いく許らもあるが、お前のように末すえ々〴〵まで力になってくれる人は少ない、私は死んでも厭いといはないけれども、まだ十つ九ゞや廿はた歳ちの千代を後あとに残して死ぬのはのう……﹂
丹﹁あなた、然そう死ぬ死ぬと云わねえが宜うごぜえます、幾ら死ぬたって死なれません、寿命が尽きねえば死ねるもんではねえから、どうも然う意地の悪い事ばかり考えちゃア困りますなア、死ぬまでも薬を﹂
千﹁何だよう、死ぬまでもなんて、そんな挨拶があるものか﹂
丹﹁はい御免なせえまし、それじゃア、死なねえまでもお上んなせえ﹂
千﹁お前もう心配しておくれでない﹂
丹﹁はい﹂
千﹁お母さま、あの先刻桑くわ田ださまが仰しゃいました人参のことね﹂
母﹁はい聞いたよ﹂
千﹁あれをあなた召上れな、人参という物は、なに其そん様なに飲みにくいものでは有りませんと、少し甘味がありまして﹂
母﹁だってお前、私は飲みたくっても、一箱が大金という其そ様んなお薬が何うして戴かれますものか﹂
千﹁その薬をあなた召上るお気なら、私わたくしが才覚して上げますが……﹂
母﹁才覚たってお前、家うちには売る物も何も有りゃアしないもの﹂
千﹁私わたくしをあのう隣村の東山作左衞門という郷士の処へ、道具係の奉公に遣やって下さいましな﹂
其の時母は皺枯れたる眉にいとゞ皺を寄せまして、
母﹁お前、飛んでもない事をいう、丹治お前も聞いて知ってるだろうが、作左衞門の家うちでは道具係の奉公人を探していて、大層給金を呉れる、其の代りに何とかいう宝たか物らものの皿を毀すと指を切ると云う話を聞いたが、本当かの﹂
丹﹁えゝ、それは本当でごぜえます、旧もとの公くぼ方うさまから戴いた物で、家いえにも身にも換えられねえと云って大事にしている宝だから、毀した者は指を切れという先祖さまの遺かき言つ状けが伝わって居るので、指を切られた奴が四五人あります﹂
母﹁おゝ怖いこと、其そ様んな怖い処へ此の娘こを奉公に遣やられますかね、とても遣られませんよ、何うして怖おっかない、皿を毀した者の指を切るという御ごゆ遺いご言んだか何だか知らんけれども、其の皿を毀したものゝ指を切るなんぞとは聞いても慄ぞっとするようだ、何うして〳〵、人の指を切ると云うような其様な非道の心では、平ふだ常んも矢やっ張ぱり酷ひどかろう、其様な処へ奉公がさせられますものか、痩せても枯れても遠山龜右衞門の娘むすめじゃアないか、幾許零おち落ぶれても、私は死んでも生おい先さきの長いお前が大切で私は最もう定じょ命うみょうより生延びている身体だから、私の病気が癒ったって、お前が不かた具わになって何うしましょう、詰らぬ事を云い出しましたよ、苦し紛れに悪い思案、何うでも私は遣りませんよ﹂
千﹁然そうではありましょうけれども、なに気を附けたら其様な事は有りますまい、私わたくしも宜く神かみ信しん心〴〵をして丁寧に取扱えば、毀れるような事はありますまいと存じますからねお母さま、私は一生懸命になりまして奉公を仕しお遂おせ﹇#﹁仕遂せ﹂は底本では﹁仕逐せ﹂﹈、其の中うちあなたの御病気が御全快になれば、私が帰って来て、御一緒に内職でもいたせば誠に好よい都合じゃアございませんか、何どう卒ぞ遣って下さいまし、ねえお母さま、あなた私の身をお厭いといなすって、あなたに万もし一もの事でも有りますと、矢やっ張ぱり私が仕様がないじゃア有りませんか﹂
母﹁はい、有難うだけれども遣れません、亡なくなったお父とっさんのお位牌に対して、私の病を癒そうためにお前を其様な恐ろしい処へ奉公に遣って済むものじゃアない、のう丹治﹂
丹﹁へえ、あんたの云う事も道理でごぜえます、これは遣れませんな﹂
千﹁だけども爺や、お母さんの御病気の癒らないのを見す〳〵知って、安閑として居られる訳のものではないから、私は奉公に往ゆき仮たと令え粗相で皿を一枚毀した処が、小指一本切られたって命にさわるわけではなし、お母さまの御病気が癒った方が宜よいわけじゃアないか﹂
丹﹁うん、これは然そうだ、然う仰しゃると無理じゃアない、棄置けば死ぬと云うものを、あなたが何う考えても打うっ棄ちゃって置かれねえが、成程是れは奉公するも宜うごぜえましょう﹂
母﹁お前馬鹿な事ばかり云っている、私が此の娘こを其様な処へ遣られるか遣られないか考えて見なよ、指を切られたら肝心な内職が出来ないじゃアないか、此の困る中で猶なお々〳〵困ります、遣られませんよ﹂
丹﹁成程是れはやれませんな、何う考えても﹂
千﹁あらまア、あんな事を云って、何どっ方ちへも同じような挨拶をしては困るよ﹂
丹﹁へえ、是れは何方とも云えない、困ったねえ…じゃア斯うしましょう、私わしがの媼ばゞあを何どう卒かお頼ん申します、私がお嬢さまの代りに奉公に参めえりまして、私が其の給金を取りますから、お薬を買って下せえまし﹂
千﹁女でなければいけない、男は暴あら々〳〵しくて度たび々〳〵毀すから女に限るという事は知れて居るじゃアないか﹂
丹﹁然そうだね、男じゃア毀すかも知れねえ、私わし等らは何うも荒っぽくって、丼鉢を打うち毀こわしたり、厚ぼってえ摺すり鉢ばちを落して破わった事もあるから、困ったものだアね﹂
千﹁お母さん、何どう卒ぞやって下さいまし﹂
と幾いく度たびも繰返しての頼み、段々母を説とき附つけまして丹治も道もっ理ともに思ったから、
丹﹁そんならばお遣んなすった方が宜かろう﹂
と云われて、一旦母も拒みましたが、娘は肯きかず、殊ことに丹治も倶とも々〴〵勧めますので、仕方がないと往生をしました。幸い他たに手てづ蔓るが有ったから、縁を求めて彼かの東山作左衞門方へ奉公の約束をいたし、下男の丹治が受うけ人にんになりまして、お千代は先方へ三ヶ年三十両の給金で住込む事になりましたのは五月の事で、母は心配でございますが、致し方がないので、泣く〳〵別れて、さて奉公に参って見ると、器量は佳よし、起たち居いふ動るま作い物の云いよう、一点も非の打ち処どこがないから、至極作左衞門の気に入られました。
三
作左衞門はお千代の様子を見まして、是れならば手てあ篤つく道具を取扱ってくれるだろう、誠に落着いてゝ宜よい、大切な物を扱うに真実で粗相がないから宜いと、大層作左衞門は目をかけて使いました。此の作左衞門の忰せがれは長ちょ助うすけと申して三十一歳になり、一旦女房を貰いましたが、三年前ぜんに少し仔細有って離別いたし、独ひと身りみで居ります所が、お千代は何うも器量が好よいので心しん底そこから惚れぬきまして真実にやれこれ優しく取とり做なして、
長﹁あれを買ってお遣やんなさい、見苦しいから彼あの着物を取換えて、帯を買ってやったら宜かろう﹂
などと勧めますと、作左衞門も一ひと人りっ子この申すことですから、其の通りにして、お千代〳〵と親子共に可愛がられお千代は誠に仕合せで丁度七月のことで、暑い盛りに本ほん山ざん寺じという寺に説法が有りまして、親おや父じが聴きに参りました後あとで、奥の離れた八畳の座敷へ酒さけ肴さかなを取り寄せ、親父の留守を幸い、鬼の居ないうちに洗濯で、長助が、
長﹁千代や〳〵、千代﹂
と呼びますから、
千﹁はい若殿様、お呼び遊ばしましたか﹂
長﹁一ちょ寸っと来い、〳〵、今一いっ盃ぱいやろうと云うんだ、お父とっさんのお帰りのない中うちに、今日はちとお帰りが遅くなるだろう、事に寄ると年寄の喜きは八ちろ郎うの処へ廻ると仰しゃったが村の年寄の処へ寄れば話が長くなって、お帰りも遅くなろう、ま酌をして呉れ﹂
千﹁はい、お酌を致します﹂
長﹁手たす襷きを脱とんなさい、忙がしかろうが、何もお前は台だい所どこを働かんでも、一切道具ばかり取扱って居おれば宜よいんだ﹂
千﹁あの大殿様がお留守でございますから宜いお道具は出しませんで、粗末と申しては済みませんが、皆此の様な物で宜しゅうございますか﹂
長﹁酌は美た女ぼ、食くい物ものは器で、宜いい器でないと肴が旨く喰えんが、酌はお前のような美しい顔を見ながら飲むと酒が旨いなア﹂
千﹁御冗談ばかり御意遊ばします﹂
長﹁酔わんと極りが悪いから酔うよ﹂
千﹁お酔い遊ばせ、ですが余り召上ると毒でございますよ﹂
長﹁まだ飲みもせん内から毒などと云っちゃア困るが、実にお前は堅いねえ﹂
千﹁はい、武骨者でいけません﹂
長﹁いや、お父さんがお前を感心しているよ、親孝行で、何を見ても聞いても母の事ばかり云って居るって、併しかしお前のお母ふくろの病気も追々全快になると云う事で宜よいの﹂
千﹁はい、御こ当な家たさまのお蔭で人参を飲みましたせいか、段々宜しくなりまして、此の程病と褥こを離れましたと丹治がまいっての話でございますが、母が申しますに、其そ方ちのような行ゆき届とゞきません者を置いて下さるのみならず、お目を掛けて下さいまして、誠に有難いことで、種いろ々〳〵戴き物をしたから宜しく申上げてくれと申しました﹂
長﹁感心だな、お前は出が宜いいと云うが………千代〳〵千代﹂
千﹁はい﹂
長﹁どうも何なんだね、お前は十九かえ﹂
千﹁はい﹂
長﹁ま一盃酌ついで呉んな﹂
千﹁お酌しゃくを致しましょう﹂
長﹁半分残してはいかんな、何うだ一盃飲まんか﹂
千﹁いえ、私わたくしは些ちっとも飲めません、少し我慢して戴きますと、顔が青くなって身体が震えます﹂
長﹁その震える処がちょいと宜しいて、私わしは酔いますよ、お前は色が白いばかりでなく、頬の辺へん眼の縁ふちがぼうと紅いのう﹂
千﹁はい、少し逆の上ぼせて居りますから﹂
長﹁いや逆のぼ上せではない、平ふだ常んから其の紅い処が何とも言われん﹂
千﹁御冗談ばっかり……﹂
長﹁冗談じゃアない、全くだ、私わしは三年前まえに家内を離別したて、どうも心掛けの善くない女で、面倒だから離縁をして見ると、独ひと身りみで何かと不自由でならんが、お前は誠に気立が宜しいのう﹂
千﹁いゝえ、誠に届きませんでいけません﹂
長﹁此の間私わしが……あの…お前笑っちゃア困るが、少しばかり私が斯う五いつ行くだりほどの手紙を、……認したゝめて、そっとお前の袂たもとへ入れて置いたのを披ひらいて読んでくれたかね﹂
千﹁左様でございましたか、一向存じませんで﹂
長助は少し失望の体ていで、
長﹁左様でございますかなどゝ、落着き払っていては困る、親に知れては成らん、知っての通り親父は極ごく堅いので、あの手紙を書くにも隠れて漸ようよう二にぎ行ょうぐらい書くと、親父に呼ばれるから、筆を下に置いて又一ひと行くだり書き、終しまいの一行は庭の植うえ込ごみの中で書きましたが、蚊に喰われて弱ったね﹂
四
千﹁それはまアお気の毒さま﹂
長﹁なに全くだよ、親父に知れちゃア大変だから、窃そっとお前の袂へ入れたが、見たろう〳〵﹂
千﹁いゝえ私わたくしは気が附きませんでございました、何だか私の袂に反ほ古ごのようなものが入って居ましたが、私は何だか分りませんで、丸めて何ど処こかへ棄てましたよ﹂
長﹁棄てちゃア困りますね、他ひ人とが見るといけませんな﹂
千﹁そんな事とは存じませんもの、貴あな方たはお手紙で御用を仰おお付せつけられましたのでございますか﹂
長﹁仰付けられるなんて馬鹿に堅いね、だがね、千代〳〵﹂
千﹁何でございます﹂
長﹁実はね私わしはお前に話をして、嫁に貰いたいと思うが何うだろう﹂
千﹁御冗談ばっかり御意遊ばします、私わたくしの母は他に子と申すがありませんから、他わ家きへ嫁にまいる身の上ではございません、貴方は衆ひ人とに殿様と云われる立派なお身の上でお在いで遊ばすのに、私のようなはしたない者を貴方此こ様んな不釣合で、釣合わぬは不縁の元ではございませんか、お家うちのお為めに成りません﹂
長﹁なに家の為めになってもならんでも不釣合だって、私わしは妻を定むるのに身分の隔てはない事で、唯お前の心掛けを看み抜ぬいて、此の人ならばと斯う思ったから、実はお前に心のたけを山々書いて贈ったのである、然しかも私は丹誠して千代尽しの文で書いて贈ったんだよ﹂
千﹁何でございますか私わたくしは存じませんもの﹂
長﹁存じませんて、私わしの丹誠したのを見て呉れなくっちゃア困りますなア、どうかお前の母に会って、母諸共引取っても宜しいや﹂
千﹁私わたくしの母は冥加至極有難いと申しましょうけれども、貴方のお父とっ様さまが御得心の有る気きづ遣かいはありますまい、私のようなはしたない者を御こ当ち家らさまの嫁に遊ばす気遣いはございませんもの﹂
長﹁いえ、お前が全く然そう云う心ならば、私わしは親父に話をするよ、お前は大変親父の気に入ってるよ、どうも沈おち着つきがあって、器量と云い、物の云いよう、何や角かや彼あれは別だと云って居るよ﹂
千﹁なに、其そ様んな事を仰しゃるものですか﹂
長﹁なに全く然う云ってるよ、宜よいじゃアないか、ね千代〳〵千代﹂
と雀が出たようで、無理無態にお千代の手を我わが膝へグッと引寄せ、脇の下へ手を掛けようとすると、振払い。
千﹁何をなさいます、其様な事を遊ばしますと、私わたくしは最もうお酌にまいりませんよ﹂
長﹁酔った紛れに、少しは酒の席では冗談を云いながら飲まんと面白うないから、一ちょ寸っとやったんだが、どうもお前は堅いね、千代〳〵﹂
千﹁はい最うお酌を致しますまいと思います、最うお止し遊ばせ、お毒でございますよ﹂
長﹁千代〳〵﹂
千﹁また始まりました﹂
長﹁親さえ得心ならば何も仔細はあるまい、何うだ﹂
千﹁そうではありますが、まア若殿様、私わたくしの思いますには、夫婦の縁と云うものは仮たと令え親が得心でも、当人同志が得心でない事は夫婦に成れまいかと思います﹂
長﹁それは然うさ、だがお前さえ得心なら宜よいが、いやなら否いやと云えば、私わしも諦めが附こうじゃアないか﹂
千﹁私わたくしのような者を、私の口から何う斯うとは申されませんものを、余り恐入りまして﹂
其の時お千代は身を背そむけまして、
千﹁何とも申上げられませんものを、余り恐入りまして﹂
長﹁恐入らんでも宜しいさ、お母ふくろさえ得心なら、母諸共此こっ方ちへ引取って宜しい、もし窮屈で否いやならば、聊いさゝか田でん地じでも買い、新しん家やを建って、お母に下おん婢なの一人も附けるくらいの手当をして遣ろうじゃアないか。此の家うちは皆私わしのもので、相続人の私だから何うにもなるから、お前さえ応おうと云えば、お母に話をして安楽にして遣ろうじゃアないか、若もしお母は堅いから遠山の苗字を継ぐ者がないとでもいうなら、夫婦養子をしたって相続人は出来るから、お前が此こっ方ちへ来ても仔細ないじゃアないか﹂
千﹁それは誠に結構な事で﹂
長﹁結構なれば然そうしてくれ﹂
千﹁お嬉しゅうは存じますが﹂
長﹁さ、早くお父さまの帰らん内に応うんと云いな、酔った紛れにいう訳じゃアない、真実の事だよ﹂
千﹁私わたくしは貴方に対して申上げられませんものを、御主人さまへ勿体なくって……﹂
長﹁何も勿体ない事は有りませんから早く云いなさいよ﹂
千﹁恐入ります﹂
長﹁其そ様んなに羞はずかしがらんでも宜しいよ﹂
千﹁貴方私わたくしのような卑しい者の側へお寄り遊ばしちゃアいけません、私が困ります、そうして酒臭くって﹂
長﹁ね千代〳〵千代﹂
千﹁それじゃア貴方、本当に私わたくしが思う心の丈たけを云いましょうか﹂
長﹁聞きましょう﹂
千﹁それじゃア申しますが、屹きっ度と、…身分も顧りみず大それた奴だと御立腹では困ります﹂
長﹁腹などは立たんからお云いよ、大それたとは思いません、小しょうそれた位ぐらいに思います、云って下さい﹂
千﹁本当に貴方御立腹はございませんか﹂
長﹁立腹は致しません﹂
千﹁それなれば本当に申上げますが、私わたくしは貴方が忌いやなので……﹂
長﹁なに忌だ﹂
千﹁はい、私わたくしはどうも貴方が忌でございます、御主人さまを忌だなどと云っては済みませんけれども、真底私は貴方が忌でございます、只御主人さまでいらっしゃれば有難い若殿さまと思って居りますが、艶てが書みをお贈り遊ばしたり、此の間から私にちょい〳〵御冗談を仰しゃることもあって、それから何うも私は貴方が忌になりました、どうも女房に成ろうという者の方で否いやでは迚とても添われるものじゃアございませんから、素もとより無い御縁とお諦め遊ばして、他わきから立派なお嫁をお迎えなすった方が宜しゅうございましょう、相当の御縁組でないと御相続の為になりませんから、確しかとお断り申しますよ﹂
長﹁誠にどうも……至極道もっ理とも……﹂
と少しの間は額へ筋が出て、顔がん色しょくが変って、唇をブル〳〵震わしながら、暫く長助が考えまして、
長﹁千代、至極道もっ理ともだ、最う千代〳〵と続けては呼ばんよ、一ひと言ことだよ、成程何うもえらい、賢女だ、成程どうも親孝心、誠に正しいものだ、心掛けと云い器量と云い、余り気に入ったから、つい迷いを起して此こ様んな事を云い掛けて、誠に羞はじ入いった、再び合す顔はないけれども、真に思ったから云ったんだよ、併しかしお前に然そう云われたから諦めますよ確しかと断念しましたが、おまえ此のことを世間へ云ってくれちゃア困りますよ、私わしは親父に何ど様んな目に遇うか知れない、堅い気象の人だから﹂
千﹁私わたくしは世間へ申す処どころじゃア有りませんが、あなたの方で﹂
長﹇#﹁長﹂は底本では﹁千﹂﹈﹁私わしは決して云わんよ、云やア自ら恥は辱じを流布するんだから云いませんが、あゝ……誠に愧はじ入いった、此の通り汗が出ます、面目次第もない、何どう卒ぞ堪忍して下さい﹂
千﹇#﹁千﹂は底本では﹁長﹂﹈﹁恐入ります、是れから前もと々〳〵通り主しゅう家来、矢張千代〳〵と重ねてお呼び遊ばしまして、お目をお掛け遊ばしまして……﹂
長﹁そう云う事を云うだけに私わしは誠に困りますなア﹂
千﹁誠に恐入ります、大旦那さまのお帰り遊ばしません内に、お酒の道具を隠しましょうか﹂
長﹁あゝ仕舞っておくれ〳〵﹂
千﹁はい﹂
とそれ〴〵道具を片附けましたが、是れから長助が憤おこってお千代につれなく当るかと思いました処、情つれなくも当りませんで、尚更宜く致しまして、彼あの衣類は汚い、九月の節句も近いから、これを拵えて遣るが宜いいと、手当が宜いので、お千代もあゝーお諦めになったか、有難い事だ、あんな事さえないと結構な旦那様であると一生懸命に奉公を致しますから、作左衞門の気にも入られて居りました。月日流るゝが如くで、いよ〳〵九月の節句と成りました。粂野美作守の重役を七里先から呼ばんければなりません、九の字の付く客を二九十八人招しょ待うだいを致し、重ちょ陽うようを祝する吉例で、作左衞門は彼かの野菊白菊の皿を自慢で出して観みせます。美作守の御勘定奉行九くづ津みき見ち吉ざ左え衞も門んを初め九くり里へ平い馬ま、戸とむ村ら九く右え衞も門ん、秋あき元もと九く兵へ衞え其の他ほか御城下に加賀から九谷焼を開店した九くた谷にし正ょう助すけ、菊きく橋はし九くろ郎うざ左え衞も門ん、年寄役村方で九の字の附いた人を合せて十八人集めまして、結構な御馳走を致し、善い道具ばかり出して、頻しきりに自慢を致します事で、実に名器ばかりゆえ、客は頻りに誉めます。此の日道具係の千代は一生懸命に、何どう卒ぞ無事に役を仕しお遂おせますようにと神仏に祈きせ誓いを致して、皿の毀れんように気を附けましたから、麁そそ相うもなく、彼かの皿だけは下さがってまいります。自分は蔵前の六畳の座敷に居って、其そ処こに膳棚道具棚がありますから、口くち分わけをして一生懸命に油汗を流して、心を用い働いて、無事に其の日のお客も済んで、翌日になりますと、作左衞門が、
作﹁千代﹂
千﹁はい﹂
作﹁昨きの日うは大きに御苦労であった、無事にお客も済んだから、今日は道具を検あらためなければならん﹂
千﹁はい、お番附のございますだけは大概片付けました﹂
作﹁うむ、皿は一応検めて仕舞わにゃならん、何かと御苦労で、嘸さぞ骨が折れたろう﹂
千﹁私わたくしは一生懸命でございました﹂
作﹁然そうであったろう、此の通り三重の箱になってるが、是は中々得難い物だよ、何ど処こへ往ったって見られん、女で何も分るまいが、見て置くが宜よい﹂
千﹁はい、誠に結構なお道具を拝見して有難い事で﹂
作﹁一応検めて見よう﹂
と眼鏡をかけて段々改めて、
作﹁あゝー先まず無事で安心を致した、是れは八年前ぜんに是れだけ毀したのを金ふん粉づく繕ろいにして斯うやってある、併しかし残あ余とは瑕きず物ものにしてはならんから、どうかちゃんと存そんして置きたい、是れだけ破わった奴があって、不憫にはあったが、何うも許し難いから私わしは中指を切ろうと思ったが、それも不憫だから皆みんな無くす名りゆ指びを切った﹂
千﹁怖い事でございます、私わたくしは此のお道具を扱いますとはら〳〵致します﹂
作﹁是れは無い皿だよ、野菊と云って野菊の色のように紫がゝってる処で此の名が有るのじゃ、種いろ々〳〵先祖からの書附もあるが、先ず無事で私わしも安心した﹂
と正直な堅い人ゆえ、検めて道具棚へ載せて置きました。すると長助が座敷の掛物を片附けて、道具棚の方へ廻って参まいりました。
長﹁お父とっさま﹂
作﹁残らず仕舞ったか﹂
長﹁お軸物は皆仕舞いました﹂
作﹁客は皆道具を誉めたろう﹂
長﹁大層誉めました、此の位の名めい幅ふくを所持している者は、此の国にゃア領主にも有るまいとの評判で、お客振りも甚ひどく宜しゅうございました﹂
作﹁皆良い道具が見たいから来るんだ、只呼んだって来るものか、権けん式しき振ぶってゝ、併し土産も至極宜かったな﹂
長﹁はい、お父とっ様さま、あの皿を今一応お検めを願います、野菊と白菊と両りょ様うよ共うともお検めを願います﹂
作﹁彼あれは先さっ刻き検めました﹂
長﹁お検めでございましょうが、少し訝おかしい事が有りますと云うは棚の脇に蒟こん蒻にゃ糊くのりが板の上に溶いて有って、粘っていますから、何だか案じられます、他の品でありませんから、今一応検めましょうかね、秋あき、お前たちは其そち方らへ往いきなさい、金きん造ぞう、裏手の方を宜く掃除して置け、喜きは八ち、此こち方らへ参らんようにして、最う大概蔵へ仕舞ったか、千代や﹂
千﹁はい〳〵はい﹂
長﹁先さっ刻きお父とっさんがお検めになったそうだが、彼あの皿を此こ処ゝへ持って来い﹂
千﹁はい、先さっ刻きお検めになりました﹂
長﹁検めたが、一ちょ寸っと気になるから今一応私わしが検めると云うは、祝いは千年だが、お父さまのない後のちは家の重じゅ宝うほうで、此の品は私が守護する大事な宝たか物らものだから、私も一応検めます﹂
千﹁大旦那さまがお検めになりまして、宜しい、少しも仔細ないと御意遊ばしましたのに、貴方何う云う事でお検めになります﹂
長﹁先程お父さまがお検めになっても、私わしは私で検めなければ気が済まん﹂
千﹁何う云う事で﹂
長﹁何う云う事なんてとぼけるな、千代汝てまえは皿を割ったの﹂
五
お千代は呆れて急に言葉も出ませんでしたが、
千﹁何うもまア思い掛けない事を仰しゃいます私わたくしは割りました覚えはございません、ちゃんと一々お検めになりまして、後あとは柔かい布巾で拭きまして、一々彼あの通り包みまして、大殿様へ御覧に入れました﹂
長﹁いや耄とぼけるなそんなら如いか何ゞの理わ由けで棚に糊のり付つけ板いたが有るのだ﹂
千﹁あれはお箱の蓋の棧が剥とれましたから、米こめ搗つきの權ごん六ろく殿へ頼みまして、急きゅ拵うごしらえに竹たけ篦べらを削って打ってくれましたの﹂
長﹁耄けるな、其そ様んなことを云ったって役には立たん、巧うまく瞞ごまかそうたって、然そうはいかんぞ、此こち方らは確しかと存じておる、これ千代、其の方が怪しいと認めが附いて居おればこそ検めなければならんのだ早く箱を持って来い〳〵﹂
と云われてお千代はハッとばかりに驚きましたが、何ゆえ長助が斯こ様んなことを云うのか分りませんでしたが、彼あの通り検めたのを毀したと云うのは変だなと考えて、よう〳〵思い当りましたのは、先せん達だって愛あい想そづ尽かしを云った恨みが、今になって出て来たのではないか、何事も無ければ宜よいがと怖こわ々〴〵にお千代が野菊白菊の入った箱を長助の眼の前へ差出しますと、作左衞門が最前検めて置いた皿の毀れる気遣いはない、忰は何を云うのかと存じて居りますと、長助は顔かお色いろを変えて、
長﹁これ千代、それ道具棚にある糊付板を此こ処ゝへ持って来い……さ何う云う訳で此こ板れを道具棚へ置いた﹂
千﹁はい、只今申上げます通り、あのお道具の箱の棧が剥とれましたから、打附けて貰おうと存じますと、米搗の權六が己おれが附けて遣ろうと申して附けてくれましたので﹂
長﹁いゝや言訳をしたって役には立たん、其の箱の紐をサッサと解け﹂
千﹁そうお急ぎなさいますと、また粗相をして毀すといけませんもの﹂
長﹁汝おのれが毀して置きながら、又其そ様んなこと申す其の手はくわぬぞ、私わしが箱から出す、さ此こ処れへ出せ﹂
千﹁あなた、お静かになすって下さいまし、暴あら々〳〵しく遊ばして毀れますと矢やっ張ぱり私わたくしの所せ為いになります﹂
作﹁これこれ長助、手暴くせんが宜よい、腹立紛れに汝てまえが毀すといかんから、矢やっ張ぱり千代お前検めるが宜いい﹂
千﹁はい〳〵﹂
と是れから野菊の箱の紐を解いて蓋を取り、一枚〳〵皿を出しまして長助の眼の前へ列ならべまして。
千﹁御覧遊ばせ、私わたくしが先さっ刻き検めました通り瑾きずは有りゃアしません﹂
長﹁黙れ、毀した事は先さっ刻き私わしが能よく見て置いたぞ、お父さま、迂うっ濶かりしてはいけません、此こ者れは中々油断がなりません、さ、早く致せ﹂
千﹁其そ様んなに仰しゃったって、慌てゝ不調法が有るといけません、他のお道具と違いまして、此こ品れが一枚毀れますと私わたくしは不かた具わになりますから﹂
長﹁不具になったって、受うけ人にんを入れて奉公に来たんじゃアないか、さ早く致せ﹂
千﹁早くは出来ません﹂
と申して検めに掛りましたが、急がれる程尚なおおじ〳〵致しますが、一生懸命に心の内に神かみ仏ほとけを念じて粗相のないようにと元のように皿を箱に入れてしまい、是れから白菊の方の紐を解いて、漸だん々〴〵三重箱迄開け、布き帛れを開いて皿を一枚ずつ取出し、検めては布帛に包み、ちゃんと脇へ丁寧に置き、
千﹁是で八枚で、九枚で十枚十一枚十二枚十三枚十四枚十五枚十六枚﹂
と漸々勘定をして十九枚と来ると、二十枚目がポカリと毀れて居たから恟びっくり致しました。
千﹁おや……お皿が毀れて居ります﹂
長﹁それ見ろ、お父とっ様さま御覧遊ばせ、此の通り未まだ粘りが有ります此の糊で附くっ着つけて瞞ごまかそうとは太い奴では有りませんか﹂
千﹁いえ、先程大殿様がお検めになりました時には、決して毀れては居りません﹂
長﹁何う仕たって此の通り毀れて居るじゃアないか﹂
千﹁先さっ刻きは何とも無くって、今毀れて居るのは何う云う訳でしょう﹂
作﹁成程斯う云う事があるから油断は出来ない、これ千代毀わりようも有ろうのに、ちょっと欠いたとか、罅ひゞが入った位ならば、是れ迄の精勤の廉かどを以もって免ゆるすまいものでもないが、斯う大きく毀れては何うも免し難い、これ、何は居らんか、何や、何やでは分らん、おゝそれ〳〵辨べん藏ぞう、手前はな、千代の受人の丹治という者の処へ直すぐに行ってくれ、余り世間へぱっと知れん内に行ってくれ、千代が皿を毀したから証文通りに行うから、念のために届けると云って、早く行って来い﹂
辨﹁へえ﹂
と辨藏は飛んで行って、此のことを気の毒そうに話をすると、丹治は驚きまして、母の処へ駈込んでまいり。
丹﹁御ごし新ん造ぞさまア……﹂
母﹁おや丹治か、先さっ刻きは誠に御苦労、お蔭で余よっ程ぽど宜よいよ﹂
丹﹁はっ〳〵、誠にはや何ともどうも飛んだ訳になりました﹂
母﹁ドヽ何うしたの﹂
丹﹁へえ、お嬢様が皿ア割ったそうで﹂
母﹁え……丹治皿を彼あれが……﹂
丹﹁へえ、只今彼あち家らの奉公人が参りまして、お千代どんが皿ア割っただ、汝われ受人だアから何なんぼ証文通りでも断りなしにゃア扱えねえから、ちょっくら届けるから、立合うが宜えいと云って来ました、私わしが考えますに、先むこ方うはあゝ云う奴だから、詫びたっても肯きくまいと思って、私が急いでお知らせ申しに来やしたが、お嬢さまが彼あそ家こへ住込む時、虫が知らせましたよ、門の所まで私送り出して来たアから、貴あん方た皿ア割っちゃアいけないよと云ったら、お嬢様が余よっ程ぽど薄いもんだそうだし、原もと土つちで拵えたもんだから割れないとは云えないから、それを云ってくれちゃア困るよと仰しゃいましたが、何とまア情なさけねえ事になりましたな、どうか詫をして見ようかと思います﹂
母﹁それだから私が云わない事じゃアない、彼あの娘こを不か具た者わにしちゃア済まないから、私も一緒に連れてっておくれ﹂
丹﹁連れて行けたって、あんた歩けますまい﹂
母﹁歩けない事もあるまい、一生懸命になって行きますよ、何どう卒ぞお願いだから私の手を曳いて連れてっておくれ﹂
丹﹁だがはア、是れから一里もある処で、なか〳〵病やみ揚あげ句くで歩けるもんじゃアねえ﹂
母﹁私は余り恟びっくりしたんで腰が脱ぬけましたよ﹂
丹﹁これはまア仕様がねえ、私わしまで腰が脱けそうだが、あんた腰が脱けちゃア駄目だ﹂
母﹁何どう卒ぞお願いだから……一通り彼あれの心こゝ術ろだてを話し、孝行のために御こ当ち家らさまへ奉公に来たと、次第を話して、何処までも私がお詫をして指を切られるのを遁のがれるようにしますから、丹治誠にお気の毒だが、負おぶっておくれな﹂
丹﹁負ってくれたって、ちょっくら四五丁の処なれば負って行っても宜えいが……よし〳〵宜ようごぜえます、私わしも一生懸命だ﹂
と其の頃の事で人く力る車まはなし、また駕か籠ごに乗るような身の上でもないから、丹治が負ってせっせと参りました。此こち方らは最前から待ちに待って居ります。
作﹁早速庭へ通せ﹂
という。百姓などが殿様御前などと敬い奉りますから、益々増長して縁近き所へ座布団を敷き、其の上に座して、刀掛に大小をかけ、凛り々ゝしい様子で居ります。両人は庭へ引出され。
丹﹁へえ御免なせえまし、私わしは千代の受人丹治で、母も詫びことにまいりました﹂
作﹁うむ、其の方は千代の受人丹治と申すか﹂
丹﹁へえ、私わしは年来勤めました家来で、店たな請うけ致して居おる者でごぜえます﹂
作﹁うん、其そ処れへ参ったのは﹂
母﹁母でございます﹂
と涙を拭きながら、
﹁娘が飛んだ不調法を致しまして御立腹の段は重々御ごも尤っともさまでござりますが、何どう卒ぞ老体の私わたくしへお免じ下さいまして、御勘弁を願いとう存じます﹂
作﹁いや、それはいかん、これはその先祖伝来の物で、添そえ書がきも有って先祖の遺言が此の皿に附いて居おるから、何うも致し方がない、切りたくはないけれども御遺言には換かえられんから、止むを得ず指を切る、指を切ったって命に障さわる訳もない、中程から切るのだから、何も不自由の事もなかろう﹂
母﹁はい、でございますけれども、此の千代は親のために御当家様へ御奉公にまいりましたので、と申すは、私わたくしが長なが煩わずらいで、人参の入った薬を飲めば癒ると医者に申されましたが、長々の浪人ゆえ貧に迫って、中々人参などを買う手当はございませんのを、娘これが案じまして、御当家のお道具係を勤めさえすれば三年で三拾両下さるとは莫大の事ゆえ、それを戴いて私わたしを助けたいと申すのを、私わたくしも止めましたけれども、此こ娘れが強たってと申して御当家さまへ参りましたが、親一人子一人、他に頼りのないものでございます、今此こ娘れを不具に致しましては、明あ日すから内職を致すことが出来ませんから、何どう卒ぞ御勘弁遊ばして、私わたくしは此こ娘れより他に力と思うものがございませんから﹂
長﹁黙れ〳〵、幾回左様な事を云ったって役に立たん、其のために前まえ々〳〵奉公住みの折に証文を取り、三年に三拾金という給金を与えてある、斯かくの如く大金を出すのも当家の道具が大切だからだ、それを承知で証文へ判を押して奉公に来たのじゃアないか、それに粗相でゞもある事か、先祖より遺言状の添えてある大切の宝を打うち砕くだき、糊付にして毀さん振をして、箱の中に入れて置く心しん底ていが何うも憎いから、指を切るのが否いやなれば頬ほッ辺ぺたを切って遣やる﹂
母﹁何どう卒ぞ御勘弁を……﹂
と泣声にて、
﹁顔へ疵きずが附きましては婿取前の一人娘で、何う致す事も出来ません﹂
長﹁指を切っては内職が出来んと云うから面つらを切ろうと云うんだ、疵が出来たって、後あとで膏薬を貼れば癒る、指より顔の方を切ってやろう﹂
と長助が小ちい刀さがたなをすらりと引抜いた時に、驚いて丹治が前へ膝す行さり出まして、
丹﹁何どう卒ぞお待ちなすって下せえまし﹂
長﹁何だ、退のけ〳〵﹂
丹﹁お前さまは飛んだお方だアよ﹂
長﹁何が飛んだ人だ﹂
丹﹁成程証文は致しやしただけれども、人の頬ほッ辺ぺたを切るてえなア無ねえ事です﹂
長﹁手前は何のために受人に成って、印いん形ぎょうを捺ついた﹂
丹﹁印形だって、是程に厳やかましかアねえと思ったから、印形を捺きやした、ほんの掟おきてで、一ちょ寸っと小指へ疵を附けるぐれえだアと思いやしたが、指を打ぶっ切きられると此の後のち内職が出来ません、と云って無闇に頬辺なんて、どう云うはずみで鼻でも落したらそれこそ大変だ、情ねえ事で、嬢さんの代りに私わしを切っておくんなせえ﹂
長﹁いや手前を切る約束の証文ではない、白たわ痴けた事を云うな、何のための受人だ﹂
丹﹁受人だから私わしが切られようというのだ﹂
長﹁黙れ、証文の表に本人に代って指を切られようと云う文面はないぞ、さ顔を切って遣る﹂
と丹治と母を突きのけ、既に庭下駄を穿はいて下おりにかゝるを、母は是れを遮さえぎり止めようと致すを、千代が、
千﹁お母っか様さま、是れには種いろ々〳〵理わ由けがありますんで、私わたくしが少し云い過ぎた事が有りまして、斯こう云う事に成りまして済みませんが、お諦め遊ばして下さいまし、さア指の方は内職に障って母を養う事が出来ませんから顔の方を……﹂
長﹁うん、顔つらの方か、此こっ方ちの所のぞ望みだ﹂
作﹁これ〳〵長助、顔を切るのは止せ﹂
長﹁なに宜しい﹂
作﹁それはいかん、それじゃア御先祖の御遺言状に背そむく、矢張指を切れ〳〵、不ふび憫んにも思うが是れも致し方がない、従来切きり来きたったものを今更仕方がない、併し長助、成なる丈たけ指を短かく切ってやれ﹂
長﹁さ切ってやるから、己おれの傍そばへ来て手を出せ﹂
千﹁はい何うぞ……﹂
母﹁いえ〳〵私わたくしを切って下さいまし、私は死んでも宜いい年でござります﹂
丹﹁旦那ア、私わしの指を五本切って負けておくんなせえ﹂
長﹁控えろ﹂
と今千代の腕を取って既に指を切りにかゝる所へ出て来た男は、土間で米を搗ついていました權六という、身の丈たけ五尺五六寸もあって、鼻の大きい、胸から脛すねへかけて熊くま毛げを生はやし、眼の大きな眉毛の濃い、髯ひげの生えている大の男で、つか〳〵〳〵と出て来ました。
六
此の時權六は、作左衞門の前へ進み出まして、
權﹁はい少々御免下さいまし、權六申上げます﹂
長﹁なんだ權六﹂
權﹁へえ、実は此の皿を割りました者は私わしだね﹂
長﹁なに手前が割った……左様な白たわ痴けたことを云わんで控えて居れ﹂
權﹁いや控えては居いられやせん、よく考えて見れば見る程、あゝ悪い事をしたと私わしゃア思いやした﹂
長﹁何を然そう思った﹂
權﹁大殿様皿を割ったのは此の權六でがす﹂
作﹁え……其の方は何うして割った﹂
權﹁へえ誠に不調法で﹂
作﹁不調法だって、其の方は台所にばかり居て、夜は其の方の部屋へまいって寝るのみで、蔵前の道具係の所などへ参る身の上でない其の方が何うして割った﹂
權﹁先さっ刻き箱の棧が剥とれたから、どうか繕つくろってくんろてえから、糊をもって私わしが繕ろうと思って、皿の傍へ参めえったのが事の始まりでごぜえます﹂
千﹁權六さん、お前さんが割ったなどと……﹂
權﹁えーい黙っていろ﹂
丹﹁誠に有難うごぜえます、私わしは此の千代さんの家うちの年来の家来筋で、丹治と云う者で、成程是れは此の人が割ったかも知れねえ、割りそうな顔付だ﹂
權﹁黙って居なせえ、お前めえらの知った事じゃアない、えゝ殿様、誠に羞はずかしい事だが、此の千代が御こ当ち家らへ奉公に参めえった其の時から、私わしは千代に惚れたの惚れねえのと云うのじゃアねえ、寝ても覚めても眼の前さきへちらつきやして、片時も忘れる暇もねえ、併し奥を働く女で、台所へは滅多に出て来る事はありやせんが、時々台所へ出て来る時に千代の顔を見て、あゝ何うかしてと思い、幾いく度たびか文ふみを贈っちゃア口く説どいただアね﹂
長﹁黙れ、其の方がどうも其の姿や顔がん色しょくにも愧はじず、千代に惚れたなどと怪けしからん奴だなア、乃そこで手前が割ったというも本当には出来んわ、馬鹿々々しい﹂
權﹁それは貴あん方た、色恋の道は顔や姿のものじゃアねえ、年が違うのも、自分の醜わるい器量も忘れてしまって、お千代へばかり念をかけて、眠ねることも出来ず、毎晩夢にまで見るような訳で、是程私わしが方で思って文を附けても、丸めて棄てられちゃア口く惜やしかろうじゃアござえやんせんか﹂
長﹁なんだ……お父とっさまの前を愧はじもせんで怪けしからん事をいう奴だ﹂
と口には云えど、是れは長助がお千代を口説いても弾はじかれ、文を贈っても返事を遣よこさんで恥はずかしめられたのが口惜しいから、自分が皿を毀したんであります。罪なきお千代に罪を負わせ、然そうして他へ嫁に往ゆく邪魔に成るようにお千代の顔へ疵を附けようとする悪わる策だくみを權六が其の通りの事を申しましたから、長助は変に思いまして、
長﹁手前は全く千代に惚れたか﹂
權﹁え、惚れましたが、云う事を肯きかねえから可愛さ余って憎さが百倍、嫁に行く邪魔をして呉れようと、九月のお節句にはお道具が出るから、其の時皿を打うち毀こわして指を切り不かた具わにして生涯亭主の持てねえようにして遣やろうと、貴あな方たの前だが考えを起しまして、皿さら検あらための時に箱の棧が剥とれたてえから、糊でもって貼つけてやる振をして、下の皿を一いち枚めえ毀して置いたから、先まず恋の意趣晴しをして嬉しいと思い、実は土間で腕を組んで悦んでいると、此の母かゝさまが飛んで来て、私わしが病苦を助けてえと危あぶねえ奉公と知りながら参って、人参とかを飲まそうと親のために指を切られるのも覚悟で奉公に来たアから、代りに私わしを殺して下せえ、切って下せえと子を思うお母ふくろの心も、親を助けてえというお千代の孝行も、聴けば聴く程、あゝー実に私わしア汚ねえ根性であった、何故此こ様んな意地の悪い心になったかと考えたアだね、私が是れを考えなければ狗いぬ畜ちく生しょうも同様でごぜえますよ、私ア人間だアから考えました、はアー悪わりい事をしたと思いやしたから、正直に打ぶん明まけて旦那さまに話いして、私が千代に代って切られた方が宜いいと覚悟をして此こ処けえ出やした、さアお切んなせえ、首でも何でもお切んなせえまし﹂
長﹁妙な奴だなア、手てめ前えそれは全くか﹂
權﹁へえ、私わしが毀しやした﹂
作﹁成程長助、此こ者れが毀したかも知れん、懺ざん悔げをして自分から切られようという以上は、然そうせんければ宜しくない、併しかし久しく奉公して居いるから、平へい生ぜいの気象も宜く知れて居おるが、口もきかず、誠に面白い奴だと思っていた、殊ことに私わしに向って時々異いけ見んがましい口答えをする事もあり、正直者だと思って目を掛けていたが、他人の三さん層ぞう倍ばいも働き、力も五人力とか、身体相応の大だい力りきを持っていて役にも立つと思っていたに、顔形には愧はじず千代に恋慕を仕掛るとは何の事だ、うん權六﹂
權﹁はい誠に面目次第もない訳で、何どう卒ぞ私わしを………﹂
千﹁權六さん〳〵、お前私へ恋慕を仕掛けた事もないのに、私を助けようと思って然そう云ってお呉れのは嬉しいけれども、それじゃア私が済みません﹂
權﹁えゝい、其そ様んなことを云ったって、今こん日にち誠まこ実とを照す世界に神さまが有るだから、まア私わしが言うことを聞け﹂
長﹁いや、お父さまは何と仰しゃるか知らんが、どうも此の長助には未まだ腑に落ちない事がある權六手てま前えが毀したと云う何ぞ確たしかな証拠が有るか﹂
權﹁えゝ、証拠が有りやすから、其の証拠を御覧に入れやしょう﹂
長﹁ふむ、見よう﹂
權﹁へえ只今……﹂
と云いながら、立って土間より五ごと斗ば張りの臼を持ってまいり、庭の飛石の上にずしーりと両手で軽々と下おろしたは、恐ろしい力の男であります。
權﹁これが証拠でごぜえます﹂
と白菊の皿の入った箱を臼の中へ入れました。
長﹁何を致す〳〵﹂
權﹁なに造ぞう作さア有りません﹂
と何い時つの間まに持って来たか、杵きねの大きいのを出して振上げ、さくーりっと力に任せて箱諸共に打砕いたから、皿が微塵に砕けた時には、東山作左衞門は驚きました。其そ処こに居りました者は皆顔を見合せ、呆あっ気けに取られて物をも云わず、
一同﹁むむう……﹂
作左衞門は憤おこったの憤らないのでは有りません。突いき然なり刀掛に掛けて置いた大刀を提ひっさげて顔の色を変え、
作﹁不埓至極の奴だ、汝おのれ気が違ったか、飛んだ奴だ、一枚毀してさえ指一本切るというに、二十枚箱諸共に打うち砕くだくとは……よし、さ己が首を斬るから覚悟をしろ﹂
と詰寄せました。權六は少しも憶する気けし色きもなく、縁側へどっさり腰をかけ、襟を広げて首を差し伸べ、
權﹁さ斬って下せえ、だが一通り申上げねばなんねえ事があるから、是れだけ聞いて下せえ、逃げも隠れもしねえ、私わしゃア米搗の權六でござえます、貴あん方た斬るのは造作もねえが、一いち言ごん云って死にてえことがある﹂
と申しました。
七
さて權六という米こめ搗つきが、東山家に数代伝わるところの重じゅ宝うほう白菊の皿を箱ぐるみ搗つき摧くだきながら、自じじ若ゃくとして居りますから、作左衞門は太ひどく憤おこりまして、顔の色は変り、唇をぶる〳〵顫ふるわし、疳かん癖ぺきが高ぶって物も云われん様子で、
作﹁これ權六、どうも怪けしからん奴だて手前は何か気でも違ったか、狂気致したに相違ない、此こ皿れは一枚毀こわしてさえも指一本を切るという大切な品を、二拾枚一いち時じに砕くというのは実に怪しからん奴だ、さ何ういう心得か、御先祖の御おか遺き言も状のに対しても棄置かれん、只今此の処に於いて其の方の首を斬るから左様心得ろ、權六を取とり遁にがすな﹂
と烈はげしき下知に致いた方しかたなく、家の下おと僕こたちがばら〳〵〳〵と權六の傍へ来て見ますと、權六は少しも驚く気色もなく、縁側へどっさりと腰を掛けまして作左衞門の顔をしげ〳〵と見て居りましたが、
權﹁旦那さま、貴あん方たは実にお気の毒さまでごぜえます﹂
作﹁なに……いよ〳〵此こや奴つは狂気致して居おる、手前気の毒ということを存じて居おるかい、此の皿を二十枚砕くと云うのは……予かねて御先祖よりの御おか遺き言も状のの事も少しは聞いているじゃアないか、仮たと令え気違でも此の儘には棄置かんぞ﹂
權﹁はい、私わしア気も違いません、素もとより貴あん方たさまに斬られて死ぬ覚悟で、承知して大でえ事じのお皿を悉みん皆な打ぶち毀こわしました、もし旦那さま、私ア生も国とは忍おしの行ぎょ田うだの在で生れた者でありやすが、少ちいさい時分に両ふた親おやが亡なくなってしまい、知る人に連れられて此の美みま作さか国のくにへ参めえって、何ど処こと云って身も定まりやしねえで居ましたが、縁有って五年前あと当こ家ゝへ奉公に参めえりまして、長なげえ間お世話になり、高たけえ給金も戴きました、お側にいて見れば、誠にどうも旦那さまは衆ひ人とにも目をかけ行届きも能く、どうも結構な旦那さまだが、此の二十枚の皿が此こ処ゝの家うちの害げえだ、いや腹アお立ちなさるな、私は逃にげ匿かくれはしねえ、素もとより斬られる覚悟でした事だが、旦那さま、あんた此の皿はまア何で出来たものと思おぼ召しめします、私ア土つち塊っころで出来たものと考かんげえます、それを粗相で毀したからとって、此の大でえ事じな人間の指い切るの、足い切るのと云って人を不かた具わにするような御おか遺き言も状のを遺のこしたという御先祖さまが、如い何かにも馬鹿気た訳だ﹂
作﹁黙れ、先祖の事を悪あっ口こう申し、尚更棄置かんぞ﹂
權﹁いや棄置かねえでも構わねえ、素もとより斬られる覚悟だから、併しかし私わしだって斬られめえと思えば、あんた方親子二人がゝりで斬ると云っても、指でも附けさせるもんじゃアねえ、大でっけい膂ちか力らが有るが、御こ当ち家らへ米搗奉公をしていて、私ア何も知んねえ在ざい郷ごもんで、何の弁わき別めえも有りやしねえが、村の神主さまのお説教を聴きに行ゆくと、人は天あめが下の霊みた物まもので、万物の長だ、是れより尊とうといものは無い、有いき情ある物ものの主つか宰さだてえから、先まず禁裏さまが出来ても、お政治をなさる公方様が出来ても、此の美作一国の御領主さまが出来やしても、勝山さまでも津山さまでも、皆人間が御ごせ政い治じを執とるのかと私は考かんげえます、皿が政治を執ったてえ話は昔から聞いた事がねえ、何ど様んな器も物のでも人間が発明して拵こしらえたものだ、人間が有ればこそ沼ア埋めたり山ア掘崩したり、河へ橋を架けたり、田でん地じで田んば畠たを開けえ墾こんするから、五※﹇#﹁穀﹂の﹁禾﹂に代えて﹁釆﹂、168-6﹈も実って、貴あん方たさ様まも私も命い継つないで、物を喰って生きていられるだア、其の大でえ事じなこれ人間が、粗相で皿ア毀したからって、指を切って不かた具わにするという御先祖様の御ごゆ遺いご言んを守るだから、私ア貴あん方たを悪くは思わねえ、物もの堅がてえ人だが余あんまり堅過ぎるだ、馬鹿っ正直というのだ、これ腹ア立っちゃアいけねえ〳〵、どうせ一遍腹ア立ってしまって、然そうして私を打ぶっ斬きるが宜うがすが、それを貴方が守ってるから、此の村ばっかりじゃアない、近郷の者までが貴方の事を何と云う、あゝ東山は偉い豪ごう士しだが、家いえに伝わる大でえ事じな宝たか物らものだって、それを打ぶち毀こわせば指い切るの足い切るのって、人を不かた具わにする非道な事をする、東山てえ奴は悪人だと人に謂いわせるように、御先祖さまが遺かき言つ状けを遺のこしたアだね、然うじゃアごぜえませんか、乃そこでどうも私も奉公して居いるから、人に主人の事を悪党だ非道だと謂われゝば余あんまり快くもごぜえません、御先祖さまの遺言が有るから、貴方はそれを守り抜いてゝ、証文を取って奉公させると、中には又喰うや喰わずで仕様がねえ、なに指ぐらい打ぶち切きられたって、高たけえ給金を取って命い継つなごう、なに指い切ったってはア命には障らねえからって、得心して奉公に来て、つい粗相で皿を打ぶち毀こわすと、親から貰った大でえ切じな身体に疵うつけて、不かた具わになるものが有るでがす、実にはア情なさけねえ訳だね、それも皆みんな此の皿の科とがで、此の皿の在ある中うちは末代までも止まねえ、此の皿さえ無ければ宜いいと私は考えまして、疾とうから心しん配ぺえしていました、所で聞けば、お千代どんは齢としもいかないのに母かゝさまが塩あん梅ばいが悪わりいって、良いい薬を飲まねば癒らない、どうか母さまを助けたい、仮たと令え指を切られるまでも奉公して人参を買うだけの手当をしてえと、親子相談の上で証文を貼り、奉公に来た者を今指い切られる事になって、誠にはア可愛そうにと思ったから、私が此の二十枚の皿を悉みん皆な打ぶっ砕くだいたが、二十人に代って私が一人死ねば、余あとの二十人は助かる、それに斯うやって大でえ切じな皿だって打ぶち砕くだけば原もとの土つち塊ッころだ、金だって銀だって只形を拵えて、此の世の中の手形同様に取とり遣やりをするだけの物と考かんげえます、金だって銀だって人間程大たい切せつな物でなえから、お上かみでも人間を殺せば又其の人を殺す、それでも尚なお助けてえと思う心があるので、何とやらさまの御法事と名を付けて助かる事もありやす、首を打ぶっ斬きる奴でも遠島で済ませると云うのも、詰り人間が大切だから、お上でも然うして下さるのだ、それを無闇に打ぶち斬きるとは情ねえ話だ、あなたの御先祖さまは東山将軍義政さまから戴いた、東山という大切な御苗字だという事は米を搗きながら蔭で聞いて知って居ますが、あの東山は非道だ、土つち塊ッころと人間と同じ様に心得ていると云われたら、其の東山義政のお名前までも汚けがすような事になって、貴あん方たは済むめえかと考かんげえますが、何どう卒かして此の風儀を止めさせてえと思っても、他に工夫が無ねえから、寧いっそ禍わざわいの根を絶とうと打ぶっ砕くだいてしまっただ、私一人死んで二十人助かれば本望でがす、私も若わけえ時分には、心ここ得ろえ違ちげえもエラ有りましたが、漸ようやく此の頃本ほん山ざん寺じさまへ行って、お説法を聞いて、此の頃少し心も直って参めえりましたから、大勢の人に代って私一人死にます、どうか其の代り、お千代さんを助けてやって下せえまし、親孝行な此こ様んな人は国の宝で土つち塊ッころとは違います、さ私を斬って下せえまし、親みよ戚り兄弟親も何も無ねえ身の上だから、別に心を置く事もありません、さ、斬っておくんなせえまし﹂
と沓くつ脱ぬぎ石いしへピッタリ腰をかけ、領えりの毛を掻上げて合掌を組み、首を差伸ばしまして、口の中で、
權﹁南無阿弥陀仏〳〵〳〵〳〵〳〵〳〵〳〵﹂
斯かゝる殊しゅ勝しょうの体ていを見て、作左衞門は始めて夢の覚めたように、茫然として暫く考え、
作﹁いや權六許してくれ、どうも実に面目次第もない、能よく毀してくれた、あゝ辱かたじけない、真実な者じゃ、なアる程左様……これは先祖が斯様な事を書かき遺のこしておいたので、私わしの祖じゞ父いより親父も守り、幾代となく守り来きたっていて、中指を切られた者が既に幾いく人たり有ったか知れん、誠に何とも、ハヤ面目次第もない、權六其そな方たが無ければ末世末代東山の家名は素もとより、其方の云う通り慈じし昭ょう院いん殿︵東山義政公の法名︶を汚す不忠不義になる所であった、あゝ誠に辱ない、許してくれ、權六此の通り……作左衞門両手を突いて詫るぞ、宜くマ思い切って命を棄て、私の家名を汚さんよう、衆ひ人とに代って斬られようという其の志、実に此の上もない感服のことだ、あゝ恥入った、実に我が先祖は白たわ痴けだ、斯様な事を書遺すというは、許せ〳〵﹂
と縁先へ両手をついて詫びますと、傍に聞いて居りました忰の長助が、何と思ったかポロリと膝へ涙を落して、權六の傍へ這ってまいりました。
長﹁權六、あゝー誠に面目次第もない、中々其そな方たを殺すどころじゃアない、私わしが生きては居いられん、お千代親子の者へ対しても面目ないから、私が死にます﹂
と慌あわてゝ短刀を引き抜き自害をしようとするから、權六が驚いて止めました。
八
權六は長助の顔を視みつめまして、
權﹁貴あん方た何をなさりやアす﹂
長﹁いや面目ないが、実は此の皿を毀したのはお父とっ様さま、此の長助でございます﹂
作﹁なに……﹂
長﹁唯今此の權六に当付けられ、実に其の時は赤面致しましたけれども、誰たれも他に知る気遣いは有るまいと思いましたが、実はお千代に恋慕を云いかけたを恥はじしめられた恋の意い趣し、お千代の顔に疵を付け、他たへ縁えん付づきの出来ぬようにと存じまして、家の宝を自分で毀し、其の罪を千代に塗付けようとした浅ましい心の迷い、それを權六が存じて居りながら、罪を自分の身に引受けて衆しゅ人うじんを助けようという心底、実に感心致しました、それに引換え私わたくしの悪心面目もない事でございますから……﹂
作﹁暫く待て〳〵﹂
權﹁若旦那様、まゝお待ちなせえまし、貴あん方たが然そう仰しゃって下されば、權六は今首を打ぶっ斬きられても名僧智識の引導より有難く受けます、何どう卒ぞお願ねげえでごぜえますから私わしが首を……﹂
作﹁どう致して、手前は世の中の宝だ、まゝ此こ処れへ昇あがってくれ﹂
と是れから無理やりに權六の手を把とって、泥だらけの足のまゝ畳の上へ上げ、段々お千代母おや子こにも詫びまして、百両︵此の時ころだから大したもので︶取り出して台に載せ、
作﹁何どう卒ぞ此の事を世間へ言わんよう、内聞にしてくれ﹂
と云うと、母おや子ことも堅いから金を受けません、それでは困ると云うと。
權﹁そんなら私わしが志こゝろざしが有りますから、此のお金をお貰い申し、昨年から引続きまして、当御領地の勝山、津山、東山村の辺は一体に不作でごぜえまして、百姓も大だい分ぶ困っている様子でございますから、何うか施しを出したいものでがす、それに此の皿のために指を切られたり、中には死んだ者も有りましょうから、どうか本山寺様で施せ餓が鬼きを致し、乞こつ食じきに施せぎ行ょうを出したいと思います﹂
作﹁あゝ、それは感心な事で、入費の処は私わしも出そう﹂
と云うので、本山寺という寺へまいりまして、和尚さまに掛合いますと、方丈も大きに感心して、そんならばと、是れから大おお施せ餓が鬼きを挙げました。多分に施行も出しました事でございまして、彼かの砕けた皿を後世のためにと云うので、皿山の麓ねが方たのこんもりとした小高き処へ埋うずめて、標しるしを建て、これを小こざ皿らや山まと﹇#﹁小皿山と﹂は底本では﹁小皿山を﹂﹈名づけました。此の皿山は人にん皇のう九十六代後ごだ醍いご醐てん天の皇う、北條九代の執しっ権けん相さが摸みの守かみ高たか時ときの為めに、元げん弘こう二年三月隠おき岐のく国にへ謫てきせられ給いし時、美作の国久米の皿山にて御ぎょ製せいがありました﹁聞き置きし久米の皿山越えゆかん道とはさらにおもひやはせむ﹂と太平記に出てありますと、講談師の放ほう牛ぎゅ舎うし桃ゃと林うりんに聞きましたが、さて此の事が追々世間に知れて来ますと、他ひ人とが尊とうとく思い、尾に尾を付けて云い囃はやします。時に明めい和わの元年、勝山の御城主にお成りなさいました粂野美作守さまのお城しろ普ぶし請んがございまして、人足を雇い、お作さく事じ奉行が出で張ばり、本山寺へ入らっしゃいまして方々御見分が有ります。其の頃はお武家を大切にしたもので、名主年寄始め役人を鄭てい重ちょうに待もて遇なし、御馳走などが沢山出ました。話の序ついでに彼かの皿塚の事をお聞きになりまして、山やま川かわ廣ひろしという方が感心なされて、
山﹁妙な奴もあるものだ、其の權六という者は何ど処こに居おる﹂
とお尋ねになりますと、名主が、
名﹁へえ、それは当時遠山と申す浪人の娘のお千代と云う者と夫婦になりまして、遠山の家名を相続して居ります、至って醜ぶお男とこで、熊のような、毛だらけな男でございますが、女房はそれは〳〵美くしい女で、權六は命の親なり、且かつ其の気性に惚れて夫婦になりたいと美人から望まれ、即すなわち東山作左衞門が媒なこ妁う人どで夫婦になり親子睦ましく暮して居ります、東山のつい地面内へ少しばかりの家を貰って住んで、農業を致し、親子の者が東山のお蔭で今日では豊かに暮して居ります﹂
と聞いて廣は猶なお々〳〵床ゆかしく思い、会いたいと申すのを名主が、
名﹁いえ中々一いっ国こくもので、少しも人に媚こびる念がありませんから、今こん日にち直すぐと申す訳には参りません﹂
というので、是非なく山川も一ひと度たびお帰りになりまして、美作守さまの御前に於おいて、自分が実地を践ふんで、何ど処こに何ういう事があり、此こ処ゝに斯ういう事があったとお物語を致し、彼かの權六の事に及びますと、美作守さま殊の外ほか御感心遊ばされて、左様な者なら一大事のお役に立とうから召抱えて宜かろうとの御意がござりましたので、山川は早速作左衞門へ係かゝってまいりました。其の頃は御領主さまのお抱えと云っては有難がったもので、作左衞門は直すぐに權六を呼びに遣つかわし、
作﹁是れは權六、来たかえ、さア此こっ方ちへ入はいんな﹂
權﹁はい、ちょっくら上あがるんだが、誠に御無沙汰アしました、私わしも何かと忙しくってね﹂
作﹁此の間中お母っかさんが塩梅が悪いと云ったが、最もう快よいかね﹂
權﹁はい、此の時候の悪いので弱え者は駄目だね、あなた何い時つもお達者で結構でがす﹂
作﹁扨さて權六、まア此の上もない悦び事がある﹂
權﹁はい、私わしもお蔭で喰うにゃア困らず、彼あん様な心懸の宜いい女を嚊かゝあにして、おまけに旦那様のお媒なこ妁うどで本当は彼あのお千代も忌いやだったろうが、仕方なしに私の嚊に成っているだアね﹂
作﹁なに否いやどころではない、貴様の心底を看み抜ぬいての上だから、人は容み貌めより唯たゞ心じゃ、何しろ命を助けてくれた恩人だから、否応なしで﹂
權﹁併しかし夫婦に成って見れば、仕方なしにでも私わしを大事にしますよ﹂
作﹁今此こ処ゝで惚のろけんでも宜よい兎に角夫婦仲が好よければ、それ程結構な事はない、時に權六段々善い事が重なるなア﹂
權﹁然そうでございます﹂
作﹁知っているかい﹂
權﹁はい、あのくらい運の宜いい男はねえてね、民たみ右え衞も門んさまでございましょう、無むじ尽んが当って直すぐに村の年寄役を言付かったって﹂
作﹁いや左そ様うじゃアない、お前だ﹂
權﹁え﹂
作﹁お前が倖しあ倖わせ﹇#﹁倖倖﹂は﹁僥倖﹂の誤記か﹈だと云うは粂野美作守様からお抱えになりますよ、お召しだとよ﹂
權﹁へえ有難うごぜえます﹂
作﹁なにを﹂
權﹁まだ腹も空すきませんが﹂
作﹁なに﹂
權﹁お飯めしを喰わせるというので﹂
作﹁アハ……お飯ではない、お召抱えだよ﹂
權﹁えゝ然そうでござえますか、藁の中へ包んで脊し負ょって歩くのかえ﹂
作﹁なにを云うんだ、勝山の御城主二万三千石の粂野美作守さまが小皿山の一件を御重役方から聞いて、貴様を是非召抱えると云うのだが、人足頭が入いるというので、貴様なら地理も能よく弁わきまえて居って適当で有ろうというのだ、初めは棒を持って見廻って歩くのだが、江戸屋敷の侍じゃアいかないというので、お召抱えになると、今から直すぐに貴様は侍に成るんだよ﹂
權﹁はゝゝそりゃア真まっ平ぴら御免だよ﹂
作﹁真平御免という訳にはいかん、是非﹂
權﹁是非だって侍には成れませんよ、第一侍は字い知んねえば出来ますめえ、また剣術も知らなくっちゃア出来ず、それに私わしゃア馬が誠に嫌きれえだ、稀たまには随分小こ荷に駄だに乗のっかって、草くた臥びれ休めに一里や二里乗る事もあるが、それでせえ嫌えだ、矢やっ張ぱり自分で歩く方が宜いいだ、其の上いろはのいの字も書くことを知らねえ者が侍さむれえに成っても無駄だ﹂
作﹁それは皆先むこ方うさまへ申し上げてある、山川廣様というお方に貴様の身の上を話して、学問もいたしません、剣術も心得ませんが、膂ちか力らは有ります、人が綽あだ名なして立たて臼うすの權六と申し、両手で臼を持って片附けますから、あれで力は知れますと云ってあるが、其の山川廣と云うのはえらい方だ﹂
權﹁へえ、白しろ酒ざけ屋やかえ﹂
作﹁山川廣︵口の中うちにて︶山川白酒と聞違えているな﹂
權﹁へえー其の方が得心で、粂野さまの御家来になるだね﹂
作﹁うん、下した役やくのお方だが、今度の事に就いては其の上うわ役やくお作事奉行が来て居ますよ、有難い事だのう﹂
權﹁有難い事は有難いけんども、私わしゃア無むい一っこ国くな人間で、忌いやにお侍さむれえへ上手を遣つかったり、窮屈におっ坐つわる事が出来ねえから、矢やっ張ぱり胡あぐ坐らをかいて草くた臥びれゝば寝転び、腹が空へったら胡坐を掻いて、塩引の鮭しゃけで茶漬を掻かっ込こむのが旨うめえからね﹂
作﹁其そん様なことを云っては困る、是非承知して貰いたい﹂
權﹁兎に角母にも相談しましょう、お千代は否いやと云いますめえが、お母ふくろも有りますし、年い老とっているから、貴あん方たから安心の往いくように話さんじゃア承知をしません、だから其の前に私わしがお役人さまにも会って、是れだけの者だがそれで勤まる訳なら勤めますとお前さまも立会って証人に成って、三人鼎みつ足がなわで緩ゆっくら話しをした上にしましょう﹂
作﹁鼎足という事はありませんよ、宜しい、それではお母ふくろには私わしが話そうから、直すぐに呼んだら宜かろう﹂
とこれから母を呼んで段々話をしましたが、もと遠山龜右衛門という立派な侍の御新造に娘ゆえ大いに悦び、
母﹁お屋敷へお抱えに成るとは此の上ない結構な事で﹂
と早速承知を致しましたので、是れからお抱えに成りましたが、私わたくしは頓と心得ませんが、棒を持って見廻って歩き、大した高ではございません、十石三人扶持、御作事方賄まかない役と申し、少禄では有りますが、段々それから昇進致す事になるので、僅わずかでも先まず高たか持もちに成りました事で、毎日棒を持って歩きますが、一体勉強家でございまして、少しも役目に怠りはございません、誠に宜く働き、人足へも手当をして、骨の折れる仕事は自分が手伝いを致して居りました。此の事が御重役秋あき月づき喜きい一ちろ郎うというお方の耳に入りどうか權六を江戸屋敷へ差出して、江戸詰の者に見せて、惰なまけ者の見みで手ほ本んにしたいと窃ひそかに心配をいたして居ります。
九
粂野美作守さまの御舎弟に紋もん之のじ丞ょう前ちか次つぐさまと云うが有りまして、当その時ころ美作守さまは御病身ゆえ御控えに成って入らっしゃるが、前ぜん殿さまの御秘蔵の若様でありましたから、御次男でも中々羽振りは宜うございますが、誠に武張ったお方ゆえ武芸に達しておられますので、馬を能よく乗るとか、槍を能く使うとか云う者があると、近付けてお側を放しません。所で件くだんの權六の事がお耳に入りますと、其の者を予が傍そばへ置きたいとの御意ゆえ、お附の衆から老臣へ申し立て、上かみへも言ごん上じょうになると、苦しゅうないとの御ご沙さ汰たで、至急に江戸詰を仰付けられたから、母もお千代も悦びましたが、悦ばんのは遠山權六でございます。窮屈で厭いやだと思いましたが、致し方がありませんから、江戸谷やな中か三さん崎さきの下しも屋やし敷きへ引移ります。只今は開けまして綺麗に成りましたが、其の頃梅を大層植込み、梅の御殿と申して新らしく御普請が出来て、誠にお立派な事でございます。前次様は權六が江戸着という事をお聞きになると、至急に会いたいから早々呼出せという御沙汰でございます。是れから物もの頭がしらがまいりまして、段々下した話ばなしをいたし、權六は着慣れもいたさん麻あさ上がみ下しもを着て、紋附とは云え木綿もので、差さし図ずに任せお次まで罷まかり出いで控えて居ります。外との村むら惣そう江えと申すお附つき頭がしらお納なん戸どや役く川かわ添ぞい富とみ彌や、山やま田だき金ん吾ごという者、其の外ほか御小姓が二人居ります。侍さむ分らいぶんの子で十三四歳ぐらいのが附いて居り、殿様はきっと固く鬢びんを引ひッ詰つめて、芝居でいたす忠臣蔵の若わか狭さの之す助けのように眼が吊つるし上っているのは、疳かん癪しゃ持くもちというのではありません。髪を引詰めて結うからであります、誠に活溌な良い御気象の御舎弟さまで、
小姓﹁えゝ、お召によりまして權六お次まで控えさせました﹂
前﹁あゝ富彌、早速其の者を見たいな、ずっと連れてまいって予に見せてくれ、余程勇義なもので、重じゅ宝うほうの皿を一いち時じに打砕いた気象は実に英雄じゃ、感服いたした早々此こ処れへ﹂
富﹁えゝ、田舎育ちの武骨者ゆえ、何とお言葉をおかけ遊ばしても御挨拶を申し上ぐる術すべも心得ません無作法者で、実に手前どもが会いましても、はっと思います事ばかりで、何分にも御ごぜ前んて体いへ罷まか出りいでましたら却かえって御無礼の義を……﹂
前﹁いや苦しゅうない、無礼が有っても宜しい、早く会いたいから呼んでくれ、無礼講じゃ、呼べ〳〵﹂
富﹁はっ〳〵權六〳〵﹂
權﹁はい﹂
富﹁お召しだ﹂
權﹁はい、おめしと云うのは御おま飯んまを喰うのではない、呼ばれる事だと此の頃覚えました﹂
富﹁其そ様んな事を云ってはいかん、極ごく御疳癖が強く入いらっしゃる、其の代り御意に入いれば仕合せだよ﹂
權﹁詰り気に入られるようにと思ってやる仕事は出来ましねえ﹂
富﹁其様なことを云ってはいかん、何でも物事を慇いん懃ぎんに云わんければなりませんよ﹂
權﹁えゝ彼あす処こで隠いん元げん小さ角ゝ豆ぎを喰うとえ﹂
富﹁丁寧に云わんければならんと云うのだ﹂
權﹁そりゃア出来ねえ、此の儘にやらして下せえ﹂
富﹁此の儘、困りましたなア、上かみ下しもの肩が曲ってるから此こっ方ちへ寄せたら宜かろう﹂
權﹁之れを寄せると又此方へ寄るだ、懐へこれを納いれると格好が宜いいと、お千代が云いましたが、何にも入へいっては居ません﹂
富﹁此の頃は別して手へ毛が生えたようだな﹂
權﹁なに先せんから斯ういう手で、毛が一いっ杯ぺいだね、足から胸から、私わしの胸の毛を見たら殿様ア魂たま消げるだろう﹂
富﹁其様な大きな声をするな、是から縁側づたいにまいるのだ、間違えてはいかんよ、彼あ処れへ出ると直すぐにお目見え仰せ付けられるが、不ぶし躾つけに殿様のお顔を見ちゃアなりませんよ﹂
權﹁えゝ﹂
富﹁いやさ、お顔を見てはなりませんよ、頭かしらを擡あげろと仰しゃった時に始めて首を上げて、殿様のお顔をしげ〴〵見るのだが、粗ぞんにしてはなりませんよ﹂
權﹁そんならば私わしを呼ばねえば宜いいんだ﹂
富﹁さ、私わしの尻に尾くッ付ついてまいるのだよ曲ったら構わずに……然そう其そっ方ちをきょと〳〵見て居ちゃアいかん、あ痛い、何だって私の尻へ咬くい付ついたんだ﹂
權﹁だってお前めえさん尻へ咬くッ付つけって﹂
富﹁困りますなア﹂
と小声にて小言を云いながら御前へ出ました。富彌は慇懃に両手を突き、一礼して、
富﹁へい、お召に依って權六罷まか出りでました、お目見え仰付けられ、權六身に取りまして此の上なく大たい悦えつ仕つかまつり、有難く御おん礼れい申上げ奉ります﹂
殿﹁うん權六、もっと進め〳〵﹂
と云いながら見ると、肩巾の広い、筋骨の逞たくましい、色が真まっ黒くろで、毛むくじゃらでございます。実に鍾しょ馗うきさまか北海道のアイノ人じんが出たような様子で有ります。前次公は見たばかりで大層御意に入りました。
殿﹁どうも骨格が違うの、是は妙だ、權六其の方は国で衆人の為めに宝たか物らものを打砕いた事を予も聞いておるが、感服だのう、頭かしらを擡あげよ、面おもてを上げよ、これ權六、權六、如いか何ゞ致した、何も申さん、返答をせんの﹂
富﹁はっ、これ御挨拶を〳〵﹂
權﹁えゝ﹂
富﹁御挨拶だよ、お言葉を下くだし置かれたから御挨拶を﹂
權﹁御挨拶だって……﹂
と只きょと〳〵して物が云えません。
殿﹁もっと前へ進め、遠くては話が分らん、ずっと前へ来て、大声で遠慮なく云え、頭かしらを上げよ﹂
權﹁上げろたって顔を見ちゃアなんねえと云うから誠に困りますなア、何うか此の儘で前の方へ押出して貰もれいてえ﹂
小姓﹁此の儘押出せと、尋な常みの人間より大きいから一人の手てぎ際わにはいかん、貴あな方たそら尻を押し給え﹂
權﹁さアもっと力を入れて押出すのだ﹂
殿﹁これ〳〵何を致す其そ様んなことをせんでも宜しいよ、つか〳〵歩いてまいれ、成程立派じゃなア﹂
權﹁えゝ、まだ頭かしらを上げる事はなんねえか﹂
殿﹁富彌、余り厳やかましく云わんが宜いい、窮屈にさせると却かえって話が出来ん、成程立派じゃなア、昔の勇士のようであるな﹂
權﹁へえー、なんですと﹂
殿﹁古いにしえの英雄加藤清正とも黒田長政とも云うべき人物じゃ、どうも顔が違うのう﹂
權﹁へえーどうも誠に違います﹂
富﹁誠に違いますなんて、自分の事を其様な事を云うもんじゃア有りませんよ﹂
殿﹁これ〳〵小声で然そうぐず〳〵云わんが宜よい﹂
權﹁衆みん人なが然う云います、へえ嚊かゝあは誠に器量が美いいって﹂
富﹁これ〳〵家内の事はお尋ねがないから云わんでも宜よい﹂
權﹁だって話の序ついでだから云いました﹂
富﹁話の序という事がありますか﹂
殿﹁其の方生しょ国うこくは何ど処こじゃ、美作ではないという事を聞いたが、左さよ様うか﹂
權﹁何でごぜえます﹂
殿﹁生国﹂
權﹁はてな……何ですか、あの勝山在にいる医者の木きむ村らし章ょう國こくでがすか﹂
殿﹁左様ではない、生れは何処だと申すのじゃ﹂
權﹁生れは忍の行田でごぜえますが、少ちいせえ時分に両親が死んだゞね、それから仕様がなくって親みよ戚り頼りも無ねえもんでがすが、懇意な者が引ひっ張ぱってくれべえと、引張られて美みま作さか国のくにへ参めえりまして、十八年の長なげえ間大えかくお世話さまでごぜえました﹂
富﹁これ〳〵お世話さまなんぞと云う事は有りませんよ﹂
權﹁だってお世話になったからよ﹂
殿﹁これ富彌控えて居れ、一々咎めるといかん、うん成程、武州の者で、長らく国くに許もとへ参って居ったか、其の方は余程力は勝れて居おるそうじゃの﹂
權﹁私わしが力は何どの位あるか自分でも分りませんよ、何なら相撲でも取りましょうか﹂
富﹁これ〳〵上かみと相撲を取るなんて﹂
權﹁だって、力が分らんと云うからさ﹂
殿﹁誠にうい奴だ、予が近くにいてくれ、予が側近くへ置け﹂
富﹁いえ、それは余り何なんで、此の通りの我がさ雑つものを﹂
殿﹁苦しゅうない、誠に正直潔白で宜よい、予が傍そばに居れ﹂
權﹁それは御免を願いてえもんで、私わしには出来ませんよ、へえ、此こ様んな窮屈な思いをするのは御免だと初手から断ったら、白酒屋さんの、えゝ……﹂
殿﹁山川廣か﹂
權﹁あの人よ﹂
富﹁あの人よと云う事が有るかえ、上かみのお言葉に背く事は出来ませんよ﹂
權﹁背くたって居いられませんよ﹂
富﹁居おられんという事は有りません、御無礼至極じゃアないか﹂
權﹁御無礼至極だって居いられませんよ﹂
殿﹁マ富彌控えて居れ、然う一々小言を申すな、面白い奴じゃ﹂
權﹁私わしア素もと米こめ搗つきで何なんも知んねえ人間で、剣術も知んねえし、学問もした事アねえから何うにも斯うにもお侍さむれえには成れねえ人間さ、力はえらく有りますが、何でも召抱えてえと御領主さまが云うのを、無理に断れば親や女房に難儀が掛るというから、そりゃア困るが、これ〳〵で宜くばと己おらがいうと、それで宜いいから来いと云われ、それから参めえっただねお前めえさま…﹂
富彌ははら〳〵いたしまして、
富﹁お前めえさまということは有りませんよ、御ごぜ前んさ様まと云いなさい﹂
權﹁なに御前と云うのだえ、飯だの御膳だのって何どっ方ちでも宜いいじゃアないか﹂
殿﹁これ富彌止めるな、宜しいよ、お前まえも御前も同じことじゃのう﹂
權﹁然うかね、其様な事は存じませんよ、それから私わしが此こ処ゝの家けれ来えになっただね、して見るとお前めえ様さま、私のためには大でえ事じなお人で、私は家けら来いでござえますから、永らく居る内にはお互たげえに心こゝ安ろや立すだてが出て来るだ﹂
富﹁これ〳〵心安立てという事がありますか﹂
權﹁するとお大でえ名みょうは誠に疳癪持だ﹂
富﹁これ〳〵﹂
殿﹁富彌又口を出すか、宜しい、控えよ、実に大名は疳癪持だ、疳癪がある、それから﹂
權﹁殿様に我儘が起おこれば、私わしにも疳癪が有りますから、主人に間違った事を云われると、ついそれから仲が悪くなります、時々逢うようにすれば、人は何となく懐かしいもので、あゝ会いたかった、宜く来たと互たげえに大騒ぎをやるが、毎めえ日にち傍にいると、私が殿様の疳癪をうん〳〵と気に障らねえように聞いていると、私が胡麻摺になり、諛へつれえになっていけねえ、此処にいる人に偶たまには些ちっとぐれえ腹の立つ事があっても、主人だから仕方がねえと諦め、御前さまとか御おま飯んまとかいう事になって、実の所をいうと然ういう人は横着者だね﹂
殿﹁成程左様じゃ、至極左様じゃ、正せい道どう潔白な事じゃ、これ權六、以来予に悪いことが有ったら其の方諫かん言げんを致せ、是が君臣の道じゃ、宜しい、許すから居てくれ﹂
權﹁尊あん公たがそれせえ御承知なら居ります﹂
殿﹁早速の承知で過分に思う、併し其の方は剣道も心得ず、文もん字じも知らんで、予の側に居おるのは、何を以て君臣の道を立て奉公を致す心得じゃ﹂
權﹁他に心得はねえが、夜よる夜よな中か乱暴な奴が入へえるとなりませんから、私わしゃア寝ずに御殿の周まわ囲りを内ない証しょうで見廻っていますよ、もし狐でも出れば打ぶっ殺ころそうと思ってます﹂
殿﹁うん、じゃが戦国の世になって戦争の起った時に、若もし味方の者が追々敗走して敵兵が旗はた下もとまで切込んでまいり、敵兵が予に槍でも向けた時は何う致す﹂
權﹁然うさね、其そ処こが大切だ﹂
殿﹁さ何う致して予を助ける﹂
權﹁そりゃア尊あん公たどうも此処に一つ﹂
と權六は胸をたゝき、
﹁忠義という刄物が有るから、剣術は知らねえでも義という鎧を着ているから、敵が槍で尊公に突つき掛かけて参めえれば、私わしア掌てで受けるだ、一本脇腹へ突込まして、敵を捻ひねり倒して打ぶち殺ころしてやるだ、其の内に尊公を助けて逃がすだけの仕事よ﹂
殿﹁うん成程、立派な事だ、併しかし然う甘うまく口でいう通りに行ゆくかな﹂
權﹁屹きっ度と行やります、其処は主しゅう家来の情合だからね﹂
殿﹁うん面白い奴じゃ、然しからば敵が若し斯様に致したら何うする﹂
とすっと立ち上って、欄間に掛けて有りました九尺柄えの大おお身みの槍を取って、スッ〳〵と二三度しごいて、
﹁斯様に突き掛けたら何う致す﹂
と真に突いて蒐かゝった時に權六が、
權﹁然うすれば斯う致します﹂
と少しも動かずに、ジリ〳〵と殿様の前へ進むという正直律義の人でございます。
十
粂野紋之丞前次と仰しゃる方は、未だお部屋住では有りますが、勇気の優れた方で、活溌なり学問もあり、実に文武兼備と講釈師なら誉ほめる立派な殿様でございますなれども、そこはお大名の疳癪で、甚ひどく逆らって参ると、直すぐに抜ぬき打うちに御家来の首がコロリなどゝいう事が有るもので、只今の華族さまは開ひらけて在いらっしゃいますから、其そ様んな野蛮な刄はも物のざ三んま昧いなどはございませんが、前次様は御勇気のお方だけあって、九尺柄の大身の槍をすっと繰出した時に、權六は不意を打たれ、受くるものが有りませんから左の掌てで、
權﹁むゝ﹂
と受けましたが剛ひどい奴で、中指と無くす名りゆ指びの間をすっと貫かれたが、其の掌で槍の柄を捕まえて、ぐッと全身の力で引きました。前次公は蹌よろめいて前へ膝を突く処を、權六が血だらけの手で捕おさえ付け、
權﹁其の時は斯う捻り倒して敵を酷ひどえ目に遇あわして、尊あん公たを助けるより他はねえ、何うだ、敵も魂たま消げるか﹂
と大だい力りきでグックと圧おすから前次公も堪たえかねまして、
殿﹁權六宥ゆるせ、宥せ﹂
と云うは余程苦しかったと見えます。これを見るとお側に居りました川添富彌、山田金吾も驚きましたが、御側小姓の外村惣江が次の間に至り、一刀を執とって立上り、
惣﹁棄置かれん奴﹂
とバラ〳〵〳〵と二人来きたって權六へ組付こうとするを睨にらみ付け、
權﹁寄付くと打ぶっ殺ころすぞ﹂
惣﹁斬ってしまえ、無礼至極な奴だ、御前を何と心得る、如い何かに物を心得んとは申しながら、余りと申せば乱暴狼藉﹂
と立ちかゝるを、殿様は押されながら、
殿﹁いやなに惣江、手出しをする事は必ずならんぞ、權六放してくれ、あ痛い、放せ、予が悪かった、宥せ〳〵﹂
權﹁宥せと云って敵じゃア許せねえけれども、先まず仕方話だから許します、さ何うだね﹂
殿﹁ハッ〳〵﹂
と殿様は稍ようやく起上りましたが、血だらけでございます。是は權六の血だらけの手で押付けられたから、顔から胸から血だらけで、これを見ると御家来が驚きまして、呆れて口が利けません。
殿﹁ハッ〳〵、至極道もっ理ともだ﹂
權﹁道理だって、私わしが何も手出し仕たじゃアねえのに、押おせえるの斬るのと此処にいる人が云うなア分んねえ、咎とがも報いも無ねえものを殿様が手出しいして、槍で突つッ殺ころすと云うだから、敵が然うしたら斯うだと仕方話いしてお目に掛けたゞ、敵なら捻り殺すだが、仕方話で、ちょっくら此の位くれえなものさ﹂
殿﹁至極正しょ道うどう潔白な奴じゃ、勇気なものじゃ、何と申しても宜しい、予に悪い事があったら一々諫言をしてくれ、今きょ日うより意見番じゃ、予が側を放さんぞ﹂
と有難い御意で、それからいよ〳〵医者を呼び、疵の手当を致して遣つかわせと、殿様も急に血だらけですからお召替になる。大騒ぎでござります。御褒美として其の時の槍を戴きましたから、是ばかりでも槍一筋の侍で、五十石に取立てられ、頭とう取どり下した役やくという事に成りましたが、更にいを致しませんが、堅い気象ゆえ、毎夜人知れず刀を差し、棒を提げて密そっと殿様のお居間の周まわ囲りを三度ずつ不ね寝ずに廻るという忠実なる事は、他の者に真似は出来ません立派な行いでございます。又お供の時は駕籠に附いてまいりません。
權﹁私わしア突つッ張ぱったものを着て、お駕籠の側へ付いてまいっても無駄でごぜえます、お側には剣術を知ってる立派なお役人が附いているだから、狼藉者がまいっても脇差を引抜いて防ぎましょうが、私ア其の警けい衛えいの方々に狼藉者が斬付けるとなんねえから、若もし怪しい奴が来るといかねえから私ア他の人の振ふりで先へめえりましょう、袴はかまなどア穿はくのは廃よして貰もれえましょう、刀は差せと云わば仕方がねえから差しますが、私だけはお駕籠の先へぶら〳〵往いきます﹂
と我儘を云うてなりませんが、左様な我儘なお供はござりませんから、權六も袴を付け、大小を差し、紺こん足た袋び福ふく草ぞう履りでお前さき駆ともで見廻って歩きます、お中屋敷は小梅で、此こ処れへお出でのおりも、未だお部屋住ゆえ大したお供ではございませんが、權六がお供をして上野の袴はか腰まごしを通りかゝりました時に、明和三年正月も過ぎて二月になり、追々梅も咲きました頃ですから、人もちら〳〵出掛けます。只今權六が殿様のお供をして山下の浜田と申す料理屋︵今の山城屋︶の前を通りかゝり、山の方かたの観みせ物もの小ご屋やに引張る者が出て居りますが、其そち方らへ顔も向けず四あた辺りに気を附けてまいると、向うから来ました男は、年頃二十七八にて、かっきりと色の白い、眼のきょろ〳〵大きい、鼻はな梁すじの通った口元の締った、眉毛の濃い好いい男で、無地の羽織を着ちゃくし、一本短い刀を差し、紺足袋雪せっ駄たば穿きでチャラ〳〵やって参りました。不ふ図と出会うと中国もので、矢張素もと松平越後様の好よい役柄を勤めました松まつ蔭かげ大だい之のし進んの忰、同どう苗みょう大だい藏ぞうというもので、浪々中互いに知って居りますから、
權﹁大藏さん〳〵﹂
と呼びますから大藏は振向いて、
大﹁いや是れは誠に暫らく、一別已いら来い﹇#﹁已来﹂は底本では﹁己来﹂﹈……﹂
權﹁うっかり会ったって知んねえ、むお変りがなくって……此こ処ゝで逢おうとは思いませんだったが、何うして出て来たえ﹂
と立止って話をして居りますから、他の若侍が、
若﹁これ〳〵權六殿〳〵﹂
權﹁えゝ﹂
若﹁お供先だから、余り知る人に会ったって無闇に声などを掛けてはなりませんよ﹂
權﹁はい、だがね国くに者ものに逢って懐かしいからね、少し先へ往っておくんなせえ、直ぐに往くと殿様に然う申しておくんなせえ、まお前めえ達者で宜いい、何ど処こにいるだ﹂
大﹁お前も達者で何処に居おらるゝか、実に立派な事で、お抱えになったことは聞いたが、立派な姿なりで、此の上もない事で、拙者に於ても悦ばしい﹇#﹁悦ばしい﹂は底本では﹁悦しばい﹂﹈﹂
權﹁ま悦んでくんろ、今じゃア奉公大切に勤めているだが、お前めえさんは何処にいるだ﹂
大﹁拙者は根岸の日ひぐ暮れヶお岡かに居おる、あの芋いも坂ざかを下りた処に﹂
權﹁私わしの処へは近ちけえから些ちっと遊びに来なよ、其の内私も往くから﹂
若﹁これ〳〵其そ様んなことを云っては成りません﹂
權﹁今日は大将がいるから此処で別れるとしよう、泣く子と地頭にゃア勝かたれねえ﹂
と他の家来衆も心配して彼是云いますので、其の日は別れ、翌日大藏は權六の家うちへまいりましたから、權六悦びました。此の大藏はもと越後守様の御家来で、遠山龜右衞門とは同じ屋敷にいた者ゆえ、母もお千代も見知りの事なれば、
﹁お互いに是は思い掛けない、縁と云うものは妙だ、国を出たのは昨年の秋で、貴方も国にお在いでのないという事は人の噂で聞きました﹂
大﹁お前も御無事で、殊ことに御夫婦仲も宜し、結構で﹂
權﹁まアね、お母ふくろも誠に安心したし、殿様も贔屓にしてくれるだが、扶持も沢たん山とは要いらない、親子三人喰うだけ有れば宜いいてえに、其様な事を云わずに取って置くが宜いって、種いろ々〳〵な物をくれるだ、貰わねえと悪いと云うから、仕方なしに貰うけれども、何でも山盛り呉れるだ、喰くい物ものなどは切きり溜だめを持ってって脊し負ょって来こねえばなんねえだ、誠にはア有あり難がてえ事になって、勿体ねえが、他に恩おん返げえしの仕様がねえから、旦那様を大でえ切じに思って、不ね寝ずに奉公する心得だが、貴あん方たは今の若さで遊んでいずに、何処かへ奉公でもしたら宜かろう﹂
大﹁拙者も然そう思ってる、迚とても国へ往ったっていけんから、何処ぞへ取付こうと思うが、御当家でお羽振の宜いいお方は何というお方だね﹂
權﹁私わしア其様な事は知んねえ、お国家老の福ふく原はら數かず馬ま様、寺てら島じま兵ひょ庫うご様、お側御用神かん原ばら五ごろ郎う治じ様とかいう奴があるよ﹂
大﹁奴とは酷ひどいね﹂
權﹁それに此こね間えだちょっくら聞いたが、御当家には智仁勇の三人の家来があるとよ、渡わた邊なべ織おり江えさんという方は慈悲深い人だから是が仁で、秋あき月づき喜きい一ちろ郎うかな是はえら剛きつい人で勇よ、えゝ何とか云いッけ……戸とむ村らも主ん水どとかいう人は智慧があると云いやした、此こ者れが羽振の宜いい処だ、其の人らの云う事は殿様も聴くだ、御家来に失しく策じりが有っても、渡邊さんや秋月さんが取とり做なすと殿様も赦ゆるすだ、秋月さんは槍奉行を勤めているが、成程剛つよそうだ、身せ丈いが高くってよ﹂
と手真似をして物語る内、大藏は掌てのひらの底に目を附けました。
十一
大﹁足そっ下か掌てを何うした、穴が開いているようだが﹂
權﹁これか、是は殿様が槍を突つッ掛かけて掌てで受けるか何うだと云うから、受けなくってというので、掌で受けたゞ﹂
大﹁むゝ、そうか、そして御家来の中うち仁は渡邊織江、勇は秋月、智は戸村、成程斯ういう事は珍らしいから書付けて往ゆきましょう﹂
と細かに書いて暇いと乞まごいを致し、帰る時に權六が門まで送り出してまいりますと、お役所から帰る渡邊に出会いましたから、權六も挨拶する事ぐらいのことは心得て居りますから、丁寧に挨拶する。渡邊も答礼して行ゆき過すぎるを見みす済まして、
大﹁彼あれは﹂
權﹁彼あれが渡邊織江様よ、慈悲深い方で、家来に難儀いする者が有ると命懸で殿様に詫言をしてくれるだ、困るなら銭い持って行けと助けてくれると云うだ、どうも彼あの人には敵かなわねえ﹂
大﹁成程寛かん仁じん大たい度ど、見上げれば立派な人だね﹂
權﹁なにい、韓かん信しんが股ア潜くゞりだと﹂
大﹁いえ中々お立派なお方だ、最もう五十五六にもなろうか……拙者も近い所にいるから、また度たび々〳〵お尋ね下さい、拙者も亦またお尋ね申します﹂
權﹁お前辛抱しなよ、お女郎買におっ溺ぱまってはいかねえよ、国と違ってお女郎が方々に在あるから、随分身体を大でえ事じにしねば成んねえ﹂
大﹁誠に辱かたじけない、左様なら﹂
と松蔭大藏は帰りました。其の後ご渡邊織江が同年の三月五日に一人の娘を連れて、喜きろ六くという老じゞ僕いに供をさせて、飛あす鳥かや山まへまいりました。尤もっとも花見ではない、初はつ桜ざくら故余り人は出ません、其の頃には海え老び屋や、扇おう屋ぎやの他に宜よい料理茶屋がありまして、柏かし屋わやというは可なり小綺麗にして居りました。織江殿は娘を連れて此の茶屋の二階へ上あがり、御ごし酒ゅは飲みませんから御ごぜ飯んを上っていました。此の娘は年頃十八九になりましょうか、色のくっきり白い、鼻筋の通った、口元の可愛らしい、眼のきょろりとした……と云うと大きな眼付で、少し眼に怖こわ味みはありますが、是もっとも巾きん着ちゃ切くきりのような眼付では有りません、堅いお屋敷でございますから好よい服な装りは出来ません、小紋の変り裏ぐらいのことで、厚板の帯などを締めたもので、お父とっさまは小紋の野のが掛けし装ょう束ぞくで、お供は看板を着て、真しん鍮ちゅ巻うまきの木刀を差して上あが端りばなに腰をかけ、お膳に酒が一合附いたのを有難く頂戴して居ります。二階の梯子段の下に三人車座になって御酒を飲んでいる侍は、其の頃流は行やった玉たま紬つむぎの藍あいの小こべ弁んけ慶いの袖口がぼつ〳〵いったのを着て、砂糖のすけない切きり山ざん椒しょで、焦茶色の一いっ本ぽん独どっ鈷この帯を締め、木刀を差して居るものが有ります。火の燃え付きそうな髪あたまをして居るものも有り、大小を差した者も有り、大おお髷たぶさの連れん中じゅうがそろ〳〵花見に出る者もあるが、金がないので往ゆかれないのを残念に思いまして、少しばかり散ざん財ざいを仕ようと、味みそ噌ずい吸も物のに菜のひたし物香こう物〳〵沢だく山さんという酷い誂あつらえもので、グビーリ〳〵と大おお盃もので酒を飲んで居ります。二階では渡邊織江が娘お竹と御ごぜ飯んが済んで、
織﹁これ〳〵女中﹂
下婢﹁はい﹂
織﹁下に従と者もが居おるから小包を持って来いと云えば分るから、然そう云ってくれ﹂
下婢﹁はい畏かしこまりました﹂
とん〳〵〳〵と階し下たへ下りまして、
下婢﹁あの、お供さん、旦那があの小さい風呂敷包を持って二階へ昇あがれと仰しゃいましたよ﹂
喜﹁はい畏まりました﹂
と喜六と云う六十四才になる爺さんが、よぼ〳〵して片手に小包を提げ、正直な人ゆえ下足番が有るのに、傍わきに置いた主人の雪せっ踏たとお嬢様の雪踏と自分の福草履三足一緒に懐ふと中ころへ入れたから、飴細工の狸見たようになって、梯子を上あがろうとする時、微ほろ酔よい機きげ嫌んで少し身体が斜よこになる途端に、懐の雪踏が辷すべって落おちると、間の悪い時には悪いもので、彼かの喧嘩でも吹ふっ掛かけて、此の勘定を持たせようと思っている悪わる浪ろう人にんの一人が、手に持っていた吸物椀の中へ雪踏がぼちゃりと入ったから驚いて顔を上げ、
甲﹁これ怪けしからん奴だ、やい下おりろ、二階へ上あがる奴下ろ﹂
と云いながら喜六の裾を取ってぐいと引いたから、ドヽトンと落ち、
喜﹁あ痛いやい……﹂
甲﹁不ぶれ礼いし至ご極くな奴だ、人が酒を飲んでいる所へ、屎くそ草ぞう履りを投込むとは何の事だ﹂
と云いながら二つ三みつ喜六の頭を打つ喜六は頭を押えながら、
喜﹁あ痛い……誠に済みませんが、懐から落ちたゞから御勘弁を願ねげえます﹂
甲﹁これ彼あす処こに下足を預あずかる番人があって、銘々下足を預けて上あがるのに、懐へ入れて上る奴があるものか、是には何か此の方に意趣遺恨があるに相違ない﹂
喜﹁いえ意趣も遺恨もある訳じゃねえ、お前めえ様さまには始めてお目に懸って意趣遺恨のある理わ由けがござえません、私わしは何なんにも知んねえ田いな舎かも漢ので、年も取ってるし、御馳走の酒を戴き、酔払いになったもんだから、身体が横になる機はずみに懐から雪踏が落ちただから、どうか御勘弁を﹂
と詫びましたが、浪人は肩を怒らせまして、
甲﹁勘弁罷まかりならん、能く考えて見ろ、人の吸物の中へ斯様に屎草履を投込んで、泥だらけにして、これを何うして喰うのだ﹂
喜﹁誠に御ごも道っと理も……併しかし屎草履と仰しゃるが、米でも麦でも大たい概げえ土から出来ねえものはねえ、それには肥こや料しいしねえものは有りますめえ、あ痛い、又打ったね﹂
甲﹁なに肥こや料しをしないものはないが、直じ接かに肥料を喰くい物ものに打ぶっかけて喰う奴があるか、怪けしからん理わ由けの分らん奴じゃアないか﹂
乙﹁これ〳〵其そ様んな者に何を云ったって、痛いも痒かゆいも分るものじゃアない、家来の不調法は主人の粗相だから、主人が此こ処ゝへ来て詫るならば勘弁して遣やろう、それまで其の小包を此こち方らへ取上げて置け、なに娘を連れて年を老とっている奴だと、それ〳〵今も云う通り家来の不調法は主人の不調法だから、主人が此処へ来て、手前に成り代って詫るなれば勘弁を仕まいものでもないが、それ迄包を此こっ方ちへ預かる、一体家来の不調法を主人が詫んという事は無い﹂
喜﹁詫ん事は無いたって、私わしが不調法をして、旦那様を詫に出しては済みません、それに包を取上げられてしまっては旦那様に申訳がないから、どうか堪忍しておくんなせえましな、私が不調法を為したんだから、二つも三つも打ぶち叩たゝかれても黙って居やすんだ、人間の頭には神様が附いて居ますぞ、其そ処こを叩くてえ事はねえ﹂
甲﹁なに……﹂
と又打ぶつ。
喜﹁あ痛い、又打ぶったな﹂
甲﹁なにを云う、其様な小理窟ばかり云っても仕様がねえ、もっと分る奴を出せ﹂
喜﹁あ痛い……だからま一つ堪忍しておくんなせえましよ﹂
甲﹁勘弁罷りならん﹂
喜﹁勘弁ならんて、此の包を取られゝば私わしがしくじるだ﹂
甲﹁手前が不調法をしてしくじるのは当あた然りまえだ、手前が門前払いになったて己の知った事かえ、さ此こっ方ちへ出さんか﹂
喜﹁あ……あれ……取っちまった、其の包を取られちゃア私わしが済まねえと云うに、あのまア慈悲知らずの野郎め﹂
甲﹁なに野郎だ……﹂
と尚なお事が大きくなって、見ちゃア居られませんから茶屋の女中が、
下婢﹁鎌かまどんを遣やっておくれな﹂
鎌﹁なに斯ういう事は矢やッ張ぱり女が宜いいよ﹂
下婢﹁其様なことを云わずに往っておくれよ﹂
鎌﹁客きゃ種くだねが悪い筋だ、何なんかごたつこうとして居る機はずみだから、どうも仕様がない﹂
下おん婢などもがそれへ参り、
下婢﹁ね、あなた方﹂
甲﹁何だ、何だ手前は﹂
下婢﹁貴あな方た申しお供さん、お気を附けなさらないといけませんよ、貴方ね、此こち方らは下足番の有るのを御存じないものですから、履はき物ものを懐へ入れて梯子段を昇あがろうとした処を、つい酔っていらっしゃるもんですから、不調法で落ちたのでしょう、実にお気の毒さま、何どう卒ぞね、ま斯ういうお花見時分で、お客さまが立込んで居りますから、御機嫌を直していらっしゃいよ、何ですよう、ちょいと貴方ア﹂
甲﹁なんだ不礼至極な奴め、愛敬が有るとか器量が好よいとか云うならまだしも、手前の面を見ろい、手前じゃア分らんから分る人間を出せ﹂
下婢﹁誠にどうも、あのちょいと清せい次じどん﹂
清﹁そら、己の方へ来た﹂
下婢﹁取っても附けないよ、変な奴だよ﹂
清﹁女でも宜よいのに、仕様がないね﹂
と若い者が悪わる浪ろう人にんの前へ来て、額へ手を当て、
若﹁えへゝゝ﹂
甲﹁変な奴が出て来た、手前は何だ﹂
若﹁今こん日にちは生あい憎にく主人が下町までまいって居りませんから、手前は帳場に坐っている番頭で、御立腹の処は重々御ごも尤っともさまでございますが、何分にもへえ、全体お前さんが逆らっては悪い、此こな方たで御立腹なさるのは御尤もで仕方がない謝まんなさい、えへ……誠に此の通り何も御存じないお方で相済みませんが…﹂
甲﹁只相済まん〳〵と云って何う致すのだ﹂
若﹁どうか旦那さま﹂
甲﹁うん何だと、何が何うしたと、此こ椀れを何う致すよ、只勘弁しろたって、泥ぽっけにした物が喰えるかい﹂
清﹁左様なら旦那さま、斯様致しましょう、お料理を取換えましょう、ちょいとお芳よしどん、是をずっと下げて、何か乙おつな、ちょいとさっぱりとしたお刺身と云ったような﹇#﹁ような﹂は底本では﹁なうな﹂﹈もので、えへゝゝ﹂
甲﹁忌いやな奴だな、空そら笑わらいをしやアがって﹂
清﹁ずっとお料理を取換え、お燗の宜よい処を召上り、お心持を直してお帰りを願います﹂
それより他に致し方がないので、酒さけ肴さかなを出しまして、
清﹁是は手前の方の不調法から出来ました事でげすから、其のお代は戴きません、皆様へ御馳走の心得で﹂
乙﹁黙れ、不礼至極なことを云うな、御馳走なんて、汝てまえに酒しゅ肴こうを振舞って貰いたいから立腹致したと心得て居おるか、振舞って貰いたい下心で怒おこってる次第じゃアなえぞ﹂
清﹁いえその最はじ初まりは上げて置いて、あとで代を戴きます﹂
甲﹁汝てまえでは分らんもっと分る者を遣よこせ﹂
二階では織江殿も心配して居りますところへ、喜六が泣きながら昇あがってまいりました。
十二
喜六は力無げに二階へ上あがってまいり、
喜﹁はい御免下せえまし﹂
織﹁おゝ喜六か、是へ来い〳〵﹂
喜﹁はい、誠に何ともはア申訳のねえ事をしました、悪い奴にお包を奪とられて﹂
織﹁困ったものじゃアないか、何な故ぜ草履を懐へ入れて二階へ上ったのだよ、草履を懐へ入れて上へ昇あがるなどという事があるかえ﹂
喜﹁はい、田舎者で何も心得ませんから﹂
織﹁何も心得んとて、先方で立腹するところは尤もっともじゃアないか、喰くい物ものの中へ泥草履を投入れゝば、誰だって立腹致すのは当あた然りまえのことじゃ、それから何う致した﹂
喜﹁へえ、三人ながら意地の悪い奴が揃ってゝ、家来の不調法は主人の不調法だから、余よ所そ目めに見て二階に居ることはねえ、此こ処れへまいり、成り代って詫をしたら堪忍してくれると云いまして、お包を取上げましたから、渡すめえと確しっかり押えると、あんた傍に居た奴が私わしの頭を叩いて、無理やりに引ひっ奪たくられましたから、大切な物でも入へえって居おろうかと心配して居ります﹂
織﹁何も入って居らん空から風ぶろ呂し敷きではあるが、不調法をして詫をせずに置く訳にもいかん、手前の事から己が出ると、拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者でござると、斯う姓名を明かさんければならん、己の名前は兎も角も御主人の名を汚けがす事になっちゃア誠に済まん訳じゃアないか、手前は長く奉公しても山出しの習しぐ慣せが脱ぬけん男だ、誠に困ったもんだの﹂
喜﹁へえ、誠に困りました、然そうして私わしが頭ア五つくらしました﹂
織﹁打うたれながら勘定などをする奴が有りますか﹂
喜﹁余り口くや惜しゅうございます、中まん央なかにいた奴の叩くのが一番痛うござえました﹂
織﹁誠に困るの﹂
竹﹁お父とっさま、斯う致しましょうか、却かえって先方が食たべ酔よって居りますところへ貴方が入らっしゃいますより、私わたくしは女のことで取上げもいたすまいから、私が出て見ましょうか﹂
織﹁いや、己がいなければ宜よいが、己がいて其の方を出しては宜しくない﹂
竹﹇#﹁竹﹂は底本では﹁喜﹂﹈﹁いゝえ、喜六と私わたくしと二人で此こ処ゝへまいりました積りで、誠に不調法を致しましたと一言申したら宜かろうと存じます、のう喜六﹂
喜﹁はい、お嬢様が出れば屹きっ度と勘弁します、皆みんな助平そうなものばかりで﹂
織﹇#﹁織﹂は底本では﹁竹﹂﹈﹁こら、其そ様んなことを云うから物の間違になるんだ﹂
竹﹁じゃア二人の積りで宜いいかえ、私わたくしは手前を連れてお寺参りに来た積りで﹂
喜﹁どうか何分にも願います﹂
とお竹の後あとに附いて悄しお々〳〵と二階を下りる。此こち方らは益々哮たけり立って、
甲﹁さア何時までべん〳〵と棄置くのだ、二階へ折おり助すけが昇あがった限ぎり下りて来んが、さ、これを何う致すのだ﹂
と申して居おるところへお竹がまいり、しとやかに、
竹﹁御免遊ばしませ﹂
甲﹁へえお出でなさい、何どな方たさまで﹂
竹﹁只今は家来共が不調法をいたして申訳もない事で、何も存じません田舎者ゆえ、盗とられるとわるいと存じまして、草履を懐へ入れて居おって、つい不調法をいたし、御立腹をかけて何とも恐入ります、少し遅く成りましたから早く帰りませんと両親が案じますから、何なに卒とぞ御勘弁遊ばしまして、それは詰らん包ではございますが、これに成り代りまして私わたくしからお詫を致します事で﹂
甲﹁どうも是は恐入りましたね、是はどうも御自身にお出いでは恐入りましたね、誠にどうもお麗うるわしい事でありますな、へゝゝ、なに腹の立つ訳ではないが、ちょっと三人で花見という訳でもなく、ふらりと洗せん湯とうの帰り掛けに一口やっておる処で、へゝゝ﹂
竹﹁家来どもが不調法をいたし、嘸さぞ御立腹ではございましょうが……﹂
甲﹁いや貴方のおいでまでの事はないが、お出いで下されば千万有難いことで、何とも恐入りました、へゝゝ、ま一ひと盃つ召上れ﹂
と眼を細くしてお竹を見詰めて居りますから、一人が気をもみ、
乙﹁何だえ、仕方がないな、貴公ぐらい女を見ると惚のろい人間はないよ、女を見ると勘弁なり難い事でも直すぐにでれ〳〵と許してしまう、それも宜よいが、後あとの勘定を何うする、勘定をよ、前に親おや娘こ連づれで昇あがった立派な侍が二階に居いるじゃアないか、然しかるを女を詫によこすてえ次第があるかえ、其の廉かどを押したら宜かろう、勘定を何うするよ﹂
甲﹁うん成程、気が付かんだったが、前さきに昇あがっていたか、至極どうも御ごも尤っともだから然そう致そうじゃアないか﹂
丙﹁何だか分らんことを云ってる、兎に角御主人がお詫に来たから、それで宜いいじゃアないか、斯様な人ざかしい処で兎や斯う云えば貴公の恥お嬢様の辱はじになるから、甚だ見苦しいが拙宅へお招ぎ申して、一口差上げ、にっこり笑ってお別れにしたら宜よかろう﹂
甲﹁これは至極宜よろしい、宅たくは手狭だが、是なる者は拙者の朋とも友だちで、可なり宅うちも広いから、ちょっと一いっ献こん飲直してお別れと致しましょう﹂
と柔やさしい真白な手を真黒な穢きたない手で引ひっ張ぱったから、喜六は驚き、
喜﹁なにをする、お嬢様の手を引張って此の助平野郎﹂
甲﹁なに、此ん畜生﹂
と又騒動が大きくなりましたから、流さす石がの渡邊も弱って何うする事も出来ません。打うっ棄ちゃって密そっと逃げるなどというは武家の法にないから、困却を致して居りました。すると次の間に居りました客が出て参りました。黒の羽織に藍あい微みじ塵んの小袖を着き大小を差し、料理の入った折を提げて来まして、
浪人﹁えゝ卒そつ爾じながら手前は此の隣りん席せきに食事を致して、只今帰ろうと存じて居おると、何か御家来の少しの不調法を廉かどに取りまして、暴あら々〳〵しき事を申掛け、御迷惑の御様子、実は彼あ処れにて聞きゝ兼かねて居りましたが、如何にも相手が悪いから、お嬢様をお連れ遊ばして嘸さぞかし御迷惑でござろうとお察し申します、入らざる事と思おぼ召しめすかしらんが、尊公の代りに手前が出ましたら如いか何ゞで﹂
織﹁これは何なんともはや、折角の思召ではござるが、先方では柄えのない所へ柄をすげて申掛けを致すのだから、貴殿へ御迷惑が掛っては相済まん折角の御親切ではござるが、平ひらにお捨置きを願いたい﹂
浪人﹁いえ〳〵、手前は無むろ禄くむ無じゅ住うの者で、浪々の身の上、決して御心配には及びません、御ごし主ゅめ名いを明あかすのを甚ひどく御心配の御様子、誠に御無礼な事を申すようでござるが、お嬢様を手前の妹の積りにして、手前は不加減で二階に寝ていたとして詫入れゝば宜しい﹂
織﹁何ともそれでは恐入ります事で、併しかし御迷惑だ……﹂
浪﹁その御心配には及びませんから手前にお任せなされ﹂
と提ひっさげ刀で下へ下おりると、三人の悪わる浪ろう人にんはいよ〳〵哮たけり立って、吸物椀を投付けなど乱暴をして居ります所へ、
浪人﹁御免を……﹂
甲﹁何だ﹂
浪人﹁手前家来が不調法をいたしまして、妹がお詫に出ました由よし怪けしからん事で、女の身でお詫をいたし、却かえって御立腹を増すばかり、手前少々腹痛が致しまして、横になって居りまする内に、妹が罷まかり出て重々恐入りますが、何なに卒とぞ御勘弁を願います﹂
甲﹁むゝ、尊公は先さっ刻き此の方の吸物椀の中へ雪踏を投込んだ奴の御主人かえ﹂
浪﹁左様家来の粗相は主人が届かんゆえで有りますから、手前成り代ってお詫を致します、どうか御勘弁を願います、此かくの如く両手を突いてお詫を……﹂
甲﹁此こい奴つかえ〳〵﹂
乙﹁此こ者れじゃアなえよ、其そい奴つは前さきに昇あがっていた奴だ、もっと年を老とってる奴だア、此奴は彼あの娘へ諛おべっかに入って来たんだ、其そ様んな奴をなじらなくっちゃア仕様がねえ、えゝ始めて御意得ます、御尊名を承わりたいね……手前は谷たに山やま藤とう十じゅ郎うろうと申す至って武骨なのんだくれで、御家来の不調法にもせよ、主人が成代って詫をいたせば勘弁いたさんでもないが、斯かくの如く泥だらけになった物が喰えますかよ、此の汁が吸えるかえ﹂
と半分残っていた吸物椀を打ぶっ掛かけましたから、すっと味噌汁が流れました。流さす石が温和の仁も忽たちまち疳癖が高ぶりましたが、じっと耐こらえ、
浪﹁どうか御勘弁を願います、それゆえ身不肖ながら主人たる手前が成代ってお詫をいたすので、幾重にも此の通り……手を突く﹂
甲﹁手を突いたって不礼を働いた家来を此こっ方ちへ申し受けよう、然そうして此方の存じ寄にいたそう﹂
浪﹁それは貴方御無理と申すもの、何も心得ん山出しの老人ゆえ、相手になすった処がお恥辱になればとて誉れにもなりますまい、斬ったところが狗いぬを斬るも同様、御勘弁下さる訳には相成りませんか﹂
乙﹁ならんければ何ういたした﹂
浪﹁ならんければ致し方がない﹂
甲﹁斯う致そう、当こ家ゝでも迷惑をいたそうから、表へ出て、広々した飛鳥山の上にて果はた合しあいに及ぼう﹂
浪﹁何も果合いをする程の無礼を致した訳ではござらん﹂
甲﹁無いたって食くい物ものの中へ泥草履を投込んで置きながら﹂
浪﹁手前は此の通り病身で迚とてもお相手が出来ません﹂
甲﹁出来んなら尚宜しい、さ出ろ、病身結構だ、広々した飛鳥山へ出て華々しく果合いをしなせえ、最もう了簡罷まかりならん、篦べら棒ぼうめ﹂
と侍の面部へ唾を吐はき掛かけました。
十三
斯うなると幾ら柔和でも腹が立ちます、唾を吐き掛けられた時には物も云わず半はん手てぬ拭ぐいを出して顔を拭く内に、眼がきりゝと吊し上りました。相手の三人は酔っているから気が附きませんが、傍の人は直じき気が附きまして、
○﹁安やすさん出掛けよう、斯こんな処で酒を呑んでも身になりませんよ、彼あの位妹が出て謝って、御主人が塩あん梅ばいの悪いのに出て来て詫びているのに、酷ひどい事をするじゃアないか、汁を打ぶっ掛かけたばかりで誰でも大概怒おこっちまう、我慢してえるが今に始まるよ、怪我でも仕ねえ中うちに出掛けよう、他に逃げ処がないから往いこう〳〵﹂
△﹁折おりを然そう云ったっけが間に合わねえから、此の玉子焼に鰆さわらの照焼は紙を敷いて、手拭に包み、猪ちょ口こを二つばかり瞞ごまかして往ゆこう﹂
と皆逃にげ支じた度くをいたします。此こち方らの浪人は屹きっ度と身を構えまして、
浪﹁いよ〳〵御勘弁相あい成ならんとあれば止むを得ざる事で、表へ出てお相手になろう﹂
とずいと提ひっさげ刀がたなで立つと、他の者が之を見て。
○﹁泥棒ッ﹂
△﹁人殺しい〳〵﹂
と自分が斬られる訳ではないが、遽あわてゝ逃出すから、煙草盆を蹴けち散らかす、土瓶を踏ふみ毀こわすものがあり、料理代を払って往ゆく者は一人もありません、中に素早い者は料理番へ駈込んで鰆を三本担かつぎ出す奴があります。彼かの三人は真赤な顔をして、
甲﹁さ来い﹂
浪﹁然しからばお相手は致しますが、宜くお心を静めて御ごろ覧うじろ、さして御立腹のあるべき程の粗相でもないに、果はた合しあいに及んでは双方の恥辱になるが宜しいか﹂
乙﹁えゝ、やれ〳〵﹂
と何うしても肯ききません、酒の上で気が立って居ります、一人が握にぎ拳りこぶしを振って打掛るを早くも身をかわし、
浪﹁えい﹂
と逆に捻ねじ倒たおした手てな練みを見ると、余あとの二人がばら〳〵〳〵と逃げました。前に倒れた奴が口く惜やしいから又起上って組附いて来る処を、拳こぶしを固めて脇腹の三枚目︵芝居でいたす当あて身みをくわせるので︶余り食ったって旨いものでは有りません。
甲﹁うゝーん﹂
と倒れた、詰らんものを食ったので、見物の弥次馬が、
△﹁其そっ方ちへ二人逃げた、威張った野郎の癖に容ざまア見やアがれ、殴れ〳〵﹂
と何だか知りもしないのに無茶苦茶に草ぞう履り草わら鞋じを投付ける。
織﹁これ喜六、よくお礼を申せ﹂
喜﹁へえ、誠に有あり難がてえことで、初はじまりは心配して居りました、若もし貴方に怪我でもあらば仕様がねえから飛出そうと思ってやしたが、此の通りおっ死ちぬまで威張りアがって野郎﹂
二つ三つ打つを押おし止とめ、
浪﹁いや打ったって致し方がありません罪も報いもない此こや奴つを殺しても仕様がないから、御家来憚はゞかりだが彼あっ方ちで手桶を借り水を汲んで来て下さい﹂
喜﹁はい畏かしこまりました﹂
彼かの侍は其そ処こに倒れた浪人の双方の脇の下へ手を入れ、脇きょ肋うろくへ一いっ活かつ入れる。
甲﹁あっ……﹂
と息を吹ふき反かえす処へ水を打ぶっ掛かける。
甲﹁あっ〳〵〳〵……﹂
浪﹁其そ様んな弱い事じゃアいけません、果合いをなさるなら立上って尋常に華々しく﹂
甲﹁いえ〳〵誠に恐入りました、酔よいに乗じ甚はなはだ詰らん事を申して、お気に障ったら幾重にもお詫わびを致します、どうか御勘弁を願います﹂
喜﹁今度は詫るか、詫るというなら堪忍してやるが、弱え奴だな、己おらような年い老とった弱えもんだと馬鹿にして、三つも四つも殴りアがって、斯う云う旦那に捉つかまると魂たま消げてやアがる、我身を捻つねって他ひ人との痛さが分るだろう、初まりの二つは我慢が出来なかったぞ、己も殴るから然そう思え﹂
と握拳を固めてこん〳〵と続けて二つ打つ。
甲﹁誠に先程は御無礼で﹂
と這ほう々〳〵の体ていで逃げて行ゆくと、弥次馬に追おっ掛かけられて又打たれる、意い気く地じのない事。
織﹁どうか一ちょ寸っと旧もとの席へ、まア〳〵何どう卒ぞ…﹂
浪﹁いえ、些ちっと取急ぎますから﹂
織﹁でもござろうが﹂
と無理に旧もとの茶屋へ連戻り、上じょ座うざへ直し、慇いん懃ぎんに両手を突き、
織﹁斯かようの中ゆえ拙者の姓名等も申上げず、恐入りましたが、拙者は粂くめ野のみ美ま作さ守か家来渡邊織江と申す者、今こん日にち仏ぶっ参さんの帰かえ途りみち、是なる娘が飛鳥山の花を見たいと申すので連れまいり、図らず貴殿の御ごじ助ょり力きを得て無事に相納まり、何ともお礼の申上げようもござりません、併しかしどうも起きと倒うり流ゅうのお腕前お立派な事で感服いたしました、いずれ由よしあるお方と心得ます、御尊名をどうか﹂
浪﹁手てま前いは名もなき浪人でございます、いえ恐入ります、左様でございますか、実は拙者は松蔭大藏と申して、根岸の日暮が岡の脇の、乞食坂を下おりまして左へ折れた処に、見る蔭もない茅ぼう屋おくに佗わび住ずま居いを致して居ります、此の後ごとも幾久しく……﹂
織﹁左様で、あゝ惜しいお方さまで、只今のお身の上は﹂
大﹁誠に恥入りました儀でござるが、浪人の生たつ計き致し方なく売ばい卜ぼくを致して居ります﹂
織﹁売卜を……易を……成程惜しい事で﹂
喜﹁お前さまは売うら卜ない者しゃか、どうもえらいもんだね、売ばい卜ぼく者しゃだから負けるか負けねえかを占みて置いて掛るから大丈夫だ、誠に有難うござえました﹂
織﹁何いずれ御尊宅へお礼に出ます﹂
と宿しゅ所くしょ姓名を書付けて別れて帰ったのが縁となり、渡邊織江方へ松蔭大藏が入いり込こみ、遂に粂野美作守様へ取入って、どうか侍に成りたい念があって企たくんで致した罠にかゝり、渡邊織江の大難に成ります所のお話でございます。此の松蔭大藏と申す者は前に述べました通り、従前美作国津山の御城主松平越後様の家来で、宜よい役柄を勤めた人の子でありますが、浪人して図らず江戸表へ出てまいりましたが、彼かの權六とも馴染の事でございますゆえ、權六方へも再三訪れ、權六もまた大藏方へまいりまして、大藏は織江を存じておりますから喧嘩の仲な裁かへ入りました事でございます。屋敷へ帰っても物堅い渡邊織江ですから早く礼に往ゆかんければ気が済みませんので、お竹と喜六を伴つれ、結構な進物を携たずさえまして日暮ヶ岡へまいって見ると、売ばい卜ぼくの看板が出て居りますから、
織﹁あ此こ家れだ、喜六一ちょ寸っと其の玄関口で訪れて、松蔭大藏様というのは此こな方たかと云って伺ってみろ﹂
喜﹁はい畏かしこまりました、えゝお頼み申します〳〵﹂
大﹁ドーレ有ゆう助すけ何どな方たか取次があるぜ﹂
有﹁はい畏りました﹂
つか〳〵〳〵と出て来ました男は、少し小こい侠なせな男でございます。子こも持ちじ縞まの布ぬの子こを着て、無地小倉の帯を締め、千住の河原の煙草入を提げ、不ぶす粋いの打こし扮らえのようだが、もと江えど戸っ子こだから何ど処っか気が利いて居ります。
有﹁え、おいでなさえまし、何でござえます﹂
喜﹁えゝ松蔭大藏様と仰しゃるは此こち方らさまで﹂
有﹁え、松蔭は手前でござえますが、何か当とう用ようか身の上を御覧なさるなれば丁度今余り人も居ねえ処で宜しゅうござえます、ま、お上あがんなせえまし﹂
喜﹁いや、然そうじゃアござえません、旦那さまア此こち方らさまですと﹂
織﹁あい、御免くだされ﹂
と立派な侍が入って来ましたから、有助も少し容かたちを正して、
有﹁へえ、おいでなせえまし﹂
織﹁えゝ拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者、えゝ早々お礼に罷まかり出いずべきでござったが、主しゅ用よう繁多に就つき存じながら大きにお礼が延引いたしました、稍ようやく今こん日にち番ばん退びきの帰りに罷まか出りでました儀で、先生御在宅なれば目通りを致しとうござる﹂
有﹁はい畏りました……えゝ先生﹂
大﹁何だ﹂
有﹁何なんだか飛鳥山でお前さんがお助けなすった粂野美作守の御家来の渡邊織江とかいう人がお嬢さんを連れて礼に来ましたよ﹂
大﹁左様か直すぐに茶の良いのを入れて莨たば盆こぼん、に火を埋いけて、宜よいか己が出迎うから……いや是は〳〵どうか見苦しい処へ何とも恐入りました、どうか直にお通りを……﹂
織﹁今こん日にちは宜く御在宅で﹂
大﹁宜うこそ……是れはお嬢様も御一緒で、此の通りの手てぜ狭まで何とも恥入りましたことで、さ何なに卒とぞお通りを……﹂
織﹁えゝ御家来誠に恐入りましたが、一ちょ寸っとお台を……何でも宜しい、いえ〳〵其そ様んな大きな物でなくとも宜しい、これ〳〵其の包の大きな方を此こ処れへ﹂
と風呂敷を開ひらきまして、中から取出したは白しろ羽はぶ二た重え一匹に金子が十両と云っては、其の頃では大した進物で、これを大藏の前へ差出しました。
十四
尚も織江は慇いん懃ぎんに、
織﹁先ず御機嫌宜しゅう、えゝ過日は図らずも飛鳥山で何とも御迷惑をかけ、彼あの折おりはあゝいう場所でござって、碌々お礼も申上げることが出来んで、屋敷へ帰っても此こ娘れが又どうか早うお礼に出たいと申しまして、実に容易ならん御恩で、実に辱かたじけない事で、彼の折は主名を明すことも出来ず、怖い事も恐ろしい事もござらんが、女おん連なづれゆえ大きに心配いたし居りました、実に其の折は意外の御迷惑をかけまして誠に相済みません事で﹂
大﹁いえ〳〵何う致しまして、再度お礼では却かえって恐入ります、殊ことに御ごし親ん子しお揃いで斯様な処へおいでは何とも痛いた入みいりましてござる﹂
織﹁えゝ此こ品れは︵と盆へ載せた品を前へ出し︶﹇#﹁︶﹂は底本では脱落﹈何なんぞと存じましたが、御案内の通りで、下しも屋やし敷きから是までまいる間には何か調とゝのえます処もなく、殊に番ばん退ひけから間まを見て抜けて参りましたことで、広小路へでも出たら何ぞ有りましょうが、是は誠にほんの到来物で、粗末ではござるが、どうか御受納下さらば……﹂
大﹁いや是は恐入ったことで……斯様な御心配を戴く理わ由けもなし、お辞ことばのお礼で十分、どうか品物の所は御免を蒙こうむりとう、思おぼ召しめしだけ頂戴致す﹂
織﹁いえ、それは貴方の御気象、誠に御無礼な次第ではあるけれども、ほんのお礼のしるしまでゞございますから、どうかお受け下さるように……甚はなはだ何なんでござるが御ぎょ意いに適かなった色にでもお染めなすって、お召し下されば有難いことで、甚だ御無礼ではござるが……﹂
大﹁何なんともどうも恐入りました訳でござる然しからば折角の思おぼ召しめしゆえ此の羽二重だけは頂戴致しますが、只今の身の上では斯様な結構な品を購とるわけには迚とてもまいりません、併しかし此のお肴さか料なりょうとお記しるしの包は戴く訳にはまいりません﹂
織﹁左様でもござろうが、貴方が何なんでございますなら御奉公人にでもお遣つかわしなすって下さるように﹂
大﹁それは誠に恐入ります、嬢さま誠に何とも……﹂
竹﹁いえ親共と早くお礼に上あがりたいと申し暮し、私わたくしも種いろ々〳〵心ならず居りましたが、何分にも番がせわしく、それ故大きに遅れました、彼あの節は何ともお礼の申そうようもございません、喜六やお前一ちょ寸っと此こち方らへ出て、宜くお礼を﹂
喜﹁はい旦那さま、彼あの折おりは何ともはアお礼の云う様ようもござえません、私わしなんざアこれもう六十四になりますから、何もこれ彼あい奴つ等らに打ぶち殺ころされても命の惜おしいわけはなし、只私の不調法から旦那様の御名義ばかりじゃアねえ、お屋敷のお名前まで出るような事があっちゃア済まねえと覚悟を極めて、私一人打ぶっ殺ころされたら事が済もうと思ってる所へ、旦那様が出て何ともはアお礼の申もうしようはありません、見掛けは綺麗な優しげな、力も何もねえようなお前様が、大の野郎を打うち殺ころしただから、お侍は異ちがったものだと噂をして居りました﹂
大﹁然そう云われては却かえって困る、これは御奉公人で﹂
喜﹁はい私わしア何なんでござえます、お嬢さまが五いつ才ゝの時から御奉公をして居り、長ながえ間これ十五年もお附き申していますからお馴なじ染みでがす、彼あの時お酒が一口出たもんだから、お供だで少し加減をすれば宜かったが、急いで飲やっつけたで、えら腹が空へったから、二合出たのを皆みな酌くん飲のんじまい、酔ぱらいになって、つい身体が横になったところから不調法をして、旦那様に御迷惑をかけましたが、先生さまのお蔭さまで助かりましたは、何ともお礼の申上げようはござえません﹂
織﹁えゝ今こん日にちは直すぐにお暇いとまを﹂
大﹁何はなくとも折角の御ごじ入ゅう来らい、素もとより斯様な茅ぼう屋おくなれば別に差さし上あげるようなお下さか物なもありませんが、一ちょ寸っと詰らん支度を申し付けて置きましたから、一口上ってお帰りを﹂
織﹁いや思おぼ召しめしは辱かたじけないが、今こん日にちは少々急ぎますから、併しかし貴方様はお品格といい、先せん達だって三人を相手になすったお腕前は余程武芸の道もお心懸け、御熟練と御無礼ながら存じました、どうか承わりますれば新規お抱えに相成った權六と申す者と前々から知るお間柄ということを一寸屋敷で聞きましたが、御ごし生ょう国こくは矢やは張り美作で﹂
大﹁はい、手前は津山の越後守家来で、父は松蔭大之進と申して、聊いさゝか高も取りました者でござるが、父に少し届かん所がありまして、お暇いとまになりまして、暫しばらくの間黒くろ戸との方へまいって居り又は權六の居りました村方にも居りました、それゆえに彼あれとは知る仲でございます﹂
織﹁実にどうも貴方は惜おしいことで、大概忠臣二君に事つかえずと云う堅い御気象であらっしゃるから、立派な処から抱えられても、再び主しゅうは持たんというところの御決心でござるか﹂
大﹁いえ〳〵二君に仕つかえんなどと申すは立派な武士の申すことで、どうか斯うやって店たな借がりを致して、売ばい卜ぼく者しゃで生涯朽くち果はてるも心外なことで、仮たと令え何ど様んな下役小禄でも主しゅ取うとりをして家名を立てたい心こゝ懸ろがけもござりますが、これという知しる己べもなく、手てづ蔓ると等うもないことで、先せん達だって權六に会いまして、これ〳〵だと承わり、お前は羨うらやましい事で、遠山の苗字を継いでもと米こめ搗つきをしていた身の上の者が大たい禄ろくを取るようになったも、全くお前の心こゝ懸ろがけが良いので自然に左様な事になったので、拙者などは早く親に別れるくらいな不幸の生れゆえ、とても然そういう身の上には成れんが、何ど様んな処でも宜しいから再び武家になりたい、口が有ったら世話をしてくれんかと權六にも頼んで置きましたくらいで、何どの様な小禄の旗はた下もとでも宜しいが、お手蔓があるならば、どうか御推挙を願いたい、此の儀は權六にも頼んで置おきましたが、御重役の尊公定めしお交つき際あいもお広いことゝ心得ますから﹂
織﹁承知致しました、えゝ宜しい、いや実に昔は何か貞女両夫に見まみえずの教訓を守って居りましたが、却かえってそれでは御先祖へ対しても不孝にも相成ること、拙者主人美みま作さ守かは小禄でござるけれども、拙者これから屋敷へ立帰って主人へも話をいたしましょう、貴方の御器量は拙者は宜く承知しておるが、家老共は未まだ知らんことゆえ、始めから貴方が越後様においでの時のように大禄という訳にはまいりません、小禄でも宜しくば心配をして御推挙いたしましょう﹂
大﹁どうもそれは辱かたじけない事で﹂
と是から互に酒を飲合って、快く其の日は別れましたが、妙な物で、助けられた恩が有るゆえ、織江が種いろ々〳〵周旋いたしたところから、丁度十日目に松蔭大藏の許もとへお召めし状じょうが到来致しましたことで、大藏披ひらいて見ると。
御面談申度 儀有之候 間明 十一日朝五つ時当屋敷へ御入来 有之候様 美作守 申付候此段得御意 候以上
美作守内[#地付き、地より8字アキ]
三月十日寺島兵庫
松蔭大藏殿
という文面で、文ふば箱こに入って参りましたから、当人の悦びは一通りでございません、先ず請うけ書しょをいたし、是から急に支度にかゝり、小こざ清っぱ潔りした紋付の着物が無ければなりません、紋が少し異ちがっていても宜い、昌しょ平うへいに描かかせても直じきに出来るだろうが、今日一日のことだからと有助を駈けさせて買いに遣つかわし、大小は素もとより用たし意なみがありますから之を佩さして、翌よく朝あさの五つ時に虎の門のお上かみ屋やし敷きへまいりますと、御門番には予かねて其の筋から通知がしてありますから、大藏を中の口へ通し中の口から書院へ通しました。
十五
御書院の正面には家老寺嶋兵庫、お留守居渡邊織江其の外お目附列座で新規お抱えのことを言渡し、拾俵五人扶持を下くだし置かるゝ旨のお書付を渡されました。其のお書付には高たか拾俵五人扶持と筆太に書いて、宛名は隅の方へ小さく記してござります。織江から来きたる十五日御登城の節お通り掛けお目見え仰おお付せつけらるゝ旨、且かつ上屋敷に於てお長なが家やを下し置かるゝ旨をも併あわせて達しましたので、大藏は有難きよしのお受うけをして拝領の長家へ下さがりました。織江が飛鳥山で世話になった恩返しの心で、御不自由だろうから是もお持ちなさい、彼あれもお持ちなさいと種いろ々〳〵な品物を送ってくれたので、大藏は有難く心得て居りました。其の中うち十五日がまいると、朝五つ時の御登城で、其の日大藏は麻あさ上がみ下しもでお廊下に控えていると、軈やがてごそり〳〵と申す麻上下と足の音がいたす、平伏をする、というのでお目見えというから読んで字の如く目で見るのかと存じますと、足音を聞くばかり、寧むしろお足音拝聴と申す方が適当であるかと存じます。併しかし当その時ころでは是すら容易に出来ませんことで、先ず滞とゞこおりなくお目見えも済み、是から重役の宅を廻かい勤きんいたすことで、是これ等らは総すべて渡邊織江の指図でございますが、羽振の宜よい渡邊織江の引力でございますから、自おのずから人の用いも宜しゅうございますが、新参のことで、谷中のお下しも屋やし敷きづ詰めを申付けられました。始はじまりはお屋敷外そとを槍持六尺棒持を連れて見廻らんければなりません、槍持は仲ちゅ間うげ部んべ屋やから出ます、棒持の方は足軽部屋から出でて﹇#﹁出でて﹂は底本では﹁出でで﹂﹈、甃い石しの処をとん〳〵とん〳〵敲たゝいて歩あるく、余り宜いい役ではありません、芝居で演じましても上等役者は致しません所の役で、それでも拾俵の高たか持もちになりました。所が大藏如才ない人で、品格があって弁舌愛敬がありまして、一ちょ寸っという一ひと言ことに人を感心させるのが得意でございますから、家かち中ゅう一般の評判が宜しく、
甲﹁流さす石がは渡邊氏うじの見みた立てだ、あれは拾俵では安い、百石がものはあるよ﹂
乙﹁いゝえ何なんでげす、家老や用人よりは中々腕前が良いそうだが、全体彼あれを家老にしたら宜かろう﹂
などと種いろ々〳〵なことを云います。大藏は素もとより気が利いて居りますから、雨でも降るとか雪でも降ります時には、部屋へ来まして
大﹁一いっ盃ぱい飲むが宜よい、今こん日にちは雪が降って寒いから巡おま検わりは私わし一人で廻ろう、なに槍持ばかりで宜しい、此の雪では誰も通るまいから咎める者も無かろう、私一人で宜しい、これで一盃飲んでくれ﹂
と金かねびらを切りまして、誠に手当が届くから、寄ると触ると大藏の評判で、
甲﹁野のが上みイ﹂
乙﹁えゝ﹂
甲﹁今度新規お抱えになった松蔭様はえらいお方だね﹂
乙﹁彼あれは別だね一ちょ寸っと来ても寒かろう、一盃飲んだら宜かろうと、仮たと令え二百でも三百でも銭を投出して目鼻の明く処は、どうも苦労した人は違うな、一体御当家様よりは立派な大名の御家来で立派なお方が貧乏して困って苦労した人だから、物が届いている、感心な事だ、夜よは寒いから止せ〳〵と御自分ばかりで見廻りをして勤めに怠りはない、それから見ると此こち方と等らは寝たがってばかりいて扨さて仕様がないの﹂
甲﹁本当にどうも……おゝ噂をすれば影とやらで、おいでなすった﹂
と仲ちゅ間うげ共んどもは大藏を見まして、
﹁えゝどうもお寒うございます﹂
大﹁あゝ大きに御苦労だが、又廻りの刻限が来たから往ってもらわなければならん、昼間お客きゃ来くらいで又また遺おと失しも物のでもあるといかんから、仁にす助け私わしが一人で見廻ろう、雪がちらちらと来たようだから﹂
仁﹁成程降って来ましたね﹂
大﹁よほど降って来たな、提ちょ灯うちんも別に要いるまい、廻りさえすれば宜よいのだ、私わしは新役だからこれが務つとめで、貴様達は私に連れられる身の上だ、殊ことに一人や二人狼藉者が出ても取って押えるだけの力はある、といって何も誇るわけではないが、此の雪の降るに、連れて往いかれるのも迷惑だろうから﹂
仁﹁面目次第もありませんが、此こち方と等らは狼藉者でも出ると、真まっ先さきに逃出し、悪くすると石へ蹴つまずいて膝ア毀こわすたちでありますよ、恐入りますな﹂
大﹁御ごか家ちゅ中うで万事に心こゝ附ろづきのある方は渡邊殿と秋月殿である、寒かろうから寒さ凌しのぎに酒を用いたら宜かろうと云って、御ごし酒ゅを下すったが、斯様な結構な酒はお下屋敷にはないから、此の通り徳とく利りを提げて来た、一升ばかり分けてやろう別に下さか物なはないから、此こ銭れで何ぞ嗜すきな物を買って、夜よそ蕎ば麦う売りが来たら窓から買え﹂
仁﹁恐れ入りましたな、何ともお礼の申そうようはございません、毎いつもお噂ばかり申しております実に余り十分過ぎまして……﹂
大﹁雪が甚ひどく降るので手前達も難儀だろう、私わし一人で宜しい提灯と赤合羽を貸せ〳〵﹂
と竹の饅頭笠を被かぶり、提灯を提げ、一人で窃ひそかに廻りましたが却かえってどか〳〵多おお勢ぜいで廻ると盗賊は逃げますが、窃かに廻ると盗賊も油断して居りますから、却って取押えることがあります。無提灯でのそ〳〵一人で歩くのは結句用心になります。或日お客来で御殿の方は混雑致しています時、大藏が長なが局つぼねの塀の外を一人で窃かに廻ってまいりますと、沢山ではありませんが、ちら〳〵と雪が顔へ当り、なか〳〵寒うござります、雪も降止みそうで、風がフッと吹込む途端、提灯の火が消えましたから、
大﹁あゝ困ったもの﹂
と後あとへ退さがると、長局の板塀の外に立って居る人があります。無地の頭ずき巾んを目まぶ深かに被りまして、塀に身を寄せて、小長い刀を一本差し、小しょ刀うとうは付けているかいないか判はっ然きり分りませんが、鞘の光りが見えます。
大﹁はてな﹂
と大藏は後あとへ退さがって様子を見ていました。すると三尺の開ひら口きぐちがギイーと開あき、内から出て来ました女はお小姓姿、文ぶん金きんの高たか髷まげ、模様は確しかと分りませんが、華は美でな振袖で、大やま和とに錦しきの帯を締め、はこせこと云うものを帯へ挟んで居ります。器量も判はっ然きり分りませんが、只色の真まっ白しろいだけは分ります。大藏は心の中うちで、ヤア女が出たな、お客来の時分に芸人を呼ぶと、毎いつも下屋敷のお女中方が附いて来るが、是は上屋敷の女中かしらん、はてな何うして出たろう、此の掟の厳しいのに、今こん日にちのお客来で御おく蔵らから道具を出だし入いれするお掃除番が、粗そこ忽つで此の締りを開けて置いたかしらん、何にしろ怪けしからん事だと、段々側へ来て見ますと、塀へい外そとに今の男が立って居りますからハヽア、さてはお側近く勤むる侍と奥を勤めるお女中と密通をいたして居おるのではないかと存じましたから、後あとへ退さがって息を屏ころして、密そっと見て居りますと、彼かの女は四あた辺りをきょろ〳〵見廻しまして声を潜め、
女﹁春はる部べさま、春部さま﹂
春﹁シッ〳〵、声を出してはなりません﹂
と制しました。
十六
お小姓姿の美しい者が眼に涙を浮うかめまして、
女﹁貴方まア私わたくしから幾いく許らお文ふみを上げましても一度もお返辞のないのはあんまりだと存じます、貴方はもう亀かめ井い戸どの事をお忘れ遊ばしたか、私はそればっかり存じて居りますけれども、掟が厳しいのでお目通りを致すことも出来ませんでしたが、今晩は宜よい間まにお目に懸れました﹂
春﹁他ひとに知れてはならんが、今夜は雪が降って来たので、廻りの者も自然役目を怠って、余りちょん〳〵叩いて廻らんようだが、先さっ刻きちょいと合図をしたから、ひょっと出て来ようと存じてまいったが、此の事が伯父に知れた日にア実に困るから、他ひとに知れんようにして私わしも会いたいと思うから、来年三月宿やど下さがりの折に、又例の亀井戸の巴とも屋えやで緩ゆっくり話を致しましょう﹂
女﹁宿やど下さがりの時と仰しゃっても、本当に七夕様のようでございますね、一年に一度しきゃアお目通りが出来ないのかと思いますと、此の頃では貴方の夢ばかり見て居りますよ、私わたくしは思いの儘なことを書いて置きましたから、これを篤とっくり見て下されば分りましょう、私の身にかゝる事がございますからお持ち遊ばせ﹂
と渡す途端に後うしろから突だし然ぬけに大声で、
大﹁火の廻り﹂
という。二人は恟びっくり致しまして、後あとへ退のき、女は慌あわてゝ開き戸を締めて奥へ行ゆく。彼かの春部という若侍も同じく慌てゝお馬場口の方へ遁にげて行く。大藏は密そっと後あとへ廻って、三尺の開ひら戸きどを見ますと、慌てゝ締めずにまいったから、戸がばた〳〵煽あおるが、外から締りは附けられませんから石を支かって置きまして、独ひと言りごとに、
大﹁困ったな、女が手紙を出したようだが、男の方で取ろうという処を、己が大きな声で呶ど鳴なったから、驚いたものか文を落して行った、これは宜よい物が手に入いった﹂
と懐へ入れて詰所へ帰り、是から同役と交代になります。
大﹁此の手紙をいつぞは用に立てよう﹂
と待ちに待って居りました。彼かの春部というものは、お小姓頭を勤め十五石三人扶持を領し、秋月の甥おいで、梅うめ三さぶ郎ろうという者でございます。お目附の甥だけに羽振が宜しく、お父とっさまは平へい馬まという。梅三郎は評判の美びな男んで、婀あ娜だな、ひんなりとした、芝居でいたせば家かき橘つか上のぼりの菊の助でも致しそうな好いゝ男おとこで、丁度其の月の二十八日、春部梅三郎は非番のことだから、用よう達たし旁かた々〴〵というので、根津の下屋敷を出まして、上野の広小路で買物をいたし、今山下の袴はか腰まごしの方へ掛ろうとする後うしろから、松蔭大藏が声をかけ
大﹁もし〳〵春部さま〳〵﹂
梅﹁あい、これは大藏殿かえ﹂
大﹁へえ、今こん日にちは好よいお天気になりました、お非番でげすか﹂
梅﹁あゝ幸い非番ゆえ浅草へでもまいろうかと思う﹂
大﹁へえ私わたくしも今こん日にちは非番で、ま別に知しる己べもありませんし、未まだ当地の様子も不ふな慣れでございますから、道を覚えて置かなければなりません、切せめて小梅のお中屋敷へまいる道だけでも覚えようと存じて、浅草から小梅の方へまいろうと存じまして、実は頼たの合みあわせてまいりました﹂
梅﹁然そうかえ、三さん作さくはお前の相あい役やくだね﹂
大﹁へえ左様でござります、えゝ春部さま、貴方少々伺いたい儀がござりますが、決してお手間は取らせませんから、あの無むき極ょく庵あん︵有名の蕎そ麦ば店や︶まで、えへ貴方少々御馳走に差上げるというは甚はなはだ御無礼な儀でござりますが、一ちょ寸っと伺いたい儀がござりますから、お急ぎでなければ無極の二階までおいでを願います﹂
梅﹁別に急ぎも致さんが、何か馳走をされては困ります、お前は大だい分ぶ下役の者へ馳走をして振舞うという噂があるが余り新役中に華は美でな事をせんが宜よいと伯父も心配しています﹂
大﹁へえ、毎度秋月さま渡邊さまのお引立に因よりまして、不肖の私わたくしが身に余る重役を仰付けられ、誠に有難いことで決してお手間は取らせませんから﹂
梅﹁いや又にいたそう﹂
大﹁どうか甚だ御ごむ無れ礼いでございますが何どう卒ぞ願います、少々お屋敷の御家風の事に就ついて伺いたい儀がございます﹂
梅﹁左様か﹂
と素もとより温厚の人でございますから、強たってと云うので、是から無極の二階へ通りました。追々誂あつ物らえものの肴が出てまいりましたから、
大﹁女中今少しお話し申す事があるから、誰も此こ処ゝへ参らんようにしてくれ、用があれば手を拍うって呼ぶから﹂
女中﹁はい、左様なれば此処を閉めましょうか﹂
大﹁いや、それは宜しい……えゝお急ぎの処をお引留め申して何とも恐入りました﹂
梅﹁あい何だえ、私わしに聞きたい事というのは﹂
大﹁えゝ、外でもござりませんが、お屋敷の御家風に就て伺いたい儀がござる、それと申すも拙者は何事も御家風を心得ません不ふな慣れの身の上にて、斯様な役やく向むきを仰付けられ、身に余りて辱かたじけない事と存じながら、慾には限りのないもので、何どの様にも拙者身体の続くだけは御奉公致します了簡なれども、上役のお引立が無ければ迚とても新しん参ざん者ものなどは出世が出来ません、渡邊殿は別段御贔屓を下さいますが、貴方の伯父御さまの秋月さまは未だ染しみ々〴〵お言葉を戴きました事もないゆえ、大藏疾とうより心懸けて居りますが、手蔓はなし、拠よんどころなく今こん日にち迄打過ぎましたが、春部様からお声がゝりを願い、秋月様へお目通りを願いまして、お上かみへ宜しくお執とり成なしを願いますれば拙者も慾ばかりではござらん、先祖へ対して此の上ない孝道かと存じますで、どうぞ伯父上へ貴方様から宜しく御推挙を願いたい﹂
梅﹁いや、それはお前無理だ、よく考えて見なさいお前は何か腕前が善よいとか文ぶん道どうにも達して居おるとか、又品格といい応対といい、立派な侍の胤たねだけあって流さす石がだと家中の評も宜しいが、何ぞ功がなければ出世は出来ん、其の功と云うは他ひとに勝すぐれた事があるとか、或あるいは屋敷に狼藉でも忍しの入びいった時に取押えたとか何かなければ迚とてもいかんが、如何に伯父甥の間柄でも、伯父に頼んで無理にあゝしてくれ、斯うしてくれと云っては依え怙この沙汰になって、それでは伯父も済まん訳だから、然そういう事で私わしを此こ処れへ呼び寄せて、お前が馳走をして引ひき立たてを願うと云って、酒などを飲ましてくれちゃ誠に困る、斯様な事が伯父に知れると叱られますから御免……﹂
と云い棄てゝ立上る袖を押えて、
大﹁暫くお待ちを……此の身の出世ばかりでなく、斯かく申す大藏も聊いさゝかお屋敷へ対して功がござる、それゆえ強しいて願いますわけで﹂
梅﹁功が有れば宜しい、何ういう功だ﹂
大﹁愚ぐま昧いの者にて何事も分りませんが、お屋敷の御家風は何ういう事でござろうか、罪の軽けい重じゅうを心得ませんが、先ず御家中内に罪あるものがござります時に、重き罪を軽く計らう方が宜しいか、罪は罪だから其の悪事だけの罪に罰するが宜しいか、私わたくし心得のために承知をして置きとうござる﹂
梅﹁それは罪を犯したる者の次第にも因よりましょうけれども、上かみたる者は下したの者の罪は減じ得られるだけ軽くして、命を助けんければならん﹂
大﹁それは然そうあるべき事で、若もし貴方の御家来が貴方に対して不忠な事を致しまして、手討に致すべき奴を手討にせんければならん時、手討に致した方が宜しいか、但しお助けなすって門前払いにいたし、永ながのお暇いとまを出された方がお宜しいか﹂
梅﹁其そ様んな事は云わんでも知れて居る、斬る程の罪を犯し、斬るべきところを助け、永の暇と云って聊いさゝか手当をいたして暇を遣つかわす、是が主しゅ従うじゅうの情というもので、云うに云われん処が有るのじゃ﹂
十七
大藏は感心した風ふうをして聞き了おわり、
大﹁成程甚だ恐入りますが、殿様も誠に御ごじ仁ん慈じ厚く、また御重役方も皆真しんに智ちじ仁んのお方々だという事を承わって居りますが、拙者はな、お屋敷内ないに罪あるもので、既にお手討にもなるべき者を助けました事が一ひと廉かどございます、此の廉を以てお執とり成なしを願います﹂
梅﹁むゝ、何ういう理わ由けで、人は誰だね﹂
大﹁えゝ疾とうより此の密書が拙者の手に入って居りますが、余よじ人んに見せては相成らんと、貴方の御心中を看みや破ぶって申し上げます、どうか罪に陥らんようにお取計いを願いとうござる﹂
梅﹁何だ、密書と云えば容易ならん事だ﹂
と手に取って見て驚きましたも道理で、いつぞや若江から自分へ贈った艶書であるから、かっと赤面致しましたが、色の白い人が赧あかくなったので、そりアどうも牡ぼた丹んへ電灯を映かけたように、どうも美しい好いい男で、暫く下を向いて何も云えません。大藏少し膝を進ませまして、
大﹁是は私わたくしの功かと存じます、此の功によってお引立を願いとう存じます、只出世を致したいばかりではないが、拙者前ぜんに津山に於おいて親父は二百四十石領とりました、松蔭大之進の家に生れた侍の胤たね、唯今ではお目見得已いじ上ょうと申しても、お通り掛けお目見えで、拙者方かたでは尊顔を見上ぐる事も出来ませんから、折々お側へ罷まか出りいでお目通りをし尊顔を見覚えるように相成りたいで﹂
梅﹁いや伯父に宜よく然そう云いましょう、秋月に宜く云えば心配有りません、屹きっ度と伯父に話をします、貴公の心掛けを誠に感心したから﹂
大﹁それは千万辱かたじけない、其のお言葉は決して反ほ故ごには相成りますまい﹂
梅﹁武士に二言はありません﹂
大﹁へえ辱けない﹂
春部梅三郎は真っ赤に成って、彼かの文を懐に入れ其の儘表へ駈出すを送り出し、広小路の方へ行ゆく後うし姿ろすがたを見送って、にやりと苦笑いをしたは、松蔭大藏という奴、余程横着者でございます。扨さて其の歳の暮に春部梅三郎が何ういう執とり成なしを致しましたか、伯父秋月へ話し込むと、秋月が渡邊織江の処へまいりまして相談致すと、素もとより推挙致したのは渡邊でございますが、自分は飛鳥山で大藏に恩になって居りますから、片かた贔びい屓きになるようで却かえって当人のためにならんからと云って、扣ひかえ目にして居りますと、秋月の引立で御ごぜ前んて体いへ執とり成なしを致しましたから、急に其の暮松蔭大藏は五十石取になり、御ごき近んじ習ゅうお小こな納ん戸ど兼勤を仰付けられました。御おへ部や屋ず住みの前次様のお附き元締兼勤を仰付けられました。此の前次様は前ぜん申し述べました通り、武張ったお方で武芸に達した者を手許に置きたいというので、御当主へお願い立たてでお貰い受けになりましたので、お上かみ邸やしきと違ってお長なが家やも広いのを頂戴致す事になり、重役の気受けも宜しく、男が好よくって程が善いいから老女や中老までも誉ほめそやし、
○﹁本当にえらいお人で、手も能よく書く、力も強く、他ひとは否いやに諂へつらうなどと申すが、然そうでない、真実愛敬のある人で、私わたくしが此の間会った時にこれ〳〵云って、彼は誠の侍でどうも忠義一いち途ずの人であります﹂
と勤務が堅いから忽たちまち評判が高くなりました。乃そこで有助という、根岸にいた時分に使った者を下男に致しまして、新規に林りん藏ぞうという男を置きました。これは屋敷奉公に慣れた者を若党に致しましたので、また男ばかりでは不自由だから、何ぞ手ても許とづ使かいや勝かっ手ても許とを働く者がなければなりませんから、方々へ周旋を頼んで置きますと、渡邊織江の家来船ふな上がみ忠ちゅ助うすけという者の妹お菊きくというて、もと駒こま込ごめ片かた町まちに居り、当時本ほん郷ごう春はる木きち町ょうにいる木きぐ具やい屋わ岩き吉ちの娘がありました。今年十八で器量はよし柔和ではあり、恩人織江の口くち入いれでありますから、早速其の者を召抱えて使いました。大藏は物事が行ゆき届とゞき、優しくって言葉の内に愛敬があって、家来の麁そそ相うなどは知っても咎とがめませんから、家来になった者は誠に幸いで、屋敷中の評判が段々高くなって来ました。折しも殿様が御病気で、次第に重くなりました。只今で申しますと心臓病とでも申しますか、どうも宜しくない事がございます。只今ならば空気の好よい処とか、樹木の沢山あります処を御覧なすったら宜かろうというので、大磯とか箱根とかへお出いでが出来ますが、其の頃では然そうはまいりません。然しかるに奥様は松まつ平だい和らい泉ずみ守のかみさまからお輿こし入いれになりましたが、四五年前ぜんにお逝かく去れになり、其の前まえから居りましたのはお秋あきという側めか室けで、これは駒込白はく山さんに住む山やま路じそ宗うあ庵んと申す町医の娘を奥方から勧めて進ぜられたので、其の頃諸侯の側めか室けは奥様から進ぜらるゝ事でございますが、今は然そういう事はないことで、旦那様が妾を抱えようと仰しゃると、少しつんと遊ばしまして、私わたくしは箱根へ湯治に往ゆきますとか何とか仰しゃいますが其の頃は固いもので、奥様の方から無理に勧めて置いたお秋様が挙もうけました若様が、お三みっ歳つという時に奥様がお逝か去くれになりましたから、お秋様はお上かみ通どおりと成り、お秋の方という。側めか室けが出世をいたしますと、お上通りと成り、方かた名なが附きます。よく殿方が腹は借かり物ものだ良い胤たねを下おろす、只胤を取るためだと軍しゃ鶏もじゃア有るまいし、胤を取るという事はありません造ぞう化かき機ろ論んを拝見しても解って居りますが、お秋の方は羽振が宜しいから、御家来の内うち二ふた派はに分れ、若様の方を贔ひい屓きいたすものと、御舎弟前次様を贔屓いたす者とが出来て、お屋敷に騒動の起ることは本にもあれば義太夫にも作って有ります。前次様は通称を紋之丞さまと仰せられ、武張った方で、少しも色気などは無く、疳かん癖ぺきが起るとつか〳〵〳〵と物を仰しゃいます。お秋の方も時としては甚ひどく何か云われる事があり、御家来衆も苛ひどく云われるところから、
甲﹁紋之丞様を御相続としては御勇気に過ぎて実に困る、あの疳癖では迚とても治らん、勇ばかりで治まるわけのものではない、殿様は御病身なれば、万一お逝かく去れになったらお秋殿のお胤の若様を御相続とすればお屋敷は安泰な事である﹂
とこそ〳〵若様附の御家来は相談をいたすとは悪いことでございますが、紋之丞様を無い者に仕ようという、ない者というのは殺してしまうと云うので、昔はよく毒薬を盛るという事がありました。随分お大名にありました話で、只今なればモルヒネなどという劇剤もありますが、其の時分には何か鴆ちん毒どくとか、或あるいは舶来の石よせきぐらいのところが、毒の劇はげしいところです。彼かの松蔭大藏は智慧が有って、一家中の羽振が宜くって、物の決断は良よいし、彼を抱込めば宜よいと寺島兵庫と申す重役が、松蔭大藏を抱込むと、松蔭は得たりと請合って、
大﹁十分事を仕しお遂おせました時には、どうか拙者にこれ〳〵の望のぞみがございますが、お叶かなえ下さいますか﹂
寺﹁委細承知致した、然しからば血判を﹂
大﹁宜しい﹂
と是から血を出し、我わが姓名の下へ捺おすとは痛ひどい事をしたもので、ちょいと切って、えゝと捺やるので、忌いやな事であります。只今は血を見る事をお嫌いなさるが、其の頃は動やゝともすれば血判だの、迚とても立たち行ゆきが出来んから切腹致すの、武士道が相立たん自殺致すなどと申したもので、寺島松蔭等らの反逆も悉すっ皆ぱり下した組ぐみの相談が出来て、明和の四年に相成りました。其の年の秋までに謀たく策みを仕しお遂おせるのに一番むずかしいものは、浮うき舟ふねという老女で年は五十四で、男おと優こまさりの尋ひと常ゝおりならんものが属ついて居ります。此こ者れを手に入れんければなりません。此者と物堅い渡邊織江の両人を何うかして手に入れんけりゃアならんが、これ〳〵と渡邊に打明けていう訳にはいかずと、云えば直すぐに殺されるか、刺違えて死しに兼かねぬ忠義無むる類いの極ごく頑かた固くなな老おや爺じでございますから、これを亡ないものにせんけりアなりません。
十八
老女も中々の才物ではございますが、女だけに遂に大藏の弁舌に説とき附つけられました。此の説附けました事は猥わい褻せつに渉わたりますから、唯説附けたと致して置おきましょう。扨さて此の一味の者がいよ〳〵毒殺という事に決しまして、毒薬調合の工夫は有るまいかと考えて居りますと御案内の通り明和の三年は関東洪水でございまして、四年には山陽道に大水が出て、二年洪水が続き、何ど処ことなく湿気ますので、季候が不順のところから、流はや行り感か冐ぜインフルエンザと申すような悪い病が流は行やって、人が大層死にましたところが、お扣ひかえの前次様も矢張流行感冐に罹かゝられました処、段々重くなるので、お医者方が種いろ々〳〵心配して居りますが、勇気のお方ゆえ我慢をなすって押しておいでので﹇#﹁おいでなので﹂の誤記か﹈いけません、風邪を押おし損そこなったら仕方がない、九段坂を昇ろうとする荷車見たように後あとへも前さきへも往ゆけません。とうとう藤本の寄席へ材木を押込むような事が出来ます。こゝで大藏がお秋の方の実父山路宗庵は町医でこそあれ、古こほ方う家かの上手でありますから、手に手を尽して山路をお抱えになすったら如いか何ゞと申す評議になりますと、秋月は忠義な人でございますから、それは怪けしからん事、他から医を入れる事は容易ならん事にて、お薬を一々毒味をして差上げる故に、医は従来のお医者か然さも無くば匙さじでも願うが宜いと申して承知致しませんから、如いか何ゞ致したら宜かろうと思っていました。すると九月十日に、駒込白山前に小こが金ねや屋げ源ん兵べ衞えという飴屋があります、若様のお少ちいさい時分お咳が出ますと水飴を上げ、又はお風邪でこん〳〵お咳が出ると水飴を上ります。こゝで神かん原ばら五ごろ郎う治じと神かん原ばら四しろ郎う治じ兄弟の者と大藏と三人打寄り、額ひたえを集め鼎みつ足がなわで談はなしを致しました時に、人を遠ざけ、立聞きを致さんように襖障子を開あけ広ひろげて、向うから来る人の見えるようにして、飴屋の亭主を呼出しました。
源﹁えゝ今こん日にちお召によって取とり敢あえず罷まかり出ました、御殿へ出ます心得でありましたが、御当家さまへ出ました﹂
大﹁いや〳〵御殿では却かえって話が出来ん、其の方例いつもの係り役人に遇あっても、必らず当家へ来たことを云わんように﹂
源﹁へえ畏かしこまりました、此の度たびは悪い疫やまいが流は行やり、殿様には続いてお加減がお悪いとか申すことを承わりましたが、如いか何ゞで﹂
大﹁うん、どうもお咳が出てならん﹂
源﹁へえ、へい〳〵、それははや何とも御心配な儀で……今日召しましたのは何ういう事ですか、何うか飴の御用向でも仰付けられますのでございますか﹇#﹁ございますか﹂は底本では﹁こざいますか﹂﹈﹂
大﹁神原氏うじ貴公から発はつ言ごんされたら宜しゅうござろう﹂
神﹁いや拙者は斯ういう事を云い出すは甚はなはだいかん、どうか貴公から願いたい、斯う云う事は松蔭氏に限るね﹂
大﹁拙者は誠に困る、えゝ源兵衞、其の方は御当家へ長らく出でい入りをするが、御当家さまを大切に心得ますかえ﹂
源﹁へえ決して粗略には心得ません、大切に心得て居ります﹂
大﹁ムヽウ、御当家のためを深く其の方が思うなら、江戸表の御家老さま、又此の神原五郎治さま、渡邊さま、此の四郎治さま、拙者は新役の事ではあるが此の事に就ついてはお家のためじゃからと云うので、種いろ々〳〵御相談があった、始めは拙者にも分りません所があったが、だん〳〵重役衆の意見を承わって成程と合がっ点てんがゆき、是はお家のためという事を承知いたしたのだ﹂
源﹁へえ、どうも然そういう事は町人などは何も弁わきまえのありません事でございまして、へえ何ういう事が御当家さまのお為になりますので﹂
大﹁他でもないが上かみが長らく御不例でな、お医者も種いろ々〳〵手を尽されたが、遠からずと云う程の御重症である﹂
源﹁へえ何でげすか、余程お悪く在いらっしゃいますんで﹂
大﹁大きな声をしては云えんが、来月中なか旬ばまでは保つまいと医者が申すのじゃ﹂
源﹁へえ、どうもそれはおいとしい事で、お目通りは致しませんが、誠に手前も長らく親の代からお出入りを致しまして居りますから、誠に残念な事で﹂
大﹁うむ、就ついては上かみがお逝かく去れになれば、貴様も知っての通り奥方もお逝去で、御ごじ順ゅんにまいれば若様をというのだが、まだ御幼年、取ってお四よっ歳つである、余りお稚ちいさ過ぎる、併しかしお胤たねだから御家督御相続も仔細はないが、此の事に就て其の方に頼む事があるのだ、お家のため且かつ容易ならん事であるから、必ず他言をせん、何どの様な事でもお家のためには御ぎょ意いを背そむきますまい、という決心を承知せん中うちは話も出来ん、此の事に就いては御家老を始め、こゝにござる神原氏我々に至るまで皆血判がしてある、其の方も何ういう事があっても他言はせん、御意に背くまいという確しかとした証拠に、是へ血判をいたせ﹂
源﹁へえ血判と申しますは何ういたしますので﹂
大﹁血で判をするから血判だ﹂
源﹁えゝ、それは御免を蒙こうむります、中々町人に腹などが切れるものではございません﹂
大﹁いや、腹を切ってくれろというのではない﹂
源﹁でも私わたくしは見た事がございます、早はや野のか勘んぺ平いが血判をいたす時、臓腑を引出しましたが、あれは中々町人には﹂
大﹁いや〳〵腹を切る血判ではない、爪の間をちょいと切って、血が染にじんだのを手前の姓なま名えの下へ捺おすだけで、痛くも痒かゆくもない﹂
源﹁へえ何うかしてさゝくれや何かを剥むくと血が染みますことが……ちょいと捺せば宜しいので、私わたくしは驚きました、勘平の血判かと思いまして、然そういう事がお家のおために成れば何どの様な事でもいたします﹂
大﹁手前は小金屋と申すが、苗字は何と申す﹂
源﹁へえ、矢張小金と申します﹂
と云うを神原四郎治が筆を執りて、料紙へ小金源兵衞と記し、
大﹁さア、これへ血判をするのだ、血判をした以上は御家老さま始め此の方ほう等らと其の方とは親類の間柄じゃのう﹂
源﹁へえ恐入ります、誠に有難いことで﹂
大﹁のう、何事も打解けた話でなければならん、其の代り事成就なせば向こう後ご御おで出いり入がし頭らに取立てお扶持も下さる、就ついてはあゝいう処へ置きたくないから、広小路あたりへ五ごけ間んま々ぐ口ちぐらいの立派な店を出し、奉公人を多たに人ん数ず使って、立派な飴屋になるよう、御家老職に願って、金きん子すは多分に下おりよう、千両までは受合って宜しい﹂
源﹁へえ……有難いことで、夢のようでございますな、お家のためと申しても、私わたくし風情が何なんのお役にも立ちませんが、それでは恐入ります、いえ何ど様んな事でも致します、へえ手や指ぐらいは幾いく許ら切っても薬さえ附ければ直じきに癒なおりますから宜しゅうございます、なんの指ぐらいを切りますのは﹂
とちょいと其の頃千両からの金か子ねを貰って、立派な飴屋になるというので嬉しいから、指の先を切って血判をいたし、
源﹁何ういう御用で﹂
大﹁さ、こゝに薬がある﹂
源﹁へえ〳〵〳〵﹂
大﹁貴様は、水飴を煮るのは余程手間のかゝったものかのう﹂
源﹁いえ、それは商売ですから直じきに出来ますことで﹂
大﹁どうか職人の手に掛けず、貴様一人で上かみの召上るものだから練ねれようか﹂
源﹁いえ何ういたしまして、年を老とった職人などは攪かき廻まわしながら水みず涕ッぱなを垂たらすこともありますから、決して左様なことは致させません、私わたくしが如い何かようにも工夫をいたします﹂
大﹁それでは此の薬を練込むことは出来るか﹂
源﹁へえ是は何なんのお薬で﹂
大﹁最早血判致したから、何も遠慮をいたすには及ばんが、一大事で、お控えの前次様は御疳癖が強く、動やゝもすれば御家来をお手討になさるような事が度たび々〳〵ある、斯様な方がお世よと取りに成れば、お家の大だい害がいを惹ひき出いだすであろう、然しかる処幸い前次様は御病気、殊ことにお咳が出るから、水飴の中へ此の毒薬を入れて毒殺をするので﹂
源﹁え……それは御免を蒙こうむります﹂
大﹁何なんだ、御免を蒙るとは……﹂
源﹁何だって、お忍びで王子へ入らっしゃる時にお立寄がありまして、お十三の頃からお目通りを致しました前次様を、何かは存じませんが、私わたくしの手からお毒を差上げますことは迚とても出来ません﹂
というと、神原四郎治がキリヽと眦まなじりを吊つるし上げて膝を進めました。
十九
神原﹁これ源兵衞、手前は何のために血判をいたした、容易ならんことだぞ、お家のためで、紋之丞﹇#﹁紋之丞﹂は底本では﹁紋之亟﹂﹈様が御家督に成れば必らずお家の害になることを存じているから、一家中の者が心配して、此の通り役柄をいたす侍が頼むのに、今となって否いやだなどと申しても、一大事を聞かせた上は手討にいたすから覚悟いたせ﹂
源﹁ど、何どう卒ぞ御免を……お手討だけは御勘弁を……﹂
大﹁勘弁罷まかりならん、神原殿がお頼みによって、其の方に申もう聞しきけた、だが今になって違いは背いされては此の儘に差さし置おけんから、只今手討に致す﹂
源﹁へえ大変な事で、私わたくしは斯様な事とは存じませんでしたが、大変な事になりましたな、一体水飴は私の処では致しませんへえ不得手なんで﹂
大﹁其そ様んな事を申してもいかん﹂
源﹁へえ宜しゅうございます﹂
と斬られるくらいならと思って、不承〳〵に承知致しました。
大﹁一いっ時とき遁のがれに請うけ合あって、若もし此の事を御舎弟附の方かた々〳〵へ内通でもいたすと、貴様の宅たくへ踏込んで必ず打うち斬きるぞ﹂
源﹁へえ〳〵御念の入いった事で、是がお薬でございますか、へえ宜しゅうございます﹂
と宅うちへ帰って彼かの毒薬を水飴の中へ入れて煉ねって見たが、思うようにいけません、どうしても粉が浮きます、綺麗な処へ石よせきの粉が浮いて居りますので、
源﹁幾ら煉ねってもいけません﹂
と此の事を松蔭大藏に申しますから、大藏もどうしたら宜かろうと云うので、大藏の家うちへ山路という医者を呼び飴屋と三人打寄って相談をいたしますと、山路の申すには、是は斑はん猫みょうという毒を煮込んだら知れない、併しかし是は私わしのような町医の手には入はいりません、なにより効きゝ験めの強いのは和おら蘭ん陀だでカンタリスという脊せな中かに縞のある虫で、是は豆の葉に得て居るが、田舎でエゾ虫と申し、斑猫のことで、効験が強いのは煎じ詰めるのがよかろうと申しましたので、なる程それが宜かろうと相談が一決いたし、飴屋の源兵衞と医者の山路を玄関まで送り出そうとする時衝つい立たての蔭に立っていましたのは召使の菊という女中で、これは松蔭が平へい生ぜい目を掛けて、行ゆく々〳〵は貴様の力になって遣つかわし、親父も年を老とっているから、何い時つまでも箱屋︵芸げい妓しゃの箱屋じゃアありません、木具屋と申して指さし物ものを致します︶をさせて置きたくない、貴様にはこれ〳〵手当をして遣やろうという真実に絆ほだされて、表向ではないが、内ない々〳〵大藏に身を任して居ります。是は本当に惚れた訳でもなし、金ずくでもなし、変な義理になったので、大藏も好いゝ男おと子こでありますが、此の菊は至って堅い性質ゆえ、常々神原や山路が来ては何か大藏と話をしては帰るのを、案じられたものだと苦にしていたのが顔に出ます。今大藏が衝立の蔭に菊のいたのを認めて恟びっくり致したが、さあらぬ体ていにて、
大﹁源兵衞、少し待ちな﹂
と連戻って、庭口から飴屋を送り出そうとすると、林藏という若党が同じく立って聞いていましたので、再び驚いたが、仕方がないと思い、飴屋を帰してしまったが、大藏は腹の中うちで菊は船上忠助の妹いもとだから、此の事を渡邊に内通をされてはならん、船上は古く渡邊に仕えた家来で、彼あい奴つの妹だから、こりゃア油断がならん、なれども林藏は愚おろ者かものだから、林藏から先へ当って調べてみよう。と是から支度を仕替えて、羽織大小で彼かの林藏という若党を連れ、買物に出ると云って屋敷を立たち出いで、根津の或る料理茶屋へ昇あがりましたが、其の頃は主しゅう家来のけじめが正しく、中々若党が旦那さまの側などへはまいられませんのを、大藏は己おれの側へ来いと呼び附けました。
大﹁林藏、大きに御苦労〳〵﹂
林﹁へえ、何か御用で﹂
大﹁いや独ひと酌りで飲んでもうまくないから、貴様と打解けて話をしようと思って﹂
林﹁恐入りましてございます、何ともはや御同席では……﹂
大﹁いや、席を隔へだてゝは酒が旨くない﹂
林﹁こゝでは却かえって気が詰りますから、階し下たで戴きとう存じます﹂
大﹁いや、酒を飲んだり遊ぶ時には主しゅうも家来も共々にせんければいかん、己の苦労する時には手前にも共々に苦労して貰う、これを主従苦楽を倶ともにするというのだ﹂
林﹁へえ、恐入ります、手前などは誠に仕合せで、御当家さまへ上あがりまして、旦那さまは誠に何から何までお慈悲深く、何ど様んな不調法が有りましても、お小言も仰おっしゃらず、斯ういう旦那さまは又とは有りません、手前が仕しあ合わせで、此の間も吉村さまの仁ねす介けもお羨うらやましがっていましたが、私わたくしのような不ほよ行きと届ゞきの者を目みえ懸けて下さり何ともはや恐入りやす﹂
大﹁いや、然そうでない、貴様ア感心な事には正直律義なり、誠に主しゅう思いだのう﹂
林﹁いえ、旦那様が目みえ懸けて下せえますから、お互に思えば思わろゝで、そりゃア尊あん公た当あた然りめえの事こって﹂
大﹁いや〳〵然うでない、一体貴様の気象を感服している、これ女中、下さか物なを此こ処れへ、又後あとで酌をして貰うが、早く家来共の膳を持って来んければならん﹂
と林藏の前へも同じような御馳走が出ました。
大﹁のう林藏、是迄しみ〴〵話も出来んであったが、今きょ日うは差向いで緩ゆっくり飲もう、まア一いっ盃ぱい酌ついでやろう﹂
林﹁へえ恐入りました、誠ね有難い事で、旦那さまのお酌さくで恐おそ入れえります﹂
大﹁今日は遠慮せずにやれよ﹂
林﹁へえ恐おそ入れえりました、ヒエ〳〵溢こぼれます〳〵……有難い事で、お左様なれば頂戴いたします、折しっ角かくの事だアから誠にはや有難い事で﹂
大﹁今日は宜いいよ、打解けて飲んでくれ、何かの事に遠慮はあっちゃアいかん、心の儘に飲めよ﹂
林﹁ヒエ〳〵有難い事で﹂
大﹁さ己が一ひと盃つ合あいをする﹂
とグーと一いっ盃ぱい飲み、又向うへ差し、林藏を酔わせないと話が出来ません。尤もっとも愚おろかだから欺だますには造作もない、お菊は船上忠助の妹ゆえ、渡邊織江へ内通を致しはせんかと、松蔭大藏も実に心配な事でございますから、林藏から先へ欺あざむく趣向でござります。林藏は段々宜よい心持に酔って来ましたので仮名違いの言こと語ばで喋ります。
大﹁遠慮なしに沢山飲やれ﹂
林﹁ヒエ有難い事で、大層酩めん酊てい致しやした﹂
大﹁いや〳〵まだ酩めい酊ていという程飲みやアせん、貴様は国にも余り親みよ戚り頼りのないという事を聞いたが、全く左様かえ﹂
林﹁ヒエ一人従えと弟こがありやすが、是は死んでしまエたか、生きているか分わきやたゝんので、今迄何とも音ずれのない処を見ると、死んでしもうたかと思いやす、実ぜつにはや樹けから落ちた何とか同様で、心細い身の上でがす﹂
大﹁左様か、何うだ別に国に帰りたくもないかえ、御府内へ住すまって生涯果てたいという志なら、また其の様に目を懸けてやるがのう﹂
林﹁ヒエ実じつに国こにというたところで、今えまになって帰りましたところが、親めよ戚りもなし、別びつに何う仕ようという目みあ途てもないものですから願わくば此の繁さ盛かる御府内でまア生涯朽こち果はてれば、甘おまえ物を喰たべ、面おも白しろえ物を見て暮しますだけ人ねん間げんの徳だと思えやす、実ぜつに旦那さまア御こ当ち地らで朽こち果はてたい心は充えっ分ぱいあります﹂
大﹁それは宜しい、それじゃア何うだえ己は親みよ戚り頼り兄弟も何も無い、誠に心細い身の上だが、まア幸い重役の引立を以て、不相応な大禄を取るようになって、誠に辱かたじけないが、人は出世をして歓楽の極きわまる時は憂いの端いと緒ぐちで、何か間違いのあった時には、それ〴〵力になる者がなければならない、己が増長をして何か心得違いのあった時には異見を云ってくれる者が無ければならん、乃そこで中々家来という者は主従の隔てがあって、どうも主人の意こゝろに背いて意見をする勇気のないものだが、貴様は何でもずか〳〵云ってくれる所の気象を看み抜ぬいているから、己は貴様と親類になりたいと思うが、何うだ﹂
林﹁ヒエ〳〵恐おそ入れえります、勿体至極も……﹂
大﹁いや、然そうでない、只主しゅう家来で居ちゃアいかん、己は百石頂戴致す身の上だから、己が生さ家とになって貴様を一人前の侍に取立ってやろう、仮たと令え当家の内でなくとも、他たの藩中でも或あるいは御家人旗はた下もとのような処へでも養子に遣やって、一ひと廉かどの武士に成れば、貴様も己に向って前まえ々〳〵御高恩を得たから申上ぐるが、それはお宜しくない、斯うなすったら宜かろうと云えるような武士に取立って、多分の持参は附けられんが、相当の支度をしてやるが、何うだ侍になる気はないか﹂
林﹁いや、是はどうも勿体ない事でござえます、是はどうもはや、私わしの様な者は迚とてもはや武ぼ士しには成れません﹂
大﹁そりゃア何ういう訳か﹂
林﹁第でい一いち剣きん術じつを知りませんから武ぼ士しにはなれましねえ﹂
大﹁剣けん術じゅつを知らんでも、文字を心得んでも立派な身分に成れば、それだけの家来を使って、それだけの者に手紙を書かせなどしたら、何も仔細はなかろう﹂
林﹁でござえますが、武ぼ士しは窮屈ではありませんか、実ぜつは私わしは町人になって商いをして見たいので﹂
大﹁町人になりたい、それは造作もない、二三百両もかければ立派に店が出せるだろう﹂
林﹁なに、其そん様なには要えりませんよ、三拾両一ひと資もと本でで、三拾両も有れば立派に店が出せますからな﹂
大﹁それは造作ない事じゃ、手前が一軒の主人になって、己が時々往って、林藏一いっ盃ぱい飲ませろよ、雨が降って来たから傘ア貸せよと我儘を云いたい訳ではないが、年来使った家来が出世をして、其の者から僅かな物でも馳走になるは嬉しいものだ、甘うまく喰たべられるものだ﹂
林﹁誠に有難い事で﹂
大﹁ま、もう一盃飲め〳〵﹂
林﹁ヒエ大層嬉しいお話で、大だい分ぶ酔えいました、へえ頂戴いたします、これははや有難いことで……﹂
大﹁そこでな、どうも手前と己は主家来の間柄だから別に遠慮はないが、心懸けの悪い女房でも持たれて、忌いやな顔でもされると己も往ゆきにくゝなる、然そうすると遂ついには主しゅ従うじゅうの隔てが出来、不ふな和かになるから、女房の良いのを貴様に持たせたいのう﹂
林﹁へえ、女房の良いのは少ねえものでござえます、あの通り立派なお方様でござえますが、森山様でも秋月様でも、お品格といい御器量といい、悪い事はねえが、私わしら目めし下たの者がめえりますとつんとして馬鹿にする訳もありやしねえが、届かねえ、お茶も下さらんで﹂
大﹁それだから云うのだ、此の間から打明けて云おうと思っていたが、家うちにいる菊な﹂
林﹁ヒエ﹂
大﹁彼あれは手前も知っているだろうが、内ない々〳〵己が手を附けて、妾同様にして置く者だ﹂
林﹁えへゝゝゝ、それは旦那さまア、私わしも知らん振でいやすけれども、実じつは心得てます﹂
大﹁そうだろう、彼あれはそれ渡邊の家うちに勤めている船上の妹いもとで、己とは年も違っているから、とても己の御ごし新ん造ぞにする訳にはいかん、不ふき器りょ量うでも同役の娘を貰わなければならん、就ついては彼あの菊を手前の女房に遣やろうと思うが、気に入りませんかえ、随分器量も好よく、心こゝ立ろだても至極宜しく、髪も結い、裁しご縫とも能よくするよ﹂
林﹁ヒエ……冗談ばっかり仰しゃいますな、旦那さまアおからかいなすっちゃア困ります、お菊けくさんなら好えいの好えくないのって、から理窟は有りましねえ、彼あ様んな優しげなこっぽりとした方は少ねえもんでごぜえますな﹂
大﹁あはゝゝ、何だえ、こっぽりと云うのは﹂
林﹁頬の処や手や何かの処がこっぽりとして、尻なぞはちま〳〵としてなあ﹂
大﹁ちま〳〵というのは小さいのか﹂
林﹁ヒエ誠にいらいお方さまでごぜえますよ﹂
大﹁手前が嫌いなれば仕方がない、気に入ったら手前の女房に遣りたいのう﹂
林﹁ひへゝゝゝ御冗談ばかし﹂
大﹁冗談ではない、菊が手前を誉ほめているよ﹂
林﹁尤もっとも旦那様のお声がゝりで、林藏に世しょ帯たいを持たせるが、女房がなくって不自由だから往ってやれと仰しゃって下さればなア……﹂
大﹁己が云やア否いやというのに極っている何故ならば衾ふすまを倶ともにする妾だから、義理にも彼あ様んな人は厭いやでございますと云わなければならん、是は当然だ、手前の処へ幾ら往いきたいと思っても然そういうに極って居おるわ﹂
二十
林藏はにこ〳〵いたしまして、
林﹁成程むゝう﹂
大﹁だから、手前さえ宜よいと極きまれば、直じ接かに掛合って見ろい、菊に﹂
林﹁是は云えません、間まが悪うてとてもはや冗談は云えませんな然そうして中々ちま〳〵としてえて、堅かてえ気性でござえますから、冗談は云えましねえよ、旦那様がお留る主すの時などは、とっともう苦ねがえ顔をして居なせえまして、うっかり冗談も云えませんよ﹂
大﹁云えない事があるものか、じゃア云える工夫をしてやろう、こゝで余った肴を折へ詰めて先へ帰れ、己は神原の小屋に用があるから、手前先へ帰って、旦那さまは神原さまのお小屋で御ごし酒ゅが始まって、私わしだけ先へ帰りました、これはお土みや産げでございますと云って、折を出して、菊と二人で一いっ盃ぱい飲めと旦那さまが仰しゃったから、一盃頂戴と斯う云え﹂
林﹁成程どうも…併しかしお菊けくさんは私わし二ほた人りで差さし向もかいでは酒を飲まねえと思いやすよ﹂
大﹁それは飲むまい、私わたしは酒を飲まんからお部屋へ往って飲めというだろうから、もし然そう云ったら、旦那様が此こ処ゝで飲めと仰しゃったのを戴きませんでは、折角のお志を無にするようなものだから、私わしは頂戴いたしますと云って、茶の間の菊がいる側の戸棚の下の方を開けると、酒の道具が入っているから、出して小さな徳とく利りへ酒を入れて燗を附け、戸棚に種いろ々〳〵な食たべ物ものがある、又は雲う丹にのようなものもあるから、悉みん皆な出してずん〳〵と飲んで、菊が止めても肯きくな、然うして無理に菊に合あいをしてくれろと云えば、仮たと令え否いやでも一盃ぐらいは合をするだろう、飲んだら手前酔った紛まぎれに、私わしは身を固める事がある、私わしは近日の内商あき人んどに成るが、独ひと身りみでは不自由だから、女房になってくれるかと手か何か押えて見ろ﹂
林﹁ひえへゝゝ是はどうも面おも白しろえ、やりたいようだが、何分間が悪うて側へ寄より附つかれません﹂
大﹁寄附けようが寄附けまいが、菊が何と云うとも構ったことはない、己は四つの廻りを合図に、庭口から窃そっと忍び込んで、裏手に待っているから、四つの廻りの拍子木を聞いたら、構わず菊の首くび玉ッたまへかじり附け、己が突だし然ぬけにがらりと障子を開けて、不ぶぎ義も者の見附けた、不ふ義ぎをいたした者は手討に致さねばならぬのが御家法だ、さ両ふた人りとも手討にいたす﹂
林﹁いや、それは御免を……﹂
大﹁いやさ本当に斬るのじゃアない、斬るべき奴だが、今迄真実に事つかえてくれたから、内ない聞ぶんにして遣つかわし、表向にすれば面倒だによって、永ながの暇いとまを遣わす、また菊もそれ程までに思っているなら、町人になれ、侍になることはならんと三十両の他に二十両菊に手当をして、頭の飾かざり身の廻り残らず遣やる﹂
林﹁成程、有難い、どうも是ははや……併しかしそれでもいけませんよ、お菊けくさんが貴方飛んでもない事を仰しゃる、何うしても林藏と私わたくしと不義をした覚えはありません、神かけてありません、夫婦に成れと仰しゃっても私は否えやでござえます、斯こんな忌えやな人の女房にはなりませんと云いい切きったら何う致します﹂
大﹁然そうは云わせん、深夜に及んで男なん女にょ差向いで居おれば、不義でないと云わせん強たって強情を張れば表向にいたすが何うだ、それとも内聞に致せば命は助けて遣るといえば、命が欲しいから女房になりますと云うだろう﹂
林﹁成程、これは恐おそ入れえりましたな、成程承知しなければ斬ってしまうか、命えのちが惜しいから、そんなればか、どうも是は面白い﹂
大﹁これ〳〵浮うかれて手を叩くな、下から下おん婢なが来る﹂
林﹁ヒエ有難い事で、成程やります﹂
大﹁宜よいか、其の積りでいろ﹂
林﹁ヒエ、そろ〳〵帰りましょうか﹂
大﹁そんなに急せかなくっても宜いい﹂
林﹁ヒエ有難い事で﹂
と是からそこ〳〵に致して、余った下さか物なを折に入れて、松蔭大藏は神原の小屋へ参り、此こち方らは宜よい心持に折を吊ぶらさげて自分の部屋へ帰ってまいりまして、にこ〳〵しながら、
林﹁えゝい、人ねん間げんは何ど処こで何う運おんが来こるか分らねえもんだな、畜生彼あっ方ちへ往えけ、己が折を下げてるもんだから跡を尾ついて来きやアがる、もこ彼方へ往いけ、もこ〳〵あはゝゝゝ尻しり尾っぽを振って来やアがる﹂
下男﹁いや林れん藏ぞう何処へ往えく、なに旦那と一えっ緒しょに、然そうかえ、一えっ盃ぺい飲やったなア﹂
林﹁然うよ﹂
下男﹁それははや、左様なら﹂
林﹁あはゝゝゝ何だか田えな舎かっ漢ぺえのいう事は些ちゃっとも解らねえものだなア、えゝお菊さん只今帰りました﹂
菊﹁おや、お帰りかえ、大層お遅いからお案じ申したが、旦那さまは﹂
林﹁旦那さまは神原様のお小屋で御ごし酒ゅが始まって、手前は先へ帰れと云いましたから、私わしだけ帰ってめえりました﹂
菊﹁大きに御苦労よ﹂
林﹁えゝ、此のお折の中のお肴は旦那様が手前に遣る、菊けくも不断骨を折ってるから、菊けくと二人で茶の間で一いっ盃ぱい飲めよと云うて、此のお肴を下こだせえました、どうか此こ処ゝで旦那さまが毎いつも召上る御酒を戴えたゞきてえもんで﹂
菊﹁神原さまのお小屋で御酒が始まったら、またお帰りは遅かろうねえ﹂
林﹁えゝ、どうもそれは子こゝ刻のつになりますか丑や刻つになりますか、様子が分らねえと斯ういう訳で、へえ﹂
菊﹁其の折のお肴はお前に上げるから、部屋へ持もて往って、お酒も適よい程出して緩ゆっくりおたべ﹂
林﹁ヒエ……それが然そうでねえ訳なので﹂
菊﹁何をえ﹂
林﹁旦那さまの云うにア、手前は茶の間で酒を飲んだ事はあるめえ、料理茶屋で飲ませるのは当あた然りめえの話だが、茶の間で飲ませろのは別段の馳走じゃ、へえ有難い事でござえますと、斯う礼を云ったような理わ由けで﹂
菊﹁如い何かに旦那さまが然う仰しゃっても、お前がそれを真まに受けて、お茶の間でお酒を戴いては悪いよ、私は悪いことは云わないからお部屋でお飲たべよ﹂
林﹁然うでござえますか、お前めえさん此こ処ゝで飲まねえと折しっ角かくの旦那のお心を無にするようなものだ、此の戸棚に何か有りやしょう、お膳や徳とく利りも……﹂
菊﹁お前、そんな物を出してはいけないよ﹂
林﹁こゝにと雲お丹にがあるだ﹂
菊﹁何だよ、其そ様んなものを出してはいけないよ、あらまア困るよ、お鉄瓶へお燗徳利を入れてはいけないよ﹂
林﹁心しん配ぺいしねえでも宜ええ、大丈夫だよ、少し理わ由けがあるだ、お菊けくさん、ま一えっ盃ぺい飲めなせえ、お前まえ今日は平いつ日もより別段に美おつこしいように思われるだね﹂
菊﹁何だよ、詰らんお世辞なんぞを云って、早くお部屋へ往って寝ておくれ、お願いだから、跡を片附けて置かなければならないから﹂
林﹁ま一えっ盃ぺい飲めなアよ﹂
菊﹁私は飲みたくはないよ﹂
林﹁じゃア酌さくだけして下せえ﹂
菊﹇#﹁菊﹂は底本では﹁林﹂﹈﹁お酌しゃくかえ、私にかえ、困るねえ、それじゃア一いっ盃ぱい切ぎりだよ、さ……﹂
林﹁へえ有あり難がてえ是れは……ひえ頂戴致えたしやす……有難え、まアまるで夢見たような話だという事さ、お菊けくさん本当にお前さん、私が此こ処ゝへ奉公に来た時から、真ほんに思って居るよ﹂
菊﹁其そ様んなことを云わずに早く彼あっ方ちへお出いでよ﹂
林﹁然そう邪魔にせなえでも宜ええが、是でちゃんと縁えん附づくは極けまっているからね、知らず〳〵して縁は異えな物味な物といって、ちゃんと極きまっているからね﹂
菊﹁何なんが縁だよ﹂
林﹁何でも宜えい、本当ね私わしが此こっ方ちゃへ奉公に来た時始めてお前めえさんのお姿を見て、あゝ美おつこしい女中衆しゅだと思えました、斯ういう美おつこしい人は何ど家けえ嫁かた付づいて往ゆくか、何ういう人を亭主に持ちおると思ってる内に、旦那さまのお妾さまだと聞きやしたから、拠よんどころねえと諦らめてるようなものゝ、寐ねても覚さめてもお前まえさんの事を忘れたことアないよ﹂
菊﹁冗談をお云いでない、忌いやらしい、彼あっ方ちへ往ってお寝よ﹂
林﹁往いきアしない、亥よ刻つまでは往えかないよ﹂
菊﹁困るよ、其そ様んなに何い時つまでもいちゃア、後生だからよ、明あし日た又旨い物を上げるから﹂
林﹁何うしてお前さんの喰こい欠かけを半分喰こうて見てえと思ってゝも、喰こい欠かけを残した事がねえから、密そっと台だい所どこにお膳が洗わずにある時は、洗った振りをして甜なめて、拭いてしまって置くだよ﹂
菊﹁穢きたないね、私ア嫌だよ﹂
林﹁それからね、何うかしてお前さんの肌を見てえと思っても見る事が出来ねえ、すると先せん達だって前まえ町まちの風ほ呂ろ屋ばが休みで、行水を浴つかった事がありましたろう、此の時ばかり白い肌が見られると思ってると、悉すっ皆かり戸で囲って覗のぞく事が出で来けねえ、何うかしてと思ってると、節穴が有ったから覗くと、意え地じの悪い穴よ、斜はすに上の方へ向いて、戸に大きな釘が出ていて頬ほゝ辺ぺたを掻かぎ裂ざきイした﹂
菊﹁オホヽヽ忌いやだよ﹂
林﹁其の時使った糠のかを貯とって置きたいと思って糠のか袋ぶくろをあけて、ちゃんと天てん日ぴにかけて、乾かして紙かん袋ぶくろに入れて貯っておいて、炊たき立たての飯の上へかけて喰くうだ﹂
菊﹁忌だよ、穢い﹂
林﹁それから浴つかった湯を飲もうと思ったが、飲切れなくなって、どうも勿体ねえと思ったが、半分程飲めねえ、三日目から腹ア下くだした﹂
菊﹁冗談を云うにも程がある、彼あち方らへお出でよ、忌らしい﹂
林﹁お菊けくさん、もう亥よ刻つ﹇#﹁亥刻﹂は底本では﹁戌刻﹂﹈かな﹂
菊﹁もう直じきに亥刻﹇#﹁亥刻﹂は底本では﹁戌刻﹂﹈だよ﹂
林﹁亥刻﹇#﹁亥刻﹂は底本では﹁戌刻﹂﹈ならそろ〳〵始めねえばなんねえ﹂
とだん〳〵お菊の側へ摺すり寄よりました。
二十一
其の時お菊は驚いて容かたちを正し、
菊﹁何をする﹂
と云いながら、側に在ありました烟きせ管るにて林藏の頭を打ぶちました。
林﹁あゝ痛いてえ、何なんで打ぶった、呆れて物が云われねえ﹂
菊﹁早くお前の部屋へおいで何なんぼ私が年が往いかないと云って、余あんまり人を馬鹿にして、さ、出て行っておくれよ、本当に呆れてしまうよ﹂
林﹁出て往ゆくも往えかねえも要いらねえ、否えやなら否えやで訳は分ってる、突えき然なり頭あた部まにやして、本当に呆れてしまう、何だって打ぶったよ﹂
菊﹁打ぶたなくてさ、旦那様のお留守に冗談も程がある、よく考えて御覧、私は旦那さまに別段御贔屓になることも知っていながら、気違じみた真似をして、直すぐに出て往っておくれ、お前のような薄うす穢ぎたない者の女にょ房うぼうに誰がなるものか﹂
林﹁薄穢けりアそれで宜ええよ、本当に呆れて物が云われねえ、忌いやなら何も無も理りに女房になれとは云わねえ、私わしの身代が立れっ派ぱになれば、お前さんよりもっと立れっ派ぱな女にょ房うぼを貰うから、否えやなら否えやで分ってるのに、突いき然なり烟管で殴にやすてえことがあるか、頭へ傷けずが附いたぞ﹂
菊﹁打ぶったって当あた然りまえだ、さっさと部屋へおいで、旦那さまがお帰りになったら申上げるから﹂
林﹁旦那様がお帰りになりア此こっ方ちで云うて暇ひまア出させるぞ﹂
菊﹁おや、何で私が……﹂
林﹁何も屎こそも要えらねえ、さっさと暇ア出させるように私わしが云うから、然そう思って居るが宜ええ﹂
と云い放って立上る袖を捕とらえて引止め、
菊﹁何ういう理わ由けで、まお待まちよ﹂
林﹁何だね袂たもとを押えて何うするだ﹂
菊﹁私が何でお暇いとまが出るんだえ、お暇が出るといえば其の理わ由けを聞きましょう﹂
林﹁エヽイ、聞けくも聞けかねえも要えらねえ、放さねえかよ、これ放さねえかてえにあれ着けも物のが裂けてしまうじゃアねえか、裂けるよ、放さねえか、放しやがれ﹂
と林藏はプップと腹を立って庭の方へ出る途端に、チョン〳〵チョン〳〵、
○﹁四ツでござアい﹂
と云う廻りの声を合図に、松蔭大藏は裏手の花壇の方から密そっと抜ぬき足あしをいたし、此こち方らへまいるに出会いました。
大﹁林藏じゃアねえか﹂
林﹁おや旦那様﹂
大﹁林藏出て来ちゃアいかんなア﹂
林﹁いかんたって私わしには居えられませんよ、旦那様、頭へ疵けずが出で来けました、こんなに殴にやして何うにも斯うにも、其そ様んな薄穢い田えな舎かも者のは否えやだよッて、突いき然なり烟管で殴しました﹂
大﹁ウフヽヽヽ菊が……菊が立腹して、ウフヽヽヽ打うったか、それで手前腹を立てゝ出て来たのか﹂
林﹁ヒエ左様でござえます﹂
大﹁ウム至極尤もっともだ、少しの間己が呼ぶまで来るな、併しかし菊もまだ年がいかないから、死んでも否いやだと一ひと度たび断るは女おな子ごの情じょうだ、ま部屋に往って寝ていろ﹂
林﹁部屋へ往えっても寝にられませんよ﹂
大﹁ま、兎も角彼あち方らへ往いけ〳〵、悪いようにはしないから﹂
林﹁ヒエ左様なら御機嫌宜しゅう﹂
と林藏が己おのれの部屋へ往ゆく後うし姿ろすがたを見送って、
大﹁えゝーい﹂
と大藏は態わざと酔った真似をして、雪駄をチャラ〳〵鳴らして、井筒の謡うたいを唄いながら玄関へかゝる。お菊は其の足音を存じていますから、直すぐに駈出して両手を突き、
菊﹁お帰り遊ばせ﹂
大﹁あい、あゝーどうも誠に酔った﹂
菊﹁大層お帰りがお遅うございますから、また神原様でお引ひき留とめで、御迷惑を遊ばしていらっしゃることゝ存じて、先程からお帰りをお待ち申して居りました﹂
大﹁いや、どうも無理に酒を強しいられ、神原も中々の酒のみ家かで、飲まんというのを肯きかずに勧めるには実に困ったが、飯も喫たべずに帰って来たが、嘸さぞ待まち遠どおであったろう﹂
菊﹁さ、此こち方らへ入らしってお召めし換かえを遊ばしまし﹇#﹁遊ばしまし﹂は底本では﹁遊ぱしまし﹂﹈﹂
大﹁あい、衣きも類のを着替ようかの﹂
菊﹁はい﹂
とお菊は直すぐに乱みだ箱ればこの中に入って居ります黄八丈の袷あわ小せこ袖そでを出して着換させる、褥しとねが出る、烟草盆が出ます。松蔭大藏は自分の居間へ坐りました。
菊﹁御ごし酒ゅは召上っていらっしゃいましたろうが、御ごは飯んを召上りますか﹂
大﹁いや勧めの酒はの幾いく許ら飲んでも甘うまくないので、宅へ帰ると矢張また飲みたくなる、一ちょ寸っと一いっ盃ぱい燗つけんか﹂
菊﹁はい、お湯も沸いて居りますし、支度もして置きました﹂
大﹁じゃア此こ処れへ持って来てくれ﹂
菊﹁はい畏まりました﹂
と勝手を存じていますから、嗜たしなみの物を並べて膳ぜん立だてをいたし、大藏の前へ盃はい盤ばんが出ました。お菊は側へまいりまして酌をいたす。大藏は盃さかずきを執とって飲んでお菊に差す。お菊は合あいに半分ぐらいずつ忌いやでも飲まなければなりません。
大﹁はあー……お菊先程林藏が先へ帰ったろう﹂
菊﹁はい、何だかも大層飲たべ酔よってまいりまして、大変な機嫌でございましたが、も漸ようやく欺だまして部屋へ遣やりましたが、彼あれには余り酒を遣つかわされますといけませんから、加減をしてお遣つかわし下さいまし﹂
大﹁ウム左様か、何か肴の土産を持って参ったか﹂
菊﹁はい、種いろ々〳〵頂戴致しましたが、私わたくしは宜よいからお前持って往ゆくが宜い、折角下すったのだからと申して皆彼あれに遣つかわしました﹂
大﹁あゝ然そうか、あゝー好よい心持だ、何ど処こで酒を飲むより宅へ帰って気儘に座を崩して、菊の酌で一盃飲むのが一番旨いのう﹂
菊﹁貴方また其そ様んな御ごよ容う子すの好よいことばかり御意遊ばします、私わたくしのような此こ様んなはしたない者がお酌をしては、御ごし酒ゅもお旨くなかろうかと存じます﹂
大﹁いや〳〵どうも実に旨い、はアー……だがの、菊、酔って云うのではないが表おも向てむき、ま手前は小こま間づか使いの奉公に来た時から、器量と云い、物の云い様よう裾すそ捌さばき、他ほか々〳〵の奉公人と違い、自然に備わる品ひんというものは別だ、実に物堅い屋敷にいながら、仮たと令い己が昇進して、身に余る大禄を頂戴するようなことになれば、尚更慎まねばならん、所がどうも慎み難く、己が酔った紛れに無理を頼んだ時は、手前は否いやであったろう、否だろうけれども性せい来らい怜りこ悧うの生れ付ゆえ、否だと云ったらば奉公も出でき来に難くい、辛く当られるだろうと云うので、ま手前も否いや々〳〵ながら己の云うことを聞いてくれた処は、夫そりア己も嬉しゅう思うて居いるぞよ﹂
菊﹁貴方また其そ様んな事を御意遊ばしまして、あのお話だけは……﹂
大﹁いゝえさ誰にも聞かする話ではない、表向でないから、もう一つ役やく替がえでも致したら、内ない々〳〵は若竹の方でも己が手前に手を付けた事も知っているが、己が若竹へ恩を着せた事が有るから、彼あれも承知して居り、織江の方でも知って居ながら聊いさゝかでも申した事はない、手前と己だけの話だが手前は嘸さぞ厭いやだろうと思って可愛相だ﹂
菊﹁あなた、何なんぞと云うと其様な厭味なことばかり御意遊ばします、これが貴方身を切られる程厭で其様なことが出来ますものではございません﹂
大﹁だが手前は己に物を隠すの﹂
菊﹁なに私わたくしは何も隠した事はございません﹂
大﹁いんにゃ隠す、物を隠すというのも畢ひっ竟きょう主しゅ従うじゅうという隔へだてがあって、己は旦那様と云われる身分だから、手前の方でも己を主人と思えば、軽けい卒そつ﹇#﹁軽卒﹂は﹁軽率﹂の誤記か﹈の取扱いも出来ず、斯う云ったら悪かろうかと己に物を隠す処が見えると云うのは、船上忠平は手前の兄だ、それが渡邊織江の家うちに奉公をしている、其そ処こに云うに云われん処があろう﹂
菊﹁何を御意遊ばすんだか私わたくしには少しも分りません、是迄私は何でも貴方にお隠し申した事はございません﹂
大﹁そんなら己から頼みがある、併しかし笑ってくれるな、己が斯かくまで手前に迷ったと云うのは真実惚れたからじゃ、己も新役でお抱かゝえになって間のない身の上で、内ない妾しょうを手ても許とへ置いては同役の聞きこえもあるから、慎まなければならんのだが、其の慎みが出来んという程惚れた切せつなる情じょうを話すのだが、己は何も御ごし新ん造ぞのある身の上でないから、行ゆく々〳〵は話をして表向手前を女房にしたいと思っている﹂
菊﹁どうも誠にお嬉しゅうございます﹂
大﹁なに嬉しくはあるまい……なに……真に手前嬉しいと思うなら、己に起きし請ょうを書いてくれ﹂
菊﹁貴方、御冗談ばかり御意遊ばします、起請なんてえ物を私わたくしは書いた事はございませんから、何う書くものか存じません﹂
大﹁いやさ己の気休めと思って書いてくれ、否いやでもあろうが其それを持っておれば、菊は斯ういう心である、末すえ々〴〵まで己のものと安心をするような姿で、それが情だの、迷ったの、笑ってくれるな﹂
菊﹁いゝえ、笑うどころではございませんが、起請などはお止し遊ばせ﹂
大﹁ウヽム書けんと云うのか、それじゃア手前の心が疑われるの﹂
菊﹁だって私わたくしは何もお隠し申すことはありませんし、起請などを書かんでも……﹂
大﹁いや反ほ古ごになっても心嬉しいから書いてくれ、硯すゞ箱りばこをこれへ……それ書いてくれ、文面は教えてやる……書かんというと手前の心が疑うたぐられる、何か手前の心に隠している事が有ろう、然そうでなければ早く書いてくれ﹂
菊﹁はい……﹂
とお菊は最前大藏が飴屋の亭主を呼んで、神原四郎治との密談を立たち聞ぎゝをしたが、其の事でこれを書かせるのだな、今こゝで書かなければ尚疑われる、兄の勤めている主人方へお屋敷の一大事を内通をする事も出来ん、先方の心の休まるように書いた方が宜かろうと、羞はずかしそうに筆を執りまして、大藏が教ゆる通りの文面をすら〳〵書いてやりました。
大﹁まア待て、待て〳〵、名を書くのに松蔭と書かれちゃア主人のようだ、何処までも恋の情でいかんければならん、矢張ぷっつけに﹇#﹁ぷっつけに﹂は﹁ぶっつけに﹂の誤記か﹈大藏殿と書け﹂
菊﹁貴方のお名を……﹂
大﹁ま書け〳〵、字配りは此こ処ゝから書け﹂
と指を差された処へ筆を当てゝ、ちゃんと書いた後のち、自分の名を羞かしそうにきくと書き終り、
菊﹁あの、起請は神に誓いまして書きますもので、血か何か附けますのですか﹂
大﹁なに血は宜しい、手前の自筆なれば別に疑うところもない、あゝ有難い﹂
押おし戴いたゞいて巻まき納おさめもう一いっ盃ぱい。と酒を飲みながら如い何かなることをか工たくむらん、続けて三さん盃ばいばかり飲みました。
大﹁あゝ酔った﹂
菊﹁大層お色に出ました﹂
大﹁殺して居た酒が一いち時じに出ましたが、あの花壇の菊は余程咲いたかの﹂
菊﹁余程咲きました、咲乱れて居ります﹂
大﹁一ちょ寸っと見たいもんだの﹂
菊﹁じゃアお雪ぼん洞ぼりを点つけましょう﹂
大﹁然そうしてくれ﹂
菊﹁お路地のお草ぞう履りは此こ処れにあります、飛とび石いしへお躓つまずき遊ばすと危あぶのうございますよ﹂
大﹁おゝ宜よい〳〵〳〵﹂
と蹌よろけながらぶらり〳〵行ゆくのを、危いからお菊も後あとから雪洞を提げて外の方へ出ると花壇があります。此の裏手はずっと崖になって、下くだると谷中新しん幡ばん随ずい院いんの墓場此こち方らはお馬場口になって居りますから、人の往ゆき来ゝは有りません。
大﹁菊々﹂
菊﹁はい﹂
大﹁其そ処こへ雪洞を置けよ﹂
菊﹁はい置きます﹂
大﹁灯あか火りがあっては間が悪いのう﹂
菊﹁何を御意あそばします﹂
大﹁これ菊、少し蹲しゃがんでくれ﹂
菊﹁はい﹂
左の手を出して……お母ふくろが二ふた歳つ三みッ歳つの子供を愛するようにお菊の肩の処へ手をかけて、お菊の顔を視み詰つめて居りますから、
菊﹁あなた、何を遊ばしますの、私わたくしは間が悪うございますもの……﹂
大藏は四あた辺りを見て油断を見みす透かし、片足挙あげてポーンと雪洞を蹴け上あげましたから転がって、灯あか火りの消えるのを合図にお菊の胸倉を捉とって懐に匿かくし持ったる合あい口くちを抜く手も見せず、喉笛へプツリーと力に任せて突つき込こむ。
菊﹁キャー﹂
と叫びながら合口の柄つかを右の手で押え片手で大藏の左の手を押えに掛りまするのを、力に任せて捻ねじ倒たおし、乗掛って、
大﹁ウヽー﹂
と抉こじったから、
菊﹁ウーン﹂
パタリとそれなり息は絶えてしまい、大藏は血のりだらけになりました手をお菊の衣きも類ので拭きながら、密そっと庭伝いに来まして、三尺の締しまりのある所を開けて、密っと廻って林藏という若党のいる部屋へまいりました。
二十二
大﹁林藏や、林藏寝たか林藏……﹂
林﹁誰だえ﹂
大﹁己だ、一ちょ寸っと開けてくれ﹂
林﹁誰だ﹂
大﹁己だ、開けてくれ、己だ﹂
林﹁いやー旦那さまア﹂
大﹁これ〳〵﹂
林﹁何うして此こ様んな処へ﹂
大﹁静かに〳〵﹂
林﹁ど何ういう事で﹂
大﹁静かに……﹂
林﹁はい、只今開けます、灯あか火りが消えて居りますから、只今……先さっ刻きから種いろ々〳〵考えて居て一ちょ寸っとも眠ねられません、へえ開けます﹂
がら〳〵〳〵。
林﹁先刻の事が気になって眠ねむられませんよ﹂
大﹁一緒に来い〳〵﹂
林﹁ひえ〳〵﹂
大﹁手前の手ても許とに小短い脇差で少し切れるのがあるか﹂
林﹁ひえ、ござえます﹂
大﹁それを差して来い、静かに〳〵﹂
と是れから林藏の手を引いて、足音のしないように花壇の許もとまで連れて来まして、
大﹁これ﹂
林﹁ひえ〳〵﹂
大﹁菊は此の通りにして仕舞った﹂
林﹁おゝ……これは……どうもお菊さん﹂
大﹁これさ、しッ〳〵……主人の言葉を背そむく奴だから捨置き難い、どうか始終は林藏と添わしてやりたいから、段々話をしても肯きゝ入いれんから、已やむを得ず斯かくの通り致した﹂
林﹁ひえゝ、したがまア、殺すと云うはえれえことになりました、可愛相な事をしましたな﹂
大﹁いや可愛相てえ事はない、手前は菊の肩を持って未練があるの﹂
林﹁未めれ練んはありませんが﹂
大﹁なアに未みれ練んがある﹂
と云いながら、やっと突いき然なり林藏の胸倉を捉とらえますから、
林﹁何をなさいます﹂
と云う所を、押倒しざま林藏が差して居ました小脇差を引抜いて咽のど笛ぶえへプツーリ突つき通とおす。
林﹁ウワー﹂
と悶も掻がく所を乗掛って、
大﹁ウヽーン﹂
と突つき貫つらぬく、林藏は苦くる紛しまぎれに柄つか元もとへ手を掛けたなり、
林﹁ウヽーン﹂
と息が止りました。是から大藏は伸上って庭そ外とを見ましたが人も来ない様子ゆえ、
大﹁しめた﹂
と大藏は跡へ帰って硯箱を取出して手紙を認したゝめ、是から菊が書いた起請文を取出して、大藏とある大の字の中まん央なかへ︵ーぼう︶を通して跳はね、右こち方らへ木の字を加えて、大藏を林藏と改な書おして、血をべっとりと塗附けて之を懐中し、又々庭へ出て、お菊の懐中を探して見たが、別に掛かけ守まもりもない、帯おび止どめを解ほどいて見ますと中に守まもりが入って居おりますから、其の中へ右の起請を納いれ、元の様ように致して置き、夜よが明けると直すぐに之を頭かしらへ届けました。又また有助と云う男に手紙を持たせて、本郷春木町三丁目の指さし物もの屋や岩吉方へ遣つかわしましたが、中々大おお騒さわぎで、其の内に検けん使しが到来致しまして、段々死人を検あらためますと、自ら死んだように、匕あい首くちを握り詰めたなりで死んで居ります。林藏も刀の柄元を握詰め喉を貫ついて居おりますから、如ど何ういう事かと調べになると、大藏の申もう立したてに、平つ素ねから訝おかしいように思って居りましたが、予かねて密通を致し居り、痴情のやる方なく情死を致したのかも知れん、何か証拠が有ろうと云うので、懐ふと中ころから守まも袋りぶくろを取出して見ると、起請文が有りましたから、大藏は小膝を礑はたと打うちまして、
大﹁訝しいと存じて、咎とがめた時に、露顕したと心得情死を致しましたと見ゆる、不ふび憫んな事を致した、なに死なんでも宜よいものを、彼あれまでに目を懸けて使うてやったものを﹂
などゝ、真まことしやかに陳のべて、検使の方は済みましたが、今年五十八になります、指物屋の岩吉が飛んでまいり、船上忠平という二十三になる若党も、織江方から飛んでまいりました。
大﹁これ〳〵此こ処ゝへ通せ、老じゞ爺い此処へ入れ﹂
岩﹁はい、急にお使つかいでございましたから飛んで参めえりました、どうも飛んだことで﹂
大﹁誠に何ともはやお気の毒な事で、斯ういう始末じゃ﹂
岩﹁はい、どうも此の度たびの事ばかりは何ういう事だか私わしには一向訳が分りません、貴あん方たさ様まへ御奉公に上げましてから、旦那様がお目をかけて下さり、斯ういう着物を、やれ斯ういう帯をと拵こしらえて戴き、其の上お小遣いまで下さり、それから櫛くし簪かんざしから足の爪先まで貴方が御心配下さるてえますから、彼あ様んな結構な旦那さまをしくじっちゃアならんよ、己は職人の我がさ雑つも者ので、人の前で碌に口もきかれない人間だが、行ゆく々〳〵お前を宜いい処へ嫁かた付づけてやると仰しゃったというから、私はそれを楽たのしんで居りましたが、何ういうわけで林藏殿と悪い事をすると云うは……のう忠平、一つ屋敷にいるから手前は他の仲ちゅ間うげ衆んしゅうの噂でも聞いていそうなものだったのう﹂
忠﹁噂にも聞いた事がございません、そんなれば林藏という男が美びな男んという訳でもなし、彼あの通りの醜ぶお男と子こ、それと斯ういう訳になろうとは合点がまいりません、お父とっさん、ねえ少ちいさいうちから妹は其そ様んな了簡の女ではないのです、何か是には深い訳があるだろうと思います﹂
と互に顔を見合せましたが、親父の岩吉には尚なお理わ由けが分りませんから、
岩﹁訳だって私わしにはどうも分らん、林藏さんと斯ういう事になろう筈がないと申すは、旦那さま、此の間菊へ一ちょ寸っとお暇を下さいました時に、宅へまいりましたから、早く帰んなよ、然そうしないと旦那様に済まねえよ、親元に何い時つまでもぐず〳〵して居てはならないと申したら、お父とっさん、私はと何か云い難にくい事がある様子で、ぐず〳〵して居ましたが、何どな方たもいらっしゃいませんからお話を致しますが、お父さん、私は浮気じゃアないが、私のような者でも旦那様が別段お目をかけて下さいますよと云いますから、お前を奉公人の内で一番目をかけて下さるのか、然うじゃアないよ、別段に目をかけて下さるの、何ういう事でと聞きましたら、私ア旦那さまのお手が附いたけれども、此の事が知れては旦那様のお身の上に障さわるから、お前一人得心で居てくれろと申しますから手前は冥加至極な奴だ、彼あ様んな好よい男の殿様のお手が附いて……道理でお屋敷へ上あがる時から、やれこれ目を掛けて下さると思った、併しかし他ほかの奉公人の妬そねみを受けやアしないかと申しましたが、結構な事だ有難いことだと実は悦んで安心していました、菊も悦んで親へ吹聴致すくらいで、何うして林藏さんと……﹂
大﹁こら〳〵大きな声をしては困りますな、併し岩や恋は思案の外ほかという諺もあって、是ばかりは解りませんよ、そんならば宅うちにいて気けぶ振りでも有りそうなものだったが、少しも気振を見せない、尤もっとも主しゅう家来だから気を詰つめるところもあり、同じ朋輩同志人目を忍んで密あい会びきをする方が又楽たのしみと見えて、林藏という者が来た時から、菊が彼かれに優しくいたす様子、林藏の方でもお菊さん〳〵と親したしむ工ぐあ合いだから、結構な事だと思って居たが、起請まで取とり交かわして心中を仕ようとは思いません、実に憎い奴とは思いながら、誠に不憫な事をして、お前の心になって見れば、立腹する廉かどはない、お前には誠に気の毒で、忠平どんも未だ年とし若わかではあるし、他に兄弟もなく、嘸さぞと察する、斯うして一つ屋やし敷きう内ちに居るから、恥入ることだろうと思う、実に気の毒だが、斯この道ばかりは別だからのう﹂
忠﹁へえ、︵泣声にて︶お父とっさん何なんたる事になりましたろう、私わたくしは旦那様の処へ奉公をして居りましても、他の足軽や仲間共に対して誠に顔向けが出来ません、一人の妹が此こ様んな不始末を致し、御当家様へ申訳がありません﹂
大﹁いや、仕方がないから、屍した体いのところは直すぐに引取ってくれるように﹂
岩﹁へえ畏かしこまりました﹂
と岩吉も忠平も本当らしいから、仕方がない、お菊の屍骸を引取って、木具屋の岩吉方から野辺の送りをいたしました。九月十三夜やに、渡邊織江は小梅の御おな中かや屋し敷きにて、お客来がござりまして、お召によって出張いたし、お饗もて応なしをいたしましたので、余程夜よも更けましたが、お客の帰った跡の取片付けを下役に申付けまして、自分は御前を下さがり、小梅のお屋敷を出ますと、浅あさ草く寺さの亥よ刻つの鐘が聞えます。全体此の日は船上忠平も供をして参っておったところが、急に渡邊の宅たくから手紙で、嬢様が少しお癪しゃ気くけだと申してまいりました。嬢様の御病気を看病致すには、慣れたものが居おらんければ不都合ゆえ、織江が忠平に其の手紙を見せまして、先へ忠平を帰しましたから、米よね藏ぞうという老おや僕じに提灯を持たして小梅の御中屋敷を立たち出いで、吾あず妻まば橋しを渡って田たわ原らま町ちから東本願寺へ突つき当あたって右に曲り、それから裏手へまいり、反たん圃ぼの海かい禅ぜん寺じの前を通りまして山やま崎ざき町ちょうへ出まして、上野の山さん内ないを抜け、谷中門へ出て、直ぐ左へ曲って是から只今角に石屋のあります処から又後あとへ少し戻って、細い横よこ町ちょうを入ると、谷中の瑞ずい林りん寺じという法ほっ華けで寺らがあります、今三浦の屋敷へ程近い処まで来ると、突だし然ぬけに飛出した怪しげなる奴が、米藏の持った提灯をばっさり切って落す。
米﹁あっ﹂
と驚く、
織﹁何者だ、うぬ、狼ろう藉ぜき……﹂
と後あとへ退さがるところを藪蔭からプツーリ繰出した槍先にて、渡邊の肋ひばらを深く突く
織﹁ムヽーン﹂
と倒れて起上ろうとする所を、早く大刀の柄つかに手をかけると見えましたが抜ぬき打うちに織江の肩先深く切付けたから堪りません。
織﹁ウヽーム﹂
と残念ながら大刀の柄へ手を掛けたまゝ息は絶えました。
二十三
渡邊織江が殺されましたのは、夜よの子こゝ刻のつ少々前で、丁度同じ時刻に彼かの春部梅三郎が若江というお小姓の手を引ひいて屋敷を駈落致しました。昔は不義はお家の御ごは法っ度となどと云ってお手打になるような事がございました。そんならと申して殿様がお堅いかと思いますと、殿様の方にはお召使が幾いく人たりもあって、何か月に六ろく斎さいずつ交かわる〴〵お勤めがあるなどという権ごん妻さいを置おき散ちらかして居ながら、家来が不義を致しますと手打にいたさんければならんとは、ちと無理なお話でございますが、其の時分の君臣の権けん識しきは大たいして違って居おりましたもので、若江が懐妊したようだというから、何うしても事こと露顕を致します、殊ことには春部梅三郎の父が御舎弟様から拝領いたしました小こづ柄かを紛ふん失じつ致しました。これも表向に届けては喧やかましい事であります、此こな方たも心配致している処へ、若江が懐妊したから連れて逃げて下さいというと、そんなら……、と是から両人共身支度をして、小包を抱え、若気の至りとは云いながら、高たかも家も捨てゝ、春部梅三郎は二十三歳で、其の時分の二十三は当今のお方のように智慧分別も進んでは居りませんから、落着く先の目あ途てもなく、お馬場口から曲って来ると崖の縁ふちに柵さく矢やら来いが有りまして、此こち方らは幡随院の崖になって居りまして、此方に細なが流れがあります。此こ処ゝを川かわ端ばたと申します。お寺が幾らも並んで居ります。清元の浄瑠璃に、あの川端へ祖そ師しさんへなどと申す文句のござりますのは、此の川端にある祖師堂で、此の境内には俳優岩井家代々の墓がございます。夜よに入いっては別に往ゆき来ゝもない処で、人目にかゝる気遣いはないからというので、是から合図をして藪蔭へ潜くゞり込み、
若﹁春部さま﹂
梅﹁あい、私わしは誠に心配で﹂
若﹁私わたくしも一生懸命に信心をいたしまして、貴方と御一緒に此の外へ出てしまえば、何ど様んな事でも宜しゅうございますけれども、お屋敷にいる内に私が捕つかまりますと、貴方のお身に及ぶと存じて、本当に私は心配いたしましたが、宜よく入らしって下さいました﹂
梅﹁まだ廻りの来る刻限には些ちっと早い、さ、これを下りると川端である、柵が古くなっているから、直じきに折れるよ、裾すそをもっと端はし折ょらにゃアいかん、危いよ﹂
若﹁はい、畏かしこまりました、貴方宜しゅうございますか﹂
梅﹁私わしは大丈夫だ、此こち方らへお出いでなさい﹂
と是から二人ともになだれの崖がけ縁べりを下おりにかゝると、手拭ですっぽり顔を包み、紺の看板に真しん鍮ちゅ巻うまきの木刀を差した仲ちゅ間うげ体んていの男が、手に何か持って立って居いる様子、其そ所こへ又一人顔を包んだ侍が出て来る。若江春部の両人は忍ぶ身の上ゆえ、怖い恐ろしいも忘れて檜ひのきの植うえ込ごみの一ひと叢むら茂る藪の中へ身を縮め、息をこらして匿かくれて居りますと、顔を包んだ侍が大小を落おと差しざしにいたして、尻からげに草ぞう履りを穿はいたなり、つか〳〵〳〵と参り、
大﹁これ有助﹂
有﹁へえ、これを彼かの人に上げてくれと仰しゃるので、へい〳〵首尾は十分でございましたな﹂
大﹁うん、手前は之を持って、予かねての通り道どう灌かん山やまへ往いくのだ﹂
有﹁へい宜しゅうございます、文ふば箱こで﹂
大﹁うん、取落さんように致せ、此の柵を脱ぬけて川を渡るのだ、水の中へ落してはならんぞ﹂
有﹁へえ〳〵大丈夫で﹂
大﹁仕損ずるといけんよ﹂
有﹁宜しゅうございます﹂
と低こゞ声えでいうから判はっ然きりは分りませんが、怪しい奴と思って居ります内に、彼かの侍はすっと何いずれへか往ってしまいました。チョンチョン〳〵〳〵。
廻﹁丑や刻つでございます﹂
と云う廻りの声にて、先の仲間体の男は驚き慌てゝ柵を潜くゞって出る。春部は浮気をして情おん婦なを連れ逃げる身の上ではありますが、一体忠義の人でございますから、屋敷内に怪しい奴が忍び込むは盗賊か何だか分りませんから、
梅﹁曲くせ者もの待て﹂
と云いながら領えり上がみを捕とらえる。曲者は無理に振払おうとする機はずみに文ふば箱この太い紐に手をかけ、此こな方たは取ろうとする、彼かの者は取られまいとする、引合うはずみにぶつりと封じは切れて、文箱の蓋ふたもろともに落たる密書、曲者はこれを取られてはならんと一生懸命に取返しにかゝる、遣やるまいと争う機みに、何ういう拍子か手紙の半なかばを引ひっ裂さいて、ずんと力ちか足らあしを踏むと、男はころ〳〵〳〵とーんと幡随院の崖がけ縁べりへ転がり落ちました。其の時耳近く。
廻﹁八やつでございまアす﹂
と云う廻りの声に驚き引ひき裂さいた手紙を懐中して、春部梅三郎は若江の手を取って柵を押分け、身体を横にいたし、漸ようようの事で此こ処ゝを出て、川を渡り、一生懸命にとっとゝ団だん子ござ坂かの方へ逃げて、それから白はく山さん通どおりへ出まして、駕か籠ごを雇い板いた橋ばしへ一泊して、翌日出しゅ立ったつを致そうと思いますと、秋あき雨さめが大おお降ぶりに降り出してまいって、出立をいたす事が出来ませんから、仕方なしに正ひる午す過ぎまで待って居りまして、午ひる飯はんを食たべると忽たちまちに空が晴れて来ましたから、
梅﹁どうか此こ宿ゝを出る所だけは駕籠に仕よう﹂
と駕籠で大宮までまいりますと、もう人に顔を見られても気遣いはないと、駕籠をよして互に手を引合い、漸だん々〳〵大宮の宿しゅくを離れて、桶おけ川がわを通り過ぎ、鴻こうの巣すの手前の左は桑畠で、右手の方は杉山の林になって居ります処までまいりました。御案内の通り大宮から鴻の巣までの道みち程のりは六里ばかりでございます。此こ処ゝまで来ると若江は蹲しゃがんだまゝ立ちません。
梅﹁何うした、足を痛めたのか﹂
若﹁いえ痛めやア致しませんが、只一体に痛くなりました、一体に草くた臥びれたので、股もゝがすくんで些ちっとも歩けません﹂
梅﹁歩けないと云われては誠に困るね、急いで往いかんければなりません﹂
若﹁も往ゆけません、漸ようよう此処まで我慢して歩いて来ましたので、私わたくしは此こん様なに歩いた事はないものですから、最もう何うしても往いけません﹂
梅﹁往いけませんたって…誠に子供のようなことを云っているから困りますな、是から私わしの家来の家うちへでも往くならまだしも、お前の親の許もとへ往って、詫わび言ごとをして、暫しばらく置いて貰わなければなりません、それだのにお前が其そ処こで草臥れたと云って屈かゞんで、気楽な事を云ってる場合ではありません﹂
若﹁私わたくしも実に心配ですが、どうも歩けませんもの、もう少しお駕籠をお雇い遊ばすと宜しゅうございましたのに﹂
梅﹁其そ様んなことを云ったって、今時分こゝらに駕籠はありませんよ、それでなくとも装なりはすっかり変えても、頭あた髪まの風ふうが悪いから、頭巾を被っても自然と知れます、誠に困りました﹂
若﹁困るたって、どうも歩けませんもの﹂
梅﹁歩けんと云って、そうして居ては……﹂
若﹁少し負おぶって下さいませんか﹂
梅﹁何うして私わしも草臥れています﹂
先の方へぽく〳〵行ゆく人が、後うしろを振ふり反かえって見るようだが、暗いので分らん。
梅﹁えゝもし……其そ処こにおいでのお方﹂
男﹁はっ……あー恟びっくりした、はあーえら魂たま消げやした、あゝ怖おっかねえ……何かぽく〳〵黒くれえ物が居ると思ったが、こけえらは能よく貉むじなの出る処だから﹂
若﹁あれまア、忌いやな、怖いこと……﹂
男﹁まだ誰か居るかの……﹂
梅﹁いえ決して心配な者ではありません、拙者は旅の者でござるが、足あし弱よわ連づれで難儀致して居おるので、駕籠を雇いたいと存ずるが、此の辺に駕籠はありますまいか、然そうして鴻の巣まではまだ何どの位ありましょう、それに其そな方たは御近辺のお方か、但し御道中のお人か﹂
男﹁私わしは鴻の巣まで帰けえるものでござえますが、駕籠を雇って後あとへ帰けえっても、十四五丁入へいらねえばなんねえが、最もう少し往いけば鴻の巣だ、五丁半べえの処だアから、同つ伴れでも殖ふえて、まアね少しは紛まぎれるだ、私も怖おっかねえと思って、年い老とってるが臆病でありやすから、追おい剥はぎでも出るか、狸でも出たら何うしべえかと考え〳〵来たから、実に魂消たね、飛上ったね、いまだにどう〳〵胸が鳴ってるだ……見れば大小を差しているようだ、お侍さんだな、どうか一緒に連れて歩いてくだせえ、私も鴻の巣まで参めえるもので﹂
梅﹁それは幸いな事で、然しからば御ごど同うは伴んを願いたい﹂
男﹁えゝ…こゝで飯まんまア喰う訳にはまいりやせん、お飯を喰えって﹂
梅﹁いえ、御ごど同うど道うをしたいので﹂
男﹁アハヽヽヽ一緒に行いくという事か、じゃア、御一緒にめえりますべえ……草臥れて歩けねえというのは此の姉ねえさんかね、それは困ったんべえ、江戸者ちゅう者は歩きつけねえから旅へ出ると意い気く地じはねえ、私わしも宿屋にいますが、時々客人が肉ま刺めエ踏出して、吹ふき売がらに糊のり付つけ板いたを持って来こうてえから、毎いつでも糊板を持って行くだが、足の皮がやっこいだからね、お待ちなせえ、私ア独り歩くと怖えから、提灯を点つけねえで此の通り吊ぶらさげているだ。同つ伴れが殖えたから点けやすべえ﹂
梅﹁お提灯は拙者が持ちましょう﹂
男﹁私わしア此こ処ゝに懐かい中ちゅ附うつ木けぎを持ってる、江戸見物に行った時に山下で買ったゞが、赤い長ちょ太うた郎ろう玉だまが彼あれと一緒に買っただが、附木だって紙っ切きれだよ、火ほく絮ちがあるから造作もねえ、松の蔭へ入はいらねえじゃア風がえら来るから﹂
と幾度もかち〳〵やったが付きません。
男﹁これは中々点かねえもんだね、燧いしが丸くなってしまって、それに火絮が湿ってるだから……漸やっとの事で点いただ、これでこの紙の附木に付けるだ、それ能く点くべい、えら硫黄臭いが、硫黄で拵こしれえた紙だと見える、南風でも北風でも消えねえって自慢して売るだ、点けてしまったあとは、手で押おせえて置けば何い日つでも御ごち重ょう宝ほうだって﹂
梅﹁じゃア拙者が持ちましょう、誠にお提灯は幸いの事で、さ我慢して、五町ばかりだと云うから﹂
若﹁はい、有難う存じます﹂
男﹁お草臥れかね、えへゝゝゝゝ顔を其そっ方ちへ向けねえでも宜よい﹂
若江は頭巾を被って居りますから田舎者の方では分りませんが、若江の方で見ると、旧来我わが家やに勤めている清せい藏ぞうという者ゆえ、嬉しさの余り草臥れも忘れて前へすさり出まして、
若﹁あれまア清せい爺じいや﹂
清﹁へえ……誰だ……誰だ﹂
若﹁誰だってまア本当に、頭巾を被っているから分るまいけれども私だよ﹂
と云いながらお高こそ祖ず頭き巾んをとるを見て、
清﹁こりゃア何とまア魂消たね、何うして……やアこれ阿魔ア……﹂
梅﹁何だ阿魔とは怪けしからん、知る人かえ﹂
若﹁はい、私わたくしの処の親父の存ぞん生しょ中うちゅうから奉公して居ります老じい僕やですが、こゝで逢いましたのは誠に幸いな事で﹂
清﹁ま、どうして来ただアね、宿やど下さがりの時にア私わしは高崎まで行ってゝ留守で逢わなかったが、大でかくなったね、今年で十八だって、今日も汝われが噂アしてえた処だ、見みち違げえるようになって、何とはア立派な姿だアな、何うして来た、宿下りか﹂
若﹁いゝえ、私はまたお前に叱られる事が出来たのだけれども、お母っか様さまに詫わび言ごとをして、どうか此のお方と一緒に宅うちへ置いて戴くようにしておくれな﹂
清﹁此のお方様てえのは﹂
と梅三郎を見まして、
﹁此のお方様が……貴方は岡田さまか﹂
梅﹁えゝ拙者は春部梅三郎と申す者で、以後別べっ懇こんに願います﹂
清﹁へえ、余り固く云っちゃア己がに分りやせん、ま何ういう訳で、あゝ是は失しく策じりでもして出て、貴あん方たが随ついて参ったか﹂
梅﹁いや別に上かみへ対して失しく策じりもござらんが、両人とも心得違いをいたし、昨夜屋敷を駈落いたしました﹂
清﹁え屋敷を出たア…﹂
若﹁此のお方様もお屋敷に居おられず、私わたくしも矢やっ張ぱり居おられない理わ由けになったが、お母っかさんは物堅い御気性だから、屹きっ度と置かないと仰しゃるだろうが、此のお方も、何ど処こへも行ゆき所のないお方で、後生だから何い日つまでも宅うちに居いられるようにしておくれな﹂
清﹁むゝう……此の人と汝われがと二人ながら屋敷に居いられねえ事を出で来かして仕様がなく、駈落をして来たな﹂
若﹁あゝ﹂
清﹁あ……それじゃア何か二人ともにまア不わる義さアして居ただアな、いゝや隠さねえでも宜よい、不わる義さアしたって宜えい、宜えい〳〵〳〵能くした、大えかくなるもんだアな、此こね間えだまで頭ア蝶々見たように結って、柾まさきの嫩やわらっこい葉でピイ〳〵を拵こしらえて吹いてたのが、此こ様んな大でかくなって、綺麗な情おと夫こを連れて突つッ走ぱしって来たか、自分の年い老とったのは分んねえが、汝われが大えかくなったで知れらア、心しん配ぺえせねえでも宜えい、お母ふくろさまが置くも置かねえもねえ、何うしても男と女はわるさアするわけのものだ、心しん配ぺえせねえでも宜えい、どうせ聟むこ養よう子しをせねえばなんねえ、われが死んだ父とっさまの達者の時分からの馴なじ染みで、己が脊中で眠ねたり、脊中で小は便り垂れたりした娘あま子っこが、大でかくなったゞが、お前さんもまんざら忌いやならば此こ様んな処まで手を引ふっ張ぱって逃げてめえる気きづ遣けえもねえが、宿屋の婿むこになったら何うだ、屎くそ草ぞう履りを直さねえでも宜えいから﹂
梅﹁それは有難い事で、何どの様ような事でもいたしますが、拙者は屋敷育ちで頓とんと知しる己べもござらず、前まえ町まちに出入町人はございますが、前町の町人どもの方かたへも参られず、他ひ人との娘を唆そゝのかしたとお腹立もございましょうが、お手前様から宜しくお詫びを願いたい、若もし寺へまいるような子供でもあれば、四書五経ぐらいは教えましても好よし、何うしても困る時には御厄介にならんよう、人ひ家との門かどに立ち、謡うたいを唄い、聊いさゝかの合ごう力りょくを受けましても自分の喰たべるだけの事は致す心得﹂
清﹁其そ様んな事をしねえでも宜ええ、見っともねえ、聟になってお母ふくろの厄介になりたくねえたって、歌ア唄って表え歩いて合力てえ物を売って歩いて、飴屋見たような事はさせたくねえ、あの頭の上へ籠かごか何か乗のっけて売って歩くのだろう﹂
梅﹁いえ、左様な訳ではございません﹂
清﹁然そうで無ねえにしても其そ様んな事は仕ねえが宜えい、そろ〳〵参めえりましょう、提灯を持っておくんなせえ、先へ立って﹂
若﹁お前ね、私は嬉しいと思ったら草臥れが脱ぬけたから宜いいよ﹂
清﹁まアぶっされよ﹂
若﹁宜いよ﹂
清﹁宜えいたって大えかくなっていやらしく成ったもんだから、間ア悪がって……早く負ぶっされよ、少ちいさえうちは大てい概げえ私わしが負おぶったんだ、情おと夫こが居るもんだから見えして、われが友達の奥おく田だの兼かね野郎なア立派な若わけえ衆しゅになったよ、汝われがと同おね年えどしだが、此の頃じゃア肥こい手た桶ごも新しいんでなけりゃ担かつぎやアがんねえ、其そん様なに世話ア焼かさずに負ぶっされよ﹂
二十四
鴻の巣の宿屋では女おん主なあ人るじが清藏の帰りの遅いのを心配いたして、
母﹁あの清藏はまだ帰けえりませんかな……何うしたか長ながえ、他の者を使いにやれば、今までにゃア帰かえるだに……こら、清藏が帰けえったようじゃアねえか、帰けえったら直すぐに此こ処ゝへ来こうといえ﹂
清﹁へえ、只今往って参めえりました……もし、此の人は何とか云っけ、名は……﹂
若﹁春部さま﹂
清﹁うん春部梅か成程……梅さん、そこな客座敷は六畳しかないが、客のえらある時にゃア此処へも入れるだが常にア誰も来ねえから、其そ処こに入へいって居な、一旦詫わびをしねえ内は仕方がねえから……へえ往って参めえりました﹂
母﹁余あんまり長なげえじゃアねえか﹂
清﹁長えって先むこ方うで引留めるだ、まア一いっ盃ぱい飲んで往いけと云って、どうか船の利かないところを、お前めえの馬に積んで二三帰けえり廻してくれと云っていたが、薪まきは百ひゃ把っぱに二十二三把安いよ﹂
主﹁それは宜よかっけな﹂
清﹁何よ、それ何なんに逢いやした、それ…﹂
母﹁誰だ﹂
清﹁誰だって大えかくなって見みち違げえたね、屋敷姿は又別だね、此こ処ゝを斯ういう塩あん梅ばいに曲げて、馬まぐ糞そう受け見たように此処にぺら〳〵下げて来たっけね、今日の髪あたまア違って、着物も何だか知んねえ物を着て来たんだ、年い十八じゃア形なりい大でけえな、それ娘のおわかよ、父とっさまに似てえるだ﹂
母﹁あれまア何ど処けえ﹂
清﹁六畳に居るだ﹂
母﹁あれまア早くそう云えば宜えいじゃアねえか﹂
清﹁遅く屋敷を出たゞよ﹂
母﹁何か塩梅でも悪くて下さがって来たんじゃアあんめえか、それとも朋なか輩ま同士揉めでも出来たか、宿やど下さがりか﹂
清﹁それがね、お屋敷内うちでね、一つ所で働く若わッけえ侍さむれえがあって、好ええ男よ、其そっ方ちを掃いてくんろ、私わしイ拭くべえていった様な事から手が触り足が触りして、ふと私くッ通ついたんだ、だん〳〵聞けば腹ア大でかくなって赤ねゝ児こが出来てみれば、奉公は出来ねえ、そんならばとって男を誘い出して、済みませんから老じ僕いや詫言をしてくんろってよ、どうかまアね、本当に好えいお侍さむれえだよ﹂
母﹁むゝう……じゃア何か情いろ夫おとこを連れやアがって駈落いして来たか﹂
清﹁うん突つッ走ぱしって来ただ﹂
母﹁それから汝われ何ど処こへ入れた﹂
清﹁何処だって別に入れ処どこがねえから、新しん家やの六畳の方へ入れて飯まんまア喰わして置いただ﹂
母﹁馬鹿野郎、呆れた奴だよ、何故宅うちへ引入れた、何故敷居を跨またがしたよ、屋敷奉公をしていながら、不わる義さアして走って来るような心ここ得ろえ違ちがえな奴は、此こ処ゝから勝手次第に何ど処こへでも往ゆくが宜ええと小言を云って、何故追出してやらねえ、敷居を跨がして内へ入れる事はねえよ﹂
清﹁それは然そう云ったって仕様がねえ、どうせ年頃の者に固くべえ云ったっていかねえ、お前めえだって此こ処けえ縁付いて来るのに見合から仕て、婚礼したじゃアねえ、彼あれを知ってるのは私わしばかりだ、十七の時だね、十じゅ夜うやの帰りがけにそれ芋ずい畠きばたけに二人立ってたろう﹂
母﹁止せ……汝われまで其そん様なことをいうから娘あまがいう事を肯きかねえ、宜く考かんげえて見ろよ、熊くまヶい谷石いし原はらの忰を家うちへよばる都合になって居るじゃアねえか、親父のいた時から決っているわけじゃアねえか、それが今情おと夫こを連れて逃げて来やアがって、親が得心で匿かくまって置いたら、石原の舎弟や親達に済むかよ﹂
清﹁おゝ違ちげえねえ、是は済まねえ﹂
母﹁済まねえだって、汝われは何もかも知っていながら、彼あの娘あまを連れて来て、足踏みをさせて済むかよ、只たった今追おん出だしてしめえ、汝われア幾いく歳つになる、頭ア禿はげらかしてよ、女親だけに子に甘く、義理人情を考えねえで入れたと、石原へ聞きこえて済むか、汝も一緒に出て往ゆけ﹂
清﹁私わしが色事をしやアしめえし、出される訳はねえ、実ア私も家うちへ入れめえとは考えたけれども、お侍さむれえさんが如い何かにも優しげな人で、色が白いたって彼あん様なのはねえ、私ア白しろっ子こかと思えやした、一体お侍さむれえなんてえ者は田舎へ来れば、こら百姓……なんて威張るだが、私のような者に手を下げて、心こゝ得ろえ違ちげえをして屋敷を出ましたが、他に知って居る者もねえ、母かゝさまア腹も立とうが、厄やっ介けえにはなりません、稼ぎがあります、何だっけ、えゝ歌ア唄って合ごう力りょくとかいう菓子を売って歩いても世話にならねえから、置いてやって下せえな﹂
母﹁だめだよ、さっさと追出せよ﹂
清﹁そう怒おこったって仕様がねえ、出せば往いき所どこがねえが、娘あま子っこが情おと夫こに己おらア家うちへ来こうって連れて来たものを追おん出だすような事になれば、誠に義理も悪い、他に行いき所どこはねえ、仕様がねえから男ふた女りで身い投げておっ死ちんでしまおうとか、林の中へ入って首でも縊くゝるべえというような、途方もねえ考かんげえを起して、とんでもねえ間まち違げえが出来るかも知んねえ、追おん出だせなら追おん出だしもするが、ひょっとお前めえらの娘が身い投げても、首を縊っても私わしを怨うらんではなんねえよ、只たった今追おん出だすから…﹂
母﹁まア、ちょっくら待てよ﹂
清﹁なに……﹂
母﹁己を連れてって若に逢わせろよ﹂
清﹁逢わねえでも宜よかんべえ﹂
母﹁宜えいよ、己おらア只たゞ追おん出だす心はねえから、彼あい奴つに逢って頭の二つ三つ殴はり返けえして、小こび鬢んでもむしゃぐって、云うだけの事を云って出すから、連れてって逢わせろよ﹂
清﹁それは宜よくねえ、少ちっせえ子供じゃアねえし、十七八にもなったものゝ横ぞっぽを打ぶん殴なぐったりしねえで、それより出すは造作もねえ﹂
母﹁まア待てよ…打うち叩たゝきは兎も角も、娘むすめは憎くて置かれねえ奴だが、附いて来たお侍さむれえさんに義理があるから、己が会って、云うだけの事を云って聞かした其の上で、其の人へ義理だ、娘あまには草わら鞋じせ銭んの少しもくれべえ﹂
清﹁うむ、それは沢たん山と遣やるが宜ええ、新家にいるだよ﹂
と清藏が先へ駈出してまいり、
清﹁今此こ処けへお母ふくろが来るよ﹂
若﹁お母っかさんが怒おこって何とか仰しゃったかえ﹂
清﹁怒るたって怒らねえたって訳が分らねえ、彼あ様んなはア堅かてえ義理を立てる人はねえ、此の前彌やじ次ろ郎うが家うちの鶏とりを喜きは八ちが縊しめたっけ、あの時お母ふくろが義理が立たねえって其の通りの鶏を買って来こねえばなんねえと、幾ら探しても、あゝいう毛がねえで困ったよ、あゝいう気象だから、お前めえさまも其の積りで、田舎者が分らねえ事をいうと思って、肝きもを焦いらしちゃアいけねえよ、腹立紛れに何を云うか知んねえ、来た〳〵、さ此こっ方ちへお母﹂
母﹁あゝ薄暗い座敷だな、行あん灯どんを持って来な……お若〳〵、此こっ方ちへ出ろよ、此こ処けへ出ろ、最もう少し出てよ﹂
お若は間が悪いから、畳へぴったり手を突いて顔を上げ得ません。附いて来た侍は何ど様んな人だか。と横目でじろりと見ながら、自分の方より段々前へ進み出まして
母﹁お若、今清藏に聞きまして魂たま消げましたぞ、汝われは情おと夫こを連れて此こ処けへ走って来たではねえか、何ともはア云いい様ようのねえ親不孝なア奴だ、これ屋敷奉公に出すは何のためだよ、斯ういう田舎にいては行儀作法も覚えられねえ、なれども鴻の巣では家柄の岡本の娘だアから屋敷奉公に上げ、行儀作法も覚えさせたらで、金をかけて奉公に遣ったのに、良えい事は覚えねえで不わる義さアして、此こ処けへ走って来ると云うは何たる心こゝ得ろえ違ちげえなア親不孝の阿魔だか、呆れ果てた、最もう汝われの根性を見限って勘当してくれるから、何ど処けへでも出て往いけ、石原の舎弟に合わす顔が無ねえ、彼あれが汝の婿だ、去年宿やど下さがりに来た時、石原へ連れて往くのに、先むこ方うは田舎育ちの人ゆえ、汝が屋敷奉公をして立派な姿で往くが、先方が木綿ものでいても見下げるな、汝が亭主になる人だよと、何度も云って聞かせ、お父とっ様さんが約束して固く極めた処を承知していながら、情夫を連れて参めえっちゃア石原へ済まねえ事を知っていながら来るとは、何ともはア魂消てしまった、汝より他に子はねえけれども、義理という二字があって何うしても汝を宅うちへ置く事は出来ねえ、見限って勘当をするから何ど処こへでも出て往くが宜えい、汝は此のお方様に見棄てられて乞食になるとも、首い縊くゝって死ぬとも、身を投げるとも汝が心がらで、自業自得だ、子のない昔と諦めますから﹂
と両眼には一杯涙を浮うかめて泣いて居りました。
二十五
母は心の中うちでは不憫でならんが、義理にからんで是非もなく〳〵故わざと声をあらゝげまして、
母﹁これ若、もう物を云わずさっさと出て往け﹂
と云いながら梅三郎に向いまして、
﹁お前様には始めてお目にかゝりましたが、お立派なお侍さんが斯こんな汚きたねえ処へお出でなすったくれえだから、どうか此の娘あまを可愛がって下せえまし、折角此こ処ゝまで連れて逃げて来たものを、若い内には有りうちの事だ、田舎気かた質ぎとは云いながら、頑かた固くなな婆ばゞアだ、何の勘弁したって宜ええにとお前様には思うか知んねえけれども、只今申します通り義理があって、どうも此の娘を宅うちへ置かれません只たった今追出します、名主へも届け、九きゅ離うり断きって勘当します、往ゆき処どこもなし、親みよ戚り頼りもねえ奴でごぜえますから、見棄てずに女房にして下せえまし、貴あん方たが見棄てゝも私わしゃア恨みとも思いませんが、どうかお頼み申します、何や清藏、あのお若を屋敷奉公させて家うちへ帰らば、柔やあらけえ物も着られめえと思って、紬つむ縞ぎじまの手てお織りがえらく出来ている、あんな物が家に残ってると後あとで見て肝きもが焦いれて快よくねえから、帯も櫛くし笄こうがいのようなものまで悉みん皆な要いらねえから汝われえ一ひと風ふろ呂し敷きに引ひん纒まとめて、表へ打うっ棄ちゃっちまえ﹂
清﹁打棄らねえでも宜よかんべい、のう腹ア立とうけれども打棄ったって仕様がねえ﹂
母﹁チョッ、分らねえ奴だな、石原の親達へ対ていしても此こ娘れがに何一つ着せる事ア出来ねえ、そんならと云って家うちに置けば快よくねえ、憎い親不孝なア娘あまの着物を見るのは忌いやだから、打うっ棄ちゃっちまえと云うだ﹂
清﹁打棄らずに取って置いたら宜よかんべい﹂
母﹁雨も降りそうになって居るから、合羽に傘に下駄でも何でも、汝われが心で附けて、此こ娘れがに遣ることは出来ねえ、憎くって、併しかし家うちに置くことが出来ねえから打棄れというのだ、雨が降りそうになって居るから﹂
清﹁うーむ然そうか、打棄るべえ、箪たん笥すごと打棄っても宜えい、どっちり打棄るだから、誰でも拾って往ゆくが宜い、はアーどうも義理という二字は仕様のねえものだ﹂
と立ちにかゝるを引止めて、
梅﹁ま暫しばらく……清藏どんとやら暫くお待ち下さい、只今親おや御ごの仰せられるところ、重々御ごも尤っともの次第で、御尊父御ごぞ存んし生ょうの時分からお約束の許いい嫁なずけの亭主あることを存ぜず、無理に拙者が若江を連れてまいりましたは、あなたに対しては何とも相済みません、若江は亡なくなられた親御の恩命に背そむき、不孝の上の不孝の上うわ塗ぬりをせんければならず、拙者は何ど処こへも往ゆき所どころはないが、男一人の身の上だから、何いず処くの山の中へまいりましても喰うだけの事は出来ます、お前は此こ処ゝに止とゞまって聟を取り、家名相続をせんければならんから、拙者一人で往ゆきます﹂
清﹁ま、お待ちなせえ……そんな義ぎり理だ立てえして無闇に往ったっていけねえ、二人で出て来たものが、一人置いてお前めえさんが往ったら娘あまも快よくねえ訳だア、宜よく相談して往いくが宜えい、今草鞋銭をくれると云うから待てよ、えゝぐず〳〵云っちゃア分らねえ、判はっ然きり云えよ、泣きながらでなく……彼あの人ばかり追おっ返けえしちゃア義理が済むめえ、色事だって親の方にも義理があるから追返す位くれえなら首でも縊つるか、身い投げておっ死ちぬというだ﹂
母﹁篦べら棒ぼう……死ぬなんて威おどし言ごとを云ったら、母おふ親くろが魂消て置くべいかと思って、死ぬなんてえだ、死ぬと云った奴に是迄死んだ例ためしはねえ、さ只たった今死ね、己おれは義理さえ立てば宜えい、汝われより他に子はねえが、死ぬなんて逆らやアがって、死ぬなら死ね、さ此こ処ゝに庖丁があるから﹂
清﹁止せよー、困ったなア……うむ何うした〳〵﹂
若江は身の過あやまりでございますから、一言もないが、心底可愛い梅三郎と別れる気がない、女の狭い心から差込んでまいる癪しゃ気くきに閉じられ、
若﹁ウヽーン﹂
と仰向けさまに反そり返かえる。清藏は驚いて抱き起しまして、
清﹁お前さま帰るなんて云わねえが宜いい、さゝ冷たくなって、歯を咬くいしばっておっ死ちんだ、お前めえ様さまが余あんまり小言を云うからだ……ア痛いたえ、己の頭へ石頭を打ぶッ附つけて﹂
と若江を抱え起しながら、
清﹁お若やー……﹂
母﹁少しぐらい小言を云われて絶ひき息つけるような根性で、何故斯こんな訳になったんだかなア、痛いてえ……此こっ方ちへ顔を出すなよ﹂
清﹁お前めえだって邪魔だよ、何か薬でもあるか、なに、お前めえさま持ってる……むゝう是は巻いてあって仕様がねえ、何だ印いん籠ろうか……可お笑かしなものだな、お前めえさん此の薬を娘あまの口ん中なけへ押おっぺし込んで……半分噛んで飲ませろよ、なに間が悪わりい……横着野郎め﹂
梅三郎は間が悪そうに薬を含くゝんで飲ませますと、若江は漸ようやくうゝんと気が付きました。
清﹁気が付いたか﹂
母﹁しっかりしろ﹂
清﹁大でえ丈じょ夫うぶだ、あゝゝ魂消た余あんまり小言を云わねえが宜ええよ、義理立をして見す〳〵子を殺すようなことが出来る、もう其そん様なに心配しねえが宜えよ﹂
若﹁あの爺じいや、私は斯こんなわるさをしたから、お母っかさまの御立腹は重々御ごも道っと理もだが、春部さまを一人でお帰し申しては済まないから、私も一緒に此のお方と出して下さるように、またほとぼりが冷めて、石原の方の片が附いたら、お母さまの処へお詫をする時節もあろうから、一旦御勘当の身となって、一度は私も出して下さるように願っておくれよ﹂
清﹁困ったね、往ゆき処どこのねえ人を、お若が家うちまで誘い出して来て置かないと云うなら、彼あの人を何うかしてやらなければなんねえ、時節を待って詫わび言ごとをするてえが、何うする﹂
母﹁汝われと違ってお義ぎり理が堅てえ殿さまで、往ゆく処とこのねえ者を一人で出て往いくと仰しゃるは、己がへの義理で仰しゃるだ、憎くて置かれねえ奴だが、此の旦那さまも斯こんなにお義ぎり理が堅てえから、此の旦那様に免じて当分家うちへ置いてくれるから、此こ処ゝに隠れて﹇#﹁隠れて﹂は底本では﹁隠ねて﹂﹈いるが宜えい﹂
清﹁そんなれば早く然そう云えば宜いいに、後あとでそんな事を云うだから駄目だ、石原の子むす息こがぐず〳〵して居て困る事ができたら、私わしが殴ぶっ殺ころしても構わねえ﹂
と是から二人は此の六畳の座敷へ足を止める事になりますと、お屋敷の方は打って変って、渡邊織江は非業に死し翌日になって其の旨を届けると、直すぐさま検視も下おり、遂に屍しが骸いを引取って野辺の送りも内ない証しょにて済ませ、是から悪人穿せん鑿さくになり、渡邊織江の長男渡邊祖そご五ろ郎うが伝記に移ります。
二十六
さて其の頃はお屋敷は堅いもので、当主が他ひ人とに殺された時には、不ふび憫んだから高たかを増してやろうという訳にはまいりません、不ふつ束ゝかだとか不覚悟だとか申して、お暇いとまになります。彼かの渡邊織江が切せつ害がいされましたのは、明和の四年亥いど歳し九月十三夜やに、谷中瑞林寺の門前で非業な死を遂げました、屍骸を引取って、浅草の田たじ島まさ山ん誓せい願がん寺じへ内葬を致しました。其の時検使に立ちました役人の評議にも、誰が殺したか、織江も手てし者ゃだから容易な者に討たれる訳はないが、企たくんでした事か、どうも様子が分らん。死しが屍いの傍わきに落ちてありましたのは、春部梅三郎がお小姓若江と密通をいたし、若江から梅三郎へ贈りました文と、小こづ柄かが落ちてありましたが、春部梅三郎は人を殺すような性質の者ではない、是も変な訳、何ういう訳で斯かよ様うな文が落ちてあったか頓と手掛りもなく、詰り分らず仕舞でござりました。織江には姉あね娘むすめのお竹と祖五郎という今年十七になる忰せがれがあって、家かと督くに人んでございます。此こ者れが愁しゅ傷うしょういたしまして、昼は流さす石がに人もまいりますが、夜分は訪とう者もござりませんから、位牌に向って泣いてばかり居りますと、同どう月げつ二十五日の日に、お上屋敷からお呼出しでありますから、祖五郎は早速麻あさ上がみ下しもで役所へ出ますと、家老寺島兵庫差さし添そえの役人も控えて居り、祖五郎は恐入って平伏して居りますと、
寺島﹁祖五郎も少し進みますように﹂
祖﹁へえ﹂
寺島﹁此の度たびは織江儀不束の至りである﹂
祖﹁はっ﹂
寺島﹁仰せ渡されをそれ…﹂
差添のお役人が懐から仰せ渡され書がきを取とり出いだして読上げます。
一其の方父織江儀御用に付き小梅中屋敷へ罷 り越し帰宅の途中何者とも不知 切害被致候段 不覚悟の至りに被思召 無余儀 永 の御暇 差出候 上は向後 江戸お屋敷は不及申 御領分迄立廻り申さゞる旨被仰出候事
家老名判
祖五郎は
﹁はっ﹂
と頭かしらを下げましたが、心の中うちでは、父は殺され、其の上に又此のお屋敷をお暇いとまになることかと思いますと、年が往いきませんから、只畳へ額ひたえを摺付けまして、残念の余り耐こらえかねて男泣きにはら〳〵〳〵と泪なみだを落す。御家老は膝を進めて言葉を和らげ、
寺﹁マヽ役目は是だけじゃが、祖五郎如い何かにもお気の毒なことで、お母かゝさまには確か早く別れたから、大概織江殿の手一つで育てられた、其の父が何者かに討たれ剰あまつさえ急にお暇になって見れば、差さし向むき何ど処こと云って落着く先に困ろうとお察し申すが、まゝ又其の中うちに御帰参の叶かなう時節もあろうから、余りきな〳〵思っては宜しくない、心を大きく持って父の仇あだを報い、本ほん意いを遂げれば、其の廉かどによって再び帰参を取計らう時節もあろう、急せいては事を仕損ずるという語を守らんければいかん、年来御懇意にもいたした間、お屋敷近い処にもいまいが、遠く離れた処にいても御不自由な事があったら、内ない々〳〵で書面をおよこしなさい﹂
祖﹁千せん万ばん有難う存じます……志し摩ま殿、幸こう五ごろ郎う殿御苦労さまで﹂
志摩﹁誠にどうも此の度たびは何とも申そうようもない次第で、実にえゝ御尊父さまには一ひと方かたならぬ御ごこ懇んめ命いを受けました、志摩などは誠にあゝいうお方様がと存じましたくらいで、へえどうか又何ぞ御用に立つ事がありましたら御遠慮なく……此こ処ゝは役所の事ですから、小屋へ帰りまして仰せ聞けられますように﹂
祖﹁千万有難う﹂
と仕方なく〳〵祖五郎は我わが小屋へ立帰って、急に諸道具を売払い、奉公人に暇いとまを出して、弥いよ々〳〵此こ処ゝを立たち退のかんければなりません。何ど処こと云って便たよって往ゆく目あ途てもございませんが、彼かの若江から春部の処へ送った文が残っていて、春部は家出をした廉かどはあるが、春部が父を殺す道理はない、はて分らん事で……確か梅三郎の乳母と云う者は信州の善光寺にいるという事を聞いたが、梅三郎に逢ったら少しは手掛りになる事もあろうと考えまして、前ぜん々〳〵勤めていた喜六という山出し男は、信州上田の在で、中なかの条じょ村うむらにいるというから、それを訪ねてまいろうと心を決しまして、忠平という名の如く忠実な若党を呼びまして、
祖﹁忠平手前は些ちっとも寝ないのう、ちょいと寝なよ﹂
忠﹁いえ眠くも何ともございません﹂
祖﹁姉あね様さまと昨ゆう夜べのう種いろ々〳〵お話をしたが、屋敷に長くいる訳にもいかんから、此の通り諸道具を引払ってしまった、併しかし又再び帰る時節もあろうからと思い、大切な品は極ごく別懇にいたす出入町人の家へ預けて置いたが、姉様と倶ともに喜六を便たよって信州へ立たち越こえる積りだ、手前も長く奉公してくれたが、親父も彼あの通り追々老とる年だし、菊はあゝ云う訳になったし、手前だけは別の事だから、こりゃア何の足しにもなるまいが、お父とっさまの御ごふ不だん断め召しだ、聊いさゝか心ばかりの品、受けて下さい、是まで段々手前にも宜く勤めて貰い、お父さまが亡ない後のちも種々骨を折ってくれ、私わしは年が往ゆかんのに、姉様は何事もお心得がないから何うして宜いいかと誠に心配していたが、万事手前が取仕切ってしてくれ、誠に辱かたじけない、此こ品れはほんの志ばかりだ……また時が来て屋敷へ帰ることもあったら、相変らず屋敷へ来て貰いたい、此こ品れだけを納めて下さい﹂
忠﹁へえ誠に有難う……﹂
竹﹁手前どうぞ岩吉にも会いたいけれども、立つ時はこっそりと立ちたいと思うから、よく親父にそう云っておくれよ﹂
と云われて、忠平は祖五郎とお竹の顔を視み詰つめて居りました。忠平は思い込んだ容よう子すで、
忠﹁へえ……お嬢さま、私わたくしだけはどうかお供仰付け下さいますように願いたいもので、まア斯うやって私も五ヶ年御奉公をいたして居ります、成程親父は老とる年ですが、まだ中々達者でございます、旦那様には別段に私も御贔屓を戴きましたから、忠平だけはお供をいたし、御道中と申しても若旦那様もお年若、又お嬢様だって旅慣れんでいらっしゃいますから、私がお供をしてまいりませんと、誠にお案じ申します、宅うちで案じて居りますくらいなら、却かえってお供にまいった方が宜しいので、どうかお供を﹂
竹﹁それは私も手前に供をして貰えば安心だけれども、親父も得心しまいし、また跡でも困るだろう﹂
忠﹁いえ困ると申しても職人も居りますから、何うぞ斯うぞ致して居ります、なまじ親父に会いますと又右とや左かく申しますから、立たち前まえに手紙で委くわしく云ってやります、どうか私わたくしだけはお邪魔でもお供を﹂
竹﹁誠に手前の心掛感心なことで……私も往いって貰いたいというは、祖五郎も此の通りまだ年は往ゆかず……併しかしそれも気の毒で﹂
忠﹁何う致しまして、私わたくしの方から願っても、此の度たびは是非お供を致そうと存じて居おるので、どうか願います﹂
竹﹁そんなら岩吉を呼んで、宜よく相談ずくの上にしましょう﹂
忠﹁いえ相談を致しますと、訳の分らんことを申してとても相談にはなりません、それより立つ前に書面を一本出して、ずっとお供をしてまいっても宜しゅうございます、心配ございません﹂
そんならばと申すので、是から段々旅支度をして、いよ〳〵翌あし日た立つという前まえ晩ばんに、忠平が親父の許もとへ手紙を遣やりました。親父の岩吉は碌に読めませんから、他ひ人とに読んで貰いましたが、驚いて渡邊の小屋へ飛んでまいりました。
岩﹁お頼ん申します﹂
忠﹁どうれ……おやお出でかえ﹂
岩﹁うん……手紙が来たから直すぐに来た﹂
忠﹁ま此こっ方ちへお出で﹂
岩﹁手てめ前え何かお嬢様方のお供をして信州とかへ行ゆくてえが飛んだ話だ、え飛んだ話じゃアねえか、そんなら其の様にちゃんと己に斯ういう訳でお供を仕なければならぬがと、宜く己に得心させてから行いくが宜いい、ふいと黙って立っちまっては大変だと思ったから、遅くなりましてもと御門番へ断って来たんだ、えゝおい﹂
忠﹁お供してまいらなければならないんだよ、お嬢様は脾ひよ弱わいお体、若旦那さまは未だお年がいかないから、信州までお送り申さなければなりません、お屋敷へ帰る時節があれば結構だが、容易に御帰参は叶うまいと思うが、長なが々〳〵留守になりますから、お前さんも身をお厭いといなすって御ごた大いせ切つに﹂
岩﹁其そ様んなことを云ったって仕様がない、己は他に子供はない、お菊と手てめ前えばかりだ、ところが菊は彼あんな訳になっちまって、己おらアもう五十八だよ﹂
忠﹁それは知ってます﹂
岩﹁知ってるたって、己おれを置いて何ど処こかへ行ってしまうと云うじゃアねえか、前の金きん太たの野郎でも達者でいれば宜いいが、己も此の頃じゃア眼が悪くなって、思うように難かしい物は指せなくなって居るから困る﹂
忠﹁困るって、是非お供をしなくっちゃアなりません﹂
岩﹁成らねえたって己を何うする﹂
忠﹁私が行いって来るうち、お前は年を老とったって丈夫な身体だから死ぬ気遣いはありません﹂
岩﹁其そ様んな事を云ったって人は老ろう少しょ不うふ定じょうだ、それも近ちけえ処ではなし、信州とか何とか五十里も百里もある処へ行くのだ、人間てえものは明あ日すも知れねえ、其の己を置いて行くように宜よく相談してから行け、手紙一本投込んで黙って行っちまっては親不孝じゃアねえか﹂
忠﹁それは重々私が悪うございましたが、相談をして又お前に止めたり何かされると困るから……これは武家奉公をすれば当あた然りまえのことで﹂
岩﹁なに、武家奉公をすれば当あた然りまえだと、旦那さまが教えたのか﹂
忠﹁お教えがなくっても当あた然りまえだよ﹂
岩﹁然そういうことを手てめ前えは云うけれども、親父を棄てゝ田舎へ一緒に行けと若旦那やお嬢様は仰しゃる訳はあるめえ﹂
忠﹁それは送れとは仰しゃらんのさ、若旦那様や嬢様の仰しゃるには、老とる年の親父もあるから、跡に残った方が宜かろう、と云って下すったが、多分にお手当も戴き、形見分けも頂戴し、殊ことに五ヶ年も奉公した御主人様が零おち落ぶれて出るのを見棄てゝは居いられません、何ど処こまでもお供をして、倶ともに苦労をするのが主従の間だから、悪く思って下さるな﹂
と説とき付つけました。
二十七
段々訳を聞いても岩吉はまだ腑に落ちんので、
岩﹁主従はそれで宜かろうが、己を何うする﹂
忠﹁屋敷奉公をすりゃア斯ういう場合にはお供をするが当あた然りまえさ、お前さんには済まないが忠義と孝行と両方は出来ません、忠孝全まったからずというは此の事さ﹂
岩吉にはまだ言葉の意味が分りませんから、怪けゞ訝んな顔をして、
岩﹁何なんだア、忌いやに理窟を云やアがって、手てめ前え近ちけえ処じゃアなし、えおう五十里も百里もある処へ行くものを、まったからずって待たずに居いられるか﹂
忠﹁然そうじゃアありません、忠義をすれば孝行が出来ないという事です﹂
岩﹁それは親に孝行主人に忠義をしろてえ事は己も知っている、講釈や何かで聞いたよ﹂
忠﹁それですから孝行と忠義と両方は出来ませんよ﹂
岩﹁出来ねえって……骨を折ってやんなよ﹂
忠﹁うふゝゝ骨を折ってやれと云ったって出来ませんよ﹂
岩﹁手てめ前えは生意気に変なことを云って人を困らせるが、己は他に子供が無し、手前たった一人だ、年を老とった親父を置いて一緒に行けと旦那様が仰しゃりアしめえし、跡へ残れ、可愛相だからと仰しゃるのに、手前の了簡で己を棄てゝ行く気になったんだ、親不孝な野郎め﹂
忠﹁なに親不孝ではありませんがね、私は御当家様へ奉公に来て、一いち文もん不ふつ通うの木具屋の忰せがれが、今では何うやら斯うやら手紙の一本も書け、十そろ露ば盤んも覚え、少しは剣術も覚えたのは、皆大旦那のお蔭、今こん日にちの場合にのぞんで年のいかない若旦那様やお嬢様のお供をして行かないと、忠義の道が立ちませんよ﹂
岩﹁それは分っているよ﹂
忠﹁分っているなら遣やって下さいな﹂
岩﹁分ってはいるが、己を何うするよ﹂
忠﹁其そ様んな分らないことを云っては困りますな、何うするたって私が帰るまで待って下さい﹂
岩﹁待てねえ、己おれア待てねえ︵さめ〴〵と泣きながら︶婆さんが死んでから己ア職人の事で、思うように育てることが出来ねえからってんで、御当家様へ願ったんだ、それは御恩にはなったけれども、旦那様が何も手てめ前えを連れてって下さる事アねえ、何う考かんげえても﹂
忠﹁分らん事をいうね、自分の御恩になった御主人様が斯ういう訳になったからだよ﹂
岩﹁何ういう訳に﹂
忠﹁他ひ人とに殺されてお暇いとまになったんだよ﹂
岩﹁お暇……てえのは……お屋敷を出るんだろう﹂
忠﹁然そうさ﹂
岩﹁出て……﹂
忠﹁分らんね、零おち落ぶれてしまうんだよ、御浪人になるんだよ、それだから私が従ついて行かなければならない、仮たと令え私が御免を蒙こうむると云ってもお前が己が若ければお供をして行ゆくとこだが、手てめ前え何ど処こまでもお供申して御ごせ先ん途どを見届けなければならんと云いうのが﹇#﹁云いうのが﹂は底本では﹁云いのが﹂﹈当あた然りまえな話だ、其のくらいな覚悟が無ければ、頭あたまで武家奉公をさせんければ宜いいや、然そうじゃアありませんか、お前さんは屹きっ度と野や暮ぼに止めるに違いないと思ったから、手紙を上げたんだ、分りませんかえ﹂
岩﹁むゝ……分った、むゝう成程侍さむらいてえものは其そ様んなものか……だから最てん初で武家奉公は止そうと思った﹂
祖﹁忠平、親父が来たのじゃアないか﹂
忠﹁へい、親父がまいりました﹂
祖﹁おや〳〵宜くおいでだ、岩吉入はいんな﹂
岩﹁御免なせえまし、誠にお力落しさまで……今度急に忰を連れてお出でなさる事になったんで、まゝ是はどうも武家奉公をすれば当あた然りまえのことで、へえ私わたくしも五十八で﹂
祖﹁貴様も老とる年で親父も困ろうから跡へ残っているが宜よいにと云っても、彼あれが真実に何処までも随ついて行ってくれるという、その志を止められもせず、貴様には誠に気の毒でね﹂
岩﹁どうも是もまア武家奉公で、へゝゝゝ私わたくしは五十八でげす﹂
忠﹁お父とっさん、一つ事ばかり云ってゝ困るね其そ様んな事を云うものではない、明あし日たお立だからお餞はな別むけをしなければなりませんよ﹂
岩﹁え﹂
忠﹁お餞はな別むけをしなさいよ﹂
岩﹁なんだ……お花……は供あげて来たよ﹂
忠﹁分らないよ、お餞せん別べつ﹂
岩﹁え……煎せん餅べいを……なんだ﹂
忠﹁旅へ入らっしゃるお土みや産げをよ﹂
岩﹁うん〳〵……何なんぞ上げましょう、烟草盆の誂あつらえがありますから彼あ品れを﹂
忠﹁其そ様んな大きなものはいけない﹂
岩﹁じゃア火鉢を一つ﹂
忠﹁いけないよ﹂
岩﹁それでは何か途中で喰あがる金こん米ぺい糖とうでも上げましょう、じゃア明あし日た私わしが板橋までお送り申しましょう﹂
祖﹁そんな事をしないでも宜しい、忙がしい身体だから構わずに﹂
岩﹁へえ、忰を何どう卒ぞ何分お頼み申します、へゝゝ誠にもう私わしは五十八でごぜえます﹂
と一つ事ばかり云って、人の善よい、理わ由けの分りません人だから仕方がない。翌よく朝あさ板橋まで送る。下役の銘めい々〳〵も多おお勢ぜいぞろ〳〵と渡邊織江の世話になった者が、祖五郎お竹を送り立派な侍も愛あい別べつ離り苦くで別れを惜おしんで、互に袖を絞り、縁えん切きり榎えのきの手前から別れて岩吉は帰りました。祖五郎お竹等は先ず信州上田の在で中の条村という処へ尋ねて行ゆかんければなりません。こゝで話二つに分れまして、彼かの春部梅三郎は、奥の六畳の座敷に小こが匿くれをいたして居り、お屋敷の方へは若江病気に就ついて急にお暇いとまを戴きたいという願ねがいを出し、老女の計はからいで事なく若江はお暇の事になりましたは御ご慈じ悲ひでござります。さて此の若江の家うちへ宗そう桂けいという極ごく感の悪い旅たび按あん摩まがまいりまして、私わたくしは中年で眼が潰つぶれ、誠に難渋いたしますから、どうぞ、御当家様はお客さまが多いことゆえ、療治をさせて戴きたいと頼みますと、慈なさ悲けぶ深かい母だから、
母﹁療治は下手だが、家うちにいたら追々得意も殖ふえるだろう、清藏丹誠をしてやれ﹂
清﹁へえ﹂
と清藏も根が情深い男だから丹誠をしてやります所から、療治は下手だが、廉やすいのを売うり物ものに客へ頼んで療治をさせるような事になりました。其の歳の十一月二十二日の晩に、母が娘のお若を連れまして、少々用事があって本ほん庄じょ宿うじゅくまで参りました。春部梅三郎は件くだんの隠かく家れがに一人で寝て居り、行あん灯どうを側へ引寄せて、いつぞや邸やしきを出る時に引ひき裂さいた文ふみは、何事が書いてあったか、事に取紛れて碌々読まなかったが、と取出して慰なぐさみ半分に繰くり披ひらき、なに〳〵﹁予かねて申合せ候一儀大半成就致し候え共、絹と木綿の綾は取とり悪にくき物ゆえ今晩の内に引裂き、其の代りに此の文を取落し置おき候えば、此の花は忽たちまち散ちり果はて可もう申すべく茎じくは其そこ許もとさまへ蕾つぼみのまゝ差さし送おくり候﹂はて…分らん…﹁差送候間御ごあ安ん意い之の為め申上候、好こう文ぶん木ぼくは遠からず枯れ秋の芽出しに相成候事、殊ことに安心仕つかまつり候、余は拝面之上々そう〴〵已いじ上ょう﹇#﹁已上﹂は底本では﹁己上﹂﹈、別して申上候は﹂…という所から破れて分らんが、これは何の手紙だろう、少しも訳が分らん……どうも此の程から重役の者の内、殊に神原五郎治、四郎治の両ふた人りの者は、どうも心良からん奴だ、御舎弟様のお為にもならん事が毎度ある、伯父秋月は容易に油断をしないから、神原の方へ引込まれるような事もあるまいが、何の文だろう、何者の手しゅ跡せきだか頓と分らん、はてな。と何う考えても分りませんから、又巻納めて紙入の間へ挟んで寝ましたが、寝付かれません。其の内に離れて居りますけれども、宿とま泊りゅ人うどの鼾いびきがぐう〳〵、往来も大だい分ぶ静かになりますと、ボンボーン、ばら〳〵〳〵と簷のきへ当るのは霙みぞれでも降って来たように寒くなり、襟元から風が入りますので、仰あお臥むけに寝て居りますと、廊下をみしり〳〵抜ぬき足あしをして来る者があります。廊下伝いになっては居るが、締りが附いていて、別に人の来られないようになって居りますから、
梅﹁誰が来たろう、清藏ではあるまいか、何だろう﹂
と態わざと睡ねむった振で、ぐう〳〵と空そら鼾いびきをかいて居りますと、廊下の障子を密そっと音のしないように開けて這はい込こむ者を梅三郎が細目を開ひらいて見ますると、面部を深く包んで、尻しりッ端ぱし折ょりを致しまして、廊下を這って来て、だん〴〵行あん灯どうの許もとへ近づき、下からふっと灯あかりを消しました。漸だん々〴〵探り寄って春部が仰あお臥むけざまに寝ている鼻の上へ斯う手を当てゝ寝息を伺いました。
梅﹁す……はてな……何だろうか知ら、気味の悪い奴だ、どうして賊が入ったか、盗とるものもない訳だが……己を殺しにでも来た奴か知らん﹂
とそこは若いけれども武ぶ家げのことだから頓と油断はしません。眼を細目に開あいて様子を見て居りますと、布ふと団んの間に挟んであった梅三郎の紙入を取出し、中から引出した一封の破れた手紙を透すかして、披ひろげて見て押おし戴いたゞき懐ふと中ころへ入れて、仕すましたり…と行ゆきにかゝる裾すそを、梅三郎うゝんと押えました。
二十八
姿は優しゅうございますが、柔やわ術らに達した梅三郎に押えられたから堪たまりません。
曲者﹁御免なさい﹂
梅﹁黙れ……賊だな、さ何ど処っから忍び込んだ﹂
曲者﹁何どう卒ぞ御免なすって﹂
梅﹁相成らん……何だ逃げようとして﹂
と逆に手を取って押おさ付えつけ。
梅﹁怪しい奴だ、清藏どん、泥坊が入りました。清藏どん〳〵聞えんか、困ったものだ、清藏どん﹂
少し離れた処に寝て居りました清藏が此の声を聞付け、
清﹁あい、はアー……あい〳〵……何だとえ、泥坊が入へいったとえあれま何うもはア油断のなんねえ、庭伝えに入へえったか、何なんにしろ暗くって仕様がねえ、店の方へ往いって灯あかりを点つけて来るから、逃してはなんねえ﹂
梅﹁何だ此こい奴つ……動かすものか、これ……灯を早く持って来んかえ﹂
清藏は店から雪ぼん洞ぼりを点けて参り。
清﹁泥坊は何ど処こに〳〵﹂
梅﹁清藏どん、取押えた、なか〳〵勝手を知った奴と見えて、廊下伝いに入った、力のある奴だが、柔やわ術らの手で押えたら動けん、今暴れそうにしたからうんと一ひと当あてあてたから縛って下さい﹂
清﹁よし、此こい奴つ細っこい紐じゃア駄目だ、なに麻ほそ縄びきが宜いい﹂
とぐる〳〵巻に縛ってしまいました。
曲者﹁何どう卒ぞ御免なすって……実は何なんでございます、へえ全く貧ひんの盗みでございますから、何卒御免なすって﹂
清﹁貧の盗みなんてえ横着野郎め﹂
此の中うち下女などが泥坊と聞いて裸はだ蝋かろ燭うそくなどを持ってまいりました。
清﹁これもっと此こっ方ちへ灯あかりを出せ、あゝ熱いな、頭の上へ裸蝋燭を出す奴があるかえ、行あん灯どんを其そっ方ちへ片かた附しちめえ、此の野郎頬ほっ被かぶりいしやアがって、何ど処こから入へいった﹂
と手拭をとって曲者の顔を見て驚き、
清﹁おや、此の按摩ア……汝われは先月から己おらア家うちへ来て、俄にわ盲かめくらで感が悪くって療治が出来ねえと云うから、可愛相だと思って己ア家へ置いてやった宗桂だ、よく見りゃア虚そら盲めくらで眼が明いてるだ、此の狸按摩汝うぬ、よく人を盲だって欺だましアがった、感が悪くって泥坊が出来るかえ、此の磔はッつけめえ﹂
と二つばかり続けて撲ぶちました。
曲﹁御免なさい、誠にどうも番ばん頭つさん、実ア盲じゃアごぜえません、けれども旅で災難に遭いまして、後あとへは帰れず、先へも行いかれず、仕様が有りませんから、実は喰くい方かたに困って此こち方らはお客が多いから、按摩になってと思いまして入ったんでございますが、漸だん々〳〵銭が無くなっちまいましたから、江戸へ帰っても借金はあり、と云って故こき郷ょう忘ぼうじ難がたく、何うかして帰りてえが、借金方の附くようにと思いまして、ついふら〳〵と出来心で、へえ、沢たん山と金え盗とるという了簡じゃアごぜえません、貧の盗みでございますから、お見みの遁がしを願います﹂
清﹁此の野郎……此こい奴つのいう事ア迂うっ濶かり本当にア出来ねえ、嘘を吐つく奴は泥坊のはじまり、最もう泥坊に成ってるだ此の野郎﹂
曲﹁どうか御免なすって﹂
梅﹁いや〳〵手前は貧の盗みと云わせん事がある、貧の盗みなれば何な故ぜ紙入れの中の金入れか銭入れを持って行ゆかぬ、何で其の方は書付ばかり盗んだ﹂
曲﹁え……これはその何なんでございます、あゝ慌あわてましたから、貧の盗みで一いち途ずにその私わたくしは、へえ慌てまして﹂
梅﹁黙れ、手前はどうも見たような奴だ、此こい奴つを確しっかり縛って置き、殴たゝっ挫くじいても其の訳を白状させなければならん、さ何ういう理わ由けで此の文を盗とった、手前は屋敷奉公をした奴だろう、谷中の屋敷にいた時分、どうも見掛けたような顔だ……手前は三崎の屋敷にいた事があったろうな﹂
曲﹁いえ……どう致しまして、私わたくしは麻布十番の者でごぜえます、古こ河がに伯父がごぜえまして、道具屋に奉公して居りましたが、つい道楽だもんでげすから、お母ふくろが死ぬとぐれ出し、伯父の金え持逃げをしたのが始まりで、信州小こむ室ろの在ぜえに友達が行って居りますから無心を云おうと思いまして参ったのでごぜえますが、途中で災難に遭い、金か子ねを……﹂
梅﹁いや〳〵幾ら手前が陳じても、書付を取るというは何か仔細があるに相違ない、清藏どん打ぶって御覧、云わなければ了簡がある、真実に貧の盗みなれば金を取らなければならん、書付を取るというはどうも理わ由けが分らんから、責めなければならん﹂
清﹁さ云えよ、云わねえと痛いてえめをさせるぞ、誰か太っけえ棒を持って来い、角かどのそれ六角に削った棒があったっけ、なに長なげえ…切って来こう……うむ宜よし…さ野郎、これで打ぶつが何うだ﹂
と続け打うちに打ちますと、曲者は泣声を致しまして、
曲﹁御免なすって、貧の盗みで﹂
清﹁貧の盗みなんて生なま虚そらア吐つきやアがって、家うちへ来た時に汝われ何と云った、少ちいせえ時に親父が死んで、お母ふくろの手にかゝっている内に、眼が潰れたって、言うことが皆みんな﹇#﹁皆みんな﹂は底本では﹁皆みなな﹂﹈出たらめばかりだ、此の野郎︵打ぶつ︶﹂
曲﹁あ痛いた〳〵〳〵痛いとうごぜえやす、どうか御勘弁を…悪い事はふッつり止やめますから﹂
清﹁止やめるたって止めねえたって、何で手紙を盗んだ︵又打うつ︶﹂
曲﹁あ痛うごぜえやす、何う云う訳だって、全く覚えが無ねえんでごぜえやす、只慌てゝ私わっしが……﹂
梅﹁黙れ、何処までも云わんといえば殺してしまうぞ、此こっ方ちが先程から此の手紙が分らんと、幾度も読んで考えていたところだ、これは何か隠かくし文ぶみで、お屋敷の大事と思えば棄置かれん、五ごぶ分だ試めしにしても云わせるから左様心得ろ…﹂
と
﹁脇差を取って来る間逃げるとならんから﹂
清﹁なに縛ってあるから大丈夫だよ﹂
梅﹁五分だめしにするが何うだ、云わんければ斯うだ﹂
とすっと曲者の眼の先へ短みじ刀かいのを突付ける。
曲﹁あゝ危あぶのうごぜえやす、鼻の先へ刀を突付けちゃア……どうぞ御勘弁を﹂
梅﹁これ、手前が幾ら隠してもいかん事がある、手前は谷中三崎の屋敷で松蔭の宅に居た奴であろうな﹂
曲﹁へえ﹂
梅﹁もういけん、此こ書れは松蔭から何者へ送るところの手紙か、又他わきから送った手紙か、手前は心得て居おるか﹂
曲﹁へえ﹂
梅﹁いやさ、云わんければ手前は嬲なぶり殺ごろしにしても云わせなければならん、其の代り云いさえすれば小こづ遣かいの少しぐらいは持たして免ゆるしてやる﹂
清﹁そうだ、早く正直に云って、小遣を貰え、云わなければ殺されるぞ、さ云えてえば︵又打うつ︶﹂
曲﹁あゝ痛うごぜえます、あ危あぶのうございます、鼻の先へ……えゝ仕方がないから申上げますが、実はなんでごぜえます、私わたくしが主人に頼まれて他ほかへ持っていく手紙でごぜえます﹂
梅﹁むゝ何ど処こへ持って行ゆく﹂
曲﹁へえ先さ方きは分りませんけれども持って行ゆくので﹂
梅﹁これ〳〵先さ方きの分らんということがあるか、何処へ……なに、先方が分っている、種いろ々〳〵な事を云い居おるの、先方が分ってれば云え﹂
曲﹁へえ、その何なんでごぜえます、王子の在にお寮りょうがあるので、その庵あん室しつ見たような所の側わきの、些ちっとばかりの地面へ家うちを建てゝ、楽に暮していた風流の隠居さんが有りまして、王子の在へ行って聞きゃア直すぐに分るてえますから、実は其そ処こは池いけの端はた仲なか町ちょうの光こう明みょ堂うどうという筆屋の隠居所だそうで、其そ家こにおいでなさる方へ上げれば宜よいと云いい付つかって、私わたくしが状箱を持ってお馬場口から出ようとすると、今考えれば旦那様で、貴方に捕つかまったので、状箱を奪とられちゃアならんと思いやして一生懸命に引ひっ張ぱる途端、落ちた手紙を取ろうとする、奪られちゃア大変と争う機はずみに引ひっ裂さかれたから、屋敷へ帰ることも出来ず、貴方の跡を尾つけて此こち方らへ入った限ぎり影も形も見えず、だん〳〵聞けば、あのお小姓のお家うちだとの事ですから、俄にわ盲かめくらだと云って入り込んだのも只其の手紙せえ持って行いけば宜いいんで、是を落すと私わたくしが殺されたかも知れねえんで﹂
梅﹁うん、わかった、いや大あら略〳〵分りました﹂
清﹁大あら略〳〵ってお前さんの心に大概分ったかえ﹂
梅﹁少し屋敷に心当りの者もある、此の書面は其の方の主人松蔭が書いたのか﹂
曲﹁いえ……誰が書いたか存じませんが、大切に持って行いけよ、落したり失なくしたりする事があると斬っちまうと云われて恟びっくりしたんで、其の代り首尾好く持って行ゆけば、金を二十両貰う約束で﹂
梅﹁むゝう……清藏どん、今に夜よが明けてから一ひと詮せん議ぎしましょうから、冷ひや飯めしでも喰わして物置へ棒縛りにして入れて置いて下さい﹂
二十九
清藏は曲者を引ひっ立たてまして、
清﹁これ野郎立たねえか、今冷まん飯ま喰わしてやる、棒縛り程楽なものはねえぞ﹂
と是から到頭棒縛りにして物置へ入れて置きました。翌日梅三郎は曲者から取返した書面を出して見ると、再び今一つの裂きれ端はしも一緒になっていたので、これ幸いと曲者の持っていた書面と継つぎ合あわせて見まして、
梅﹁中なか田だち千は早や様へ常とき磐わよりと……常磐の二字は松蔭の匿かく名しなに相違ないが、千早と云うが分らん、彼あの下男を縛ってお上屋敷へ連れて往ゆこう、それにしても八州の手に掛け、縛って連れて行ゆかなければならん﹂
と是から物置へまいり、曲者を曳ひき出だそうと思いますと、何い時つか縄なわ脱ぬけをして、彼かの曲者は逐電致してしまいました。そこで八州の手を頼み、手てわ分けをいたして調べましたが、何うしても知れません、なか〳〵な奴でございます。さて明和の五年のお話で……此の年は余り良い年ではないと見えまして、三月十四日かに大阪曾そね根ざき崎し新ん地ちの大火で、山城は洪水でございました。続いて鳥羽辺が五月朔つい日たちからの大洪水であった、などという事で、其の年の六月十一日にはお竹たけ橋ばしへ雷らいが落ちて火事が出ました、などと云う余り良い事はございません。二月五いつ日か、粂野のお下屋敷では午うま祭ゝつりの宵よみ祭やで大層賑にぎやかでございます。なれども御舎弟様御不例に就つきまして、小梅のお中屋敷にいらしって、お下屋敷はひっそり致して居りますが、例年の事で、大して賑かな祭と申す方ではないが、ちら〳〵町人どもがお庭拝見にまいります。松蔭大藏の家来有助は姿を変え、谷中あたりの職人体ていに扮こしらえ、印しる半しば纏んてんを着まして、日の暮くれ々〴〵に屋敷へ入いり込こんで、灯あか火りの点つかん前にお稲荷様の傍そばに設けた囃はや子しや屋た台いの下に隠れている内に、段々日が暮れましたから、町の者は亥よ刻つ﹇#﹁亥刻﹂は底本では﹁戌刻﹂﹈になると屋敷内へ入れんように致します。灯あか火りも忽たちまち消しまして静かになりました。是から人の引ひっ込こむまでと有助は身を潜かゞめて居りますと、上野の丑や刻つの鐘がボーン〳〵と聞える、そっと脱ぬけ出だして四あた辺りを見廻すと、仲ちゅ間うげ衆んしゅうの歩いている様子も無いから、
有﹁占しめた﹂
と呟つぶやきながらお馬場口へかゝって、裏手へ廻り、勝手は宜く存じている有助、主人松蔭大藏方へ忍び込んで、縁側の方へ廻って来ると、烟草盆を烟きせ管るでぽん〳〵と叩く音。
有﹁占めた﹂
と云うので有助が雨戸の所を指先でとん〳〵とん〳〵と叩きますと、大藏が、
大﹁今開けるぞ、誰も居らんから心配せんでも宜よい、有助今開けるぞ﹂
と云われて有助は驚きました。
有﹁去年の九月屋敷を出てしまい、それっきり帰らない此の有助が戸を叩いた計ばかりで、有助とは実に旦那は智ちえ慧し者ゃだなア…これだから悪い事も善い事も出来るんだ﹂
松蔭大藏は寐ねま衣きす姿がたで縁側へまいり、音をさせんように雨戸を開け、雪ぼん洞ぼりを差出して透すかし見まして、
大﹁此こっ方ちへ入れ﹂
有﹁へえ、旦那様其の中うちは、面も被かぶらずのめ〳〵上あがられた義理じゃアごぜえませんが、何うにも斯うにも仕方なしに又お屋敷へ帰けえってまいりました、誠に面目次第もありません﹂
大﹁さ、誰も居らんから此方へ入れ〳〵﹂
有﹁へえ〳〵﹂
大﹁構わず入れ﹂
有﹁へえ、足が泥ぼっけえで﹂
大﹁手拭をやろう、さ、これで拭け﹂
有﹁此こ様んな綺麗な手拭で足を拭いては勿体ねえようで……さて私わたくしも、ぬっと帰けえられた義理じゃアごぜえませんが、帰けえらずにも居おられませんから、一通りお話をして、貴方に斬られるとも追出されるとも、何うでも御了簡に任せようと、斯う思いやして帰ってまいりましたので﹂
大﹁彼あれ限きりで音沙汰が無いから、何うしたかと実は心配致していた、手前は彼あの手紙を何者かに奪とられたな﹂
有﹁へえ、春部に奪られたので、春部の彼あい奴つが若江という小姓と不いた義ずらをして逃げたんで、其の逃げる時にお馬場口から柵さく矢やら来いの隙間の巾の広い処から、身体を横にして私わたくしが出ようと思います途端に出でっ会くわして、実にどうも困りました﹂
大﹁手紙を何うした奪られたか﹂
有﹁それがお前さん、鼻を摘つままれるのも知れねえ深よふ更けで、突いき然なり状箱へ手を掛けやアがッたから、奪られちゃアならねえと思いやして、引張ると紐が切れて、手紙が落おっこちる、とうとう半分引ひっ裂さかれたから、だん〳〵春部の跡を尾ついて行いくと、鴻の巣の宿屋へ入りやしたから、感が悪い俄盲ッてんで、按摩に化けて宿屋に入いり込こみ一度は旨く春部の持っていた手紙の裂きれを奪とったが、まんまと遣やり損そこなって、物置へ棒縛りにして投込まれた、所で漸ようやく縄なわ脱ぬけえして逃出しましたが、近辺にも居いられやせんから、久しく下しも総ふさの方へ隠れていやしたが、春部にあれを奪られて何う致すことも出来やせんので、へえ﹂
大﹁いや、それは宜しい、心配致すな、手前は己の家来ということを知るまい﹂
有﹁ところが知ってます〳〵、済まねえけれどもお前さん、ギラ〳〵するやつを引ひっこ抜いて私わっしの鼻っ先へ突付け云わねえけりゃア五分だめしにしちまう、松蔭の家来だろう、三崎の屋敷に居たろう、顔を知ってるぞ、さア何うだと責められて、つい左様でごぜえますと申しやした﹂
大﹁なにそれは云っても宜いい、彼あの晩には実ア神原も酷ひどい目に遭った、何事も是程の事になったら幾らも失しく策じりはある、丸まる切ッきりしくじって、此の屋敷を出てしまったところが、有助貴様も己と根岸に佗わび住ずま居いをしていた時を思えば、元々じゃアないか﹂
有﹁それは然そうでごぜえます﹂
大﹁彼あす処こに浪人している時分一つ鍋で軍しゃ鶏もを突つッつき合っていたんだからのう﹂
有﹁旦那のように然う小言を云わずにおくんなさるだけ、一倍面めん目ぼく無のうござえます﹂
大﹁だによって行やる処までやれ、今までの失しく策じりも許し、何もかも許してやる、それに手前此こ処ゝに居ては都合が悪い、就ついては金か子ねが二十両有るからこれをやろう﹂
有﹁へえ、是は有難うごぜえます﹂
大﹁其の代り少し頼みがある、手前小梅のお中屋敷へ忍び込んで、お居間近ぢかく踏込み……いや是は手前にア出来ん、夜よづ詰めの者も多いが、何かに付けて邪魔になる奴は、彼あの遠山權六だ、彼あれがどうも邪魔になるて﹂
有﹁へえー、あの国にいて米こめ搗つきをしてえた、滅めっ法ぽう界かいに力のある……﹂
大﹁うん、彼あい奴つが終よど夜おし廻るというので、何うも邪魔だ﹂
有﹁へえー﹂
大﹁彼あれを手前殺して、ふいと家出をしてしまえ、何ど処こへでも宜よいから身を隠してくれ﹂
有﹁彼あれは殺せやせん、それはお前さん御無理で、からどうも彼あのくれえ無法に力のある奴ア沢たん山と有りません、植木屋が十人もよって動かせねえ石を、ころ〳〵動かします、天狗見たような奴で、それじゃアお前さん私わっしを見殺しにするようなもので﹂
大﹁いや、通た常ゞじゃア敵かなわない、欺だますに手なしだ、あゝいう剛ごう力りきな奴は智慧の足りないもので、それに一体彼あい奴つは侠きょ客うか気くぎが有ってのう、人を助けることが好きだ、手前何うかして田たん圃ぼづ伝たいに行って、田圃の中へ入らなければならんが、彼あす所こにも柵があるから、其の柵矢来の裏手から入って、藪の中にうん〳〵呻うなっていろ﹂
有﹁私わっしがですかえ﹂
大﹁うん、藪の中に泥だらけになって呻っていろ﹂
有﹁へえ﹂
大﹁すると忍び廻りで權六がやって来て何だと咎とがめるから、構わずうん〳〵呻れ﹂
有﹁気味の悪い、そいつア御免を蒙こうむりやす、お金は欲しいが、彼あい奴つの側へ無闇に行くのは危けん険のんです、汝おのれは何だと押え付けられ、えゝと打ぶたれりゃア一ひと打うちで死にやすから﹂
大﹁そこが欺すに手なしだ、私は去年の九月松蔭を暇いとまになりまして、行ゆき所どこがございません、何うかして詫にまいりたいが中々主人は一旦言出すと肯ききません、あなたはお国からのお馴染だそうでございますが、貴方が詫わび言ごとをして下すったら否いやとは云いますまいから、何分お頼み申しますと、斯う手前泣付け﹂
有﹁然そうすりゃア殺しませんか﹂
大﹁うん、只手前が悪い事をしたと云って、うん〳〵呻っていろ、何うして此こ処ゝへ来たと聞いたら、実はお下屋敷の方へ参られませんから、此こち方らへ参ったのでございます、旅で種いろ々〳〵難行苦行をして、川を渉わたり雪に遇あい、霙みぞれに遭い風に梳くしけずり、実に難儀を致しましたのが身体へ当って、疝せん癪しゃくが起り、少しも歩けませんからお助け下さいましと云え、すると彼あい奴つは正直だから本当に思って自分の家うちへ連れて行って、粥ぐらいは喰わしてくれるから、大きに有難う、お蔭さまで助かりましたと云うと、彼奴が屹きっ度と己の処へ詫に来る、もし詫に来たら、彼あれは使わん、怪けしからん奴だ、これ〳〵の奴だと手前の悪あく作ざも妄く作ざを云ってぴったり断る﹂
有﹁へえ、それは詰つまらねえ話で、其そ様んな奴なら打ぶっ殺ころしてしまうってんで…﹂
大﹁いや〳〵大丈夫だ、まア聞け、とてもいかん〳〵という中うちに、段々味あじわいを附けて手前の善い所を云うんだ﹂
有﹁成程﹂
大﹁正直の人間……とも云えないが、働くことは宜く働き、口も八丁手も八丁ぐらいな事は云う、手前を殺さないように、そんなら己の家うちへ置くと云ったら幸い、若もし世話が出来ん出て行けと云ったら仕方が有りませんと泣く〳〵出れば、小遣いの一分や二分はくれる、それを貰って出てしまった所が元々じゃアないか、もし又首尾好く權六の方へ手前を置いてくれたら、深よふ更けに權六の寝間へ踏込んで權六を殺してくれ、また其の前にも己の処へ詫びに来る時にも、隙すきが有ったら、藪に倒れてゝ歩けない、担かついでやろうとか手を引いてやろうとか云った時にも隙があったら、懐から合あい口くちを出して殺やっちまえ、首尾好く仕しお遂おせれば、神原に話をして手前を士さむ分らいに取立てゝやろう、首尾好く殺して、ポンと逃げてしまえ、十分に事成った時には手前を呼戻して三百石のものは有るのう。手前が三百石の侍になれる事だが、どうか工夫をして行やって見ろ、もし己のいう事を胡うろ乱んと思うなら、書附をやって置いても宜しい、お互に一つ鍋の飯を食い、燗徳利が一いっ本ぽん限ぎりで茶碗酒を半分ずつ飲んだ事もある仲だ、しくじらせる事も出来ずよ、旨く行ゆけば此の上なしだ、出来損ねたところが元々じゃアないか﹂
有﹁成程……行やって見ましょうが、彼あの野郎を殺やるのには何か刄物が無ければいけませんな﹂
大﹁待てよ、人の目に立たん証拠にならん手前の持ちそうな短刀がある、さ、これをやろう、見掛は悪くっても中々切れる、関せきの兼かね吉よしだ、やりそくなってはいかんぞ﹂
有﹁へえ宜しゅうごぜえます﹂
大﹁闇の晩が宜よいの﹂
有﹁闇の晩、へえ〳〵﹂
大﹁小遣をやるから手前今晩の中うち屋敷を出てしまえ﹂
有﹁へえ﹂
と金と短刀を受取って、お馬場口から出て行ゆきました。
三十
さて二の午うまも済みまして、二月の末になりまして、大きに暖気に相成りました。御舎弟紋之丞様は大した御病気ではないが、如い何かにも癇が昂たかぶって居ります。夜よづ詰めの御家来も多おお勢ぜい附いて居ります、其の中には悪い家来が、間まが宜よくば毒殺をしようか、或あるいは縁の下から忍び込んで、殺してしまう目もく論ろ見みがあると知って、忠義な御家来の注意で、お畳の中へ銅あか板ゞねいたを入れて置く事があります。是は将軍様のお居間には能よくあることで、これは間違いの無いようにというのと、今一つは湿しっけて宜しくないから、二重に遊ばした方が宜しいと二重畳にして御ぎょ寝しんなる事になる。屏風を建たて廻まわして、武張ったお方ゆえ近臣に勇ましい話をさせ昔の太たい閤こうとか、又眞さな田だは斯う云う計はか略りごとを致しました、楠くすのきは斯うだというようなお話をすると、少しは紛まぎれておいでゞございます。悪い奴が多いから、庭にわ前さきの忍び廻りは遠山權六で、雨が降っても風が吹いても、嵐でも巡みま廻わるのでございます。天気の好よい時にも草わら鞋じを穿はいて、お馬場口や藪の中を歩きます。袴はかまの裾すそを端はし折ょって脊せわ割りば羽お織りを着ちゃくし、短かいのを差して手頃の棒を持って無むぢ提ょう灯ちんで、だん〳〵御花壇の方から廻りまして、畠はた岸けぎしの方へついて参りますと、森の一ひと叢むらある一かた方〳〵は業なり平ひら竹だけが一杯生えて居ります処で、
男﹁ウーン、ウーン﹂
と呻うなる声がしますから、權六は怪しんで透すかして見て、
權﹁何なんだ……呻ってるのは誰だ﹂
男﹁へえ、御免下さい、どうかお助けなすって下さいまし﹂
權﹁誰だ……暗い藪の中で……﹂
男﹁へえ、疝せん癪しゃくが起りまして歩くことが出来ません者で…﹂
權﹁誰だ……誰だ﹂
男﹁へえ、あなたは遠山様でございますか﹂
權﹁何うして己を……汝われは屋敷の者か﹂
男﹁へえ、お屋敷の者でごぜえます﹂
權﹁誰だ、判はっ然きり分らん、待て〳〵﹂
と懐から手てま丸るぢ提ょう灯ちんを取出し、懐かい中ちゅ附うつ木けぎへ火を移して、蝋燭へ火を点ともして前へ差出し、
權﹁誰だ﹂
男﹁誠に暫く、御機嫌宜しゅう……だん〴〵御出世でお目出度うござえます﹂
權﹁誰だ﹂
有﹁えゝ、お下屋敷の松蔭大藏様の所に奉公して居りました、有助と申す中ちゅ間うげんでござえます﹂
權﹁ウン然そうか、碌に会った事もない、それとも一度か二度会った事があるかも知れんが、忘れた、それにしても何うしたんだ﹂
有﹁へえ、あなたは委くわしい事を御存じありますめえが、去年の九月少し不首尾な事がありまして、家うちへは置かねえとって追出され、中々詫言をしても肯きかねえと存じまして、友達を頼って田舎へめえりましたところが、間の悪い時にはいけねえもんで、其の友達が災難で牢へ行くことになり、留守居をしながら家内を種いろ々〳〵世話をしてやりましたが、借金もある家うちですから漸だん々〳〵行ゆき立たたなくなって、居候どころじゃアごぜえませんから、出てくれろと云われるのは道もっ理ともと思って出ましたが、他ほかに親類身寄もありませんから、詫言をして帰りてえと思いましても、主人は彼あの気象だから、詫びたところが置く気きづ遣かいは有りません、種々考えましたが、あなたは確か美作のお国からのお馴染でいらっしゃいますな﹂
權﹁然そうよ﹂
有﹁あなたに詫言をして戴こうと斯う思いやして、旅から考えて参りましたところが、中々入れませんで、此の田の中をずぶ〳〵入って此こ処ゝへ這はい込こみやしたが、久しく喰わずにいたんで腹が空すいて堪たまりません、雪に当ったり雨に遭ったりしたのが打って出て、疝癪が起って、つい呻りました、何分にも恐入りますが何うか主人に詫言をお願い申します﹂
權﹁むう、余程悪い事をしたな、免ゆるすめえ、困ったなア、なに物を喰わねえ﹂
有﹁へえ、実は昨きの日うの正ひ午るから喰いません﹂
權﹁じゃア、ま肯きくか肯かねえか分らんけれど、話しても見ようし、お飯まんまは喰わしてやろう﹂
有﹁有難うござえます﹂
權﹁屋敷へつか〳〵無む沙さ汰たに入って呻ったりしないで、門から入れば宜いいに……何しろ然そう泥だらけじゃア仕方がねえから小屋へ来い﹂
有﹁有難うごぜえます﹂
權﹁さ行け﹂
有﹁貴方ね、疝癪で腰が攣つって歩けません﹂
權﹁困った奴だ、何うかして歩け、此の棒を杖つけ﹂
有﹁へえ、有難うごぜえます﹂
權﹁それ確しっかりしろ﹂
有﹁へえ﹂
權﹁提灯を持て﹂
有﹁へえ﹂
と提灯の光ですかし見ると、去年見たよりも尚なお肥ふとりまして立派になり、肩幅が張ってゝ何うも凛り々ゝしい男で、怖いから、
有﹁へえ参ります﹂
權﹁さ行ゆけ﹂
有﹁旦那さま、誠に恐入りますが、片かた方〳〵に杖を突いても、此こっ方ちの腰が何分起たちませんから、左の手をお持ちなすって﹂
權﹁世話アやかす奴だな、それ捉つらまれ﹂
と右の手を出して、
有﹁へえ有難う﹂
とひょろ〳〵蹌よろけながら肩へ捉つらまる。
權﹁確しっかりしろい﹂
有﹁へえ﹂
と云いながら懐よりすらりと短刀を抜いて權六の肋あばらを目懸けてプツーり突掛けると、早くも身を躱かわして、
權﹁此の野郎﹂
と其の手を押えました。手首を押えられて有助は身体が痺しびれて動けません力のある人はひどいもので。併しかし直すぐに役所へ引いて行ゆかずに、權六が自分の宅たくへ引いて来たは、何か深い了簡あってのことゝ見えます。此のお話は暫しばらく措おきまして、是から信しな濃のゝ国くにの上田在ざい中の条に居ります、渡邊祖五郎と姉の娘お竹で、お竹は大たい病びょうで、田舎へ来ては勝手が変り、何かにつけて心配勝ち、左さなきだに病身のお竹、遂に癪の病を引出しました。大した病気ではないが、キヤキヤと始終痛みます。祖五郎も心配致しています所へ手紙が届きました。披ひらいて見ますと、神原四郎治からの書状でございます。渡邊祖五郎殿という表うわ書がき、只今のように二日目に来るなどという訳にはまいりません。飛脚屋へ出しても十とお日か二は十つ日かぐらいずつかゝります。読よみ下くだして見ると、
と読よみ了おわり、飛立つ程の悦び、年若でありますから忠平や姉とも相談して出立する事になりましたが、姉は病気で立つことが出来ません。
祖﹁もし逃げられてはならん、あなたは後あとから続いて、私わたくし一ひと人りでまいります﹂
と忠平にも姉の事を呉くれ々〴〵頼んで、鴻の巣を指して出立致しました。五日目に鴻の巣の岡本に着きましたが、一人旅ではございますが、お武家のことだから宿屋でも大切にして、床の間のある座敷へ通しました。段々様子を見たが、手掛りもありません、宿屋の下おん婢なに聞いたが頓と分りません、
祖﹁はてな……こゝに隠れていると云うが、まさか人ひと出では入いりの多い座敷に隠れている気遣いはあるまい、此こ処ゝにいるに相違ない﹂
と便所へ行って様子を見廻したが、更に訳が分りません。
三十一
渡邊祖五郎は頻しきりに様子を探りますが、少しも分りません、夜よな半かに客が寝ねし静ずまってから廊下で小こよ用うを達たしながら唯と見ますと、垣根の向うに小こ家やが一軒ありました。
祖﹁はてな……一つ庭のようだが﹂
と折おり戸どを開けて、
祖﹁彼あの家に隠れて居りはしないか﹂
と手ちょ水うず場ばの上うわ草ぞう履りを履はいて庭へ下おり、開ひら戸きを開け、折戸の許もとへ佇たゝずんで様子を見ますと、本を読んでいる声が聞える。何ど処こから手を出して掛金を外すのか、但たゞし栓しん張ばりを取って宜いいか訳が分りません、脊せい伸のびをして上から捜さぐって見ると、閂かんぬきがあるようだが、手が届きません。やがて庭石を他わきから持ってまいりまして、手を伸べて閂を右の方へ寄せて、ぐいと開けて中へ入り、まるで泥坊の始末でございます。縁側から密そっと覗のぞいて見ますると、障子に人の影が映って居ります。
祖﹁はてな、此こっ方ちにいるのは女のような声こえ柄がらがいたす﹂
と密と障子の腰へ手をかけて細目に明けて、横手から覗いて見ますると、見違える気遣いはない春部梅三郎なれば、
祖﹁あゝ有難い、神かみ仏ほとけのお引合せで、図はからず親の仇かたきに廻めぐり逢った﹂
と心得ましたから、飛上って障子を引開け、中へ踏込んで身構えに及び、声を暴あららげ、
祖﹁実父の仇かたき覚悟をしろ﹂
と叫びましたが、梅三郎の方では祖五郎が来ようとは思いませんから驚きました。
梅﹁いやこれは〳〵思い掛ない……斯かよ様うな処でお目にかゝり面目次第もない、まア何ういう事で此こっ方ちへ﹂
祖﹁汝なんじも立派な武さむ士らいだから逃にげ隠かくれはいたすまい、何なんの遺恨あって父織江を殺せつ害がいして屋敷を出た、殊ことに当家の娘と不義をいたせしは確かに証拠あって知る、汝の許もとへ若江から送った艶書が其の場に取落してあったが、よもや汝は人を殺すような人間でないと心得て居ったる処、屋敷から通知によって、確かに汝が父織江を討って立たち退のいたる事を承知致した、斯かくなる上は逃隠れはいたすまいから、届ける処へ届けて尋常に勝負を致せ﹂
と詰つめかけました。
梅﹁御ごも尤っともでござる、まア〳〵お心を静められよ、決して拙者逃隠れはいたしません、何も拙者が織江殿に意趣遺恨のある理わ由けもなし、何で殺せつ害がいをいたしましょうか、其の辺の処をお考え下さい、何者が左様な事を申したか、実に貴方へお目にかゝるのは面目次第もない心得違い、此こ処ゝへ逃げてまいりまして、当家の世話になって居ります程の身みの上うえの宜しくない拙者ゆえ、何と仰せられても、斯様な事もいたすであろうと、さ人をも殺すかと思おぼ召しめしましょうが、何者が……﹂
祖﹁エーイ黙れ、確かの証拠あって知る事だ、天命れ難い、さ直すぐにまいれ﹂
梅﹁と何ういう事の……﹂
祖﹁何ういう事も何もない、父の屍しが骸いの傍かたわらに汝の艶てが書みを遺おとしてあったのが、汝の天命である﹂
梅﹁左様なれば拙者打明けて恥を申上げなければ成りませんが、お笑い下さるな、小姓若江と若気の至りとは申しながら、二人ともに家出を致しましたは、昨年の九月十一日の夜よで、あゝ済まん事、旧来御恩を受けながら其のお屋敷を出るとは、誠に不忠不義のことゝ存じたなれども、御拝領の品を失い、殊ことに若江も妊娠いたし奉公が出来んと申すので、心得違いの至りではあるが、拙者若江を連出し、当家へまいって隠れて居りましたなれども、不義淫いた奔ずらをして主しゅ家かを立たち退のくくらいの不ふら埓ちも者のでは有りますけれども、お屋敷に対しては忠義を尽したい心得、拙者がお屋敷を逃にげ去さる時に……手に入いりました一封の密書、それを御覧に入れますから、少々お控えを願います、決して逃隠れは致しません、拙者も厄やっ介かい人びとのこと、当家を騒がしては母が心配いたしますから、何どう卒ぞお静かに此の密書を……如い何かにも若江から拙者へ遣つかわしましたところの文ふみを其の場所に落して置き、此の梅三郎に其の罪を負わする企たくみの密書、織江殿を殺せつ害がいいたした者はお屋敷内うち他にある考えであります﹂
祖﹁ムヽー証拠とあらば見せろ﹂
梅﹁御覧下さい﹂
と例の手紙を出して祖五郎に渡しました。祖五郎はこれを受取り、披ひらいて見ましたところ、頓と文意が分りませんから、祖五郎は威いた丈けだ高かになって、
祖﹁黙れ、何だ斯かよ様うのものを以て何の云いい訳わけになる、これは何たることだ、綾が取とり悪にくいとか絹を破るとか、或あるいは綿を何うとかすると些ちっとも分らん﹂
梅﹁いえ、拙者にも匿かく名しぶ書みで其の意味が更に分りませんが、拙者の判断いたしまする所では、お屋敷の一大事と心得ます﹂
祖﹁それは何ういう訳﹂
梅﹁左様、絹木綿は綾あや操どりにくきものゆえ、今晩の中うちに引ひき裂さくという事は、御尊父様のお名を匿かくしたのかと心得ます、渡邊織江の織おりというところの縁によって、斯かよ様うな事を認かいたのでも有りましょうか、此の花と申すは拙者を差した事で、今を春はる辺べと咲くや此の花、という古歌に引ひっ掛かけて、梅三郎の名を匿したので、拙者の文を其そ処こへ取落して置けば、春部に罪を負わして後のちは、若江に心を懸ける者がお屋敷内うちにあると見えます、それを青あお茎じくの蕾つぼみの儘まゝ貴殿の許もとへ送るというのは若江を取とり持もちいたす約束をいたした事か、好こう文ぶん木ぼくとは若殿様を指した言葉ではないかと存じますと申すは、お下屋敷を梅の御殿と申しますからの事で、梅の異いみ名ょうを好文木と申せば、若殿紋之丞様の事ではないかと存じます、お秋の方のお腹の菊之助様をお世よと嗣りに仕ようと申す計たく策みではないかと存ずる、其の際此の密ふ書みを中ば引ひっ裂さいて逃げましたところの松蔭大藏の下げに人ん有助と申す者が、此の密書を奪とられてはと先頃按摩に姿を窶やつし、当家へ入いり込こみ、一ある夜よ拙者の寝ね室まへ忍び込み、此の密書を盗まんと致しましたところを取押えて棒縛りになし翌よく朝あさ取調ぶる所存にて、物置へ打込んで置きましたら、いつか縄なわ脱ぬけをして逃去りましたから、確しかと調べようもござらんが、常とき磐わというのは全く松蔭の匿かく名しなで大藏の家来有助が頼まれて尾おう久ござ在いへ持ってまいるとまでは調べました、またそれに千早殿と認したゝめてあるのは、頓と分りませんが、多分神原の事ではござらんかと拙者考えます、お屋敷の内に斯様な悪人があって御舎弟紋之丞様を亡うしない、妾めか腹けばらの菊之助様を世に出そうという企たくみと知っては棄すて置おかれん事、是は拙者の考えで容易に他ひ人とに話すべき事ではござらんが、御再考下さるよう……拙者は決して逃隠れはいたしませんが、お互に年来御高恩を蒙こうむった主しゅ家かの大事、証拠にもならんような事なれども、お国家老へ是からまいって相談をして見とう存じます、是は貴方一人でも拙者一人でもならんから、両人でまいり、御城代へお話をして御意見を伺おうと存じますが如いか何ゞでござる﹂
と段々云われると、予かねて神原や松蔭はお妾めか腹けば附らづきで、どうも心こゝ懸ろがけが善よくない奴と、父も頻しきりに心配いたしていたが、成程然そうかも知れぬ、それでは棄置かれんと、それから二人が手紙を志す方かたへ送りました。祖五郎は又信州上田在中の条にいる姉の許もとへも手紙を送る。一度お国くに表おもてへ行って来るとのみ認したゝめ、別段細かい事は書きません。さて両人は美作の国を指して発ほっ足そくいたしました。此こち方らは入いり違ちがって祖五郎の跡を追おい掛かけて、姉のお竹が忠平を連れてまいるという、行ゆき違ちがいに相成り、お竹が大だい難なんに出合いまするお話に移ります。
三十二
祖五郎は前ぜん席せきに述べました通り、春部梅三郎を親の敵かたきと思い詰めた疑いが晴れたのみならず、悪わる者ものの密書の意味で、略ほぼお家を押おう領りょうするものが有るに相違ないと分り、私わたくしの遺恨どころでない、実に主しゅ家うかの大事だから、早くお国表へまいろうと云うので、急に二ふた人り梅三郎と共にお国へ出立いたしましたが、其の時姉のお竹の方へは、これ〳〵で梅三郎は全く父を殺せつ害がいいたしたものではない、お屋敷の一大事があって、細かい事は申上げられんが、一度お国表へまいり、家老に面会して、どうかお家うちの安あん堵どになるようと、梅三郎も同道してお国表へ出立致しますが、事さえ極きまれば遠からず帰宅いたします、それまで落着いて中の条に待っていて下さい、必らずお案じ下さらぬようにとの手紙がまいりました。なれどもお竹は案じられる事で、
竹﹁何どう卒ぞして弟おとゝに会いたい、年とし歯はもいかない事であるから、また梅三郎に欺あざむかれて、途中で不慮の事でも有ってはならん﹂
と種いろ々〳〵心配いたしても、病中でございますから立つことも出来ず、忠平に介抱されまして、段々と月日が経たつばかり、其の内に病気も全快いたしましたが其の後のち国表から一度便りがござりまして、秋までには帰る事になるから、落着いて居てくれという文面ではありますが、其の内に六月も過ぎて七月になりました時に、身体も達者になり、こんな山の中に居たくもない、江戸へ帰って出でい入り町人の世話に成りたい、忠平の親父も案じているであろうから、岩吉の処へ行って厄介になりたいと、常々喜六という家来に云って居りました。然しかるに此の喜六が亡なくなった跡は、親みよ戚りばかりで、別に恩を被きせた人ではないから、気詰りで中の条にも居いられませんので、忠平と相談して中の条を出立し、追おい分わけ沓くつ掛がけ軽かる井いざ沢わ碓うす氷いの峠も漸ようやく越して、松まつ枝えだの宿しゅくに泊りました、其の頃お大名のお着きがございますと、いゝ宿屋は充いっ満ぱいでございます。お大名がお一ひと方かたもお泊りが有りますと、小さい宿屋まで塞ふさがるようなことで、お竹は甲こう州しゅ屋うやという小さい宿屋へ泊りまして、翌あく朝るあさ立とうと思いますと、大雨で立つことも出来ず、其の内追々山水が出たので、道も悪し、板いた鼻はなの渡わた船しも止り、其の他ほか何ど処この渡船も止ったろうと云われ、仕方がなしに足を止めて居ります内に、心配致すのはいかんもので、船上忠平が風を引いたと云って寝たのが始りで、終ついに病が重くなりまして、どっと寝るような事になりました。お医者と云っても良いのはございません、開ひらけん時分の事で、此の宿しゅくでは第一等の医者だというのを宿やどの主ある人じが頼んでくれましたが、まるで虚こく空うぞ蔵うさ様まの化ばけ物もの見たようなお医者さまで、脉みゃくを診とって薬と云っても、漢かん家かの事だから、草をむしったような誠に効きゝ能めの薄いようなものを呑ませる中うちに、終ついに息も絶え〴〵になり、八月上はじ旬めには声も嗄しゃがれて思うように口も利けんようになりました。親の仇あだでも討とうという志のお竹でありますから、家来にも甚はなはだ慈悲のあることで、
竹﹁あの忠平や﹂
忠﹁はい﹂
竹﹁お薬の二番が出来たから、お前我慢して嫌でもお服たべ、確しっかりして居ておくれでないと困るよ﹂
忠﹁有難う存じますが、お嬢様私わたくしの病気も此の度たびは死病と自分も諦めました、とても御丹誠の甲斐はございませんから、どうぞもお薬も服のまして下さいますな、もう二三日ちの内にむずかしいかと思います﹂
竹﹁お前そんなことを云っておくれじゃア私が困るじゃアないか、祖五郎はお国へ行ゆき、喜六は死に、お前より他に頼みに思う者はなし、一ひと人りではお屋敷へ帰ることも出来ず、江戸へ行ってもお屋敷近ぢかい処へ落着けない身の上になって、お前を私は家来とは思わない、伯父とも親とも力に思う其のお前に死なれ、私一人此こ処ゝに残ってはお前何うする事も出来ませんよ﹂
忠﹁有難う……勿体ないお言葉でございます、僅わずか御奉公致しまして、何程の勤めも致しませんのに、家来の私わたくしを親とも伯父とも思うという其のお言葉は、唯今目を眠りまして冥土へ参るにも好よい土産でございます、併しかし以も前ととちがって御零落なすって、今斯う云うお身の上におなり遊ばしたかと存じますと、私は貴方のお身の上が案じられます、どうぞ私の亡ない後のちは、他に入いらっしゃる所とこもございません故、昨ゆう夜べ貴方が御看病疲れで能よく眠っていらっしゃる内に、私が認かいて置きました手紙が此こ処ゝにございます、親父は無筆でございますから、仮名で細かに書いて置きましたから、あなたが江戸へ入らっしゃいまして、春木町の私の家うちへ行って、親父にお会いなさいましたら、親父が貴方だけの事はどうかまア年は老とっても達者な奴でございますから、お力になろうと存じます、此処から私が死ぬと云う手紙を出しますと、驚いて飛んで来ると云うような奴ゆえ、却かえって親父に知らせない方が宜よいと存じますから、何どう卒ぞお嬢さん、はッはッ、私が死にましたら此処の寺へ投込みになすって道中も物ぶっ騒そうでございますから、お気をお付けなすって、あなたは江戸へ入いらっしゃいまして親父の岩吉にお頼みなすって下さいまし﹂
竹﹁あい、それやア承知をしましたが、もし其そ様んなことでもあると私はまア何うしたら宜かろう、お前が死んでは何うする事も出来ませんよ、何うか癒なおるようにね、病は気だというから、忠平確しっかりしておくれよ﹂
忠﹁いえ何うも此こん度どはむずかしゅうございます﹂
と是が主しゅ従うじゅうの別れと思いましたからお竹の手を執とって、
忠﹁長らく御恩になりました﹂
と見上げる眼に泪なみだを溜ためて居りますから、耐こらえかねてお竹も、
竹﹁わア﹂
と枕元へ泣伏しました。此の家うちの息子が誠に親切に時々諸ほう方〴〵へ往いっちゃア、旨い物と云って田舎の事だから碌な物もありませんが、喰くい物ものを見附けて来ては病人に遣やります。宿屋の親父は五ごへ平いと云って、年五十九で、江戸を喰くい詰つめ、甲州あたりへ行って放ば蕩かをやった人間でございます。忰せがれは此の地で生おい立たった者ゆえ質朴なところがあります。
忰﹁父とっさま、今帰ったよ﹂
五﹁何ど処こへ行ってた﹂
忰﹁なに医者の処へ薬を取りに行って聞いたが、医者殿どんが彼あの病人はむずかしいと云っただ﹂
五﹁困ったのう、二人旅だから泊めたけれども、男の方は亭主だか何だか分らねえが、彼あれがお前めえ死んでしまえば、跡へ残るのは彼あの小娘だ、長なげえ間これ泊めて置いたから、病人の中へ宿賃の催促もされねえから、仕方なしに遠慮していたけんど、医者様の薬やく礼れいから宿賃や何かまで、彼あの男が亡くなってしまった日にゃア、誠に困る、身ぐるみ脱ぬいだって、碌な荷物も無ねえようだから、宿賃の出でど所こがあるめえと思って、誠に心しん配ぷえだ、とんだ厄介者に泊られて、死なれちゃア困るなア﹂
忰﹁それに就ついて父ちゃんに相談打ぶとうと思っていたが、私わしだって今年二十五に成るで、何い日つまで早はや四しろ郎う独ひと身りで居ては宜くねえ何どん様な者でも破われ鍋なべに綴とじ葢ぶたというから、早く女房を持てと友達が云ってくれるだ、乃そこで女房を貰おうと思うが、媒なこ妁うどが入って他ほ家かから娘あま子っこを貰うというと、事が臆おっ劫くうになっていかねえから、段々話い聞けば、あの男が死んでしまうと、私わしは年が行かないで頼る処もない身の上だ、浪人者で誠に心細いだと云っちゃア、彼あの娘子が泣くだね﹂
五﹁浪人者だと…うん﹂
早﹁どうせ何ど処っから貰うのも同じ事だから、彼あの男がおっ死ちんだら、彼の娘を私わしの女房に貰もれえてえだ、裸じゃアあろうけれども、他ひと人だ頼のみの世話がねえので、直すぐにずる〳〵べったりに嫁っ子に来きようかと思う、彼あれを貰ってくんねえか父ちゃん﹂
五﹁馬鹿野郎、だから仕様がねえと云うのだ、これ、父ちゃんはな、江戸の深川で生れて、腹はら一いっ杯ぺえ悪い事をして喰くい詰つめっちまい、甲州へ行って、何うやら斯うやら金が出来る様になったが、詰り悪い足が有ったんで、此こ処ゝへ逃げて来た時に、縁があって手てめ前えの死んだ母おふ親くろと夫婦になって、手前と云う子も出来て、甲州屋という、ま看板を掛けて半はん旅はた籠ご木きち賃んや宿ど同様な事をして、何うやら斯うやら暮している事は皆みんなも知っている、手前は此こっ方ちで生おい立たって何も世間の事は知らねえが、家うちに財か産ねは無くとも、旅籠という看板で是だけの構えをしているから、それ程貧乏だと思う人はねえ何ど処っから嫁を貰っても箪たん笥すの一ひと個つや長持の一ひと棹さおぐらい附くッ属ついて来る、器量の悪いのを貰えば田でん地じぐらい持って来るのは当あた然りまえだ、面つらがのっぺりくっぺりして居るったって、あんな素わ性けも分らねえ者を無闇に引ひっ張ぱり込こんでしまって何うするだ、医者様の薬礼まで己が負しょわなければなんねえ﹂
早﹁それは然そうよ、それは然うだけれど、他ほ家かから嫁よめ子っこを貰やア田地が附いて来る、金が附いて来るたって、ま宅うちへ呼ばって、後あとで己が気に適いらねえば仕様がねえ訳だ、だから己が気に適あったのを貰やア家うちも治まって行くと、夫婦仲せえ宜よくば宜いいじゃアねえか、貰ってくんろよ﹂
五﹁何を馬鹿アいう手てめ前えが近頃種いろ々〳〵な物を買って詰らねえ無むだ駄ぜ銭にを使うと思った、あんな者が貰えるか﹂
早﹁何もそんなに腹ア立てねえでも宜いい相談打ぶつだ﹂
五﹁相談だって手てめ前えは二十四五にも成りやアがって、ぶら〳〵遊あすんでて、親の脛すねばかり咬かじっていやアがる、親の脛を咬っている内は親の自由だ、手前の勝手に気に適いった女が貰えるか﹂
早﹁何ぞというと脛え咬る〳〵てえが、父ちゃんの脛ばかりは咬っていねえ、是でもお客がえら有れば種いろ々んな手伝をして、洗すゝ足ぎ持ってこ、草わら鞋じを脱がして、汚きたねえ物を手に受けて、湯う沸わかして脊中を流してやったり、皆みんな家うちの為と思ってしているだ、脛咬りだ〳〵てえのは止よしてくんろえ﹂
五﹁えゝい喧やかましいやい﹂
と流さす石がに鶴の一ひと声こえで早四郎も黙ってしまいました。此の甲州屋には始終極きまった奉公人と申す者は居りません、其の晩の都合によって、客が多ければ村の婆さんだの、宿しゅ外くはずれの女などを雇います。七十ばかりになる腰の曲った婆さんが
婆﹁はい、御免なせえまし﹂
五﹁おい婆さん大きに御苦労よ、お前まえ又晩に来てくんろよ、客の泊りも無いが、又晩には遊あすんで居るだろうから、ま来なよ﹂
婆﹁はい、あの只今ね彼あす処このそれ二ふた人りづ連れの病人の処とこへめえりました﹂
五﹁おゝ、お前めえが行ってくれねえと、先むこ方うでも困るんだ﹂
婆﹁それが年のいかない娘あま子っこ一人で看病するだから、病人は男だし、手ちょ水うずに行くたって大騒ぎで、誠に可愛想でがんすが、只たった今おっ死ちにましたよ﹂
五﹁え、死んだと……困ったなアそれ見ろ、だから云わねえ事じゃアねえ、何ど様んな様子だ﹂
婆﹁何どん様なにも何なんにも娘あま子っこが声をあげて泣いてるだよ、あんた余あんまり泣きなすって身体へ障さわるとなんねえから、泣かねえが宜ようがんすよ、諦めねえば仕様がねえと云うと、私わしは彼あれに死なれると、年もいかないで往ゆく処も無なえ、誠に心細うがんす、あゝ何うすべいと泣くだね、誠に気の毒な訳で﹂
五﹁はアー困ったもんだな﹂
早﹁私わしえ、ちょっくら行って来よう﹂
五﹁なに手てめ前えは行かなくっても宜えい﹂
早﹁行かなくっても宜えいたって、悔くやみぐらいに行ったって宜よかんべい﹂
五﹁えゝい、何ぞというと彼あの娘の処とこへ計ばかり行ゆきたがりやアがる、勝手にしろ﹂
と大おおかすでございましたから早四郎は頬を膨ふくらせて起たって行ゆく。五平は直たゞちにお竹の座敷へ参りまして。
五﹁はい、御免下せえ﹂
と破れ障子を開けて縁側から声を掛けます。
竹﹁此こっ方ちへお入はいんなさいまし、おや〳〵宿やどの御亭主さん﹂
五﹁はい、只今婆アから承わりまして、誠に恟びっくりいたしましたが、お連つれさまは御丹誠甲斐もない事で、お死かく去れになりましたと申す事で﹂
竹﹁有難う、長い間種いろ々〳〵お世話になりました、殊ことに御子息が朝晩見舞っておくれで、親切にして下さるから何ぞお礼をしたいと思って居ります、病人も誠に真実なお方だと悦んで居りました、私わたくしも丹誠が届くならばと思いましたが、定まる命めい数すうでございまする、只今亡くなりまして、誠に不ふび憫んな事を致しました﹂
五﹁いやどうも、嘸さぞお力落しでございましょう、誠にお気の毒な事でございます、時に、あゝそれでもって伺いますが、お死なく去なりなすった此の死骸は、江戸へおいでなさるにしても、信州へお送りになるにしても、死骸を脊し負ょって行く訳にもいかないから此の村へ葬るより他に仕方はございますまいが、火葬にでもなすって、骨を持って入らっしゃいますか、其の辺の処を伺って置きたいもので﹂
竹﹁はい、何ど処こと云って知しる己べもございませんから、どうか火葬にして此の村へ葬り、骨こつだけを持ってまいりとう存じますが、御覧の通り是からは私わたくし一人でございますから、何かと世話のないように髪の毛だけでも江戸の親元へ参れば宜しゅうございますから、殊ことに当人は火葬でも土葬でも宜よいと遺言をして死なく去なりましたから、どうぞ御ごき近んじ処ょのお寺へお葬り下さるように願いたいもので﹂
五﹁左様でございますか、お泊り掛がけのお方で、何ど処この何なんという確しっかりとした何か証しょうがないと、お寺も中々厳やかましくって請うけ取とりませんが、私わたくしどもの親類か縁えん類るいの人が此こっ方ちへ来て、死んだような話にして、どうか頼んで見ましょう﹂
と此の話の中うちにいつか忰の早四郎が後うしろへまいりまして、
早﹁なに然そうしねえでも宜えい、此の裏手の洪こう願がん寺じさまの和尚様は心安くするから頼んで上げよう、まことに手軽な和尚様で、中々道楽坊主だよ、以も前とは叩ちゃ鉦んぎりを叩いて飴を売ってた道楽者さ、銭が無ければ宜えい、たゞ埋めて遣やんべえなどゝいう捌さばけた坊様だ、其の代りお経なんどは読めねえ様子だが、銭ぜに金かねの少しぐれえ入いるような事があって困るなら、沢山はねえが些ちっとべいなら己が出して遣るべえ﹂
五﹁何だ、これ、お客様に失礼な、お前まえがお客さまに金を出して上げるとは何だ、そんな馬鹿な事をいうな﹂
早﹁父ちゃんは何ぞというと小言をいうが、無ければ出してくれべえと云うだから宜よかっぺえじゃアねえか﹂
五﹁其そ様んな事ア何うでも宜いいから、早く洪願寺へ行って願って来い﹂
是から息子がお寺へ行って和尚に頼みました。早速得心でございますから、急に人を頼んで、早四郎も手伝って穴を掘り、真実にくれ〳〵働いて居ります。丁度其の晩の事でございますが、宿屋の主ある人じが、
五﹁へえ娘ねえさん、えゝ今晩の内にお葬りになりますように﹂
竹﹁はい、少し早いようでございますが、何分宜しゅう……多分に手のかゝりませんように﹂
五﹁宜しゅうございます、其の積りに致しました、何も多おお勢ぜい和尚様方を頼むじゃアなし、お手軽になすった方が、御道中ゆえ宜しゅうございましょう﹂
と親切らしく主ある人じが其の晩の中うちに、自分も随ついて行って野辺送りを致してしまいました。
三十三
其の晩に脱ぬけ出だして、彼かの早四郎という宿屋の忰が、馬ま子ごの久きゅ藏うぞうという者の処へ訪ねて参り、
早﹁おい、トン〳〵〳〵久藏眠ねぶったかな、トン〳〵〳〵眠ったかえ。トン〳〵〳〵﹂
余りひどく表を敲たゝくから、側の馬小屋に繋つないでありました馬が驚いて、ヒイーン、バタ〳〵〳〵と羽目を蹴ける。
早﹁あれまア、馬めえ暴れやアがる、久藏眠ねぶったかえ……あれまア締りのねえ戸だ、叩いてるより開けて入へいる方が宜えい、酔よっぱれえになって仰あお向むけにぶっくり反けえって寝そべっていやアがる、おゝ〳〵顔に虻あぶが附くッ着ついて居るのに痛くねえか、起おきろ〳〵﹂
久﹁あはー……眠ねぶったいに、まどうもアハー︵あくび︶むにゃ〳〵〳〵、や、こりゃア甲州屋の早四郎か、大てい層そう遅く来たなア﹂
早﹁うん、少し相談打ぶちに来たアだから目え覚さませや﹂
久﹁今日は沓くつ掛がけまで行って峠え越して、帰りに友達に逢って、坂さか本もとの宿しゅくはずれで一いっ盃ぺいやって、よっぱれえになって帰けえって来たが、馬むまの下そゝ湯ゆを浴つかわねえで転ぶっ輾くりけえって寝ちまった、眠ねむたくってなんねえ、何だって今時分出掛けて来た﹂
早﹁ま、眼え覚さませや、覚せてえに﹂
久﹁アハー﹂
早﹁大でけえ欠あく伸びいするなア﹂
久﹁何だ﹂
早﹁他のことでもねえが、此こね間えだ汝われがに話をしたが、己おらア家うちの客人が病気になって、娘あま子っこが一人附いているだ、好いい女おな子ごよ﹂
久﹁話い聞いたっけ、好えい女おな子ごで、汝われがねらってるって、それが何うしただ﹂
早﹁その連つれの病人が死んだだ﹂
久﹁フーム気の毒だのう﹂
早﹁就ついては彼あの娘あまを己おらの嫁に貰えてえと思って、段々手なずけた処が、当人もまんざらでも無ねえようで、謎をかけるだ、此の病人が死んでしまえば、行ゆき処どころもねえ心細い身の上でございますと云うから、親父に話をした処が、親父は慾張ってるから其そ様んな者を貰って何うすると、頓とんと相手になんねえから、汝われが己おらア親父に会って話を打ぶって、彼あの娘あまを貰うようにしちゃアくんめえか﹂
久﹁然そうさなア、どうもこれはお前めいん処とこの父とっさまという人は中々道楽をぶって、他ひ人とのいう事ア肯きかねえ人だよ、此の前めえ荷い馬へ打ぶっ積つんで、お前めえん処とこの居みせ先さき﹇#﹁居先﹂は﹁店先﹂の誤記か﹈で話をしていると、父さまが入はえり口ぐちへ駄だ荷にい置いて気の利かねえ馬むま方かただって、突つッ転ころばして打ぶっ転ころばされたが、中々強い人で、話いしたところが父さまの気に入らねえば駄目だよ、アハー﹂
早﹁欠伸い止せよ……これは少しだがの、汝われえ何ぞ買って来るだが、夜よ更ふけで何にもねえから、此こ銭れで一いっ盃ぺい飲んでくんろ﹂
久﹁気の毒だのう、こんなに差し吊つるべたのを一本くれたか、気の毒だな、こんなに心しん配ぺいされちゃア済まねえ、此こね間えだあの馬ばじ十ゅうに聞いたゞが、どうも全ぜん体てえ父さまが宜くねえ、息子が今これ壮さかんで、丁度嫁を娶とって宜えい時分だに、男振も好よし何ど処こからでも嫁は来るだが、何故嫁を娶ってくれねえかと、父さまを悪く云って、お前めえの方を皆みんな誉ほめている、男が好いいから女の方から来るだろう﹂
早﹁来るだろうって……どうも……親父が相談ぶたねえから駄目だ﹂
久﹁相談ぶたねえからって、お前めえは男が好いいから娘むすめを引ひっ張ぱり込こんで、優しげに話をして、色事になっちまえ、色事になって何ど処こかへ突つッ走ぱしれ……己おらの家うちへ逃げて来こう、其の上で己が行って、父さまに会ってよ、お前も気に入るめえが、若わけえ同志で斯ういう訳になって、女おな子ごを連れて己の家へ来て見れば、家も治おさまらねえ訳で、是も前さきの世に定まった縁だと思って、余あんまり喧やかましく云わねえで、己が媒なこ妁うどをするから、彼あれを子よめっこにして遣やってくんろえ、家に置くのが否いやだなら、別に世しょ帯たいを持たしても宜えいじゃアねえかという話になれば、仕方がねえと親父も諦めべえ、色事になれや﹂
早﹁成れたって……成る手がゝりがねえ﹂
久﹁女に何とか云って見ろ﹂
早﹁間まが悪くって云えねえ、客人だから、それに真面目な人だ、己おらが座敷へ入へいると起上って、誠に長く厄介になって、お前には分けて世話になって、はア気の毒だなんて、中々お侍さむらえさんの娘だけに怖おっかねえように、凛り々ゝしい人だよ﹂
久﹁口で云い難にくければ文ふみを書いてやれ、文をよ、袂たもとの中へ放り込むとか、枕の間へ挟はさむとかして置けい、娘あま子っこが読んで見て、宿屋の息子さんが然そういう心なれば嬉しいじゃアないか、どうせ行ゆき処どこがないから、彼あの人と夫婦になりてえと、先さ方きで望んでいたら何うする﹂
早﹁何だか知んねえが、それはむずかしそうだ﹂
久﹁そんな事を云わずにやって見ろ﹂
早﹁ところが私わしは文ふみい書けいた事がねえから、汝われ書いてくんろ、汝は鎮守様の地じぐ口ちあ行んど灯うを拵こしれえたが巧うめえよ、それ何とかいう地口が有ったっけ、そう〳〵、案か山ゝ子しのところに何か居いるのよ﹂
久﹁然そうよ、己おらがやったっけ、何か己おれえ……然うさ通た常ゞの文をやっても、これ面白くねえから、何か尽づくし文もんでやりてえもんだなア﹂
早﹁尽し文てえのは﹂
久﹁尽しもんてえのは、ま花の時なれば花尽しよ、それからま山尽しだとか、獣けだ類もの尽づくしだとかいう尽しもんで贈やりてえなア﹂
早﹁それア宜えいな、何ういう塩あん梅べいに﹂
久﹁今時だから何どうだえ虫尽しか何なんかでやれば宜えいな﹂
早﹁一つ拵こしれえてくんろよ﹂
久﹁紙があるけえ﹂
早﹁紙は持っている﹂
久﹁其そ処こに帳面を付ける矢立の巨でけえのがあるから、茶でも打ぶっ垂たらして書けよ、まだ茶ア汲んで上げねえが、其処に茶碗があるから勝手に汲んで飲めよ、虫尽しだな、その女おな子ごが此の文ふみを見て、あゝ斯ういう文句を拵こしらえる人かえ、それじゃアと惚れるように書かねえばなんねえな﹂
早﹁だから何ういう塩あん梅べいだ﹂
久﹁ま其処へ一つ覚おぼえと書け﹂
早﹁覚……おかしいな﹂
久﹁おかしい事があるものか、覚えさせるのだから、一つ虫尽しにて書かき記しるし※まいらせそろ﹇#﹁まいらせそろ﹂の草書体、344-6﹈よ﹂
早﹁一ひとつ虫尽しにて書かき記しるし※﹇#﹁まいらせそろ﹂の草書体、344-6﹈﹂
久﹁えゝ女おん子なの綺きれ麗えな所を見せなくちゃアなんねえ……綺麗な虫は……ア玉虫が宜えい、女の美しいのを女じょ郎ろ屋やなどでは好いい玉だてえから、玉虫のようなお前様を一ひと目見るより、いなご、ばったではないが、飛とびっかえるほどに思い候そうろうと書け﹂
早﹁成程いなご、ばったではないが、飛っかえるように思い候そろ﹂
久﹁親父の厳やかましいところを入れてえな、親父はガチャ〴〵虫にてやかましく、と﹂
早﹁成程……やかましく﹂
久﹁お前の傍そばに芋虫のごろ〴〵してはいられねえが、えゝ……簑みの虫むしを着き草わら鞋じむ虫しを穿はき、と﹂
早﹁何の事だえ﹂
久﹁汝われが野らへ行く時にア、簑を着たり草鞋を穿いたりするだから﹂
早﹁成程……草鞋虫を穿きい﹂
久﹁かまぎっちょを腰に差し、野らへ出てもお前様の事は片時忘れるしま蛇もなく﹂
早﹁成程……しま蛇もなく﹂
久﹁えゝ、お前様の姿が赤あか蜻とん蛉ぼの眼の先へちら〳〵いたし候そろ﹂
早﹁何ういう訳だ﹂
久﹁蜻とん蛉ぼうの出る時分に野の良らへ出て見ろ、赤あか蜻とん蛉ぼが彼あっ方ちへ往いったり此こっ方ちへ往ったり、目まぐらしくって歩けねえからよ﹂
早﹁成程……ちら〳〵いたし候そろ﹂
久﹁えゝと、待てよ……お前と夫みょ婦うとになるなれば、私わしは表で馬むま追おい虫、お前は内で機はた織おり虫むしよ﹂
早﹁成程……私わしは馬うまを曳ひいて、女おな子ごが機を織るだな﹂
久﹁えゝ…股へ蛭ひるの吸付いたと同様お前の側を離れ申さず候そろ、と情じょ合うあいだから書けよ﹂
早﹁成程……お前の側を離れ申さず候そろか、成程情合だね﹂
久﹁えゝ、虻あぶ蚊馬むま蠅ばえ屁へっ放ぴり虫むし﹂
早﹁虻蚊馬蠅屁放虫﹂
久﹁取着かれたら因果、晩げえ私わしを松虫なら﹂
早﹁……晩げえ私わしを松虫なら﹂
久﹁藪やぶ蚊かのように寝床まで飛んでめえり﹂
早﹁藪蚊のように寝床まで飛んでめえり﹂
久﹁直すぐ様さま思いのうおっ晴ぱらし候そろ、巴あお蛇だいしょうの長文句蠅はい々〳〵※﹇#かしく﹂の草書体、345-9﹈﹂
早﹁成程是こりゃア宜えいなア﹂
久﹁是これじゃア屹きっ度と女おな子ごがお前めえに惚れるだ、これを知れねえように袂たもとの中へでも投ほうり込むだよ﹂
と云われ、早四郎は馬鹿な奴ですから、右の手紙を書いて貰って宅うちへ帰り、そっとお竹の袂へ投なげ込こんで置きましたが、開けて見たって色いろ文ぶみと思う気きづ遣かいはない。翌よく朝あさになりますと宿屋の主ある人じが、
五﹁お早うございます﹂
竹﹁はい、昨夜は段々有難う﹂
五﹁えゝ段々お疲れさま……続いてお淋しい事でございましょう﹂
竹﹁有難う﹂
五﹁えゝ、お嬢さん、誠に一いっ国こくな事を申すようですが、私わたくしは一体斯ういう正直な性うま質れつきで、私どもはこれ本陣だとか脇本陣だとか名の有る宿屋ではございませんで、ほんの木賃宿の毛の生えた半旅籠同様で、あなた方が泊ったところが、さしてお荷物も無し、お連の男衆は御亭主かお兄あに様いさまか存じませんが、お死かく去れになってあなた一人残り、一人旅は極ごく厳やかましゅうございまして、え、横よこ川かわの関所の所とこも貴方はお手形が有りましょう、越えて入らっしゃいましたから、私どもでも安心はして居りますが、何しろ御病気の中だから、毎朝宿賃を頂戴いたす筈ですが、それも御遠慮申して、医者の薬礼お買物の立替え、何や彼かやの御ごか勘んじ定ょうが余程溜たまって居ります、それも長旅の事で、無いと仰しゃれば仕方が無いから、へえと云うだけの事で、宿屋も一晩泊れば安いもので、長く泊れば此んな高いものはありません、就ついては一国なことを申すようですが、泊って入らっしゃるよりお立ちになった方がお徳だろうし、私も其の方が仕合せで、どうか一ひと先まず立って戴きたいもので﹂
竹﹁はい、私わたくしはさっぱり何事も家来どもに任して置きました内に病気附きましたので、つい宿賃も差上げることを失念致した理わ由けでもございませんが、病人にかまけて大きに遅うなりました、嘸さぞかし御心配で、胡うろ乱んの者と思おぼ召しめすかは知りませんが、宿賃ぐらいな金子は有るかも知れません、直じきに出立いたしますから、早々御ごか勘んじ定ょうをして下さい、何どの位あれば宜よいか取って下さいまし﹂
とお屋敷育ちで可なりの高を取りました人のお嬢さんで、宿屋の亭主風ふぜ情いに見くびられたと思っての腹立ちか、懐中からずる〴〵と納なん戸どち縮りめ緬んの少し汚れた胴巻を取出し、汚れた紙に包んだ塊かたまりを見ると、おおよそ七八十両も有りはしないかと思うくらいな大きさだから、五平は驚きました。泊った時の身みな装りも余り好よくなし、さして、着きが換えの着物もないようでありました、是れは忠平が、年のいかない娘を連れて歩くのだから、目立たんように態わざと汚れた衣類に致しまして、旅たび※やつ﹇#﹁宀/婁﹂、347-6﹈れの姿で、町人体ていにして泊り込みましたので、五平は案外ですから驚きました。
竹﹁どうか此の位あれば大概払いは出来ようかと思いますが、書付を持って来て下さい﹂
と云われたので、流さす石がの五平も少し気の毒になりましたが、
五﹁はい〳〵、えゝ、お嬢さま、誠に私わたくしはどうも申訳のない事をいたしました、あなた御立腹でございましょうが、あなたを私が見くびった訳でもなんでもない、実はその貴方にお費かゝりのかゝらんように種いろ々〳〵と心配致しまして、馬子や舁かご夫かきを雇いましても宿屋の方で値切って、なるたけ廉やすくいたさせるのが宿屋の亭主の当あた然りまえでへえ見下げたと思おぼ召しめしては恐入ります、只今御勘定を致します、へい〳〵どうぞ御免なすって﹂
と帳場へまいりまして、
五﹁あゝ大層金か子ねを持っている、彼あれは何者か知らん﹂
と暫しばらくお竹の身の上を考えて居りましたが、別に考えも附きません。医者の薬礼から旅籠料、何や彼かやを残らず書付にいたして持って来ましたが、一ヶ月居ったところで僅かな事でございます。お竹は例の胴巻から金を出して勘定をいたし、そこ〳〵手廻りを取片附け、明あ日すは早く立とうと舁かご夫やや何かを頼んで置きました。其の晩にそっと例の早四郎が忍んで来まして、
早﹁お客さん……お客さん……眠ねぶったかね、お客さん眠ったかね﹂
竹﹁はい、何どな方た﹂
早﹁へえ私わしでがすよ﹂
竹﹁おや〳〵御子息さん、さ此こち方らへ……まだ眠ねむりはいたしませんが、蚊か帳やの中へ入りましたよ﹂
早﹁えゝ嘸さぞまア力に思う人がおっ死ちんで、あんたは淋さみしかろうと思ってね、私わしも誠に案じられて心しん配ぺえしてえますよ﹂
竹﹁段々お前さんのお世話になって、何なんぞお礼がしたいと思ってもお礼をする事も出来ません﹂
早﹁先さっ刻き親父が処とけえ貴あん方たが金え包んで種いろ々〳〵厄介になってるからって、別に私わしが方へも金をくれたが、そんなに心しん配ぺいしねえでも宜ええ、何も金が貰いてえって世話アしたんでねえから﹂
竹﹁それはお前の御親切は存じて居ります誠に有難う﹂
早﹁あのー昨よん夜べねえ、私わしが貴あん方たの袂たもとの中へ打ぶっ投ぽり込んだものを貴方披ひらいて見たかねえ﹂
竹﹁何を…お前さんが…﹂
早﹁あんたの袂の中なけへ書けえたものを私わしが投ほうり込んだ事があるだ﹂
竹﹁何ど様んな書いたもの﹂
早﹁何どん様なたって、丹誠して心のたけを書いただが、あんたの袂に書いたものが有ったんべい﹂
竹﹁私は少しも知らないので、何か無むだ駄が書きの流はや行りう唄たかと思いましたから、丸めて打うっ棄ちゃってしまいました﹂
早﹁あれ駄目だね、流行唄じゃアねえ、尽づくしもんだよ、艶いろ書ぶみだよ、丸めて打棄っては仕様がねえ、人が種いろ々〳〵丹誠したのによ﹂
と大きに失望をいたして欝ふさいでいます。
三十四
お竹は漸よう々〳〵に其の様子を察して、可お笑かしゅうは思いましたが、また気の毒でもありますからにっこり笑って、
竹﹁それは誠にお気の毒な事をしましたね﹂
早﹁お気の毒ったって、まア困ったな、どうも私わしはな……実アな、まア貴あん方たも斯うやって独ひと身りで跡へ残って淋さびしかろうと思い私も独ひと身りみでいるもんだから、友達が汝われえ早く女房を貰ったら宜よかろうなんてって嬲なぶられるだ、それに就ついては彼あの優やさ気しげなお嬢さんは、身寄頼りもねえ人だから、病人が死なば己おらがの女房に貰いてえと友達に喋しゃべっただ、馬ばじ十ゅうてえ奴と久藏てえ奴が、ぱっ〳〵と此れを方ほう々〴〵へ触れたんだから、忽たちまち宿しゅ中くじゅうへ広まっただね﹂
竹﹁そんな事お前さん云いい立たてをしておくれじゃア誠に困ります﹂
早﹁困るたって私わしもしたくねえが、冗談を云ったのが広まったのだから、今じゃア是非ともお前めえさんを私の女房にしねえば、世間へ対てえして顔向が出来ねえから、友達に話をしたら、親父が厳やかましくって仕様がねえけんども、貴あん方たと己おれと怪おかしな仲になっちまえば、友達が何うでも話をして、親父に得心のうさせる、どうせ親父は年い老とってるから先へおっ死ちんでしまう、然そうすれば此の家うちは皆みんな己のもんだ、貴方が私の女房に成ってくれゝば、誠に嬉しいだが、今夜同志に此の座敷で眠ねぶっても宜よかんべえ﹂
竹﹁怪けしからん事をお云いだね、お前はま私を何だとお思いだ、優しいことを云っていれば好いい気になって、お前私が此こ処ゝへ泊っていれば、家うちの客じゃアないか、其の客に対して宿屋の忰が然そんな無礼なことを云って済みますか、浪人して今は見る影もない尾おは羽うち打か枯らした身の上でも、お前たちのようなはしたない下げろ郎うを亭主に持つような身の上ではありません、無礼なことをお云いでない、彼あっ方ちへ行きなさい﹂
早﹁魂たま消げたね……下郎え……此の狸たぬ女きあまめ……そんだら宜ええ、そうお前の方で云やア是まで親父の眼めか顔おを忍んで銭を使って、お前めえの死んだ仏の事を丹誠した、また尽つくしものを書いて貰うにも四しひ百ゃくと五百の銭を持ってって書いて貰ったわけだ、それを下郎だ、身分が違うと云えば、私わしも是までになって、あんたに其んなことを云われゝば友達へ顔向が出来ねえから、意いき気は張りずくになりゃア敵かたき同志だ、可愛さ余って憎さが百倍、お前の帰けえりを待まち伏ぶせして、跡を追おっかけて鉄砲で打ぶッ殺ころす気になった時には、とても仕様がねえ、然そうなったら是までの命だと諦めてくんろ﹂
竹﹁あらまア、そんな事を云って困るじゃアないか、敵同志だの鉄砲で打うつのと云って﹂
早﹁私わしは下郎さ、お前まえはお侍さむれえの娘むすめだろう、併しかし然そう口くち穢ぎたなく云われゝば、私だって快くねえから、遺恨に思ってお前めえを鉄砲で打ぶち殺ころす心になったら何うするだえ﹂
竹﹁困るね、だけども私はお前に身を任せる事は何うしても出来ない身分だもの﹂
早﹁出来ないたって、病人が死んでしまえば便りのない者で困るというから、家うちへ置くべいと思って、人に話をしたのが始まりだよ、どうも話が出来ねえば出来ねえで宜えいから覚悟をしろ、親父が厳やかましくって家うちにいたって駄目だから、やるだけの事をやっちまう、棒ぼう鼻ばなあたりへ待伏せて鉄砲で打ぶってしまうから然そう思いなせえ﹂
竹﹁まアお待ちなさい﹂
と止めましたのは、此こ様んな馬鹿な奴に遇あっては仕様がない、鉄砲で打うちかねない奴なれど、斯かゝる下郎に身を任せる事は勿論出来ず、併しかし世に馬鹿程怖い者はありませんから、是は欺だますに若しくはない、今の中うちは心を宥なだめて、ほとぼりの脱ぬけた時分に立とうと心を決しました。
竹﹁あの斯うしておくれな私のようなものをそれ程思ってくれて、誠に嬉しいけれども、考えても御覧、たとえ家来でも、あゝやって死なく去なってまだ七日も経たたん内に、仏へ対して其んな事の出来るものでもないじゃアないか﹂
早﹁うん、それは然そうだね、七日の間は陰いん服ぷくと云って田舎などではえら厳やかましくって、蜻蛉一つ鳥一つ捕ることが出来ねえ訳だから、然ういう事がある﹂
竹﹁だからさ七日でも済めば、親御も得心のうえでお話になるまいものでもないから、今夜だけの処は帰っておくれ﹂
早﹁然そうお前まえが得心なれば帰る、田舎の女おな子ごのように直すぐ挨拶をする訳には往いくめえが、お前のように否いやだというから腹ア立っただい、そんなら七日が済んで、七日の晩げえに来るから、其の積りで得心して下さいよ﹂
とにこ〳〵して、自分一人承知して帰ってしまいました。斯かよ様うな始末ですからお竹は翌よく朝あさ立つことが出来ません、既に頼んで置いた舁かご夫かきも何も断って、荷物も他わ所きへ隠してしまいました。主人の五平は、
五﹁お早うございます、お嬢さま、えゝ只今洪願寺の和尚様が前をお通りになりましたから、今日お立ちになると申しましたら、和尚様の言いなさるには、それは情なさけない事だ、遠い国へ来て、御兄弟だか御親類だか知らないが、死人を葬り放ぱなしにしてお立ちなさるのは情ない、せめて七日の逮たい夜やでも済ましてお立ちになったら宜よかろうに、余りと云えば情ない、それでは仏も浮うかまれまいとおっしゃるから、私わしも気になってまいりました、長くいらっしゃったお客様だ、何は無くとも精進物で御膳でもこしらえ、へゝゝゝ、宅うちへ働きにまいります媼ばゞ達あたちへお飯まんまア喰わして、和尚様を呼んで、お経でも上げてお寺参めえりでもして、それから貴あな方た七日を済まして立って下されば、私わたくしも誠に快こゝろようございます、また貴方様も仏様のおためにもなりましょうから、どうか七日を済ましてお立ちを﹂
竹﹁成程私わたくしも其の辺は少しも心附きませんでした、大きに左様で、それじゃア御厄介序ついでに七日まで置いて下さいますか﹂
というので七日の間泊ることになりました。他に用は無いから、毎日洪願寺へまいり、夜は回えこ向うをしては寝ます。宵よいの中うちに早四郎が来て種いろ々〳〵なことをいう。忌いやだが仕方がないから欺だまかしては帰してしまう。七日まで〳〵と云い延べている中うちに早く六日経ちました。丁度六日目に美濃の南なん泉せん寺じの末まつ寺じで、谷中の随ずい応おう山ざん南泉寺の徒弟で、名を宗そう達たつと申し、十六才の時に京都の東とう福ふく寺じへまいり、修業をして段々行あん脚ぎゃをして、美濃路辺あたりへ廻って帰って来たので、まだ年は三十四五にて色白にして大柄で、眉毛のふっさりと濃い、鼻筋の通りました品の好よい、鼠無地に麻の衣を着、鼠の頭ず陀だを掛け、白の甲こう掛がけ脚きゃ半はん、網あじ代ろの深い三度笠を手に提げ、小さな鋼くろ鉄がねの如意を持ちまして隣座敷へ泊った和尚様が、お湯に入り、夕ゆう飯はんを喰たべて夜よに入いりますと、禅宗坊主だからちゃんと勤めだけの看かん経きんを致し、それから平へい生ぜい信心をいたす神さまを拝んでいる。何と思ったかお竹は襖ふすまを開けて、
竹﹁御免なさいまし﹂
僧﹁はい、何どな方たじゃ﹂
竹﹁私わたくしはお相あい宿やどになりまして、直じき隣に居りますが、あなた様は最前お著つきの御様子で﹂
僧﹁はい、お隣座敷へ泊ってな、坊主は経を誦よむのが役で、お喧やかましいことですが、夜よふ更けまで誦みはいたしません、貴方も先さっ刻きから御回向をしていらっしったな﹂
竹﹁私わたくしは長らく泊って居りますが、供の者が死なく去なりまして、此の宿しゅ外くはずれのお寺へ葬りました、今こん日にちは丁度七日の逮夜に当ります、幸いお泊り合せの御出家様をお見掛け申して御回向を願いたく存じます﹂
僧﹁はい〳〵、いや〳〵それはお気の毒な話ですな、うん〳〵成程此の宿屋に泊って居る中うち、煩わずろうてお供さんが…おう〳〵それはお心細いことで、此の村方へ御ごそ送う/葬\になりましたかえ、それは御ごか看んき経んをいたしましょう、お頼みはなくとも知ればいたす訳で、何ど処こへ参りますか﹂
竹﹁はい、こゝに机がありまして、戒名もございます﹂
僧﹁あゝ成程左様ならば﹂
と是から衣を着換え、袈け裟さを掛けて隣座敷へまいり、机の前へ直りますと、新しい位牌があります、白木の小さいので戒名が書いてあります。
僧﹁あゝ、是ですか、えゝ、むう八月廿四日かにお死かく去れになったな、うむ、お気の毒な事で南無阿弥陀仏々々々々々々、宜しい、えゝ、お線香は私わしが別に好よいのを持って居りますから、これを薫たきましょう﹂
と頭ず陀たの中から結構な香を取出し、火ひい入れの中へ入れまして、是から香を薫き始め、禅宗の和尚様の事だから、懇ねんごろに御回向がありまして、
僧﹁えゝ、お戒名は如い何かさま好よいお戒名で、うゝ光こう岸がん浄じょ達うた信つし士んし﹂
竹﹁えゝ、是は只心ばかりで、お懇ねんごろの御回向を戴きまして、ほんのお布施で﹂
僧﹁いや多分に貴方、旅の事だから布ふせ施も物つを出さんでも宜しい、それやア一文ずつ貰って歩く旅たび僧そうですから、一文でも二文でも御回向をいたすのは当あた然りまえで、併しかし布施のない経は功徳にならんと云うから、これは戴きます、左様ならば私わしは旅疲れゆえ直すぐに寝ます、ま御免なさい﹂
と立ちかけるを留とめて、
竹﹁あなた少々お願いがございます﹂
僧﹁はい、なんじゃな﹂
と又坐すわる。お竹はもじ〳〵して居りましたが、応やがて、
竹﹁おつな事を申上げるようでございますが、当家の忰が私わたくしを女と侮あなどりまして、毎晩私の寝床へまいって、怪けしからん事を申しかけまして、若もし云うことを肯きかなければ殺してしまうの、鉄砲で打つのと申します、馬鹿な奴と存じますから、私も好よい加減に致して、七日でも済んだら心に従うと云い延べて置きましたが、今晩が丁度七日の逮夜で、明みょ朝うあさ早く此の宿やどを立とうと存じますから、屹きっ度と今晩まいって兎や角申し、又理不尽な事を致すまいものでもあるまいと存じますで、誠に困りますが、幸い隣へお相宿になりましたから、事に寄ると私が貴方の方へ逃込んでまいりますかも知れません、其の時には何どう卒ぞお助け遊ばして下さるように﹂
僧﹁いや、それは怪けしからん、それは飛んだ事じゃ私わしにお知らせなさい、押えて宿の主ある人じを呼んで談じます、然そういう事はない、自分の家うちの客人に対して、女旅と侮あなどり、恋れん慕ぼを仕掛けるとは以もっての外ほかの事じゃ、実に馬鹿程怖い者はない、宜しい〳〵、来たらお知らせなさい﹂
竹﹁何どう卒か願います﹂
と少し憤いきどおった気味で受合いましたから、大きにお竹も力に思って、床を展とって臥ふせりました、和尚さまは枕に就つくと其の儘旅疲れと見え、ぐう〳〵と高たか鼾いびきで正体なく寝てしまいました。お竹は鼾の音が耳に附いて、どうも眠ねられません、夜よな半かに密そっと起きて便よう所ばへまいり、三尺の開ひらきを開けて手を洗いながら庭を見ると、生いけ垣がきになっている外は片かた方〳〵は畠で片方は一杯の草くさ原はらで、村の人が通るほんの百姓道でございます。秋のことだから尾おば花な萩はぎ女おみ郎なえ花しのような草花が咲き、露が一杯に下りて居ります。秋の景色は誠に淋しいもので、裏手は碓氷の根ねが方たでございますから小こや山ま続きになって居ります。所とこ々ろ〳〵ちら〳〵と農家の灯あか火りが見えます、追々戸を締めて眠ねた処もある様子。お竹が心の中うちで。向うに幽かすかに見えるあの森は洪願寺様であるが、彼あす処こへ葬り放しで此こ処ゝを立つのは不本意とは存じながら、長く泊っていれば、宿屋の忰が来て無理無体に恋慕を云い掛けられるのも忌いやな事であると、庭の処から洪願寺の森を見ますと、生垣の外にぬうと立っている人があります。男か女か分りませんが、頻しきりと手を出してお出いで〳〵をしてお竹を招く様子、腰を屈かゞめて辞儀をいたし、また立上って手招ぎをいたします。
竹﹁はてな、私を手招ぎをして呼ぶ人はない訳だが……男の様子だな、事によったら敵かたきの手係りが知れて、人に知れんように弟おとゝが忍んで私に会いに来たことか、それとも屋敷から内ない々〳〵音たよ信りでもあった事か﹂
と思わず褄つまを取りまして、其そ処こに有合せた庭草履を穿はいて彼かの生垣の処へ出て見ると、十間ばかり先の草くさ原ばらに立って居りまして、頻りと招く様子ゆえお竹は、はてな……と怪しみながら又跡を慕ってまいりますと、又男が後あとへ退さがって手招きをするので、思わず知らずお竹は畠続きに洪願寺の墓場まで参りますと、新しん墓ばかには光岸浄達信士という卒そ塔と婆ばが立って樒しきみが上あがって、茶碗に手たむ向けの水がありますから、あゝ私ゃア何うして此こ処ゝまで来たことか、私の事を案じて忠平が迷って私を救い出すことか、ひょっとしたら私が気を落している所へ附込んで、狐きつね狸たぬきが化ばかすのではないか、もし化されて此こ様んな処へ来やアしないかと、茫然として墓場へ立止って居りました。
三十五
此こな方たは例の早四郎が待ちに待った今こよ宵いと、人の寝ねし静ずまるを窺うかごうてお竹の座敷へやって参り、
早﹁眠ねぶったかね〳〵、お客さん眠ったかえ……居ねえか……約束だから来ただ、の中へ入ひえっても宜えいかえ入ひえるよ、入っても宜いかえ﹂
と理不尽にを捲まくって中へ入り。
早﹁眠ねぶったか……あれやア居ねえわ、何ど処けえ行っただな、私わしが来る事を知っているから逃げたか、それとも小便垂れえ行ったかな、ア小便垂れえ行ったんだ、逃げたって女一人で淋しい道中は出来ねえからな、私わしア此の床の中へ入ひえって頭から掻けえ巻まきを被かぶって、ウフヽヽ屈つくなんでると、女おな子ごは知んねえからこけえ来る、中へお入ひえんなさいましと云ったところで、男が先へ入ひえっていりゃア間まを悪がって入ひえれめえから、小ちっさくなってると、誰もいねえと思ってすっと入ひえって来ると、己おらアこゝにいたよって手を押つかめえて引入れると、お前めえ来ねえかと思ったよ、なに己ア本当に是まで苦労をしたゞもの、だから中なけえ入ひえるが宜えい、入ひえっても宜えいかえと引ふっ張ぱり込こめば、其の心があっても未まだ年い行かないから間を悪がるだ、屹きっ度と然そうだ、こりゃア息い屏こらして眠ねぶった真似えしてくれべえ﹂
と止せば宜いいのに早四郎はお竹の寝床の中で息を屏こらして居りました。暫しばらく経たつと密そっと抜ぬき足あしをして廊下をみしり〳〵と来る者があります。古い家うちだから何どんなに密と歩いても足音が聞えます、早四郎は床の内で来たなと思っていますと、密と障子を開け、スウー。早四郎は障子を開けたなと思っていますと、ぷつり〳〵と、吊ってありましたの吊つり手てを切落し、寝ている上へフワリと乗ったようだから、
早﹁何だこれははてな﹂
と考えて居りますと、片かた方っぽでは片手で探さぐり、此こ処ゝら辺あたりが喉のど笛ぶえと思う処を探り当てゝ、懐から取出したぎらつく刄物を、逆さか手てに取って、ウヽーンと上から力に任せて頸ぼん窩のく骨ぼへ突つッ込こんだ。
早﹁あゝ﹂
と悲鳴を上げるのを、ウヽーンとりました。苦しいから足をばた〳〵やる拍子に襖ふすまが外れたので、和尚が眼を覚して、
僧﹁はゝ、夜よば這いが来たな﹂
と思いましたから起きて来て見ると、灯あか火りが消えている。
僧﹁困ったな﹂
と慌あわてゝ手探りに枕元にある小さな鋼くろ鉄がねの如にょ意いを取って透すかして見ると、判はっ然きりは分りませんが、頬ほう被かぶりをした奴が上へ乗のしかゝっている様子。
僧﹁泥坊﹂
と声をかける大だい喝かつ一いっ声せい、ピイーンと曲者の肝きもへ響きます。
曲者﹁あっ﹂
と云って逃げにかゝる所へ如意で打ってかゝったから堪たまらんと存じまして、刄物で切ってかゝるのを、胆たんの据すわった坊さんだから少しも驚かず、刄物の光が眼の先へ見えたから引ひっ外ぱずし、如意で刄物を打落し、猿えん臂ぴを延のばして逆に押おさえ付け、片膝を曲者の脊中へ乗のっ掛かけ、
僧﹁やい太い奴だ、これ苟かりそめにも旅はた籠ごを取れば客だぞ、其の客へ対して恋慕を仕掛けるのみならず、刄物などを以て脅して情慾を遂とげんとは不埓至極の奴だ、これ宿屋の亭主は居らんか、灯あか火りを早く……﹂
という処へ帰って来ましたのはお竹で。
竹﹁おや何で﹂
僧﹁む、お怪我はないか﹂
竹﹁はい、私わたくしは怪我はございませんが、何でございます﹂
僧﹁恋慕を仕掛けた宿屋の忰が、刄物を持って来て貴方に迫り、わっという声に驚いて眼をさまして来ました、早く灯あか火りを……廊下へ出れば手ちょ水うず場ばに灯火がある﹂
という中うちに雇やと婆いばあさんが火を点とぼして来ましたから、見ると大の男が乗のッ掛かゝって床とこが血みどりになって居ります。
僧﹁此こい奴つ被かぶり物ものを脱とれ﹂
と被っている手拭を取ると、早四郎ではありませんで、此こ処ゝの主ある人じ、胡ごま麻しお塩ま交じりのぶっつり切ったような髷まげの髪はけ先さきの散ちらばった天あた窓まで、お竹の無事な姿を見て、えゝと驚いてしかみ面つらをして居ります。
僧﹁お前は此の宿屋の亭主か﹂
五﹁はい﹂
竹﹁何うしてお前は刄物を持って私の部屋へ来て此こ様んな事をおしだか﹂
五﹁はい〳〵﹂
とお竹に向って、
五﹁あ…貴方はお達者でいらっしゃいますか、そうして此の床の中には誰がいますの﹂
と布団を引ひっ剥ぱいで見ますと、今年二十五になります現在己おのれの実子早四郎が俯うつ伏ぷしになり、血のりに染って息が絶えているのを見ますと、五平は驚いたの何なんのではございません、真まっ蒼さおになって、
五﹁あゝ是は忰でございます、私わしの忰が何うして此の床の中に居りましたろう﹂
僧﹁何うして居たもないものだ、お前が殺して置きながら、お前はまア此こ者れが何どの様ような悪い事をしたか知らんが、本当の子か、仮たと令え義理の子でも無闇に殺して済む理わ由けではない、何ういう理由じゃ﹂
五﹁はい〳〵、お嬢さま、あなたは今晩こゝにお休みはございませんのですか﹂
竹﹁私はこゝに寝ていたのだが、不ふ図と起きて洪願寺様へ墓参りに行って、今帰って来ましたので﹂
五﹁何うして忰が此こ処ゝへ参って居りましたろう﹂
僧﹁いや、お前の忰は此の娘ねえさんの所とこへ毎晩来て怪けしからんことを云掛け、云う事を肯きかんければ、鉄砲で打つの、刄物で斬るのと云うので、娘さんも誠に困って私わしへお頼みじゃ、娘さんが墓参りに行った後あとへお前の子むす息こが来て、床の中に入って居いるとも知らずお前が殺したのじゃ﹂
五﹁へえ、あゝー、お嬢さま真まっ平ぴら御免なすって下さいまし、実は悪い事は出来ないもんでございます、忽たちまちの中うちに悪事が我わが子こに報いました、斯う覿てき面めんに罰ばちの当るというのは実に恐ろしい事でございます、私わたくしは他に子供はございません、此こ様んの﹇#﹁此こ様んの﹂は﹁此こ様んな﹂の誤記か﹈田舎育ちの野郎でも、唯たった一ひと粒つぶ者ものでございます、人間は馬鹿でございますが、私の死しに水みずを取る奴ゆえ、母が亡なくなりましてから私の丹誠で是までにした唯た一人の忰を殺すというのは、皆みんな私の心の迷い、強慾非道の罰でございます﹂
僧﹁土台呆れた話じゃが、何ういう訳でお前は我子を殺した﹂
五﹁はい、申上げにくい事でございますが、此の甲州屋も二十年前までは可なりな宿屋でございました処が、私わたくしは年を老とりましても、酒や博ばく奕ちが好きでございまして、身代を遂に痛め、此こ者れの母も苦労して亡りました、斯うやって表を張はっては居りますが、実は苦しい身代でございます、ところが此のお嬢様が先せん達だって宿賃をお払いなさる時に、懐から出した胴巻には、金が七八十両あろうと見た時は、面にき皰びの出る程欲しくなりました、あゝ此の金があったら又一ひと山やま興おこして取附く事もあろうかと存じまして、無理に七日までお泊め申しましたが、愈いよ々〳〵明みょ日うにちお立ちと聞きましたゆえ、思い切って今晩密そっと此のお嬢様を殺して金を奪とろうと企たくみました、死骸は田圃伝えに背しょ負い出だして、墓場へ人知れず埋めてしまえば、誰にも知れる気きづ遣かいないと存じまして、忍んで参りました、道ならぬ事をいたした悪事は、忽たちまち報い、一人の忰を殺しますとは此の上もない業ごう曝さらしで、実に悪い事は出来ないと知りました、私わたくしも最もう五十九でございます、お嬢さま何とも申し訳がございませんから、私は死んでしまい、貴方に申訳をいたします﹂
と云切るが早いか、出刄庖丁を取って我が咽のどに突立てんとするから、
僧﹁あゝ暫く待ちなさい、まア待ちなさい、お前がこれ死んだからって言訳が立つじゃアなし、命を棄てたって何の足しにもなりゃアせん、嬢さんの御迷惑にこそなれ、宜よいか先せん非ぴを悔い、あゝ悪い事をした、唯たった一人の子を殺したお前の心の苦しみというものは一通りならん事じゃ、是も皆みな罰ばちだ、一念の迷いから我子を殺し、其の心の苦しみを受け、一旦の懺ざん悔げによって其の罪は消えている、見なさいお嬢様の一命は助かり、お前の子はお嬢様の身代りになったんじゃ、誠に気の毒なは此の息子さん、嬢さん何事も此の息子さんに免じてお前さんも堪かん弁べんなさい、何い日つまでも仇あだに思っていると却かえってお前さんの死んだ御家来さんの為にもならん、宜いいか、又御亭主は客に対して無礼をしたとか、道楽をして棄すて置おかれん、親に苦労をかけて堪たまらんから殺しましたと云って尋常に八州へ名な告のって出なさい、なれども一人の子を私わたくしに殺すのは悪い事じゃから髪の毛を切って役所へ持って行ゆけば、是には何か能よく々〳〵の訳があって殺したという廉かどで、お前さんに甚ひどく難儀もかゝるまいと思う、然そうして出家を遂とげ、息子さんの為に四国西国を遍歴して、其の罪つみ滅ほろぼしをせんければ、兎とても尋な常みの人に成れんぞ﹂
五﹁はい〳〵﹂
僧﹁是から陰徳を施し、善事を行うが肝心、今までの悪業を消すは陰徳を積むより他に道はないぞ﹂
五﹁有難うございます﹂
僧﹁あゝ何うも気の毒な事じゃなア、お嬢さん﹂
三十六
お竹は不思議な事と心の内で忠平の霊に回向をしながら、
竹﹁ま、私わたくしは助かりましたが、誠に思い掛けない事で﹂
僧﹁いや〳〵世間は無常のもので、実に夢幻泡沫で実じつなきものと云って、実は真まことに無いものじゃ、世の人は此の理りを識しらんによって諸もろ々〳〵の貪どん慾よく執しゅ心うしんが深くなって名みょ聞うも利んり養ように心を焦いらって貪むさぼらんとする、是らは只今こん生じょうの事のみを慮おもんぱかり、旦あけ暮くれに妻さい子しけ眷んぞ属く衣食財宝にのみ心を尽して自ら病を求める、人には病は無いものじゃ、思う念ねん慮りょが重なるによって胸に詰って来ると毛けあ孔なが開ひらいて風邪を引くような事になる、人間元も来と病なく、薬やく石せき尽こと〴〵く無用、自ら病を求めて病が起おこるのじゃ、其の病を自分手に拵こしらえ、遂に煩悩という苦なや悩みも出る、之これを知らずに居って、今死ぬという間際の時に、あゝ悪いことをした、あゝせつない何う仕よう、此の苦痛を助かりたいと、始めて其の時に驚いて助からんと思っても、それは兎とても何の甲斐もない事じゃ、此の理りを知らずして破戒無むざ慚ん邪じゃ見けん放ほう逸いつの者を人じん中ちゅうの鬼畜といって、鬼の畜生という事じゃ、それ故に大たい梅ばい和おし尚ょうが馬ばそ祖だ大い師しに問うて如い何かなるか是これ仏、馬祖答えて即心即仏という、大梅が其の言ごん下かに大だい悟ごしたという、其の時に悟ったじゃ、此の世は実に仮のものじゃ、只四しえ縁んの和合しておるのだ、幾らお前が食たべ物ものが欲しい著きも物のが欲しい、金が欲しい、斯ういう田地が欲しいと云った処が、ぴたりと息が絶えれば、何一つ持って行ゆくことは出来やアしまい、四縁とは地ちす水いか火ふ風う、此の四つで自然に出来ておる身体じゃ、仮に四大︵地水火風︶が和合して出来て居おるものなれば、自分の身体も有りはせん、実は無いものじゃ、自然に是は斯うする物じゃという処へ心が附かんによって、我わが心があると思われ、我わが身体を愛し、自分に従うて来る人のみを可愛がって、宜よう訪ねて来てくれたと悦び、自分に背そむく者は憎い奴じゃ、彼あい奴つはいかんと云うようになる、人を憎む悪い心が別にあるかというに、別にあるものでもない、即仏じゃ、親父が娘を殺して金子を奪とろうとした時の心は実に此の上もない極重悪人なれども、忽たちまち輪りん回えお応うほ報うして可愛い我子を殺し、あゝ悪い事をしたと悔かい悟ごして出家になるも、即ち即心即仏じゃ、えゝ他人を自分の身体と二つあるものと思わずに、欲しい惜しいの念を棄てゝしまえば、争いもなければ憤おこる事もない、自他の別を生ずるによって隔かく意いが出来る、隔意のある所から、物の争いが出来るものじゃ、先むこ方うに金があるから取ってやろうとすると、先むこ方うでは私わしの物じゃから遣やらん用を勤めたら金を遣るぞ、勤めをして貰うのは当あた然りまえだから、先さ方きへくれろ、それを此こっ方ちゃで只取ろうとする、先さ方きでは渡さんとする、是が大きゅうなると戦いく争さじゃ、実に仏も心配なされて西方極楽世界阿弥陀仏を念じ、称しょ名うみょうして感想を凝こらせば、臨終の時に必ず浄土へ往生すと説とき給たまえり、南無阿弥陀仏〳〵﹂
圓朝が此こ様んなことを云ってもお賽さい銭せんには及びません、悪くすると投げる方があります。段々と有難い事を彼かの宗達という和尚さんが説とき示しめしたからお竹も五平を恨む念は毛頭ありません。
竹﹁お前此の金が欲しければ皆みんな上げよう﹂
五﹁いえ〳〵金は要いりません、私わたくしは剃てい髪はつして罪滅しの為に廻かい国こくします﹂
というので剃かみ刀そりを取寄せて宗達が五平をくり〳〵坊主にいたしました。早四郎の死骸は届ける所へ届けて野辺の送りをいたし、後あとは他人へ譲り、五平は罪滅しのため四国西国へ遍歴に出ることになり、お竹は是より深い事は話しませんが、
﹁私わたくしは粂野美作守の家来渡邊という者の娘で、弟は祖五郎と申して、只今は美みま作さか国のくにへまいって居ります、弟にも逢いたいと存じますし、江戸屋敷の様子も聞きたし、弟もお国表へまいって家老に面会いたし、事の仔細が分りますれば江戸屋敷へまいる筈はずで、何どの道便りをするとは申して居りましたが、案じられてなりませんから、家来の忠平という者を連れてまいる途みちで長く煩いました上、遂に死しに別わかれになりまして、心細い身の上で、旅慣れぬ女のこと、どうか御出家様私を助けると思おぼ召しめし、江戸までお送り遊ばして下さいますれば、何どの様ようにもお礼をいたしましょう、お忙しいお身の上でもございましょうが、お連れ遊ばして下さいまし﹂
と頼まれて見ると宗達も今更見棄てる事も出来ず、
宗﹁それは気の毒なことで、それならば私わしと一緒に江戸まで行ゆきなさるが宜よい私わしは江戸には別に便たよる処もないが、谷中の南泉寺へ寄って已いぜ前ん共に行あん脚ぎゃをした玄げん道どうという和尚がおるから、それでも尋ねたいと思う、ま兎も角もお前さんを江戸屋敷まで送って上げます﹂
と云うので漸ようようの事にて江戸表へまいりましたが、上屋敷へも下屋敷へもまいる事が出来んのは、予かねてお屋敷近い処へ立寄る事はならんと仰せ渡されて、お暇いとまになった身の上ゆえ、本郷春木町の指物屋岩吉方へまいり、様子を聞くと、岩吉は故人になり、職人が家あ督とを相続して仕事を受取って居りますことゆえ、迚とても此こ処ゝの厄介になる事は出来ません。仕方がないので、どうか様子を下屋敷の者に聞きたいと谷中へ参りますと、好いい塩梅に佐さと藤うへ平い馬まという者に会って、様子を聞くと、平馬の申すには、
平﹁弟おと御ゝごは此こっ方ちへおいでがないから、此の辺にうろ〳〵しておいでになるはお宜しくない、全体お屋敷近い処へ入らっしゃるのは、そりゃアお心得違いな事で、ま貴方は信州においでゞ、時節を待ってござったら御帰参の叶かなう事もありましょう、御舎弟も春部殿も未だ江戸へはお出いでがない、仮たと令え御家老に何どんなお頼みがありましても無駄な話でございます﹂
と撥はね付つけられ、
竹﹁左様なら弟は此こち方らへまいっては居りませんか﹂
平﹁左様、御舎弟は確たしかにお国においでだという話は聞きましたが、多分お国へ行って、お国家老へ何かお頼みでもある事でございましょう、併しかし大おお殿との様さまは御病気の事であるが、事に寄ったら御家老の福ふく原はら様さまが御ごし出ゅっ府ぷになる時も、お暇になった者を連れてお出いでになる筈がないから、是は好よい音たよ信りを待ってお国にお出いででございましょう、殿様は御不快で、中々御重症だという事でございまして、私わた共くしどもは下役ゆえ深い事は分りませんが、此のお屋敷近い処へ立廻るはお宜しくない事で﹂
という。此の佐藤平馬という奴は、内ない々〳〵神原五郎治四郎治の二人から鼻薬をかわれて下に使われる奴、提ちょ灯うち持んもちの方の悪い仲間でございますから、斯かく訳の分らんように云いましたのは、お竹にお屋敷の様子が聞かしたくないから、真まこ実としやかに云ってお屋敷近辺へ置かんように追おっ払ぱらいましたので、お竹はどうも致いた方しかたがない、旧来馴染の出入町人の処へまいりましても、長く泊っても居おられません、又一緒にまいった宗達も、長くは居いられません理わ由けがあって、或時お竹に向い、
宗﹁私わしは何うしても美濃の南泉寺へ帰らんければならず、それに又私は些ちと懇意なものが有って、田舎寺に住職をしている其の者を尋ねたいと思うが、貴方は是から何ど処こへ参らるゝ積りじゃ﹂
竹﹁何処へも別にまいる処もありませんが、お国へまいれば弟が居ります、成程御家老も弟を連れて、お出いでは出来ますまい、御帰参の叶う吉きっ左そ右うを聞くそれまではお国表にいる事でございましょうから、私わたくしもどうかお国へ参りとうございます﹂
宗﹁併しかしどうも女一人では行ゆかれんことで、何ともお気の毒な事だ、じゃアまア美作の国といえば是これ百七八十里隔へだった処、私わしが送る訳にはいかんが、今更見棄てることも出来ないが、美濃の南泉寺までは是非行ゆかんければならん、東海道筋も御婦人の事ゆえ面倒じゃ、手形がなければならんが、何うか工くふ風うをして私がお送り申したいが、困った事で、兎に角南泉寺まで一緒に行ゆきなさい、彼あっ方ちの者は真実があって、随分俗の者にも仏ぶっ心しんがあってな、寺へ来て用や何なんかするからそいらに頼んだら美作の方へ用事があってまいる者があるまいとも云えぬ、其の折に貴方を頼んでお国へ行ゆかれるようだと私も安心をします、私は坊主の身の上で、婦人と一緒に歩くのは誠に困る、衆ひ人とにも見られて、忌いやな事でも云われると困る、けれども是も仕方がないから、ま行ゆきなさるが宜よい、私は本ほん庄じょ宿うじゅくの海かい禅ぜん寺じへ寄って一ちょ寸っと玄道という者に会って、それから又美濃まで是非行ゆきますから御一緒にまいろう、それには木曾路の方が銭が要らん﹂
と御出家は奢おごらんから、寒くなってから木曾路を引返し本庄宿へまいりまして、婦人ではあるけれどもこれ〳〵の理わ由けだ、と役僧にお竹の身の上話をして、其の寺に一泊いたし、段々日ひか数ずを経てまいりましたが、元より貯え金は所持している事で、漸ようやく碓氷を越して軽かる井いざ沢わと申す宿しゅくへまいり、中なか島じま屋やという宿屋へ宿やどを取りましたは、十一月の五日でござります。
三十七
木曾街道でも追おい分わけ沓くつ掛がけ軽井沢などは最も寒い所で、誰たれやらの狂歌に、着て見れば綿がうすい︵碓氷︶か軽井沢ゆきたけ︵雪竹︶あって裾すその寒さよ、丁度碓氷の山の麓ふもとで、片かた方〳〵は浅間山の裾になって、ピイーという雪風で、暑中にまいりましても砂を飛とばし、随分半はん纒てんでも着たいような日のある処で、恐ろしい寒い処へ泊りました。もう十一月になると彼あの辺は雪でございます、初雪でも沢山降りますから、出立をすることが出来ません、詮せん方かたがないから逗とう留りゅうという事になると、お竹は種いろ々〳〵心配いたしている。それを宗達という和尚さまが真実にしてくれても何とのう気詰り、便りに思う忠平には別れ、弟おとゝ祖五郎の行方は知れず、お国にいる事やら、但たゞしは途中で煩わずらってゞもいやアしまいか、などと心細い身の上で何どう卒ぞして音たよ信りをしたいと思っても何ど処こにいるか分らず、御家老様の方へ手紙を出して宜よいか分りませんが、心配のあまり手紙を出して見ました。只今の郵便のようではないから容易には届かず、返事も碌に分らんような不都合の世の中でございます。お竹は過すぎ越こし方を種々思うにつけ心細くなりました、これが胸に詰って癪しゃくとなり、折々差込みますのを宗達が介抱いたします、相あい宿やどの者も雪のために出立する事が出来ませんから、多おお勢ぜい囲い炉ろ裡りの周まわ囲りへ塊かたまって茫ぼん然やりして居ります。中には江えど戸っ子こで土地を食くい詰つめまして、旅稼ぎに出て来たというような職人なども居ります。
○﹁おい鐵てつう﹂
鐵﹁えゝ﹂
○﹁からまア毎めい日にち〳〵降込められて立つことが出来ねえ、江戸子が山の雪を見ると驚いちまうが、飯を喰う時にずうと並んで膳が出ても、誰も碌に口をきかねえな﹂
鐵﹁そうよ、黙っていちゃア仕様がないから挨えゝ拶さつをして見よう﹂
○﹁えゝ﹂
鐵﹁挨えゝ拶さつをして見ようか﹂
○﹁しても宜いいが、きまりが悪いな﹂
鐵﹁えゝ御免ねえ……へえ……どうも何でごぜえやすな、お寒いことで﹂
△﹁はア﹂
鐵﹁お前めえさん方は何ですかえ、相宿のお方でげすな﹂
△﹁はア﹂
鐵﹁何を云やアがる……がア〳〵って﹂
○﹁手てめ前えが何か云うからはアというのだ、宜いいじゃアねえか﹂
鐵﹁変だな、えゝゝ毎めえ日にち膳が並ぶとお互たげえに顔を見合せて、御おま飯んまを喰ってしまうと部屋へ入へいってごろ〳〵寝るくれえの事で仕様がごぜえやせんな、夜になると退てえ屈くつで仕様が有りませんが、なんですかえお前まえさん方は何ど処こかえお出でなすったんでげすかえ﹂
△﹁私わしはその大和路の者であるが、少し仔細あって、えゝ長らく江戸表にいたが、故こき郷ょう忘ぼうじ難がたく又帰りたくなって帰って来ました﹂
鐵﹁へえー然そうで……其そち方らのお方はお三人連で何どち方らへ﹂
□﹁私わしは常ひた陸ちの竜りゅうヶさ崎きで﹂
鐵﹁へえ﹂
□﹁常陸の竜ヶ崎です﹂
鐵﹁へえー何ういう訳で此こ様んな寒い処へ常陸からおいでなさったんで﹂
□﹁種いろ々〳〵信心がありまして、全体毎まい年ねん講こう中じゅうがありまして、五六人ぐらいで木曾の御おん獄たけ様さまへ参さん詣けいをいたしますが、村の者の申し合せで、先せん達だつさんもお出いでになったもんだから、同道してまいりやした、実は御獄さんへ参るにも、雪を踏んで難儀をして行ゆくのが信心だね﹂
鐵﹁へえー大変でげすな、御獄さんてえのは滅法けえ高たけえ山だってね﹂
□﹁高いたって、それは富士より高いと云いますよ、あなた方も信心をなすって二度もお登りになれば、少しは曲った心も直りますが﹂
鐵﹁えへゝゝゝ私わっちどもは曲った心が直っても、側から曲ってしまうから、旨く真まっ直すぐにならねえので……えゝ其そち方らにおいでなさる方は何どち方らで﹂
此の客は言葉が余程鼻にかゝり、
×﹁私わしは奥州仙しん台でい﹂
鐵﹁へえ…仙しん台でいてえのは﹂
×﹁奥州で﹂
鐵﹁左様でがすか、えゝ衣を着てお頭つむりが丸いから坊さんでげしょう﹂
×﹁いしやでがす﹂
鐵﹁へ何ですと﹂
×﹁医いし者やでがす﹂
鐵﹁石いし工やだえ﹂
×﹁いゝや医いど道うでがす﹂
鐵﹁へえー井戸掘にア見えませんね﹂
×﹁井戸掘ではない、医いし者ゃでがす﹂
鐵﹁へえーお医者で、私わっちどもはいけぞんぜえだもんだから、お医者と相宿になってると皆も気丈夫でごぜえます、些ちっとばかり薄はっ荷かがあるなら甜なめたいもんで﹂
×﹁左様な薬は所持しない、なれども相宿の方に御病気でお困りの方があって、薬をくれろと仰しゃれば、癒なおる癒らないは、それはまた薬が性しょうに合うと合わん事があるけれども、盛るだけは盛って上げるて﹂
鐵﹁へえー、斯う皆さんが大勢寄って只茫ぼん然やりしていても面白くねえから、何か面おも白しれえ百物語でもして遊ぼうじゃアありやせんか、大勢寄っているのですから﹂
医﹁それも宜うがすが、ま能よく大勢寄ると阿弥陀の光りという事を致します、鬮くじ引びきをして其の鬮に当った者が何か買って来るので、夜中でも厭いといなく菓子を買けえに行いくとか、酒を買けえに行ゆくとかして、客の鬮を引いた者は坐ってゝ少しも動かずに人の買って来る物を食しょくして楽しむという遊びがあるのです﹂
鐵﹁へえーそれは面おも白しれえが、珍らしい話か何かありませんかな﹂
医﹁左様でげす、別に面白い話もありませんですな﹂
鐵﹁気のねえ人だな何か他に﹂
○﹁手てめ前え出て先へ喋しゃべるがいゝ﹂
鐵﹁喋るたって己おれア喋る訳には行ゆかねえ、何かありませんかな、お医者さまは奥州仙台だてえが、面おも白しろえ怖おっかねえ化ばけ物ものが出たてえような事はありませんかな﹂
医﹁左様で別に化物が出たという話もないが、奥州は不思議のあるところでな﹂
鐵﹁へえー左様でござえやすかな﹂
医﹁貴方は何ですかえ、松島見物にお出いでになった事がありますかえ﹂
鐵﹁いや何ど処こへも行ったことはねえ﹂
医﹁松島は日本三景の内でな、随分江戸のお方が見物に来られるが此のくらい景色の好よい所はないと云ってな、船で八百八島を巡り、歌を詠えいじ詩を作りに来る風流人が幾いく許らもあるな﹂
鐵﹁へえー松島に何か心中でもありましたかえ﹂
医﹁情死などのあるところじゃアないが、差さし当あたって別にどうも面白い話もないが、医者は此こ様んな穢きたない身みな装りをして居てはいけません、医者は居いなりと云うて、玄関が立派で、身装が好よくって立派に見えるよう、風俗が正しく見えるようでなければ病びょ者うしゃが信じません、随って薬も自おのずから利かんような事になるですが、医者は頓知頓才と云って先まず其の薬より病人の気を料はかる処が第一と心得ますな﹂
鐵﹁へえー何ういう……気を料る処がありますな﹂
医﹁先年乞食が難産にかゝって苦しんでいるのを、所の者が何うかして助けて遣りたいと立派な医者を頼んで診みて貰うと、是はどうも助からん、片足出ていなければ宜よいが、片手片足出て首が出ないから身体が横になって支つかえてゝ仕様がない、細かに切って出せば命がないと途方に暮れ、立合った者も皆みな可愛そうだと云っている処へ通りかゝったのが愚老でな﹂
鐵﹁へえ……それからお前さんが産うましたのかえ﹂
医﹁それから療治にかゝろうとしたが、道具を宅たくへ置いて来たので困ったが、此こ処ゝが頓智頓才で、出ている片手を段々と斯う撫でましたな﹂
鐵﹁へえ﹂
医﹁撫でている中うちに掌てを開けました﹂
鐵﹁成程﹂
医﹁それから愚老が懐中から四文銭を出して、赤あか児ごの手へ握らせますと、すうと手を引ひっ込こまして頭の方から安やす々〳〵と産れて出て、お辞儀をしました﹂
鐵﹁へえ咒まじないでげすか﹂
医﹁いや乞食の児こだから悦んで﹂
鐵﹁ふゝゝ人を馬鹿にしちゃアいけねえ、本当だと思ってたのに洒しゃ落れも者んだね、田舎者だって迂うっ濶かりした事は云えねい……えゝ其そち方らの隅においでなさるお方、あなたは何ですかえ、矢張お医者さまでごぜえやすか﹂
僧﹁いや、私わしは斯ういう姿で諸方を歩く出家でござる﹂
鐵﹁えゝ御出家さんで、御出家なら幽霊なぞを御覧なすった事がありましょう﹂
僧﹁幽霊は二十四五度たび見ました﹂
鐵﹁へえ、此こい奴つあ面おも白しれえ話だ、二十四五度……ど何どんなのが出ました﹂
僧﹁種いろ々〳〵なのが出ましたな、嫉やき妬もちの怨霊は不実な男に殺された女が、口くち惜おしいと思った念が凝こって出るのじゃが、世の中には幽霊は無いという者もある、じゃが是はある﹂
鐵﹁へえ、ど何んな塩あん梅ばいに出るもんですな﹂
僧﹁形は絵に描かいたようなものだ、朦ぼん朧やりとして判はっ然きり其の形は見えず、只ぼうと障子や襖からかみへ映ったり、上の方だけ見えて下の方は烟けむのようで、どうも不気味なものじゃて﹂
鐵﹁へえー貴方の見たうちで一番怖いと思ったのはどういう幽霊で﹂
僧﹁えゝ、左様さ先年美みの濃のく国にから信州の福島在の知しる己べの所へ参った時の事で、此の知己は可かなりの身代で、山も持っている者で、其そ処こに暫しばらく厄介になっていた、其の村に蓮れん光こう寺じという寺がある、其の寺の和尚が道楽をしていかん彼あれは放逐せねばならんと村中が騒いで、急に其の和尚を追出すことになったから、お前さん住職になってくれないかと頼まれましたが、私わしは住職になる訳にはゆかん、行あん脚ぎゃの身の上で、併しかし葬式でもあった時には困ろうから、後ごじ住ゅうの定きまるまで暫くいて上げようと云うんで、其の寺に居りました﹂
鐵﹁へえー﹂
僧﹁すると私わしの知しる己べの山持の妾が難産をして死んだな﹂
鐵﹁へえー﹂
僧﹁それがそれ、ま主ある人じが女房に隠して、家うちにいた若い女に手を附け、それがま懐妊したによって何い時つか家内の耳に入ると、悋りん気きぶ深かい本妻が騒ぐから、知れぬうちに堕お胎ろしてしまおうと薬を飲ますと、ま宜いい塩梅に堕おりましたが、其の薬の余よど毒くのため妾は七転八倒の苦しみをして、うーんうんと夜中に唸うなるじゃげな﹂
鐵﹁へえー此こい奴つア怖こわえなア﹂
僧﹁怨みだな、斯う云う事になったのも、私わたしは奉公人の身の上相あい対たいずくだから是非もないが、内おか儀みさんが悋気深いために私わしに斯ういう薬を飲ましたのじゃ、内儀さんさえ悋気せずば此の苦しみは受けまい、あゝ口く惜やしい、私わたしは死に切れん、初めて出来た子は堕お胎ろされ、私も死に、親子諸共に死ぬような事になるも、内儀さんのお蔭じゃ、口くや惜しい残念と十一日の間云い続けて到頭死にました、その死ぬ時な、うーんと云って主人の手を握ってな﹂
鐵﹁へえ﹂
僧﹁目を半眼にして歯をむき出し、旦那さま私わたくしは死に切れませんよ﹂
○﹁やア鐵う、もっと此こっ方ちへ寄れ……気味が悪い、どうもへえー成程……そこを閉めねえ、風がぴゅー〳〵入るから……へえー﹂
僧﹁気の毒な事じゃが、仕方がない、そこで私わしがいた蓮光寺へ葬りました、他に誰も寺参りをするものがないから、主人が七日までは墓参りに来たが、七日後は打うっ棄ちゃりぱなしで、花一本供あげず、寺へ附つけ届とゞけもせんという随分不人情な人でな﹂
○﹁へえー酷ひどい奴だね、其そい奴つア怨まア、直すぐに幽ゆう的てきが出ましたかえ﹂
僧﹁私わしも可愛そうじゃアと思うた、斯ういう仏は血けっ盆ぽん地じご獄くに堕おちるじゃ、早く云えば血の池地獄へ落るんじゃ﹂
○﹁へえー﹂
僧﹁斯ういう亡もう者じゃには血けっ盆ぽん経きょうを上げてやらんと……﹂
○﹁へえー……けつ……なんて……けつを……棒で﹂
僧﹁いや血盆経というお経がある、七日目になア其の夜よの亥こゝ刻のつ﹇#﹁亥こゝ刻のつ﹂はママ、﹁子こゝ刻のつ﹂か﹁亥よ刻つ﹂であるかの判別付かず﹈前じゃったか、下駄を履はいて墓場へ行ゆき、線香を上げ、其そ処こで鈴りんを鳴ならし、長らく血盆経を読んでしもうて、私わしがすうと立って帰ろうとすると﹂
○﹁うん、うん﹂
僧﹁前が一面乱らん塔とう場ばで、裏はずうと山じゃな﹂
○﹁うん〳〵﹂
僧﹁其の山の藪の所が石坂の様になって居いるじゃ、其の坂を下おりに掛ると、後うしろでぼーずと呼ぶじゃて﹂
○﹁ふーん、これは怖こわえな、鐵もっと此こっ方ちへ寄れ、成程お前さんを呼んだ﹂
僧﹁何も私わしに怨みのある訳はない、縁無き衆しゅ生じょうは度どし難がたしというが、私わしは此の寺へ腰掛ながら住職の代りに回えこ向うをしてやる者じゃ、それを怨んで坊主とは失敬な奴じゃと振向いて見た、此こち方らの勢いきおいが強いので最もう声がせんな﹂
○﹁へえー度胸が宜うごぜえやすな、強いもんだね、始終死人の側にばかりいるから怖くねえんだ、うーん﹂
僧﹁それから又行ゆきにかゝると、また皺しわ枯がれた声で地じの底の方でぼーずと云うじゃて﹂
○﹁早はや桶おけを埋うめちまった奴が桶の中でお前さんを呼んだのかね﹂
僧﹁誰だと振向いた﹂
○﹁へえ……先せん方ぽうで驚いて出ましたか、穴の中から﹂
僧﹁振向いて見たが何なんにも居ないから、墓はか原はらへ立帰って見たが、墓には何も変りがない、はて何じゃろうと段々探すと、山の根方の藪ん中に大きな薯やま蕷いもが一本あったのじゃ、之これが世に所いわ謂ゆる坊主〳〵山の芋いもじゃて﹂
○﹁何の事こった、人を馬鹿にして、併しかし面おも白しれえ、何か他に、あゝ其そっ方ちにいらっしゃるお侍さん、えへゝゝ、旦那何か面おも白しろえお話はありませんか﹂
侍﹁いや最前から各おの々〳〵方がたのお話を聞いていると、可お笑かしくてたまらんの、拙者も長旅で表おも向てむき紫むら縮さき緬ちりめんの服ふく紗さづ包ゝみを斜はすに脊し負ょい、裁たッ着つけを穿はいて頭を結むす髪びがみにして歩く身の上ではない、形は斯かくの如く襤ぼろ褸ばか袴まを穿いている剣道修行の身の上、早く云うと武者修行で﹂
○﹁これはどうも、左様ですか、武者修行で、へえー然そう聞けばお前さんの顔に似てえる﹂
侍﹁何が﹂
○﹁いえ、そら久しい以あ前と絵に出た芳よし年としの画かいたんで、鰐わに鮫ざめを竹槍で突つッ殺ころしている、鼻が柘ざく榴ろッ鼻ぱなで口が鰐口で、眼が金かな壺つぼ眼まなこで、えへゝゝ御免ねえ﹂
侍﹁怪けしからん事をいう、人の顔を讒ざん訴そをして無礼至極﹂
○﹁なに、お前さんは左そ様んなでもねえけれども、些ちっと似てえるという話だ﹂
侍﹁貴公らは江戸のものか、職人か﹂
○﹁へえ﹂
侍﹁成程﹂
○﹁旦那、皆みんなは嘘っぺいばかしでいけませんが、何なんぞ面おも白しろえ話はありませんかね﹂
侍﹁貴あん公た先にやったら宜かろう﹂
○﹁私わっちどもは好いい話が無ねえんで、火事のあった時に屋根屋の徳とくの野郎め、路地を飛越し損そくなやアがって、どんと下へ落ると持出した荷の上へ尻餅を搗つき、睾きん丸たまを打ち、目をまわし、嚢ふくろが綻ほころびて中から丸たまが飛出して﹂
侍﹁然そういう尾びろ籠うの話はいけんなア﹂
○﹁それから乱らん暴ぼう勝かつてえ野郎が焚たき火びにって、金きん太たという奴を殴る機はずみにぽっぽと燃えてる燼やけ木ぼっ杭くいを殴ったから堪たまらねえ、其の火が飛んで金太の腹掛の間へ入へいって、苦しがって転がりやアがったが、余よっ程ぽど面白うござえました﹂
侍﹁其そ様んな事は面白くない﹂
○﹁そんなら旦那何ぞ面白え話を﹂
侍﹁先せん刻こくから空そら話ばなしばかり出たので、拙者の話を信じて聞くまいから、どうもやりにくい﹂
三十八
向むこ座うざ敷しきにてぽん〳〵と手を打ち、
宗﹁誰たれも居ぬかな﹂
下婢﹁はい﹂
此の座敷に寝ているのは渡邊お竹で、宗達が看病を致して居りますので、
婢﹁お呼びなさいましたかえ﹂
宗﹁一ちょ寸っとこゝへ入ってくれ﹂
婢﹁はい﹂
宗﹁序ついでに水を持って来ておくれ、病人がうと〳〵眠ね附つくかと思うと向座敷で時々大勢がわアと笑うので誠に困る﹂
婢﹁誠にお喧やかましゅうござりやしょう﹂
宗﹁其そ処こをぴったり閉めておくれ﹂
婢﹁畏かしこまりやした﹂
と立って行って大勢の所へ顔を出しまして、
﹁どうかあの皆さん相宿の方に病人がありやすから、余あんまり大でけえ声をして、わア〳〵笑わないように、喧しいと病人が眠り付かねえで困るだから、静しずかになさえましよ﹂
侍﹁はい〳〵宜しい……病人がいるなら止しましょう﹂
○﹁小声でやってくだせえ、皆みんなは虚そらっぺえ話ばなしで面白くねえ、旦那が武者修行をした時の、蟒うわ蛇ばみを退たい治じたとか何とかいう剛きついのを聞きたいね﹂
侍﹁左様さ拙者は是迄恐ろしい怖いというものに出会った事はないが、鼠のぶすまに両三度出会った時は怖いと思ったね﹂
○﹁ど何ど処こで﹂
侍﹁南なん部ぶの恐おそ山れざんから地獄谷の向むこうへ抜ける時だ﹂
○﹁へえー名からして怖おっかねえね恐山地獄谷なんて﹂
侍﹁此こ処ゝは一いっ騎きう打ちの難なん所じょで、右め手ての方ほうを見ると一ひと筋すじの小川が山の麓ふもとを繞めぐって、どうどうと小さい石を転がすように最いと凄すさまじく流れ、左ゆん手での方かたを見ると高こう山ざん峨が々ゞとして実に屏風を建てたる如く、誠に恐ろしい山で、樹きは生おい茂しげり、熊笹が地を掩おおうている、道なき所を踏分け〳〵段々下おりて来たところが、人家は絶たえてなし、雨は降ってくる、困ったことだと思い、暫く考えたが路みちは知らず、深しん更こうに及んで狼にでも出られちゃア猶更と大きに心配した、時は丁度秋の末すえさ、すると向うにちら〳〵と見える﹂
○﹁へえー、出たんでござえやすか、狼の眼は鏡のように光るてえから、貴方がうんと立止って小ちょ便うずをなすったろう﹂
侍﹁なに、小ちょ便うずなどを為しやアせん﹂
○﹁それから﹂
侍﹁これは困ったものじゃ、彼あす処こに誰か焚たき火びでもして居るのじゃアないかと思った﹂
○﹁成程山賊が居て身ぐるみ脱いでけてえと、お前さん引ひっこぬいて斬ったんで﹂
侍﹁まゝ黙ってお聞き、そう先走られると何どっ方ちが話すのだか分らん、山賊が団くる楽ま坐ざになっていたのではない、一軒の白くず屋やがあった﹂
○﹁へえー山ん中に……問とい屋やでしょう﹂
侍﹁なに茅あば屋らや﹂
○﹁え、油あぶ屋らや﹂
侍﹁油屋じゃアない、壊れた家をあばらやという﹂
○﹁確しっかりした家は脊せぼ骨ね屋やで﹂
侍﹁そう先走っては困る、其そ家こへ行って拙者は武ぶへ辺んし修ゅぎ行ょうの者でござる、斯かかる山さん中ちゅうに路みちに踏み迷い、且かつ此の通り雨天になり、日は暮れ、誠に難渋を致します、一いち樹じゅの蔭を頼むと云って音ずれると、奥から出て来た﹂
○﹁へえー肋あば骨らぼねが出て、歯のまばらな白しら髪があ頭たまの婆ばゞあが、片手に鉈なた見たような物を持って出たんだね、一つ家やの婆で、上から石が落ちたんでげしょう﹂
侍﹁然そうじゃアない、二八余りの賤しず女のめが出たね﹂
○﹁それじゃア気が無ねえ、雀が二三羽飛出したのかえ﹂
侍﹁賤しず女のめ﹂
○﹁えゝ味お噌つ汁けの中へ入れる汁の実﹂
侍﹁汁の実じゃアない、二八余り十六七になる娘が出たと思いなさい﹂
○﹁へえー家うちに居たんだね、容おん貌なは好ようごぜえやしたろうね、容おん貌なは﹂
侍﹁そんな事は何うでも宜しいが、能よく見ると乙おつな女さ﹂
○﹁へえー、おい鐵、此こっ方ちへ寄れ、ちょいと見ると美いい女だが、能く見ると眇めっ目かちで横っ面つらばかり見た、あゝいう事があるが、矢やっ張ぱり其の質たちなんでしょう﹂
侍﹁足そっ下かが喋ってばかり居っては拙者は話が出来ぬ﹂
○﹁じゃア黙ってますから一つやって下せえ﹂
侍﹁それから紙しそ燭くを点つけて出て来て、お武家さま斯様な人も通らん山やま中なかへ何うしてお出でなさいました、拙者は武術修業の身の上ゆえ、敢あえて淋しい処を恐れはせぬが如何にも追々夜よは更けるし、雨は降って来る、誠に難渋いたすによって一泊願いたいと云うと、何事も行ゆき届とゞきません、召上る物も何もございませんし、着せてお寐ねかし申す物もございません、それが御承知なれば見苦しけれども御遠慮なくお泊り遊ばせと、親切な女で汚い盥たらいへ谷水を汲んで来て、足をお洗いなさいというので足を洗いました﹂
○﹁へえー其の娘の親父か何かいましたろう﹂
侍﹁親父もいない、娘一人で﹂
○﹁へえー……母おふ親くろもいませんか﹂
侍﹁そう喋っては困りますな﹂
○﹁もう云いません、それから﹂
侍﹁ところが段々聞くと両親もなく、只一人斯かゝる山の中に居って、躬みずから自じね然んじ薯ょを掘って来るとか、或あるいは菌きのこを採とるとか、薪たきゞを採るとか、女ながら随分荒い稼ぎをして微かすかに暮しておるという独ひと身りも者のさ、見れば器量もなか〳〵好よい、色が白くて目は少し小さいが、眉毛が濃い、口元が可愛らしく、髪の毛の光つ艶やも好よし、山やま家がに稀まれな美人で﹂
○﹁へえー、ふう成程﹂
侍﹁何とも云やアしない、まア黙ってお聞き﹂
○﹁へえ﹂
侍﹁拙者は修業の身の上で、好い女だとは思いましたけれど、猥いやらしい事を云い掛けるなどの念は毛頭ない﹂
○﹁それは何いつ年ご頃ろの事ですか﹂
侍﹁丁度五年以あ前との事で﹂
○﹁あなたは幾いく歳つだえ﹂
侍﹁其そ様んな事を聞かなくとも宜よい、三十九才じゃ﹂
○﹁老けているね……五年以あ前と、じゃア未まだア壮さかりな時でごぜえやすな﹂
侍﹁左様﹂
○﹁へえ、それから何うしました﹂
侍﹁拙者の枕元へ水などを持って来て、喉のどが渇いたら召上れと種いろ々〳〵手当をしてくれる、蕎そば麦が掻きを拵こしらえて出したが、不ま味ずかったけれども、親切の志有難く旨く喰いました﹂
○﹁蕎麦粉は宜うごぜえやしたろうが、醤した油じが悪かったに違ちげえねえ、ぷんと来るやつで、此こっ方ちの醤した油じを持って行ゆきたいね﹂
侍﹁何を云っている﹂
○﹁へえ、それから﹂
侍﹁娘は向うの方へ一人で寝る、時は丁度秋の末の事、山やま冷びえでどうも寒い、雨はばら〳〵降る﹂
○﹁成程〳〵うん〳〵﹂
侍﹁娘は何うしたか何い時つまでも寝ないようで﹂
○﹁うん︵膝へ手を突き前へ乗出し︶それから﹂
侍﹁拙者に夜具を貸してしまい、娘は夜具無しで其そ処こへごろりと寝ているから、どうも其そな方たの着る物を貸して、此の寒いのに其方が夜具無しで寝るような事じゃア気の毒じゃ、風でも引かしては宜しくないというと、いえ宜しゅうございます、なに宜しい事はない、掛かけ蒲ぶと団んだけ持って行ってください、拙者は敷蒲団をかけて寝るから、いゝえ何う致しまして、それならば旦那さま恐入りますが、貴方のお裾すその方へでも入れて寝かしてくださいませんかと云った﹂
○﹁へえー、ふう鐵もっと此こっ方ちへ出ろ、面白い話になって来た、旦那は真面目になってるが、能よく見ると助平そうな顔付だ、目尻が下さがってて、旨く女をごまかしたね、中々油断は出来ねえ、白状おしなさい﹂
侍﹁ま、黙ってお聞きなさい、苟かりそめにも男なん女にょ七才にして席を同じゅうせずで、一つ寝床へ女と一緒に寝て、他ひとに悪い評でも立てられると、修行の身の上なれば甚だ困ると断ると、左様ならば御おみ足あしでも擦さすらして下さいましと云った﹂
○﹁へえー、女の方で、えへ〳〵、矢やっ張ぱり山の中で男珍らしいんで、えへ〳〵〳〵成程うん﹂
侍﹁どうも様子が訝おかしい、変だと思った﹂
○﹁なに先で思っていたんでしょう﹂
侍﹁それから拙者は此こっ方ちの小さい座敷に寝ていると、改めて又枕元へ来てぴたりと跪ひざまずいて﹂
○﹁其の女が蹴けつ躓まずきやアがったんで﹂
侍﹁蹴躓いたのではない、丁寧に手を突いて、先生私わたくしは何をお隠し申しましょう、親の敵かたきを尋ねる身の上でございます﹂
○﹁うん、其の女が…成程﹂
侍﹁敵は此の一ひと村むら隔おいて隣村に居ります、僅わずかに八里山を越すと、現に敵が居りながら、女の細腕で討つことが出来ません、先方は浪人者で、私わたくしの父は杣そまをいたして居りましたが、山やま界ざかいの争い事から其の浪人者が仲な裁かに入り、掛かけ合あいに来ましたのを恥はずかしめて帰した事があります、其の争いに先さ方きの山やま主ぬしが負けたので、礼も貰えぬ所から、それを遺恨に思いまして、其の浪人が私の父を殺せつ害がいいたしたに相違ないという事は、世間の人も申せば、私も左様に存じます、其の傍そばに扇せん子すが落ちてありました、黒骨の渋しぶ扇せんへ金で山水が描かいて有って、確たしかに其の浪人が持って居りました扇おう子ぎで見覚えが有ります、どうか先生を武術修行のお方とお見受け申して、お頼み申しますが、助太刀をなすって敵かたきを討たして下さいませんか、始めてお泊め申したお方に何とも恐入りますが、助太刀をなすって本意を遂げさせて下されば、何どの様な事でも貴方のお言葉は背きません、不ふつ束ゝかな者で、迚とてもお側にいるという訳には参りませんが、御ごは飯んた焚きでもお小間使いでも、お寝間の伽とぎでも仕ようという訳だ﹂
○﹁へえー、此こい奴つア矢やっ張ぱり然そういう事があるんでげしょう、へえー、なア……鐵やい、左官の松まつの野郎が火事の時に手伝って、それから御ごけ家さ様まの処とけえ出でへ入えりをし、何い日つか深い訳になったが、成程然ういう事がありましょう、それから何うしました﹂
侍﹁然そういう訳なれば宜しい、助太刀をして慥たしかに本意を遂げさせて遣ろうと受合うと、女は悦んで、あゝ有難う草葉の蔭において両親も嘸さぞ悦びましょうと、綺麗な顔で真に随喜の涙を流した﹂
○﹁へえー芋いも売がら見たような涙を﹂
侍﹁なに有あり難がた涙なみだを﹂
○﹁へえ成程それから何うしました﹂
侍﹁ところで同ひと衾つに寝たんだ﹂
○﹁へえー甚ひどいなア……成程、鐵ウもっと前へ出ろ、大変な話になって来た﹂
向座敷で手をぽん〳〵と打つと、又また候ぞろ下女がまいって、
下婢﹁皆さんお静かになすって、なるたけわア〳〵云わねえように願います﹂
○﹁へえ〳〵……それから何うしました、先生﹂
侍﹁いや止そう﹂
○﹁其そ処こまで遣って止すてえ事はありません、お願ねげえだから後あとを話しておくんなせえ﹂
侍﹁病人があると云うから止そう﹂
○﹁だって先生、こゝで止やめちゃア罪です﹂
侍﹁こゝらで止める方が宜かろう﹂
○﹁落はな話し家かや講釈師たア違ちげえます﹂
侍﹁此こ処ゝが丁度宜いい段きり落どこだ﹂
○﹁おい、よ話しておくんねえな〳〵﹂
侍﹁困るな…すると其の女にこう□□﹇#底本2字伏字﹈められた時には、身しん体たい痺しびれるような大だい力りきであった﹂
○﹁へえー、それは化物だ、面白い話だね、それから﹂
侍﹁もう止そう﹂
○﹁冗談じゃアない、これで止やめられて堪たまるものか……皆さん誰か一つ旦那に頼んでおくんなせえな、是から面おも白しろえ処なんで、今止められちゃア寝てから魅うなされらア﹂
侍﹁やるかなア﹂
○﹁うん成程、其の女が貴方の顔をペロ〳〵甜なめたんで﹂
侍﹁なに甜めるものか、うーんと振ふり解ほぐして、枕元にあった無むそ反りの一刀を引抜いて、斬付けようとすると、がら〳〵〳〵と家やな鳴り震動がした﹂
○﹁ふうん﹂
侍﹁ばら〳〵〳〵表へ逃げる様子、尚なお追掛けて出ると、這こは如何に、拙者が化ばかされていたのじゃ、茅あば屋らやがあったと思う処が、矢やっ張ぱり野原で、片かた方〳〵はどうどうと渓たに間まに水の流れる音が聞え、片方は恐ろしい巌がん石せき峨が々ゞたる山にして、ずうっと裏手は杉や樅もみなどの大だい樹じゅばかりの林で、其の中へばら〳〵〳〵と追込んだな﹂
○﹁へえー成程、狐きつね狸たぬきは尻けつを出して何かに見せると云うが、貴方それから何うしました﹂
侍﹁追掛けて行って、すうと一刀浴あびせると、ばたり前へ倒れた…化物が…拙者も疲れてどたーり其そ処こへ尻餅を搗ついた﹂
○﹁成程是は尤もっともです、痛いとうござえましたろう、其処に大きな石があったんで﹂
侍﹁なに石も何もありゃアせん、余計な事を云わずに聞きなさい﹂
○﹁な何の化物でげす﹂
侍﹁善よく善く其の姿を見ると、それが伸のし餅もちの石に化かしたのさ﹂
○﹁へえ、何故だろうなア﹂
侍﹁だから何うしてもちぎる訳にいかん﹂
○﹁冗談じゃアない、真面目な顔をして嘘ばっかり吐ついてる、皆みんな嘘そらっぺい話ばなしでいけねえ、己おれのは本当だ、此の中うちに聞いた人もあるだろう、何なんの話さ、大変だな、己ア江戸の者だ、谷中の久米野美作守様の屋敷へ出入の職人だったが、其そ処こに大変な悪人がいて、渡邊様てえ人を斬って、其の上に女を連れて逃げたは、えゝ何とかいう奴だっけ、然そうよ、春部梅三郎よ、其そい奴つは甚ひどい奴で、重役の渡邊織江様を斬きり殺ころしたんで、其の子が跡を追おっ掛かけて行くと、旨く言いくろめて、欺だまして到頭連出して、何とかいう所だっけ、然う〳〵、新しん町まち河がわ原らの傍わきで欺だまし討うちに渡邊様の子を殺して逃げたというんだが、大騒ぎよ、八州が八方へ手配りをしたが、山やま越ごしをして甲府へ入へいったという噂で﹂
鐵﹁止しねえ〳〵、うっかり喋るな、冗談じゃアねえぜ、若もし八州のお役人が、是これは何う云う訳だ、他人に聞いたんでと云っても追おッ付つくめえ﹂
と一人が止めるのを、一人の男が頻しきりに知ったふりで喋って居ります。
三十九
別座敷に寝て居りましたお竹が、此の話を洩もれ聞き大きに驚き、
竹﹁もし〳〵宗達様〳〵〳〵︵揺ゆり起おこす︶﹂
宗﹁あい〳〵〳〵、つい看病疲れで少し眠ねました、はあー﹂
竹﹁よく御ぎょ寝しんなっていらっしゃいますから、お起おこし申しましては誠に恐入りますが、少し気になることを向座敷で噂をしております、他ほかの者の話は嘘うそのように存じますが、中に江戸屋敷へ出で入いる職人とか申す者の話は、少し心配になりますから、お目を覚さましてくださいまし﹂
宗﹁あい……はア……つい何うも……はア大分まだ降ってる様子で、ばら〳〵雨が戸へ当りますな﹂
竹﹁何どう卒ぞあなた﹂
宗﹁はい〳〵……はア……何じゃ﹂
竹﹁其の話に春部と申す者が私わたくしの弟おとゝを新町河原で欺だま討しうちにして甲府へ逃げたと云う事でございますが、何どう卒ぞ委くわしく尋ねて下さいまし、都合に寄っては又江戸へ帰るような事にもなろうと思いますから﹂
宗﹁それは怪けしからん、図らず此こ処ゝで聞くというは妙なことじゃ、江戸の、うん〳〵職人体ていの下屋敷へ出入る者、宜しい……えゝ御免ください﹂
と宗達和尚が向座敷の襖ふすまを開けて、大勢の中に入りました。見ると矢立を持って鼠無地の衣服に、綿の沢山入っております半纒を着て居り、月さか代やきが蓬ぼう々〳〵として看病疲れで顔色の悪い坊さんでございますから、一座の人々が驚きました。
○﹁はい、おいでなさい﹂
宗﹁あゝ江戸のお方は何どな方たで﹂
○﹁江戸の者は私わっちで、奥州仙台や常陸の竜ヶ崎や何か集ってるんで、へえ﹂
宗﹁只今向座敷で聞いておった処が、その江戸に久米野殿の屋敷へ出入りをなさる職人というはあなた方か﹂
○﹁えゝ私わっちでござえやす﹂
鐵﹁えおい、だから余計なことを言うなって云うんだ、詰らねえ事を喋るからお互たげえに掛かゝ合りあいになるよ﹂
宗﹁で、その久米野殿の御家来に渡邊織江と申す者があって人手にかゝり、其の子が親の敵かたきを尋ねに歩いた処、春部梅三郎と申す者に欺かれて、新町とかで殺されたと云う話、八州が何うとかしたとの事じゃが、それを委くわしく話してください﹂
鐵﹁だから云わねえ事じゃアねえ、先むこ方うは彼あんな姿で来たって八州の隠密だよ﹂
と一人の連つれの者に云われ、一人は真まっ蒼さおになり、ぶる〳〵と顫ふるえ出し、碌々口もきけません様子。
○﹁なに本当に知っている訳じゃアごぜえやせん、朦ぼん朧やりと知ってるんで、へえ一ちょ寸っと人に聞いたんで﹂
宗﹁聞いたら聞いたゞけの事を告げなさい、新町河原で渡邊祖五郎を殺せつ害がいした春部梅三郎という者は何いずれへ逃げた﹂
○﹁あ彼あっ方ちへ逃げて……それから秩ちゝ父ぶへ出たんで﹂
宗﹁うん成程、秩父へ出て﹂
○﹁それからこ甲府へ逃げたんで﹂
宗﹁秩父越しをいたして甲府の方へ八州が追おっ掛かけたのか﹂
鐵﹁おゝおゝ仕様がねえな、本当に手てめ前えは饒おし舌ゃべりだな﹂
○﹁饒舌だって剣術の先生や何かも皆みんな喋ったじゃアねえか………何なんでごぜえやす……えゝ其の八州が追おっ掛かけて何したんで、当りを付けたんで﹂
宗﹁何ういう処に当りが付きましたな﹂
○﹁そりゃア何でごぜえやす、鴻の巣の宿屋でごぜえやす﹂
宗﹁はゝー鴻の巣の宿屋……︵紙の端へ書留め︶それは何という宿屋じゃ﹂
○﹁私わっちア知りやせん、其の宿屋へ女を連れて逃げたんで、其の宿屋が春部とかいう奴が勤めていた屋敷に奉公していて、私くっ通ついて連れて逃げた女の親里とかいう事で﹂
宗﹁うん…それから﹂
○﹁それっ切り知りやせん﹂
宗﹁知らん事は無かろう、知らんと云っても知らんでは通さん﹂
○﹁へえ……︵泣声︶御免なせえ、真まっ平ぴら御免下さい﹂
宗﹁あなた方は江戸は何ど処こだ﹂
○﹁真平御免…﹂
宗﹁御免も何もない、言わんければなりませんよ﹂
○﹁へえ外そと神かん田だ金かな沢ざわ町ちょうで﹂
宗﹁うん外神田金沢町…名前は﹂
○﹁甚じん太たっ子﹂
宗﹁甚太っ子という名前がありますか、甚じん太たろ郎うかえ﹂
○﹁慥たしか然そうで﹂
宗﹁甚太郎……其そっ方ちにいるお方は﹂
鐵﹁私わっちは喋ったんでもねえんで﹂
宗﹁言わんでも宜よい、名前が宿帳と違うとなりませんぞ、宜いかえ﹂
鐵﹁へえ、下した谷や茅かや町ちょう二丁目で﹂
宗﹁お名前は﹂
鐵﹁ガラ鐵てえんで﹂
宗﹁ガラ鐵という名はない、鐵てつ五ごろ郎うかえ﹂
鐵﹁へえ﹂
宗﹁宜しい﹂
鐵﹁御免なさい﹂
と驚いて直すぐに其の晩の内此こ処ゝを逃出して、夜通し高崎まで逃げたという。其そ様んなに逃げなくとも宜しいのに。此こっ方ちはお竹が病苦の中にて此の話を聞き、どうか直に此処を立ちたいと云う。
宗﹁何うして今から立たれるものか、碓氷を越さなければならん﹂
と稍ようやくの事で止めました。翌よく朝あさになると、お竹は尚更癪しゃ気くきが起って、病気は益々重体だが当人が何分にも肯ききませんから、駕籠を傭やとい、碓氷を越して松まつ井い田だから安あん中なか宿じゅくへ掛り、安中から新町河原まで来ますと、とっぷり日は暮れ、往来の人は途絶えた処で、駕籠から下りてがっかり致し、お竹はまたキヤ〳〵差込んで来ました。宗達は驚いて抱起したが、舁かご夫やは此こ処ゝまでの約束だというので不人情にも病人を見棄てゝ、其の儘ずん〳〵往ってしまいました。宗達は持合せた薬を服のませ、水を汲んで来ようと致しましたが、他に仕方がないから、ろはつという禅宗坊主の持つ碗わんを出して、一杯流れの水を汲んで持って来ました。漸ようやくお竹に水を飲ませ、頻しきりと介抱を致しましたが、中々烈はげしい事で、
竹﹁ウヽーン﹂
と河原の中へ其の儘反そりかえりました。
宗﹁あゝ困ったものじゃ、何うか助けたいものじゃ﹂
と又薬を飲まし、口移しに水を啣ふくませ、お竹を□□﹇#底本2字伏字﹈めて我わが肌の温あたゝかみで暖めて居ります内に、雪はぱったり止み、雲が切れて十四日かの月が段々と差昇ってまいる内に、雪明りと月つき光あかりとで熟つく々〴〵お竹の顔を見ますと、出家でも木きた竹けの身では無い、忽たちまち起る煩悩に春しゅ情んじょうが発動いたしました。御出家の方では先まず飲おん酒しゅ戒かいと云って酒を戒め、邪淫戒と申して不義の淫事を戒めてあります。つまり守り難いのは此の戒かいでございます。此の念を断たち切きる事は何うも難かたい事です、修業中の行脚を致しましても、よく宿場女郎を買い、或あるいは宿屋の下おん婢なに戯れ、酒のためについ堕落して、折角積上げた修業も水の泡に致してしまう事があります、未まだ壮さかんな宗達和尚、お竹の器量と云い、不断の心こゝ懸ろがけといい、実に惚れ〴〵するような女、其の上侍の娘ゆえ中々凛り々ゝしい気象なれども、また柔やさしい処のあるは真に是が本当の女で、斯かかる娘は容易に無いと疾とうから惚込んで、看病をする内にも度たび々〳〵起る煩悩を断切り〳〵公案をしては此の念を払って居りましたが、今は迷まよいの道に踏ふみ入いって、我ながら魔界へ落ちたと、ぐっとお竹を□□﹇#底本2字伏字﹈める途端に、温あたゝかみでふと気が附いたお竹が、眼を開あいて見ますと、力に思う宗達和尚が、常にもない不ふぎ行ょう跡せき、髭ひげだらけの頬ほおを我が顔へ当てゝ、肌を開いて□□﹇#底本2字伏字﹈めて居りますから、驚いて、
竹﹁アレー、何を遊ばします﹂
と宗達和尚を突つき退のけて向うへ駆出しにかゝる袖を確しっかり押えて、
宗﹁お竹さん御ごも道っと理もじゃ、どうも迷うた、もうとても出家は遂げられん、私わしはお前の看病をして枕元に附添い、次の間に寐ねていても、此の程はお前の身から体だが利かんによって、便所へ行ゆくにも手を引いて連れて行き、足や腰を撫なでてあげると云うのも、実は私が迷いを起したからじゃ、とても此の煩悩が起きては私は出家が遂げられん、真に私はお前に惚れた、□□□□﹇#底本4字伏字﹈私の云う事を肯きいてくだされば、衣も棄て珠じゅ数ずを切り、生えかゝった月さか代やきを幸いに一つ竈べッついとやらに前を剃そりこぼって、お前の供をして美みま作さか国のくにまで送って上げ、敵かたきを討つような話も聞いたが、何どの様ような事か理わ由けは知らんが、助太刀も仕ようし、又何の様な事でも御舎弟と倶ともに力を添える、誠に面目ない恥入った次第じゃが、何うぞ私の言う事を肯いてくだされ﹂
と云われ、呆れてお竹は宗達の顔を見ますと、宗達の顔色は変り、眼の色も変り、少し狂気している容よう子すで、掴つかみ付きにかゝるのを突つき退のけて、お竹は腹立紛れに懐へ手を入れて、母の形見の合口の柄つかを握って、寄らば突殺すと云うけんまくゆえ、此こち方らも顔の色が違いました。
竹﹁宗達さん、あなたは怪けしからぬお方で、御出家のお身みの上うえで……御幼年の時分から御修業なすって、何年の間行脚をなすって、私わしは斯う云う修業をした、仏法は有難いものじゃ、斯ういうものじゃによって、お前も迷いを起してはならないと、宿に泊って居りましても臥ふ床せる迄は貴方の御教導、あゝ有難いお話で、大きに悟ることもありました、美作まで送って遣ろうとおっしゃっても、他の方なれば断る処なれど、御出家様ゆえ安心して願いました甲斐もなく、貴方が然そう云うお心になってはなりません、何どう卒ぞ迷いを晴らして……憤おこりはしませんから、元々通り道連れの女と思召して、美作までお送り遊ばしてくださいまし、是迄の御真実は私わたくしが存じて居りますから﹂
宗﹁むゝう、是程に云ってもお聞きゝ済ずみはありませんか﹂
竹﹁どうして貴方大事を抱えている身の上で其そ様んな事が出来ますものか﹂
宗﹁然そうか……そうお前に強う云われたらもう是までじゃ、私わしもどうせ迷いを起し魔界に堕おちたれば、飽あくまでも邪よこしまに行ゆく、私はこれで別れる、あなたは煩わずろうている身体で鴻の巣まで行ゆきなさい、それも宜よいが、道の勝手を知って居おるまい、夜道にかゝって、女の一人旅は何どの様ような難儀があろうも知れぬ、さ、これで別れましょう﹂
竹﹁お別れ申しても仕方がございませんけれども、貴方の迷いの心を翻ひるがえしてさえくだされば、私に於おいてはお恨みとも何とも存じませんから﹂
宗﹁いや、お前は何ともあるまいが、此こち方らに有るのじゃ、私わしは還げん俗ぞくしてお前のためには力を添えて、何の様にも仕よう、長旅をして、お前を美作まで送って上げようとは、今迄した修業を水の泡にしてしまうのも皆みんなお前のためじゃ、何うぞ私の願ねがいを叶かなえてください、それとも肯きかんければ詮せん方かたがない、もう此の上は鬼になって、何の様な事をしても此の念を晴さずには置かん、仕儀によっては手てご込めにもせずばならん﹂
と飛付きに掛りますから、お竹は慌あわてゝ跡へ飛とび退さがって、
竹﹁迷うたか御出家、寄ると只は置きませんぞ﹂
と合口をすらりと引抜いて振上げ、けんまくを変えたから、
宗﹁おまえは私わしを斬る気になったのじゃな、最もう此の上は可愛さ余って憎さが百倍、さ斬っておくれ﹂
と云いながら身を躱かわして飛付きにかゝる。
竹﹁そんなれば最う是迄﹂
と引ひっ払ぱらって突きにかゝる途端に、ころり足が辷すべって雪の中へ転ぶと一杯の血のりで、
宗﹁おゝ何ど処こか怪我アせんか﹂
竹﹁私を斬ったな、法ころ衣もを着るお身で貴方は恐しい殺生戒を破って、ハッ〳〵、お前さんは鬼になった処どころじゃアない蛇じゃになった、あゝ宗達という御出家は人殺しイ﹂
と云うが、ピーンと川へ響けます。
宗﹁あゝ悪い事をした、お竹さんが此こ様んな怪我をする事になったのも畢ひっ竟きょう我が迷い、実に仏罰は恐ろしいものである﹂
と思ったので宗達はカアーと取とり逆の上ぼせて、お竹が持っていた合口を捻ねじ取とって、
﹁お前一人は殺しはせん、私わしも一緒に死んで、地獄の道案内をしましょう﹂
と云いながら我わが腹へプツリ。
宗﹁ウヽーン〳〵﹂
竹﹁もし〳〵……宗達さま﹂
宗﹁あい〳〵……あい……はアー﹂
竹﹁あなたは大層魘うなされていらっしゃいました﹂
宗﹁あい〳〵、あゝ……おゝ、お竹さま﹂
竹﹁はい﹂
宗﹇#﹁宗﹂は底本では﹁竹﹂﹈﹁あなたはお達者で﹂
竹﹁あなた怖い夢でも御覧なすったか、大層魘されて、お額へ汗が大変に﹂
宗﹁はい〳〵……お前は何うしたえ﹂
竹﹁はい、私は大きに熱が退とれましたかして少し落着きました﹂
宗﹁左様か、ウヽン……煩悩経にある睡眠、あゝ夢むち中ゅうの夢ゆめじゃ、実に怖いものじゃの、あゝ悪い夢を視みました、悪い夢を視ました﹂
と心の中うちに公案を二十ばかり重ねて云いながら、手拭を出して額と胸の辺あたりの汗を拭いて、ホッと息を吐つき、
宗﹁あゝ迷いというものは甚ひどいものじゃ﹂
四十
さて又粂野の屋敷では丁度八月の六日の事でございます。此の程は大殿様が余程御重症でございます。お医者も手に手を尽して種いろ々〳〵の妙薬を用いるが、どうも効きゝ能めが薄いことで、大殿様はお加減の悪い中にまた御舎弟紋之丞様は、只今で云えば疳かん労ろうとか肺労とかいうような症で、漸だん々〳〵お痩せになりまして、勇気のお方がお咳せきが出るようになり、お手当は十分でございますが、どうも思うように薬の効能が無い、唯今で申せば空気の異かわった所へと申すのだが、其の頃では方位が悪いとか申す事で、小梅の中屋敷へいらっしゃるかと思うと、又お下屋敷へ入らっしゃいまして、谷中のお下屋敷で御養生中でありますと、若殿の御病気は変であるという噂が立って来ましたので、忠義の御家来などは心配して居られます。五百石取りの御家来秋月喜一郎というは、彼かの春部梅三郎の伯父に当る人で、御内室はお浪なみと云って今年三十一で、色の浅黒い大柄でございますが、極ごく柔和なお方でございます。或日良おっ人とに対むかい、
浪﹁いつもの婆ばゞあがまいりました、あの大きな籠かごを脊し負ょってお芋だの大根だの、菜なや何かを売りに来る婆でございます﹂
秋﹁あ、田たば端たへ辺んからまいる老婆か、久しく来んで居ったが、何なんぞ買ってやったら宜かろう﹂
浪﹁貴方がお誂あつらえだと申して塵ごみだらけの瓢ふくべを持ってまいりましたが、彼あれはお花はな活いけに遊ばしましても余り好よい姿ではございません﹂
秋﹁然そうか、それはどうも……私わしが去年頼んで置いたのが出来たのだろう、それでも能く丹誠して……早さっ速そく此こ処ゝへ呼ぶが宜よい、庭へ通した方が宜かろう﹂
浪﹁はい﹂
と是から下男が案内して庭口へ廻しますと、飛とび石いしを伝ってひょこ〳〵と婆ばあさまが籠を脊負って入って来ました。縁先の敷物の上に座蒲団を敷き、前の処へ烟草盆が出ている、秋月殿は黒手の細かい縞の黄八丈の単ひと衣えに本献上の帯を締めて、下した襦じゅ袢ばんを着て居られました。誠にお堅い人でございます。目下の者にまで丁寧に、
秋﹁さア〳〵婆ばゞあこゝへ来い〳〵﹂
婆﹁はい、誠に御無沙汰をしましてま今こん日にちはお庭へ通れとおっしゃって、此こ様んなはア結構なお庭を見ることは容易にア出来ねえ事だから、ま遠慮申さねえばなんねえが、御遠慮申さずに見て、っ子や忰に話して聞かせべいと思って参めえりました、皆様お変りもごぜえませんで﹂
秋﹁婆ばゞア丈夫だの、幾いく歳つになるの﹂
婆﹁はい、六十八になりますよ﹂
秋﹁六十八、左様か、アハヽヽヽいやどうも達者だな田端だっけな﹂
婆﹁はい、田端でごぜえます﹂
秋﹁名は何という﹂
婆﹁はい、お繩なわと申します﹂
秋﹁妙な名だな、お繩…フヽヽ余り聞かん名だの﹂
婆﹁はいあの私わしの村の鎮守様は八はち幡まん様さまでごぜえます、其の別当は真言宗で東とう覚かく寺じと申します、其の脇に不動様のお堂がごぜえまして私わたくしの両ふた親おやが子が無ねえって其の不動様へ心しん願がんを掛けました処が、不動様が出てござらっしゃって、左の手で母おふ親くろの腹ア緊しっ縛ちばって、せつないと思って眼え覚めた、申もう子しごでゞもありますかえ、それから母親がおっ妊ぱらんで、だん〴〵腹が大でかくなって、当る十とつ月きに私わしが生れたてえ話でごぜえます、縄で腹ア縛られたからお繩と命つけたら宜よかんべえと云って附けたでごぜえますが、是でも生れた時にゃア此こ様んな婆アじゃアごぜえません﹂
秋﹁アハヽヽ田舎の者は正直だな、手前は久しく来なかったのう﹂
婆﹁はい、ま、ね、秋は一番忙がしゅうごぜえまして、それになに私わしなどは田地を沢山持って居ねえもんだから、他ひ人との田地を手伝をして、小こば畠たで取とり上やげたものを些ちっとべえ売りに参めえります、白山の駒込の市場へ参めえって、彼あす処こで自分の物を広げるだけの場所を借りれば商いが出来ます﹂
秋﹁成程左様か、娘が有るかえ﹂
婆﹁いえ嫁っ子でごぜえます、是が心懸の宜えいもので、忰と二人で能く稼ぎます、私わしは宅うちにばかり居ちゃア小こづ遣けえ取どりが出来ましねえから、斯うやって小遣取りに出かけます﹂
秋﹁そうか、茶ア遣れ、さ菓子をやろう﹂
婆﹁有難う…おや〳〵まア是これだけおくんなさいますか、まア此こん様なに沢え山ら結構なお菓子を﹂
秋﹁宜いいよ、また来たら遣ろう﹂
婆﹁はい、此の前めえ参めえりました時、巨でけえ御紋の附いたお菓子を戴きましたっけ、在所に居ちゃア迚とても見ることも出来ねえ、お屋敷様から戴いたゞえた、有りがたい事だって村中の子供のある処へ些ちっとずつ遣りましたよ、毎度はや誠に有難い事でござえます﹂
秋﹁どうだ、暑中の田の草取りは中々辛いだろうのう﹂
婆﹁はい、熱いと思っちゃア兎ても出来ませんが、草が生えると稲が痩せますから、何うしても除とってやらねえばなりませんが、此こね間えだ儲もうけもんでござえまして、蝦えど夷む虫し一いっ疋ぴき取れば銭い六百ずつくれると云うから、大概の前せん栽ざい物ものを脊し負ょい出すより其の方が楽だから、おまえさま捕とッつかめえて、毒なア虫でごぜえますから、籠かごへ入れて蓋ふたをしては持って参めえります﹂
秋﹁ムヽウ、それは何ういう虫だえ﹂
婆﹁あの斑はん猫みょうてえ虫で﹂
秋﹁ムヽウ斑猫……何か一疋で六百文ずつ……どんな処にいるものだえ﹂
婆﹁はい、豆の葉に集たかって居ります、在所じゃア蝦えど夷む虫しと云って忌いやがりますよ﹂
秋﹁何なんにいたすのだ﹂
婆﹁何だかお医者が随ついて来まして膏こう薬やくに練ねると、これが大でけえ薬になる、毒と云うものも、使いようで薬に成るだてえました﹂
秋﹁ムヽウ、何どの位捕つかまった﹂
婆﹁左様でごぜえます、沢たく山さんでなければ利かねえって、何なんにするんだか沢たん山と入いるって、えら捕つかめえましたっけ﹂
秋﹁そりゃア妙だ、医者は何ど処この者だ﹂
婆﹁何処の者だか知んねえで、一人男を連れて来て、其の虫を捕つかまって置きさえすれば六百ずつ置いては持って往いきます、其の人は今日お前様白山へ参めえりますと、白山様の門の坂の途中の処とこにある、小金屋という飴屋にいたゞよ、私わしは懇ちか意づきだからお前様の家うちは此こ処ゝかえと何気なしに聞くと、其の男が言っては悪いというように眼附をしましたっけ﹂
秋﹁はて、それから何う致した﹂
婆﹁私わしも小声で、今日は虫が沢たく山さんは捕とれましねえと云うと、明あし日た己が行くから今日は何も云うなって銭い袂たもとへ入れたから、幾いく許らだと思って見ると一貫呉れたから、あゝ是は内か儀みさんや奉公人に内ない証しょうで毒虫を捕るのだと勘づきましたよ﹂
秋﹁ムヽウ白山前の小金屋という飴屋か﹂
婆﹁はい﹂
秋﹁あれは御当家の出でい入りである……茶の好よいのを入れてください、婆ア飯を馳走をしようかな﹂
婆﹁はい、有難う存じます﹂
秋﹁婆ア些ちっと頼みたい事があるが、明あし日た手前の家うちへ私わしが行ゆくがな、其の飴屋という者を内ない々〳〵で私に会わしてくれんか﹂
婆﹁はい、殿様は彼あの飴屋の御亭主を御存じで﹂
秋﹁いや〳〵知らんが、少し思うことがある、それゆえ貴様の家うちへ往いくんだが、貴様の家は二ふた間まあるか、失礼な事を云うようだが、広いかえ﹂
婆﹁店の処とこは土間になって居りまして、折おり曲まがって内へ入るんでがすが、土間へは、薪まきを置いたり炭俵を積んどくですが、二間ぐれえはごぜえます、庭も些ちっとばかりあって、奥が六畳になって、縁側附で爐ろも切ってあって、都合が宜うごぜえます、其の奥の方も畳を敷けば八畳もありましょうか、直すぐに折曲って台所になって居ります﹂
秋﹁そんなら六畳の方でも八畳の方でも宜よいが、その処ところに隠れていて、飴屋の亭主が来た時に私わしに知らしてくれ、それまで私を奥の方へ隠して置くような工夫をしてくれゝば辱かたじけないが、隠れる処があるかえ﹂
婆﹁はい、狭せもうござえますし、それに殿様が入らっしたって、汚くって坐る処もないが、上うえの藤とう右え衞も門んの処とこに屏びょ風うぶが有りますから、それを立たて廻まわしてあげましょう﹂
秋﹁それは至極宜かろう、何でも宜しい、私わしが弁当を持って行ゆくから別に厄介にはならん﹂
婆﹁旨うめえものは有りませんが、在ざい郷ごのことですから焚たき立たての御飯ぐらいは出来ます、畑物の茄な子すぐらい煮て上げましょうよ﹂
秋﹁然そうしてくれゝば千万辱かたじけないが、事に寄ると私わし一ひと人りで往ゆくがな、飴屋の亭主に知れちゃアならんのだが、何なん時どきぐらいに飴屋の亭主は来るな﹂
婆﹁左様さ、大概お昼を喫あがってから出て参りますが、彼あれでも未やつ刻す過ぎぐらいにはまいりましょうか、それとも早く来ますかも知れませんよ﹂
秋﹁そんなら私わしは正ひる午ま前えに弁当を持ってまいる、村方の者にも云っちゃアならん﹂
婆﹁ハア、それは何ういう理わ由けで﹂
秋﹁此の方ほうに少し訳があるんだ、注文をして置いた瓢ひょ覃うたんを持って来たとな﹂
婆﹁誠に妙な形なりでお役に立つか知りませんが﹂
と差出すを見て、
秋﹁斯ういう形かたちじゃア不都合じゃが﹂
婆﹁其の代り無た代ゞで宜うがんす、口を打ぶっ欠けえて種た子ねえ投込んで、担のきへ釣下げて置きましたから、銭も何も要いらねえもんでごぜえますが、思おぼ召しめしが有るなら十六文でも廿四文でも戴きたいもんで﹂
秋﹁是はほんの心ばかりだが、百疋ぴき遣る﹂
婆﹁いや何う致しまして、殿様此こ様んなに戴いては済みません﹂
秋﹁いや、取とっとけ〳〵、お飯まんまを喫たべさせてやろう﹂
と是からお飯まんまを喫べさせて帰しました。さて秋月喜一郎は翌日野のが掛けの姿なりになり、弁当を持たせ、家来を一人召連れて婆ばゞアの宅を尋ねてまいりました。彼かの田端村から西の方へ深く切れてまいると、丁度東覚寺の裏手に当ります処で。
秋﹁此こ処ゝかの、……婆ばゞアは在う宅ちか、此処かの、婆はいないか﹂
婆﹁ホーイ、おやおいでなせえましよ、さ此こ処ゝでござえますよ、ままどうも…今け朝さっから忰も悦んで、殿様がおいでがあると云うので、待まちに待って居りました処でござえます、何どう卒ぞ直すぐにお上あがんなすって……お供さん御苦労さまでごぜえました﹂
秋﹁其の様に大きな声をして構ってくれては困る、世間へ知れんように﹂
婆﹁心配ごぜえませんからお構えなく﹂
秋﹁左ようか……其の包を其の儘此こっ方ちへ出してくれ﹂
婆﹁はい﹂
秋﹁これ婆ア、是は詰らんものだが、ほんの土みや産げだ、是これは御ごし新ん造ぞが婆アが寒い時分に江戸へ出て来る時に着る半はん纏てんにでもしたら宜かろう、綿は其そっ方ちにあろうと云って、有合せの裏をつけてよこしました﹂
婆﹁あれアまア……魂たま消げますなア、此こ様んなに戴きましては済みませんでごぜえます、これやい此こ処ゝへ来こう忰や﹂
忰﹁へえ御免なせえまし……毎めえ度どハヤ婆ばゞが出まして御贔屓になりまして、帰けえって来ましちゃア悦んで、何とハア有あり難がたえ事で、己おれような身の上でお屋敷へ出て、立派なアお方さまの側で以てからにお飯まんまア戴いたり、直じ接かにお言葉を掛けて下さるてえのは冥みょ加うが至極だと云って、毎めい度ど帰けえりますとお屋敷の噂ばかり致して居ります、へえ誠に有難い事で﹂
秋﹁いや〳〵婆ばゞアに碌に手当もせんが、今日は少し迷惑だろうが、少しの間座敷を貸してくれ、弁当は持参してまいったから、決して心配をしてくれるな、兎や角構ってくれては却かえって困る、これは貴様の妻か﹂
嘉﹁へえ、私わしの嚊かゝあでごぜえます、ぞんぜえもので﹂
妻﹁お入い来でなせえまし、毎度お母っかが参めえりましては種いろ々〳〵御厄介になります、何うかお支度を﹂
秋﹁いやもう構ってくれるな、早く屏風を立廻してくれ﹂
婆﹁畏かしこまりました、破けて居りますが、彼あれでも借りてめえりましょう、其そ処こな家うちでは自慢でごぜえます、村へ入へいる画えか工きが描かいたんで、立派というわけには参めえりません、お屋敷様のようじゃアないが、丹誠して描いたんだてえます﹂
秋﹁成程是は妙な画えだ、福ふく禄ろく寿じゅにしては形が変だな、成程大だい分ぶん宜いい画だ﹂
婆﹁宅うちで拵こしらえた新茶でがんす、嘉かは八ちや能くお礼を申上げろ﹂
嘉﹁誠に有難うごぜえます、貴あん方た飴屋が参めえりますと、何かお尋ねなせえますで﹂
秋﹁其そ様んなことを云っちゃアいけない﹂
嘉﹁実はその去年から頼まれて居りますが、婆ばアさまの云うにア、それは宜ええが訝おかしいじゃアなえか、何ういう理わ由けか知んねえ、毒な虫を捕とって六百文貰って宜ええかえ、なに構ア事はなえが、黒い羽織を着て、立派なア人が来るです﹂
秋﹁まゝ其そ様んなことを云っちゃアいけない﹂
嘉﹁へえ〳〵、なに此こ処ゝは別に通る人もごぜえませんけれども、梅の時分には店へ腰をかけて、草くた臥びれ足あしを休める人もありますから、些ちっとべえ駄菓子を置いて、草ぞう履り草わら鞋じを吊つる下さげて、商いをほんの片手間に致しますので、子供も滅多に遊びにも参めえりません、手てな習らいをしまって寺から帰って来ると、一文菓子をくれせえと云って参めえりますが、それまでは誰たれも参めえりませんから、安心して何でもおっしゃいまし、お帰りに重とうござえましょうが、芋ずい茎きが大でかく成りましたから五六把ぱ引ひっこ抜いてお土産にお持ちなすって﹂
供﹁旦那さま、芋茎のお土産は御免を蒙こうむりとうございます……御亭主旦那様は芋茎がお嫌いだからお土産は成るたけ軽いものが宜いい﹂
嘉﹁軽いものと仰しゃっても今上げるものはごぜえません、南とう瓜なすがちっと残って居ますし、柿は未だ少し渋が切れないようですが、柿を﹂
供﹁柿の樹きはお屋敷にもあります﹂
秋﹁今こん日にちは来ないかの﹂
嘉﹁いえ急きっ度と参めえるに相違ごぜえません﹂
と云っている内に、只今の午後三時とおもう頃に遣やってまいりましたのは、飴屋の源兵衞でございます。
源﹁あい御免よ﹂
婆﹁はい、お出でなせえまし、さ、お上あがんなせえまし﹂
源﹁あゝ何うも草くた臥びれた、此こ処ゝまで来るとがっかりする、あい誠に御亭主此こな間いだは﹂
嘉﹁へえ、是はいらっしゃいまし、久しくお出いでがごぜえませんでしたな、漸だん々〴〵秋も末になって参めえりまして、毒虫も思うように捕とれねえで﹂
源﹁これ〳〵大きな声をするな、是これは毒の気きを取って膏薬を拵こしらえるんだ、私わしは前に薬きぐ種すり屋やだと云ったが、昨きの日う婆ばアさんに会った、隠し事は出来ねえもんだ、これは口止めだよ、少しばかりだが﹂
嘉﹇#﹁嘉﹂は底本では﹁源﹂﹈﹁どうもこれは…﹂
源﹁其の代り他ひ人とに云うといけないよ﹂
嘉﹁いえ申しませんでごぜえます﹂
源﹁私わしも十そろ露ば盤んを取って商いをする身だから、沢たん山との礼も出来ないが、五両上げる﹂
嘉﹁えゝ、五両……魂たま消げますな、五両なんて戴く訳もなし、一疋捕つかまえて六百文ずつになれば立派な立たち前めえはあるのに、此こ様んなに、大でかく戴きますのは止しましょうよ﹂
源﹁いや〳〵其そ様んなことを云わないで取ってお置き、事に寄ると為ためになる事もあるから、決して他ひ人とに云っちゃア成りませんよ、私わしが頼んだという事を﹂
婆﹁それは忰も嫁も心しん配ぺえ打ぶっていますが、他の者じゃアなし、毒な虫をお前様に六百ずつで売って、何ういう事で間違えでも出来やアしねえかと心しん配ぺいしてえます﹂
源﹁其そ様んな事は有りゃアしないよ、此の虫を沢たん山と捕つかまえて医者様が壜びんの中へ入れて製法すると、烈はげしい病も癒なおるというは、薬の毒と病の毒と衝かち突あうから癒るというので、ま其様なに心配しないでも宜い﹂
婆﹁お金は戴きませんよ、なア忰﹂
嘉﹁えゝ、これは戴けません、此こね間えだから一疋で六百ずつの立たち前めえになるんでせえ途方も無ねえ事だと思ってるくれえで、これが玉虫とか皀さい角かち虫むしとかを捕とるのなれば大変だが、豆の葉に集たかってゝ誰にでも捕れるものを大てえ金きんを出して下さるだもの、其そ様んなに戴いちゃア済みません﹂
源﹁これ〳〵其そ様んな大きな声を出しちゃアいけない﹂
嘉﹁これは何うしても戴けません﹂
源﹁そこに種いろ々〳〵理わ由けがあるんだ、其そ様んなことを云っては困る、これは取って置いてくれ﹂
嘉﹁へえ立たち前めえは戴きます、ま此こっ方ちへお上あがんなすって、なに其そ処こを締めろぴったり締めて置け、砂が入へいっていかねえから……えゝゝ風が入へいりますから、ま此こっ方ちへ……何もごぜえませんがお飯まんまでも喰たべてっておくんなせえまし﹂
源﹁お飯は喫たべたくないが、礼を受けてくれんと誠に困るがな、受けませんか﹂
嘉﹁へえ﹂
と何う有っても受けない、百姓は堅いから何うしても受けません。源兵衞も困って、
源﹁そんなら茶代に﹂
と云って二に分ぶ出しますと、
嘉﹁お構い申しもしませんのに……お茶代と云うだけに戴きましょう、誠にどうも、へえ﹂
源﹁今日は帰ります、婆ばアさん又彼あっ方ちへ来たらお寄り、だが、私が此こ処ゝへ来たことは家内へ知れると悪いから、店へは寄らん方が宜いい、店には奉公人もいるから﹂
婆﹁いえ、お寄り申しませんよ、はい左様なら、気を附けてお帰んなせえましよ﹂
源﹁あい﹂
是から麻裏草履を穿はいて小金屋源兵衞が出にかゝる屏風の中で。
秋月﹁源兵衞源兵衞﹂
と呼ばれ、源兵衞は不審な顔をして振ふり反かえり、
源﹁誰だ……何どな方たでげす、私をお呼びなさるのは何方ですな﹂
秋﹁私わしじゃ、一ちょ寸っと上あがれ、ま此こっ方ちへ入っても宜よい、思い掛ない処で会ったな﹂
源﹁何どな方たでげす﹂
と屏風を開けて入り、其の人を見ると、秋月喜一郎という重役ゆえ、源兵衞は肝きもを潰つぶし、胸にぎっくりと応こたえたが、素そ知しらぬ体ていにて。
源﹁誠に思い掛ない処で、御機嫌宜しゅう﹂
秋﹁少し手前に尋ねたい事があって、急ぐか知らんが、同道しても宜しい、暫しばらく待ってくれ、少し問う事がある、源兵衞其の方は何ういう縁か、飴屋風情でお屋敷の出入町人となっている故、殿様の有難い辱かたじけないという事を思うなら、又此の方ほうが貴様を引廻しても遣つかわすが、真しん以て上かみを有難いと心得てお出入をするか、それから先へ聞いて、後あとは緩ゆっくり話そう﹂
源﹁へえ誠にどうも細い商いでございますが、御用向を仰付けられて誠に有難いことだ、冥加至極と存じまして、へえ結構な菓子屋や其の他たのお出入もある中にて、飴屋風情がお出入とは実に冥加至極と存じて居ります、殿様が有難くないなどゝ誰が其そ様んなことを申しました﹂
秋﹁いや然そうじゃアない、真に有難いと心得て居おるだろう﹂
源﹁それは仰しゃるまでもございません、此の後のちともお引廻しを願いとう存じます﹂
秋﹁それでは源兵衞、手前が何どの様ように隠しても隠されん処の此こち方らに確かな証拠がある、隠さずに云え、じゃが手前は何ういう訳で斑はん猫みょうという毒虫を婆ばゝに頼んで一疋六百ずつで買うか、それを聞こう﹂
と源兵衞の顔を見詰めている中うちに、顔がん色しょくが変ってまいると、秋月喜一郎は態わざとにや〳〵笑いかけました。
四十一
さて秋月喜一郎は、飴屋源兵衞を柔らかに欺だまして白状させようという了簡、其の頃お武家が暴あらい事をいたすと、町人は却かえって驚いて、云うことも前後致したり、言いたいことも言い兼かねて、それがために物の分らんような事が、毎度町奉行所でもあった事でございます。源兵衞は何うして知れたかと思って、顔かお色いろを変え、突いていた手がぶる〴〵震える様子ゆえ、喜一郎は笑えみを含みまして、物柔らかに、
秋﹁いや源兵衞何か心配をして、これを言ってはならんとか、彼あれを言っては他ほか役人の身の上にも拘かゝわるだろうと深く思い過すぐして、隠し立てを致すと却って為にならんぞ、定めし上うわ役やくの者が其の方に折おり入いって頼んだ事も有るであろうが、其の者の身分柄にも障さわるような事があってはならんから、これは秋月に言っては悪かろうと、斯う手前が考えて物を隠すと、却って悪い、と云うのは元もと来〳〵お屋敷へ出でい入りを致すのには、殿様を大事と心得なければならん、そりゃアまた出入町人にはそれ〴〵係りの者もあるから、係り役人を粗末にしろと云うのではないが、素もとより手前は上かみの召上り物の御用を達たす身の上ではないか、なア﹂
源﹁へえ誠にどうも其の、えゝ…何うも私わたくしがその、事柄を弁わきまえませんものでございまして、唯飴屋風情の者がお屋敷へお出入を致しまして、お身柄のあります貴方様を始め、皆様に直じき々〳〵斯う遣やってお目通りをいたし、誠に有難い事と心得まして、只私はえゝ何うも其の有難くばかり存じますので、へえ自然に申上げます事もその前あと後さきに相成ります﹂
秋﹁なに有難く心得て、言う事が前ぜん後ごになるというのは可お笑かしい一体何ういう訳で手前は当家の婆ばゞあに斑はん猫みょうを捕とってくれろと頼んだか、それを云えというんだ﹂
源﹁それはその私わたくしが懇意にいたします近辺に医者がございまして、その医者がどうも其の薬を……薬は一体毒なもので、疔ちょう根ねぶ太と腫はれ物もののようなものに貼つけます、膏薬吸出しのようなものは、斑猫のような毒が入りませんければ、早く吹ふっ切きりません、それゆえ欲ほしいと申されました事でございまして﹂
秋﹁其の人は何ど処この者か﹂
源﹁へえ実はその……私わたくしが平ふだ常ん心こゝ易ろやすくいたしますから、どうかお前頼んでくれまいかと云われて、私が其の医者を同道いたしてまいりまして、当家の婆ばゞあに頼みましたのでございます﹂
秋﹁ムヽウ、其の医者は何処の者だえ、いやさ近辺にいるというが、よもやお抱かゝえの医者ではあるまい、町医か外げり療ょうでもいたすものかえ﹂
源﹁へえ、その……大概その外療をいたしましたり、ま其の風かぜっ引ぴきぐらいを治すような工ぐあ合いで﹂
秋﹁何と申す医者だえ﹂
源﹁へい、その誠にその、雑ざっといたした医者で﹂
秋﹁雑と致した、そんな医者はありません、名前は何というのだえ﹂
源﹁名前はその、えゝ……実はその何でございます、山路と申します﹂
秋﹁山路……山路宗庵と云うか﹂
源﹁へえ、好よく御存じさまで﹂
秋﹁是は殿様のお部屋お秋の方かたの父で、お屋敷へまいる事もあるで、存じて居おる、其の者に頼まれて、貴様が此こ処ゝの婆に斑猫を捕とれと頼んだのか、薬に用いるなれば至極道もっ理ともの事だ……当家の主人は居おるの、一ちょ寸っとこゝへ出てくれ﹂
嘉﹁はい﹂
秋﹁婆も一寸こゝへ﹂
婆﹁はい﹂
と両人とも秋月喜一郎の前へまいりました。
秋﹁お前方は何かえ、此の飴屋の源兵衞は前から懇意にいたして居おるものかえ、毎度此の飴屋方へも行ゆき、源兵衞も度たび々〳〵此こち方らへ参るような事があるかえ﹂
嘉﹁いえなに私わしが処へお出でなすった事も何もない、私は御懇意にも何なんにもしませんが、婆が商いに出ました先でお目にかゝったのが初はじまり、それから頼まれましたんで、のうお母っかあ﹂
婆﹁はい、なに心易くも何とも無ねえので、お得意廻りに歩き、商いをしべえと思って籠を脊し負ょって出て、お前さま、谷中へかゝろうとする途みちで会ったゞね、それから斯ういう理わ由けだが婆、何うだかと云うから、ま詰らん小こあ商きないをするよりもこれ、一疋虫を捕つかめえて六百ずつになれば、子供でも出来る事だから宜かろうと頼まれましたんで﹂
秋﹁左様か、源兵衞当家の嘉八という男も婆も手前は懇意じゃア無いと云うじゃアないか﹂
源﹁へえ、別に懇意という……なにもこれ親類というわけでも何でもないので﹂
秋﹇#﹁秋﹂は底本では﹁源﹂﹈﹁親類かと問やアせん、手前が当家の婆とは別懇だから、山路が手前に斑猫を捕とる事を頼んだと只今申したが、然しからば手前は当家の婆は別懇でも何でもなく、通りかゝりに頼んだか山路も何か入いり用ようがあって毒虫を捕る事を手前に頼んだ事であろうと考えるが、これは誰たれか屋敷の者の中うちで頼んだ者でもありはせんか﹂
源﹁へえ左様でございますかな﹂
秋﹁左様でございますかな、と申して此の方ほうが手前に聞くんだ﹂
源﹁へえ……どうか真まっ平ぴら御免遊ばして下さいまし、重々心得違で﹂
秋﹇#﹁秋﹂は底本では﹁喜﹂﹈﹁只心得違いでは分らん、白状をせんか、此の程御舎弟様が御病気について、大だい分ぶ夜分お咳せきが出るから、水飴を上げたら宜かろうというのでお上屋敷からお勧めに相成って居おる、その水飴を上げる処の出入町人は手前じゃから、手前の処で製造して水飴が上あがる、其の水飴を召上って若もし御病気でも重おもるような事があれば、手前が水飴の中へ毒を入れた訳ではあるまいけれども、手前が製した水飴を召上ったゝめに病気が重り、手前が頼んで斑猫を捕とらしたという事実がある上は、左様な訳ではなくても、手前が水飴の中へ毒虫でも製し込んで上かみへ上げはせんかと、手前に疑ぐりがかゝる、是は当然の事じゃアないか、なア、決して手前を咎とがにはせん、白状さえすれば素もと々〳〵通り出入もさせてやる、此の秋月が刀にかけても手前を罪に落さんで、相変らず出入をさせた上に、お家の大事なれば多分に手当をいたして遣やるように、此の秋月が重役等らと申合せて計らって遣つかわす、何も怖い事はないから有あり体ていに言ってくれ、殿様のお為じゃ、殿様が有難いと心得たら是を隠してはなりませんよ、のう源兵衞﹂
源﹁へえ、私わたくしが愚ぐま昧いでございまして、それゆえ申上げますことも前あと後さきに相成ります事でございまして、何かとお疑ぐりを受けますことに相成りましたが、なか〳〵何う致しまして、水飴の中へ毒などは入れられません、透すいて見えます極ごく製せいでございますから、へえ、なか〳〵何う致しまして、其そ様んなことは……御免遊ばして下さいまし﹂
と泣声を出し涙を拭ぬぐう。
秋﹁何な故ぜ泣く﹂
源﹁私わたくしは涙っぽろうございます﹂
秋﹁涙っぽろいと云っても何も泣くことはない、別段仔細は無いから……左様な事は致すまいなれども、また御舎弟様付とお上屋敷の者と心を合せて、段々手前も存じて居ろうが、どうも御舎弟さまを邪魔にする者があると云うのは、御ごか癇んぺ癖きが強く、聊いさゝかな事にも暴あら々〳〵しくお高こう声せいを遊ばして、手打にするなどという烈はげしい御気性、乃そこでどうも御舎弟様には附つきが悪いので上屋敷へ諂へつらう者も多いが、今大殿様もお加減の悪い処であるから、誠に心配で、万もし一もの事でもありはせんか、有った時には御ごじ順ゅん家かと督くで、何うしても御舎弟紋之丞様を直さねばならん、ところがその、此こ処ゝに婆ばゞあが居っては……他聞を憚はゞかることじゃ……婆が聞いても委くわしいことは分るまいが……、婆嘉八とも暫ざん時じ彼あっ方ちへ退のいてくれ﹂
婆﹁はい﹂
と立ってゆく。後あと見送りて、
秋﹁手前も存じて居おる通り、只今其の方が申した医者の娘、お秋の方かたが儲もうけられた菊さまという若様がある、其の方かたを御家督に立てたいという慾心から、菊様の重役やお附のものが皆心を合せて御舎弟様を亡なき者にせんと……企たくむのでは有りはすまいが、重役の者一統心配して居おる、御舎弟様は大切のお身の上、万まん一いち間違でもあっては公儀へ対しても相済まんことだが、そりゃア手前も心得て居おるだろう、只山路が頼んだというと、山路はお秋の方の実父だから、左様なこともありはせんかと私わしは疑ぐる、併しかし然そうで有るか無いか知れんものに疑念を掛けては済まんけれども、大切のことゆえ有あり体ていに云ってくれ、其の方ほう御舎弟様を大切に思うなれば云ってくれ、秋月が此の通り手を突いて頼む……な……決して手前の咎めにはせんよ、出入も元々どおりにさせ、また事に寄ったら三さん人にん扶ふ持ちか五人扶持ぐらいは、若殿様の御お世よになれば私から直じき々〳〵に申上げて、其の方一代ぐらいのお扶持は頂戴さしてやる﹂
と和やわらかに言わるゝ程気味が悪うございますから、源兵衞は恐おそる〳〵首こうべを上げ、
源﹁へえ、有難う、恐入りますことで、貴方さまのような御重役が、私わたくしごとき町人風情に手を突いてお頼みでございましては、誠に恐入ります、私も実はその、えゝ……始めは驚きましてございますが……実はその、へえ、お立派なお方さまのお頼みでございまして、斑猫てえ虫を捕とって水飴の中へ入れてくれろというお頼みでございます、初めは山路というお医者が、何とかいう、えゝ、石よせきとかいう薬を入れて練ったらと云うので練って見ましたが、これは水飴の中へ入れても好よく分りますので、毒虫を煮てらんびきにいたして、その毒どく気きを水飴の中へ入れたら、柔やわらかになって宜かろうというお頼みで、迂うっ濶かりお目通りをして其の事を伺い、これは意外な事と存じまして、お断りを申上げましたら、其の事が不承知と申すなら、一大事を明あかしたによって手打に致すとおっしゃって、刀の柄つかへ手を掛けられたので、恟びっくり致しまして、否いやと云えば殺され、応うんと云えば是迄通り出でい入りをさせ、其の上多分のお手当を下さるとの事、お金が欲ほしくはございませんでしたが、全く殺されますのが辛いので、はいと止やむを得ずお受けをいたしました、真まっ平ぴら御免下さいまし﹂
秋﹁うむ、宜く言ってくれた、私わしも然そうだろうと大概推察致して居った、宜く言ってくれた﹂
源﹁えゝ私わたくしが此の事を申上げましたことが知れますと、私は斬られます﹂
秋﹁いや〳〵手前が殺されるような事はせん、決して心配するな、あゝ誠に感心、宜く言ってくれた、これ当家の主人﹂
嘉﹁はい﹂
秋﹁今私わしが源兵衞に云った事が逐ちく一いち分ったかえ、分ったら話して見るが宜よい﹂
嘉﹇#﹁嘉﹂は底本では﹁梅﹂﹈﹁なにか仰しゃったようでごぜえますが、むずかしくって少しも分りませんが、若わけえ殿様に水飴を甜なめさせて、それから殿様にも甜めさせて、それを何ですかえ両方へ甜めさせるような事にして御ご扶ふ持ちをくれるんだって﹂
秋﹁あはゝゝ分らんか、宜しい、至極宜しい、分らんければ﹂
嘉﹁それで何ですかえ、飴屋さんが御扶持を両方から貰って﹂
秋﹁宜しい〳〵、分らん処が妙だ、どうぞな私わしが貴様の家うちへ来て、飴屋と話をした事だけは極ごく内ない々〳〵でいてくれ、宜よいか、屋敷の者に……婆ばゞあが又籠かごを脊し負ょって、大根や菜などを売うりに来た時に、秋月様が入いらしったと長家の者に云ってくれちゃア困る、是だけは確しっかと口留をいたして置く、いうと肯きかんよ、云うと免ゆるさんよ、何ど処こから知れても他に知る者は無いのだから、其の儘にしては置かんよ﹂
嘉﹁はい……どうか御免を﹂
秋﹁いや、云いさえしなければ宜しいのだ﹂
嘉﹁いう処じゃアありません、婆さんお前は口がうるせえから﹂
婆﹁云うって云わねえって何だか知んねえものそれじゃア誰が聞いても、殿様は己おれア家うちへおいでなすった事はごぜえません、飴屋さんとお話などはなせえませんと﹂
秋﹁そんな事を云うにも及ばん、決して云ってはならんぞ﹂
婆﹁はい、畏かしこまりました﹂
秋﹁源兵衞、毒虫を入れた水飴は大概もう仕上げてあるかの﹂
源﹁へえ、明あさ後っ日ては残らず出来ます﹂
喜﹁明あさ後っ日て出来る……よし宜く知らせてくれた辱かたじけない、源兵衛手前に何なんぞ望みの物を取らしたく思う、持合せた金子も少ないが、是はほんの手前が宅への土産に何ぞ買って行ってくれ、私わしが心ばかりだ﹂
源﹁何う致しまして、私わたくしがこれを戴きましては﹂
秋﹁いや〳〵遠慮をせずに取って置いてくれ、就ついてはの、源兵衞大概此の方ほうに心当りもある、手前に頼んだ侍の名前は、これ誰が頼んだえ﹂
源﹁へえ、是だけは、それを言えば斬ると仰しゃいました、へえ、何うかまア種いろ々〳〵そのお書かき物ものの中へ、私わたくしにその、血で爪印をしろと仰しゃいましたから、少し爪の先を切りました﹂
秋﹁左様か、云っては悪いか、併しかし源兵衞斯こう打明けてしまった事じゃから云っても宜かろう﹂
源﹁何どう卒ぞそれだけは御勘弁を﹂
秋﹁云えんかえ﹂
源﹁へえ、何うもそれは御免を蒙こうむります﹂
秋﹁併し源兵衞、是までに話を致して、依頼者の姓名が云えんと云うのは訝おかしい、まだ手前は悪人へ与くみ致して居おるように思われる、手前が云わんなら私わしの方で云おうか﹂
源﹁へえ﹂
秋﹁神原五郎治兄弟か、新役の松蔭かな﹂
源兵衞は仰天して、
源﹁よ好よく御存じさまで﹂
四十二
喜一郎は態わざと笑えみを含みまして、
秋﹁何うも其そこ辺らだろうと鑑定が附いていた、ま宜しいが、彼かの松蔭並びに神原兄弟の者はなか〳〵悪才に長たけた奴ゆえ、種いろ々〳〵罠をかけて、私わしが云ったことを手前に聞くまいものでもないが、手前決して云うな﹂
源﹁何う致しまして、云えば直すぐに私わたくしが殺されます、貴方様も仰しゃいませんように﹂
秋﹁私わしは決して云わん、首しゅ尾び好よく悪人を見み出だして御当家安堵の想いを為すような事になれば、何うか願って手前に五人扶持も遣やりたいの﹂
源﹁何う致しまして、悪人へ与くみ致しました罪で、私わたくしはお手打になりましても宜しいくらいで、私は命さえ助かりますれば、御扶持は戴きませんでも宜しゅうございます、お出入りだけは相変らず願います﹂
秋﹁うむ、承知いたした、一緒に帰ろうか、いや〳〵途中で他ひ人とに見られると悪いから、早く行ゆけ〳〵﹂
源﹁有難うございます﹂
ほっと息を吐ついて、ぶる〳〵震えながら出て、後あとを振返り〳〵二三丁行って、それからぷうと駈出して向うへ行ゆく様子を見て、
秋﹁何も駈出さんでも宜さそうなものだ﹂
と笑いながら心静かに身支度をいたし、供を呼んで、是から嘉八親子にもくれ〴〵礼を陳のべて帰られましたが、丁度八月九日のことで、川添富彌という若様附でございます、御舎弟様は夜分になりますとお咳が出て、お熱の差さし引ひきがありますゆえ、お医者は側に附切りでございます。一統が一通りならん心配で、お夜よづ詰めをいたし、明あけ番ばんになりますと丁度只今の午前十時頃お帰りになるのですが、御ごよ容うだ態いが悪いと忠義の人は残っている事がありますので、富彌様はお留守勝だから、御新造はお留守を守って、どうかお上かみの御病気御全快になるようにと、頻しきりに神信心などを致して居ります。御新造は年三十で名をお村むらさんといい、大柄な美いい器量の方で、お定さだという女中が居ります。
村﹁定や〳〵﹂
定﹁はい﹂
村﹁あの此こ処ゝだけを少し片附けておくれ、何だか今年のように用の遅れた事はない、おち〳〵土用干も出来ずにしまったが、そろ〳〵もう綿入近くなったので、早く綿入物を直しに遣やらなければならない、それに袷あわせも大だい分ぶ汚れたから、お襟を取換えて置かなければなるまい﹂
定﹁左様でございます、矢やは張り旦那様がお忙せわしくって、日にち々〳〵御出勤になりましたり、夜もお帰りは遅し、お留守勝ですから夜よな業べが出来ようかと存じますが、何だか矢やっ張ぱりせか〳〵致しまして、なんでございますよ、御用が段々遅れに遅れてまいりました﹂
村﹁あの今日はお明あけ番ばんだから、大概お帰りだろうとは思うが、一いっ時ときでも遅れると又案じられて、お上かみがお悪いのではないかと、何だか私は気が落着かないよ、旦那のお帰り前に御飯を戴いてしまおうか﹂
定﹁何もございませんが、いつもの魚屋が佳よい鰈かれいを持ってまいりました、珍らしい事で、鰈を取って置きました﹂
村﹁然そうかえ、それじゃアお昼の支度をしておくれ﹂
定﹁畏かしこまりました﹂
と是から午ひ飯るの支度を致して、午ひる飯はんを喫たべ終り、お定が台所で片附け物をして居ります処へ入って来ましたのは、茶屋町に居りますお縫ぬいという仕立物をする人で、好よくは出来ないが、袴はかまぐらいの仕立が出来るのでお家かち中ゅうへお出入りをいたしている、独り暮しの女で、
縫﹁御免遊ばして﹂
定﹁おや、お縫さん、よくお出掛け……さ、お上あがんなさい﹂
縫﹁誠に御無沙汰をいたしました、此こな間いだは有難う……今こん日にちは御ごし新んさんはお宅に﹂
定﹁はア奥にいらっしゃるよ﹂
縫﹁実はたった一人の妹いもとで、私わたくしが力に思っていました其の者が、随分丈夫な質たちでございましたが、加減が悪くって、其そ方れへ泊りがけに参って居りまして、看病を致してやったり、種いろ々〳〵の事がありまして大だい分ぶ遅くなりました、尤もっともお綿入でございますから、未まだ早いことは早いと存じまして﹂
定﹁出来ましたかえ﹂
縫﹁はい、左様でございます﹂
定﹁御新造様、あの茶屋町のお縫どんがまいりました﹂
村﹁さ、此こっ方ちへお入り﹂
縫﹁御免遊ばしまし……誠に御無沙汰をいたしました﹂
村﹁朝晩は余程加減が違ったの﹂
縫﹁誠に滅めっ切きり御様子が違いました、お変り様さまもございませんで﹂
村﹁有難う﹂
縫﹁御意に入いるか存じませんが、お悪ければ直します﹂
村﹁大層好よく出来ました、誠に結構……お前のは仕立屋よりか却かえって着き好いいと旦那も仰しゃってゞ、誠に好く出来ました、大分色気も好くなったの﹂
縫﹁これは何でございます、お洗い張を遊ばしましたら滅切りお宜しくなりました、尤もっともお物が宜しいのでございますから、はい仕した立てば栄えがいたします﹂
村﹁久しく来なかったの﹂
縫﹁はいなんでございます、直じきに大門町にいる妹いもとですが、平ふだ常ん丈夫でございましたが、長なが煩わずらいを致しましたので、手伝いにまいりまして、伯母が一人ございますが、其の伯母は私わたくしのためには力になってくれました、長なが命いきで八十四で、此の間死なく去なりましたが、あなた其の歳まで眼鏡もかけず、歯も好よし、腰も曲りませんような丈夫でございましたが、月夜の晩に縁側で裁しご縫とを致して居りましたが、其そ処こへ倒れたなり、ぽっくり死なく去なりましたので、それゆえ種いろ々〳〵取込んで……お小こそ袖でですから間に合わん気遣いはないと存じまして、御無沙汰をいたしました、今年は悪い時候で、上方辺は大分水が出たという話を聞きました、お屋敷の大殿様も若殿様もお加減がお悪いそうで﹂
村﹁あゝ誠にお長引きで﹂
縫﹁私わたくしは毎いつも然そう申しますので、伯母が死なく去なりましても悔くやむことはない、これ〳〵のお屋敷の殿様が御病気で、お医者の五人も三人も附いて、結構なお薬を召上り、お手当は届いても癒なおる時節にならなければ癒らんから、くよ〳〵思う事はないと申して、へえ﹂
村﹁何分未まだお宜しくないので、実に心配しているよ、夜分はお咳が出ての﹂
縫﹁然そうでございますか、それはまア御心配でございますね、併しかしまだお若様でいらっしゃいますから、もう程ほど無のう御全快になりましょう﹂
村﹁御全快にならなくっちゃア大変なお方さまで、一いっ時ときも早くと心配しているのさ﹂
縫﹁えゝ御新造様え、こんな事をお勧め申すと、なんでございますが、他わきから頼まれて、余あんまりお安いと存じまして持って出ましたが、二枚小袖の払い物が出ましたので、ま此こ様んな物を持って出たり何かして、済みませんが、出でど所こも確かな物ですから、お目にかけますが、それに八丈の唐もろ手こしでの細いのが一枚入って居ります、あとは縞しま縮ちり緬めんでお裏が宜しゅうございます、お平ふだ常ん着ぎに遊ばしても、お下着に遊ばしても﹂
村﹁私は古着は嫌いだよ﹂
縫﹁左様でございましょうが、出でど所ころが知れているものですから﹂
村﹁じゃア出してお見せ﹂
縫﹁畏かしこまりました﹂
とお次つぎから包を持ってまいり、取出して見せました。唐手の縞柄は端は手ででもなく、縞縮緬は細ほそ格ごう子しで、色気も宜うございます。
村﹁大層好よい縞だの﹂
縫﹁誠に宜うございます﹂
村﹁これは何どの位というのだえ﹂
縫﹁これで先むこ方うじゃア最もう少し値ねう売りをしたいように申して居りますが、此の書付でと申すので﹂
村﹁二枚で此の値ねだ段んが書きでは大層に安い物だの﹂
縫﹁へい、お安うございます、貴方お裏は新しいものでございます﹂
村﹁何ういう訳で此これを払うというのだえ﹂
縫﹁先むこ方うはよく〳〵困っているのでございます﹂
村﹁丈たけや身みは巾ゞが違うと困るね﹂
縫﹁左様ならお置き遊ばしては何うでございます、一日ぐらいお置きあそばしても宜しゅうございます﹂
村﹁余あんまり縞柄が好よいから、欲しいような心持もするから、置いてっておくれ﹂
縫﹁左様でございますか、じゃア私わたくしが今日の暮方までに参りませんければ、明朝伺いに上ります﹂
村﹁では後あとで好よくめて見よう﹂
是をお世話いたせば幾いく許らか儲かるのだから先ず気に入ったようだとお縫は悦んで帰ってしまう、後あとでお定を呼んで、
村﹁手伝っておくれ、解ほどいて見よう、綿は何ど様んなか﹂
と段々解いて見ると。不思議なるかな襟えり筋すじに縫込んでありました一封の手紙が出ました。
村﹁おや、定や﹂
定﹁はい﹂
村﹁此こ様んな手紙が出たよ﹂
定﹁おや〳〵襟ん中から奇態でございますね、何うして﹂
村﹁私にも分らんが、何ういう訳で襟の中へ……訝おかしいの﹂
定﹁女物の襟へ手紙を入れて置くのは訝しい訳でございますが、情いろ夫おとこの処へでも遣るのでございましょう﹂
村﹁だってお前それにしても襟の中へ……訝しいじゃアないか﹂
定﹁左様でございますね、開けて御覧遊ばせよ、何と書いてあるか﹂
村﹁無闇に封を切っては悪かろう﹂
定﹁これを貴方の物にして、此の手紙を開けて御覧なすって、若もし入にゅ用うようの手紙なれば先むこ方うへ返したって宜いいじゃア有りませんか﹂
村﹁本当に然そうだね、封が固くしてあるよ、何と書いてあるだろう﹂
定﹁お禁まじ厭ないでございますか知らん、随分お守まもりを襟へ縫込んで置く事がありますから、疫やく病びょ除うよけに﹂
村﹁父上様まいる菊よりと書いてある、親の処へやったんで﹂
定﹁だって貴方親の処へ手紙をやるのに、封じを固くして襟の中へ縫付けて置くのは訝おかしゅうございますね、尤もっとも芸者などは自分の情いろ郎おとこや何かを親の積りにして、世間へ知れないようにお父とっ様さま〳〵とごまかすてえ事を聞いて居りますよ﹂
村﹁開けて見ようかの﹂
定﹁開けて御覧遊ばせよ﹂
村﹁面白いことが書いてあるだろうの﹂
定﹁屹きっ度と惚のろ気けが種いろ々〳〵書いてありましょうよ﹂
悪いようだが封じが固いだけに、尚なお開けて見たくなるは人情で、これから開封して見ますと、女の手で優しく書いてあります。
村﹁…文ふみして申もう上しあげ※﹇#﹁まいらせそろ﹂の草書体、426-5﹈…、極きわっているの﹂
定﹁へえ、それから﹂
村﹁…益々御機嫌能よく御おく暮らし被なさ成れそ候うろう御おん事こと蔭ながら御おん嬉うれしく存じ上あげ※﹇#﹁まいらせそろ﹂の草書体、426-7﹈﹂
定﹁定じょ文うも句んくでございますね、併しかし色男の処へ贈る手紙にしちゃア改あらたまり過ぎてるように存じますね﹂
村﹁然そうだの、左さそ候うらえば私わたくし主人松蔭事ス……神原四郎治と申合せ渡邊様を殺そうとの悪だくみ……おや﹂
定﹁へえ……何ういう訳でございましょう﹂
村﹁黙っていなよ、……それのみならず水飴の中へ毒薬を仕込み、若殿様へ差上候よう両人の者諜しめし合せ居り候を、図らず私わたくしが立聞致し驚き入り候﹂
定﹁呆れましたね、誰でございますえ﹂
村﹁大きな声をおしでないよ、世間へ知れるとわるいわ……一大事ゆえ文に認したゝめ差上候わんと取急ぎ認め候え共、若もし取落し候事も有れば、他たの者の手に入いっては尚々お上かみのために相成らずと心配致し、袷あわせの襟﹇#﹁襟﹂は底本では﹁縫﹂﹈へ縫込み差上候間、添そえ書しょの通りお宅にてこれを解き御覧の上渡邊様方に勤め居り候御おあ兄にさ様まへ此の文御見せ内ない々〳〵御重役様へ御知らせ下され候様願い上あげ※な尚﹇#﹁まいらせそろ﹂の草書体、427-1﹈、申もう上しあ度げた事きこと数々有これ之あり候え共取急ぎ候まゝ書残し※﹇#﹁まいらせそろ﹂の草書体、427-2﹈おお目もじの上委くわしく可もう申しあ上げべ候くそうろう、芽めで出た度くかしく、父上様兄上様、菊…と、……菊というのは何かの、彼あの新役の松蔭の処に奉公していた女中は菊と云ったっけかの﹂
定﹁私わたくしは存じませんよ﹂
村﹁松蔭の家うちにいた女中が殺されたような事を聞いたから、旦那様に聞いてもお前などは聞かんでも宜よい事だと仰しゃるから、別段委くわしくお聞き申しもしなかったが、是は容易な事ではないよ﹂
と申している処へ一ひと声こえ高く、玄関にて、
僕﹁お帰りい﹂
村﹁旦那がお帰り遊ばした﹂
と慌あわてゝお玄関へ出て両手を支つかえ、
村﹁お帰り遊ばしまし﹂
定﹁お帰り遊ばせ﹂
富﹁あい、直すぐに衣きも服のを着換えよう﹂
村﹁お着換遊ばせ、定やお召換だよ、お湯を直すぐに取って、さぞお疲れで﹂
富﹁いやもう大きに疲れました、ハアーどうも夜眠ねられんでな、大きに疲れました、眠ねむれんと云うのは誠にいかんものだ﹂
是から衣きも服のを着替えて座蒲団の上に坐ると、お烟草盆に火を埋いけて出る、茶台に載せてお茶が出る。
村﹁毎日〳〵お夜よづ詰めは誠にお苦労な事だと、蔭ながら申して居りますが、貴方までお加減がお悪くなると、却かえってお上かみのお為になりませんから、時々は外とむ村ら様とお替り遊ばす訳にはまいりませんので﹂
富﹁いや、外村と代っているよ﹂
村﹁今こん日にちの御様子は如いか何ゞで﹂
富﹁少しはお宜しいように見受けたが、どうもお咳が出てお困り遊ばすようだ﹂
定﹁御機嫌宜しゅう、お上は如何でございます﹂
富﹁あい、大きに宜しい、定まで心配して居おるが、どうも困ったものじゃ﹂
村﹁早速貴方に申上げる事がございます、茶屋町の縫がまいりまして﹂
富﹁うん﹂
村﹁彼かれが払い物だと云って小こそ袖でを二枚持ってまいりましたから、丈たけは何うかと存じまして、改める積りで解きましたところが、貴方襟えりの中から斯こ様んな手紙が出ました、御覧遊ばせ﹂
と差出すを受取り、
富﹁襟の中から、はて﹂
と披ひらいて読み下し、俄にわかに顔色を変え、再び繰返し読直して居りまする内に、何と思ったか、
富﹁定﹂
定﹁はい﹂
富﹁茶屋町の裁しご縫とをいたす縫というものは何かえ、彼あれは亭主でも有るのか﹂
定﹁いえ、亭主はございません、四年已あ前とに死なく去なりまして、子供もなし、寡やも婦めぐ暮らしで、只今はお屋敷やお寺方の仕事をいたして居りますので、お召めし縮ちり緬めんの半はん纒てんなどを着まして、芝居などへまいりますと、帰りには屹きっ度とお茶屋で御膳や何か喫たべますって﹂
富﹁其そ様んな事は何うでも宜よい、御新造松蔭の家うちにいた下おん婢なは菊と云ったっけの﹂
村﹁私わたくしは名を存じませんが、其の下女が下男と不義をいたして殺されたという話を聞きましたから、只今考えて居りますので﹂
富﹁只松蔭とのみで名が分らんと、他ほかにない苗字でもなし、尤も神原四郎治は当家の御家来と確かに知れている、その四郎治と心を合せる者は大藏の外にはないが、先さ方きの親の名が書いてあると調べるに都合も宜しいが、ス……これ定、其の茶屋町の縫という女を呼びに遣やれ、直すぐに……事を改めていうと胡うろ乱んに思って、何処かへ隠れでもするといかんから、貴様一ちょ寸っと行って来い、先さっ刻きの衣きも服のの事について頼みたい事がある、他に仕立物もある、置いてまいった衣服二枚を買取るに都合もあるから、旦那様もお帰りになり、相談をするからと申してな、それに旨い物が出来たで、馳走をしてやる、早く来いと申して、直すぐに呼んでまいれ﹂
定﹁じゃア私わたくしがまいりましょうか﹂
富﹁却かえって貴様の方が宜かろう、女は女同志で、此の事を決していうな﹂
定﹁何う致しまして、決して申しは致しません﹂
と急いで出てまいりました。
四十三
お縫は迎いを受けて、衣きも服のが売れて幾いく許らかの口銭になることゝ悦んで、お定と一緒にまいりました。
定﹁旦那さま、あのお縫どんを連れてまいりました﹂
富﹁おゝ直すぐに連れて来たか、此こっ方ちへ通せ﹂
縫﹁旦那様御機嫌宜しゅう﹂
富﹁其そ処こでは話が出来ん、此こっ方ちへ這入れ構わずずうっと這入れ﹂
縫﹁はい……毎度御贔屓さまを有難う……毎度御新造様には種いろ々〳〵頂戴物を致しまして有難う存じます﹂
富﹁毎度面倒な事を頼んで、大分裁しご縫とが巧うまいと云うので、大きに妻さいも悦んでいる、就ついては忙しい中を態わざ々〳〵呼んだのは他の事じゃアないが、此の払はら物いものの事だ﹂
縫﹁はい〳〵、誠に只お安うございまして、古着屋などからお取り遊ばすのと違って、出でど所こも知れて居りますから上げました、途みち々〳〵もお定どんに伺いましたが、大層御意に入いって、黄八丈は旦那様がお召に遊ばすと伺いましたが、少しお端は手でかも知れませんが、誠に宜よいお色気でございます﹂
富﹁それじゃア話が出来んから此こっ方ちへ這入れ﹂
縫﹁御免遊ばして……恐入ります﹂
富﹁茶を遣やれよ﹂
縫﹁恐入ります……これは大層大きなお菓子でございますねえ﹂
富﹁それは上かみからの下されたので﹂
縫﹁へえ中々下しも々〴〵では斯こういう結構なお菓子を見る事は出来ません、頂戴致します、有難う存じます﹂
富﹁あゝ此の二枚の着物は何ど処こから出たんだえ﹂
縫﹁そりゃアあの何でございます、私わたくしが極ごく心安い人でございまして、その少し都合が悪いので払いたいと申して、はい私の極心安い人なのでございます﹂
富﹁何ういう事で払うのだ﹂
縫﹁はい、その何でございます、誠に只もう出でど所こが分って居りまして、古着屋などからお取り遊ばしますと、それは分りません事で、もしやそれが何でございますね、ま随分お寺へ掛かけ無む垢くや何かに成ってまいったのが、知らばっくれて払いに出ます事が幾いく許らもございます、左様な不ふし祥ょうな品と違いまして、出所も分って居りますから何かと存じまして﹂
富﹁それは分っているが、何ういう訳で払いに出たのだえ﹂
縫﹁まことに困ります、急にその災難で﹂
富﹁むゝう災難……何ういう災難で﹂
縫﹁いえ、その別に災難と申す訳もございませんけれども、急に嫁にまいるつもりで拵こしらえました縁が破談になりまして、不用になった物で﹂
富﹁はゝア、これは何と申す婦人のだえ、何屋の娘か知らんけれども、何と申す人の着物だえ﹂
縫﹁そりゃアその何でございます、私わたくしのような名でございますね﹂
富﹁手前のような……矢張縫という名かえ﹂
縫﹁いゝえ、縫という名じゃアございませんが、その心安くいたす間柄の者で﹂
富﹁心安い何という名だえ﹂
縫﹁それはどうも誠に何でございますね、その人は名を種いろ々〳〵に取とり換かえる人なんで、最初はきんと申して、それから芳よしとなりましたり、またお梅となったり何なんか致しました﹂
富﹁むゝう、今の名は何という﹂
縫﹁芳と申します﹂
富﹁隠しちゃアいかんぜ、少し此こっ方ちにも調べる事があるから、お前を呼んだのじゃ、此の着物を着た女の名は菊といやアせんか﹂
縫﹁はい﹂
富﹁左様だろうな﹂
お縫揉もみ手でをしながら、
縫﹁菊という名に一ちょ寸っとなった事もあります﹂
富﹁一寸成ったとは可お笑かしい隠しちゃアいかん、その菊という者は此こち方らにも少し心当りがあるが、親の家いえは何ど処こだえ﹂
縫﹁はい﹂
富﹁隠しちゃアならん、お前に迷惑は掛けん、これは買入れるに相違ない、今代金を遣るが、菊という者なればそれで宜しいのだ、菊の親元は何処だえ﹂
縫﹁はい、誠にどうも恐入ります﹂
富﹁何も恐入る事はない、頼まれたのだから仔細はなかろう﹂
縫﹁親元は本郷春木町三丁目でございます、指物屋の岩吉と申します、其の娘の菊ですが、その菊が死なく去なりましたんで﹂
富﹁うん、菊は同家中に奉公していたが、少々仔細有って自害致した﹂
縫﹁でございますけれども、これはその自害した時に着ていた着物ではございません﹂
富﹁いや〳〵自害した女の衣きも類のだから不縁起だというのではない、買っても宜よい﹂
縫﹁有難う存じます、その親も死なく去なりました、其の跡は職人が続いて法事をいたして、石塔や何なんかを建てたいという心掛なので﹂
富﹁左様か、それで宜しい、もう帰れ〳〵……おゝ馳走をすると申したっけ、欺だましちゃアならん、私わしは直すぐに上あがるから﹂
と川添富彌は急に支度をして御殿へ出ることになりました。御殿ではお夜よづ詰めの方々が次第〳〵にお疲れでございます。お医者は野のむ村らか覺く江え、藤ふじ村むら養よう庵あんという二人が控えて居ります。お夜詰には佐藤平馬、外とむ村らそ惣う衞えと申してお少ちいさい時分からお附き申した御家来中なか田だち千ま股た、老女の喜きせ瀬が川わ、お小姓繁しげるなどが交こも々〴〵お薬を上あげる、なれどもどっとお悪いのではない、床とこの上に坐っておいでゞ、庭の景色を御覧遊ばしたり、千股がお枕元で軍書を読んだり、するをお聞きなさる。お熱の工ぐあ合いでお悪くなると、ころりと横になる。甚ひどく寒い、もそっと掛けろよと御意があると、綿の厚い夜よ着ぎを余計に掛けなければなりません。お大名様方は釣夜具だとか申しますが、それほど奢った訳ではない。お附の者も皆心配して居られます。いまだお年若で、今年二十四五という癇かん癖しゃくざかりでございます。老女喜瀬川が出まして、
喜﹁上かみ……上﹂
紋﹁うむ﹂
喜﹁お上屋敷からお使者がまいりました﹂
紋﹁うむ、誰が来た﹂
喜﹁上かみのお使いに神原五郎治がまいりまして、御病気伺いに出ました、お目通りを仰付けられたいと申します、御面倒でございましょうが、お使者ではお会いが無ければなりますまい、如いか何ゞ致しましょうか﹂
紋﹁うむ、神原五郎治か……彼あれは嫌いな奴じゃが、此こ処ゝへ通せ﹂
喜﹁畏かしこまりましてございます……若殿がお会いが有りますから、これへ直すぐに﹂
と中田千股という人が取次ぎますと、結構な蒔まき絵えのお台の上へ、錦にし手きでの結構な蓋ふた物ものへ水飴を入れたのを、すうっと持って参り、
喜﹁お上屋敷からのお遣つかい物で﹂
とお枕元に置く。お次の隔へだてを開けて両手を支つかえ、
五﹁はア﹂
と慇いん懃きんに辞儀をする。
五﹁神原五郎治で、長の御不快蔭ながら心配致して居りました、また上かみに置かせられてもお聞き及びの通り御病中ゆえ、碌ろく々〳〵お訪ね申さんが、予の病気より梅の御殿の方が案じられると折おり々〳〵仰せられます、今こん日にちは御病気伺いとして御ごみ名ょう代だいに罷まかり出ました、是これは水飴でございますが、夜分になりますとお咳が出ますとのこと、其の咳を防ぎますのは水飴が宜しいとのことで、これは極ごく製せいの水飴で、これを召上れば宜くお眠よられます、上が殊ことの外ほか御心配なされ、お心を入れさせられし御おん品しな、早そう々〳〵召上られますように﹂
紋﹁うむ五郎治、あゝ予の病気は大した事はない、未いまだ壮年の身で、少し位の病魔に負けるような事はない、快よい時は縁側ぐらいは歩くが、只お案じ申上げるのはお兄あに様いさまの御病気ばかり、誠に案じられる、お歳といい、此の程はお悪いようじゃが、何うじゃな﹂
五﹁はア一いっ昨さく日じつは余程お悪いようでございましたが、昨さく日じつよりいたして段々御快気に赴おもむき、今こん朝ちょうなどはお粥かゆを三椀程召上りました、其の上お力になる魚類を召上りましたが、彼あの分では遠からず御全快と心得ます﹂
紋﹁うむ悦ばしい、予が夜分咳の出るは余程せつないがの、其のせつない中うちにもお兄様をお案じ申上げて、予の病気は兎も角、どうか早くお兄上様の御病気御全快を蔭ながら祈り居おると申せ﹂
五﹁はア、はア、そのお言葉を上かみがお聞きでござったら、嘸さぞお悦びでございましょう、御病苦を忘れ、只お上のことのみ思おぼ召しめさるゝというのは、あゝ誠にお使者に参じました五郎治倶ともに辱かたじけのう心得ます、只今の御一言早々帰りまして、上へ申上げるでございましょう、実に斯様な事を承わりますのは、誠に悦ばしい事で﹂
紋之丞殿は急に気けし色きを変え、声を暴あららげ、
紋﹁五郎治、申さんでも宜しい、お兄あに様いさまに左様な事を申さんでも宜しい、弟が兄を思うは当あた前りまえの事じゃ、お兄様も亦また予を思うて下さるのは何も珍らしい事はない、改めて左様申すには及ばん、然しかるを事珍らしく左様の事を申伝えずとも、よも斯様の事は御存じで有ろう、左様に媚こびった事を云うな﹂
五﹁はア……誠にどうも﹂
老女﹁左様なお高こう声せいを遊ばすと却かえって御病気に障ります、左様な心得で五郎治が申した訳ではありません﹂
紋﹁一体斯様な事をいう手前などはな主人を常つね思わんからだ、主人を思わん奴が偶たま々〳〵胸に主人の為になる事を浮うかぶと、あゝ忠義な者じゃと自みずから誇る、家来が主人を思うは当あた然りまえの事だ、常思わんから偶たまに主人を思う事があると、私わしは忠義だなどと自慢を致す、不忠者の心と引較べて左様に申す、白たわ痴けも者のめ、早々帰れ﹂
と以もっての外不首尾でございますから、
五﹁ホヽ﹂
と五郎治﹇#﹁五郎治﹂は底本では﹁五郎次﹂﹈は手持不沙汰で、
五﹁今こん日にちは上かみの御名代として罷まか出りでましたが、性せい来らい愚ぐま昧いでございまして、申上げる事も遂ついにお気に障り、お腹立に相成ったるかは存じませんが、偏ひとえに御容赦の程を願います﹂
紋﹁退さがれ﹂
五﹁はっ﹂
老﹁五郎治殿御病気とは申しながら誠に御ごか癇んぺ癖きが強く、時々斯ういうお高声があります事で、悪あしからず……あなた、左様なことを御意遊ばすな、それがお悪い、お高声を遊ばすとお動悸が出まして、却かえって、お悪いとお医者が申しました﹂
紋﹁うむ、今きょ日うはお兄上様からお心こゝ入ろいれの物を下され、それを持参いたしたお使者で、平つ生ねの五郎治では無かった、誠に使者太たい儀ぎ﹂
ごろりと直すぐに横っ倒しになり、掻かい巻まきを鼻の辺あたりまで揺ゆすり上げてしまう。仕方が無いから五郎治はそろり〳〵と跡へ退さがる。一同気の毒に思い、一座白け渡りました。
千﹁神原氏、余程の御癇癖お気に支さゝえられん様に、我々はお少ちいさい時分からお附き申していてさえ、時々お鉄てっ扇せんで打たれる様な事がある、御病中は誠に心配で、腫はれ物ものに障るような思いで、此の事は何どう卒ぞ上かみへ仰せられんように﹂
五﹁宜しゅうございます﹂
老﹁五郎治殿、誠に今きょ日うは遠とお々〴〵の処御苦労に存じます、只今の事は上かみへ仰せ上げられんように、何もござりませんが一いっ献こん差上げる支度になって居りますから、あの紅もみ葉じの間まへ﹂
と言われて五郎治は是を機し会おに其の座を退しりぞきました。暫く経つと紋之丞様がばと起上って、
紋﹁惣衞〳〵﹂
惣衞﹁はア﹂
紋﹁惣衞、何は帰ったか五郎治は﹂
惣﹁えゝ慥たしかお次に扣ひかえ居りましょう、上かみのお使つかいでございますから、紅葉の方へ案内致しまして、一献出しますように膳の支度をいたして居ります﹂
紋﹁じゃが何なんじゃの、何な故ぜお兄あに様いさまは彼あんな奴を愛して側近く置くかの、彼あれはいかん奴じゃ﹂
惣﹁左様な事を今こん日にちは御意遊ばしません方が宜しゅうございます﹂
紋﹁云っても宜しい、彼あれはい武士じゃ、佞ねい言げん甘くして蜜の如しで、神原或あるいは寺島等らをお愛しなさるのは、勧める者が有るからじゃの、惣衞﹂
惣﹁御意にござります﹂
紋﹁心配じゃ﹂
惣﹁御病中何かと御心配なされては相成りません、程ほど無のうお国表から福原數馬も出仕致しますから﹂
紋﹁あゝ數馬が来たら何うか成るか、あゝ逆の上ぼせて来た、折角お兄様から下すった水飴、甜なめて見ようか﹂
惣﹁召上りませ、お湯を是へ﹂
是から蓋が附いて高台に載せてお湯が出ました。側に在あります銀の匙さじを執とって水飴を掬すくおうとしたが、旨くいきません。
紋﹁これは思うようにいかんの﹂
惣﹁極ごく製せいの水飴ゆえ金かな属ものではお取り悪にくうございます、矢やっ張ぱり木を裂さいた箸が宜しいそうで﹂
紋﹁然そうかの、箸を持て﹂
と箸を二本纒まとめて漸よう々〳〵沢山捲き上げ、老女が頻しきりに世話をいたして、
老﹁さア〳〵お口を﹂
紋﹁うむ﹂
と今箸を取りにかゝる処へ駈込んで来たのは川添富彌、物をも云わず紋之丞様が持っていた箸を引ひっ奪たくって、突然庭へ棄てた時には老女も驚き、殿様も肝きもを潰つぶしました。
四十四
紋﹁何じゃ〳〵﹂
富﹁ハッ富彌で﹂
紋﹇#﹁紋﹂は底本では﹁富﹂﹈﹁白たわ痴け……何をいたす﹂
富﹁ハア﹂
と胸を撫なで下おろし、
富﹁誠に幸いな処へ駈付けました、どうか水飴を召上る事はお止とゞまりを願います、決して召上る事は相あい成なりません﹂
老﹁はアどうも私わたくしは恟びっくりしました、これは何という事です、御無礼至極ではござりませんか、殊ことに只今お上屋敷からお見舞として下されになった水飴、お咳が出るから召上ろうとする所を、奪とってお庭へ棄てるとは何事です﹂
富﹁いえ、これは棄てます﹂
紋﹁富彌、此の水飴はお兄あに様いさまがな咳が出るからと云って養いに遣つかわされた水飴を、何な故ぜ其の方は庭へ棄てた﹂
富﹁いえ仮たと令いお上屋敷から参りましても、天てん子し将軍から参りましても此の水飴は富彌屹きっ度と棄てます﹂
紋﹁何うか致したな此こや奴つは……これ其の方は予が口へ入れようとした水飴を庭へ棄てた上からは、取りも直さず予とお兄様を庭へ投出したも同様であるぞ、品物は構わんが、折角お心入れの品を投げ棄てたからは主人を投げたも同じ事じゃ﹂
富﹁へえ重々恐入ります、其の段は誠に恐入りましたが、水飴を召上る事は決して相成りません﹂
紋﹁何故ならん﹂
富﹁何でも相成りません﹂
紋﹁余程此こや奴つは何うかいたして居おる、無礼至極の奴じゃ﹂
富﹁御無礼は承知して居ります、甚はなはだ相済みません事と存じながら、お毒でござるによって上げられません﹂
紋﹁何故毒になる、若もし毒になるなら、水飴を上げても咳の助けには相成らん、却かえって悪いから止よせと何故止めん﹂
富﹁左様な事を口でぐず〳〵申している内には召上ってしまいます、召上っては大変と存じまして、お庭へ投棄てました﹂
紋﹁余程変じゃ…﹂
富﹁先まずま外村氏安心致しました﹂
外﹁安心じゃアない、粗そこ忽つ千万な事じゃないか、手前は只驚いて何とも申上げ様がない、お上屋敷から下すったものを無闇にお庭へ投棄てるというは何ういう心得違いで﹂
紋﹁外村彼是云うな、此奴は君臣の道を弁わきまえんからの事じゃ、予を嘲ちょ弄うろう致すな、年若の主人と侮あなどり何どの様ような事を致しても宜しいと存じておるか、幼年の時から予の側近く居おるによって、いまだに予を子供のように思って馬鹿に致すな﹂
富﹁いえ、中々もちまして﹂
紋﹁いや容よう赦しゃは出来ん、棄置かれん、今こん日にちの挙ふる動まいは容易ならんことじゃ﹂
富﹁お棄置きに成らんければお手打になさいますか﹂
紋﹁尤もっとも左様﹂
富﹁私わたくしも素もとより覚悟の上、お手打になりましょう﹂
外﹁これ〳〵何だ、何を馬鹿を申す、少々逆のぼ上せて居おる様子、只今御酒を戴きましたので、惣衞彼かれに成なり代かわってお詫をいたします、富彌儀太ひどく逆ぎゃ上くじょうをして居おる様子で﹂
富﹁いゝえ私わたくしはお手打に成ります﹂
紋﹁おゝ手打にしてやる是へ出え﹂
富﹁いゝえお止めなすっても私わたくしは出る﹂
と大変騒々しくなって来た処へ、這入って来ましたのは秋月喜一郎という御重役で、お茶台の上へ水飴を載せてスーと這入って来ながら此の体ていを見て。
喜﹁何を遊ばすの、御病中お高声はお宜しく有りません、富彌如き者をお相手に遊ばしてお論じ遊ばすのはお宜しくない、富彌も控えよ﹂
富﹁へえ〳〵﹂
と云ったが心の中うちで、此の秋月は忠義な者と思ったから。
富﹁何分宜しく、併しかし水飴はお止とゞめ申します﹂
紋﹁えゝ喜一郎、今きょ日うは富彌の罪は免ゆるさんぞ、幼年の折から側近くいて世話致しくれたとは申しながら、余りと云えば予を嘲弄いたす、予を蔑ないがしろにする富彌、免し難い、斬るぞ﹂
喜﹁これは又大した御立腹、全体何ういう事で﹂
紋﹁予が咳を治さんとて、上屋敷から遣わされたお心入れの別製の水飴を甜めようとする処へ、此奴が駈込んで参り突いき然なり予が持っていた箸を引ひっ奪たくって庭へ棄てた、これ取とりも直さず兄上を庭へ投げたも同じ事じゃから免さん、それへ直れ、怪けしからん奴じゃ﹂
喜﹁これは怪しからん、富彌、何ういう心得だ、上かみから下された水飴というものは一通りならんと、梅の御殿様の思おぼ召しめすところは御ごじ情ょう合あいで、態わざ々〳〵仰おお附せつけられた水飴を何で左様な事をいたした﹂
富﹁お毒でございますから、お口に入はいらん内にと口でお止とめ申す間まあ合いがございませんから、無沙汰にお庭へ棄てました﹂
喜﹁それは又何ういう訳で﹂
富﹁何ういう訳と申して、只今申上げる訳にはまいりませんが、至ってお毒で﹂
喜﹁ムヽウ、是は初めて聞く水飴は周の世の末に始めて製したるを取って柳りゅ下うか惠けいがこれを見て好よい物が出来た、歯のない老人や乳のない子供に甜めさせるには妙である、誠に結構なものが出来た、後の世の仕しあ合わせであると申したという、お咳などには大妙薬である、斯かゝる結構な物を毒とは何ういう理わ由けだ尤もっとも其の時に盜とう跖せきという大盗賊が手下に話すに、是これは好よいものが出来た、戸の枢くろゝに塗る時は音がせずに開ひらく、盗みに忍び入いるには妙である至極宜よい物であると申したそうだ、同じ水飴でも見る人によっては然そう違う、拙者もお見舞いに差上る積りで態々白山前の飴屋源兵衞方から持参いたした此の水飴﹂
富﹁これは怪けしからん秋月の御老人に限って其そ様んなことは無いと存じていたが、是は怪しからん、あなたは何うかなすったな﹂
喜﹁其の方こそ何うかして居いる、お咳のお助けになり、お養いになる水飴を﹂
富﹁ス……はてな﹂
と心の中うちで川添富彌が忠義無二の秋月と思いの外ほか、上屋敷の家老寺島或あるいは神原五郎治と与くみして、水飴を上かみへ勧めるかと思いましたから、顔色を変えてジリヽと膝を前へ進め。
富﹁相成りません﹂
紋﹁白たわ痴け……喜一郎あのような事を申す、余程訝おかしい変になった﹂
喜﹁余程変に相成りましたな﹂
富﹁御老臣が献ずる水飴でも決して相成りません、私わたくしはお手打に成ります、上かみのお手打は元より覚悟、お手打になっても聊いさゝか厭いといはございませんが、水飴は毒なるものと思おぼ召しめしまして此の後ごも召上らんように願います、仮たと令い喜一郎が持って参りましょうとも、水飴を召上る事は相成りません﹂
紋﹁何なんじゃ何の事じゃ、白たわ痴けめ﹂
喜﹁拙者が持って参った水飴が毒じゃと申すのか、ムヽウ……それじゃア斯う致そう、拙者がお毒味を致そう。上かみお匙さじを拝借致します﹂
と入いれ物ものの蓋を取り除のけて水飴を取りにかゝるから、川添富彌がはてなと見て居ります。秋月は富彌の顔を見ながら、水飴を箸の端さきへ段々と巻まき揚あげるのを膝へ手を置いて御舎弟紋之丞殿が見詰めて居りましたが、口の処へ持って来るから。
紋﹁喜一郎、毒味には及ばん﹂
喜﹁はっ﹂
紋﹁もう宜しい、予は水飴は嫌いになった、毒味には及ばん、水飴は取棄てえ﹂
喜﹁はッ﹂
紋﹁喜一郎が勧めるのも忠義、富彌が止とゞむるも忠義、二人して予を思うてくれる志辱かたじけなく思うぞ﹂
喜﹁ほう﹂
富﹁ほう﹂
御ごこ懇んの御意で喜一郎富彌は落らく涙るい致しました。
喜﹁富彌有難く御挨拶を申せ……有難うございます﹂
富﹁あゝ有難うございまする﹂
と涙を払い
富﹁無礼至極の富彌、お手打になっても苦しからん処、格別のお言葉を頂戴いたし、富彌死んでも聊いさゝか悔くやむ所はございません﹂
紋﹁いや喜一郎と富彌の両人へ何か馳走をして遣やれ、喜瀬川は料理の支度を﹂
老女﹁はい﹂
と鶴の一ひと声こえで、忽たちまち結構なお料理が出ました。水飴を棄すてると、お手てが飼いの梅うめ鉢ばちという犬が来てぺろ〳〵皆甜めてしまいました。それなりに夜よに入いりますとお庭先が寂しんと致しました。尤もっとも御案内の通り谷中三崎村の辺へんは淋しい処で、裏手はこう〳〵とした森でございます。所へ頭巾目まぶ深かに大小を無地の羽織の下に落おと差しざしにして忍んで来る一人の侍、裏手の外庭の林の前へまいると、グックと云うものがある。はて何だろうと暗いから、透すかして見ると、お手飼の白しろ班ぶちの犬が悶もがいて居ります。怪あやしの侍が暫しばらく視て居いる。最前から森下の植うえ込ごみの蔭に腕を組んで様子を窺うかごうて居るのは彼かの遠山權六で、曩さきに松蔭の家来有助を取って押えたが、松蔭がお羽振が宜いいので、事を問とい糺たゞさず、無闇に人を引ひっ括くゝり、上かみへ手数を掛け、何も弁わきまえん奴だと權六は遠慮を申付けられました、遠慮というのは禁おし錮こめの事ですが、權六些ちととも﹇#﹁些ちととも﹂は﹁些ちとも﹂﹁些ちっとも﹂などの誤記か﹈遠慮をしません、相変らず夜よな々〳〵のそ〳〵出てお庭を見みま巡わって居りますので、今權六が屈かゞんで見て居りますと、犬がグック〳〵と苦しみ、ウーンワン〳〵と忌いやな声で吠ほえる、暫く悶もがいて居りましたが、ガバ〳〵〳〵と泡のような物を吐いて土をむしり木の根方へ頭をこすり附けて横っ倒しに斃たおれるのを見て、怪しの侍が抜ぬき打うちにすうと犬の首を斬きり落おとして、懐から紙を取出し、すっかり血を拭ぬぐい、鍔つば鳴なりをさせて鞘さやに収め、血の附いた紙を藪蔭へ投込んで、すうと行ゆきに掛るから權六は怪しんですうッと立上り、
權﹁いやア﹂
と突だし然ぬけに彼かの侍の後うしろから組附いた時には、身しん体たいも痺しびれ息も止とまるようですから、侍は驚きまして、
曲者﹁放せ﹂
權﹁いや放さねえ、怪しい奴だ、何者だ、何故犬う斬った、さ何者だか名前を云え﹂
曲﹁手前たちに名前を申すような者じゃアねえ、其そ処こ放せ﹂
權﹁放さねえ、さ役所へ行ゆけ﹂
曲﹁役所へ行ゆくような者もんじゃア無ねえ﹂
權﹁黙れ、頭巾を深く被りやアがって、大小を差して怪しい奴だ、此のまア御ごし寝んじ所ょ近ちけえ奥庭へ這入りやアがって、殊ことに大切な犬を斬ってしまやアがって、さ汝われ何故犬を斬った﹂
曲﹁何故斬った、此の犬は己おれに咬かみ付ついたから、ムヽ咬付かれちゃアならんから斬ったが何うした﹂
權﹁黙れ、己おれア見ていたぞ、咬付きもしねえ犬を斬るには何か理わ由けがあるだろう、云わなければ汝うぬ絞しめ殺ころすが何うだ﹂
曲﹁ムヽせつないから放せ﹂
權﹁放せたって容易にア放さねえ、さ歩あゆべ、え行いかねえか﹂
と大だい力りき無むそ双うの權六に捉とらえられたのでございますから身動きが出来ません。引ひき摺ずられるようにしてお役所へ参り、早々届けに成りました事ゆえ、此の者を縛くゝし上げまして、其の夜よ罪とが人にんを入れ置く処へ入れて置き、翌日お調べというのでお役所へ呼出しになりました時には、信しが樂らき豐ぶぜ前んというお方がお目付役を仰付けられて、掛りになりました。此の信樂という人は左さしたる宜よい身分でもないが、理非明白な人でありますから、お目付になって、内ない々〳〵叛むほ謀んに人ん取調べの掛りを仰付けられました。差さし添ぞえは別べっ府ぷし新んぱ八ちで、曲者は森もり山やま勘かん八ぱちと申す者で、神原五郎治の家来であります。呼出しになりました時に、五郎治の弟おとゝ四郎治が罷まかり出ます事になりお縁側の処へ薄うす縁べりを敷き、其の上に遠山權六が坐って居ります。お目付は正面に居られます。また砂利の上に莚むしろを敷きまして、其の上に高たか手て小こ手てに縛くゝされて森山勘八が居りますお目付が席を進みて。
目付﹁神原五郎治代だい弟おとゝ四郎治、遠山權六役目の儀ゆえ言葉を改めますが、左様に心得ませえ﹂
四﹁はっ﹂
權﹁ほう﹂
目付﹁權六其の方昨夜外庭見廻りの折おり、内庭の檜ひの木きや山まの蔭へまいる折おり柄から、面部を包みし怪しき侍体ていのものが、内庭から忍び出いで、お手飼の梅鉢を一刀に斬りたるゆえ、怪しい者と心得て組付き、引立て来たと申す事じゃがそれに相違ないか﹂
權﹁はい、それに相違ございません、どうも眼ばかり出して、長なげえ物を突つッ差さしまして、あの檜木山の間から出て来た……、怪しい奴と思えやして見ているうち、犬を斬りましたから、何でも怪しいと思えやしたから、ふん捕づかめえました﹂
目付﹁うん……神原五郎治家来勘八、頭かしらを上げえ﹂
勘﹁へえ﹂
目﹁何才になる﹂
勘﹁三十三でございます﹂
目﹁其の方陪ばい臣しんの身の上でありながら、何なに故ゆえに御寝所近い内庭へ忍び込み、殊ことには面部を包み、刄物を提げ、忍び込みしは何なに故ゆえの事じゃ、又お手飼の犬を斬ったと申すは如い何かなる次第じゃ、さ有あり体ていに申せ﹂
と睨ねめつけました。
四十五
勘八は図太い奴でございますから、態わざと落おち著つき振はらいまして、
勘﹁へえ、誠に恐入りましてございます。お庭内へ参りましたのは、此の頃は若殿様御病気でございまして、皆さんが御看病なすっていらっしゃるので、どうもお内庭はお手薄でございましょうから、夜よる々〳〵見廻った方が宜いいと主人から言いつかりました、それにお手飼の犬とは存じませんで、檜木山の脇へ私わたくしが参りましたら、此の節の陽気で病やみ付ついたと見えまして、私に咬かみ付つきそうにしましたから、咬付かれちゃア大変だと一生懸命で思わず知らず刀を抜いて斬りましたが、お手飼の犬だそうで、誠にどうも心得んで、とんだ事を致しました、へえ重々恐入りましてございます﹂
目﹁そりゃアお手飼の犬と知らず、他ほかの飼犬にも致せ、其の方陪臣の身を以もって夜やち中ゅう大小を帯たいし、御寝所近い処へ忍び入ったるは怪しい事であるぞ、さ何者にか其の方頼まれたので有ろう、白状いたせ、拙者屹きっ度と調しらべるぞ﹂
勘﹁へえ、何も怪しくも何ともないんでございます、全く気を付けて時々お庭を廻れと云われましたんでございます、それゆえ致しました、此こ処ゝにおいでなさいます主人の御舎弟四郎治様も爾そう仰しゃったのでございます﹂
目﹁うむ、四郎治其の方は此の者に申付けたとの申もう立したてじゃが、全く左様か﹂
四﹁えゝ、お目付へ申上げます、実は兄五郎治は此の程お上屋敷のお夜よづ詰めに参って居ります、と申すは、大殿様御病気について、兄も心配いたしまして、えゝ、番でない時も折々は御病気伺いに罷まかり出いで又御舎弟様も御病気に就つきお夜詰の衆、又御看護のお方々もお疲れでありましょう、又疲れて何事も怠り勝の処へ付つけ入いって、狼ろう藉ぜき者ものが忍入るような事もあれば一大事じゃから、其の方己おれがお上屋敷へまいって居おる中うちは、折々お内庭を見廻れ、御寝所近い処も見廻るようにと兄より私わたくしが言いい付つかって居ります、然しかる処昨日御家老より致しまして、火急のお呼出しで寅の門のお上屋敷へ罷まか出りでましたが、私は予かね々〴〵兄より言付かって居りますから、是なる勘八に、其の方代ってお庭内を廻るが宜よいと申付けたに相違ござらん、然るに彼がお手飼の犬とも心得んで、吠ほえられたに驚き、梅鉢を手打にいたしました段は全く彼何も弁わきまえん者ゆえ、斯様な事に相成ったので、兄五郎治に於おいても迷惑いたします事でござる、併しかし何も心得ん下げに人んの事と思おぼ召しめしまして、幾重にも私が成代ってお詫を申上げます、御ごこ高うめ免んの程を願いとうござる、全く知らん事で﹂
目﹁むう、そりゃ其の方兄五郎治から言付けられて、其の方が見廻るべき所を其の方がお上屋敷へまいって居おる間、此の勘八に申付けたと申すのか、それは些ちと心得んことじゃアないか、うん、これ申付けても外庭を見廻らせるか、又はお馬場口を見廻るが当然、陪臣の身分で御寝所近い奥庭まで夜廻りに這入れと申付けたるは、些と訝おかしいようだ、左様な事ぐらいは弁わきまえのない其の方でもあるまい、殊ことに又帯刀をさせ面部を包ませたるは何う云う次第か﹂
四﹁それは夜やい陰んの儀でござるで、誠にお馬場口や何か淋しくてならんから、彼に見廻りを申付ける折おりに、大小を拝借致したいと申すから、それでは己おれの積つもりで廻るが宜よいと申付けましたので、大小を差しましたる儀で、併しかし頭巾を被りましたことは頓とんと心得ません……これ勘八、手前は何な故ぜ目めぶ深かい頭巾で面部を包んだ、それは何ういう仔細か、顔を見せん積りか﹂
勘﹁えゝ誠にどうも夜よになりますと寒うございますんで、それゆえ頭巾を被りましたんで﹂
目﹁なに寒い……当月は八月である、未いまだ残暑も失うせせず、夜陰といえども蒸いきれて熱い事があるのに、手前は頭巾を被りたるは余程寒がりと見ゆるな﹂
勘﹁へえ、どうも夜よるは寒うございますので﹂
目﹁寒くば寒いにもせよ、一体何ういう心得で其の方が御寝所近くへ這入った、仔細があろう、如いか何よ様うに陳じても遁のがれん処であるぞ、兎や角陳ずると厳しい処の責めに遇あわんければならんぞ、よく考えて、迚とても免のがれん道と心得て有あり体ていに申せ﹂
勘﹁有体たって、私わたくしは何も別に他から頼まれた訳はございませんで、へえ﹂
目﹁中々此こや奴つしぶとい奴だ、此の者を打ちませえ﹂
四﹁いや暫く……四郎治申し上げます、暫くどうぞ、彼は陪臣でござって、お内庭へ這入りました段は重々相済まん事なれども、五郎治から私わたくしが言付けられますれば、即すなわち私が、兄五郎治の代だいを勤むべき処、御用あって御家老からお呼出しに相成りましたから、止やむを得ず家来勘八に申付けましたので、取とりも直さず勘八は兄五郎治の代たいでござる、何も強しいて之これを陪臣と仰せられては誠に夜廻りをいたし、上かみを守ります所の甲斐もない事でございます、勘八のみお咎とがめが有りましては偏かた頗おとしのお調べかと心得ます﹂
目﹁それは何ういう事か﹂
四﹁えゝ是これなる遠山權六は、当とう春はる中じゅう松蔭大藏の家来有助と申す者を取押えましたが、有助は何分にも怪しい事がないのを取押えられ堪たまり兼かねて逃にげ所どころを失い、慌あわてゝ權六に斬付けたるを怪しいという処から、お調べが段々長く相成って、再度松蔭大藏もお役所へ罷まか出りでました。其の折おりは御用多端の事で、御用の間まを欠き、不取調べをいたし、左様な者を引いてまいり、上かみ役やく人にんの迷惑に相成る事を仕し出でかし、御用の間を欠き、不ふと届ゞきの至りと有って、權六は百日の遠慮を申付かりました、未いまだ其の遠慮中の身をも顧かえりみず、夜な〳〵お屋敷内を廻りまして宜しい儀でござるか、權六に何のお咎めもなく、私わたくしの兄へお咎めのあると云うのは、更に其の意を得んことゝ心得ます、何ういう次第で遠慮の者が妄みだりに外出をいたして宜しいか、其の儀のお咎めも無くって宜しい儀でござるなれば、陪臣の勘八がお庭内を廻りましたのもお咎めはあるまいかと存じます﹂
目﹁うむ…權六其の方は百日遠慮を仰付けられていると、只今四郎治の申す所である、何なに故ゆえに其の方は遠慮中妄りにお庭内へ出た﹂
權﹁えゝ﹂
目﹁何故に出た﹂
權﹁遠慮というのは何ういう訳だね﹂
目﹁何う云う訳だとは何だ、其の方は遠慮を仰付けられたであろう﹂
權﹁それは知っている、知っているが、遠慮と云うのは何を遠慮するだ、私わしが有助を押えてお役所へ引いて出ました時は、お役人様が貴方と違って前の菊きく田た様てえ方で、悪人の有助ばかり贔屓いして私をはア何でも彼かんでも、無理こじつけに遣やり込めるだ、さっぱり訳が分らねえ、其の中うちに御用の間を欠いた、やれ何なんの彼かのと廉かどを附けて長なげえ間お役所へ私は引出されただ、二にぎ月ゃつから四しが月つまでかゝりましたよ、牢の中へ入へいってる有助には大層な手当があって、何だか御重役からお声がゝりがあるって楽らくうしている、私は押込められて遠慮だ〳〵と何を遠慮するだ私の考かんがえでは遠慮というものは芽出度い事があっても、宅うちで祝う所は祝わねえようにし、又見物遊山非番の時に行きたくても、其そ様んな事をして栄えよ耀うをしちゃアならんから、遠慮さ、又旨うめえ物を喰おうと思っても旨え物を喰って楽しんじゃアどうも済まねえと思って遠慮をして居ります、何も皆遠慮をしているが私が毎めえ晩ばん〳〵御寝所近ぢけえお庭を歩いているは何の為だ、若殿様が御病気ゆえ大切に思えばこそだ、それに御家来の衆も毎めえ晩ばんのことだから看病疲れで眠りもすりゃア、明あけ方がたには疲れて眠る方も有るまい者でもねえ、其の時怪しい者が入へいっちゃアならねえと思うからだ、此の程は大分貴あん方た顔なんど隠しちゃア長い物を差した奴がうろつか〳〵して、御寝所の縁の下などへ入へいる奴があるだ、過こね般えだも私がすうと出たら魂たま消げやアがって、面つらか横っ腹か何ど所っか打ったら、犬う見たように漸ようよう這上ったから、とっ捕つかめえて打ってやろうと思う中うちに逃げちまったが、爾そうして気を付けたら私はこれを忠義かと心得ます、他ほかの事は遠慮を致しますが、忠義の遠慮は出来ねえ、忠義というものは誠だ誠の遠慮は何うしても出来ません、夜よる巡まわることは別段誰にも言付かったことはない、役目の外ほかだ、私も眠いから宅うちで眠れば楽だ、楽だが、それでは済みませんや、大恩のある御主人様の身あた辺りへ気を付けて、警護をしていることを遠慮は出来ませんよ、無理な話だ、巡まわったに違ちがえねえ、それでもまだ遠慮して外庭ばかり巡って居りました、すると勘八の野郎が……勘八とは知んねえだ初まりは……犬う斬ったから野郎と押えべいと出たわけさ、それに違ちげえねえでございますよ、はいそれとも忠義を遠慮をしますかな﹂
と弁舌爽さわやかに淀みなく述立てる処は理の当然なれば、目付も少し困って、其の返答に差さし支つかえた様子であります。
目﹁むゝう、權六の申す所一応は道理じゃが、殿様より遠慮を仰せ出いだされた身分で見れば、それを背そむいてはならん、最も外出致すを遠慮せんければならん﹂
權﹁外がい出しつだって我儘に旨うめえ物を喰いに往ゆくとか、面白いものを見に往いくのなれば遠慮ういたしますが、殿様のお側を守るなア遠慮は出来ねえ、外がい出しつするなって其そ様んな殿様も無なえもんだ﹂
四﹁えゝ四郎治申上げますあの通り訳の分らん奴で、然しかるをお目付は權六のみを贔屓いたされ、勘八一人唯悪い者と仰せられては甚だ迷惑をいたします事で、殊ことにお目付も予かねてお心得でござろう、神原五郎治の家いえは前ぜん殿様よりお声掛りのこれ有る家柄、殊に遠山權六が如き軽輩と違って重きお役をも勤める兄でござる、權六と同一には相成りません、權六は上かみの仰せ出いだされを破り、外出を致したをお咎めもなく、格別の思おぼ召しめしのこれ有る所の神原五郎治へお咎めのあるとは、実に依え怙この御沙汰かと心得ます、左様な依怙の事をなされては御裁許役とは申されません﹂
目﹁黙れ四郎治、不ふつ束ゝかなれども信樂豊前は目付役であるぞ、今こん日にち其の方らを調ぶるは深き故有っての事じゃ、此の度たび御出府に成られた、御国家老福原殿より別段のお頼みあって目付職を勤めるところの豊前に対して無礼の一言であるぞ﹂
四﹁ではございますが、余り片手落のお調べかと心得ます﹂
目﹁其の方は部へや屋ず住みの身の上で、兄の代りとはいえども、其の方から致して内庭へ這入るべき奴では無い、然しかるを何なんだ、其の方が家来に申付けて内庭を廻れと申付けたるは心得違いの儀ではないか、前ぜん殿様より格別のお声がゝりのある家柄、誠に辱かたじけない事と主しゅ恩おんを弁わきまえて居おるか、四郎治﹂
四﹁はい、心得居ります﹂
目﹁黙れ、新参の松蔭大藏と其の方兄五郎治兄弟の者は心を合せて、菊之助様をお世よつ嗣ぎにせんが為ために御舎弟様を毒殺いたそうという計たく策みの段々は此の方心得て居おるぞ﹂
四﹁むゝ﹂
目﹁けれども格別のお声がゝりもこれ有る家柄ゆえ、目付の情を以もって柔和に調べ遣つかわすに、以ての外ほかの事を申す奴だ、疾とくに証拠あって取調べが届いて居おるぞ、最早遁のがれんぞ、兄弟共に今こん日にち物もの頭がしらへ預け置く、勘八其の方は不埓至極の奴、吟味中入じゅ牢ろう申付ける、權六﹂
權﹁はい私わしも牢へ入へいりますかえ﹂
目﹁いや其の方は四月の二十八日から遠慮になったな﹂
權﹁えゝ﹂
目﹁二十八日から丁度昨夜が遠慮明けであった﹂
權﹁あゝ然そうでございますか﹂
目﹁いや丁度左様に相成る、遠慮が明けたから、其の方がお庭内を相変らず御主君のお身の上を案じ、御当家を大切と思い、役目の外に夜廻りをいたす忠義無二のことと、上かみにも御存じある事で、後ごしてはまた格別の御褒美もあろうから、有難く心得ませい﹂
權﹁有難うございます、なにイ呉れます﹂
目﹁何を下さるかそれは知れん﹂
權﹁なに私わしは種いろ々〳〵な物を貰もろうのは否いやでございます、どうかまア悪い奴と見たら打ぶっ殺ころしても構わないくらいの許しを願ねげえてえもので、此の頃は余程悪い奴がぐる〳〵廻って歩きます、全体此の四郎治なんという奴は打殺して遣やりてえのだ﹂
目﹁これこれ控えろ、追って吟味に及ぶ、今こん日にちは立ちませえ﹂
と直すぐに神原兄弟は頭かし預らあずけになって、宅たく番ばんの附くような事に相成り、勘八という下男は牢へ入りました。權六は至急お呼出しになって百日の遠慮は免ゆりて、其の上お役が一つ進んで御加増となる。遠山權六は君恩の辱かたじけないことを寝ても覚めても忘れやらず、それから毎夜ぐる〳〵廻るの廻らないのと申すのではありません。徹よど夜おし寝ずに廻るというは、実に忠義なことでございます。此の事を聞いて松蔭大藏が不審を懐いだき、どうも神原兄弟が頭預けになって、宅番が附いたは何ういう調べになった事かはて困ったものだ、彼あい奴つらに聞きたくも聞くことも出来ん自分の身の上、あゝ案じられる、国家老の出たは容易ならん事、どうか国家老を抱込みたいものだと、素もとより悪才に長たけた松蔭大藏種いろ々〳〵考えまして、濱はま名なさ左で傳ん次じにも相談をいたし、国家老を引出しましたのは市ヶ谷原はら町まちのお出入町人秋あき田たや屋せい清ざ左え衞も門んという者の別荘が橋はし場ばにあります。庭が結構で、座敷も好よく出来て居ります。これへ連出し馳走というので川口から立派な仕出しを入れて、其の頃の深川の芸者を二十人ばかり呼んで、格別の饗応になると云うのであります。
四十六
時は八月十四日のことで、橋場の秋田屋の寮へ国家老の福原數馬という人を招きまして何ぞ隙すきがあったらば……という松蔭が企たくみ、濱名左傳次という者と諜しめし合せ、更ふけて遅く帰るようで有ったらば隙を覗うかゞって打果してしまうか、或あるいは旨く此こち方らへ引入れて、家老ぐるみ抱込んでしまうかと申す目もく論ろ見みでございます。大藏は悪才には長たけ弁も能よし愛敬のある男で、秋田屋に頼んで十分の手当でございます。此の寮も大して広い家うちではございませんが客席が十五畳、次が十畳になって、入いり側かわも附いて居り誠に立派な住すま居いでございます。普請は木きぐ口ちを選んで贅ぜい沢たくなことで建てゝから五年も経たったろうという好よい時代で、落着いて、なか〳〵席の工ぐあ合いも宜しく、床とこは九尺床でございまして、探たん幽ゆうの山水が懸り、唐から物ものの籠かごに芙ふよ蓉うに桔きき梗ょう刈かる萱かやなど秋草を十分に活いけまして、床脇の棚等とうにも結構な飛び青磁の香こう炉ろがございまして、左右に古こだ代いま蒔き絵えの料紙箱があります。飾り付けも立派でございまして、庭からずうと見渡すと、潮しお入いりの泉せん水すいになって、模様を取って土どば橋しが架かゝり、紅白の萩其の他たの秋草が盛りで、何とも云えん好よい景色でございます。饗応を致しますに、丁度宜しい月の上あがりを見せるという趣向。深川へ申付けました芸者は、極ごく頭あたまだった処の福ふく吉きち、おかね、小こよ芳し、雛ひな吉きち、延のぶ吉きち、小こた玉ま、小さん、などという皆其の頃の有名の女計ばかり、鳥とば羽やご屋ち五ょ蝶うに壽じゅ樂らくと申します幇たい間こもちが二人、是これは一ちょ寸っと荻おぎ江えぶ節しもやります。荻おぎ江えき喜さぶ三ろ郎うの弟子だというので、皆美び々ゞしく着飾って深川の芸者は只今の芸者と違いまして、長なが箱ばこで入りましたもので、大概橋場あたりで言付ければ残らず船でまいりまして、着換えなど沢山着換えまして、髪は油気なし、潰つぶしという島田に致しまして、丈たけ長ながと新しん藁わらをかけまして、笄こうがいは長さ一尺で、厚み八分ぶも有ったという、長い物を差して歩いたもので、狭い路地などは通れませんような恐ろしい長い笄で、夏絽ろを着ましても皆肌はだ襦じゅ袢ばんを着ませんで、深川の芸者ばかりは素肌へ着たのでございます。裾すそ模もよ様うが付いて居ります、紅べにかけ花色、深川鼠、路ろこ考うち茶ゃなどが流は行やりまして、金きん緞どん子すの帯を締め、若い芸者は縞しま繻じゅ子すの間に緋ひ鹿がの子こをたゝみ、畳み帯、挟はさみ帯などと申して華やかなこしらえ、大勢並んで、次の間にお客様のおいでを待って居ります。秋田屋清左衞門の番頭も、其の頃大名の御家老などが来ると家いえの誉ほまれ名みょ聞うもんだというので、庭の掃除などを厳しく言付けぐる〳〵見廻って居ります。そらおいでだと云ってお出迎いをいたし、
番﹁えゝ、いらっしゃいまし﹂
數﹁あゝ、これは成程どうも好よい庭で、松蔭好いい庭だの﹂
大﹁はい誠にその、当家の亭主が至って茶人で、それゆえ此の庭や何かは、更に作りませんで、自然の様を見せました、実に天然のような工合で﹂
數﹁うん余程好よい庭である、むう、これは感心……岩いわ越こし何うだえ﹂
岩﹁へえ、私わたくしは斯かよ様うな処へ参ったのは始めてゞごすな、国にいては迚とても斯ういう処は見られませんな、うゝん、これはどうも﹂
數﹁お前は何だ﹂
大﹁えゝ、これなるは当家の番頭、伊いへ平いと申します不調法者で﹂
番﹁えゝ、今こん日にちは宜ようこそ御ごそ尊んら来い有難い事で、貴あな所たが方たのお入い来でのございますのは実に主人も悦び居りまして、此の上ない冥みょ加うが至極の儀で、土地の外聞で、私わたくしにおいても、誠に有難いことで﹂
數﹁いや其そ様んなに、大層に云わんでも宜よい、土地の外聞なんて、亭主は余程好こう事ず家かのようだな﹂
番﹁えゝ鬼ほお灯ずきなどは植えんように致してございます﹂
數﹁うふゝゝ鬼灯じゃアない、風流人と申すことじゃ﹂
番﹁でございますか、なにほうずは出来ます﹂
數﹁何を申す﹂
番﹁へい、船の上をずる〳〵何い時つまでも曳ひいているような長いものをほうずと申しますそうで﹂
數﹁いや中々の博もの識しりじゃ、うふゝゝ面白い男だの、此の泉せん水すいは潮しお入いりかえ﹂
番﹁へえ何と…﹂
數﹁いやさ此の泉水は潮が入はいるかえ﹂
番﹁へえ、何と御意遊ばします﹂
數﹁潮入りかというのじゃ﹂
番﹁へえ〳〵只今差上げますあの誰かお盆へ塩を持って来て上げな、どうも御ごか癇んぺ癖きだから、お手をお洗い遊ばすのだろう、へえお塩を﹂
數﹁何を持って来るのだ、此の泉水は潮入かと申すのだ﹂
番﹁へえ、左様でございます﹂
大﹁何どう卒ぞこれへ入らっしゃいまし﹂
數﹁うん岩越、ひょろ〳〵歩くと危いぞ池へ落おっこちるといかん、あゝ妙だ、家や根ねは惣そう体たい葺ふき屋やだな、とんと在ざい体ていの光あり景さまだの﹂
大﹁外そ面とから見ますと田いな舎か家やのようで、中は木口を選んで、なか〳〵好こう事ずに出来て居ります﹂
數﹁其の許もとは斯ういう事も中々委くわしい、私わしはとんと知らんが、石いし灯どう籠ろうは余りなく、木の灯籠が多いの﹂
大﹁えゝ、これはその、野原のような景色を見せました心得でございましょうか﹂
數﹁あ成程、これは面白い〳〵……此こ処ゝから上あがるのか、成程玄関の様子が面白く出来たの、入いり口くちかえ﹂
大﹁これからお上あがり遊ばしませ、お履はき物ものは私わたくしがしまい置きます﹂
數﹁これは好よい席だ﹂
大﹁さゝ、是へどうぞ〳〵﹂
と松蔭が段々案内をいたし、座敷の床の前へ褥しとねを出し、烟草盆や何か手当が十分届いて居ります。
大﹁どうぞ此こ処れへお坐りを願います﹂
數﹁余り好よい月だによって、縁先で見るのが至極宜しい、これは妙だ、此の辺は一体隅田川の流れで……あれに見ゆるのは橋場の渡しの向うかえ、如い何かにも閑かん地ちだから、斯ういう処は好いの、えゝ一ちょ寸いと秋田屋をこれへ﹂
大﹁えゝ御家老これが当家の主人秋田屋清左衞門と申します、年来お屋敷へお出入を致すもので、染しみ々〴〵未いまだお目通りは致しませんが、日いつ外ぞやあの五六年以前、大たい夫ふが御出府の折おりにお目通りを致した事がありますと申し、斯様な見苦しい処ではござるが、一度御尊来を願いたいと申して居ったので、当人も悉こと〴〵く今こん日にちは悦び居ります、どうかお言葉を﹂
數﹁はゝあ、秋田屋か﹂
清﹁へえ、えゝ今こん日にちは宜ようこそ、御尊来で、誠に身に取りまして有難い事でございます、えゝ年来お屋敷さまへお出入をいたします不調法者で、此の後のちとも何分御贔屓お引廻しを願います﹂
數﹁あい、秋田屋か、成程、貴公は知らんが、貴公の親父の時分であったか、江戸詰の時種いろ々〳〵世話になった事もあった、中々立派な好よい家いえだ、至極面白い﹂
清﹁いえ、見苦しゅうございまして、此の通り粗そぼ木くを以て拵こしらえましたので、中々大夫さまなどがお入い来でと申すことは容易ならんことで、此の家いえに箔はくが付きます事ゆえ、誠に有難いことで﹂
數﹁いや〳〵、格別の手当で辱かたじけない、あい〳〵、成程、これは中々立派な茶碗だな、余程道具好きだと見えるな﹂
大﹁はい、好よい道具を沢山所持して居おる様子でございます、今こん日にちは御家老のお入い来でだと、何か大切な品を取出した様子で、なに碌ろくなものもございますまいがほんの有あり合あいで﹂
數﹁いや中々好よい茶碗だ﹂
大﹁えゝ道具は麁そま末つでござるが、主人が心入れで、自ら隅田川の水みず底そこの水を汲上げ、砂すな漉ごしにかけ、水を柔やわらかにして好よい茶を入れましたそうで﹂
數﹁成程それは有難い、其そ処こが親切というもので、茶はたとえ番茶でも水を柔かにして飲ませる積りで、自身に川中まで船で水を汲みに往ゆく志というものは、千万金きんにも替えがたく好い茶を飲ませるより福原辱かたじけなく飲む﹂
大﹁えゝ恐入りました事で﹂
數﹁大藏、立派な菓子を取ったの﹂
大﹁いえ、どうも甚はなはだ何もございませんで、此の辺は誠にどうも……市ヶ谷から此こ処れへ出で張ばりますことで、好いい道具や何かは皆此こち方らの蔵へ入れ置きますという事で﹂
數﹁成程、火事がないから道具の好よいのを運んで置くか、それは宜かろう﹂
大﹁今こん日にちは何も御馳走は有りませんが、御家老へ此の向うから月の上あがります景色を………これは御馳走でございます、求めず天然の楽たのしみで、幸い今宵は満月の前夜で﹂
數﹁おゝ成程な、いやかけ違って染しみ々〴〵挨拶もしなかったが、段々と上屋敷の事も下屋敷の事も、貴公が大分に骨を折って大きに殿様にも格別に思おぼ召しめし、新参でありながら、存外の昇進で、えらいものだ﹂
大﹁えへゝゝ、不ふつ束ゝかの大藏格別上かみのお思ぼし召めしをもちまして、重きお役を仰付けられ、冥加至極の儀で、此の上とも何どう卒ぞ御家老のお引立を蒙こうむりたく存じます﹂
數﹁其そ様んなに出世をしては往ゆく処があるまい、中々どうして男は好よし、弁に愛敬を持ち、武芸も達しておるから自然と昇進をする質たちだ﹂
大﹁えゝ、恐入りました事で﹂
數﹁手前も壮年の折おり柄からは一体虚弱だが、大きに老年に及んで丈夫になったが、どうも歯が悪くなって、旨い物を喰たべても余り旨いとは思わん、楽しみと云っても別になし、国に居おれば田舎侍だから美食美服は出来んばかりでは無い、一体若い時分からそういう事は嫌いじゃ、斯ういう清せい々〳〵とした処を見るが何よりの楽しみじゃの﹂
大藏は座を進ませまして、
大﹁えゝどうも今こん日にちは何もお慰なぐさみもなく、お叱りを受けるかは存じませんが、亭主が深川の芸者を呼び置きましたと申すことで、一ちょ寸っとお酌を取りましても、武骨な松蔭や秋田屋がお酌をいたしましては、池田伊丹の銘酒も地酒程にも飲めんようなことで、甚だ御無礼ではございますが、お目通りへ其の深川の芸者どもを呼寄せることに致します﹂
數﹁おゝ成程その噂は聞いている、深川には大分美人も居おり、芸の好よいものも居おるという事だが、それは宜よいの、手前は芸者に逢った事はない、武骨者で殊ことに岩越という男が是非一緒に往ゆきたい、何でも連れてってくれ、未いまだ碌に御府内を見たことが無いというから同道して来たが、起きと倒うり流ゅうの奥儀を究きわめあるだけあって、膂ちか力らが強いばかりで、頓と風ふう流りゅ気うぎのない武骨者じゃ﹂
岩越﹁えゝ拙者は岩越賢けん藏ぞうと申す至って武骨者で此の後ごともお見知り置かれて御別懇に﹂
大﹁今こん日にちは図らず御面会を致しました、手前は松蔭大藏で……好よい折柄、此の後とも御別懇に……御家老此これは濱名左傳次と申す者で、小役人でございましたが、図らず以上に仰付けられ、今こん日にちは何うかお目通りを致しまして、何かのお話を承われば身の修行だと申して居ります、武骨ではござるが洒しゃ落れた口もきゝ、皺しゃ枯がれっ声で歌を唄い、面白い男ゆえお目をお掛け遊ばして、何分お引立を﹂
數﹁はい〳〵、中々様子の好よい男、なれども近い処だと宜よいがの、上屋敷までは遠いから、どうか些ちっと早く帰りたいがの﹂
大﹁いえ、今晩は小梅のお中屋敷へ御一泊遊ばしては如いか何ゞ、寺じ家け田だの座敷が手広でござる、彼あれへ御一泊遊ばしますように、是から虎の門までお帰りになっては余り遅うなりますから﹂
數﹁それは宜かろう﹂
大﹁じゃア早く〳〵﹂
と是からお吸物に結構な膳椀で、古ふる赤あか絵えの向むこ付うづけに掻かき鯛だいのいりざけのようなものが出ました。続いて口くち取とり焼やき肴ざかなが出る。数々料理が並ぶ。引続いて出て来ましたのは深川の別べっ嬪ぴんでございます。
大﹁さ、これへ﹂
芸﹁今こん日にちは﹂
數﹁いや〳〵大勢呼んだの﹂
大﹁さ、これへ来てお酌を、大たい夫ふさ様まから﹂
芸﹁へえ、大夫様お酌をいたしましょう﹂
數﹁いや成程これは綺麗、あい〳〵、成程松蔭年を老とっても酌はたぼと云って幾いく歳つになっても婦人は見て悪くないもんだの、むゝう、中々どうも……何なんてえ名だなに、小玉か成程、どんずり奴やっこの男がいる、あれは何だ﹂
幇間﹁えゝ手前は鳥羽屋五蝶と申します幇たい間こで﹂
數﹁ほゝう、なに太鼓を叩くか﹂
五﹁いえ、只口で叩きます﹂
數﹁口で太鼓を…唇でかえ﹂
五﹁いえ、なに、太鼓持で、えへゝゝ﹂
數﹁うん成程、口くち軽がるなことをいう、幇ほう間かんか、成程聞いていた、中々面白い頭だの﹂
五﹁へゝゝ、どうも未まだどんずり奴やっこでございます﹂
數﹁太皷持の頭は、皆みな此こ様んなかえ﹂
五﹁皆みんなお揃いと云う訳ではございませんが、自然と毛が薄くなりましたので﹂
數﹁いや形が変って妙だ、幇たい間こもちは口軽だというが、何か面白いことを云いなさい﹂
五﹁これは恐入りましたな、御家老さま、改まってこれを云えと仰せあられますと困りますが……喜三郎こゝへ出なよ、金きん公こうや此こ処れへ出なよ﹂
喜﹁口軽なんぞ迚とてもお目通りは出来ないというのは何うだ﹂
五﹁何だえ、それは﹂
喜﹁足軽という洒しゃ落れだ﹂
五﹁縁が遠いの、口軽と足軽では﹂
數﹁私わしは酒が頓といかん、岩越一いっ盃ぱいやれ﹂
岩﹁私わたくしは斯ういう形のものは始めて見ました、余程違って居ります、云うことも中々面白いようで﹂
五﹁これから追おい々〳〵繰出します﹂
四十七
幇ほう間かんの五蝶が、
五﹁大夫様、此のお庭は好よいお庭でございますな﹂
數﹁なか〳〵好いの﹂
五﹁大きな緋ひご鯉いが居ります、更さら紗さや何か亀井戸もよろしく申すので﹂
數﹁何ういう訳で、誰が亀井戸でよろしくと申した﹂
五﹁いえなに、然そういう訳ではありません、これはどうも恐入りましたな﹂
數﹁私わしも一つ洒落ようかな﹂
五﹁これは恐入ります、皆みんな此こ処ゝへ来て伺いな、大夫様がお洒落遊ばすと、お上屋敷の御家老様が﹂
數﹁貴公は甘うまい物で洒落るから、私わしも一つ洒落よう﹂
五﹁改まって洒落ようというお声がかりは恐入ります﹂
數﹁私わしが国は美作で﹂
五﹁へえ成程﹂
數﹁私わしは城代家老じゃ﹂
五﹁へえ〳〵﹂
數﹁そこで洒落るのだ﹂
五﹁大層どうもお洒落の御ごげ玄んか関んから大おお広びろ間まは恐入りました、へえ、成程﹂
數﹁美みま作さか城じょ代うだ家いか老ろう私わし、というのは何うだ﹂
五﹁へえ、恐入りましたな、それは何ういう訳なんで﹂
數﹁分らんの、いまさか羊よう羹かん鹿かの子こ餅もち﹂
五﹁へゝえ、成程気が付きません、美作城代家老私、いまさか羊羹鹿の子餅、これは恐入りました……どうも恐入ったね﹂
喜﹁恐入りました、御家老様からお洒落がお菓子で出たから、可おか笑しな洒落と云うのをやろうかね、さアと云うと一ちょ寸いと出ないものでげすが﹂
みの吉﹁私がちょいと一つやるよ﹂
喜﹁や、これはみの吉さん感心﹂
みの﹁私が赤おこ飯わを喫たべたんだよ﹂
喜﹁可笑しな洒落だね﹂
みの﹁汁粉屋で赤飯を出したのだよ﹂
喜﹁此の節は汁粉屋で赤飯を売るよ﹂
みの﹁だから白しろ木き屋やお駒こまというのを汁しる粉こや屋お赤こ飯わさ﹂
喜﹁前さきに本ほん文もんを断ことわって後あとから云うのは可笑しい﹂
岩越﹁手前が一つ洒落ようかの﹂
五﹁岩越さま、あなた様のお洒落は﹂
岩﹁手前は考えたが余程むずかしいて、これはムヽウ…待ってくれ、えー阿あべ部かわ川も餅ちというのが有るの﹂
五﹁へえ〳〵ございます﹂
岩﹁一つ八文で﹂
五﹁阿部川、へい、一つは八文で﹂
岩﹁あべ川の八銭では本当の直ねだというのは何うだ﹂
五﹁へえー、変なお洒落で、それは何う云う訳なんで﹂
岩﹁姉あね川かわの合かっ戦せん、本ほん多だが出たというのだ﹂
五﹁それは余りお固いお洒落でげすな、私わたくしが洒落ましょう、斯ういうのは何うでございます、大黒様が巨こた燵つにってるのでございます、大黒暖あったかいと﹂
數﹁うん、成程是は分った、大福暖あったかいか﹂
五﹁御家老様の御意に入いりましたか﹂
數﹁私わしが最もう一つ洒落ようか、是は何うだの、松風は固い岩おこしは柔らかいと云うのは﹂
五﹁へえ、それは何ういう訳で﹂
數﹁松蔭は堅い男、岩越は柔やわ術らと家り﹂
五﹁へえ成程中々ちょっくら分りませんが誠に恐入りました事で、早くお三味線を﹂
とお座ざつ付きが済み、後あとは深川の端はう唄たで賑にぎやかにやる大分興に入いった様子、御家老も六十近ぢかいお年で、初めて斯ういう席に臨みましたので快く大分に召上りました。
數﹁お前のお蔭で私わしは斯こ様んな面白い事に逢ったのは初めてだ、実に堪たまらんな、又また其の中うち来たいものだ﹂
大﹁何うか御在府中御遠慮なくおいで下されば、清左衞門は如い何かばかりの悦びか知れません、芸者は孰どれがお気に入りました﹂
數﹁皆宜よいの、其の中うちにも彼あれが好よいの、小まんに雛吉か﹂
大﹁彼あれが御意に入りましたら、今度はお相手に前ぜん々〴〵から頼み置きまして、呼寄せるように致しましょう﹂
數﹁それは誠に辱かたじけない、大きに酔うたな、殿様は御病気での﹂
大﹁へえ〳〵私わたくしも大きに心配を致して居ります﹂
數﹁併しかし私わしが顔を御覧があってから、大きにお力が附いて大分に宜しいと、殊ことの外ほかお悦びでお食しょくも余程進むような事で﹂
大﹁大夫、何ぞお慰なぐさみを﹂
數﹁いや私わしは誠に武骨な男で、音おん曲ぎょくや何かはとんと分らん、能が好きじゃ﹂
大﹁はア、左様でございますか、それでは能役者を﹂
數﹁いや連れて来たよ、二人次の間に居おるが、せめて皷つゞみぐらいはなければなるまいと思って、婦人で皷を能よく打つ者があって、幸いだから、私わしが其の婦おん人なを連れてまいった﹂
大﹁それは少しも心得ませんでした、何い時つの間まにまいりましたか﹂
數﹁芸者どもは少し端はしへ寄って居れ﹂
と是から灯あかりを増し折から月が皎こう々〳〵と差さし上のぼりまして、前の泉水へ映じ、白しろ萩はぎは露を含んで月の光りできら〳〵いたして居おる中へ灯あかりを置きまして、此こち方らには芸者が並んで居りますから、何どち方らを見ても目移りが致しますような有様、今襖ふすまを開けて出て来ましたは仙せん台だい平ひらの袴はかまに黒の紋付でございます。其の頃だから半はん髪はつ青せい額てんでまだ若い十七八の男と、二十七八になる男と二人がすうと摺すり足あしをして出て来ました。脇を見ると隅の方に女が一人振ふり袖そでを着まして、調べを取ってポン〳〵という其の皷の音が裏皮へ抜けまして奥へ響き中々上手に打ちます。大藏は何うして何時の間に斯かよ様うな能役者を連れて来たかと思って見ますと、どうも見た様な能役者であるとは思いましたが、松蔭にも分りません。少し前へ膝を進めて熟よく々〳〵見ますと若い方は先年お暇いとまが出て、お屋敷を追放になりました渡邊織江の忰せがれの祖五郎、今一人は春部梅三郎、両人共にお屋敷を出て居おって、二人が何うして此こ処ゝへ能役者に成って来たことかと、皷つゞ打みうちを見ると祖五郎の姉のお竹ですから松蔭は驚きまして、是は何ういう訳かと濱名左傳次と互たがいに顔を見合せて居ります内に、舞もしまいました。
數﹁大きに御苦労〳〵、さア〳〵こゝへ来て、ずうっとこゝへ来な、構わずに此こ処ゝへ来て一いっ盃ぱい……それから松蔭もこゝへ来て……えゝ、これは貴公も知って居おる通り、渡邊織江の忰祖五郎で、彼あれは春部梅三郎じゃ、不調法があってお暇になり、浪人の活たつ計きに迫り、自分も好きな所から能役者となりたいと、何うやら斯うやら今では能役者でやって居おるそうだ、これは祖五郎の姉だ、器量も好よいがお屋敷へ帰るまでは何ど処こへも嫁かた付づくことは否いやだと、皷を打ったり、下した方かたが出来る処から出入町人の亭主に心安い者があって、其そ処こにいると云うが、今こん日にちは幸いな折柄で、どうか又贔屓にして斯ういう事が有ったら前まえ々〳〵屋敷にいた時の馴染もあるから呼んでやってくれ﹂
大﹁これは思掛けない事で、祖五郎殿にも春部氏にも暫しばらく……﹂
と松蔭も腹の中では驚きました。
大﹁えゝ、只今は何ど処こに﹂
數﹁いや、国へ尋ねて来た、それからま何うするにも仕方がないから、奈良辺あたりで稽古をして、此こち方らへ出て来たので、是からが本当の修業じゃ、さア〳〵一いっ盃ぱい〳〵﹂
梅﹁松蔭殿、面目次第もない、尾羽打枯した浪人の生たつ計き、致し方なく斯様な営なり業わいをいたして居り、誠に恥入りました訳で、松蔭殿にお目通りを致しますのも間の悪い事でございますが、構わんから参れと、御家老の仰せを受けて罷まか出りでました、貴方様には追おい々〳〵御出世、蔭ながら悦び居ります﹂
祖﹁祖五郎も蔭ながら、貴方様の御出世は父織江がお世話致した甲斐がござると蔭ながら悦び居ります、今こん日にちは思掛けなく御面会を致しました、此の後ご共御贔屓を願いとう……斯様な御酒宴のございます節には必ずお招きを願います﹂
竹﹁松蔭さま暫く、竹でございます﹂
大﹁これはお竹さま、これは実に妙でげすな﹂
數﹁いや実に妙だ、芸者は帰したら宜かろう、却かえって此こ処ゝにいると屋敷の話も出来んから、取急いで秋田屋芸者共を早く帰せ〳〵﹂
番頭﹁へえ〳〵﹂
と急に船に載せて帰しました、
數﹁さ、こゝへ来て昔の話をしよう、この祖五郎の父織江は福原別懇であった、忠義無二な男であったが、武運拙つたなくして谷中瑞麟寺の藪蔭で何者とも知れず殺せつ害がいされ、不ふつ束ゝかの至りによって永ながのお暇いとまを仰付けられ、討ったる敵かたきが知れんというが、さぞ残念であろう﹂
祖﹁はっ、誠に残念至極で﹂
と眼に涙を浮うかめてお竹と祖五郎が松蔭の顔をじろりと横目で睨ねめ上げるから、松蔭は気味悪くなり、下を向いている。
數﹁春部梅三郎は腰元の若江と密通して逃げたという事だったの﹂
梅﹁はい、誠に恥入った事でございます﹂
數﹁うん、それが露顕した訳でもなし、是まで勤め向むきも堅く、ほんの若わか気げの至りで、女を連れて逐電いたしたのじゃが、未いまだお暇の出たわけではなし、只家出をした廉かどだから、お詫をして帰参の叶かなう時節もあろう、若江という小姓も少ちいさい時分から奉公をしていた者で、先年体てい好よくお暇になったとの事、是も出入りは出来ようかと思う、所でお前たちに私わしが問うがな、大殿様は今年はもう五十五にお成りなさる、昨今の処では御病気も大きに宜よいようじゃが、どうもお身みじ上ょうが悪いので、今度の御病気は數馬決して安心せん、もしお逝かく去れにでもなった時には御家督相続は誰が宜かろう、春部だの祖五郎はお暇になってゝも、代々の君恩の辱かたじけない事は忘却致すまい、君恩を有難いと考えるならば、御家督は何う致すが宜しいか少しは考えも有ろう﹂
祖﹁手前の考えでは若様は未まだお四よっ才つかお五いつ才ゝで御ごが頑ん是ぜもなく、何弁わきまえない処のお子様でございますから、万まん々〳〵一いち大殿様がお逝か去くれに相成った時には、お下屋敷にならせられる紋之丞様より他に御家督御相続のお方は有るまいかと存じます﹂
數﹁それは些ちと違うだろう、菊様はお血ちす統じだ、仮たと令えお四よっ才つでも菊様が御家督にならなければなるまい、御舎弟を直すのは些と道理に違って居おるように心得る﹂
梅﹁いや、それは違って居りましょう﹂
數﹁違っては居らん﹂
梅﹁併しかしお四よっ才つになる者を御家督になされば、矢やっ張ぱり御後見が附かなければなりません、それよりは矢やっ張ぱりお下屋敷の御舎弟紋之丞様が御家督御相続になって、菊様追々御成人の後のち、御ごじ順ゅん家かと督くに相成るが御ごと当うぜ然んのことゝ存じます﹂
數﹁いや〳〵然そうでない、お血ちす統じは別だ、誰しも我子は可愛もので、御ごじ実っ子しを以もって御家督相続と云えば殿様にもお快くお臨終が出来る、御兄弟の御情合も深い、深いなれども御舎弟様が御家督と云えばお快くないから御ごり臨んじ終ゅうが悪かろうと思う、どうもお四よっ才つでもお血統はお血統、若様を御家督にするが当然かと心得るな﹂
祖﹁是は御家老様にお似合いなさらんお言葉で、紋之丞様が御家督相続に相成れば、万事御都合が宜しい事で、お舎弟様は文武の道に秀ひいで、お智慧も有り、先まず大殿様が御秘蔵の御おん方かた度たび々〳〵お賞ほめのお言葉も有りました事は、父から聞いて居ります﹂
數﹁それはお前たちの知らん事、何でも菊様に限る﹂
大﹁えゝ、松蔭横合より差出ました横槍を入れます、これは春部氏祖五郎殿の申さるゝが至極尤もっともかと存じます、菊様は未いまだお四よっ才つで、何のお弁わきまえもない頑がん是ぜない方をお世よと嗣りに遊ばしますのも、些ちと不都合かのように存じます、菊様御成人の後は兎も角こゝ十四五年の間は梅の御おし印るし様さまが御家督になるのが手前に於おいては当然かと、憚はゞかりながら存じます﹂
數﹁然そうじゃアあるまい﹂
大﹁いや〳〵それは誰が何と申しても左様かと心得ます﹂
福原數馬は俄にわかに面めん色しょくを変え、容かたちを正して声を張上げ。
數﹁黙れ……白々しい事を申すな、松蔭手前はそれ程御舎弟紋之丞様を大切に心得て居おるならば、何な故ぜ飴屋の源兵衞を頼んだ﹂
大﹁はっ﹂
數﹁神原五郎治、四郎治と同意致して、殿を蔑ないがしろにする事を私わしが知らんと思うて居おるか、白たわ痴けめ、左様に人ひと前まえを作り忠義立を申してもな、其の方は大恩人の渡邊織江を谷中瑞麟寺脇の細道において、手槍をもって突殺した事を存じて居おるぞ、其の咎とがを梅三郎に負わそうと存じて、証拠の物を取置き、其の上ならず御舎弟様を害そうと致した事も存じて居おる、百八十余里隔へだった国にいても此の福原數馬は能よく心得て居おるぞ、人にん非ぴに人んめ﹂
と云い放たれ、恟びっくり致したが、そこは悪党でございますから、じりゝと前へ膝を進めて顔がん色しょくを変え。
大﹁御家老さま怪けしからん事を仰せられます、思い掛けない事を仰せられまする……手前が何で渡邊織江を殺せつ害がいし、殊ことに御舎弟紋之丞さまを失おうとしたなどと誰が左様な事を申しました、手前に於おいては毛頭覚えはございません、何を証拠に左様なことを仰しゃいますか、承わりとうござる﹂
數﹁これ、まだ其そ様んなことを云うか、手前は五ごぶ分だ試めしにもせにアならん奴だ、うゝん……よく考えて見よ、先まず奥方さま御死去になってから、お秋の方の気きま儘ゝ気きず随い神原兄弟や手前達を引入れ、殿様を蔑ないがしろにいたす事も皆みな存じて居おる。殊に其の方を世話いたした渡邊を殺せつ害がい致したり、もと何ど処この者か訳も分らん者を渡邊が格別取とり做なしを申したから、お抱えになったのじゃ、上かみへ諂へつらい媚こびを献じて、とうとう寺島主水を説伏せ、江戸家老を欺き遂おわせて、菊様を世に出そうが為、御舎弟様を亡なき者にしようと云う事は、疾とうに忠心の者が一々国表へ知らせたゆえに、老体なれども此の度たび態わざ々〳〵出て参ったのだ、其の方のような悪人は年を老とっても人ひと指さしゆびと拇おや指ゆびで捻ひねり殺すぐらいの事は心得て居おる、さアそれとも言訳があるか、忠義に凝こった若者らは不忠不義の大罪人八やつ裂ざきにしても飽あき足たらんと憤いきどおったのを、私わしが止めた、いやそれは宜しくない、一人を殺すは何でもない、况まして事を荒立る時には殿様のお眼めが識ねち違がいになりお恥は辱じである、また死去致した渡邊織江の越おち度どにも相成る事、万一此の事が将軍家の上じょ聞うぶんに達すれば、此の上もない御当家のお恥は辱じになるゆえ、事穏おん便びんが宜しいと理解をいたした、こりゃ最早何どの様ように陳じても遁のがれる道はないから、神原兄弟は国表へ禁おし錮こめ申し付け、家老役御免、跡役は秋月喜一郎に仰付けられるよう相あい定さだまって居おる、手前は不忠な事を致し、面目次第もない、不忠不義の大罪人御奉公も相成り兼かねるによって永ながの暇いとま下されたしという書面を書け、これ祖五郎此の松蔭に父を討たれ、無念の至りであろう、手前はお暇を蒙こうむって居おる身の上、仮たと令え悪人でも殿様のお側近くへまいる役柄を勤める大藏を、敵かたきと云って無闇に討つことは出来んから、暇を取ったら、直すぐに討て……梅三郎貴様は大藏のため既に罪に陥おとされし廉かどもあり、祖五郎は未いまだ年若じゃによって助太刀を致してやれ、これに岩越という柔やわ術らと取りの名人が居おるから心配は無い、貴様力を添えてやれ、さ松蔭書付を書いて私わしへ出せばそれで手前はお暇になったのだ…秋田屋の亭主気の毒だが此の庭で敵かた討きうちを致させるから少し貸せ﹂
清﹁へえ﹂
と驚きました。
清﹁泉水がございますが﹂
數﹁いや、びちゃ〳〵落おっこっても宜しい、急に一いち時じに片を附けなければならんのだ、さ書け書かんかえ﹂
大﹁はっ……併しかし何どの様ようの証拠がござって、手前は神原兄弟と心を合せて御家老職を欺あざむき、剰あまつさえ御舎弟様を手前が毒害いたそうなどと、毛頭身に覚えない事で、殊に渡邊織江を殺せつ害がいいたしたなどと﹂
梅﹁黙れ此の梅三郎が宜く心得て居おるぞ、手前は神原と心を合せて織江殿を殺せつ害がい致した其の時に、此の梅三郎は其の場に居合せ、下男を取押えて密書を奪い現に所持いたして居おる、最早遁のがれる道はないぞ﹂
祖五郎は血ちま眼なこになって前へ進み、
祖﹁やい大藏、人非人恩知らず、狗いぬ畜ちく生しょう、やい手前はな父を討ったに相違ない、手前は召めし使つかいの菊を殺し、又家来林藏も斬きり殺ころし、其の上ならず不義密通だと云って宿やどへ死骸を下げたが、其の前まえ々〳〵菊が悪事の段々を細かに書いて、小袖の襟へ縫附けて親元へ贈った菊の書付けを所持して居おる、最早遁のがれる道はないぞ、手前も武士じゃないか、尋常に立上って勝負いたせ﹂
大﹁はっ……不忠不義の大罪重々心に恥じ、恐入りましてござる﹂
數﹁さ、書け、もう迚とてもいかんから書け、松蔭手前も諦めの悪い男だ、最早遁にぐるも引くも出来やせん、書け﹂
大﹁はっ﹂
數﹁まだ恐れ入らんか﹂
大﹁はっ﹂
數﹁も一つ云おうか、白山前の飴屋小金屋源兵衞を欺だまし宗庵という医者を抱込んで、水飴の中へ斑猫を煮込み、紋之丞様へ差上げようと致したな、それは疾とうに水飴屋の亭主が残らず白状致してある、遁のがれる道はない﹂
大﹁あゝ残念…是まで十分仕しお遂わせたる事が破れたか、あゝ﹂
と震ふるえて袴はかまの間へ手を入れ、松蔭大藏は歯はが噛みをなして居りましたが、最早詮せん方かたがないと諦め、平伏して、
大﹁恐れ入ってござる﹂
數﹁おゝ、恐れ入ればそれで宜しい、お秋の方も剃てい髪はつさせ、国へ押込める積つもりだ、さ書け〳〵﹂
大﹁只今書きまする﹂
と云いながら後あとへ退さがるから、岩越という柔やわ術らと家りが万も一し逃げにかゝったら引倒して息の根を止めようと思って控えて居ります。後へ退って大藏が硯すゞりを引寄せて震ふるえながら認したゝめて差出す。
數﹁爪印を押せ、其そ処こへ﹂
大﹁はっ﹂
と爪印を捺おして福原數馬の前へ差出し、
大﹁重々心得違い、是これにて宜しゅうございますか、御ごひ披け見ん下さい﹂
數﹁其の方の手しゅ跡せきだから宜しい、さ是から庭へ出て敵かた討きうちだ〳〵﹂
と云うと大藏は耐こらえかねて小しょ刀うとうを引抜くが早いか脇腹へ突つき込こんで引廻しました。
祖﹁汝おのれ切腹致したな﹂
と祖五郎が飛掛って二打三打斬付け、遂ついに仇あだを討うち遂おおせて、直すぐにお屋敷へお届けに相成り、とうとう悪人は残らず国表へ押込められて、お上屋敷の御家来十七人切腹致し、渡邊祖五郎、春部梅三郎はお召めし帰かえしに相成り、渡邊祖五郎は二代目織江と成り、菊様の後見と相成って、お下屋敷にまいりました。また秋月は跡あと家かろ老うし職ょくを仰付けられ、こゝに於おいて福原數馬は安心して国へ帰る。殿様は御病気全快し、其の後ご大殿お逝なく去なりになって、紋之丞さまが乗出し、美作守に任ぜられ。又お竹を何くれ親切に世話をした雲水の宗達は、美作の国までお竹を送り届け、それより廻国を致し、遂に京都で大だい寺じの住職となり、鴻の巣の若江は旅はた籠ご屋やを親族に相続させ、更あらためて渡邊祖五郎が媒なこ妁う人どで、梅三郎と夫婦になり、お竹も重役へ嫁入りました。大だい力りきの遠山權六は忠義無二との取とり沙ざ汰たにて百石の御加増に相成りましたという。お芽出たいお話でございますが、長物語で嘸さぞ御退屈。
︵拠酒井昇造筆記︶