一
寛かん宝ぽう三年の四月十一日、まだ東京を江戸と申しました頃、湯ゆし島まて天んじ神んの社やしろにて聖しょ徳うと太くた子いしの御ごさ祭いれ礼いを致しまして、その時大層参さん詣けいの人が出て群ぐん集じゅ雑ざっ沓とうを極きわめました。こゝに本郷三丁目に藤ふじ村むら屋やし新ん兵べ衞えという刀かた屋なやがございまして、その店先には良い代しろ物ものが列ならべてある所を、通りかゝりました一人のお侍は、年の頃二十一二とも覚おぼしく、色あくまでも白く、眉毛秀ひいで、目元きりゝっとして少し癇かん癪しゃ持くもちと見え、鬢びんの毛をぐうっと吊り上げて結わせ、立派なお羽織に結構なお袴はかまを着け、雪せっ駄たを穿はいて前に立ち、背うし後ろに浅あさ葱ぎの法はっ被ぴに梵ぼん天てん帯おびを締め、真しん鍮ちゅ巻うまきの木刀を差したる中ちゅ間うげんが附添い、此の藤ふじ新しんの店先へ立寄って腰を掛け、列ならべてある刀を眺めて。
侍﹁亭主や、其そ処この黒糸だか紺糸だか知れんが、あの黒い色の刀つ柄かに南なん蛮ばん鉄てつの鍔つばが附いた刀は誠に善よさそうな品だな、ちょっとお見せ﹂
亭﹁へい〳〵、こりゃお茶を差上げな、今日は天神の御祭礼で大層に人が出ましたから、定めし往来は埃ほこりで嘸さぞお困りあそばしましたろう﹂
と刀の塵ちりを払いつゝ、
亭﹁これは少々装こし飾らえが破やれて居りまする﹂
侍﹁成程少し破やれて居おるな﹂
亭﹁へい中なか身ごは随分お用もちいになりまする、へいお差さし料りょうになされてもお間まに合いまする、お中身もお性しょうも慥たしかにお堅い品でございまして﹂
と云いながら、
亭﹁へい御覧遊ばしませ﹂
と差さし出だすを、侍は手に取って見ましたが、旧ま時えにはよくお侍様が刀を買めす時は、刀屋の店先で引ひき抜ぬいて見て入らっしゃいましたが、あれは危あぶないことで、若もしお侍が気でも違いまして抜ぬき身みを振ふりされたら、本当に危けん険のんではありませんか。今此のお侍も本当に刀を鑒みるお方ですから、先まず中なか身ごの反そり工ぐあ合いから焼お曇ちの有り無しより、差さし表おもて差さし裏うら、鋩ぼう尖しさき何や彼かや吟味致しまするは、流さす石がにお旗はた下もとの殿様の事ゆえ、通なみ常〳〵の者とは違います。
侍﹁とんだ良さそうな物、拙せっ者しゃの鑑かん定ていする処ところでは備びぜ前んも物ののように思われるが何どうじゃな﹂
亭﹁へい良いお鑑めき定ゝで入いらっしゃいまするな、恐入りました、仰おおせの通り私わた共くしども仲間の者も天てん正しょ助うす定けさだであろうとの評判でございますが、惜おしい事には何分無むめ銘いにて残念でございます﹂
侍﹁御亭主やこれはどの位するな﹂
亭﹁へい、有難う存じます、お掛かけ値ねは申上げませんが、只今も申します通り銘さえございますれば多分の価ねう値ちもございますが、無銘の所で金きん拾枚でございます﹂
侍﹁なに拾両とか、些ちっと高いようだな、七枚半には負まからんかえ﹂
亭﹁どう致しまして何分それでは損が参りましてへい、なか〳〵もちましてへい﹂
と頻しきりに侍と亭主と刀の値段の掛かけ引ひきをいたして居りますと、背うし後ろの方かたで通り掛かゝりの酔よっ漢ぱらいが、此の侍の中ちゅ間うげんを捕とらえて、
﹁やい何をしやアがる﹂
と云いながらひょろ〳〵と踉よろけてハタと臀しり餅もちを搗つき、漸ようやく起き上あがって額ひたいで睨にらみ、いきなり拳げん骨こつを振ふるい丁ちょ々う〳〵と打たれて、中間は酒の科とがと堪かん忍にんして逆らわず、大地に手を突き首こうべを下げて、頻しきりに詫わびても、酔よっ漢ぱらいは耳にも懸けず猛たけり狂って、尚なおも中間をなぐり居おるを、侍はト見れば家来の藤助だから驚きまして、酔漢に対むかい会えし釈ゃくをなし、
侍﹁何を家来めが無ぶち調ょう法ほうを致しましたか存じませんが、当人に成り代かわり私わたくしがお詫わび申上げます、何なに卒とぞ御勘弁を﹂
酔﹁なに此こい奴つは其の方の家来だと、怪けしからん無礼な奴、武士の供をするなら主人の側に小さくなって居おるが当然、然しかるに何なんだ天てん水すい桶おけから三尺も往来へ出しゃばり、通行の妨さまたげをして拙者を衝つき当あたらせたから、止やむを得ず打ちょ擲うちゃくいたした﹂
侍﹁何も弁わきまえぬものでございますれば偏ひとえに御勘弁を、手前成り代ってお詫を申上げます﹂
酔﹁今この所で手前がよろけた処とこをトーンと衝つき当ったから、犬でもあるかと思えば此の下げろ郎うめが居て、地べたへ膝を突かせ、見なさる通りこれ此の様に衣類を泥だらけにいたした、無礼な奴だから打ちょ擲うちゃく致したが如いか何ゞ致した、拙せっ者しゃの存分に致すから此こ処ゝへお出しなさい﹂
侍﹁此の通り何も訳の解わからん者、犬同様のものでございますから、何なに卒とぞ御勘弁下されませ﹂
酔﹁こりゃ面白い、初めて承うけたまわった、侍が犬の供を召めし連つれて歩くという法はあるまい、犬同様のものなら手前申もう受しうけて帰り、番ま木ち鼈んでも喰わして遣やろう、何なに程ほど詫びても料簡は成りません、これ家来の無調法を主人が詫わぶるならば、大だい地じへ両手を突き、重じゅ々う〴〵恐れ入ったと首こうべを地つちに叩き着けて詫わびをするこそ然しかるべきに、何なんだ片手に刀の鯉こい口ぐちを切っていながら詫をする抔などとは侍の法にあるまい、何だ手前は拙者を斬る気か﹂
侍﹁いや是は手前が此の刀屋で買取ろうと存じまして只今中なか身ごを鑒みて居ました処ところへ此の騒ぎに取とり敢あえず罷まか出りでましたので﹂
酔﹁エーイそれは買うとも買わんとも貴あな方たの御ごか勝っ手てじゃ﹂
と罵のゝしるを侍は頻しきりにその酔すい狂きょうを宥なだめて居いると、往来の人々は
﹁そりゃ喧嘩だ危あぶないぞ﹂
﹁なに喧嘩だとえ﹂
﹁おゝサ対あい手ては侍だ、それは危けん険のんだな﹂
と云うを又一人が
﹁なんでげすねえ﹂
﹁左様さ、刀を買うとか買わないとかの間違だそうです、彼あの酔よっぱらっている侍が初め刀に価ねを附けたが、高くて買われないで居いる処ところへ、此こち方らの若い侍が又その刀に価を附けた処から酔よっ漢ぱらいは怒おこり出し、己おれの買おうとしたものを己に無ぶ沙さ汰たで価を附けたとか何とかの間違いらしい﹂
と云えば又一人が、
﹁なにサ左そ様うじゃアありませんよ、あれは犬の間違いだアね、己の家うちの犬に番ま木ち鼈んを喰わせたから、その代りの犬を渡せ、また番木鼈を喰わせて殺そうとかいうのですが、犬の間違いは昔からよくありますよ、白しら井いご權んぱ八ちなども矢やっ張ぱり犬の喧嘩からあんな騒動に成ったのですからねえ﹂
と云えば又傍そばに居る人が
﹁ナニサそんな訳じゃアない、あの二人は叔お父じ甥おいの間柄で、あの真まっ赤かに酔よっ払ぱらって居るのは叔父さんで、若い綺麗な人が甥だそうだ、甥が叔父に小こづ遣かい銭せんを呉れないと云う処からの喧嘩だ﹂
と云えば、又側にいる人は
﹁ナーニあれは巾きん着ちゃ切くきりだ﹂
などと往来の人々は口に任せて種いろ々〳〵の評判を致している中うちに、一人の男が申しますは
﹁あの酔よっ漢ぱらいは丸まる山やま本ほん妙みょ寺うじ中屋敷に住む人で、元は小こい出で様の御家来であったが、身みも持ちが悪く、酒しゅ色しょくに耽ふけり、折おり々〳〵は抜すっ刀ぱぬきなどして人を威おどかし乱暴を働いて市しち中ゅうを横おう行ぎょうし、或ある時ときは料理屋へ上あがり込み、十分酒さけ肴さかなに腹を肥ふとらし勘定は本妙寺中屋敷へ取りに来いと、横おう柄へいに喰くい倒たおし飲のみ倒たおして歩く黒くろ川かわ孝こう藏ぞうという悪わる侍ざむらいですから、年の若い方の人は見込まれて結つま局り酒でも買わせられるのでしょうよ﹂
﹁左そ様うですか、並なみ大たい抵ていのものなら斬ってしまいますが、あの若い方はどうも病身のようだから斬れまいねえ﹂
﹁ナニあれは剣術を知らないのだろう、侍が剣術を知らなければ腰抜けだ﹂
などとさゝやく言葉がちら〳〵若い侍の耳に入るから、グッと込み上げ、癇かん癖ぺきに障さわり、満まん面めん朱しゅを注いだる如くになり、額に青筋を顕あらわし、きっと詰め寄り、
侍﹁是程までにお詫びを申しても御勘弁なさりませぬか﹂
酔﹁くどい、見れば立派なお侍、御ごじ直きさ参んか何いずれの御ごは藩んち中ゅうかは知らないが尾お羽は打うち枯からした浪人と侮あなどり失礼至極、愈いよ々〳〵勘弁がならなければどうする﹂
と云いさま、ガアッと痰たんを彼かの若侍の顔に唾はき付けました故、流さす石がに勘弁強い若侍も、今は早はや怒ど気き一度に面かおに顕あらわれ、
侍﹁汝おのれ下した手でに出れば附つけ上あがり、ます〳〵募つのる罵ばり詈ぼう暴こ行う、武士たるものゝ面めん上じょうに痰を唾き付けるとは不ふと届ゞきな奴、勘弁が出来なければ斯こうする﹂
といいながら今刀屋で見ていた備前物の刀つ柄かに手が掛るが早いか、スラリと引ひき抜ぬき、酔よっ漢ぱらいの鼻の先へぴかりと出したから、見物は驚き慌あわて、弱そうな男だからまだ引ひっ抜こぬきはしまいと思ったに、ぴか〳〵といったから、ほら抜いたと木この葉の風に遇あったように四方八方にばら〳〵と散乱し、町々の木戸を閉じ、路地を締め切り、商あき人んどは皆戸を締める騒ぎにて町まち中なかはひっそりとなりましたが、藤新の亭主一人は逃にげ場ばを失い、つくねんとして店みせ頭さきに坐って居りました。さて黒川孝藏は酔よっ払ぱらっては居りますれども、生なま酔えい本ほん性しょう違たがわずにて、彼かの若侍の剣けん幕まくに恐れをなし、よろめきながら二十歩ばかり逃げ出すを、侍はおのれ卑ひき怯ょうなり、口程でもない奴、武士が相手に背うし後ろを見せるとは天下の耻辱になる奴、還かえせ〳〵と、雪せっ駄たば穿きにて跡を追い掛ければ、孝藏は最早かなわじと思いまして、踉よろめく足を踏みしめて、一刀とうのやれ柄づかに手を掛けて此こな方たを振り向く処を、若侍は得たりと踏込みざま、えイと一ひと声こえ肩先を深くプッツリと切込む、斬られて孝藏はアッと叫び片膝を突く処をのしかゝり、エイと左の肩より胸元へ切きり付つけましたから、斜はすに三つに切られて何だか亀かめ井い戸どの葛くず餅もちのように成ってしまいました。若侍は直すぐと立派に止とゞめを刺して、血ちが刀たなを振ふるいながら藤新の店みせ頭さきへ立たち帰かえりましたが、本もとより斬きり殺ころす料簡でございましたから、些ちっとも動ずる気色もなく、我が下郎に向い、
侍﹁これ藤助、その天てん水すい桶おけの水を此の刀にかけろ﹂
と言いつければ、最さい前ぜんより慄ふるえて居りました藤助は、
藤﹁へいとんでもない事になりました、若もし此の事から大殿様のお名前でも出ますようの事がございましては相済みません、元は皆みんな私わたくしから始まった事、どう致して宜よろしゅうございましょう﹂
と半分は死人の顔。
侍﹁いや左さよ様うに心配するには及ばぬ、市中を騒がす乱暴人、切きり捨すてゝも苦しくない奴だ、心配するな﹂
と下郎を慰めながら泰然として、呆あっ気けに取られたる藤新の亭主を呼び、
侍﹁こりゃ御亭主や、此の刀はこれ程切れようとも思いませんだったが、なか〳〵斬れますな、余程能よく斬れる﹂
といえば亭主は慄ふるえながら、
亭﹁いや貴あな方たさ様まのお手が冴さえているからでございます﹂
侍﹁いや〳〵全く刃物がよい、どうじゃな、七両二分に負けても宜よかろうな﹂
と云えば藤新は係かゝ合りあいを恐れ、
﹁宜しゅうございます﹂
侍﹁いやお前の店には決して迷惑は掛けません、兎に角此の事を直すぐに自身番に届けなければならん、名なふ刺だを書くから一ちょ寸っと硯すゞ箱りばこを貸して呉れろ﹂
と云われても、亭主は己おのれの傍そばに硯箱のあるのも眼に入いらず、慄ふるえ声ごえにて、
﹁小僧や硯箱を持って来い﹂
と呼べど、家かな内いの者は先さきの騒ぎに何いずれへか逃げてしまい、一人も居りませんから、寂ひっ然そりとして返事がなければ、
侍﹁御亭主、お前は流さす石がに御ごと渡せい世が柄らだけあって此の店を一ちょ寸っとも動かず、自じじ若ゃくとしてござるは感心な者だな﹂
亭﹁いえナニお誉ほめで恐入ります、先程から早はや腰ごしが抜けて立てないので﹂
侍﹁硯箱はお前の側わきにあるじゃアないか﹂
と云われてよう〳〵心付き、硯箱を彼かの侍の前に差出すと、侍は硯箱の蓋ふたを推おし開ひらきて筆を取り、すら〳〵と名前を飯いい島じま平へい太たろ郎うと書きおわり、自身番に届け置き、牛込のお邸やしきへお帰りに成りまして、此の始末を、御ごし親ん父ぷ飯島平へい左ざえ衞も門ん様にお話を申もう上しあげましたれば、平左衞門様は宜よく斬ったと仰おおせありて、それから直すぐにお頭かしらたる小こば林やし權ごん太だゆ夫う殿へお届けに及びましたが、させるお咎とがめもなく切り徳どく切られ損ぞんとなりました。
二
さて飯島平太郎様は、お年二十二の時に悪わる者ものを斬きり殺ころして毫ちっとも動ぜぬ剛気の胆たん力りょくでございましたれば、お年を取るに随したがい、益ます々〳〵智ち慧えが進みましたが、その後のち御ごし親ん父ぷ様には亡くなられ、平太郎様には御ごか家と督くを御相続あそばし、御親父様の御ごみ名ょう跡せきをお嗣つぎ遊ばし、平左衞門と改名され、水すい道どう端ばたの三みや宅け様と申上げまするお旗はた下もとから奥様をお迎えになりまして、程なく御ごし出ゅっ生しょうのお女にょ子しをお露つゆ様と申し上げ、頗すこぶる御ごき器りょ量うよ美しなれば、御両親は掌たな中ぞこの璧たまと愛めで慈いつくしみ、後あとにお子供が出来ませず、一粒種の事なれば猶なおさらに撫ひそ育うされる中うち、隙ひまゆく月つき日ひに関せき守もりなく、今年は早はや嬢様は十六の春を迎えられ、お家いえもいよ〳〵御ごは繁んじ昌ょうでございましたが、盈みつれば虧かくる世のならい、奥様には不ふ図とした事が元となり、遂ついに帰らぬ旅路に赴おもむかれましたところ、此の奥様のお附つきの人に、お國くにと申す女中がございまして、器量人並に勝すぐれ、殊ことに起たち居いと周りま旋わしに如じょ才さいなければ、殿様にも独ひと寝りねの閨ねや淋しいところから早いつ晩か此のお國にお手がつき、お國は到とう頭とうお妾めかけとなり済しましたが、奥様のない家うちのお妾なればお羽はぶ振りもずんと宜よろしい。然しかるにお嬢様は此のお國を憎く思い、互たがいにすれ〳〵になり、國々と呼び附けますると、お國は又お嬢様に呼よび捨すてにされるを厭いやに思い、お嬢様の事を悪あしざまに殿様に彼かれ是これと告つげ口くちをするので、嬢様と國との間何なんとなく落おち着つかず、されば飯島様もこれを面倒な事に思いまして、柳やな島ぎし辺まへんに或ある寮を買い、嬢様にお米よねと申す女中を附けて、此の寮に別居させて置きましたが、そも飯島様のあやまりにて、是よりお家いえのわるくなる初めでございました。さて其の年も暮れ、明あくれば嬢様は十七歳にお成りあそばしました。こゝに予かねて飯島様へお出でい入りのお医者に山やま本もと志しじ丈ょうと申す者がございます。此の人一体は古こほ方う家かではありますけれど、実はお幇たい間こい医し者ゃのお喋しゃべりで、諸人助けのために匙さじを手に取らないという人物でございますれば、大概のお医者なれば、一ちょ寸っと紙かみ入いれの中にもお丸がん薬やくか散こぐ薬すりでも這は入いっていますが、此の志丈の紙入の中には手品の種や百ひゃ眼くまなこなどが入れてある位なものでございます。さて此の医者の知ちか己づきで、根ね津づの清しみ水ずだ谷にに田でん畑ぱたや貸長屋を持ち、その上あがりで生くら計しを立てゝいる浪人の、萩はぎ原わら新しん三ざぶ郎ろうと申します者が有りまして、生うまれつき美びな男んで、年は二十一歳なれどもまだ妻をも娶めとらず、独身で暮す鰥やもおに似ず、極ごく内気でございますから、外そと出でも致さず閉とじ籠こもり、鬱うつ々〳〵と書しょ見けんのみして居ります処ところへ、或ある日ひ志丈が尋ねて参り、
志﹁今日は天気も宜よろしければ亀井戸の臥がり竜ょう梅ばいへ出掛け、その帰るさに僕の知ちか己づき飯島平左衞門の別荘へ立寄りましょう、いえサ君は一体内気で入らっしゃるから婦女子にお心掛けなさいませんが、男子に取っては婦女子位楽たのしみなものはないので、今申した飯島の別荘には婦人ばかりで、それは〳〵余程別べっ嬪ぴんな嬢様に親切な忠義の女中と只たゞ二人ぎりですから、冗談でも申して来ましょう、本当に嬢様の別嬪を見るだけでも結構なくらいで、梅もよろしいが動きもしない口もきゝません、されども婦人は口もきくしサ動きもします、僕などは助すけ平べいの性たちだから余程女の方が宜しい、マア兎も角も来たまえ﹂
と誘い出しまして、二人打うち連つれ臥竜梅へまいり、その帰り路みちに飯島の別荘へ立寄り、
志﹁御免下さい、誠にしばらく﹂
という声聞き附け、
米﹁何どな方たさま、おや、よく入いらっしゃいました﹂
志﹁是はお米よねさん、其の後のちは遂ついにない存外の御ご無ぶ沙さ汰たをいたしました、嬢様にはお変りもなく、それは〳〵頂上々々、牛込から此こ処ゝへお引ひき移うつりになりましてからは、何分にも遠方ゆえ、存じながら御無沙汰に成りまして誠に相済みません﹂
米﹁まア貴あな方たが久しくお見えなさいませんから何どうなすったかと思って、毎度お噂を申して居りました、今日は何どち方らへ﹂
志﹁今日は臥竜梅へ梅見に出かけましたが、梅見れば方ほう図ずがないという譬たとえの通り、未まだ慊あきたらず、御ごて庭いち中ゅうの梅ばい花かを拝見いたしたく参りました﹂
米﹁それは宜よく入らっしゃいました、まア何どう卒ぞ此こち方らへお入はいりあそばせ﹂
と庭の切きり戸どを開ひらきくれゝば、
﹁然しからば御免﹂
と庭口へ通ると、お米は如じょ才さいなく、
米﹁まア一服召上りませ、今日は能よく入らっしゃって下さいました、平ふだ常んは私わたくしと嬢様ばかりですから、淋さむしくって困って居いるところ、誠に有難うございます﹂
志﹁結構なお住いでげすな……さて萩原氏、今日君のお名めい吟ぎんは恐れ入りましたな、何なんとか申したな、えゝと﹁煙草には燧すり火びのむまし梅の中なか﹂とは感服々々、僕などのような横おう着ちゃ者くものは出る句も矢張り横着で﹁梅ほめて紛まぎらかしけり門かど違ちがい﹂かね、君のような書しょ見けんばかりして鬱うつ々〳〵としてはいけませんよ、先さっ刻きの残ざん酒しゅが此こ処ゝにあるから一杯あがれよ…何なんですね、厭いやです…それでは独ひとりで頂戴いたします﹂
と瓢ひょ箪うたんを取り出す所へお米出いで来きたり、
米﹁どうも誠にしばらく﹂
志﹁今日は嬢様に拝はい顔がんを得たく参りました、此こ処ゝに居いるは僕が極ごくの親友です、今日はお土みや産げも何なんにも持参致しません、エヘヽ有難うございます、是は恐れ入ります、お菓子を、羊よう羹かん結構、萩原君召し上れよ﹂
とお米が茶へ湯をさしに行ったあとを見送り、
﹁こゝの家うちは女二人ぎりで、菓子などは方々から貰っても、喰い切れずに積上げて置くものだから、皆黴かびを生はやかして捨てるくらいのものですから、喰ってやるのが却かえって親切ですから召上れよ、実に此の家うちのお嬢様は天下に無い美人です、今に出て入いらっしゃるから御覧なさい﹂
とお喋しゃべりをしている処ところへ向うの四畳半の小座敷から、飯島のお嬢さまお露が人珍らしいから、障子の隙すき間まより此こち方らを覗のぞいて見ると、志丈の傍そばに坐っているのは例の美びな男ん萩原新三郎にて、男ぶりといい人ひと品がらといい、花の顔かんばせ月の眉、女おな子ごにして見まほしき優やさ男おとこだから、ゾッと身に染しみ何どうした風の吹ふき廻まわしであんな綺麗な殿との御ごが此こ処ゝへ来たのかと思うと、カッと逆の上ぼせて耳みゝ朶たぼが火の如くカッと真まっ紅かになり、何なんとなく間が悪くなりましたから、はたと障子をしめきり、裡うちへ入ったが、障子の内では男の顔が見られないから、又そっと障子を明けて庭の梅の花を眺める態ふりをしながら、ちょい〳〵と萩原の顔を見て又恥かしくなり、障子の内へ這は入いるかと思えば又出て来る、出たり引ひっ込こんだり引込んだり出たり、もじ〳〵しているのを志丈は見つけ、
志﹁萩原君、君を嬢様が先さっ刻きから熟しけ々〴〵と見ておりますよ、梅の花を見る態ふりをしていても、眼の球たまは全まるで此こち方らを見ているよ、今日は頓とんと君に蹴られたね﹂
と言いながらお嬢様の方を見て
﹁アレ又引ひっ込こんだ、アラ又出た、引込んだり出たり出たり引込んだり、恰まるで鵜うの水みず呑のみ〳〵﹂
と噪さわぎどよめいている処ところへ下女のお米出いで来きたり
﹁嬢様から一献こん申し上げますが何もございません、真ほんの田舎料理でございますが御ごゆ緩るりと召上り相変らず貴あな方たの御冗談を伺うかゞいたいと仰おっしゃいます﹂
と酒さけ肴さかなを出いだせば、
志﹁何どうも恐入りましたな、へい是はお吸物誠に有難うございます、先さっ刻きから冷れい酒しゅは持参致しておりまするが、お燗かん酒しゅは又格別、有難うございます、何どう卒ぞ嬢様にも入いらっしゃるように今日は梅じゃアない実はお嬢様を、いやなに﹂
米﹁ホヽヽヽ只今左様申し上げましたが、お連つれのお方は御存じがないものですから間が悪いと仰しゃいますから、それならお止よし遊ばせと申し上げた処ところが、それでも往いって見たいと仰しゃいますの﹂
志﹁いや、此これは僕の真しんの知ちか己づきにて、竹馬の友と申しても宜よろしい位なもので、御遠慮には及びませぬ、何どう卒ぞちょっと嬢様にお目にかゝりたくって参りました﹂
と云えば、お米はやがて嬢様を伴い来きたる。嬢様のお露様は恥かしげにお米の後うしろに坐って、口の中うちにて
﹁志丈さん入いらっしゃいまし﹂
と云ったぎりで、お米が此こち方らへ来れば此方へ来きたり、彼あち方らへ行ゆけば彼方へ行き、始終女中の後うしろにばかりくッついて居る。
志﹁存じながら御無沙汰に相成りまして、何い時つも御無事で、此の人は僕の知ちか己づきにて萩原新三郎と申します独ひと身りも者のでございますが、お近づきの為ため一ちょ寸っとお盃さかづきを頂戴いたさせましょう、おや何だかこれでは御婚礼の三さ々か九づ度きのようでございます﹂
と少しも間たれ断まなく取巻きますと、嬢様は恥かしいが又嬉しく、萩原新三郎を横目にじろ〳〵見ない振ふりをしながら見て居ります。と気があれば目も口ほどに物をいうと云う譬たとえの通り、新三郎もお嬢様の艶やさ容すがたに見み惚とれ、魂も天外に飛ぶ計ばかりです。そうこうする中うちに夕景になり、灯あか火りがちら〳〵点つく時刻となりましたけれども、新三郎は一向に帰ろうと云わないから。
志﹁大層に長ちょ座うざを致しました、さお暇いとまを致しましょう﹂
米﹁何ですねえ志丈さん、貴あな方たはお連つれ様さまもありますからまア宜よいじゃアありませんか、お泊りなさいな﹂
新﹁僕は宜よろしゅうございます、泊って参っても宜しゅうございます﹂
志﹁それじゃア僕一人憎まれ者になるのだ、併しかし又斯かよ様うな時は憎まれるのが却かえって親切になるかも知れない、今日はまず是これ迄までとしておさらば〳〵﹂
新﹁鳥ちょ渡っと便所を拝借致しとうございます﹂
米﹁さア此こち方らへ入いらっしゃいませ﹂
と先に立って案内を致し、廊下伝いに参り
﹁此こ処ゝが嬢様のお室へやでございますから、まアお這入り遊ばして一服召上って入っしゃいまし﹂
新三郎は
﹁有難うございます﹂
と云いながら用よう場ばへ這入りました。
米﹁お嬢様え、彼あのお方が、出て入いらっしゃったらばお水ひやを掛けてお上げ遊ばせ、お手てぬ拭ぐいは此こ処ゝにございます﹂
と新しい手拭を嬢様に渡し置き、お米は此こち方らへ帰りながら、お嬢様があゝいうお方に水を掛けて上げたならば嘸さぞお嬉しかろう、彼あのお方は余よっ程ぽど御ぎょ意いに適かなった様子。と独ひと言りごとをいいながら元の座敷へ参りましたが、忠義も度を外はずすと却かえって不忠に陥おちて、お米は決して主人に猥みだらな事をさせる積りではないが、何い時つも嬢様は別にお楽たのしみもなく、鬱ふさいでばかり入いらっしゃるから、斯こういう冗談でもしたら少しはお気きば晴らしになるだろうと思い、主人のためを思ってしたので。さて萩原は便所から出て参りますと、嬢様は恥かしいのが一杯で只茫ぼん然やりとしてお水ひやを掛けましょうとも何とも云わず、湯ゆお桶けを両手に支えているを、新三郎は見て取り、
新﹁是は恐れ入ります、憚はゞかりさま﹂
と両手を差さし伸のべれば、お嬢様は恥かしいのが一杯なれば、目も眩くらみ、見当違いのところへ水を掛けておりますから、新三郎の手も彼あち方らこ此ち方らと追おいかけて漸ようよう手を洗い、嬢様が手拭をと差出してもモジ〳〵している間うち、新三郎も此のお嬢は真しんに美しいものと思い詰めながら、ずっと手を出し手拭を取ろうとすると、まだもじ〳〵していて放さないから、新三郎も手拭の上からこわ〴〵ながらその手をじっと握りましたが、此の手を握るのは誠に愛情の深いものでございます。お嬢様は手を握られ真まっ赤かに成って、又その手を握り返している。此こち方らは山本志丈が新三郎が便所へ行ゆき、余り手間取るを訝いぶかり
志﹁新三郎君は何ど処こへ行ゆかれました、さア帰りましょう﹂
と急せき立てればお米は瞞ごまかし、
米﹁貴あな方た何なんですねえ、おや貴あな方たのお頭つむりがぴか〳〵光ってまいりましたよ﹂
志﹁なにさそれは灯あか火りで見るから光るのですわね、萩原氏々々﹂
と呼立てれば、
米﹁何なんですねえ、宜ようございますよう、貴あな方たはお嬢様のお気質も御存じではありませんか、お堅いから仔しさ細いはありませんよ﹂
と云って居ります所へ新三郎が漸ようよう出て来ましたから、
志﹁君何どち方らにいました、いざ帰りましょう、左様なればお暇いとま申します、今日は種いろ々〳〵御馳走に相成りました、有難うございます﹂
米﹁左様なら、今日はまア誠にお草そう々〳〵さま左様なら﹂
と志丈新三郎の両人は打うち連つれ立だちて帰りましたが、帰る時にお嬢様が新三郎に
﹁貴あな方たまた来て下さらなければ私わたくしは死んでしまいますよ﹂
と無量の情を含んで言われた言葉が、新三郎の耳に残り、暫しばしも忘れる暇ひまはありませなんだ。
三
さても飯島様のお邸やしきの方かたにては、お妾お國が腹一杯の我わが儘まゝを働く間うち、今度抱かゝえ入れた草ぞう履りと取りの孝こう助すけは、年頃二十一二にて色白の綺麗な男ぶりで、今日しも三月二十二日殿様平左衞門様にはお非番でいらっしゃれば、庭先へ出いて﹇#﹁出いて﹂はママ﹈、彼あち方らこ此ち方らを眺めおられる時、此の新参の孝助を見掛け。
平﹁これ〳〵手前は孝助と申すか﹂
孝﹁へい殿様には御機嫌宜よろしゅう、私わたくしは孝助と申しまする新参者でございます﹂
平﹁其の方は新参者でも蔭かげ日ひな向たなくよく働くといって大だい分ぶ評判がよく、皆の受うけがよいぞ、年頃は二十一二と見えるが、人ひと品がらといい男ぶりといい草履取には惜しいものだな﹂
孝﹁殿様には此の間あい中だじゅう御不快でございましたそうで、お案じ申上げましたが、さしたる事もございませんか﹂
平﹁おゝよく尋ねて呉れた、別にさしたる事もないが、して手前は今まで何いず方かたへか奉公をした事があったか﹂
孝﹁へい只今まで方々奉公も致しました、先まず一番先に四よツ谷やの金かな物もの商やへ参りましたが一年程居りまして駈かけ出だしました、それから新しん橋ばしの鍜か冶じ屋やへ参り、三月つき程過ぎて駈出し、又仲なか通どおりの絵えぞ草う紙し屋やへ参りましたが、十日かで駈出しました﹂
平﹁其の方のようにそう厭あきては奉公は出来ないぞ﹂
孝﹁いえ私わたくしが倦あきっぽいのではございませんが、私はどうぞして武家奉公が致したいと思い、其の訳を叔父に頼みましても、叔父は武家奉公は面倒だから町ちょ家うかへ往ゆけと申しまして彼あち方らこ此ち方ら奉公にやりますから、私も面つら当あてに駈出してやりました﹂
平﹁其の方は窮屈な武家奉公をしたいというのは如いか何ゞな訳じゃ﹂
孝﹁へい、私わたくしは武家奉公を致しお剣術を覚えたいのでへい﹂
平﹁はて剣術が好きとな﹂
孝﹁へい番ばん町ちょうの栗くり橋はし様が御こち当ら家さ様まは、真しん影かげ流りゅうの御ごめ名いじ人んと承わりました故、何どうぞして御両家の内へ御奉公に上あがりたいと思いましていました処ところ、漸よう々〳〵の思いで御こち当ら家さ様まへお召めし抱かゝえに相成り、念が届いて有難うございます、どうぞお殿様のお暇ひまの節には、少々ずつにてもお稽古が願われようかと存じまして参りました、御こち当ら家さ様まに若様でも入いらっしゃいます事ならば、若様のお守もりをしながら皆様がお稽古を遊ばすのをお側で拝見致していましても、型ぐらいは覚えられましょうと存じましたに、若様はいらっしゃらず、お嬢様には柳島の御別荘にいらっしゃいまして、お年はお十七とのこと、これが若様なれば余よっ程ぽど宜よろしゅうございますに、お武家様にお嬢様は糞くそったれでございますなア﹂
平﹁はゝゝ、遠慮のない奴、これは大おおきにさようだ、武家では女は実に糞ったれだのう﹂
孝﹁うっかりと飛んでもない事を申上げ、お気に障さわりましたら御勘弁をねがいます、どうぞ只今もお願い申上げまする通りお暇の節にはお剣術を願われますまいか﹂
平﹁此の程は役が替かわってから稽古場もなく、誠に多たゝ端んではあるが、暇ひまの節に随分教えてもやろう、其の方ほうの叔父は何商売じゃの﹂
孝﹁へい彼あれは本当の叔父ではございません、親おや父じの店たな受うけで、ちょっと間に合わせの叔父でございます﹂
平﹁何かえ母おふ親くろは幾いく歳つになるか﹂
孝﹁母おふ親くろは私わたくしの四よッ歳つの時に私を置去りに致しまして、越後の国へ往ってしまいましたそうです﹂
平﹁左様か、大だい分ぶ不人情の女だの﹂
孝﹁いえ、それと申しまするのも親父の不ふみ身も持ちに愛あい想そうを尽かしての事でございます﹂
平﹁親父はまだ存ぞん生しょうか﹂
と問われて、孝助は
﹁へい﹂
と云いながら悄しお々〳〵として申しまするには、
﹁親父も亡くなりました、私わたくしには兄弟も親類もございませんゆえ、誰たれあって育てる者もないところから、店たな受うけの安やす兵べ衞えさんに引取られ、四よッ歳つの時から養育を受けまして、只今では叔父分となり、斯かよ様うに御当家様へ御奉公に参りました、どうぞ何い時つまでもお目掛けられて下さいませ﹂
と云いさしてハラ〳〵と落らく涙るいを致しますから、飯島平左衞門様も目をしばたゝき、
平﹇#﹁平﹂は底本では﹁孝﹂﹈﹁感心な奴だ、手前ぐらいな年頃には親の忌きに日ちさえ知らずに暮らすものだに、親はと聞かれて涙を流すとは親孝行な奴じゃて、親父は此の頃亡くなったのか﹂
孝﹁へい、親父の亡くなりましたは私わたくしの四よッ歳つの時でございます﹂
平﹁それでは両親の顔も知るまいのう﹂
孝﹁へい、ちっとも存じませんが、私わたくしの十一歳の時に始めて店たな受うけの叔父から母おふ親くろの事や親父の事も聞きました﹂
平﹁親父はどうして亡くなったか﹂
孝﹁へい、斬きり殺ころされて﹂
と云いさしてわっとばかりに泣き沈む。
平﹁それは又如いか何ゞの間違いで、とんでもない事であったのう﹂
孝﹁左様でございます、只今より十八年以前、本郷三丁目の藤村屋新兵衞と申しまする刀屋の前で斬られました﹂
平﹁それは何月幾いく日かの事だの﹂
孝﹁へい、四月十一日だと申すことでございます﹂
平﹁シテ手前の親父は何なんと申す者だ﹂
孝﹁元は小出様の御家来にて、お馬うま廻ゝわりの役を勤め、食しょ禄くろく百五十石を頂戴致して居りました黒川孝藏と申しました﹂
と云われて飯島平左衞門はギックリと胸にこたえ、恟びっくりし、指折り数うれば十八年以前聊いさゝかの間違いから手に掛けたは此の孝助の実父で有ったか、己おれを実父の仇あだと知らず奉公に来たかと思えば何なんとやら心悪く思いましたが、素知らぬ顔して、
平﹁それは嘸さぞ残念に思うで有ろうな﹂
孝﹁へい親父の仇かた討きうちが致しとうございますが、何を申しますにも相手は立派なお侍様でございますから、どう致しても剣術を知りませんでは親の仇討は出来ませんゆえ、十一歳の時から今きょ日うまで剣術を覚えたいと心掛けて居りましたが、漸よう々〳〵のことで御当家様にまいりまして、誠に嬉しゅうございます、是からはお剣術を教えて戴いたゞき、覚えました上は、それこそ死にもの狂いに成って親の敵かたきを討ちますから、どうぞ剣術を教えて下さいませ﹂
平﹁孝心な者じゃ、教えてやるが手前は親の敵かたきを討つというが、敵の面めん体ていを知らんで居て、相手は立派な剣けん術じゅ遣つつかいで、もし今己おれが手前の敵だと云ってみす〳〵鼻の先へ敵が出たら其の時は手前どうするか﹂
孝﹁困りますな、みす〳〵鼻の先へ敵かたきが出れば仕方がございませんから、立派な侍でも何なんでもかまいません、飛とびついて喉のど笛ぶえでも喰い取ってやります﹂
平﹁気きし性ょうな奴だ、心配いたすな、若もし敵かたきの知れた其の時は、此の飯島が助すけ太だ刀ちをして敵を屹きっ度と討たせてやるから、心丈夫に身を厭いとい、随分大切に奉公をしろ﹂
孝﹁殿様本当にあなた様が助太刀をして下さいますか、有難う存じます、殿様がお助太刀をして下さいますれば、敵かたきの十人位は出て参りましても大丈夫です、あゝ有難うございます、有難うございます﹂
平﹁己おれが助太刀をしてやるのをそれ程までに嬉しいか可かわ愛いそうな奴だ﹂
と飯島平左衞門は孝心に感じ、機おりを見て自みずから孝助の敵かたきと名な告のり、討たれてやろうと常に心に掛けて居りました。
四
さて萩原新三郎は山本志丈と一緒に臥竜梅へ梅見に連れられ、その帰るさに彼かの飯島の別荘に立寄り、不ふ図と彼の嬢様の姿を思い詰め、互いに只手を手てぬ拭ぐいの上から握り合ったばかりで、実に枕を並べて寝たよりも猶なお深く思い合いました。昔のものは皆こういう事に固うございました。ところが当節のお方はちょっと洒しゃ落れ半分に
﹁君ちょっと来たまえ、雑ざ魚こ寝ねで﹂
と、男がいえば、女の方で
﹁お戯ふざけでないよ﹂
又男の方でも
﹁そう君のように云っては困るねえ、否いやなら否だと判はっ然きり云い給え、否なら又外ほかを聞いて見よう﹂
と明あき店だなか何かを捜す気に成っている位なものでございますが、萩原新三郎はあのお露どのと更に猥いやらしい事は致しませんでしたが、実に枕をも並べて一ツ寝でも致したごとく思い詰めましたが、新三郎は人が良いものですから一人で逢いに行ゆくことが出来ません、逢いに参って若もし万ひょ一っと飯島の家来にでも見付けられてはと思えば行ゆく事もならず、志丈が来れば是非お礼旁かた々〴〵行ゆきたいものだと思っておりましたが、志丈は一向に参りません。志丈も中々さるものゆえ、あの時萩原とお嬢との様子が訝おかしいから、若もし万まん一いちの事があって、事の顕あらわれた日には大変、坊ぼう主ずッ首くびを斬られなければならん、これは危けん険のん、君くん子しは危あやうきに近寄らずというから行ゆかぬ方がよいと、二月三月四月と過ぎても一向に志丈が訪ねて来ませんから、新三郎は独ひとりくよ〳〵お嬢のことばかり思い詰めて、食事もろく〳〵進みませんで居りますと、或ある日ひのこと孫まご店だなに夫婦暮しで住む伴とも藏ぞうと申す者が訪ねて参り。
伴﹁旦那様、此の頃は貴あな方たさ様まは何どうなさいました、ろく〳〵御ごぜ膳んも上あがりませんで、今日はお昼ひ食るもあがりませんな﹂
新﹁あゝ食べないよ﹂
伴﹁上あがらなくっちゃアいけませんよ、今の若さに一膳半ぐらいの御膳が上あがれんとは、私わたくしなどは親おや椀わんで山盛りにして五六杯も喰わなくっちゃアちっとも物を食べたような気持が致しやせん、あなた様はちっとも外そと出でをなさいませんな、此の二月でしたっけナ、山本さんと御一緒に梅見にお出掛けに成って、何か洒しゃ落れをおっしゃいましたっけナ、ちっと御保養をなさいませんと本当に毒ですよ﹂
新﹁伴藏貴様はあの釣つりが好きだっけな﹂
伴﹁へい釣は好きのなんのッて、本当にお飯まんまより好きでございます﹂
新﹁左様か、そうならば一緒に釣に出掛けようかのう﹂
伴﹁あなたは慥たしか釣はお嫌いではありませんか﹂
新﹁何なんだか急にむか〳〵と釣が好きになったよ﹂
伴﹁へい、むか〳〵とお好きに成って、そして何どち方らへ釣にいらっしゃるお積りで﹂
新﹁そうサ、柳島の横川で大層釣れるというから彼あす処こへ往ゆこうか﹂
伴﹁横川というのは彼あの中川へ出る処ところですかえ、そうしてあんな処で何が釣れますえ﹂
新﹁大きな鰹かつおが釣れるとよ﹂
伴﹁馬鹿な事を仰おっしゃい、川で鰹が釣れますものかね、たか〴〵鰡いなか※たなご﹇#﹁魚+節﹂、27-14﹈ぐらいのものでございましょう、兎も角もいらっしゃるならばお供をいたしましょう﹂
と弁当の用意を致し、酒を吸すい筒づゝへ詰込みまして、神田の昌しょ平うへ橋いばしの船宿から漁りょ夫うしを雇い乗のり出だしましたれど、新三郎は釣はしたくはないが、唯たゞ飯島の別荘のお嬢の様子を垣の外からなりとも見ましょうとの心こゝ組ろぐみでございますから、新三郎は持って来た吸筒の酒にグッスリと酔って、船の中で寝込んでしまいましたが、伴藏は一人で日の暮くれるまで釣を致して居ましたが、新三郎が寝たようだから、
伴﹁旦那え〳〵お風をひきますよ、五月頃は兎角冷えますから、旦那え〳〵、是は余りお酒を勧めすぎたかな﹂
新三郎はふと見ると横川のようだから。
新﹁伴藏こゝは何ど処こだ﹂
伴﹁へい此こ処ゝは横川です﹂
と云われて傍かたえの岸辺を見ますと、二重の建けん仁にん寺じの垣に潜くゞり門がありましたが、是は確たしかに飯島の別荘と思い、
新﹁伴藏や一ちょ寸っと此こ処ゝへ着けて呉れ、一寸行って来る所があるから﹂
伴﹁こんな所へ着けて何どち方らへ入らっしゃるのですえ、私わッちも御一緒に参りましょう﹂
新﹁お前は其そ処こに待っていなよ﹂
伴﹁だってそのための伴藏ではございませんか、お供を致しましょう﹂
新﹁野や暮ぼだのう、色にはなまじ連れは邪魔よ﹂
伴﹁イヨお洒しゃ落れでげすね、宜ようがすねえ﹂
という途端に岸に船を着けましたから、新三郎は飯島の門の処へまいり、ブル〳〵慄ふるえながらそっと家うちの様子を覗のぞき、門が少し明いてるようだから押して見ると明いたから、ずっと中へ這は入いり、予かねて勝手を知っている事故ゆえ、だん〳〵と庭伝いに参り、泉せん水すい縁べりに赤松の生えてある処から生いけ垣がきに附いて廻れば、こゝは四畳半にて嬢様のお部屋でございました。お露も同じ思いで、新三郎に別れてから其の事ばかり思い詰め、三月から煩わずらって居ります所へ、新三郎は折おり戸どの所へ参り、そっとうちの様子を覗のぞき込みますと、うちでは嬢様は新三郎の事ばかり思い続けて、誰たれを見ましても新三郎のように見える処へ、本当の新三郎が来た事ゆえ、ハッと思い
﹁貴あな方たは新三郎さまか﹂
と云えば、
新﹁静かに〳〵、其の後ごは大層に御無沙汰を致しました、鳥ちょ渡っとお礼に上あがるんでございましたが、山本志丈があれぎり参りませんものですから、私わたくし一人では何なに分ぶん間が悪くッて上りませんだった﹂
露﹁よくまア入いらっしゃいました﹂
ともう耻しいことも何も忘れてしまい、無理に新三郎の手を取ってお上あがり遊ばせと蚊か帳やの中へ引きずり込みました。お露は只もう嬉しいのが込み上げて物が云われず、新三郎の膝に両手を突いたなりで、嬉し涙を新三郎の膝にホロリと零こぼしました。これが本当の嬉し涙です。他人の所へ悔くやみに行って零す空そら涙なみだとは違います。新三郎ももう是までだ、知れても構わんと心得、蚊帳の中うちで互たがいに嬉しき枕をかわしました。
露﹁新三郎さま、是は私わたくしの母かゝさまから譲られました大事な香こう箱ばこでございます、どうか私の形見と思おぼ召しめしお預り下さい﹂
と差さし出だすを手に取って見ますと、秋野に虫の象ぞう眼がん入いりの結構な品で、お露は此の蓋ふたを新三郎に渡し、自分は其の身の方ほうを取って互に語り合う所へ、隔へだての襖ふすまをサラリと引き明けて出て来ましたは、おつゆの親おや御ご飯島平左衞門様でございます。両人は此の体ていを見てハッとばかりに恟びっくり致しましたが、逃げることもならず、唯うろ〳〵して居る所へ、平左衞門は雪ぼん洞ぼりをズッと差さしつけ、声を怒いからし。
平﹁コレ露これへ出ろ、又貴様は何者だ﹂
新﹁へい、手前は萩原新三郎と申す粗そこ忽つの浪士でございます、誠に相済みません事を致しました﹂
平﹁露、手前はヤレ國がどうのこうの云うの、親おや父じがやかましいの、どうか閑静な所へ行ゆきたいのと、さま〴〵の事を云うから、此の別荘に置けば、斯かよ様うなる男を引きずり込み、親の目を掠かすめて不義を働きたい為ために閑かん地ちへ引ひき込こんだのであろう、これ苟かりそめにも天下御ごじ直きさ参んの娘が、男を引入れるという事がパッと世間に流る布ふ致せば、飯島は家かじ事ふと不りし取ま締りだと云われ家かめ名いを汚けがし、第一御先祖へ対して相済まん、不孝不義の不ふと届ゞきものめが、手てう打ちにするから左様心得ろ﹂
新﹁暫しばらくお待ち下さい、其のお腹はら立だちは重じゅ々う〴〵御ごも尤っともでございますが、お嬢様が私わたくしを引きずり込み不義を遊ばしたのではなく、手前が此の二月始めて罷まか出りいでまして、お嬢様を唆そゝのかしたので、全く手前の罪でお嬢様には少しもお科とがはございません、どうぞ嬢様はお助けなすって私を﹂
露﹁いゝえ、お父とっ様さま私わたくしが悪いのでございます、どうぞ私をお斬り遊ばして、新三郎様をばお助け下さいまし﹂
と互たがいに死を争いながら平左衞門の側へ摺すり寄よりますと、平左衞門は剛ごう刀とうをスラリと引ひき抜ぬき、
﹁誰たれ彼かれと容よう赦しゃはない、不義は同罪、娘から先へ斬る、観念しろ﹂
と云いさま片手なぐりにヤッと下くだした腕の冴さえ、島田の首がコロリと前へ落ちました時、萩原新三郎はアッとばかりに驚いて前へのめる処を、頬ほゝより腮あごへ掛けてズンと切られ、ウーンと云って倒れると。
伴﹁旦那え〳〵大層魘うなされていますね、恐おそろしい声をして恟びっくりしました、風邪を引くといけませんよ﹂
と云われて新三郎はやっと目を覚さまし、ハアと溜ため息いきをついて居るから。
伴﹁何どうなさいましたか﹂
新﹁伴藏や己おれの首が落ちては居ないか﹂
と問われて、
伴﹁そうですねえ、船ふな舷べりで煙きせ管るを叩くと能よく雁がん首くびが川の中へ落っこちて困るもんですねえ﹂
新﹁そうじゃアない、己の首が落ちはしないかという事よ、何ど処こにも疵きずが付いてはいないか﹂
伴﹁何を御冗談を仰おっしゃる、疵も何も有りは致しません﹂
と云う。新三郎はお露に何どうにもして逢いたいと思い続けているものだから、其の事を夢に見てビッショリ汗をかき、辻つじ占うらが悪いから早く帰ろうと思い
﹁伴藏早く帰ろう﹂
と船を急がして帰りまして、船が着いたから上あがろうとすると。
伴﹁旦那こゝにこんな物が落ちて居ります﹂
と差さし出いだすを新三郎が手に取とり上あげて見ますれば、飯島の娘と夢のうちにて取とり交かわした、秋野に虫の模様の付いた香箱の蓋ばかりだから、ハッとばかりに奇きた異いの想おもいを致し、何どうして此の蓋が我わが手てにある事かと恟びっくり致しました。
五
話替かわって、飯島平左衞門は凛り々ゝしい智ちえ者しゃにて諸芸に達し、とりわけ剣術は真影流の極ごく意いを極きわめました名人にて、お齢とし四十ぐらい、人ひと並なみに勝すぐれたお方なれども、妾の國というが心得違いの奴にて、内ない々〳〵隣とな家りの次男源げん次じろ郎うを引ひき込こみ楽しんで居りました。お國は人目を憚はゞかり庭口の開ひらき戸を明け置き、此こ処ゝより源次郎を忍ばせる趣しゅ向こうで、殿様のお泊とま番りばんの時には此処から忍んで来るのだが、奥向きの切きり盛もりは万事妾の國がする事ゆえ、誰たれも此の様子を知る者は絶えてありません。今日しも七月二十一日殿様はお泊番の事ゆえ、源次郎を忍ばせようとの下した心ごゝろで、庭下駄を彼かの開き戸の側に並べ置き、
國﹁今日は熱くって堪たまらないから、風を入れないでは寝られない、雨戸を少しすかして置いてお呉れよ﹂
と云いい附つけ置きました。さて源次郎は皆寝静まッたる様子を窺うかゞい、そっと跣はだ足しで庭石を伝わり、雨戸の明いた所から這はい上あがり、お國の寝間に忍び寄れば、
國﹁源次郎さま大層に遅いじゃアありませんか、私わたくしは何どうなすッたかと思いましたよ、余あんまりですねえ﹂
源﹁私わたくしも早く来たいのだけれども、兄上もお姉あね様えさまもお母はゝ様さまもお休みにならず、奉公人までが皆熱い〳〵と渋しぶ団うち扇わを持って、あおぎ立てゝ凉んでいて仕方がないから、今まで我慢して、よう〳〵の思いで忍んで来たのだが、人に知れやアしないかねえ﹂
國﹁大丈夫知れッこはありませんよ、殿様があなたを御ごひ贔い屓きに遊ばすから知れやアしませんよ、あなたの御ごか勘んど当うが許ゆりてから此の家うちへ度たび々〳〵お出いでになれるように致しましたのも、皆私わたくしが側で殿様へ旨く取とりなし、あなたをよく思わせたのですよ、殿様はなか〳〵凛り々ゝしいお方ですから、貴あな方たと私との間なかが少しでも変な様子があれば気け取どられますのだが、些ちっとも知れませんよ﹂
源﹁実に伯父さまは一通りならざる智ちし者ゃだから、私わたくしは本当に怖いよ、私も放ほう蕩とうを働き、大おお塚つかの親類へ預けられていたのを、当こち家らの伯父さんのお蔭かげで家うちへ帰れるように成った、其の恩人の寵ちょ愛うあいなさるお前と斯こうやっているのが知れては実に済まないよ﹂
國﹁あゝいう事を仰おっしゃる、あなたは本当に情じょうがありませんよ、私わたくしは貴あな方たのためなら死んでも決して厭いといませんよ、何なんですねえ、そんな事ばかり仰しゃって、私の傍そばへ来ない算段ばかり遊ばすのですものを、アノ源さま、こちらの家うちでも此の間お嬢様がお逝かくれになって、今は外ほかに御ごか家と督くがありませんから、是非とも御夫婦養子をせねばなりません、それに就ついてはお隣の源次郎様をと内ない々〳〵殿様にお勧め申しましたら、殿様が源次郎はまだ若くッて了りょ簡うけんが定まらんからいかんと仰しゃいましたよ﹂
源﹁そうだろう、恩人の愛あい妾しょうの所へ忍び来るような訳だから、どうせ了簡が定まりゃアしないや﹂
國﹁私わたくしは殿様の側に何い時つまでも附いていて、殿様が長なが生いきをなすって、貴あな方たは外ほかへ御養子にでも入らっしゃれば、お目にかゝる事は出来ません、其の上綺麗な奥様でもお持ちなさろうものなら、國のくの字も仰しゃる気きづ遣かいはありませんよ、それですから貴方が本当に信しん実じつがおあり遊ばすならば、私の願ねがいを叶かなえて、内うちの殿様を殺して下さいましな﹂
源﹁情があるから出来ないよ、私わたくしの為ためには恩人の伯父さんだもの、何どうしてそんな事が出来るものかね﹂
國﹁こうなる上からは、もう恩も義理もありはしませんやね﹂
源﹁それでも伯父さんは牛込名なだ代いの真影流の達人だから、手前如きものが二十人ぐらい掛っても敵かなう訳のものではないよ、其の上私わたくしは剣術が極ごく下へ手ただもの﹂
國﹁そりゃア貴あな方たはお剣術はお下へー手たさね﹂
源﹁そんなにオヘータと力を入れて云うには及ばない、それだから何どうもいけないよ﹂
國﹁貴方は剣術はお下へ手ただが、よく殿様と一緒に釣つりにいらっしゃいましょう、アノ来月四日はたしか中川へ釣にいらっしゃるお約束がありましょう、其の時殿様を船から川の中へ突つき落おとして殺しておしまいなさいよ﹂
源﹁成程伯父さんは水すい練れんを御存じないが、矢張り船頭がいるからいけないよ﹂
國﹁船頭を斬ってお仕舞い遊ばせな、なんぼ貴方が剣術がお下手でも、船頭ぐらいは斬れましょう﹂
源﹁それは斬れますとも﹂
國﹁殿様が落ちたというので、貴方は立腹して、早く探させてはいけませんよ、いろ〳〵理りく窟つをなが〳〵と二ふた時ときばかりも言っていてそれから船頭に探させ、死骸を船に揚あげてから不ふと届ゞきな奴だといって船頭を斬ってお仕舞いなさい、それから帰り路みちに船ふな宿やどに寄って、船頭が麁そそ相うで殿様を川へ落し、殿様は死去されたれば、手前は言いい訳わけがないから船頭は其の場で手てう打ちに致したが、船頭ばかりでは相済まんぞ、亭主其の方も斬って仕舞うのだが、内ない分ぶんで済ませて遣つかわすにより、此の事は決して口外致すなと仰しゃれば、船宿の亭主も自分の命にかゝわる事ですから口外する気きづ遣かいはありません、それから貴方はお邸やしきへお帰りになって、知らん顔でいて、お兄あに様いさまに隣とな家りでは家かと督くがないから早く養子に遣やってくれ〳〵と仰しゃれば、此こな方たは別に御親類もないからお頭かしらに話を致し、貴方を御養子のお届けを致しますまでは、殿様は御病気の届けを致して置いて、貴方の家督相続が済みましてから、殿様の死去のお届を致せば、貴方は此こち家らの御養子様、そうすると私わたくしは何い時つまでも貴方の側に粘へばり附いていて動きません、此こち方らの家うちは貴方のお家より、余よっ程ぽど大だい尽じんですから、召めし物ものでもお腰のものでも結構なのが沢山ありますよ﹂
源﹁これは旨い趣向だ、考えたね﹂
國﹁私わたくしは三日三晩寝ずに考えましたよ﹂
源﹁是は至しご極く宜よろしい、どうも宜しい﹂
と源次郎は慾よく張ばりと助すけ平べいとが合併して乗のり気きに成り、両人がひそ〳〵語り合っているを、忠義無類の孝助という草履取が、御ごも門んの男部屋に紙しち帳ょうを吊って寝て見たが、何分にも熱くって寝付かれないものだから、渋しぶ団うち扇わを持って、
﹁どうも今年の様に熱い事はありゃアしない﹂
と云いながら、お庭をぶら〴〵歩いていると、板いた塀べいの三尺じゃくの開ひらきがバタリ〳〵と風にあおられているのを見て、
孝﹁締りをして置いたのに何どうして開あいたのだろう、おや庭下駄が並べてあるぞ、誰だれが来たな、隣とな家りの次男めがお國さんと様子が訝おかしいから、ことによったら密くッ通ついているのかも知れん﹂
と抜ぬき足あししてそっと此こな方たへまいり、沓くつ脱ぬぎ石いしへ手を支えて座敷の様子を窺うかゞうと、自分が命を捨てゝも奉公をいたそうと思っている殿様を殺すという相談に、孝助は大おおいに怒いかり、歳としはまだ二十一でございますが、負けない気性だから、怒りの余り思わず知らずガッと鼻を鳴らす。
源﹁お國さん誰たれか来たようだよ﹂
國﹁貴あな方たは本当に臆おく病びょうで入らっしゃるよ、誰たれも参りは致しません﹂
と耳を立てゝ聞けば人の居る様子ですから、
國﹁誰だれだえ、其そ処こに居るのは﹂
孝﹁へい孝助でございます﹂
國﹁本当にまア呆あきれますよ、夜よる夜よな中か奥おく向むきの庭口へ這は入いり込んで済みますかえ﹂
孝﹁熱くッて〳〵仕様がございませんから凉みに参りました﹂
國﹁今晩は殿様はお泊とま番りばんだよ﹂
孝﹁毎まい月げつ二十一日のお泊番は知っています﹂
國﹁殿様のお泊番を知りながらなぜ門番をしない、御ごも門んば番んは御門をさえ堅く守って居いれば宜いいのに、熱いからといって女計ばかりいる庭先へ来てすみますか﹂
孝﹁へい御門番だからといって御門計りを守っては居おりませんへい、庭も奥も守ります、へい方ほう々〴〵を守るのが役でございます、御門番だからと申して奥へ盗どろ賊ぼうが這入り、殿様とチャン〳〵切きり合あっているに門ばかり見てはいられません﹂
國﹁新参者のくせに、殿様のお気に入りだものだから、此の節では増長して大層お羽はぶ振りが宜いいよ、奥向を守るのは私わたしの役だ、部屋へ帰って寝てお仕舞い﹂
孝﹁そうですか、貴方が奥向のお守りをして、斯かよ様うに三さん尺じゃ戸くどを開けて置いて宜よろしゅうございますか、庭口の戸が開いていると犬が這入って来ます、何なんでも犬畜生の恩も義理も知らん奴が、殿様の大切にして入らっしゃるものをむしゃ〳〵喰っていますから、私わたくしは夜通し此こ処ゝに張はり番ばんをしています、此こ所ゝに下駄が脱いでありますから、何でも人間が這入ったに違いはありません﹂
國﹁そうサ、先さっ刻きお隣の源さまが入らっしゃったのサ﹂
孝﹁へえ、源さまが何なに御用で入らっしゃいました﹂
國﹁何なんの御用でも宜よいじゃアないか、草履取の身の上でお前は御門さえ守っていればよいのだよ﹂
孝﹁毎まい月げつ二十一日は殿様お泊番の事は、お隣の御次男様もよく御存じでいらっしゃいますに、殿様のお留守の処へお出いでに成って、御用が足りるとはこりゃア変でございますな﹂
國﹁何が変だえ、殿様に御用があるのではない﹂
孝﹁殿様に御用ではなく、あなたに内ない証しょうの御用でしょう﹂
國﹁おや〳〵お前はそんな事を言って私を疑ぐるね﹂
孝﹁何も疑ぐりはしませんのに、疑ぐると思うのが余よっ程ぽどおかしい、夜夜中女ばかりの処へ男が這入り込むのは何どうも訝おかしいと思っても宜よかろうと思います﹂
國﹁お前はまアとんでもない事を云って、お隣の源さまにすまないよ、余あんまりじゃアないか、お前だって私の心を知っているじゃアないか﹂
と、両人の争って居るのを聞いていた源次郎は、人の妾でも奪とろうという位な奴だからなか〳〵抜ぬけ目めはありません。そして其の頃は若殿と草履取とはお羽振が雲うん泥でいの違いであります、源次郎はずっと出て来て、
源﹁これ〳〵孝助何を申す、是へ出ろ﹂
孝﹁へい何か御用で﹂
源﹁手前今承れば、何かお國殿と己おれと何か事わ情けでもありそうにいうが、己も養子に行ゆく出世前の大切な身体だ、尤もっとも一旦放ほう蕩とうをして勘かん当どうをされ、大塚の親類共へ預けられたから、左様思うも無理もないようだが、左様な事を云い掛けられては捨すて置おきにならんぞ﹂
孝﹁御ごた大いせ切つの身の上を御存じなれば何な故ぜ夜夜中女一人の処ところへおいでなされました、あなた様が御自分に疵きずをお付けなさる様なものでございます、貴あな方ただッて男なん女にょ七歳にして席を同おなじゅうせず、瓜かで田んに履くつを容いれず、李り下かに冠かんむりを正さず位の事は弁わきまえておりましょう﹂
源﹁黙れ左様な無礼な事を申して、若もし用があったらどう致す、イヤサ御主人がお留守でも用の足りる仔しさ細いがあったら何どうする積りだ﹂
孝﹁殿様がお留守で御用の足りる筈はずはありません、へい若しありましたら御存分になさいまし﹂
源﹁然しからば是を見い﹂
と投げ出す片はが紙みの書しょ面めん。孝助は手に取とり上あげて読み下くだすに、
一筆 申入候 過日御約束致置候 中川漁船行 の儀は来月四日と致度 就 ては釣道具大半 破損致し居候間 夜分にても御閑 の節御入来之上 右釣道具御繕 い直し被下候様奉願上候 。
飯島平左衞門
源次郎殿
と孝助がよく〳〵見れば全く主人の手しゅ蹟せきだから、これはと思うと。
源﹁どうだ手前は無筆ではあるまい、夜分にてもよいから来て釣道具を直して呉れろとの頼みの状だ、今夜は熱くて寝られないから、釣道具を直しに参った、然しかるを手前から疑念を掛けられ、悪あく名みょうを附けられ、甚はなはだ迷惑致す、貴様は如いか何ゞ致す積りか﹂
孝﹁左様な御無理を仰しゃっては誠に困ります、此の書かき付つけさえなければ喧けん嘩かは私わたくしが勝かちだけれども、書付が出たから私の方が負まけに成ったのですが、何どっ方ちが悪いかとくと貴あな方たの胸に聞いて御覧遊ばせ、私は御当家様の家来でございます、無闇に斬っては済みますまい﹂
源﹁汝うぬの様な汚けがれた奴やっこを斬るかえ、打ぶち殺ころしてしまうわ、何か棒はありませんか﹂
國﹁此こ処ゝにあります﹂
とお國が重しげ籐とうの弓の折おれを取とり出だし、源次郎に渡す。
孝﹁貴あな方たさ様ま、左そ様んな御無理な事をして、私わたくしのような虚ひよ弱わい身体に疵きずでも出来ましては御奉公が勤まりません﹂
源﹁えい手前疑ぐるならば表向きに云えよ、何を証拠に左さよ様うなことを申す、其のくらいならなぜお國殿と枕を並べている処ところへ踏み込まん、拙せっ者しゃは御主人から頼まれたから参ったのだ、憎い奴め﹂
と云いながらはたと打ぶつ。
孝﹁痛いとうございます、貴あな方た左様な事を仰しゃっても、篤とくと胸に聞いて御覧遊ばせ、虚ひよ弱わい草履取をお打ぶちなすッて﹂
源﹁黙れ﹂
といいざまヒュウ〳〵と続け打うちに十二三も打うちのめせば、孝助はヒイ〳〵と叫びながら、ころ〳〵と転ころげり、さも恨うらめしげに源次郎の顔を睨にらむ所を、トーンと孝助の月さか代やき際ゞわを打うち割わったゆえ黒くろ血ちがタラ〳〵と流れる。
源﹁ぶち殺してもいゝ奴だが、命だけは助けてくれる、向こう後ご左様の事を言うと助けては置かぬぞ、お國どの私わたくしはもう御当家へは参りません﹂
國﹁アレ入らっしゃらないと猶なお疑ぐられますよ﹂
と云うを聞きゝ入いれず、源次郎は是を機し会おに跣はだ足しにて根ねぶ府かわ川い石しの飛とび石いしを伝いて帰りました。
國﹁お前が悪いから打ぶたれたのだよ、お隣の御二男様に飛んでもない事を云って済まないよ、お前こゝにいられちゃア迷惑だから出て行ってお呉れ﹂
と云いながら、痛みに苦しむ孝助の腰をトンと突いて、庭へ突き落おとすはずみに、根府川石に又痛く膝を打うち、アッと云って倒れると、お國は雨戸をピッシャリ締めて奥へ入いる。後あとに孝助くやしき声を震わせ、
﹁畜ちく生しょ奴うめ〳〵、犬畜生奴、自分達の悪い事を余よ所そにして私を酷ひどい目に逢わせる、殿様がお帰りになれば申上げて仕舞おうか、いや〳〵若もし此の事を表向きに殿様に申上げれば、屹きっ度とあの両人と突つき合あわせに成ると、向うには証拠の手紙があり、此こっ方ちは聞いたばかりの事だからどう云うても証拠になるまい、殊ことには向うは二男の勢い、此こち方らは悲しいかな草履取の軽い身分だから、お隣となりづからの義理でも私はお暇いとまになるに相違ない、私がいなければ殿様は殺されるに違いない、これはいっその事源次郎お國の両人を槍やりで突き殺して、自分は腹を切ってしまおう﹂
と、忠義無二の孝助が覚悟を定めましたが、さて此のあとは何どうなりますか。
六
萩原新三郎は、独りクヨ〳〵として飯島のお嬢の事ばかり思い詰めています処ところへ、折おりしも六月二十三日の事にて、山本志丈が訪ねて参りました。
志﹁其の後ごは存外の御無沙汰を致しました、ちょっと伺うかゞうべきでございましたが、如い何かにも麻布辺からの事故ゆえ、おッくうでもあり且かつ追おい々〳〵お熱く成って来たゆえ、藪やぶ医いでも相応に病びょ家うかもあり、何や彼かやで意外の御無沙汰、貴あな方たは何どうもお顔の色が宜よくない、なにお加減がわるいと、それは〳〵﹂
新﹁何分にも加減がわるく、四月の中なか旬ばご頃ろからどっと寝て居ります、飯もろく〳〵たべられない位で困ります、お前さんもあれぎり来ないのは余あんまり酷ひどいじゃアありませんか、私わたくしも飯島さんの処ところへ、ちょっと菓かし子お折りの一つも持ってお礼に行ゆきたいと思っているのに、君が来ないから私は行ゆきそこなっているのです﹂
志﹁さて、あの飯島のお嬢も、可かわ愛いそうに亡くなりましたよ﹂
新﹁えゝお嬢が亡くなりましたとえ﹂
志﹁あの時僕が君を連れて行ったのが過あやまりで、向うのお嬢がぞっこん君に惚れ込んだ様子だ、あの時何か小座敷で訳があったに違いないが、深い事でもなかろうが、もし其の事が向うの親おや父じさまにでも知れた日には、志丈が手てび引きした憎い奴め、斬って仕舞う、坊ぼう主ずッ首くびを打ぶち落す、といわれては僕も困るから、実はあれぎり参りもせんでいたところ、不ふ図と此の間飯島のお邸やしきへまいり、平左衞門様にお目にかゝると、娘は歿みまかり、女中のお米も引ひき続つゞき亡くなったと申されましたから、段々様子を聞きますと、全く君に焦こがれ死じにをしたという事です、本当に君は罪造りですよ、男も余あんまり美よく生れると罪だねえ、死んだものは仕方がありませんからお念仏でも唱えてお上げなさい、左様なら﹂
新﹁あれさ志丈さん、あゝ往いって仕舞った、お嬢が死んだなら寺ぐらいは教えてくれゝばいゝに、聞こうと思っているうちに行って仕舞った、いけないねえ、併しかしお嬢は全く己おれに惚れ込んで己を思って死んだのか﹂
と思うとカッと逆の上ぼせて来て、根が人がよいから猶なお々〳〵気が欝うつ々〳〵して病気が重くなり、それからはお嬢の俗ぞく名みょうを書いて仏壇に備え、毎日々々念仏三昧まいで暮しましたが、今日しも盆の十三日なれば精しょ霊うり棚ょうだなの支した度くなどを致してしまい、縁側へちょっと敷物を敷き、蚊かや遣りを薫くゆらして、新三郎は白地の浴ゆか衣たを着、深ふか草くさ形がたの団うち扇わを片手に蚊を払いながら、冴さえ渡る十三日の月を眺めていますと、カラコン〳〵と珍らしく下駄の音をさせて生いけ垣がきの外を通るものがあるから、不図見れば、先さきへ立ったのは年頃三十位の大おお丸まる髷まげの人柄のよい年とし増まにて、其の頃流は行やった縮ちり緬めん細ざい工くの牡ぼた丹ん芍しゃ薬くやくなどの花の附いた灯籠を提さげ、其の後あとから十七八とも思われる娘が、髪は文ぶん金きんの高たか髷まげに結い、着物は秋あき草くさ色いろ染ぞめの振ふり袖そでに、緋ひぢ縮りめ緬んの長なが襦じゅ袢ばんに繻しゅ子すの帯をしどけなく締め、上かみ方がた風ふうの塗ぬり柄えの団うち扇わを持って、ぱたり〳〵と通る姿を、月影に透すかし見るに、何どうも飯島の娘お露のようだから、新三郎は伸び上あがり、首を差し延べて向うを見ると、向うの女も立止まり、
女﹁まア不思議じゃアございませんか、萩原さま﹂
と云われて新三郎もそれと気が付き、
新﹁おや、お米さん、まアどうして﹂
米﹁誠に思いがけない、貴あな方たさ様まはお亡くなり遊ばしたという事でしたに﹂
新﹁へえ、ナニあなたの方でお亡くなり遊ばしたと承わりましたが﹂
米﹁厭いやですよ、縁起の悪い事ばかり仰しゃって、誰が左様な事を申しましたえ﹂
新﹁まアおはいりなさい、其そ処この折おり戸どのところを明けて﹂
と云うから両人内へ這は入いれば、
新﹁誠に御無沙汰を致しました、先日山本志丈が来まして、あなた方御両人ともお亡くなりなすったと申しました﹂
米﹁おやまア彼あい奴つが、私わたくしの方へ来ても貴方がお亡くなり遊ばしたといいましたが、私の考えでは、貴方様はお人がよいものだから旨く瞞だましたのです、お嬢様はお邸やしきに入らっしゃっても貴方の事計ばかり思って入らっしゃるものだから、つい口に出て迂うっ濶かりと、貴方の事を仰しゃるのが、ちら〳〵と御ごし親んぷ父さ様まのお耳にもはいり、又内にはお國という悪い妾がいるものですから邪魔を入れて、志丈に死んだと云わせ、互たがいに諦めさせようと、國の畜生がした事に違いはありませんよ、貴方がお亡くなり遊ばしたという事をお聞き遊ばして、お嬢様はおいとしいこと、剃てい髪はつして尼に成ってしまうと仰しゃいますゆえ、そんな事を成すっては大変ですから、心でさえ尼に成った気で入らっしゃれば宜よろしいと申上げて置きましたが、それでは志丈にそんな事をいわせ、互に諦めさせて置いて、お嬢さまに婿むこを取れと御親父さまから仰しゃるのを、お嬢様は、婿は取りませんからどうかお宅うちには夫婦養子をしてくださいまし、そして他ほかへ縁付くのも否いやだと強情をお張り遊ばしたものですから、お宅が大層に揉めて、親おや御ごさまがそんなら約束でもした男があってそんな事を云うのだろうと、怒おこっても、一人のお嬢様で斬る事も出来ませんから、太い奴だ、そういう訳なら柳島にも置く事が出来ない、放ほう逐ちくするというので、只今では私とお嬢様と両人お邸やしきを出まして、谷やな中かの三さん崎さきへ参り、だいなしの家いえに這は入いって居りまして、私が手内職などをして、どうか斯こうか暮しを付けていますが、お嬢様は毎日々々お念仏三ざん昧まいで入らっしゃいますよ、今日は盆の事ですから、方ほう々〴〵お参りにまいりまして、晩おそく帰る処ところでございます﹂
新﹁なんの事です、そうでございますか、私わたくしも嘘でも何なんでもありません、此の通りお嬢さまの俗名を書いて毎日念仏しておりますので﹂
米﹁それ程に思って下さるは誠に有難うございます、本当にお嬢様は仮たと令い御勘当に成っても、斬られてもいゝから貴方のお情なさけを受けたいと仰しゃって入らっしゃるのですよ、そしてお嬢様は今晩此こち方らへお泊め申しても宜しゅうございますかえ﹂
新﹁私わたしの孫まご店だなに住んで居る、白はく翁おう堂どう勇ゆう齋さいという人にん相そう見みが、万事私わたくしの世話をして喧やかましい奴だから、それに知れないように裏からそっとお這入り遊ばせ﹂
と云う言葉に随い、両人共に其の晩泊り、夜よの明けぬ内に帰り、是より雨の夜よも風の夜も毎晩来ては夜の明けぬ内に帰る事十三日より十九日まで七なの日かの間重なりましたから、両人が仲は漆うるしの如く膠にかわの如くになりまして新三郎も現うつゝを抜かして居りましたが、こゝに萩原の孫まご店だなに住む伴藏というものが、聞いていると、毎晩萩原の家うちにて夜よる夜よな中か女の話はな声しごえがするゆえ、伴藏は変に思いまして、旦那は人がよいものだから悪い女に掛り、騙だまされては困ると、密そっと抜け出て、萩原の家うちの戸の側へ行って家の様子を見ると、座敷に蚊か帳やを吊り、床とこの上に比ひよ翼くご※ざ﹇#﹁蓙﹂の左の﹁人﹂に代えて﹁口﹂、52-11﹈を敷き、新三郎とお露と並んで坐っているさまは真まことの夫婦のようで、今は耻かしいのも何も打うち忘わすれてお互いに馴なれ々〳〵しく、
露﹁アノ新三郎様、私わたくしが若もし親に勘当されましたらば、米と両人をお宅うちへ置いて下さいますかえ﹂
新﹁引ひき取とりますとも、貴あな方たが勘当されゝば私は仕しあ合わせですが、一人娘ですから御勘当なさる気きづ遣かいはありません、却かえって後あとで生なま木きを割さかれるような事がなければ宜いいと思って私は苦労でなりませんよ﹂
露﹁私わたくしは貴方より外ほかに夫おっとはないと存じておりますから、仮たと令い此の事がお父とっさまに知れて手てう打ちに成りましても、貴方の事は思い切れません、お見捨てなさるときゝませんよ﹂
と膝に凭もたれ掛りて﹇#﹁凭もたれ掛りて﹂は底本では﹁恁もたれ掛りて﹂﹈睦むつましく話をするは、余よっぽど惚ほれている様子だから。
伴﹁これは妙な女だ、あそばせ言葉で、どんな女かよく見てやろう﹂
と差し覗のぞいてハッとばかりに驚き、
﹁化ばけ物ものだ〳〵﹂
と云いながら真まっ青さおになって夢中で逃にげ出だし、白翁堂勇齋の処ところへ往ゆこうと思って駈かけ出だしました。
七
飯島家にては忠義の孝助が、お國と源次郎の奸わる策だくみの一いち伍ぶし一ゞゅ什うを立たち聞ぎゝ致しまして、孝助は自分の部屋へ帰り、もう是までと思い詰め、姦かん夫ぷ姦かん婦ぷを殺すより外ほかに手てだ段てはないと忠心一途ずに思い込み、それに就ついては仮たと令い己おれは死んでも此のお邸やしきを出まい、殿様に御ごべ別つじ条ょうのないように仕ようと、是から加減が悪いとて引ひき籠こもっており、翌よく朝ちょうになりますと殿様はお帰りになり、残暑の強い時分でありますから、お國は殿様の側で出来たてのお供そなえ見たように、団うち扇わであおぎながら、
國﹁殿様御機嫌宜よろしゅう、私わたくしはもう殿様にお暑さのお中あたりでもなければよいと毎日心配ばかりしています﹂
飯﹁留守へ誰たれも参りは致さなかったか﹂
國﹁あの相あい川かわさまが一ちょ寸っとお目通りが致したいと仰しゃって、お待ち申して居ります﹂
飯﹁ほウ相川新しん五ご兵べ衞えが、又医者でも頼みに参ったのかも知れん、いつもながら粗そゝ忽っかしい爺さんだよ、まア此こち方らへ通せ﹂
と云っていると相川は
﹁ハイ御免下さい﹂
と遠慮もなく案内も乞わず、ズカ〳〵奥へ通り、
相﹁殿様お帰りあそばせ、御機嫌さま、誠に存外の御無沙汰を致しました、何い時つも相変らず御ごば番んづ疲かれもなく、日にち々〳〵御苦労さまにぞんじます、厳しい残暑でございます﹂
飯﹁誠に熱い事で、おとくさまの御病気は如いか何ゞでござるな﹂
相﹁娘の病気もいろ〳〵と心配も致しましたが、何分にも捗はか々〴〵しく参りませんで、それに就ついて誠にどうも……アヽ熱い、お國さま先せん達だっては誠に御馳走様に相あい成なりまして有難う、まだお礼もろく〳〵申上げませんで、へえ、アヽ熱い、誠に熱い、どうも熱い﹂
飯﹁まア少し落おち着つけば風が這は入いって随分凉しくなります﹂
相﹁折おり入いって殿様にお願いの事がございまして、罷まか出りいでました、何どうかお聞きゝ済ずみを願います﹂
飯﹁はてナ、どういう事で﹂
相﹁お國様やなにかには少々お話が出でき来か兼ねますから、どうか御ごき近んじ習ゅの方々を皆遠ざけて戴きとう存じます﹂
飯﹁左様か宜よろしい、皆あちらへ参り、此こち方らへ参らん様にするが宜しい、シテ何どういうことで﹂
相﹁さて殿様、今日態わざ々〳〵出ましたは折入って殿様にお願い申したいは娘の病気の事に就ついて出ましたが、御存じの通り彼かれの病気も永い事で、私わたくしも種いろ々〳〵と心配いたしましたけれども、病の様子が判はっ然きりと解りませんでしたが、よう〳〵ナ昨晩当人が私わたくしの病は実は是これ々〳〵の訳だと申しましたから、なぜ早く云わん、けしからん奴だ、不孝ものであると小言は申しましたが、彼あれは七歳の時母に別れ今年十八まで男の手に丹誠して育てましたにより、あの通りの初う心ぶな奴で何もかも知らん奴だから、そこが親馬鹿の譬たとえの通りですが、殿様訳をお話し申してもお笑い下さるな、お蔑さげすみ下さるな﹂
飯﹁どういう御病気で﹂
相﹁手前一人の娘でございますから、早くナ婿むこでも貰い、楽隠居がしたいと思い、日頃信心気けのない私わたくしなれども、娘の病気を治そうと思い、夏とは云いながら此の老人が水をあびて神かみ仏ほとけへ祈るくらいな訳で、ところが昨夜娘のいうには、私わたくしの病気は実は是これ々〳〵といいましたが、其の事は乳おん母ばにも云われないくらいな訳ですが、其そ処こが親馬鹿の譬たとえの通り、お蔑さげすみ下さるな﹂
飯﹁どういう御病気ですな﹂
相﹁私わたくしもだん〳〵と心配をいたして、どうか治してやりたいと心得、いろ〳〵医者にも掛けましたが、知れない訳で、是ばかりは神にも仏にも仕ようがないので、なぜ早く云わんと申しました﹂
飯﹁どういう訳で﹂
相﹁誠に申しにくい訳で、お笑い成さるな﹂
飯﹁何なんだかさっぱりと訳が解りませんね﹂
相﹁実は殿様が日頃お誉ほめなさる此こち方らの孝助殿、あれは忠義な者で、以前は然しかるべき侍の胤たねでござろう、今は零おち落ぶれて草履取をしていても、志こゝろざしは親孝行のものだ、可かわ愛いいものだと殿様がお誉めなされ、あれには兄弟も親みよ族りもない者だから、行ゆく々〳〵は己おれが里さと方かたに成って他ほかへ養子にやり、相応な侍にしてやろうと仰しゃいますから、私わたくしも折おり々〳〵は宅うちの家来善ぜん藏ぞうなどに、飯島様の孝助殿を見習えと叱り付けますものだから、台所のおさんまでが孝助さんは男おと振こぶりもよし人柄もよし、優しいと誉め、乳おん母ばまでが彼かれ是これと誉めはやすものだから、娘も、殿様お笑い下さるな、私は汗の出るほど耻はじ入いります、実は疾とくより娘があの孝助殿を見み染そめ、恋こい煩わずらいをして居ります、誠に面めん目ぼくない、それをサ婆ばゞアにもいわないで、漸ようやく昨夜になって申しましたから、なぜ早く云わん、一合ごう取っても武士の娘という事が浄じょ瑠うる璃りぼ本んにもあるではないか、侍の娘が男を見染めて恋煩いをするなどとは不孝ものめ、仮たと令い一人の娘でも手打にする処ところだが、併しかし紺こん看かん板ばんに真しん鍮ちゅ巻うまきの木刀を差した見る影もない者に惚れたというのは、孝助殿の男振の好いいのに惚れたか、又は姿の好いのに惚れ込んだかと難じてやりました、そうすると娘がお父とっさま実は孝助殿の男振にも姿にも惚れたのではございません、外ほかに唯たゞ一つの見みど所ころがありますからと斯こういいますから、何ど処こに見所があると聞きますと、あのお忠義が見所でございます、主しゅうへ忠義のお方は、親にも孝行でございましょうねえ、といいましたから、それは親に孝なるものは主へ忠義、主へ忠なるものは親へは必ず孝なるものだといいますと、娘が私わたくしの家うちはお高たかは僅わずか百俵二人にん扶ふ持ちですから、他ほ家かから御養子をしてお父さまが御隠居をなさいましても、もし其の御養子が心の良くない人でも来た其の時は、此こち方らの高が少ないから、私の肩身が狭く、遂ついにはそれがために私までが、倶ともにお父さまを不孝にするように成っては済みません、私も只今まで御恩を受けましたにより何どうか不孝をしたくない、就つきましては仮たと令い草履取でも家来でも志の正しい人を養子にして、夫婦諸共親に孝行を尽つくしたいと思いまして、孝助殿を見染め、寝ても覚めても諦められず、遂に病となりまして誠に相済みません、と涙を流して申しますから、私も至しご極く尤もっともの様にも聞えますから、兎に角お願いに出て、殿様から孝助殿を申受けて来ようと云って参りましたが、どうかあの孝助殿を手前の養子に下さるように願います﹂
飯﹁それはまア有難いこと、差上げたいね﹂
相﹁ナニ下さる、あゝ有難かった﹂
飯﹁だが一応当人へ申もう聞しきけましょう、嘸さぞ悦ぶ事で、孝助が得心の上で確しかと御返事を申上げましょう﹂
相﹁孝助殿は宜よろしい、貴あな方たさえ諾うんと仰しゃって下さればそれで宜しい﹂
飯﹁私が養子に参るのではありませんから、そうはいかない﹂
相﹁孝助殿はいやと云う気きづ遣かいは決してありません、唯たゞ殿様から孝助行ってやれとお声掛りを願います、あれは忠義ものだから、殿様のお言葉は背そむきません、私わたくしも当年五十五歳で、娘は十八になりましたから早く養子をして身体を固めてやりたい、殿様どうか願います﹂
飯﹁宜しい、差上げましょう、御ごう胡ろ乱んに思おぼ召しめすならば金きん打ちょうでも致そうかね﹂
相﹁そのお言葉ばかりで沢山、有難うございます、早速娘に申し聞けましたら、嘸さぞ悦ぶ事でしょう、これがね殿様が孝助に一応申し聞けて返事をするなどと仰しゃると、又娘が心配して、仮たと令い殿様が下さる気でも孝助殿が何どうだかなどゝ申しましょうが、そうはっきり事が定きまれば、娘は嬉しがって飯の五六杯位も食べられ、一足そく飛とびに病気も全快致しましょう、善は急げの譬たとえで、明みょ日うにち御ごば番んが帰えりに結ゆい納のうの取りかわせを致しとう存じますから、どうか孝助殿をお供に連れてお出で下さい、娘にも一ちょ寸っと逢わせたい﹂
飯﹁まア一いっ献こん差上げるから﹂
と云っても相川は大喜びで、汗をダク〳〵流し、早く娘に此の事を聞かせとうございますから、今日はお暇いとまを申しましょうと云いながら、帰ろうとして、
﹁アイタ、柱に頭をぶっつけた﹂
飯﹁そゝっかしいから誰たれか見て上げな﹂
飯島平左衞門も心嬉しく、鼻高たか々〴〵と、
飯﹁孝助を呼べ﹂
國﹁孝助は不快で引いて居ります﹂
飯﹁不快でも宜しい、一ちょ寸っと呼んでまいれ﹂
國﹁お竹どん〳〵、孝助を一寸呼んでおくれ、殿様が御用がありますと﹂
竹﹁孝助どん〳〵、殿様が召しますよ﹂
孝﹁へい〳〵只今上あがります﹂
と云ったが、額の疵きずがあるから出られません。けれども忠義の人ゆえ、殿様の御用と聞いて額の疵も打うち忘わすれて出て参りました。
飯﹁孝助此こ処ゝへ来い〳〵、皆あちらへ参れ、誰たれもまいる事はならんぞ﹂
孝﹁大だい分ぶお熱うございます、殿さまは毎日の御番疲れもありは致すまいかと心配をいたして居ります﹂
飯﹁其そ方ちは加減がわるいと云って引ひき籠こもっているそうだが、どうじゃナ、手前に少し話したいことがあって呼んだのだ、外ほかの事でもないが、水すい道どう端ばたの相川におとくという今年十八になる娘があるナ、器量も人並に勝すぐれ殊ことに孝行もので、あれが手前の忠義の志に感服したと見えて、手前を思い詰め、煩わずらっているくらいな訳で、是非手前を養子にしたいとの頼みだから行ってやれ﹂
と孝助の顔を見ると、額に傷があるから、
飯﹁孝助どう致した、額の疵きずは﹂
孝﹁へい〳〵﹂
飯﹁喧けん嘩かでもしたか、不ふら埓ちな奴だ、出世前の大事の身体、殊に面めん体ていに疵を受けているではないか、私わたくしの遺いこ恨んで身体に疵を付けるなどとは不忠者め、是が一ひと人りま前えの侍なれば再び門を跨またいで邸やしきへ帰る事は出来ぬぞ﹂
孝﹁喧嘩を致したのではありません、お使い先で宮みや邊べ様の長なが家やし下たを通りますと、屋根から瓦かわらが落ちて額に中あたり、斯かよ様うに怪け我がを致しました、悪い瓦でございます、お目めざ障わりに成って誠に恐おそ入れいります﹂
飯﹁屋根瓦の傷ではない様だ、まアどうでもいゝが、併しかし必ず喧嘩などをして疵を受けてはならんぞ、手前は真まっ直すぐな気性だが、向うが曲って来れば真直に行ゆく事は出来まい、それだから其そ処こを避よけて通るようにすると広い所へ出られるものだ、何なんでも堪かん忍にんをしなければいけんぞ、堪忍の忍にんの字は刃やいばの下に心を書く、一ツ動けばむねを斬るごとく何でも我がま慢んが肝かん心じんだぞよ、奉公するからは主君へ上げ置いた身体、主人へ上げると心得て忠義を尽つくすのだ、決して軽かる挙はずみの事をするな、曲った奴には逆さからうなよ﹂
という意見が一々胸に堪こたえて、孝助は唯たゞへい〳〵有難うございますと泣なく々〳〵、
孝﹁殿様来月四日に中川へ釣つりに入いらっしゃると承わりましたが、此の間あいだお嬢様がお亡くなり遊ばして間まもない事でございますから、何どうか釣をお止やめ下さいますように、若もしもお怪我があってはいけませんから﹂
飯﹁釣が悪ければやめようよ、決して心配するな、今云った通り相川へ行ってやれよ﹂
孝﹁何どち方らへかお使つかいに参りますのですか﹂
飯﹁使つかいじゃアない、相川の娘が手前を見染めたから養子に行って遣やれ﹂
孝﹁へえ成程、相川様へどなたが御養子になりますのです﹂
飯﹁なアに手前が往ゆくのだ﹂
孝﹁私わたくしはいやでございます﹂
飯﹁べらぼうな奴だ手前の身の出世になる事だ、是ほど結構な事はあるまい﹂
孝﹁私わたくしは何い時つまでも殿様の側に生涯へばり附いております、ふつゝかながら片へん時じも殿さまのお側を放さずお置き下さい﹂
飯﹁そんな事を云っては困るよ、己おれがもう請うけをした、金きん打ちょうをしたから仕方がない﹂
孝﹁金打をなすッてもいけません﹂
飯﹁それじゃア己が相川に済まんから腹を切らんければならん﹂
孝﹁腹を切っても構いません﹂
飯﹁主人の言葉を背そむくならば永ながの暇いとまを出すぞ﹂
孝﹁お暇に成っては何なんにもならん、そういう訳でございますならば、ちょっと一ひと言ことぐらい斯こう云う訳だと私わたくしにお話し下さっても宜よろしいのに﹂
飯﹁それは己が悪かった、此の通り板の間へ手を突いて謝あやまるから行ってやれ﹂
孝﹁そう仰しゃるなら仕方がありませんから取とり極きめだけして置いて、身体は十年が間あいだ参りますまい﹂
飯﹁そんな事が出来るものか、翌あ日す結納を取とり交かわす積りだ、向うでも来月初旬に婚礼を致す積りだ﹂
との事を聞いて孝助の考えまするに、己が養子にゆけば、お國と源次郎と両人で殿様を殺すに違いないから、今夜にも両人を槍やりで突つき殺ころし、其の場で己も腹掻かき切ゝって死のうか、そうすれば是が御主人様の顔の見納め、と思えば顔がん色しょくも青くなり、主人の顔を見て涙を流せば、
飯﹁解らん奴だな、相川へ参るのはそんなに厭いやか、相川はつい鼻の先の水道端だから毎日でも往ゆき来きの出来る所、何も気きづ遣かう事はない、手前は気強いようでもよく泣くなア、男おと子こたるべきものがそんな意い気く地じがない魂ではいかんぞ﹂
孝﹁殿様私わたくしは御当家様へ三月五日に御奉公に参りましたが、外ほかに兄弟も親もない奴だと仰しゃって目を掛けて下さる、其の御恩の程は私は死んでも忘れは致しませんが、殿様はお酒を召上ると正体なく御げ寝しなさる、又召上らなければ御寝なられません故、少し上あがって下さい、余りよく御寝なると、どんな英雄でも、随分悪者の為に如い何かなる目に逢うかも知れません、殿様決して御油断はなりません、私はそれが心配でなりません、それから藤田様から参りましたお薬は、どうか隔いち日にちおきに召上って下さい﹂
飯﹁なんだナ、遠えん国ごくへでも行ゆくような事を云って、そんな事は云わんでもいゝわ﹂
八
萩原の家うちで女の声がするから、伴藏が覗のぞいて恟びっくりし、ぞっと足元から総そう毛け立だちまして、物をも云わず勇齋の所へ駆かけ込こもうとしましたが、怖いから先まず自分の家うちへ帰り、小さくなって寝てしまい、夜よの明けるのを待まち兼かねて白翁堂の宅うちへやって参り、
伴﹁先生々々﹂
勇﹁誰だのウ﹂
伴﹁伴藏でごぜえやす﹂
勇﹁なんだのウ﹂
伴﹁先生一ちょ寸っとこゝを明けて下さい﹂
勇﹁大層早く起きたのウ、お前めえには珍らしい早はや起おきだ、待て〳〵今明けてやる﹂
と掛かき鐶がねを外はずし明けてやる。
伴﹁大層真まっ暗くらですねえ﹂
勇﹁まだ夜よが明けきらねえからだ、それに己おれは行あん灯どうを消して寝るからな﹂
伴﹁先生静かにおしなせえ﹂
勇﹁手てめ前えが慌あわてゝいるのだ、なんだ何しに来た﹂
伴﹁先生萩原さまは大変ですよ﹂
勇﹁何どうかしたか﹂
伴﹁何うかしたかの何なんのという騒ぎじゃございやせん、私わっちも先生も斯こうやって萩原様の地面内うちに孫まご店だなを借りて、お互いに住すまっており、其の内でも私は尚なお萩原様の家来同様に畑をうなったり庭を掃いたり、使い早はや間まもして、嚊かゝあは洒すゝぎ洗濯をしておるから、店たな賃ちんもとらずに偶たまには小こづ遣かいを貰ったり、衣きも物のの古いのを貰ったりする恩のある其の大切な萩原様が大変な訳だ、毎晩女が泊りに来ます﹂
勇﹁若くって独ひと身りも者のでいるから、随分女も泊りに来るだろう、併しかし其の女は人の悪いようなものではないか﹂
伴﹁なに、そんな訳ではありません、私わっちが今日用が有って他ほかへ行って、夜やち中ゅうに帰けえってくると、萩原様の家うちで女の声がするから一ちょ寸っと覗のぞきました﹂
勇﹁わるい事をするな﹂
伴﹁するとね、蚊か帳やがこう吊つってあって、其の中に萩原様と綺麗な女がいて、其の女が見捨てゝくださるなというと、生涯見捨てはしない、仮たと令い親に勘当されても引ひき取とって女房にするから決して心配するなと萩原様がいうと、女が私わたくしは親に殺されてもお前まえさんの側は放れませんと、互いに話しをしていると﹂
勇﹁いつまでもそんな所を見ているなよ﹂
伴﹁ところがねえ、其の女が唯たゞの女じゃアないのだ﹂
勇﹁悪党か﹂
伴﹁なに、そんな訳じゃアない、骨と皮ばかりの痩やせた女で、髪は島田に結って鬢びんの毛が顔に下さがり、真まっ青さおな顔で、裾すそがなくって腰から上ばかりで、骨と皮ばかりの手で萩原様の首ったまへかじりつくと、萩原様は嬉しそうな顔をしていると其の側に丸まる髷まげの女がいて、此こい奴つも痩やせて骨と皮ばかりで、ズッと立たち上あがって此こち方らへくると、矢やっ張ぱり裾が見えないで、腰から上ばかり、恰まるで絵に描かいた幽霊の通り、それを私わっちが見たから怖くて歯の根も合わず、家うちへ逃げ帰けえって今まで黙っていたんだが、何どういう訳で萩原様があんな幽霊に見込まれたんだか、さっぱり訳が分りやせん﹂
勇﹁伴藏本当か﹂
伴﹁ほんとうか嘘かと云って馬鹿〳〵しい、なんで嘘を云いますものか、嘘だと思うならお前さん今夜行って御覧なせえ﹂
勇﹁己おらアいやだ、ハテナ昔から幽霊と逢あい引びきするなぞという事はない事だが、尤もっとも支那の小説にそういう事があるけれども、そんな事はあるべきものではない、伴藏嘘ではないか﹂
伴﹁だから嘘なら行って御覧なせえ﹂
勇﹁もう夜よも明けたから幽霊なら居る気きづ遣かいはない﹂
伴﹁そんなら先生、幽霊と一緒に寝れば萩原様は死にましょう﹂
勇﹁それは必ず死ぬ、人は生きている内は陽気盛んにして正しく清く、死ねば陰気盛んにして邪よこしまに穢けがれるものだ、それゆえ幽霊と共に偕かい老ろう同どう穴けつの契ちぎりを結べば、仮たと令え百歳の長寿を保つ命も其のために精せい血けつを減らし、必ず死ぬるものだ﹂
伴﹁先生、人の死ぬ前には死しそ相うが出ると聞いていますが、お前さん一ちょ寸っと行って萩原様を見たら知れましょう﹂
勇﹁手前も萩原は恩人だろう、己おれも新三郎の親萩原新しん左ざえ衞も門ん殿の代から懇意にして、親おや御ごの死ぬ時に新三郎殿の事をも頼まれたから心配しなければならない、此の事は決して世間の人に云うなよ﹂
伴﹁えゝ〳〵嚊かゝあにも云わない位な訳ですから、何なんで世間へ云いましょう﹂
勇﹁屹きっ度と云うなよ、黙っておれ﹂
其の内に夜よもすっかり明け放はなれましたから、親切な白翁堂は藜あかざの杖をついて、伴藏と一緒にポク〳〵出懸けて、萩原の内へまいり、
﹁萩原氏うじ々々﹂
新﹁何どな方た様でございます﹂
勇﹁隣の白翁堂です﹂
新﹁お早い事、年寄は早はや起おきだ﹂
なぞと云いながら戸を引ひき明あけ
﹁お早う入らっしゃいました、何か御用ですか﹂
勇﹁貴あな方たの人相を見ようと思って来ました﹂
新﹁朝っぱらから何なんでございます、一つ地面内うちにおりますから何い時つでも見られましょうに﹂
勇﹁そうでない、お日さまのお上あがりになろうとする所で見るのが宜よいので、貴方とは親おや御ごの時分から別べっ懇こんにした事だから﹂
と懐ふところより天てん眼がん鏡きょうを取出して、萩原を見て。
新﹁なんですねえ﹂
勇﹁萩原氏、貴方は二は十つ日かを待たずして必ず死ぬ相そうがありますよ﹂
新﹁へえ私わたくしが死にますか﹂
勇﹁必ず死ぬ、なか〳〵不思議な事もあるもので、どうも仕方がない﹂
新﹁へえそれは困った事で、それだが先生、人の死ぬ時はその前に死相の出るという事は予かねて承わって居り、殊ことに貴あな方たは人相見の名人と聞いておりますし、又昔から陰いん徳とくを施ほどこして寿命を全くした話も聞いていますが、先生どうか死なゝい工夫はありますまいか﹂
勇﹁其の工夫は別にないが、毎晩貴方の所へ来る女を遠ざけるより外ほかに仕方がありません﹂
新﹁いゝえ、女なんぞは来やアしません﹂
勇﹁そりゃアいけない、昨夜覗のぞいて見たものがあるのだが、あれは一体何者です﹂
新﹁あなた、あれは御心配をなさいまする者ではございません﹂
勇﹁是程心配になる者はありません﹂
新﹁ナニあれは牛込の飯島という旗はた下もとの娘で、訳あってこの節は谷中の三崎村へ、米という女中と二人で暮しているも、皆みんな私わたくしゆえに苦労するので、死んだと思っていたのに此の間図はからず出逢い、其の後のちは度たび々〳〵逢あい引びきするので、私はあれを行ゆく〳〵は女房に貰う積りでございます﹂
勇﹁飛んでもない事をいう、毎晩来る女は幽霊だがお前知らないのだ、死んだと思ったなら猶なお更さら幽霊に違いない、其のマア女が糸のように痩やせた骨と皮ばかりの手で、お前さんの首ッたまへかじり付くそうだ、そうしてお前さんは其の三崎村にいる女の家うちへ行った事があるか﹂
といわれて行った事はない、逢引したのは今晩で七日目ですが。というものゝ、白翁堂の話に萩原も少し気味が悪くなったゆえ顔がん色しょくを変え。
新﹁先生、そんなら是から三崎へ行って調べて来ましょう﹂
と家うちを立たち出いで、三崎へ参りて、女暮しで斯こういう者はないかと段々尋ねましたが、一向に知れませんから、尋ねあぐんで帰りに、新しん幡ばん随ずい院ゝんを通り抜けようとすると、お堂の後うしろに新あら墓はかがありまして、それに大きな角かく塔とう婆ばが有って、その前に牡丹の花の綺麗な灯籠が雨ざらしに成ってありまして、此の灯籠は毎晩お米が点つけて来た灯籠に違いないから、新三郎はいよ〳〵訝おかしくなり、お寺の台所へ廻り、
新﹁少々伺うかゞいとう存じます、あすこの御おど堂うの後うしろに新らしい牡丹の花の灯籠を手た向むけてあるのは、あれは何どち方らのお墓でありますか﹂
僧﹁あれは牛込の旗はた下もと飯島平左衞門様の娘で、先さき達だって亡くなりまして、全体法ほう住じゅ寺うじへ葬むる筈はずのところ、当院は末まつ寺じじゃから此こち方らへ葬むったので﹂
新﹁あの側に並べてある墓は﹂
僧﹁あれはその娘のお附つきの女中で是も引続き看病疲れで死去いたしたから、一緒に葬られたので﹂
新﹁そうですか、それでは全く幽霊で﹂
僧﹁なにを﹂
新﹁なんでも宜よろしゅうございます、左様なら﹂
と云いながら恟びっくりして家うちに駈け戻り此の趣おもむきを白翁堂に話すと、
勇﹁それはまア妙な訳で、驚いた事だ、なんたる因果な事か、惚れられるものに事を替えて幽霊に惚れられるとは﹂
新﹁何どうもなさけない訳でございます、今晩もまたまいりましょうか﹂
勇﹁それは分らねえな、約束でもしたかえ﹂
新﹁へえ、あしたの晩屹きっ度と来ると、約束をしましたから、今晩何どうか先生泊って下さい﹂
勇﹁真まっ平ぴら御ごめ免んだ﹂
新﹁占いでどうか来ないようになりますまいか﹂
勇﹁占いでは幽霊の所しょ置ちは出来ないが、あの新幡随院の和尚は中々に豪えらい人で、念仏修業の行者で私も懇意だから手紙をつけるゆえ、和尚の所へ行って頼んで御覧﹂
と手紙を書いて萩原に渡す。萩原はその手紙を持ってやってまいり、
﹁何どうぞ此の書面を良りょ石うせき和尚様へ上げて下さいまし﹂
と、差出すと、良石和尚は白翁堂とは別ならぬ間柄ゆえ、手紙を見て直すぐに萩原を居間へ通せば、和尚は木綿の座蒲団に白はく衣えを着て、其の上に茶色の衣ころもを着て、当年五十一歳の名僧、寂じゃ寞くまくとしてちゃんと坐り、中々に道徳いや高く、念仏三昧という有あり様さまで、新三郎は自ひと然りでに頭が下さがる。
良﹁はい、お前が萩原新三郎さんか﹂
新﹁へえ粗そこ忽つの浪士萩原新三郎と申します、白翁堂の書面の通り、何なんの因果か死霊に悩まされ難なん渋じゅうを致しますが、貴僧の御ごほ法うを以もって死霊を退散するようにお願い申します﹂
良﹁此こち方らへ来なさい、お前に死相が出たという書面だが、見てやるから此方へ来なさい、成程死ぬなア近きん々〳〵に死ぬ﹂
新﹁何どうかして死なゝいように願います﹂
良﹁お前さんの因縁は深しい訳のある因縁じゃが、それをいうても本当にはせまいが、何しろ口くや惜しくて祟たゝる幽霊ではなく、只たゞ恋しい〳〵と思う幽霊で、三世せも四世も前から、ある女がお前を思うて生きかわり死にかわり、容かたちは種いろ々〳〵に変えて附つき纒まとうて居いるゆえ、遁のがれ難がたい悪因縁があり、どうしても遁れられないが、死霊除よけのために海かい音おん如にょ来らいという大切の守りを貸してやる、其の内に折角施せ餓が鬼きをしてやろうが、其のお守まもりは金きん無む垢くじゃに依よって人に見せると盗まれるよ、丈たけは四寸二分で目方も余程あるから、慾の深い奴は潰つぶしにしても余程の値ねうちだから盗むかも知れない、厨ず子しごと貸すにより胴どう巻まきに入れて置くか、身体に脊せ負おうておきな、それから又こゝにある雨うほ宝うだ陀らに羅ぎ尼ょ経うというお経をやるから読どく誦じゅしなさい、此の経は宝を雨ふらすと云うお経で、是を読誦すれば宝が雨のように降るので、慾よく張ばったようだが決してそうじゃない、是を信心すれば海の音という如来さまが降って来るというのじゃ、この経は妙みょ月うげ長つち者ょうじゃという人が、貧乏人に金を施ほどこして悪い病の流は行やる時に救ってやりたいと思ったが、宝がないから仏の力を以もって金を貸してくれろと云った所が、釋しゃ迦かがそれは誠に心こゝ懸ろがけの尊とうとい事じゃと云って貸したのが即すなわちこのお経じゃ、又御おふ札だをやるから方ほう々〴〵へ貼はって置いて、幽霊の入はいり所どころのないようにして、そしてこのお経を読みなさい﹂
と親切の言葉に萩原は有がたく礼を述べて立たち帰かえり、白翁堂に其の事を話し、それから白翁堂も手伝って其の御札を家うちの四方八方へ貼り、萩原は蚊か帳やを吊って其の中へ入り、彼かの陀羅尼経を読もうとしたが中々読めない。曩のう謨ぼば婆ぎゃ帝ばて駄いば、婆さぎ捏ゃら具にり灑ぐし耶ゃや、怛たゝ陀ぎ多ゃた野や、怛たに也やた陀おん素そろ噌べ閉い、跋ばん捺だ底らばち。※ぼう※ぎゃ阿れい左あし※ゃれ阿いあ左しゃ跛にれ※い﹇#﹁目+︵離れたくさかんむり/︵罘−不︶/冖/目︶﹂、74-2﹈﹇#﹁口+﹁隸﹂の﹁木﹂に代えて﹁ヒ﹂、74-2﹈﹇#﹁口+﹁隸﹂の﹁木﹂に代えて﹁ヒ﹂、74-2﹈﹇#﹁口+﹁隸﹂の﹁木﹂に代えて﹁ヒ﹂74-2﹈。何なんだか外国人の譫うわ語ごとの様で訳がわからない。其の中うち上野の夜よの八ツの鐘かねがボーンと忍しのぶヶ岡おかの池に響き、向むこうヶ岡おかの清水の流れる音がそよ〳〵と聞え、山に当る秋風の音ばかりで、陰いん々〳〵寂せき寞ばく世間がしんとすると、いつもに変らず根ね津づの清水の下もとから駒こま下げ駄たの音高くカランコロン〳〵とするから、新三郎は心のうちで、ソラ来たと小さくかたまり、額ひたいから腮あごへかけて膏あぶ汗らあせを流し、一生懸命一心不乱に雨うほ宝うだ陀らに羅き尼ょ経うを読誦して居ると、駒下駄の音が生いけ垣がきの元でぱったり止やみましたから、新三郎は止よせばいゝに念仏を唱えながら蚊帳を出て、そっと戸の節穴から覗のぞいて見ると、いつもの通り牡丹の花の灯籠を下げて米が先へ立ち、後あとには髪を文金の高たか髷まげに結い上げ、秋あき草くさ色いろ染ぞめの振ふり袖そでに燃えるような緋ひぢ縮りめ緬んの長なが襦じゅ袢ばん、其の綺麗なこと云うばかりもなく、綺麗ほど猶なお怖く、これが幽霊かと思えば、萩原は此の世からなる焦しょ熱うね地つじ獄ごくに落ちたる苦しみです、萩原の家うちは四方八方にお札が貼ってあるので、二人の幽霊が憶おくして後あとへ下さがり、
米﹁嬢さまとても入れません、萩原さんはお心変りが遊ばしまして、昨晩のお言葉と違い、貴あな方たを入れないように戸締りがつきましたから、迚とても入ることは出来ませんからお諦め遊ばしませ、心の変った男は迚も入れる気きづ遣かいはありません、心の腐った男はお諦めあそばせ﹂
と慰むれば、
嬢﹁あれ程迄にお約束をしたのに、今夜に限り戸締りをするのは、男の心と秋の空、変り果てたる萩原様のお心が情なさけない、米や、どうぞ萩原様に逢わせておくれ、逢わせてくれなければ私は帰らないよ﹂
と振袖を顔に当て、潜さめ々〴〵と泣く様子は、美しくもあり又物もの凄すごくもなるから、新三郎は何も云わず、只ただ南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ、南無阿弥陀仏。
米﹁お嬢様、あなたが是程までに慕うのに、萩原様にゃアあんまりなお方ではございませんか、若もしや裏口から這は入いれないものでもありますまい、入らっしゃい﹂
と手を取って裏口へ廻ったが矢やっ張ぱり這入られません。
九
飯島の家うちでは妾のお國が、孝助を追出すか、しくじらするように種いろ々〳〵工夫を凝こらし、この事ばかり寝ても覚めても考えている、悪い奴だ。殿様は翌日御ごば番んでお出でむ向きに成った後あとへ、隣とな家りの源次郎がお早うと云いながらやって来ましたから、お國はしらばっくれて、
國﹁おや、いらっしゃいまし、引続きまして残暑が強く皆様御機嫌よろしゅう、此こち方らは風がよく入りますからいらっしゃいまし﹂
源次郎は小声になり、
﹁孝助は昨ゆう夜べの事を喋しゃべりはしないかえ﹂
國﹁いえサ、孝助が屹きっ度と告つげ口ぐちをしますだろうと思いましたに、告口をしませんで、殿様に屋根瓦が落ちて頭へ当り怪我をしたと云ってね、其の時私わたくしは弓の折おれで打ぶたれたと云わなければよいと胸が悸どき動〳〵しましたが、あの事は何なんとも云いませんが、云わずにいるだけ訝おかしいではありませんか﹂
と小声で云って、態わざと大声で、
國﹁お熱い事この節のように熱くっては仕方がありません﹂
又小声になり。
國﹁いえ、それに水道端の相川新五兵衞様の一人娘のお徳様が、宅うちの草履取の孝助に恋煩いをしているとサ、まア本当に茶ちゃ人じんも有ったものですねえ、馬鹿なお嬢様だよ、それからあの相川の爺さんが汗をだく〳〵流しながら、殿様に願って孝助をくれろと頼むと、殿様も贔ひい屓きの孝助だから上げましょうと相談が出来まして、相川は帰りましたのですよ、そうして、今日は相川で結納の取とり交かわせになるのですとさ﹂
源﹁それじゃア宜よろしい、孝助が往いって仕舞えば仔しさ細いはない﹂
國﹁いえサ、水道端の相川へ養子にやるのに、宅うちの殿様がお里に成たって遣やるのだからいけませんよ、そうすると、彼あい奴つが此の家うちの息子の風ふうをしましょう、草履取でさえ随分ツンケンした奴だから、そうなれば屹きっ度とこの間の意いし趣ゅを返すに違いはありません、何なんでも彼奴が一件を立たち聞ぎきしたに違いないから、貴あな方た何どうかして孝助奴めを殺して下さい﹂
源﹁彼奴は剣術が出来るから己おれには殺せないよ﹂
國﹁貴方は何な故ぜそう剣術がお下手だろうねえ﹂
源﹁いゝや、それには旨い事がある、相川のお嬢には宅うちの相あい助すけという若党が大層に惚れて居るから、彼あれを旨く欺だまかし、孝助と喧嘩をさせて置き、後あとで喧嘩両成敗だから、己おいらの方で相助を追い出せば、伯父さんも義理で孝助を出すに違いないが、就ついちゃア明あし日た伯父様さんと一緒に帰って来ては困るが、孝助が独ひとりで先へ帰る訳には出来まいか﹂
國﹁それは訳なく出来ますとも、私わたくしが殿様に用がありますから先へ帰して下さいましといえば、屹きっ度と先へ帰して下さるに違いはありませんから、大おお曲まがりあたりで待まち伏ぶせて彼あい奴つをぽか〳〵お擲なぐりなさい﹂
大声を出して、
國﹁誠におそう〳〵様で、左様なら﹂
源次郎は屋敷に帰ると直すぐに男部屋へ参ると、相助は少し愚おろ者かもので、鼻歌でデロレンなどを唄っている所へ源次郎が来て、
源﹁相助、大層精が出るのう﹂
相﹁オヤ御ごじ二な男ん様、誠に日々お熱い事でございます、当年は別してお熱いことで﹂
源﹁熱いのう、其そ方ちは感心な奴だと常々兄上も褒ほめていらっしゃる、主しゅ用ようがなければ自じよ用うを足し、少しも身体に隙すきのない男だと仰しゃっている、それに手前は国に別段親みよ族りもない事だから、当家が里になり、大した所ではないが相応な侍の家うちへ養子にやる積りだよ﹂
相﹁恐れ入ります、何なんともはや誠にどうも恐れ入りますなア、殿様と申し貴あな方たと申し、不ふつ束ゝかな私わたくしをそれ程までに、これははや口ではお礼が述べきれましねえ、何ともヘイ分らなく有難うございます、それだが武士に成るにゃア私もいろはのいの字も知んねえもんだから誠に困るんで﹂
源﹁実は貴様も知っている水道端の相川のう、彼あす処こにお徳という十八ばかりの娘があるだろう、貴様を彼処の養子に世話をしてやろうと兄上が仰しゃった﹂
相﹁これははやモウどうも、本当でごぜえますか、はやどうも、あのくれえなお嬢様は世間にはないと思います、頬ほう辺ぺたなどはぽっとして尻などがちま〳〵として、あのくれえな美いいお嬢様はたんとはありましねえ﹂
源﹁向うは高たかが寡すけないから、若党でも何なんでもよいから、堅い者なればというのだから、手前なれば極ごくよかろうとあらまし相談が整った所が、隣の草履取の孝助めが胡麻をすった為に、縁談が破談となってしまった、孝助が相川の男部屋へ行ってあの相助はいけない奴で、大おお酒ざけ飲のみで、酒を飲むと前後を失ない、主人の見さかいもなく頭をぶち、女郎は買い、博ばく奕ちは打ち、其の上盗ぬす人っと根性があると云ったもんだから、相川も厭いや気きになり、話が縺もつれて、今度は到とう頭とう孝助が相川の養子になる事に極きまり、今日結納の取とり交かわせだとよ、向うでは草履取でさえ欲しがるところだから、手前なれば真しん鍮ちゅうでも二本さす身だから、きっと宜よかったに違いはない、孝助は憎い奴だ﹂
相﹁なんですと、孝助が養子になると、憎にッこい奴でごじいます、人の恋こい路じの邪魔をすればッて、私わたくしが盗人根性があって、お負けに御主人の頭を打にやすと、何い時つ私が御主人の頭を打しました﹂
源﹁己おれに理窟を云っても仕方がない﹂
相﹁残念、腹が立ちますよ、憎にッこい孝助だ。只たゞ置きましねえ﹂
源﹁喧嘩しろ〳〵﹂
相﹁喧嘩しては叶かないましねえ、彼あい奴つは剣きん術じゅつが免みん許きょだから剣術は迚とても及びましねえ﹂
源﹁それじゃア田たな中かの中ちゅ間うげんの喧嘩の龜かめ藏ぞうという奴で、身体中疵きずだらけの奴がいるだろう、彼あれと藤ふじ田たの時とき藏ぞうと両ふた人りに鼻薬をやって頼み、貴様と三人で、明あし日た孝助が相川の屋敷から一人で出て来る所を、大曲りで打ぶち殺ころしても構わないから、ぽか〳〵擲なぐりにして川へ投ほうりこめ﹂
相﹁殺すのは可かわ愛いそ相うだが、打にやしてやりてえなア、だが喧嘩をした事が知れゝば何どうなりますか﹂
源﹁そうさ、喧嘩をした事が知れゝば、己おれが兄上にそう云うと、兄上は屹きっ度と不ふと届ゞきな奴、相助を暇いとまにしてしまうと仰しゃってお暇に成るだろう﹂
相﹁お暇に成っては詰つまりましねえ、止よしましょう﹂
源﹁だがのう、此こち方らで貴様に暇を出せば、隣でも義理だから孝助に暇を出すに違いない、彼あい奴つが暇になれば相川でも孝助は里がないから養子に貰う気きづ遣かいはない、其の内此方では手前を先へ呼よび返かえして相川へ養子にやる積つもりだ﹂
相﹁誠にお前めえ様さま、御親切が恐れ入り奉ります﹂
というから、源次郎は懐中より金きん子す若いく干らかを取出し、
源﹁金子をやるから龜藏たちと一杯呑んでくれ﹂
相﹁これははや金けん子すまで、これ戴いてはすみましねえ、折角の思おぼ召しめしだから頂戴いたして置きます﹂
これから相助は龜藏と時藏の所へ往ゆき此の事を話すと、面白半分にやッつけろと、手ては筈ずの相談を取とり極きめました。さて飯島平左衞門はそんな事とは知らず、孝助を供につれ、御番からお帰りに成りました。
國﹁殿様今日は相川様の所へ孝助の結納でお出いでになりますそうですが、少しお居間の御用が有りますからお送り申したら、孝助は殿様よりお先へお帰し下さいまし、用が済み次第直すぐに又お迎いに遣つかわしましょう﹂
という飯島は
﹁よし〳〵﹂
と孝助を連れて相川の宅うちへ参りましたが相川は極ごく小さい宅で、
孝﹁お頼み申します〳〵﹂
相﹁ドーレ、これ善藏や玄関に取次が有るようだ、善藏居ないか、何ど処こへ行ったんだ﹂
婆﹁あなた、善藏はお使いにおやり遊ばしたではありませんか﹂
相﹁己おれが忘れた、牛込の飯島様がお出いでに成ったのかも知れない、煙草盆へ火を入れてお茶の用意をして置きな、多分孝助殿も一緒に来たかも知れないから、お徳に其の事を云いな、これ〳〵お前よく支度をして置け、己が出迎いをしよう﹂
と玄関まで出て参り、
相﹁これは殿様大だい分ぶお早くどうぞ直すぐにお上あがりを願います、へい誠に此の通り見苦しい所孝助殿も、御挨拶は後あとでします﹂
相川はいそ〳〵と一人で喜び、コッツリと柱に頭を打ぶッ付つけ、アイタヽ、兎に角此こち方らへと座敷へ通し、
﹁さて残暑お熱い事でございます、又昨さく日じつは上あがりまして御無理を願ったところ、早速にお聞きゝ済ずみ下され有がとう存じます﹂
飯﹁昨日はお草そう々〳〵を申しました、如い何かにもお急ぎなさいましたから御ごし酒ゅも上げませんで、大おおきにお草々申上げました﹂
相﹁あれから帰りまして娘に申し聞けまして、殿様がお承知の上孝助殿を聟むこにとる事に極って、明あ日すは殿様お立合の上で結納取とり交かわせになると云いますと、娘は落らく涙るいをして悦びました、と云うと浮気の様ですが、そうではない、お父とっ様さまを大事に思うからとは云いながら、只今まで御苦労を掛けましたと申しますから、早く丈夫にならなければいけない孝助殿が来るからと申して、直すぐに薬を三服ぶく立たて付つけて飲ませました、それからお粥かゆを二膳半食べました、それから今日はナ娘がずっと気分が癒なおって、お父様こんなに見苦しい形なりでいては、孝助さまに愛あい想そうを尽かされるといけませんからというので、化粧をする、婆アもお鉄はぐ漿ろを附けるやら大変です、私わたくしも最もは早や五十五歳ゆえ早く養子をして楽がしたいものですから、誠に耻入った次第でございますが、早さっ速そくのお聞きゝ済ずみ、誠に有難う存じます﹂
飯﹁あれから孝助に話しましたところ、当人も大層に悦び、私わたくしの様な不ふつ束ゝか者ものをそれ程までに思おぼ召しめし下さるとは冥みょ加うが至しご極くと申してナ、大あら概かた当人も得心いたした様子でな﹂
相﹁いやもう、あの人は忠義だから否いやでも殿様の仰しゃる事なら唯はいと云って言う事を聞きます、あの位な忠義な人はない、旗はた下もと八万騎の多い中にも恐らくはあの位な者は一人もありますまい、娘がそれを見込みましたのだ、善藏はまだ帰らないか、これ婆ア﹂
婆﹁なんでございます﹂
相﹁殿様に御挨拶をしないか﹂
婆﹁御挨拶をしようと思っても、貴あな方たがせか〳〵している者だから御挨拶する間まもありはしません、殿様、御機嫌様さまよう入いらっしゃいました﹂
飯﹁これは婆ばあやア、お徳様が長い間あいだ御病気の所、早速の御全快誠にお目でたい、お前も心配したろう﹂
婆﹁お蔭かげ様さまで、私わたくしはお嬢様のお少ちいさい時分からお側にいて、お気性も知って居りますのに何なんとも仰しゃらず、漸やっと此の間分ったので殿様に御苦労をかけました、誠に有がとうございます﹂
相﹁善藏はまだ帰らないか、長いなア、お菓子を持って来い、殿様御案内の通り手狭でございますから、何かちょっと尾おか頭しら附つきで一献こん差上げたいが、まアお聞き下さい、此の通り手狭ですからお座敷を別にする事も出来ませんから、孝助殿も此こ処ゝへ一緒にいたし、今日は無ぶれ礼いこ講うで御家来でなく、どうか御同席で御ごし酒ゅを上げたい、孝助は私わたくしが出迎えます﹂
飯﹁なに私わたくしが呼びましょう﹂
相﹁ナアニあれは私わたくしの大事な聟で、死しに水みずを取ってもらう大事な養子だから﹂
と立たち上あがり、玄関まで出迎え、
相﹁孝助殿誠に宜よく、いつもお健すこやかに御奉公、今日はナ無礼講で、殿様の側で御酒、イヤなに酒は呑めないから御膳を一ちょ寸っと上げたい﹂
孝﹁是は相川様御機嫌よろしゅう、承ればお嬢様は御不快の御様子、少しはお宜よろしゅうございますか﹂
相﹁何を云うのだお前の女房をお嬢様だのお宜しいもないものだ﹂
飯﹁そんな事を云うと孝助が間まを悪わるがります、孝助折角の思おぼ召しめし、御免を蒙こうむって此こち方らへ来い﹂
相﹁成程立派な男で、中々フウ、へえ、さて昨日は殿様に御無理を願い早速お聞きゝ済ずみ下さいましたが、高たかは寡すくなし娘は不ふつ束ゝかなり、舅しゅうとは知っての通りの粗そこ忽つも者の、実に何なんと云って取る所はないだろうが、娘がお前でなければならないと煩わずらう迄に思い詰めたというと、浮気なようだが然そうではない、あれが七なゝ歳つの時母が死んで、それから十八まで私わしが育そだった者だから、あれも一人の親だと大事に思い、お前の心がけのよい、優しく忠義な所を見て思い詰め病となった程だ、どうかあんな奴でも見捨てずに可かわ愛いがってやっておくれ、私わたしは直すぐにチョコ〳〵と隠居して、隅すみの方ほうへ引ひっ込こんでしまうから、時々少々ずつ小こづ遣かいをくれゝばいゝ、それから外ほかに何もお前に譲る物はないが、藤とう四しろ郎うよ吉しみ光つの脇わき差ざしが有る、拵こしらえは野や暮ぼだが、それだけは私の家うちに付いた物だからお前に譲る積りだ、出世はお前の器量にある﹂
飯﹁そういうと孝助が困るよ、孝助も誠に有難い事だが、少し仔細があって、今年一ぱい私の側で奉公したいと云うのが当人の望のぞみだから、どうか当年一ぱいは私の手元に置いて、来年の二月に婚礼をする事に致したい、尤もっとも結納だけは今日致して置きます﹂
相﹁へい来年の二月では今月が七月だから、七八九十十一十二正しょう二と今から八ヶ月間あいだがあるが、八ヶ月では質しつ物もつでも流れて仕舞うから、余り長いなア﹂
飯﹁それは深い訳が有っての事で﹂
相﹁成程、あゝ感服だ﹂
飯﹁お分りに成りましたか﹂
相﹁それだから孝助に娘の惚れるのも尤もっともだ、娘より私が先へ惚れた、それは斯こうでしょう、今年一ぱい貴あな方たのお側で剣術を習い、免許でも取るような腕に成る積りだろう、是これは然そうなくてはならない、孝助殿の思うにはなんぼ自分が怜りこ悧うでも器量があるにした処ところが、少すけなくも禄ろくのある所へ養子にくるのだから土みや産げがなくてはおかしいと云うので、免許か目録の書かき付つけを握って来る気だろう、それに違いない、あゝ感服、自分を卑ひ下げした所が偉いねえ﹂
孝﹁殿様、私わたくしは一ちょ寸っとお屋敷へ帰って参ります﹂
相﹁行ゆくのは御ごし主ゅよ用うだから仕方がないが、何もないが一ちょ寸っと御膳を上げます少し待ってお呉れ、善藏まだか、長いのう、だが孝助殿、又直すぐに帰って来るだろうが主用だから来られないかも知れないから、一寸奥の六畳へ行って徳に逢ってやっておくれ、徳が今日はお白しろ粉いを粧つけて待っていたのだから、お前に逢わないと粧けたお白粉が徒むだになってしまう﹂
飯﹁そう仰しゃると孝助が間まをわるがります﹂
相﹁兎に角アレサどうか一寸逢わせて﹂
飯﹁孝助あゝ仰しゃるものだから一寸お嬢様にお目通りして参れ、まだ此こち方らへ来ない間うちは、手前は飯島の家来孝助だ、相川のお嬢様の所へ御病気見舞に行ゆくのだ、何をうじ〳〵している、お嬢様の御病気を伺うかゞって参れ﹂
といわれ孝助は間を悪がってへい〳〵云っていると、
婆﹁此こち方らへどうぞ、御案内を致します﹂
とお徳の部屋へ連れて来る。
孝﹁これはお嬢様長らく御不快の処ところ、御様子は如いか何ゞさ様までございますか、お見舞を申し上げます﹂
婆﹁孝助様どうかお目を掛けられて下さいまし、お嬢様孝助様が入らっしゃいましたよ、アレマア真まっ赤かに成って、今まで貴あな方たが御苦労をなすったお方じゃアありませんか、孝助様がお出いでに成ったらお怨うらみを云うと仰しゃったに、唯たゞ真赤に成ってお尻で御挨拶なすってはいけません﹂
孝﹁お暇いとまを申します﹂
と挨拶をして主人の所へ参り、
孝﹁一いっ旦たん御用を達たして、早く済みましたら又上あがります﹂
相﹁困ったねえ、暗くなったが何が有るかえ﹂
孝﹁何がとは﹂
相﹁何サ提ちょ灯うちんがあるかえ﹂
孝﹁提灯は持って居ります﹂
相﹁何が無いと困るがあるかえ、何サ蝋ろう燭そくがあるかえ、何有るとえ、そんなら宜よろしい﹂
孝助は暇いと乞まごいをして相川の邸やしきを立たち出いで、大曲りの方を通れば、前に申した三人が待まち伏ぶせをして居るのだが、孝助の運が強かったと見え、隆りゅ慶うけ橋いばしを渡り、軽かる子こざ坂かから邸やしきへ帰って来た。
孝﹁只今帰りました﹂
というからお國は驚いた。なんでも今頃は孝助が大曲り辺で、三人の中ちゅ間うげんに真しん鍮ちゅ巻うまきの木刀で打ぶたれて殺されたろうと思っている所へ、平ふだ常んの通りで帰って来たから、
國﹁おや〳〵どうして帰ったえ﹂
孝﹁貴あな方たさ様まがお居間の御用があるから帰れと仰しゃったから帰って参りました﹂
國﹁何ど処こから何どうお帰りだ﹂
孝﹁水道端を出て隆慶橋を渡り、軽子坂を上あがって帰って来ました﹂
國﹁そうかえ、私わたしゃ又今日は相川様でお前を引ひき留とめて帰る事が出来まいと思ったから、御用は済ませて仕舞ったから、お前は直すぐに殿様のお迎いに行ゆっておくれ、そして若もしお前がお迎いに行ゆかない間うちにお帰りになるかも知れないよ、お前外ほかの道を行いって、途中でお目に懸らないといけない、殿様は何い時つでも大曲りの方をお通りになるから、あっちの方から行ゆけば途中で殿様にお目に懸るかも知れない、直に行いっておくれ﹂
孝﹁へい、そんなら帰らなければよかった﹂
と再び屋敷を立たち出いで、大曲りへかゝると、中ちゅ間うげん三人は手に〳〵真しん鍮ちゅ巻うまきの木刀を捻ひねくり待ちあぐんでいたのも道理、来こようと思う方ほうから来ないで、後あとの方から花はな菱びしの提ちょ灯うちんを提さげて来るのを見付け、慥たしかに孝助と思い、相助はズッと進んで、
相﹁やい待て﹂
孝﹁誰だ、相助じゃねえか﹂
相﹁おゝ相助だ、貴様と喧嘩しょうと思って待っていたのだ﹂
孝﹁何をいうのだ、唐だし突ぬけに、貴様と喧嘩する事は何もねえ﹂
相﹁汝おのれ相川様へ胡ご麻まアすりやアがって、己おれの養子になる邪魔をした、そればかりでなくおれの事を盗ぬす人っと根性があると云やアがったろう、どう云う訳で胡麻を摺すって、手てめ前えがあのお嬢様の処ところへ養子に行ゆこうとする、憎にッこい奴、外ほかの事とは違う、盗人根性があると云ったから喧嘩するから覚悟しろ﹂
と争って居る横よこ合あいから、龜藏が真鍮巻の木刀を持って、いきなり孝助の持っている提灯を叩き落す、提灯は地に落ちて燃え上る。
龜﹁手てま前えは新参者の癖に、殿様のお気に入りを鼻に懸け、大手を振って歩きやアがる、一いっ体てえ貴様は気に入らねえ奴だ、この畜生め﹂
と云いながら孝助の胸むなぐらを取る。孝助は此こい奴つ等らは徒とと党うしたのではないかと、透すかして向うを見ると、溝どぶの縁ふちに今一人踞しゃがんで居るから、孝助は予かねて殿様が教えて下さるには、敵あい手ての大勢の時は慌あわてると怪我をする、寝て働くがいゝと思い、胸ぐらを取られながら、龜藏の油断を見て前まえ袋ぶくろに手がかゝるが早いか、孝助は自分の体からだを仰あお向むけにして寝ながら、右の足を上げて龜藏の睾きん丸たまのあたりを蹴けか返えせば、龜藏は逆さか筋とん斗ぼうを打って溝どぶの縁へ投げ付けられるを、左の方ほうから時藏相助が打ってかゝるを、孝助はヒラリと体からだを引ひき外はずし、腰に差さしたる真鍮巻の木刀で相助の尻の辺あたりをドンと打ぶつ。相助打ぶたれて気が逆の上ぼせ上あがるほど痛く、眼も眩くらみ足もすわらず、ヒョロ〳〵と遁にげ出だし溝どぶへ駆け込む。時藏も打ぶたれて同じく溝へ落ちたのを見て、
孝﹁やい、何をしやアがるのだ、サア何どい奴つでも此こい奴つでも来い飯島の家来には死んだ者は一疋ぴきも居ねえぞ、お印しる物しものの提灯を燃やしてしまって、殿様に申もう訳しわけがないぞ﹂
飯﹁まア〳〵もう宜よろしい、心配するな﹂
孝﹁ヘイ、これは殿様どうしてこゝへ、私わたくしがこんなに喧嘩をしたのを御覧遊ばして、又私が失しく錯じるのですかなア﹂
飯﹁相川の方ほうも用事が済んだから立たち帰かえって来たところ、此の騒ぎ、憎い奴と思い、見ていて手前が負けそうなら己おれが出て加勢をしようと思っていたが、貴様の力で追い散らして先まず宜よかった、焼やけ落おちた提灯を持って供をして参れ﹂
と主従連つれ立だって屋敷へお帰りに成ると、お國は二度恟びっくりしたが、素知らぬ顔で此の晩は済んでしまい、翌よく朝あさになると隣の源次郎が済すましてやってまいり、
源﹁伯父様お早うございます﹂
飯﹁いや、大だい分ぶお早いのう﹂
源﹁伯父様、昨晩大曲りで御当家の孝助と私わた共くしどもの相助と喧嘩を致し、相助はさん〴〵に打うたれ、ほう〳〵の体ていで逃げ帰りましたが、兄上が大層に怒り、怪けしからん奴だ、年甲斐もないと申して直すぐに暇いとまを出しました、就ついては喧嘩両成敗の譬たとえの通り、御当家の孝助も定めてお暇になりましょう、家来の身分として私わたくしの遺いこ恨んを以もって喧嘩などをするとは以ての外ほかの事ですから、兄の名みょ代うだいで一ちょ寸っと念の為ためにお届とゞけにまいりました﹂
飯﹁それは宜よろしい、昨ゆう晩べのは孝助は悪くはないのだ、孝助が私の供をして提灯を持って大曲りへ掛ると、田中の龜藏、藤田の時藏お宅うちの相助の三人が突いき然なりに孝助に打ってかゝり、供とも前まえを妨さまたぐるのみならず、提灯を打うち落おとし、印しる物しものを燃もやしましたから、憎い奴、手打にしようと思ったが、隣となりづからの中ちゅ間うげんを切るでもないと我慢をしているうちに、孝助が怒おこって木刀で打うち散ゝらしたのだから、昨ゆう夕べのは孝助は少しも悪くはない、若もし孝助に遺恨があるならばなぜ飯島に届けん、供とも先さきを妨げ怪けしからん事だ、相助の暇に成るは当あた然りまえだ、彼あれは暇を出すのが宜よろしい、彼あい奴つを置いては宜しくありませんとお兄あにいさまに申し上げな、是から田中、藤田の両家へも廻かい文ぶんを出して、時藏、龜藏も暇を出させる積りだ﹂
と云い放し、孝助ばかり残る事になりましたから、源次郎も当てが外はずれ、挨拶も出来ない位な始末で、何なんともいう事が出来ず邸やしきへ帰りました。
十
さて彼かの伴藏は今年三十八歳、女房おみねは三十五歳、互たがいに貧乏世じょ帯たいを張るも萩原新三郎のお蔭かげにて、或ある時ときは畑を耘うない、庭や表のはき掃除などをし、女房おみねは萩原の宅たくへ参り煮にた焚き洒すゝぎ洗濯やお菜かずごしらえお給仕などをしておりますゆえ、萩原も伴藏夫婦には孫まご店だなを貸しては置けど、店たな賃ちんなしで住まわせて、折おり々〳〵は小こづ遣かいや浴ゆか衣たなどの古い物を遣やり、家来同様使っていました。伴藏は懶なま惰けものにて内職もせず、おみねは独りで内職をいたし、毎晩八ツ九ツまで夜よな延べをいたしていましたが、或ある晩ばんの事絞しぼりだらけの蚊か帳やを吊つり、この絞りの蚊帳というは蚊帳に穴が明いているものですから、処とこ々ろ〴〵観かん世じん縒よりで括しばってあるので、其の蚊帳を吊り、伴藏は寝ねご※ざ﹇#﹁蓙﹂の左の﹁人﹂に代えて﹁口﹂、92-4﹈を敷き、独りで寝ていて、足をばた〳〵やっており、蚊帳の外では女房が頻しきりに夜延をしていますと、八ツの鐘がボンと聞え、世間はしんと致し、折々清水の水音が高く聞え、何なんとなく物もの凄すごく、秋の夜風の草葉にあたり、陰いん々〳〵寂せき寞ばくと世間が一体にしんと致しましたから、此の時は小声で話をいたしても宜よく聞えるもので、蚊帳の中うちで伴藏が、頻りに誰たれかとこそ〳〵話をしているに、女房は気がつき、行あん灯どうの下した影かげから、そっと蚊帳の中うちを差さし覗のぞくと、伴藏が起おき上あがり、ちゃんと坐り、両手を膝についていて、蚊帳の外には誰だれか来て話をしている様子は、何なんだかはっきり分りませんが、何どうも女の声のようだから訝おかしい事だと、嫉やき妬もちの虫がグッと胸へ込み上げたが、年若とは違い、もう三十五にもなる事ゆえ、表おも向てむきに悋りん気きもしかねるゆえ、余あんまりな人だと思っているうちに、女は帰った様子ゆえ何なんとも云わず黙っていたが、翌晩も又来てこそ〳〵話を致し、斯こういう事が丁度三晩の間続きましたので、女房ももう我慢が出来ません、ちと鼻が尖とんがらかッて来て、鼻息が荒くなりました。
伴﹁おみね、もう寝ねえな﹂
みね﹁あゝ馬鹿々々しいやね、八ツ九ツまで夜延をしてさ﹂
伴﹁ぐず〳〵いわないで早く寝ねえな﹂
みね﹁えい、人が寝ないで稼いでいるのに、馬鹿々々しいからサ﹂
伴﹁蚊帳の中へへいんねえな﹂
おみねは腹はら立たちまぎれにズッと蚊帳をまくって中へ入れば。
伴﹁そんな這へ入いりようがあるものか、なんてえ這へ入いりようだ、突つッ立たって這へ入えッちゃア蚊が這へ入えって仕ようがねえ﹂
みね﹁伴藏さん、毎晩お前の所へ来る女はあれはなんだえ﹂
伴﹁何なんでもいゝよ﹂
みね﹁何なんだかお云いなねえ﹂
伴﹁何でもいゝよ﹂
みね﹁お前はよかろうが私わたしゃ詰らないよ、本当にお前の為に寝ないで齷あく齪せくと稼いでいる女房の前も構わず、女なんぞを引きずり込まれては、私のような者でも余あんまりだ、あれは斯こういう訳だと明かして云ってお呉れてもいゝじゃないか﹂
伴﹁そんな訳じゃねえよ、己おれも云おう〳〵と思っているんだが、云うとお前めえが怖がるから云わねえんだ﹂
みね﹁なんだえ怖がると、大方先の阿あま魔っち女ょが何なんかお前まえに怖こわもてゞ云やアがったんだろう、お前が嚊かゝあがあるから女房に持つ事が出来ないと云ったら、そんなら打うっ捨ちゃって置かないとか何とかいうのだろう、理りふ不じ尽んに阿あま魔っち女ょが女房のいる所へどか〳〵入へいって来て話なんぞをしやアがって、もし刃はも物のざ三んま昧いでもする了りょ簡うけんなら私はたゞは置かないよ﹂
伴﹁そんな者じゃアないよ、話をしても手てめ前え怖がるな、毎晩来る女は萩原様に極ごく惚れて通かよって来るお嬢様とお附つきの女中だ﹂
みね﹁萩原様は萩原様の働きがあってなさる事だが、お前まえはこんな貧びん乏ぼう世じょ帯たいを張っていながら、そんな浮気をして済むかえ、それじゃアお前が其のお附の女中とくッついたんだろう﹂
伴﹁そんな訳じゃないよ、実は一おと昨ゝ日いの晩おれがうと〳〵していると、清水の方から牡丹の花の灯籠を提さげた年とし増まが先へ立ち、お嬢様の手を引いてずっと己おれの宅うちへ入へえって来た所が、なか〳〵人柄のいゝお人だから、己のような者の宅へこんな人が来る筈はずはないがと思っていると、其の女が己の前めえへ手をついて、伴藏さんとはお前まえさまでございますかというから、私わっちが伴藏でごぜえやすと云ったら、あなたは萩原様の御家来かと聞くから、まア〳〵家来同様な訳でごぜえますというと、萩原様はあんまりなお方でございます、お嬢様が萩原様に恋こい焦こがれて、今夜いらっしゃいと慥たしかにお約束を遊ばしたのに、今はお嬢様をお嫌いなすって、入いれないようになさいますとは余あんまりなお方でございます、裏の小さい窓に御札が貼はってあるので、どうしても這は入いることが出来ませんから、お情なさけに其の御札を剥はがしてくださいましというから、明あし日た屹きっ度と剥して置きましょう、明みょ晩うばん屹度お願い申しますと云ってずっと帰けえった、それから昨きの日うは終いち日にち畠はた耘けうないをしていたが、つい忘れていると、其の翌晩又来て、何な故ぜ剥して下さいませんというから、違ちげえねえ、ツイ忘れやした、屹度明あし日たの晩剥がして置きやしょうと云ってそれから今朝畠へ出た序ついでに萩原様の裏手へ廻って見ると、裏の小窓に小さいお経の書いてある札が貼ってあるが、何なにしてもこんな小さい所から這入ることは人間には出来る物ではねえが、予かねて聞いていたお嬢様が死んで、萩原様の所へ幽霊になって逢いに来るのがこれに相違ねえ、それじゃア二ふた晩ばん来たのは幽霊だッたかと思うと、ぞっと身の毛がよだつ程怖くなった﹂
みね﹁あゝ、いやだよ、おふざけでないよ﹂
伴﹁今夜はよもや来きやアしめえと思っている所へ又来たア、今夜はおれが幽霊だと知っているから怖くッて口もきけず、膏あぶ汗らあせを流して固まっていて、おさえつけられるように苦しかった、そうすると未まだ剥してお呉くんなさいませんねえ、何どうしても剥しておくんなさいませんと、あなたまでお怨うらみ申しますと、恐おっかねえ顔をしたから、明あし日たは屹度剥しますと云って帰けえしたんだ、それだのに手てめ前えに兎とや角こう嫉やき妬もちをやかれちゃア詰らねえよ、己おれは幽霊に怨みを受ける覚えはねえが、札を剥せば萩原様が喰くい殺ころされるか取とり殺ころされるに違ちげえねえから、己はこゝを越してしまおうと思うよ﹂
みね﹁嘘をおつきよ、何なんぼ何なんでも人を馬鹿にする、そんな事があるものかね﹂
伴﹁疑うたぐるなら明あし日たの晩手てめ前えが出て挨拶をしろ、己おれは真まっ平ぴらだ、戸棚に入へいって隠れていらア﹂
みね﹁そんなら本当かえ﹂
伴﹁本当も嘘もあるものか、だから手てめ前えが出なよ﹂
みね﹁だッて帰る時には駒下駄の音がしたじゃアないか﹂
伴﹁そうだが、大層綺麗な女で、綺麗程尚なお怖いもんだ、明あし日たの晩己おれと一緒に出な﹂
みね﹁ほんとうなら大変だ、私わたしゃいやだよう﹂
伴﹁そのお嬢様が振ふり袖そでを着て髪を島田に結ゆい上あげ、極ごく人柄のいゝ女中が丁てい寧ねいに、己おれのような者に両手をついて、痩やせッこけた何なんだか淋しい顔で、伴藏さんあなた……﹂
みね﹁あゝ怖い﹂
伴﹁あゝ恟びっくりした、おれは手てめ前えの声で驚いた﹂
みね﹁伴藏さん、ちょいといやだよう、それじゃア斯こうしておやりな、私達が萩原様のお蔭かげで何どうやらこうやら口を糊すごして居るのだから、明あし日たの晩幽霊が来たらば、おまえが一生懸命になって斯うおいいな、まことに御ごも尤っともではございますが、あなたは萩原様にお恨うらみがございましょうとも、私わた共くしども夫婦は萩原様のお蔭で斯うやっているので、萩原様に万もし一もの事がありましては私共夫婦の暮し方が立ちませんから、どうか暮し方の付くようにお金を百両持って来て下さいまし、そうすれば屹きっ度と剥はがしましょうとお云いよ、怖いだろうがお前は酒を飲めば気丈夫になるというから、私わたしが夜よな延べをしてお酒を五合ばかり買っておくから、酔った紛まぎれにそう云ったら何どうだろう﹂
伴﹁馬鹿云え、幽霊に金があるものか﹂
みね﹁だからいゝやね、金をよこさなければお札を剥さないやね、それで金もよこさないでお札を剥さなけりゃア取とり殺ころすというような訳の分らない幽霊は無いよ、それにお前には恨うらみのある訳でもなしさ、斯こういえば義理があるから心配はない、もしお金を持って来れば剥してやってもいゝじゃアないか﹂
伴﹁成程、あの位訳のわかる幽霊だから、そう云ったら得心して帰けえるかも知れねえ、殊ことによると百両持って来るものだよ﹂
みね﹁持って来たらお札を剥しておやりな、お前考えて御覧、百両あればお前と私は一生困りゃアしないよ﹂
伴﹁成程、こいつは旨うめえ、屹きっ度と持って来るよ、こいつは一番やッつけよう﹂
と慾というものは怖おそろしいもので、明あくる日は日の暮れるのを待っていました。そうこうする内に日も暮れましたれば、女房は私わたしゃ見ないよと云いながら戸棚へ入るという騒ぎで、彼是しているうち夜よも段々と更ふけわたり、もう八ツになると思うから、伴藏は茶碗酒でぐい〳〵引っかけ、酔った紛まぎれで掛合う積りでいると、其の内八ツの鐘がボーンと不しの忍ばずの池いけに響いて聞えるに、女房は熱いのに戸棚へ入り、襤ぼ褸ろを被かぶって小さく成っている。伴藏は蚊帳の中うちにしゃに構えて待っているうち、清水のもとからカランコロン〳〵と駒下駄の音高く、常に変らず牡丹の花の灯籠を提さげて、朦もう朧ろうとして生いけ垣がきの外まで来たなと思うと、伴藏はぞっと肩から水をかけられる程怖こわ気け立だち、三合呑んだ酒もむだになってしまい、ぶる〳〵慄ふるえながらいると、蚊帳の側へ来て、伴藏さん〳〵というから、
伴﹁へい〳〵お出いでなさいまし﹂
女﹁毎晩参りまして、御迷惑の事をお願い申して誠に恐れ入りますが、未まだ今夜も御札が剥がれて居りませんので這は入いる事が出来ず、お嬢様がお憤むずかり遊ばし、私わたくしが誠に困りますから、どうぞ二人のものを不ふび便んと思おぼ召しめしてあのお札を剥して下さいまし﹂
伴藏はガタ〳〵慄ふるえながら、
伴﹁御ごも尤っともさまでございますけれども、私わた共くしども夫婦の者は、萩原様のお蔭様で漸ようやく其の日を送っている者でございますから、萩原様のお体からだにもしもの事がございましては、私共夫婦のものが後あとで暮し方に困りますから、どうぞ後で暮しに困らないように百両の金を持って来て下さいましたらば直すぐに剥しましょう﹂
と云うたびに冷たい汗を流し、やっとの思いで云いきりますと、両人は顔を見合せて、暫しばらく首を垂れて考えて居ましたが。
米﹁お嬢様、それ御ごろ覧うじませ、此のお方にお恨うらみはないのに御迷惑をかけて済まないではありませんか、萩原様はお心変りが遊ばしたのだから、貴あな方たがお慕したいなさるのはお冗むだでございます、何どうぞふッつりお諦あきらめあそばして下さい﹂
露﹁米や、私わたしゃ何うしても諦める事は出来ないから、百ひゃ目くめの金きん子すを伴藏さんに上げて御札を剥がして戴いたゞき、何うぞ萩原様のお側へやっておくれヨウ〳〵﹂
といいながら、振ふり袖そでを顔に押しあて潜さめ々〴〵と泣く様子が実に物凄い有あり様さまです。
米﹁あなた、そう仰しゃいますが何うして私わたくしが百目の金子を持っておろう道理はございませんが、それ程までに御ぎょ意い遊ばしますから、どうか才覚をして、明晩持ってまいりましょうが、伴藏さん、まだ御札の外ほかに萩原さまの懐ふところに入れていらっしゃるお守まもりは、海かい音おん如にょ来らい様という有難い御おま守もりですから、それが有っては矢やッ張ぱりお側へまいる事が出来ませんから、何うか其の御守も昼の内にあなたの御工夫でお盗み遊ばして、外ほかへお取とり捨すてを願いたいものでございますが、出来ましょうか﹂
伴﹁へい〳〵御守を盗みましょうが、百両は何どうぞ屹きっ度と持って来てお呉んなせえ﹂
米﹁嬢様それでは明晩までお待ち遊ばせ﹂
露﹁米や又今夜も萩原様にお目にかゝらないで帰るのかえ﹂
と泣きながらお米に手を引かれてスウーと出て行ゆきました。
十一
二十四日かは飯島様はお泊り番で、お國は只たゞ寝ても覚めても考えるには、どうがなして宮みや野の邊べの次男源次郎と一つになりたい、就ついては来月の四日に、殿様と源次郎と中川へ釣つりに行ゆく約束がある故、源次郎に殿様を川の中へ突つき落おとさせ、殺してしまえば、源次郎は飯島の家うちの養子になるまでの工夫は付いたものゝ、此の密談を孝助に立たち聞ぎかれましたから、どうがな工夫をして孝助に暇いとまを出すか、殿様のお手てう打ちにでもさせる工夫はないかと、いろ〳〵と考え、終しまいには疲れてとろ〳〵仮まど寝ろむかと思うと、ふと目が覚めて、と見れば、二間けん隔へだっている襖ふすまがスウーとあきます。以前は屋敷方がたにては暑中でも簾すだ障れし子ょうじはなかったもので、縁側はやはり障子、中は襖で立て切ってありまするのが、サラ〳〵と開あいたかと思うと、スラリ〳〵と忍び足で歩いて参り、又次のお居間の襖をスラリ〳〵と開けるから、お國はハテナ誰かまだ起きて居るかと思っていると、地じぶ袋くろの戸がガタ〳〵と音がしたかと思うと、錠じょうを明ける音がガチ〳〵と聞えましたから、ハテナと思う内スウーットンと襖をしめ、ピシャリ〳〵と裾すそを引くような塩あん梅ばいで台所の方へ出て行ゆきますから、ハテ変な事だと思い、お國は気丈な女でありますから起上り、雪ぼん洞ぼりを点つけ行いって見ると、誰もいないから、地袋の方を見ると戸が明け放してあって、お納なん戸どち縮りめ緬んの胴巻が外の方へ流れ出して居たのに驚いて調べて見ると、殿様のお手文庫の錠前を捻ねじ切きり、胴巻の中に有った百目めの金きん子すが紛ふん失じついたしたに、さては盗どろ賊ぼうかと思うと後あとが怖こわ気け立だって憶おくするもので、お國も一時じ驚いたが、忽たちまち一計を考え出し、此の胴巻の金子の紛失したるを幸さいわいに、之これを証拠として、孝助を盗どろ賊ぼうに落し、殿様にたきつけて、お手打にさせるか暇ひまを出すか、どの道かに仕ようと、其の胴巻を袂たもとに入れ置き、臥ふし床どに帰って寝てしまい、翌日になっても知らぬ顔をしており、孝助には弁当を持たせて殿様のお迎いに出してやり、其の後あとへ源げん助すけという若党が箒ほうきを提さげてお庭の掃除に出てまいりました。
國﹁源助どん﹂
源﹁へい〳〵お早うございます、いつも御機嫌よろしゅう、此の節は日にっ中ちゅうは大層いきれて凌しのぎ兼ねます、今年のような酷きびしい事はございません、何どうも暑中より酷しいようでございます﹂
國﹁源助どん、お茶がはいったから一杯飲みな﹂
源﹁へい有難うございます、お屋敷様は高たか台だいでございますから、余程風通しもよくて、へい御門は何うも悉こと〴〵く熱うございまする、へい、これは何うも有難うございまする、私わたくしは御酒をいたゞきませんからお茶は誠に結構で、時々お茶を戴きまするのは何よりの楽たのしみでございまする﹂
國﹁源助どん、お前は八ヶ年前ぜん御当家へ来て中々正直者だが、孝助は三月の五日に当家へ御奉公に来たが、孝助は殿様の御ぎょ意いに入いりを鼻にかけて、此の節は増長して我わが儘まゝになったから、お前も一つ部屋にいて、時々は腹の立つ事もあるだろうねえ﹂
源﹁いえ〳〵何どう致しまして、あの孝助ぐらいな善よく出来た人間はございません、其の上殿様思いで、殿様の事と云うと気きち違がいのように成って働きます、年はまだ廿一だそうですが、中々届いたものでございます、そして誠に親切な事は私わたくしも感心致しました、先さき達だって私の病気の時も孝助が夜よッぴて寝ないで看病をしてくれまして、朝も眠ねむがらずに早くから起きて殿様のお供を致し、あの位な情じょ合うあいのある男はないと私は実に感心をしております﹂
國﹁それだからお前は孝助に誑ばかされているのだよ、孝助はお前の事を殿様にどんなに胡麻をするだろう﹂
源﹁ヘエー胡麻をすりますか﹂
國﹁お前は知らないのかえ、此の間孝助が殿様に云いい付つけるのを聞いていたら、源助は何どうも意地が悪くて奉公がしにくい、一つ部屋にいるものだから、源助が新参ものと侮あなどり、種いろ々〳〵に苛いじめ、私わたくしに何も教えて呉れませんで仕しく損じるようにばかり致し、お茶がはいって旨おいしい物を戴いても、源助が一人で食べて仕舞って私にはくれません、本当に意地の悪い男だというものだから、殿様もお腹をお立ち遊ばして、源助は年甲斐もない憎い奴だ、今に暇いとまを出そうと思っていると仰しゃったよ﹂
源﹁へい、これは何どうも、孝助は途方もない事を云ったもので、これは何うも、私わたくしは孝助にそんな事をいわれる覚えはございません、おいしい物を沢山に戴いた時は、孝助殿お前は若いから腹が減るだろうと云って、皆みんな孝助にやって食べさせる位にしているのに何なんたる事でしょう﹂
國﹁そればかりじゃアないよ孝助は殿様の物を掠くすねるから、お前孝助と一緒にいると今に掛り合いだよ﹂
源﹁へい何か盗とりましたか﹂
國﹁へいたッて、お前は何も知らないから今に掛り合いになるよ、慥たしかに殿様の物を取った事を私は知っているよ、私は先さっ刻きから女部屋のものまで検あらためている位だから、お前はちょっと孝助の文庫をこゝへ持って来ておくれ﹂
源﹁掛り合いに成っては困ります﹂
國﹁夫それは私が宜よいように殿様に申上げて置いたから、そっと孝助の文庫を持って来きな﹂
といわれて、源助はもとより人が好いいからお國に奸わる策だくみあるとは知らず、部屋へ参りて孝助の文庫を持って参ってお國の前へ差さし出いだすと、お國は文庫の蓋ふたを明け、中を検あらためる振ふりをしてそっと彼かのお納戸縮緬の胴巻を袂たもとから取とり出だして中へズッと差込んで置いて。
國﹁呆あきれたよ、殿様の大事な品がこゝに入っているんだもの、今に殿様がお帰りの上で目めっ張ぱりこで皆みんなの物を検あらためなければ、私のお預あずかりの品が失なくなったのだから、私が済まないよ、屹きっ度と詮せん議ぎを致します﹂
源﹁へい、人は見かけによらないものでございますねえ﹂
國﹁此の文庫を見た事を黙っておいでよ﹂
源﹁へい宜よろしゅうございます﹂
と文庫を持って立たち帰かえり、元の棚へ上げて置きました。すると八ツ時、今の三時半頃殿様がお帰りになりましたから、玄関まで皆みな々〳〵お出迎いをいたし、殿様は奥へ通りお褥しとねの上にお坐りなされたから、いつもならば出来立てのお供そなえのようにお國が側から団うち扇わで扇あおぎ立て、ちやほやいうのだが、いつもと違って欝ふさいでいる故、
飯﹁お國大だい分ぶすまん顔をしているが、気分でも悪いのか、何どうした﹂
國﹁殿様申もう訳しわけのない事が出来ました、昨晩お留守に盗どろ賊ぼうがはいり、金子が百目め紛ふん失じついたしました、あのお納戸縮緬の胴巻に入れて置いたのを胴巻ぐるみ紛失いたしました、何なんでも昨晩の様子で見ると、台所口の障子が明いたようで、外ほかは締りは厳重にしてあって、誰も居りませんから、よく検あらためますと、お居間の地袋の中にあるお文庫の錠前が捻ねじ切きってありました、それから驚いて毘びし沙ゃも門ん様に願がんがけをしたり、占うら者ないしゃに見て貰うと、これは内うち々〳〵の者が取ったに違いないと申しましたから、皆みんなの文庫や葛つゞ籠らを検めようと思って居ります﹂
飯﹁そんな事をするには及ばない、内々の者に、百両の金を取る程の器量のある者は一人もいない、他ほかから這は入いった賊ぞくであろう﹂
國﹁それでも御門の締りは厳重に付けておりますし、只たゞ台所口が明いて居たのですから、内々の者を一ひト通り詮議をいたします、……アノお竹どん、おきみどん、皆みんな此こち方らへ来ておくれ﹂
竹﹁とんだ事でございました﹂
きみ﹁私わたくしはお居間などにはお掃除の外ほか参った事はございませんが、嘸さぞ御心配な事でございましょう、私なぞは昨晩の事はさっぱり存じませんでございます、誠に驚き入りました﹂
飯﹁手前達を疑ぐる訳ではないが、おれが留守で、國が預り中の事ゆえ心配をいたしているものだから﹂
女中は
﹁恐れ入ります、どうぞお検あらため下さいまし﹂
と銘めい々〳〵葛つゞ籠らを縁側へ出す。
飯﹁たけの文庫には何どういう物が入っているか見たいナ成程たまかな女だ、一おと昨ゝ年し遣つかわした手てぬ拭ぐいがチャンとしてあるな、女という者は小こぎ切れの端でもチャンと畳たと紙うへいれて置く位でなければいかん、おきみや、手前の文庫を一ツ見てやるから此こ処ゝへ出せ﹂
君﹁私わたくしのは何どうぞ御免あそばして、殿様が直じかに御覧あそばさないで下さい﹂
飯﹁そうはいかん、竹のを検あらためて手前のばかり見ずにいては怨うらみッこになる﹂
君﹁どうぞ御勘弁恐れ入ります﹂
飯﹁何も隠す事はない、成程、ハヽア大層枕まく草らぞ紙うしをためたな﹂
君﹁恐れ入ります、貯ためたのではございません、親類内うちから到来をいたしたので﹂
飯﹁言いい訳わけをするな、着物が殖ふえると云うから宜いいわ﹂
國﹁アノ男部屋の孝助と源助の文庫を検あらためて見とうございます、お竹どん一ちょ寸っと二人を呼んでおくれ﹂
竹﹁孝助どん、源助どん、殿様のお召めしでございますよ﹂
源﹁へい〳〵お竹どんなんだえ﹂
竹﹁お金が百両紛ふん失じつして、内うち々〳〵の者へお疑いがかゝり、今お調べの所だよ﹂
源﹁何ど処こから這は入いったろう、何しろ大変な事だ、何しろ行って見よう﹂
と両人飯島の前へ出て来て、
源﹁承わり恟びっくり致しました、百両の金きん子すが御ごふ紛んじ失つになりましたそうでございますが、孝助と私わたくしと御門を堅く守って居りましたに、何どういう事でございましょう、嘸さぞ御心配な事で﹂
飯﹁なに國が預り中で、大層心配をするから一ちょ寸っと検あらためるのだ﹂
國﹁孝助どん、源助どん、お気の毒だがお前方二人は何どうも疑うたぐられますよ、葛つゞ籠らをこゝへ持ってお出いで﹂
源﹁お検あらためを願います﹂
國﹁これ切ぎりかえ﹂
源﹁一切さい合がっ切さい一ひと世しょ帯たい是これ切ぎりでございます﹂
國﹁おや〳〵まア、着物を袖そで畳だゝみにして入れて置くものではないよ、ちゃんと畳んでお置きな、これは何なんだえ、ナニ寝ねま衣きだとえ、相変らず無ぶし性ょうをして丸めて置いて穢きたないねえ、此の紐ひもは何だえ、虱しら紐みひもだとえ、穢きたないねえ、孝助どんお前のをお出し、此の文庫切りか﹂
と是から段々ひろちゃくいたしましたが、元より入れて置いた胴巻ゆえ有るに違いない。お國はこれ見よがしに団うち扇わの柄えに引ひっ掛かけて、すッと差上げ、
國﹁おい孝助どん此の胴巻は何どうしてお前の文庫の中に入っていたのだ﹂
孝﹁おや〳〵〳〵、さっぱり存じません、何う致したのでしょう﹂
國﹁おとぼけでないよ、百両のお金が此の胴巻ぐるみ紛ふん失じつしたから、御おみ神く鬮じの占うらないのと心配をしているのです、是が失なくなっては何うも私が殿様に済まないからお金を返しておくれよ﹂
孝﹁私わたくしは取った覚えはありません、どんな事が有っても覚えはありません、へい〳〵何ういう訳で此の胴巻が入っていたか存じません、へえ﹂
國﹁源助どん、お前は一番古く此のお屋敷にいるし、年かさも多い事だから、これは孝助どんばかりの仕しわ業ざではなかろう、お前と二人で心を合せてした事に違いない、源助どんお前から先へ白状しておしまい﹂
源﹁これは、私わたくしはどうも、これ孝助々々、どうしたんだ、己おれが迷惑を受けるだろうじゃないか、私は此のお屋敷に八ヶ年も御奉公をして、殿様から正直と云われているのに年とし嵩かさだものだから御ごぎ疑ね念んを受ける、孝助どうしたか云わねえか﹂
孝﹁私わたくしは覚えはないよ﹂
源﹁覚えはないといったって、胴巻の出たのは何どうしたのだ﹂
孝﹁何うして出たか私わたくしゃ知らないよ、胴巻は自ひと然りでに出て来たのだもの﹂
國﹁自ひと然りでに出たと云ってすむかえ、胴巻の方から文庫の中へ駆かけ込こむやつがあるものか、そら〴〵しい、そんな優しい顔つきをして本当に怖い人だよ、恩も義理も知らない犬畜生とはお前の事だ、私が殿様にすまない﹂
と孝助の膝をグッと突く。
孝﹁何をなさいます、私わたくしは覚えはございません、どんな事が有っても覚えはございません〳〵﹂
國﹁源助どん、お前から先へ白状おしよ﹂
源﹁孝助、己おれが困る、己が智ち慧えでも付けたようにお疑ぐりがかゝり、困るから早く白状しろよ﹂
孝﹁私わたくしゃ覚えはない、そんな無理な事を云ってもいけないよ、外ほかの事と違って、大だいそれた、家来が御主人様のお金を百両取ったなんぞと、そんな覚えはない﹂
源﹁覚えがないと計ばかり云っても、それじゃア胴巻の出た趣意が立たねえ、己まで御疑念がかゝり困るから、早く白状して殿様の御疑念を晴はらしてくれろ﹂
とこづかれて、孝助は泣きながら、只たゞ残念でございますと云っていると、お國は先せん夜やの意趣を晴はらすは此の時なり、今日こそ孝助が殿様にお手打になるか追おい出だされるかと思えば、心地よく、わざと
﹁孝助どん云わないか﹂
と云いながら力に任せて孝助の膝をつねるから、孝助は身にちっとも覚えなき事なれど、証拠があれば云い解く術すべもなく、口くや惜しな涙みだを流し、
孝﹁痛いとうございます、どんなに突かれても抓つねられても、覚えのない事は云いようがありません﹂
國﹁源助どん、お前から先へ云ってしまいな﹂
源﹁孝助云わねえか﹂
と云いながらドンと突つき飛とばす。
孝﹁何を突き飛ばすのだね﹂
源﹁いつまでも云わずにいちゃア己が迷惑する、云いなよ﹂
と又突飛ばす。孝助は両方から抓ねられ突飛ばされたりして、残念で堪たまらない。
孝﹁突き飛ばしたって覚えはない、お前もあんまりだ、一つ部屋にいて己の気性も知っているじゃアないか、お庭の掃除をするにも草花一本も折らないように気を附け、釘一本落ちていても直すぐに拾って来て、お前に見せるようにしているじゃアないか、己おいらの心も知っていながら、人を盗どろ賊ぼうと疑ぐるとは余あんまり酷ひどいじゃアないか、そんなにキャア〳〵いうと殿様までが私わたくしを疑ぐります﹂
始終を聞いていた飯島は大声を上げて、
飯﹁黙れ孝助、主人の前も憚はゞからず大おお声ごえを発して怪けしからぬ奴、覚えがなければ何どうして胴巻が貴様の文庫の中うちに有ったか、それを申せ、何うして胴巻があった﹂
孝﹁何うして有りましたか、さっぱり存じません﹂
飯﹁只たゞ存ぜぬ知らんと云って済むと思うかえ、不ふら埓ちな奴だ、己おれが是程目を懸けてやるにサ、其の恩義を打うち忘わすれ、金子を盗むとは不ふと届ゞきものめ、手前ばかりではよもあるまい、外ほかに同類があるだろう、さア申もう訳しわけが立たんければ手打にしてしまうから左様心得ろ﹂
と云いい放はなつ。源助は驚いて、
源﹁どうかお手打の処ところは御勘弁を願います、へい又何者にか騙だまされましたか知れませんから、篤とくと源助が取調べ御挨拶を申上げまする迄までお手打の処はお日ひの延べを願いとう存じます﹂
飯﹁黙れ源助、さような事を申すと手前まで疑念が懸るぞ、孝助を構い立てすると手前も手打にするから左様心得ろ﹂
源﹁これ孝助、お詫わびを願わないか﹂
孝﹁私わたくしは何もお詫をするような不埓をした事はない、殿様にお手打になるのは有難い事だ、家来が殿様のお手に掛って死ぬのは当あた然りまえの事だ、御奉公に来た時から、身体は元より命まで殿様に差上げている気だから、死ぬのは元より覚悟だけれど、是まで殿様の御恩に成った其の御恩を孝助が忘れたと仰しゃった殿様のお言葉、そればかりが冥よみ途じの障さわりだ、併しかし是も無実の難で致し方がない、後あとで其の金を盗んだ奴が出て、あゝ孝助が盗んだのではない、孝助は無実の罪であったという事が分るだろうから、今お手打に成っても構わない、さア殿様スッパリとお願い申します、お手打になさいまし﹂
と摩すり寄ると、
飯﹁今は日のあるうち血を見せては穢けがれる恐れがあるから、夕景になったら手打にするから、部屋へ参って蟄ちっ居きょしておれ、これ源助、孝助を取とり逃にがさんように手前に預けたぞ﹂
源﹁孝助お詫を願え﹂
孝﹁お詫する事はない、お早くお手打を願います﹂
飯﹁孝助よく聞け、匹ひっ夫ぷ下げろ郎うという者は己おのれの悪い事を余よ所そにして、主人を怨うらみ、酷むごい分らんと我がを張って自みずから舌なぞを噛み切り、或あるいは首をくゝって死ぬ者があるが、手前は武士の胤たねだという事だから、よも左様な死にようは致すまいな、手打になるまで屹きっ度と待っていろ﹂
と云われて孝助は口くや惜しな涙みだの声を慄ふるわせ、
孝﹁そんな死にようは致しません、早くお手打になすって下さいまし﹂
源﹁これ孝助お詫びを願わないか﹂
孝﹁どうしても取った覚えはない﹂
源﹁殿様は荒い言葉もお掛なすった事もなかったが大だい枚まいの百両の金が紛ふん失じつしたので、金ずくだから御ごも尤っともの事だ、お隣の宮野邊の御次男様にお頼み申し、お詫わび言ごとを願っていたゞけ﹂
孝﹁隣の次男なんぞに、たとえ舌を喰って死んでも詫言なぞは頼まねえ﹂
源﹁そんなら相川様へ願え、新五兵衞様へサ﹂
孝﹁何も失しく錯じりの廉かどがないものを、何も覚えがないのだから、あとで金の盗ぬす人みてが知れるに違いない、天てん誠まことを照てらすというから、其の時殿様が御一言でも、あゝ孝助は可かわ愛いそ相うな事をしたと云って下されば、そればっかりが私わたくしへの好よい手たむ向けだ、源助どん、お前にも長らく御厄介になったから、相川様へ養子に行ゆくように成ったら、小こづ遣かいでも上げようと心懸けていたのも、今となっては水の泡、どうぞ私わたしがない後のちは、お前が一人で二ふた人りま前えの働きをして、殿様を大切に気を付け、忠義を尽つくして上げて下さい、そればかりがお願いだ、それに源助どんお前は病身だから体からだを大だい切じに厭いとって御奉公をし、丈夫でいておくれ、私は身に覚えのない盗どろ賊ぼうにおとされたのが残念だ﹂
と声を放って泣き伏しましたから、源助も同じく鼻をすゝり、涙を零こぼして眼を擦こすりながら、
源﹁わび事を頼めよ〳〵﹂
孝﹁心配おしでないよ﹂
と孝助はいよ〳〵手打になる時は、隣の次男源次郎とお國と姦通し、剰あまつさえ来月の四日中川で殿様を殺そうという巧たくみの一伍ぶし一ゞゅ什うを委くわしく殿様の前へ並べ立て、そしてお手打になろうという気でありますから、少しも憶おくする色もなく、平ふだ常んの通りで居る。其の内に灯あかりがちら〳〵点つく時刻と成りますと、飯島の声で、
﹁孝助庭先へ廻れ﹂
という。此の後あとは何どうなりますか、次つ囘ぎまでお預あずかり。
十二
伴藏の家うちでは、幽霊と伴藏と物語をしているうち、女房おみねは戸棚に隠れ、熱さを堪こらえて襤ぼ褸ろを被かぶり、ビッショリ汗をかき、虫の息をころして居るうちに、お米は飯島の娘お露の手を引いて、姿は朦もう朧ろうとして掻かき消けす如く見えなく成りましたから、伴藏は戸棚の戸をドン〳〵叩き、
伴﹁おみね、もう出なよ﹂
みね﹁まだ居やアしないかえ﹂
伴﹁帰けえってしまった、出ねえ〳〵﹂
みね﹁何どうしたえ﹂
伴﹁何うにも斯こうにも己おれが一生懸命に掛合ったから、飲んだ酒も醒さめて仕舞った、己おらア全ぜん体てい酒さえのめば、侍さむれえでもなんでも怖おっかなくねえように気が強くなるのだが、幽霊が側へ来たかと思うと、頭から水を打ちかけられるように成って、すっかり酔よいも醒め、口もきけなくなった﹂
みね﹁私が戸棚で聞いていれば、何なんだかお前と幽霊と話をしている声が幽かすかに聞えて、本当に怖かったよ﹂
伴﹁己おれは幽霊に百両の金を持って来ておくんなせえ、私わっちども夫婦は萩原様のお蔭かげで何どうやら斯こうやら暮しをつけて居ります者ですから、萩原様に万もし一もの事が有りましては私わた共くしども夫婦は暮し方に困りますから、百両のお金を下さったなら屹きっ度とお札を剥はがしましょうというと、幽霊は明あし日たの晩お金を持って来ますからお札を剥してくれろ、それに又萩原様の首に掛けていらっしゃる海音如来の御おま守もりがあっては入る事が出来ないから、どうか工夫をして其のお守を盗み、外ほかへ取捨てゝ下さいと云ったは、金きん無む垢くで丈たけは四寸二分の如来様だそうだ、己も此の間お開帳の時ちょっと見たが、あの時坊さんが何か云ってたよ、抑そも何なんとかいったっけ、あれに違ちげえねえ、何なんでも大変な作さく物ものだそうだ、あれを盗むんだが、どうだえ﹂
かね﹁どうも旨いねえ、運が向いて来たんだよ、其の如来様はどっかへ売れるだろうねえ﹂
伴﹁何どうして江戸ではむずかしいから、何ど所こか知らない田舎へ持って行って売るのだなア、仮たと令い潰つぶしにしても大たいしたものだ、百両や二百両は堅いものだ﹂
みね﹁そうかえ、まア二百両あれば、お前と私と二人ぐらいは一生楽に暮すことが出来るよ、それだからねえ、お前一生懸命でおやりよ﹂
伴﹁やるともさ、だが併しかし首にかけているのだから、容易に放すまい、何どうしたら宜よかろうナ﹂
みね﹁萩原様は此の頃お湯にも入らず、蚊か帳やを吊りきりでお経を読んでばかりいらっしゃるものだから、汗臭いから行水をお遣つかいなさいと云って勧すゝめて使わせて、私が萩原様の身体を洗っているうちにお前がそっとお盗みな﹂
伴﹁成程旨うめえや、だが中々外へは出まいよ﹂
みね﹁そんなら座敷の三畳の畳を上げて、あそこで遣わせよう﹂
と夫婦いろ〳〵相談をし、翌日湯を沸かし、伴藏は萩原の宅うちへ出掛けて参り、
伴﹁旦那え、今日は湯を沸かしましたから行水をお遣いなせえ、旦那をお初はつに遣わせようと思って﹂
新﹁いや〳〵行水はいけないよ、少し訳があって行水は遣えない﹂
みね﹁旦那此の熱いのに行水を遣わないで毒ですよ、お寝ねめ衣しも汗でビッショリになって居りますから、お天気ですから宜ようございますが、降りでもすると仕方がありません、身体のお毒になりますからお遣いなさいよ﹂
新﹁行水は日暮方表で遣うもので、私わたくしは少し訳があって表へ出る事の出来ない身分だからいけないよ﹂
伴﹁それじゃアあすこの三畳の畳を上げてお遣つけえなせえ﹂
新﹁いけないよ、裸になる事だから、裸になる事は出来ないよ﹂
伴﹁隣の占うら者ないの白翁堂先生がよくいいますぜ、何なんでも穢きたなくして置くから病気が起ったり幽霊や魔物などが這は入いるのだ、清らかにしてさえ置けば幽霊なぞは這入られねえ、じゞむさくして置くと内から病が出る、又穢くして置くと幽霊がへいって来ますよ﹂
新﹁穢くして置くと幽霊が這入って来るか﹂
伴﹁来る所どころじゃアありません両ふた人りで手を引いて来ます﹂
新﹁それでは困る、内で行水を遣うから三畳の畳を上げてくんな﹂
というから、伴藏夫婦はしめたと思い、
伴﹁それ盥たらいを持って来て、手てお桶けへホレ湯を入れて来い﹂
などと手早く支度をした。萩原は着物を脱ぎ捨て、首に掛けているお守まもりを取りはずして伴藏に渡し、
新﹁これは勿もっ体たいないお守だから、神棚へ上げて置いてくんな﹂
伴﹁へい〳〵、おみね、旦那の身体を洗って上げな、よく丁てい寧ねいにいゝか﹂
みね﹁旦那様此こち方らの方をお向きなすっちゃアいけませんよ、もっと襟えりを下の方へ延ばして、もっとズウッと屈こゞんでいらっしゃい﹂
と襟を洗う振ふりをして伴藏の方を見せないようにしている暇ひまに、伴藏は彼かの胴巻をこき、ズル〳〵と出して見れば、黒くろ塗ぬり光つ沢や消けしのお厨ず子しで、扉を開ひらくと中はがたつくから黒い絹で包くるんであり、中には丈たけ四寸二分、金きん無む垢くの海音如来、そっと懐中へ抜ぬき取とり、代り物がなければいかぬと思い、予かねて用心に持って来た同じような重さの瓦の不動様を中へ押おし込こみ、元の儘まゝにして神棚へ上げ置き、
伴﹁おみねや長いのう、余あんまり長く洗っているとお逆のぼ上せなさるから、宜いい加減にしなよ﹂
新﹁もう上がろう﹂
と身体を拭ふき、浴ゆか衣たを着、あゝ宜いい心こゝ持ろもちになった。と着た浴衣は経きょ帷うか子たびら、使った行水は湯ゆか灌んとなる事とは、神ならぬ身の萩原新三郎は、誠に心持よく表を閉めさせ、宵よいの内から蚊か帳やを吊り、其の中で雨うほ宝うだ陀らに羅き尼ょ経うを頻しきりに読んで居ります。此こち方らは伴藏夫婦は、持ちつけない品を持ったものだからほく〳〵喜び、宅うちへ帰りて、
みね﹁お前立派な物だねえ、中々高そうな物だよ﹂
伴﹁なに己おらたちには何なんだか訳が分らねえが、幽霊は此こい奴つがあると這へ入いられねえという程な魔まよ除けのお守まもりだ﹂
みね﹁ほんとうに運が向いて来たのだねえ﹂
伴﹁だがのう、此こい奴つがあると幽霊が今夜百両の金を持って来ても、己おれの所へ這へ入いる事が出来めえが、是にゃア困った﹂
みね﹁それじゃアお前出掛けて行って、途中でお目に懸ってお出いでな﹂
伴﹁馬鹿ア云え、そんな事が出来るものか﹂
みね﹁どっかへ預けたら宜よかろう﹂
伴﹁預けなんぞして、伴藏の持もち物ものには不似合だ、何どういう訳でこんな物を持っていると聞かれた日にゃア盗んだ事が露顕して、此こっ方ちがお仕しお置きに成ってしまわア、又質に置くことも出来ず、と云って宅うちへ置いて、幽霊が札が剥がれたから萩原様の窓から這へ入いって、萩原様を喰くい殺ころすか取とり殺ころした跡をあらためた日にゃア、お守が身体にないものだから、誰たれか盗んだに違ちげえねえと詮議になると、疑うたぐりのかゝるは白翁堂か己おれだ、白翁堂は年寄の事で正直者だから、此こっ方ちはのっけに疑ぐられ、家やさ捜がしでもされてこれが出ては大変だから何どうしよう、これを羊よう羹かん箱ばこか何かへ入れて畑へ埋めて置き、上へ印の竹を立てゝ置けば、家捜しをされても大丈夫だ、そこで一旦身を隠して、半年か一年も立って、ほとぼりの冷めた時分帰けえって来て掘ほり出だせば大丈夫知れる気きづ遣かいはねえ﹂
みね﹁旨い事ねえ、そんなら穴を深く掘って埋めてお仕舞いよ﹂
と、直すぐに伴藏は羊羹箱の古いのに彼かの像を入れ、畑へ持もち出だし土どち中ゅうへ深く埋めて、其の上へ目めじ標るしの竹を立たて置おき立たち帰かえり、さアこれから百両の金の来るのを待つばかり、前祝いに一杯やろうと夫婦差さし向むかいで互たがいに打うち解とけ酌くみ交かわし、最もう今に八ツになる頃だからというので、女房は戸棚へ這は入いり、伴藏一人酒を飲んで待っているうちに、八ツの鐘が忍ヶ岡に響いて聞えますと、一際きわ世間がしんと致し、水の流れも止り、草木も眠るというくらいで、壁にすだく蟋こお蟀ろぎの声も幽かすかに哀あわれを催もよおし、物凄く、清水の元からいつもの通り駒下駄の音高くカランコロン〳〵と聞えましたから、伴藏は来たなと思うと身の毛もぞっと縮まる程怖ろしく、かたまって、様子を窺うかゞっていると、生いけ垣がきの元へ見えたかと思うと、いつの間にやら縁側の所へ来て、
﹁伴藏さん〳〵﹂
と云われると、伴藏は口が利けない、漸よう々〳〵の事で、
﹁へい〳〵﹂
と云うと、
米﹁毎晩上あがりまして御迷惑の事を願い、誠に恐れ入りまするが、未まだ今晩も萩原様の裏窓のお札が剥はがれて居りませんから、どうかお剥しなすって下さいまし、お嬢様が萩原様に逢いたいと私わたくしをお責め遊ばし、おむずかって誠に困り切りまするから、どうぞ貴あな方たさ様ま、二人の者を不ふび便んに思おぼ召しめしお札を剥して下さいまし﹂
伴﹁剥します、へい剥しますが、百両の金を持って来て下すったか﹂
米﹁百目の金子慥たしかに持参致しましたが、海音如来の御おま守もりをお取とり捨すてになりましたろうか﹂
伴﹁へい、あれは脇へ隠しました﹂
米﹁左様なれば百目の金子お受うけ取とり下さいませ﹂
とズッと差さし出だすを、伴藏はよもや金ではあるまいと、手に取とり上あげて見れば、ズンとした小判の目方、持った事もない百両の金を見るより伴藏は怖い事も忘れてしまい、慄ふるえながら庭へ下おり立ち、
﹁御一緒にお出いでなせえ﹂
と二にけ間んば梯し子ごを持もち出だし、萩原の裏窓の蔀したみへ立て懸け、慄える足を踏ふみ締しめながらよう〳〵登り、手を差伸ばし、お札を剥そうとしても慄えるものだから思う様ように剥れませんから、力を入れて無理に剥そうと思い、グッと手を引ひっ張ぱる拍子に、梯子がガクリと揺れるに驚き、足を踏み外はずし、逆さかとんぼうを打って畑の中へ転ころげ落ち、起おき上あがる力もなく、お札を片手に握つかんだまゝ声をふるわし、唯たゞ南無阿弥陀仏〳〵と云っていると、幽霊は嬉しそうに両人顔を見合せ、
米﹁嬢様、今晩は萩原様にお目にかゝって、十分にお怨みを仰しゃいませ、さア入いらっしゃい﹂
と手を引き伴藏の方を見ると、伴藏はお札を掴つかんで倒れて居りますものだから、袖そでで顔を隠しながら、裏窓からズッと中うちへ這入りました。
十三
飯島平左衞門の家うちでは、お國が、今夜こそ予かねて源次郎と諜しめし合あわせた一大事を立たち聞ぎきした邪魔者の孝助が、殿様のお手てう打ちになるのだから、仕すましたりと思うところへ、飯島が奥から出てまいり、
飯﹁國、國、誠にとんだ事をした、譬たとえにも七なゝたび捜して人を疑ぐれという通り、紛ふん失じつした百両の金子が出たよ、金の入れ所は時々取違えなければならないものだから、己おれが外ほかへ仕舞って置いて忘れていたのだ、皆みんなに心配を掛けて誠に気の毒だ、出たから悦んでくれろ﹂
國﹁おやまアお目め出で度とうございます﹂
と口には云えど、腹の内では些ちっとも目出たい事も何なんにもない。何どうして金が出たであろうと不審が晴れないで居りますと、
飯﹁女どもを皆みんなこゝへ呼んでくれ﹂
國﹁お竹どん、おきみどん皆みんなこゝへお出いで﹂
竹﹁只今承わりますればお金が出ましたそうでおめでとう存じます﹂
君﹁殿様誠におめでとうございます﹂
飯﹁孝助も源助もこゝへ呼んで来い﹂
女﹁孝助どん源助どん、殿様がめしますよ﹂
源﹁へい〳〵、これ孝助お詫わび事ごとを願いな、お前は全く取らないようだが、お前の文庫の中から胴巻が出たのがお前があやまり、詫ごとをしなよ﹂
孝﹁いゝよ、いよ〳〵お手打になるときは、殿様の前で私わたくしが列ならべ立てる事がある、それを聞くとお前は嘸さぞ悦ぶだろう﹂
源﹁なに嬉しい事があるものか、殿様が召すからマア行こう﹂
と両人連つれ立だってまいりますと、
飯﹁孝助、源助、此こっ方ちへ来てくれ﹂
源﹁殿様、只今部屋へ往って段々孝助へ説得を致しましたが、どうも全く孝助は盗とらないようにございます、お腹はら立だちの段は重々御ごも尤っともでござりますが、お手打の儀は何なに卒とぞ廿三日ちまでお日ひの延べの程を願いとう存じます﹂
飯﹁まアいゝ、孝助これへ来てくれ﹂
孝﹁はいお庭でお手打になりますか、※ござ﹇#﹁蓙﹂の左の﹁人﹂に代えて﹁口﹂、125-11﹈をこれへ敷きましょうか、血が滴たれますから﹂
飯﹁縁側へ上がれ﹂
孝﹁へい、これはお縁側でお手打、これは有がたい、勿もっ体たいない事で﹂
飯﹁そう云っちゃア困るよ、さて源助孝助、誠に相済まん事であったが、百両の金は実は己おれが仕しま舞いど処ころを違えて置いたのが、用よう箪だん笥すから出たから喜んでくれ、家来だからあんなに疑うたぐってもよいが、外ほかの者でもあっては己が言いい訳わけのしようもない位な訳で、誠に申しわけがない﹂
孝﹁お金が出ましたか、さようなれば私わたくしは盗どろ賊ぼうではなく、お疑うたぐりは晴れましたか﹂
飯﹁そうよ、疑りはすっぱり晴れた、己が間違いであったのだ﹂
孝﹁えゝ有がとうござります、私わたくしは素もとよりお手打になるのは厭いといませんけれども、只たゞ全く私が取りませんのを取ったかと思われまするのが冥よみ路じの障さわりでございましたが、御疑念が晴れましたならお手打は厭いません、サヽお手打になされまし﹂
飯﹁己が悪かった、これが家来だからいゝが、若もし朋ほう友ゆうか何かであった日にゃア腹を切っても済まない所、家来だからといって、無闇に疑うたぐりを掛けては済まない、飯島が板の間へ手を突いてこと〴〵く詫びる、堪忍して呉れ﹂
孝﹁あゝ勿体ない、誠に嬉しゅうございました、源助どん﹂
源﹁誠にどうも﹂
飯﹁源助、手前は孝助を疑うたぐって孝助を突いたから謝あやまれ﹂
源﹁へい〳〵孝助どん、誠に済みません﹂
飯﹁たけや何かも何か少し孝助を疑ったろう﹂
竹﹁ナニ疑りは致しませんが、孝助どんは平ふだ常んの気性にも似合ないことだと存じまして、些ちっとばかり﹂
飯﹁矢張り疑ったのだから謝まれ、きみも謝まれ﹂
竹﹁孝助どん、誠にお目めで出と度う存じます、先程は誠に済みません﹂
飯﹁これ國、貴様は一番孝助を疑り、膝を突いたり何かしたから余計に謝まれ、己でさえ手をついて謝ったではないか、貴様は猶なお更さら丁寧に詫をしろ﹂
と云われてお國は、此こん度どこそ孝助がお手打になる事と思い、心の中うちで仕済ましたりと思っている処ところへ、金子が出て、孝助に謝まれと云うから残念で堪たまらないけれども、仕方がないから、
國﹁孝助どん誠に重々すまない事を致しました、何どうか勘弁しておくんなさいましよ﹂
孝﹁なに宜よろしゅうございます、お金が出たから宜いいが、若もしお手打にでもなるなら、殿様の前でお為になる事を並べ立たてて死のうと思って……﹂
と急せき込こんで云いかけるを、飯島は、
飯﹁孝助何も云って呉れるな己にめんじて何事もいうな﹂
孝﹁恐れ入ります、金子は出ましたが、彼あの胴巻は何どうして私わたくしの文庫から出ましたろう﹂
飯﹁あれはホラいつか貴様が胴巻の古いのを一つ欲しいと云った事があったっけノウ、其の時おれが古いのを一つやったじゃないか﹂
孝﹁ナニさような事は﹂
飯﹁貴様がそれ欲しいと云ったじゃないか﹂
孝﹁草履取の身の上で縮ちり緬めんのお胴巻を戴いたとて仕方がございません﹂
飯﹁此こい奴つ物覚えの悪いやつだ﹂
孝﹁私わたくしより殿様は百両のお金を仕舞い忘れる位ですから貴あな方たの方が物覚えがわるい﹂
飯﹁成程これはおれがわるかった、何しろ目め出で度たいから皆みんなに蕎そ麦ばでも喰わせてやれ﹂
と飯島は孝助の忠義の志こゝろざしは予かねて見抜いてあるから、孝助が盗み取るようなことはないと知っている故、金子は全く紛ふん失じつしたなれども、別に百両を封ふう金きんに拵こしらえ、此の騒動を我が粗そこ忽つにしてぴったりと納まりがつきました。飯島は斯かほ程どまでに孝助を愛する事ゆえ、孝助も主人の為ためには死んでもよいと思い込んで居りました。斯かくて其の月も過ぎて八月の三日となり、いよ〳〵明あ日すはお休みゆえ、殿様と隣とな邸りの次男源次郎と中川へ釣つりに行ゆく約束の当日なれば、孝助は心配をいたし、今夜隣の源次郎が来て当家に泊るに相違ないから、殿様に明みょ日うにちの釣をお止やめなさるように御意見を申し上げ、もし何どうしてもお聞きゝ入いれのない其の時は、今夜客間に寝ている源次郎めが中ちゅう二階に寝ているお國の所へ廊下伝いに忍び行ゆくに相違ないから、廊下で源次郎を槍やり玉だまにあげ、中二階へ踏ふみ込こんでお國を突つき殺ころし、自分は其の場を去らず切腹すれば、何事もなく事こと済ずみになるに違いない、これが殿様へ生涯の恩返し、併しかし何うかして明みょ日うにち主人を漁りょうにやりたくないから、一応は御意見をして見ようと、
孝﹁殿様明みょ日うにちは中川へ漁に入いらっしゃいますか﹂
飯﹁あゝ行ゆくよ﹂
孝﹁度たび々〳〵申上げるようですが、お嬢様がお亡くなりになり、未まだ間まもない事でございまするから、お見みあ合わせなすっては如いか何ゞ﹂
飯﹁己おれは外ほかに楽たのしみはなく釣が極ごく好きで、番がこむから、偶たまには好きな釣ぐらいはしなければならない、それを止とめてくれては困るな﹂
孝﹁貴あな方たは泳ぎを御存じがないから水すい辺へんのお遊びは宜よろしくございません、それともたって入っしゃいますならば孝助お供いたしましょう、何うか手前お供にお連れください﹂
飯﹁手前は釣は嫌いじゃないか、供はならんよ、能よく人の楽みを止める奴だ、止めるな﹂
孝﹁じゃア今晩やって仕舞います、長々御厄介になりました﹂
飯﹁何を﹂
孝﹁え、なんでも宜しゅうございます、此こち方らの事です、殿様私わたくしは三月二十一日に御当家へ御奉公に参りまして、新参者の私を、人が羨うらやましがる程お目を掛けてくださり、御恩義の程は死んでも忘れはいたしません、死ねば幽霊になって殿様のお身体に附きまとい、凶事のない様に守りまするが、全体貴方は御酒を召上れば前後も知らずお寝やすみになる、又召上がらねば少しもお寝みになる事が出来ません、御酒も随分気を散じますから少々は召上がっても宜しゅうございますが、多分に召上ってお酔いなすっては、仮たと令いどんなに御剣術が御名人でも、悪者がどんなことを致しますかも知れません、私はそれが案じられてなりません﹂
飯﹁さような事は云わんでも宜しい、あちらへ参れ﹂
孝﹁へえ﹂
と立上がり、廊下を二ふた足あし三みあ足し行ゆきにかゝりましたが、是これがもう主人の顔の見納めかと思えば、足も先に進まず、又振返って主人の顔を見てポロリと涙を流し、悄しお々〳〵として行ゆきますから、振返るを見て飯島もハテナと思い、暫しばし腕拱こまぬき、小首かたげて考えて居りました。孝助は玄関に参り、欄らん間まに懸かゝってある槍をはずし、手に取って鞘さやを外はずして検あらためるに、真まっ赤かに錆さびて居りましたゆえ、庭へ下おり、砥とい石しを持もち来きたり、槍の身をゴシ〳〵研とぎはじめていると、
飯﹁孝助々々﹂
孝﹁へい〳〵﹂
飯﹁何なんだ、何をする、どう致すのだ﹂
孝﹁これは槍でございます﹂
飯﹁槍を研いで何どう致すのだえ﹂
孝﹁余あんまり真まっ赤かに錆さびておりますから、なんぼ泰平の御み代よとは申しながら、狼ろう藉ぜきものでも入いりますと、其の時のお役に立たないと思い、身体が閑でございますから研ぎ始めたのでございます﹂
飯﹁錆さび槍やりで人が突けぬような事では役にたゝんぞ、仮たと令え向うに一寸すん幅はゞの鉄てつ板いたがあろうとも、此こち方らの腕さえ確たしかならプツリッと突き抜ける訳のものだ、錆ていようが丸まる刃はであろうが、さような事に頓とん着じゃくはいらぬから研ぐには及ばん、又憎い奴を突つき殺ころす時は錆槍で突いた方が、先の奴が痛いから此方が却かえっていゝ心こゝ持ろもちだ﹂
孝﹁成程こりゃアそうですな﹂
と其の儘まゝ槍を元の処ところへ掛けて置く。飯島は奥へ這入り、其の晩源次郎がまいり酒さか宴もりが始まり、お國が長唄の地じで春はる雨さめかなにか三さみ味せ線んを掻きならし、当時の九時過まで興を添えて居りましたが、もうお引ひけにしましょうと客間へ蚊帳を一抔に吊って源次郎を寝かし、お國は中ちゅう二階へ寝てしまいました。お國は誰が泊っても中二階へ寝なければ源次郎の来た時不都合だから、何い時つでもお客さえあればこゝへ寝ます。夜よも段々と更け渡ると、孝助は手てぬ拭ぐいを眉まぶ深かに頬ほお冠かむりをし、紺こん看かん板ばんに梵ぼん天てん帯おびを締め、槍を小脇に掻かい込こんで庭口へ忍び込み、雨戸を少々ずつ二ふた所ところ明けて置いて、花壇の中うちへ身を潜ひそめ隠し縁の下へ槍を突つき込こんで様子を窺うかゞっている。その中うちに八やツの鐘がボーンと鳴り響く。此の鐘は目白の鐘だから少々早めです。するとさらり〳〵と障子を明け、抜ぬき足あしをして廊下を忍び来る者は、寝ねま衣きす姿がたなれば、慥たしかに源次郎に相違ないと、孝助は首を差さし延のべ様子を窺うに、行あん灯どうの明りがぼんやりと障子に映るのみにて薄暗く、はっきりそれとは見分けられねど、段々中二階の方へ行ゆくから、孝助はいよ〳〵源次郎に違いなしとやり過すごし、戸の隙すき間まから脇腹を狙って、物をも云わず、力に任せて繰くり出だす槍先は過あやまたず、プツリッと脾ひは腹らへ掛けて突き徹とおす。突かれて男はよろめきながら左ゆん手でを延のばして槍先を引ひき抜ぬきさまグッと突つき返かえす。突かれて孝助たじ〳〵と石へ躓つまずき尻もちをつく。男は槍の穂先を掴つかみ、縁側より下へヒョロ〳〵と降り、沓くつ脱ぬぎ石いしに腰を掛け、
﹁孝助外庭へ出ろ〳〵﹂
と云われて孝助、オヤ、と言って見ると、恟びっくりしたは源次郎と思いの外ほか、大恩受けたる主人の肋あば骨らへ槍を突つき掛かけた事なれば、アッとばかりに呆あきれはて、唯たゞキョトキョト〳〵として逆のぼ上せあがってしまい、呆あっ気けに取られて涙も出ずにいる。
飯﹁孝助こちらへ来い﹂
と気丈な殿様なれば袂たもとにて疵きず口ぐちを確しっかと押えてはいるものゝ、血のりは溢あふれてぼたり〳〵と流れ出す。飯島は血に染しみたる槍を杖として、飛とび石いし伝づたいにヒョロ〳〵と建仁寺垣の外なる花壇の脇の所へ孝助を連れて来る。孝助は腰が抜けてしまって、歩けないで這って来た。
孝﹁へい〳〵間まち違がいでござります﹂
飯﹁孝助己おれの上うわ締じめを取って疵口を縛れ、早く縛れ﹂
と云われても、孝助は手がブル〳〵とふるえて思うまゝに締らないから、飯島自ら疵口をグッと堅く締め上げ、猶なお手をもって其の上を押え、根ねぶ府か川わの飛石の上へペタ〳〵と坐る。
孝﹁殿様、とんでもない事をいたしました﹂
とばかりに泣なき出いだす。
飯﹁静かにしろ、他ほかへ洩れては宜よろしくないぞ、宮野邊源次郎めを突こうとして、過あやまって平左衞門を突いたか﹂
孝﹁大変な事をいたしました、実は召めし仕つかいのお國と宮野邊の次男源次郎と疾とくより不義をしていて、先あと月げつ廿一日お泊とま番りばんの時、源次郎がお國の許もとへ忍び込み、お國と密ひそ々〳〵話して居る所へうっかり私わたくしがお庭へ出て参り、様子を聞くと、殿様がいらっしゃっては邪魔になるゆえ、来月の四日中川にて殿様を釣舟から突つき落おとして殺してしまい、体てい能よくお頭かしらに届けをしてしまい、源次郎を養子に直し、お國と末長く楽しもうとの悪わる工だくみ、聞くに堪え兼ね、怒りに任せ、思わず呻うなる声を聞きつけ、お國が出て参り、彼かれ此これと言い合あいはしたものゝ、源次郎の方には殿様から釣道具の直しを頼みたいとの手紙を以もって証拠といたし、一時じは私わたくし云い籠められ、弓の折おれにてしたゝか打たれ、いまだに残る額の疵きず、口くや惜しくてたまり兼ね、表おも向てむきにしようとは思ったなれど、此こち方らは証拠のない聞いた事、殊ことに向うは次男の勢い、無理でも圧おさえ付けられて私はお暇いとまになるに相違ないと思い諦め、彼あの事は胸にたゝんでしまって置き、いよ〳〵明みょ日うにちは釣にお出いでになるお約束日ゆえお止め申しましたが、お聞入れがないから、是非なく、今晩二人の不義者を殺し、其の場を去らず切腹なし、殿様の難義をお救い申そうと思うた事はの嘴はしと喰くい違ちがい、とんでもない間違をいたしました、主人の為に仇あだを討とうと思ったに、却かえって主人を殺すとは神も仏もない事か、何なんたる因果な事であるか、殿様御免遊ばせ﹂
と飛石へ両手をつき孝助は泣き転がりました。飯島は苦痛を堪こらえながら、
飯﹁あゝ〳〵不ふつ束ゝかなる此の飯島を主人と思えばこそ、それ程までに思うてくれる志忝かたじけない、なんぼ敵かたき同士とは云いながら現在汝の槍先に命を果すとは輪りん廻ねお応うほ報う、あゝ実に殺生は出来んものだなア﹂
孝﹁殿様敵同士とは情ない、何なんで私わたくしは敵同志でございますの﹂
飯﹁其の方が当家へ奉公に参ったは三月廿一日、其の時某それがし非番にて貴様の身の上を尋ねしに、父は小出の藩中にて名をば黒川孝藏と呼び、今を去る事十八年前、本郷三丁目藤村屋新兵衞という刀屋の前にて、何者とも知れず人手に罹かゝり、非業の最期を遂げたゆえ、親の敵かたきを討ちたいと、若年の頃より武家奉公を心掛け、漸よう々〳〵の思いで当家へ奉公住ずみをしたから、どうか敵の討てるよう剣術を教えて下さいと手前の物語りをした時、恟びっくりしたというは、拙者がまだ平太郎と申し部屋住の折おり、彼かの孝藏と聊いさゝかの口論がもとゝなり、切捨てたるはかく云う飯島平左衞門であるぞ﹂
と云われて孝助は唯たゞへい〳〵とばかりに呆れ果て、張詰めた気もひょろぬけて腰が抜け、ペタ〳〵と尻もちを突き、呆気に取られて、飯島の顔を打うち眺ながめ、茫然として居りましたが、暫しばらくして、
孝﹁殿様そう云う訳なれば、なぜ其の時にそう云っては下さいません、お情のうございます﹂
飯﹁現在親の敵と知らず、主人に取って忠義を尽す汝の志、殊ことに孝心深きに愛めで、不ふび便んなものと心得、いつか敵と名な告のって汝に討たれたいと、さま〴〵に心痛いたしたなれど、苟かりそめにも一旦主人とした者に刃はむ向かえば主しゅ殺うごろしの罪は遁のがれ難し、されば如い何かにもして汝をば罪に落さず、敵と名告り討たれたいと思いし折から、相川より汝を養子にしたいとの所しょ望もうに任せ、養子に遣つかわし、一人前の侍となして置いて仇かたきと名告り討たれんものと心組んだる其の処ところへ、國と源次郎めが密通したを怒いかって、二人の命を絶たんとの汝の心底、最前庭にて錆槍を磨とぎし時より暁さとりしゆえ、機を外はずさず討たれんものと、態わざと源次郎の容かたちをして見違えさせ、槍で突かして孝心の無念をこゝに晴はらさせんと、かくは計らいたる事なり、今汝が錆槍にて脾腹を突かれし苦痛より、先の日汝が手を合せ、親の敵の討てるよう剣術を教えてくだされと、頼まれた時のせつなさは百倍増ましであったるぞ、定めて敵を討ちたいだろうが、我が首を切る時は忽たちまち主殺しの罪に落ちん、されば我髷まげをば切取って、之これにて胸をば晴し、其の方は一ひと先まずこゝを立たち退のいて、相川新五兵衞方へ行ゆき密みつ々〳〵に万事相談致せ、此の刀は先さきつ頃藤村屋新兵衞方にて買わんと思い、見ているうちに喧嘩となり、汝の父を討ったる刀、中身は天正助定なれば、是を汝に形見として遣つかわすぞ、又此の包つゝみの中うちには金子百両と悉くわしく跡あと方かたの事の頼み状、これを披ひらいて読よみ下くだせば、我が屋敷の始末のあらましは分る筈、汝いつまでも名なご残りを惜しみて此こ所ゝにいる時は、汝は主しゅ殺うころしの罪に落るのみならず、飯島の家は改易となるは当あた然りまえ、此の道理を聞分けて疾とく参れ﹂
孝﹁殿様、どんな事がございましょうとも此の場は退のきません、仮たと令え親おや父じをお殺しなさりょうが、それは親父が悪いから、かくまで情なさけある御主人を見捨てゝ他わきへ立たち退のけましょうか、忠義の道を欠く時は矢やは張り孝行は立たない道理、一旦主人と頼みしお方を、粗そそ相うとは云いながら槍先にかけたは私わたくしの過あやまり、お詫わびの為に此の場にて切腹いたして相果てます﹂
飯﹁馬鹿な事を申すな、手前に切腹させる位なら飯島はかくまで心痛はいたさぬわ、左様な事を申さず早く往ゆけ、もし此の事が人の耳に入いりなば飯島の家に係わる大事、悉くわしい事は書かき置おきに有るから早く行ゆかぬか、これ孝助、一旦主しゅ従うじゅうの因縁を結びし事なれば、仇あだは仇恩は恩、よいか一旦仇を討ったる後あとは三世せも変らぬ主従と心得てくれ、敵同士でありながら汝の奉公に参りし時から、どう云う事か其の方ほうが我が子のように可愛くてなア﹂
と云われ孝助は、おい〳〵と泣きながら、
孝﹁へい〳〵、これまで殿様の御丹誠を受けまして、剣術といい槍といい、なま兵法に覚えたが今日却かえって仇となり、腕が鈍くば斯かくまでに深くは突かぬものであったに、御勘弁なすってくださいまし﹂
と泣き沈む。
飯﹁これ早く往け、往かぬと家は潰つぶれるぞ﹂
と急せき立てられ、孝助は止むを得ず形見の一刀腰に打込み、包を片手に立上り、主人の命めいに随って脇差抜いて主人の元もと結ゆいをはじき、大地へ慟どうと泣なき伏ふし、
孝﹁おさらばでございます﹂
と別れを告げてこそ〳〵門を出て、早足に水道端なる相川の屋敷に参り。
孝﹁お頼ん申します〳〵﹂
相﹁善藏や誰たれか門を叩くようだ、御ごか廻いじ状ょうが来たのかも知らん、一ちょ寸っと出ろ、善藏や﹂
善﹁へい〳〵﹂
相﹁何なんだ、返事ばかりしていてはいかんよ﹂
善﹁只今明けます、只今、へい真まっ暗くらでさっぱり訳がわからない、只今々々、へい〳〵、どっちが出口だか忘れた﹂
コツリと柱で頭を打ぶッつけ、アイタアイタヽヽヽと寝ねぼ惚けま眼なこをこすりながら戸を開ひらいて表へ立たち出いで、
善﹁外の方がよっぽど明るいくらいだ、へい〳〵どなた様でございます﹂
孝﹁飯島の家来孝助でございますが、宜よろしくお取次を願います﹂
善﹁御苦労様でございます、只今明けます﹂
と石の吊してある門をがッたん〳〵と明ける。
孝﹁夜やち中ゅう上あがりまして、おしずまりに成った処ところを御迷惑をかけました﹂
善﹁まだ殿様はおしずまりなされぬようで、まだ御ごほ本んのお声が聞えますくらい、先まずお這は入いり﹂
と内へ入れ、善藏は奥へ参り、
善﹁殿様、只今飯島様の孝助様が入いらっしゃいました﹂
相﹁それじゃアこれへ、アレ、コリャ善藏寝惚てはいかん、これ蚊帳の釣手を取って向うの方へやって置け、これ馬鹿何を寝惚ているのだ、寝ろ〳〵、仕方のない奴﹂
と呟つぶやきながら玄関まで出迎え、
﹁これは孝助殿、さア〳〵お上あがり、今では親子の中何も遠慮はいらない、ズッと上れ﹂
と座敷へ通し、
相﹁さて孝助殿、夜やち中ゅうのお使つかい定めて火急の御用だろう、承りましょう、えゝ何どう云う御用か、何なんだ泣いているな、男が泣くくらいではよく〳〵な訳だろうが、どうしたんだ﹂
孝﹁夜中上り恐れ入りますが、不思議の御縁、御当家様の御所望に任せ、主人得心の上私わたくし養子のお取とり極きめはいたしましたが、深い仔細がございまして、どうあっても遠国へ参らんければなりませんゆえ、此の縁談は破談と遊ばして、どうか外ほか々〳〵から御養子をなされて下さいませ﹂
相﹁はいナア成程よろしい、お前が気に入らなければ仕方が無いねえ、高は少なし、娘は不ふつ束ゝかなり、舅しゅうとは此の通りの粗そゝ忽ッか家しやで一つとして取り所がない、だが娘がお前の忠義を見抜いて煩わずらうまでに思い込んだもんだから、殿様にも話し、お前の得心の上取極めた事であるのを、お前一人来て破縁をしてくれろと云ってもそれは出来ないな、殿様が来てお取極めになったのを、お前一人で破るには、何か趣意がなければ破れまい、左様じゃござらんか、どう云う訳だか次第を承わりましょう、娘が気に入らないのか、舅が悪いのか、高が不足なのか、何なんだ﹂
孝﹁決してそういう訳ではございません﹂
相﹁それじゃアお前は飯島様を失しく錯じりでもしたか、どうも尋た常ゞの顔付ではない、お前は根が忠義の人だから、しくじってハッと思い、腹でも切ろうか、遠方へでも行いこうと云うのだろうが、そんな事をしてはいかん、しくじったなら私わたくしが一緒に行って詫をしてやろう、もうお前は結納まで取とり交かわせをした事だから、内の者、云い付けて、孝助どのとは云わせず、孝助様と呼ばせるくらいで、云わば内の忰せがれを来年の二月婚礼を致すまで、先の主人へ預けて置くのだ、少し位ぐらいの粗相が有ったッてしくじらせる事があるものか、と不理窟をいえばそんなものだが、マア一緒に行こう、行ってやろう﹂
孝﹁いえ、そう云う訳ではございません﹂
相﹁何だ、それじゃアどう云う訳だ﹂
孝﹁申すに申し切れない程な深い訳がございまして﹂
相﹁はゝア分った、宜しい、そう有るべき事だろう、どうもお前のような忠義もの故、飯島様が相川へ行ってやれ、ハイと主命を背そむかず答こたえはしたものゝ、お前の器量だから先に約束をした女でもあるのだろう、所が今度の事を其の女が知って私が先約だから是非とも女房にしてくれなければ主人に駆込んで此の事を告げるとか、何とか云い出したもんだから、お前はハッと思い、其の事が主人へ知れては相済まん、それじゃアお前を一緒に連れて遠国へ逃げようと云うのだろう、なに一人ぐらいの妾はあっても宜しい、お頭かしらへ一ちょ寸っと届けて置けば仔細はない、尤もっともの事だ、娘は表向の御ごし新ん造ぞとして、内ない々〳〵の処ところは其の女を御新造として置いてもいゝ、私わたくしが取る分米まいを其の女にやりますから宜しい、私わたくしが行って其の女に逢って頼みましょう、其の女は何者じゃ、芸者か何なんだ﹂
孝﹁そんな事ではございません﹂
相﹁それじゃア何んだよ、エイ何んだ﹂
孝﹁それではお話をいたしまするが、殿様は負てお傷いでいます﹂
相﹁ナニ負傷で、何な故ぜ早く云わん、それじゃア狼ろう藉ぜき者ものが忍び込み、飯島が流さす石が手てし者ゃでも多たぜ勢いに無ぶぜ勢い、切きり立たてられているのを、お前が一方を切抜けて知らせに来たのだろう、宜しい、手前は剣術は知らないが、若い時分に学んで槍は少々心得ておる、参ってお助太刀をいたそう﹂
孝﹁さようではございません、実は召使の國と隣の源次郎が疾とうから密通をして﹂
相﹁へい、やっていますか、呆れたものだ、そういえばちら〳〵そんな噂もあるが、恩人の思いものをそんな事をして憎い奴だ、人にん非ぴに人んですねえ、それから〳〵﹂
孝﹁先月の廿一日、殿様お泊とま番りばんの夜よに、源次郎が密ひそかにお國の許もとへ忍び込み、明みょ日うにち中川にて殿様を舟から突落し殺そうとの悪わる計だくみを、私わたくしが立たち聞ぎゝをした所から、争いとなりましたが、此こち方らは悲しいかな草履取の身の上、向うは二男の勢いきおいなれば喧嘩は負まけとなったのみならず、弓の折にて打ちょ擲うちゃくされ、額に残る此の疵きずも其の時打たれた疵でございます﹂
相﹁不届至極な奴だ、お前なぜ其の事を直すぐに御主人に云わないのだ﹂
孝﹁申そうとは思いましたが、私わたくしの方は聞いたばかり、証拠にならず、向うには殿様から、暇ひまがあったら夜よるにでも宅うちへ参って釣道具の損じを直して呉れとの頼みの手紙がある事ゆえ、表沙汰にいたしますれば、主人は必ず隣へ対し、義理にも私はお暇いとまに成るに違いはありません、さすれば後あとにて二人の者が思うがまゝに殿様を殺しますから、どうあっても彼あのお邸やしきは出られんと今日まで胸を摩さすって居りましたが、明あし日たは愈いよ々〳〵中川へ釣にお出いでになる当日ゆえ、それとなく今日殿様に明あし日たの漁をお止め申しましたが、お聞入れがありませんから、止むを得ず、今こよ宵いの内に二人の者を殺し、其の場で私が切腹すれば、殿様のお命に別条はないと思い詰め、槍を提さげて庭先へ忍んで様子を窺うかゞいました﹂
相﹁誠に感心感服、アヽ恐れ入ったね、忠義な事だ、誠に何どうも、それだから娘より私わしが惚れたのだ、お前の志は天あっ晴ぱれなものだ、其の様な奴は突つき放ッぱなしで宜いいよ、腹は切らんでも宜いよ、私わたしが何どのようにもお頭に届とゞけを出して置くよ、それから何うした﹂
孝﹁そういたしますると、廊下を通る寝ねま衣きす姿がたは慥たしかに源次郎と思い、繰出す槍先あやまたず、脇腹深く突き込みましたところ間違って主人を突いたのでございます﹂
相﹁ヤレハヤ、それはなんたることか、併しかし疵は浅かろうか﹂
孝﹁いえ、深手でございます﹂
相﹁イヤハヤどうも、なぜ源次郎と声を掛けて突かないのだ、無闇に突くからだ、困った事をやったなア、だが過あやまって主人を突いたので、お前が不忠者でない悪人でない事は御主人は御存じだろうから、間違いだと云う事を御主人へ話したろうね﹂
孝﹁主人は疾とくより得心にて、わざと源次郎の姿と見違えさせ、私わたくしに突かせたのでござります﹂
相﹁これはマア何ゆえそんな馬鹿な事をしたんだ﹂
孝﹁私わたくしには深い事は分りませんが、此のお書置に委くわしい事がございますから﹂
と差出す包を、
相﹁拝見いたしましょう、どれこれかえ、大きな包だ、前掛が入っている、ナニ婆ばあやアのだ、なぜこんな所に置くのだ、そっちへ持って行ゆけ、コレ本の間まに眼鏡があるから取ってくれ﹂
と眼鏡を掛け、行あん灯どんの明り掻き立て読よみ下くだして相川も、ハッとばかりに溜ため息いきをついて驚きました。
十四
伴藏は畑へ転がりましたが、両人の姿が見えなくなりましたから、慄ふるえながらよう〳〵起上り、泥だらけの儘まゝ家うちへ駈け戻り、
伴﹁おみねや、出なよ﹂
みね﹁あいよ、どうしたえ、まア私は熱かったこと、膏あぶ汗らあせがビッショリ流れる程出たが、我慢をして居たよ﹂
伴﹁手てめ前えは熱い汗をかいたろうが、己おらア冷つめてえ汗をかいた、幽霊が裏窓から這は入いって行ったから、萩原様は取とり殺ころされて仕舞うだろうか﹂
みね﹁私の考えじゃア殺すめえと思うよ、あれは悔しくって出る幽霊ではなく、恋しい〳〵と思っていたのに、お札が有って這入れなかったのだから、是が生きている人間ならば、お前さんは余あんまりな人だとか何なんとか云って口くぜ説つでも云う所だから殺す気きづ遣かいはあるまいよ、どんな事をしているか、お前見ておいでよ﹂
伴﹁馬鹿をいうな﹂
みね﹁表から廻ってそっと見ておいでヨウ〳〵﹂
といわれるから、伴藏は抜ぬき足あしして萩原の裏手へ廻り、暫しばらくして立たち帰かえり、
みね﹁大層長かったね、どうしたえ﹂
伴﹁おみね、成程手てめ前えの云う通り、何だかゴチャ〳〵話し声がするようだから覗のぞいて見ると、蚊か帳やが吊って有って何だか分らないから、裏手の方へ廻るうちに、話し声がパッタリとやんだようだから、大方仲直りが有って幽霊と寝たのかも知れねえ﹂
みね﹁いやだよ、詰らない事をお云いでない﹂
という中うちに夜よもしら〳〵と明け離れましたから、
伴﹁おみね、夜が明けたから萩原様の所へ一緒に往って見よう﹂
みね﹁いやだよ私わたしゃ夜が明けても怖くっていやだよ﹂
というのを、
伴﹁マア往きねえよ﹂
と打うち連つれだち。
伴﹁おみねや、戸を明けねえ﹂
みね﹁いやだよ、何だか怖いもの﹂
伴﹁そんな事を云ったって、手てめ前えが毎朝戸を明けるじゃアねえか、ちょっと明けねえな﹂
みね﹁戸の間から手を入れてグッと押すと、栓しん張ばり棒ぼうが落ちるから、お前お明けよ﹂
伴﹁手てめ前えそんな事を云ったって、毎朝来て御膳を炊いたりするじゃアねえか、それじゃア手前手を入れて栓張だけ外すがいゝ﹂
みね﹁私ゃいやだよ﹂
伴﹁それじゃアいゝや﹂
と云いながら栓張を外し、戸を引き開けながら、
伴﹁御免ねえ、旦那え〳〵夜が明けやしたよ、明るくなりやしたよ、旦那え、おみねや、音も沙汰もねえぜ﹂
みね﹁それだからいやだよ﹂
伴﹁手てめ前え先へ入へいれ、手前はこゝの内の勝手をよく知っているじゃアねえか﹂
みね﹁怖い時は勝手も何もないよ﹂
伴﹁旦那え〳〵、御免なせえ、夜が明けたのに何怖いことがあるものか、日の恐れがあるものを、なんで幽霊がいるものか、だがおみね世の中に何が怖いッて此の位怖いものア無ねえなア﹂
みね﹁あゝ、いやだ﹂
伴藏は呟つぶやきながら中なか仕じき切りの障子を明けると、真まっ暗くらで、
伴﹁旦那え〳〵、よく寝ていらッしゃる、まだ生しょ体うてえなく能よく寝ていらッしゃるから大丈夫だ﹂
みね﹁そうかえ、旦那、夜が明けましたから焚たきつけましょう﹂
伴﹁御免なせえ、私わっちが戸を明けやすよ、旦那え〳〵﹂
と云いながら床の内を差さし覗のぞき、伴藏はキャッと声を上げ、
﹁おみねや、己おらアもう此の位くれえな怖いもなア見た事はねえ﹂
とおみねは聞くよりアッと声をあげる。
伴﹁おゝ手てめ前えの声でなお怖くなった﹂
みね﹁何どうなっているのだよ﹂
伴﹁何うなったの斯こうなったのと、実に何なんとも彼かとも云いようのねえ怖こええことだが、これを手てめ前えとおれと見たばかりじゃア掛かゝ合りえいにでもなっちゃア大てえ変へんだから、白翁堂の爺さんを連れて来て立たち合えいをさせよう﹂
と白翁堂の宅へ参り、
伴﹁先生〳〵伴藏でごぜえやす、ちょっとお明けなすって﹂
白﹁そんなに叩かなくってもいゝ、寝ちゃアいねえんだ、疾とうに眼が覚めている、そんなに叩くと戸が毀こわれらア、どれ〳〵待っていろ、あゝ痛いたゝゝゝ戸を明けたのに己の頭をなぐる奴があるものか﹂
伴﹁急いだものだから、つい、御免なせえ、先生ちょっと萩原様の所へ往って下せえ、何うかしましたよ、大てえ変へんですよ﹂
白﹁何うしたんだ﹂
伴﹁何うにも斯うにも、私わっちが今おみねと両ふた人りでいって見て驚いたんだから、お前めえさん一ちょ寸っと立合って下さい﹂
と聞くより勇齋も驚いて、藜あかざの﹇#﹁藜あかざの﹂は底本では﹁黎あかざの﹂﹈杖を曳ひき、ポク〳〵と出掛けて参り、
白﹁伴藏お前めえ先へ入んなよ﹂
伴﹁私わっちは怖いからいやだ﹂
白﹁じゃアおみねお前めえ先へ入れ﹂
みね﹁いやだよ、私だって怖いやねえ﹂
白﹁じゃアいゝ﹂
と云いながら中へ這入ったけれども、真暗で訳が分らない。
白﹁おみね、ちょっと小窓の障子を明けろ、萩原氏、どうかなすったか、お加減でも悪いかえ﹂
と云いながら、床の内を差さし覗のぞき、白翁堂はわな〳〵と慄ふるえながら思わず後あとへ下さがりました。
十五
相川新五兵衞は眼鏡を掛け、飯島の遺かき書おきをば取る手おそしと読み下しまするに、孝助とは一旦主しゅ従うじゅうの契ちぎりを結びしなれども敵かたき同士であったること、孝助の忠実に愛めで、孝心の深きに感じ、主しゅ殺うころしの罪に落さずして彼が本懐を遂げさせんがため、態わざと宮野邊源次郎と見違えさせ討たれしこと、孝助を急ぎ門もん外そとに出いだし遣やり、自身に源次郎の寝ね室まに忍び入り、彼が刀の鬼となる覚悟、さすれば飯島の家うちは滅亡致すこと、彼等両人我を打って立たち退のく先は必定お國の親元なる越後の村上ならん、就ついては汝孝助時を移さず跡追掛け、我が仇あだなる両人の生首提ひっさげて立帰り、主しゅうの敵かたきを討ちたる廉かどを以もって我が飯島の家名再興の儀を頭かしらに届けくれ、其の時は相川様にもお心添えの程偏ひとえに願い度たいとのこと、又汝は相川へ養子に参る約束を結びたれば、娘お徳どのと互いに睦むつましく暮し、両人の間に出来た子供は男なん女にょに拘かゝわらず、孝助の血ちす統じを以て飯島の相続人と定めくれ、後あとは斯こう々〳〵云しか々〴〵と、実に細かに届く飯島の家来思いの切なる情なさけに、孝助は相川の遺かき書おきを読む間ま、息をもつかず聞いていながら、膝の上へぽたり〳〵と大粒な熱い涙を零こぼしていましたが、突いき然なり剣けん幕まくを変えて表の方へ飛出そうとするを、
相﹁これ孝助殿、血相変えて何ど処こへ行ゆきなさる﹂
と云われて孝助は泣声を震わせ、
孝﹁只今お遺かき書おきの御様子にては、主人は私わたくしを急いで出し、後あとで客間へ踏込んで源次郎と闘うとの事ですが、如い何かに源次郎が剣術を知らないでも、殿様があんな深ふか傷でにてお立合なされては、彼が無残の刃の下に果は敢かなくお成りなされるは知れた事、みす〳〵敵かたきを目の前に置きながら、恩あり義理ある御主人を彼等に酷むごく討たせますは実に残念でござりますから、直すぐに取って返し、お助太刀を致す所存でございます﹂
相﹁分らない事を云わっしゃるな、御主人様が是だけの遺かき書おきをお遣つかわしなさるは何の為ためだと思わッしゃる、そんな事をしなさると、飯島の家いえが潰つぶれるから、邸やしきへ行ゆく事は明朝までお待ち、此の遺書の事を心得てこれを反ほ故ごにしてはならんぜ﹂
と亀の甲より年の功、流さす石が老ろう巧こうの親身の意見に孝助はかえす言葉もありませんで、口くや惜しがり、唯たゞ身を震わして泣伏しました。話かわって飯島平左衞門は孝助を門もん外そとに出し、急ぎ血潮滴したたる槍を杖とし、蟹のように成ってよう〳〵に縁側に這い上がり、蹌よろめく足を踏みしめ踏みしめ、段々と廊下を伝い、そっと客間の障子を開ひらき中へ入いり、十二畳一杯に釣ってある蚊帳の釣つり手てを切り払い、彼あな方たへはねのけ、グウ〳〵とばかり高たか鼾いびきで前あと後さきも知らず眠ねている源次郎の頬ほうの辺あたりを、血に染しみた槍の穂先にてペタリ〳〵と叩きながら、
飯﹁起おきろ〳〵﹂
と云われて源次郎頬が冷ひやりとしたに不ふ図と目を覚さまし、と見れば飯島が元結はじけて散ちらし髪で、眼は血走り、顔色は土つち気けい色ろになり、血の滴したたる手槍をピタリッと付け立っている有様を見るより、源次郎は早くも推すいし、アヽヽこりア流さす石が飯島は智ちえ慧し者ゃだけある、己と妾のお國と不義している事を覚さとられたか、さなくば例の悪計を孝助奴めが告げ口したに相違なし、何しろ余程の腹はら立だちだ、飯島は真影流の奥おう儀ぎを極きわめた剣術の名人で、旗はた下もと八万騎の其の中に、肩を並ぶるものなき達人の聞えある人に槍を付けられた事だから、源次郎はぎょっとして、枕まく頭らもとの一刀を手早く手元に引付けながら、慄ふるえる声を出して、
源﹁伯父様、何をなさいます﹂
と一生懸命面めん色しょく土気色に変わり、眼めい色ろ血走りました。飯島も面色土気色で目が血走りているから、あいこでせえでございます。源次郎は一刀の鍔つば前まえに手を掛けてはいるものゝ、気きお憶くれがいたし刃向う事は出来ませんで竦すくんで仕舞いました。
源﹁伯父様、私わたくしをどうなさるお積りで﹂
飯島は深ふか傷でを負いたる事なれば、震ふるえる足を踏み止めながら、
飯﹁何事とは不ふら埓ちな奴だ、汝が疾とくより我が召使國と不義姦いた通ずらしているのみならず、明みょ日うにち中川にて漁りょ船うせんより我を突き落し、命を取った暁に、うま〳〵此の飯島の家を乗のっ取とらんとの悪だくみ、恩を仇なる汝が不所存、云おう様ようなき人にん非ぴに人ん、此の場に於おいて槍玉に揚げてくれるから左様心得ろ﹂
と云い放たれて、源次郎は、剣術はからっ下ぺ手たにて、放ほう蕩とうを働き、大塚の親類に預けられる程な未熟不ふた鍛んれ錬んな者なれども、飯島は此の深ふか傷でにては彼の刃に打たれて死するに相違なし、併しかし打たれて死ぬまでも此の槍にてしたゝかに足を突くか手を突いて、亀てん手ぼうか跛びっ足こにでもして置かば、後ごに日ち孝助が敵かた討きうちを為する時幾分かの助けになる事もあるだろうから、何ど処っかを突かんと狙い詰められ、
源﹁伯父さま私わたくしは何も槍で突かれる様な覚えはございません﹂
飯﹁黙れ﹂
と怒りの声を振立てながら、一ひと歩あし進んで繰くり出だす槍やり鋒さき鋭く突きかける。源次郎はアッと驚き身を交かわしたが受け損じ、太股へ掛けブッツリと突き貫き、今一本突こうとしましたが、孝助に突かれた深ふか傷でに堪たえ兼ね、蹌よろ々〳〵とする所を、源次郎は一本突かれ死物狂いになり、一刀を抜くより早く飛込みさま飯島目掛けて切り付ける。切付けられてアッと云って蹌ひょろめく処ところへ、又、太刀深く肩先へ切込まれ、アッと叫んで倒れる処へ乗し掛って、恰まるで河か岸しで鮪まぐろでもこなす様に切って仕舞いました。お國は中ちゅう二階に寝ていましたが、此の物音を聞き附け、寝ねま衣きの儘まゝに階はし子ごを降り、そっと来て様子を窺うかゞうと、此の体てい裁たらくに驚き、慌あわてゝ二階へ上あがったり下へ下りたりしていると、源次郎が飯島に止とゞめを刺したようだから、お國は側へ駈かけ付つけて、
國﹁源さま、貴あな方たにお怪我はございませんか﹂
源次郎は肩息をつきフウ〳〵とばかりで返事も致しません。
國﹁あなた黙っていては分りませんよ、お怪我はありませんか﹂
といわれて源次郎はフウ〳〵といいながら、
源﹁怪我はないよ、誰だ、お國さんか﹂
國﹁貴あな方たのお足から大層血が出ますよ﹂
源﹁これは槍で突かれました、手てづ強よい奴と思いの外ほかなアにわけはなかった、併しかし此こ処ゝに何いつ時ま迄でこうしては居いられないから、両ふた人りで一緒に何いず処くへなりとも落おち延のびようから、早く支度をしな﹂
と云われてお國は成程そうだと急ぎ奥へ駈戻り、手早く身支度をなし、用意の金子や結構な品々を持もち来きたり、
國﹁源さまこの印いん籠ろうをお提さげなさいよ、この召めし物ものを召せ﹂
と勧められ、源次郎は着物を幾枚も着て、印籠を七つ提げて、大小を六本し、帯を三本締めるなど大変な騒ぎで、漸よう々〳〵支度が整ったから、お國とともに手を取って忍び出いでようとする処ところを、仲働きの女中お竹が、先程より騒々しい物音を聞付け、来て見れば此の有様に驚いて、
﹁アレ人殺し﹂
という奴を、源次郎が驚いて、此の声人に聞かれてはと、一刀抜くより飛込んで、デップリ肥ふとって居る身体を、肩口から背びらへ掛けて斬きり付つける。斬られてお竹はキャッと声をあげて其の儘まゝ息は絶えました。他ほかの女どもゝ驚いて下流しへ這込むやら、又は薪まき箱ばこの中へ潜もぐり込むやら騒いでいる中うちに、源次郎お國の両りょ人うにんは此こ処ゝを忍び出いで、何いず処くともなく落ちて行いく。後あとで源助は奥の騒ぎを聞きつけて、いきなり自分の部屋を飛びだし、拳こぶしを振ふるって隣とな家りの塀へいを打ち叩き、破れるような声を出して、
源﹁狼藉ものが這入りました〳〵﹂
と騒ぎ立てるに、隣とな家りの宮野邊源之進はこれを聞きゝ附つけ思う様よう、飯島のごとき手てし者ゃの処ところへ押入る狼藉ものだから、大たい勢ぜい徒とと党うしたに相違ないから、成るたけ遅くなって、夜が明けて往ゆく方がいゝと思い先まず一同を呼よび起おこし、蔵へまいって著きご込みを持ってまいれの、小こ手て脛すね当あての用意のと云っているうちに、夜よはほの〴〵と明け渡りたれば、もう狼藉者はいる気きづ遣かいはなかろうと、源之進は家来一二人にんを召連れ来て見れば此の始末。如いか何ゞしたる事ならんと思うところへ、一ひと人りの女中が下流しから這はい上あがり、源之進の前に両手をつかえ、
﹁実は昨晩の狼藉者は、貴方様の御おし舎ゃて弟い源次郎様とお國さんと、疾とうから密通してお出いでになって、昨夜殿様を殺し、金子衣類を窃ぬす取みとり、何いず処くともなく逃げました﹂
と聞いて源之進は大いに驚き、早速に邸やしきへ立帰り、急ぎお頭かしらへ向け源次郎が出しゅ奔っぽんの趣おもむきの届とゞけを出す。飯島の方へはお目附が御ごけ検ん屍しに到来して、段々死骸を検あらため見るに、脇腹に槍の突つき傷ゝずがありましたから、源次郎如き鈍き腕前にては兎とても飯島を討つ事は叶かなうまじ、されば必ず飯島の寝ね室まに忍び入り、熟睡の油断に附つけ入いりて槍を以もって欺だまし討ちにした其の後のちに、刀を以て斬きり殺ころしたに相違なしということで、源次郎はお尋ね者となりましたけれども、飯島の家いえは改かい易えきと決り、飯島の死骸は谷中新幡随院へおくり、こっそりと野辺送りをしてしまいました。こちらは孝助、御主人が私わたくしの為ために一命をお捨てなされた事なるかと思えば、いとゞ気もふさぎ、欝々としていますと、相川はお頭から帰って、
相﹁婆アや、少し孝助殿と相談があるから此こち方らへ来てはいかんよ、首などを出すな﹂
婆﹁何か御用で﹂
相﹁用じゃないのだよ、そっちへ引ひっ込こんでいろ、これ〳〵茶を入れて来い、それから仏様へ線香を上げな、さて孝助殿少し話したい事もあるから、まア〳〵此こっ方ちへ〳〵、誰にもいわれんが、先まず以もって御主人様のお遺かき書おき通りに成るから心配するには及ばん、お前は親の敵かたきは討ったから、是からは御主人は御主人として、其の敵を復かえし、飯島のお家再興だよ﹂
孝﹁仰せに及ばず、もとより敵討の覚悟でございます、此の後のち万事に付き宜よろしくお心こゝ添ろぞえの程を願います﹂
相﹁此の相川は年老いたれども、其の事は命に掛けて飯島様の御おい家えの立つように計らいます、そこでお前は何い日つ敵討に出しゅ立ったつなさるえ﹂
孝﹁最早一刻も猶予致す時でございませんゆえ、明みょう早そう天てん出立致す了簡です﹂
相﹁明あし日た直すぐに、左様かえ、余り早はや過ぎるじゃないか、宜しい此の事ばかりは留とめられない、もう一日々々と引き広ぐ事は出来ないが、お前の出立前ぜんに私わしが折おり入いって頼みたい事があるが、どうか叶かなえては下さるまいか﹂
孝﹁何どのような事でも宜しゅうございます﹂
相﹁お前の出立前に娘お徳と婚礼の盃だけをして下さい、外ほかに望みは何もない、どうか聞きゝ済すんで下さい﹂
孝﹁一旦お約束申した事ゆえ、婚礼を致しまして宜しいようなれど、主人よりのお約束申したは来年の二月、殊ことに目の前にて主人があの通りになられましたのに、只今婚礼を致しましては主人の位牌へ対して済みません、敵討の本懐を遂とげ立帰り、目め出で度たく婚礼を致しますれば、どうぞそれ迄お待ち下さるように願います﹂
相﹁それはお前の事だから、遠からず本懐を遂げて御帰宅になるだろうが、敵の行ゆく方えが知れない時は、五年で帰るか十年でお帰りになるか、幾年掛るか知れず、それに私はもう取る年、明あ日すをも知れぬ身の上なれば、此の悦びを見ぬ内帰らぬ旅に赴おもむく事があっては冥よみ途じの障さわり、殊に娘も煩う程お前を思っていたのだから、どうか家内だけで、盃さか事ずきごとを済ませて置いて、安心させてくださいな、それにお前も飯島の家来では真鍮巻の木刀を差して行ゆかなければならん、それより相川の養子となり、其の筋へ養子の届をして、一ひと人りま前えの立派な侍に出いで立たって往来すれば、途中で人足などに馬鹿にもされず宜よかろうから、何どうぞ家内だけの祝言を聞済んでください﹂
孝﹁至極御ごも尤っともなる仰せです、家内だけなれば違いは背いはございません﹂
相﹁御承知くだすったか、千万忝かたじけない、あゝ有難い、相川は貧乏なれども婚礼の入費の備えとして五六十両は掛ると見込んで、別にして置いたが、これはお前の餞別に上げるから持って行っておくれ﹂
孝﹁金子は主人から貰いましたのが百両ございますから、もう入りません﹂
相﹁アレサいくら有っても宜よいのは金、殊に長旅のことなれば、邪魔でもあろうがそう云わずに持って行ってください、そこで私が細こまかい金を選よって、襦じゅ袢ばんの中へ縫い込んで置く積りだから、肌身離さず身に著つけて置きなさい、道中には胡麻の灰という奴があるから随分気をお付けなさい、それに此の矢立をさしてお出いで、又これなる一刀は予かねて約束して置いた藤四郎吉光の太た刀ち、重くもあろうが差してお呉れ、是と御主人のお形見天正助定を差して行ゆけば、舅と主人がお前の後うし影ろかげに付添っているも同様、勇ましき働きをなさいまし﹂
孝﹁有りがとうございます﹂
相﹁何どうか今夜不ふつ束ゝかな娘だが婚礼をしてくだされ、これ婆、明あし日たは孝助殿が目め出で度たく御出立だ、そこで目出度い序ついでに今夜婚礼をする積りだから、徳に髪でも取り上げさせ、お化粧でもさせて置いてくれ、其の前に仕事がある、此の金を襦袢へ縫込んでくれ、善藏や、手前は直すぐに水道町の花屋へ行って、目出度く何か頭かし付らつきの魚を三枚ばかり取って来い、序でに酒屋へ行って酒を二升、味みり淋んを一升ばかり、それから帰りに半紙を十帖じょうばかりに、煙草を二玉に、草わら鞋じの良いのを取って参れ﹂
といい付け、そうこうするうちに支度も整いましたから、酒さけ肴さかなを座敷に取並べ、媒なこ妁うどなり親なり兼けん帯たいにて、相川が四海浪静かにと謡うたい、三々九度の盃さか事ずきごと、祝言の礼も果て、先まずお開きと云う事になる。
相﹁あゝ〳〵婆ア、誠に目出度かった﹂
婆﹁誠にお目出とう存じます、私わたくしはお嬢様のお少ちいさい時分からお附き申して御婚礼をなさるまで御奉公いたしましたかと存じますと、誠に嬉しゅうございます、あなた嘸さぞ御安心でございましょう﹂
相﹁婆ア宜いゝかえ、頼むよ、おいらは明あし日たの朝早く起るから、お前飯を炊かして、孝助殿に尾頭付きでぽッぽッと湯気の立つ飯を食べさして立たせてやりたいから、いゝかえ、緩ゆるりとお休み、先ずお開ひらきと致しましょう、孝助殿どうか幾久しく願います、娘はまだ年もいかず、世間知らずの不束者だから何分宜しくお頼み申す、氷なこ人うどは宵の中うちだから、婆アいゝかえ、頼んだぜ﹂
婆﹁貴あな方たは頼む〳〵と仰しゃって何でございます﹂
相﹁分らない婆アだな、嬢の事をサ、あすこへちょっと屏風を立たて廻まわして、恥かしくないように、宜しいか、それがサ誠に彼あい女つが恥かしがって、もじ〳〵としているだろうから旨くソレ﹂
婆﹁旦那様なんのお手付きでございますよ﹂
相﹁此こい奴つわからぬ奴だナ、手前だって亭主を持ったから子供が出来たのだろう、子供が出来たのち乳が出て、乳母に出たのだろう、ホレ娘は年がいかないからいゝ塩あん梅ばいにホレ、いゝか﹂
婆﹁貴方は本当に何い時つまでもお嬢様をお少ちいさいように思おぼ召しめしていらっしゃいますよ、大丈夫でございますよ﹂
相﹁成程目出たい、宜いいかえ頼むよ﹂
婆﹁旦那様、お嬢様お休み遊ばせ﹂
と云っても、孝助はお國源次郎の跡を追い掛け、兎とや斯こうと種いろ々〳〵心配などして腕こまねき、床の上に坐り込んでいるから、お徳も寝るわけにもいかず坐っているから、
婆﹁左様なれば旦那様御機嫌様宜しく、お嬢様先程申しました事は宜しゅうございますか﹂
徳﹁貴方少しお静まり遊ばせな﹂
孝﹁私は少し考え事がありますから、あなたお構いなくお先へお休みなすって下さいまし﹂
徳﹁婆ばあやア一ちょ寸っと来ておくれ﹂
婆﹁ハイ、何なんでございます﹂
徳﹁旦那様がお休みなさらなくって﹂
と云いさして口ごもる。
婆﹁貴方お静まりあそばせ、それではお嬢様がお休みなさる事が出来ませんよ﹂
孝﹁只今寝ます、どうかお構いなく﹂
婆﹁誠にどうもお堅かた過すぎでお気が詰りましょう、御機嫌様よろしゅう﹂
徳﹁あなた少しお横におなり遊ばしまし﹂
孝﹁どうかお先へお休みなさい﹂
徳﹁婆やア﹂
婆﹁困りますねえ、あなた少しお休みあそばせ﹂
徳﹁婆やア﹂
とのべつに呼んでいるから孝助も気の毒に思い、横になって枕をつけ、玉たま椿つばき八や千ち代よまでと思い思った夫婦中なか、初めての語らい、誠にお目出たいお話でございます。翌あし日たになると、暗いうちから孝助は支度をいたし、
相﹁これ〳〵婆アや、支度は出来たかえ、御膳を上げたか、湯気は立ったかえ、善藏に板橋まで送らせて遣やる積りだから、荷物は玄関の敷しき台だいまで出して置きな、孝助殿御膳を上あがれ﹂
孝﹁お父とっ様さま御機嫌よろしゅう、長い旅ですからつど〳〵書面を上あげる訳にも参りません、唯たゞ心配になるのはお父様のお身体、どうか私わたくしが本懐を遂げ帰宅致すまで御丈夫にお出いであそばせよ、敵かたきの首を提さげてお目に掛け、お悦びのお顔が見とうございます﹂
相﹁お前も随分身体を大事にして下さい、どうか立派に出立して下さい、種いろ々〳〵と云いたい事もあるが、キョト〳〵して云えないから何も云いません、娘何なんで袖を引ひっ張ぱるのだ﹂
徳﹁お父様、旦那様は今日お立ちになりましたら、いつ頃お帰宅になるのでございますのでしょう﹂
相﹁まだ分らぬ事をいう、いつまでも少ちいさい子供のような気でいちゃアいけないぜ、旦那さまは御主人の敵討に御出立なさるので、伊勢参宮や物見遊山に往ゆくのではない、敵を討ち遂げねばお帰りにはならない、何だ泣なきッ面つらをして﹂
徳﹁でも大概いつ頃お帰りになりましょうか﹂
相﹁おれにも五年かゝるか十年かゝるか分らない﹂
徳﹁そんなら五年も十年もお帰りあそばさないの﹂
と云いながら潜さめ々〴〵と泣き萎しおれる。
相﹁これ、何が悲しい、主しゅうの敵を討つなどゝ云う事は、侍の中うちにも立派な事だ、かゝる立派な亭主を持ったのは有難いと思え、目出度い出立だ、何な故ぜ笑い顔をして立たせない、手前が未練を残せば少禄の娘だから未練だ、意い気く地じがないと孝助殿に愛あい想そを尽かされたら何どうする、孝助殿歳がいかない子供のような娘だから、気にかけて下さるな、婆ア何を泣く﹂
婆﹁私わたくしだってお名な残ごりが惜しいから泣きます、貴方も泣いて入らっしゃるではございませんか﹂
相﹁己は年寄だから宜しい﹂
と言訳をしながら泣いていると、孝助は、
﹁さようならば御機嫌よろしゅう﹂
と玄関の敷台を下おり草鞋を穿はこうとする、其の側へお徳はすり寄り袂たもとを控え、涙に目もとをうるましながら、
﹁御機嫌様よろしく﹂
と縋すがり付くを孝助は慰なだめ、善藏に送られ出立しました。
十六
白翁堂勇齋は萩原新三郎の寝ねど所こを捲まくり、実にぞっと足の方から総毛立つほど怖く思ったのも道理、萩原新三郎は虚空を掴つかみ、歯を喰いしばり、面色土気色に変り、余程な苦しみをして死んだものゝ如く、其の脇へ髑どく髏ろがあって、手とも覚しき骨が萩原の首くび玉ったまにかじり付いており、あとは足の骨などがばら〳〵になって、床の中うちに取とり散ちらしてあるから、勇齋は見て恟びっくりし、
白﹁伴藏これは何なんだ、おれは今年六十九に成るが、斯こんな怖ろしいものは初めて見た、支那の小説なぞにはよく狐を女房にしたの、幽霊に出逢ったなぞと云うことも随分あるが、斯かよ様うな事にならないように、新幡随院の良石和尚に頼んで、有難い魔まよ除けの御おま守もりを借り受けて萩原の首を掛けさせて置いたのに、何どうも因縁は免のがれられないもので仕方がないが、伴藏首に掛けて居る守を取って呉れ﹂
伴﹁怖いから私わっちゃアいやだ﹂
白﹁おみね、こゝへ来な﹂
みね﹁私わたくしもいやですよ﹂
白﹁何しろ雨戸を明けろ﹂
と戸を明けさせ、白翁堂が自ら立って萩原の首に掛けたる白木綿の胴巻を取とり外はずし、グッとしごいてこき出せば、黒塗光つや沢け消しの御厨子にて、中を開けばこは如い何かに、金無垢の海音如来と思いの外ほか、いつしか誰か盗んですり替えたるものと見え、中は瓦に赤しゃ銅くど箔うはくを置いた土の不動と化けしてあったから、白翁堂はアッと呆れて茫然と致し、
白﹁伴藏これは誰が盗んだろう﹂
伴﹁なんだか私わっちにゃアさっぱり訳が分りません﹂
白﹁これは世にも尊とうとき海音如来の立像にて、魔界も恐れて立去るという程な尊い品なれど、新幡随院の良石和尚が厚い情なさけの心より、萩原新三郎を不ふび便んに思い、貸して下され、新三郎は肌身放さず首にかけていたものを、何どうして斯かよ様うにすり替えられたか、誠に不思議な事だなア﹂
伴﹁成程なア、私わっちどもにゃア何なんだか訳が分らねえが、観音様ですか﹂
白﹁伴藏手前を疑る訳じゃアねえが、萩原の地面内うちに居る者は己と手前ばかりだ、よもや手前は盗みはしめえが、人の物を奪う時は必ず其の相そうに顕あらわれるものだ、伴藏一ちょ寸っと手前の人相を見てやるから顔を出せ﹂
と懐中より天眼鏡を取出され、伴藏は大きに驚き、見られては大変と思い。
伴﹁旦那え、冗談いっちゃアいけねえ、私わっちのような斯こんな面つらは、どうせ出世の出来ねえ面だから見ねえでもいゝ﹂
と断る様子を白翁堂は早くも推すいし、ハヽアこいつ伴藏がおかしいなと思いましたが、なまなかの事を云出して取逃がしてはいかぬと思い直し、
白﹁おみねや、事柄の済むまでは二人でよく気を付けて居て、成なるたけ人に云わないようにしてくれ、己は是から幡随院へ行って話をして来る﹂
と藜あかざの杖を曳きながら幡随院へやって来ると、良石和尚は浅あさ葱ぎも木め綿んの衣を着ちゃくし、寂じゃ寞くまくとして坐布団の上に坐っている所へ勇齋入いり来きたり、
白﹁これは良石和尚いつも御機嫌よろしく、とかく今年は残暑の強い事でございます﹂
良﹁やア出て来たねえ、此こっ方ちへ来なさい、誠に萩原も飛んだことになって、到とう頭とう死んだのう﹂
白﹁えゝあなたはよく御存じで﹂
良﹁側に悪い奴が附いて居て、又萩原も免のがれられない悪因縁で仕方がない、定まるこッちゃ、いゝわ心配せんでもよいわ﹂
白﹁道徳高き名僧智識は百年先の事を看みや破ぶるとの事だが、貴あな僧たの御見識誠に恐れ入りました、就つきまして私わたくしが済まない事が出来ました﹂
良﹁海音如来などを盗まれたと云うのだろうが、ありゃア土の中に隠してあるが、あれは来年の八月には屹きっ度と出るから心配するな、よいわ﹂
白﹁私わたくしは陰おん陽ようを以もって世を渡り、未来の禍福を占って人の志を定むる事は、私承知して居りますけれども、こればかりは気が付きませなんだ﹂
良﹁どうでもよいわ、萩原の死骸は外ほかに菩提所も有るだろうが、飯島の娘お露とは深い因縁がある事故ゆえ、あれの墓に並べて埋めて石塔を建てゝやれ、お前も萩原に世話になった事もあろうから施主に立ってやれ﹂
と云われ白翁堂は委細承知と請うけをして寺をたち出いで、路みち々〳〵も何どうして和尚があの事を早くも覚さとったろうと不思議に思いながら帰って来て、
白﹁伴藏、貴様も萩原様には恩になっているから、野辺の送りのお供をしろ﹂
と跡の始末を取り片付け、萩原の死骸は谷中の新幡随院へ葬ってしまいました。伴藏は如い何かにもして自分の悪事を匿かくそうため、今の住すま家いを立たち退のかんとは思いましたけれども、慌あわてた事をしたら人の疑いがかゝろう、あゝもしようか、こうもしようかとやっとの事で一策を案じ出いだし、自分から近所の人に、萩原様の所へ幽霊の来るのを己が慥たしかに見たが、幽霊が二人でボン〳〵をして通り、一人は島しま田だま髷げの新しん造ぞで、一人は年増で牡丹の花の付いた灯籠を提さげていた、あれを見る者は三日を待たず死ぬから、己は怖くて彼あす処こにいられないなぞと云いい触ふらすと、聞く人々は尾に尾を付けて、萩原様の所へは幽霊が百人来るとか、根津の清水では女の泣声がするなど、さま〴〵の評判が立ってちり〴〵人が他ほかへ引ひっ起こしてしまうから、白翁堂も薄気味悪くや思いけん、此こ処ゝを引ひき払はらって、神かん田だは旅たご籠ちょ町う辺へ引ひっ越こしました。伴藏おみねはこれを機しおに、何分怖くて居いられぬとて、栗くり橋はし在は伴藏の生れ故郷の事なれば、中仙道栗橋へ引越しました。
十七
伴藏は悪事の露顕を恐れ、女房おみねと栗橋へ引ひっ越こし、幽霊から貰った百両あれば先まずしめたと、懇意の馬方久きゅ藏うぞうを頼み、此の頃は諸式が安いから二十両で立派な家うちを買取り、五十両を資もと本でに下おろし荒あら物もの見み世せを開きまして、関せき口ぐち屋や伴藏と呼び、初めの程は夫婦とも一生懸命働いて、安く仕込んで安く売りましたから、忽たちまち世間の評判を取り、関口屋の代しろ物ものは値が安くて品がいゝと、方ほう々〴〵から押掛けて買いに来るほどゆえ、大いに繁昌を極きわめました。凡夫盛んに神祟りなし、人盛んなる時は天に勝つ、人定まって天人に勝つとは古人の金言宜うべなるかな、素もとより水あぶ泡くぜ銭にの事なれば身につく道理のあるべき訳はなく、翌年の四月頃から伴藏は以前の事も打忘れ少し贅ぜい沢たくがしたくなり、絽ろの小紋の羽織が着たいとか、帯は献上博多を締めたいとか、雪せっ駄たが穿はいて見たいとか云い出して、一ある日ひ同宿の笹さゝ屋やという料理屋へ上あがり込み、一盃ぱいやっている側に酌しゃ取くと女りおんなに出た別べっ嬪ぴんは、年は二十七位だが、何どうしても廿三四位としか見えないという頗すこぶる代しろ物ものを見るよりも、伴藏は心を動かし、二階を下りて此の家やの亭主に其の女の身みの上うえを聞けば、さる頃夫婦の旅りょ人じんが此の家へ泊りしが、亭主は元は侍で、如い何かなる事か足の疵きずの痛み烈はげしく立つ事ならず、一日々々との長なが逗どう留りゅう、遂ついに旅りょ用ようをも遣つかいはたし、そういつ迄も宿屋の飯を食ってもいられぬ事なりとて、夫婦には土手下へ世しょ帯たいを持たせ、女房は此こち方らへ手伝い働き女として置いて、僅わずかな給金で亭主を見み継ついでいるとかの話を聞いて、伴藏は金さえ有れば何うにもなると、其の日は幾いく許らか金を与え、綺麗に家に帰りしが、これよりせっ〳〵と足近く笹屋に通い、金びら切って口く説どきつけ、遂に彼かの女と怪しい中になりました。一体此の女は飯島平左衞門の妾お國にて、宮野邊源次郎と不義を働き、剰あまつさえ飯島を手に掛け、金銀衣類を奪い取り、江戸を立たち退のき、越後の村上へ逃出しましたが、親元絶ぜっ家けして寄るべなきまゝ、段々と奥州路を経へめ囘ぐりて下しも街かい道どうへ出て参り此の栗橋にて煩わずらい付き、宿屋の亭主の情なさけを受けて今の始末、素もとより悪あく性しょうのお國ゆえ忽たちまち思う様よう、此の人は一いち代だい身じん上しょう俄にわ分かぶ限げんに相違なし、此の人の云う事を聞いたなら悪い事もあるまいと得心したる故、伴藏は四十を越して此のような若い綺麗な別嬪にもたつかれた事なれば、有うち頂ょう天てん界がいに飛上り、これより毎日こゝにばかり通い来て寝泊りを致しておりますと、伴藏の女房おみねは込こみ上あがる悋りん気きの角も奉公人の手前にめんじ我慢はしていましたが、或ある日ひのこと馬を牽ひいて店先を通る馬子を見付け、
みね﹁おや久藏さん、素通りかえ、余あんまりひどいね﹂
久﹁ヤアお内か儀みさま、大きに無沙汰を致しやした、ちょっくり来るのだアけど今ア荷い積んで幸さっ手てまで急いでゆくだから、寄っている訳にはいきましねえが、此こな間いだは小こづ遣かいを下さって有難うごぜえます﹂
みね﹁まアいゝじゃアないか、お前は宅うちの親類じゃないか、一ちょ寸っとお寄りよ、一ぱい上げたいから﹂
久﹁そうですかえ、それじゃア御免なせい﹂
と馬を店の片端に結ゆわい付け、裏口から奥へ通り、
久﹁己おらア此こっ家ちの旦那の身寄りだというので、皆みんなに大きに可かわ愛いがられらア、この家うちの身しん上しょうは去年から金持になったから、おらも鼻が高い﹂
と話の中うちにおみねは幾いく許らか紙に包み、
みね﹁なんぞ上げたいが、余あんまり少しばかりだが小こづ遣かいにでもして置いておくれよ﹂
久﹁これアどうも、毎めい度ど戴いてばかりいて済まねえよ、いつでも厄やっ介けえになりつゞけだが、折角の思し召しだから頂戴いたして置きますべい、おや触さわって見た所じゃアえらく金があるようだから単ひと物えものでも買うべいか、大きに有難うござります﹂
みね﹁何なんだよそんなにお礼を云われては却かえって迷惑するよ、ちょいとお前に聞きたいのだが、宅うちの旦那は、四月頃から笹屋へよくお泊りなすって、お前も一緒に行って遊ぶそうだが、お前は何故私に話をおしでない﹂
久﹁おれ知んねえよ﹂
みね﹁おとぼけで無いよ、ちゃんと種が上あがっているよ﹂
久﹁種が上るか下さがるか己おらア知んねえものを﹂
みね﹁アレサ笹屋の女のことサ、ゆうべ宅うちの旦那が残らず白状してしまったよ、私はお婆さんになって嫉やき妬もちをやく訳ではないが旦那の為を思うから云うので、あの通りな粋いきな人だから、悉すっ皆かりと打明けて、私に話して、ゆうべは笑ってしまったのだが、お前が余あんまりしらばっくれて、素通りをするから呼んだのさ、云ったッて宜いいじゃアないかえ﹂
久﹁旦那どんが云ったけえ、アレマアわれさえ云わなければ知れる気きづ遣けえはねえ、われが心しん配ぺいだというもんだから、お前さまの前へ隠していたんだ、夫婦の情じょ合うあいだから、云ったらお前めえも余あんまり心持も好よくあんめえと思ったゞが、そうけえ旦那どんが云ったけえ、おれ困ったなア﹂
みね﹁旦那は私に云って仕舞ったよ、お前と時々一緒に行くんだろう﹂
久﹁あの阿あま魔っち女ょは屋敷者だとよ、亭主は源次郎さんとか云って、足へ疵きずが出来て立つ事が出来ねえで、土手下へ世しょ帯たいを持っていて、女房は笹屋へ働き女をしていて、亭主を過すごしているのを、旦那が聞いて気の毒に思い、可愛相にと思って、一番始め金え三分くれて、二度目の時二両後あとから三両それから五両、一ぺんに二十両やった事もあった、ありゃお國さんとか云って廿七だとか云うが、お前めえさんなんぞより余よっ程ぽど綺き…ナニお前まえさまとは違ちげえ、屋敷もんだから不ぶ意い気きだが、なか〳〵美いい女だよ﹂
みね﹁何かえ、あれは旦那が遊びはじめたのは何い時つだッけねえ、ゆうべ聞いたがちょいと忘れて仕舞った、お前知っているかえ﹂
久﹁四月の二日からかねえ﹂
みね﹁呆れるよ本当にマア四月から今まで私に打明けて話しもしないで、呆れかえった人だ、どんなに私が鎌を掛けて宅うちの人に聞いても何なんだの彼かだのとしらばっくれていて、ありがたいわ、それですっかり分った﹂
久﹁それじゃア旦那は云わねえのかえ﹂
みね﹁当あた前りまえサ、旦那が私に改まってそんな馬鹿な事をいう奴があるものかね﹂
久﹁アレヘエそれじゃアおらが困るべいじゃアねえか、旦那どんが己おれにわれえ喋しゃべるなよと云うたに、困ったなア﹂
みね﹁ナニお前の名前は出さないから心配おしでないよ﹂
久﹁それじゃア私わしの名なめ前えを出しちゃアいかねえよ、大きに有難うござりました﹂
と久藏は立帰る。おみねは込こみ上あがる悋りん気きを押え、夜よな延べをして伴藏の帰りを待っていますと、
伴﹁文ぶん助すけや明けてくれ﹂
文﹁お帰り遊ばせ﹂
伴﹁店の者も早く寝てしまいな、奥ももう寝たかえ﹂
といいながら奥へ通る。
伴﹁おみね、まだ寝ずか、もう夜なべはよしねえ、身体の毒だ、大概にして置きな、今夜は一杯飲んで、そうして寝よう、何か肴さかなは有あり合あいでいゝや﹂
みね﹁何もないわ﹂
伴﹁かくやでもこしらえて来てくんな﹂
みね﹁およしよ、お酒を宅うちで飲んだって旨くもない、肴はなし、酌をする者は私のようなお婆さんだから、どうせ気に入る気きづ遣かいはない、それよりは笹屋へ行ってお上あがりよ﹂
伴﹁そりゃア笹屋は料理屋だから何なんでもあるが、寝ねざ酒けを飲むんだから一ちょ寸いと海の苔りでも焼いて持って来ねえな﹂
みね﹁肴はそれでも宜いいとした所が、お酌が気に入らないだろうから、笹屋へ行ってお國さんにお酌をしてお貰いよ﹂
伴﹁気き障ざなことを云うな、お國が何どうしたんだ﹂
みね﹁おまえは何故そう隠すんだえ、隠さなくってもいゝじゃアないかえ、私が十つ九ゞや廿はたちの事ならばお前の隠すも無理ではないが、こうやってお互いにとる年だから、隠しだてをされては私が誠に心持が悪いからお云いな﹂
伴﹁何をよう﹂
みね﹁お國さんの事をサ、美いい女だとね、年は廿七だそうだが、ちょっと見ると廿二三にしか見えない位な美い娘こで、私も惚ほれ々〴〵するくらいだから、ありゃア惚れてもいゝよ﹂
伴﹁何なんだかさっぱり分らねえ、今日昼間馬方の久藏が来きやアしなかったか﹂
みね﹁いゝえ来やアしないよ﹂
伴﹁おれも此の節は拠よんどころない用で時々宅うちを明けるものだから、お前めえがそう疑ぐるのも尤もっともだが、そんな事を云わないでもいゝじゃアねえか﹂
みね﹁そりゃア男の働きだから何をしたっていゝが、お前のためだから云うのだよ、彼あの女の亭主は双りゃ刀んこさんで、其の亭主の為にあゝやっているんだそうだから、亭主に知れると大変だから、私も案じられらアね、お前は四月の二日から彼の女に係かゝり﹇#﹁係かゝり﹂は底本では﹁係かゝりり﹂﹈合っていながら、これッぱかりも私に云わないのは酷ひどいよ、そいっておしまいなねえ﹂
伴﹁そう知っていちゃア本当に困るなア、あれは己が悪かった、面目ねえ、堪忍してくれ、おれだってお前めえに何か序ついでがあったら云おうと思っていたが、改まってさてこういう色が出来たとも云いにくいものだから、つい黙っていた、おれも随分道楽をした人間だから、そう欺だまされて金を奪とられるような心配はねえ大丈夫だ﹂
みね﹁そうサ初めての時三分やって、其の次に二両、それから三両と五両二度にやって、二十両一ぺんにやった事があったねえ﹂
伴﹁いろんな事を知っていやアがる、昼間久藏が来たんだろう﹂
みね﹁来やしないよ、それじゃアお前こうおしな、向むこうの女も亭主があるのにお前に姦くッ通つくくらいだから、惚れているに違いないが、亭主が有っちゃア危けん険のんだから、貰い切って妾にしてお前の側へお置きよ、そうして私は別になって、私は関口屋の出でみ店せでございますと云って、別に家業をやって見たいから、お前はお國さんと二人で一緒に成ってお稼ぎよ﹂
伴﹁気き障ざな事を云わねえがいゝ、別れるも何もねえじゃアねえか、あの女だって双りゃ刀んこの妾、主ぬしがあるものだから、そう何い時つまでも係り合っている気はねえのだが、ありゃア酔った紛まぎれにツイ摘つま食みぐいをしたので、己がわるかったから堪忍してくれろ、もう二度と彼あす処こへ往ゆきさえしなければ宜いいだろう﹂
みね﹁行っておやりよ、あの女は亭主があってそんな事をする位だから、お前に惚れているんだからお出いでよ﹂
伴﹁そんな気障な事ばかり云って仕様がねえな………﹂
みね﹁いゝから私わたしゃア別になりましょうよ﹂
と、くど〳〵云われて伴藏はグッと癪しゃくにさわり、
伴﹁なッてえ〳〵、これ四間けん間口の表おも店てだなを張っている荒物屋の旦那だア、一人二人の色が有ったってなんでえ、男の働きで当あた前りめえだ、若わけえもんじゃあるめえし、嫉やき妬もちを焼くなえ﹂
みね﹁それは誠に済みません、悪い事を申しました、四間間口の表店を張った旦那様だから、妾狂いをするのは当あた前りまえだと、大層もない事をお云いでないよ、今では旦那だと云って威張っているが、去年まではお前は何なんだい、萩原様の奉公人同様に追い使われ小さな孫まご店だなを借かりていて、萩原様から時々小こづ遣かいを戴いたり、単ひと物えものの古いのを戴いたりして何どうやら斯こうやらやっていたんじゃアないか、今斯うなったからと云ってそれを忘れて済むかえ﹂
伴﹁そんな大きな声で云わなくってもいゝじゃアねえか、店の者に聞えるといけねえやナ﹂
みね﹁云ったっていゝよ、四間間口の表店を張っている荒物屋の旦那だから、妾狂いが当前だなんぞと云って、先せんのことを忘れたかい﹂
伴﹁喧やかましいやい、出て行きやアがれ﹂
みね﹁はい、出て行きますとも、出て行きますからお金を百両私におくれ、これだけの身代になったのは誰のお蔭かげだ、お互にこゝまでやったのじゃアないか﹂
伴﹁恵比須講の商いみたように大した事をいうな、静かにしろ﹂
みね﹁云ったっていゝよ、本当にこれまで互に跣はだ足しになって一生懸命に働いて、萩原様の所にいる時も、私は煮にた焚き掃除や針仕事をし、お前は使つかいはやまをして駈かけずりまわり、何うやら斯うやらやっていたが、旨い酒も飲めないというから、私が内職をして、偶たまには買って飲ませたりなんどして、八年以この来かたお前のためには大層苦労をしているんだア、それを何なんだえ、荒物屋の旦那だとえ、御大層らしい、私ゃア今こう成ったッても、昔の事を忘れない為に、今でもこうやって木綿物を着て夜よな延べをしている位なんだ、それにまだ一おと昨ゝ年しの暮だっけ、お前が鮭しゃけのせんばいでお酒を飲みてえものだというから……﹂
伴﹁静しずかにしろ、外げえ聞ぶんがわりいや、奉公人に聞えてもいけねえ﹂
みね﹁いゝよ私ゃア云うよ、云いますよ、それから貧乏世帯を張っていた事だから、私も一生懸命に三みば晩ん寝ないで夜延をして、お酒を三合買って、鮭のせんばいで飲ませてやった時お前は嬉しがって、其の時何と云ったい、持つべきものは女房だと云って喜んだ事を忘れたかい﹂
伴﹁大きな声をするな、それだから己はもう彼あす処こへ行かないというに﹂
みね﹁大きな声をしたっていゝよ、お前はお國さんの処ところへお出いでよ、行ってもいゝよ、お前の方で余あんまり大きな事を云うじゃアないか﹂
と尚なお々〳〵大きな声を出すから、伴藏は
﹁オヤこの阿魔﹂
といいながら拳こぶしを上げて頭を打うつ、打たれておみねは哮たけり立ち、泣声を振り立て、
みね﹁何を打ぶちやアがるんだ、さア百両の金をおくれ、私ゃア出て参りましょう、お前は此の栗橋から出た人だから身寄もあるだろうが、私は江戸生れで、斯こんな所へ引ひっ張ぱられて来て、身寄親たよ戚りがないと思っていゝ気に成って、私が年を取ったもんだから女狂いなんぞはじめ、今になって見放されては喰くい方かたに困るから、これだけ金をおくれ、出て往いきますから﹂
伴﹁出て往ゆくなら出て往くがいゝが、何も貴様に百両の金を遣やるという因縁がねいやア﹂
みね﹁大層なことをお云いでないよ、私が考え付いた事で、幽霊から百両の金を貰ったのじゃないか﹂
伴﹁こら〳〵静しずかにしねえ﹂
みね﹁云ったっていゝよ、それから其の金で取りついて斯う成ったのじゃアないかそればかりじゃアねえ、萩原様を殺して海音如来のお像を盗み取って、清水の花壇の中へ埋めて置いたじゃアないか﹂
伴﹁静にしねえ、本当に気きち違げえだなア、人の耳へでも入ったら何どうする﹂
みね﹁私ゃア縛られて首を切られてもいゝよ、そうするとお前も其の儘まゝじゃア置かないよ、百両おくれ、私ゃア別に成りましょう﹂
伴﹁仕様が無ねえな、己が悪かった、堪忍してくれ、そんなら是迄お前めえと一緒になってはいたが、おれに愛あい想そうが尽きたなら此の宅うちはすっかりとお前にやってしまわア、と云うと、なにか己があの女でも一緒に連れて何ど処こかへ逃げでもすると思うだろうが、段々様子を聞けば、あの女は何か筋の悪い女だそうだから、もう好いゝ加かげ減んに切りあげる積り、それともこゝの家うちを二百両にでも三百両にでもたゝき売って仕舞って、お前を一緒に連れて越後の新潟あたりへ身を隠し、もう一と花咲かせ巨でっかくやりてえと思うんだが、お前最もう一度跣はだ足しになって苦労をしてくれる気はねえか﹂
みね﹁私だって無理に別れたいと云う訳でもなんでもありませんが、今に成ってお前が私を邪じゃ慳けんにするものだから、そうは云ったものゝ、八年以この来かた連添っていたものだから、お前が見捨てないと云う事なら、何ど処こまでも一緒に行こうじゃアないか﹂
伴﹁そんなら何も腹を立てる事はねえのだ、これから中なか直なおりに一杯ぺい飲んで、両ふた人りで一緒に寝よう﹂
と云いながらおみねの手首を取って引寄せる。
みね﹁およしよ、いやだよウ﹂
川せん柳りゅうに﹁女房の角を□□□でたゝき折り﹂で忽たちまち中も直りました。それから翌日は伴藏がおみねに好きな衣きも類のを買って遣やるからというので、幸手へまいり、呉服屋で反たん物ものを買い、こゝの料理屋でも一杯やって両ふた人り連れ立ち、もう帰ろうと幸手を出て土手へさしかゝると、伴藏が土手の下へ降りに掛るから、
みね﹁旦那、どこへ行ゆくの﹂
伴﹁実は江戸へ仕しい入れに行った時に、あの海音如来の金きん無む垢くのお守を持って来て、此こ処ゝへ埋めて置いたのだから、掘ほり出だそうと思って来たんだ﹂
みね﹁あらまアお前はそれまで隠して私に云わないのだよ、そんなら早く人の目つまにかゝらないうちに掘ってお仕舞いよ﹂
伴﹁これは掘出して明あし日た古こ河がの旦那に売るんだ、何なんだか雨がポツ〳〵降って来たようだな、向うの渡し口の所からなんだか人が二人ばかり段々こっちの方へ来るような塩あん梅べいだから、見ていてくんねえ﹂
みね﹁誰も来きやアしないよ、どこへさ﹂
伴﹁向うの方へ気を付けろ﹂
という。向うは往おう来らいが三みつ叉またになっておりまして、側かたえは新しん利と根ね大おお利と根ねの流ながれにて、折おりしも空はどんよりと雨もよう、幽かすかに見ゆる田いな舎か家やの盆ぼん灯どう籠ろうの火もはや消えなんとし、往ゆき来ゝも途と絶だえて物もの凄すごく、おみねは何なに心ごゝろなく向うの方へ目をつけている油断を窺うかゞい、伴藏は腰に差したる胴どう金かね造づくりの脇差を音のせぬように引ひっこ抜き、物をも云わず背うし後ろから一生懸命力を入れて、おみねの肩先目がけて切り込めば、キャッとおみねは倒れながら伴藏の裾すそにしがみ付き、
みね﹁それじゃアお前は私を殺して、お國を女房に持つ気だね﹂
伴﹁知れた事よ、惚れた女を女房に持つのだ、観念しろ﹂
と云いさま、刀を逆さか手てに持直し、貝かい殻がら骨ぼねのあたりから乳の下へかけ、したゝかに突つき込こんだれば、おみねは七顛八倒の苦しみをなし、おのれ其の儘まゝにして置こうかと、又も裾へしがみつく。伴藏は乗のし掛かゝって止とゞめを刺したから、おみねは息が絶えましたが、何どうしてもしがみついた手を放しませんから、脇差にて一本々々指を切り落し、漸ようやく刀を拭ぬぐい、鞘さやに納め、跡をも見ず飛ぶが如くに我わが家やに立帰り、慌あわたゞしく拳こぶしをあげて門かどの戸を打うち叩たゝき、
伴﹁文助、一ちょ寸っとこゝを明けてくれ﹂
文﹁旦那でございますか、へいお帰り遊ばせ﹂
と表の戸を開く。伴藏ズッと中うちに入り、
伴﹁文助や、大変だ、今土手で五人の追おい剥はぎが出て己の胸むなぐらを掴つかまえたのを、払って漸く逃げて来たが、おみねは土手下へ降りたから、悪くすると怪我をしたかも知れない、何どうも案じられる、どうか皆みんな一緒に行って見てくれ﹂
というので奉公人一同大いに驚き、手に〳〵半はん棒ぼう栓しん張ばり棒ぼうなぞ携たずさえ、伴藏を先に立て土手下へ来て見れば、無むざ慙んやおみねは目も当てられぬように切殺されていたから、伴藏は空そら涙なみだを流しながら、
伴﹁あゝ可愛相な事をした、今一ト足早かったら、斯こんな非業な死はとらせまいものを﹂
と嘘を遣つかい、人を走はせて其の筋へ届け、御ごけ検ん屍しもすんで家うちに引取り、何事もなく村方へ野辺の送りをしてしまいましたが、伴藏が殺したと気が付くものは有りません。段々日ひか数ずも立って七日目の事ゆえ、伴藏は寺参りをして帰って来ると、召使のおますという三十一歳になる女中が俄にわかにがた〳〵と慄ふるえはじめて、ウンと呻うなって倒れ、何か譫うわ言ことを云って困ると番頭がいうから、伴藏が女の寝ている所へ来て、
伴﹁お前めえどんな塩あん梅べいだ﹂
ます﹁伴藏さん貝殻骨から乳の下へ掛けてズブ〳〵と突つきとおされた時の痛かったこと﹂
文﹁旦那様変な事を云いやす﹂
伴﹁おます、気を慥たしかにしろ、風でも引いて熱でも出たのだろうから、蒲ふと団んを沢たん山とかけて寝かしてしまえ﹂
と夜よ着ぎを掛けるとおますは重い夜着や掻かい巻まきを一度にはね退のけて、蒲団の上にちょんと坐り、じいッと伴藏の顔を睨にらむから、
文﹁変な塩あん梅べいですな﹂
伴﹁おます、確しっかりしろ、狐にでも憑つかれたのじゃアないか﹂
ます﹁伴藏さん、こんな苦しい事はありません、貝殻骨のところから乳のところまで脇差の先が出るほどまで、ズブ〳〵と突かれた時の苦しさは、何なんとも彼かとも云いようがありません﹂
と云われて伴藏も薄気味悪くなり、
伴﹁何を云うのだ、気でも違いはしないか﹂
ます﹁お互に斯こうして八年以この来かた貧乏世帯を張り、やッとの思いで今はこれ迄になったのを、お前は私を殺してお國を女房にしようとは、マア余あんまり酷ひどいじゃアないか﹂
伴﹁これは変な塩あん梅べいだ﹂
と云うものゝ、腹の内では大いに驚き、早く療治をして直したいと思う所へ、此の節幸手に江戸から来ている名人の医者があるというから、それを呼ぼうと、人を走はせて呼びに遣やりました。
十八
伴藏は女房が死んで七日目に寺参りから帰った其の晩より、下女のおますが訝おかしな譫うわ言ことを云い、幽霊に頼まれて百両の金を貰い、是迄の身代に取付いたの、萩原新三郎様を殺したの、海音如来のお守を盗み出し、根津の清水の花壇の中へ埋うずめたなどゝ喋しゃべり立てるに、奉公人たちは何なんだか様子の分らぬ事ゆえ、只たゞ馬鹿な譫うわ語ことをいうと思っておりましたが、伴藏の腹の中では、女房のおみねが己に取り付く事の出来ない所から、此の女に取とッ付ついて己の悪事を喋らせて、お上かみの耳に聞えさせ、おれを召めし捕とり、お仕しお置きにさせて怨うらみをはらす了簡に違いなし、あの下女さえいなければ斯かよ様うな事もあるまいから、いっそ宿やど元もとへ下げて仕舞おうか、いや〳〵待てよ、宿へ下げ、あの通りに喋られては大変だ、コリャうっかりした事は出来ないと思案にくれている処へ、先程幸手へ使つかいに遣やりました下男の仲なか助すけが、医者同道で帰って来て、
男﹁旦那只今帰けえりやした、江戸からお出いでなすったお上手なお医者様だそうだがやっと願いやして御一緒に来てもらいやした﹂
伴﹁これは〳〵御苦労さま、手前方は斯こう云う商売柄店も散らかっておりますから、先まず此こち方らへお通り下さいまし﹂
と奥の間へ案内をして上かみ座ざに請しょうじ、伴藏は慇いん懃ぎんに両手をつかえ、
伴﹁初めましてお目通りを致します、私わたくしは関口屋伴藏と申します者、今こん日にちは早速の御おい入りで誠に御苦労様に存じまする﹂
医﹁はい〳〵初めまして、何か急病人の御様子、ハヽアお熱で、変な譫うわ語ことなどを云うと﹂
と言いながら不ふ図と伴藏を見て、
﹁おや、これは誠に暫しばらく、これはどうも誠にどうも、どうなすって伴藏さん、先まず一別以来相変らず御機嫌宜しく、どうもマア図はからざるところでお目に懸りました、これは君の御ごし新んた宅くかえ、恐入ったねえ、併しかし君は斯かくあるべき事だろうと、君が萩原新三郎様の所にいる時分から、あの伴藏さんおみねさんの夫婦は、どうも機転の利きき方、才智の廻る所から、中々只の人ではない、今にあれはえらい人になると云っていたが、十じっ指しの指さす処鑑めが定ねは違わず、実に君は大した表おも店てだなを張り、立派な事におなりなすったなア﹂
伴﹁いやこれは山本志丈さん、誠に思い掛けねえ所でお目にかゝりやした﹂
志﹁実は私も人には云えねえが江戸を喰い詰め、医者もしていられねえから、猫の額ひたえのような家うちだが売って、其の金子を路用として日光辺の知しる己べを頼って行ゆく途中、幸手の宿屋で相あい宿やどの旅りょ人じんが熱病で悩むとて療治を頼まれ、其の脉を取れば運よく全快したが、実は僕が治したんじゃアねえ、ひとりでに治ったんだが、運に叶かなって忽たちまちにあれは名人だ名医だとの評が立ち、あっちこっちから療治を頼まれ、実はいゝ加減にやってはいるが、相応に薬礼をよこすから、足を留とめていたものゝ実は己ア医者は出来ねえのだ、尤もっとも傷しょ寒うか論んろんの一冊位は読んだ事は有るが、一体病人は嫌きれえだ、あの臭い寝床の側へ寄るのは厭いやだから、金さえあればツイ一杯呑む気になるようなものだから、江戸を喰い詰めて来たのだが、あの妻さい君くんはお達者かえ、イヤサおみねさんには久しく拝はい顔がんを得ないがお達者かえ﹂
伴﹁あれは﹂
と口ごもりしが、
﹁八日あとの晩土手下で盗どろ賊ぼうに切殺されましたよ、それから漸ようやく引取って葬とむ式らいを出しました﹂
志﹁ヤレハヤこれはどうも、存外な、嘸さぞお愁しゅ傷うしょう、お馴なじ染みだけに猶なお更さらお察し申します、あの方は誠に御貞節ないゝお方であったが、これが仏ぶっ家かでいう因縁とでも申しますのか、嘸まア残念な事でありましたろう、それでは御病人はお家内ではないね﹂
伴﹁えゝ内の女ですが、なんだか熱にうかされて妙な事を云って困ります﹂
志﹁それじゃア一ちょ寸っと診みて上げて、後あとで又いろ〳〵昔の話をしながら緩ゆるりと一杯やろうじゃアないか、知らない土地へ来て馴染の人に逢うと何だか懐かしいものだ、病人は熱なら造ぞう作さもないからねえ﹂
伴﹁文助や、先生は甘い物は召上がらねえが、お茶とお菓子と持って来て置け、先生此こっ方ちへお出いでなせえ、こゝが女部屋で﹂
志﹁左様か、マア暑いから羽織を脱ごうよ﹂
伴﹁おますや、お医者様が入いらっしゃったからよく診みていたゞきな、気を確しっかりしていろ、変な事をいうな﹂
志﹁どう云う御様子、どんな塩あん梅ばいで﹂
と云いながら側へ近寄ると、病人は重い掻かい巻まきを反はね退のけて布団の上にちゃんと坐り志丈の顔をジッと見詰めている。
志﹁お前どう云う塩梅で、大方風がこうじて熱となったのだろう、悪さむ寒けでもするかえ﹂
ます﹁山本志丈さん、誠に久しくお目にかゝりませんでした﹂
志﹁これは妙だ、僕の名を呼んだぜ﹂
伴﹁こいつは妙な譫語ばッかり云っていますよ﹂
志﹁だって僕の名を知っているのが妙だ、フウンどういう様子だえ﹂
ます﹁私はね、此の貝殻骨から乳の所までズブ〳〵と伴藏さんに突かれた時の﹂
伴﹁これ〳〵何を詰らねえ事をいうんだ﹂
志﹁宜しいよ、心配したもうな、それから何どうしたえ﹂
ます﹁貴あな方たの御存じの通り、私共夫婦は萩原新三郎様の奉公人同様に追い使われ、跣はだ足しになって駈かけずり廻っていましたが、萩原様が幽霊に取付かれたものだから、幡随院の和尚から魔除の御札を裏窓へ貼付けて置いて幽霊の這は入いれない様にした所から、伴藏さんが幽霊に百両の金を貰って其の御札を剥はがし﹂
伴﹁何を云うんだなア﹂
志﹁宜しいよ、僕だから、これは妙だ〳〵、へい、そこで﹂
ます﹁其の金から取付いて今はこれだけの身代となり、それのみならず萩原様のお首に掛けてる金無垢の海音如来の御守を盗み出し、根津の清水の花壇に埋め、剰あまつさえ萩原様を蹴けこ殺ろして体ていよく跡を取とり繕つくろい﹂
伴﹁何を、とんでもない事を云うのだ﹂
志﹁よろしいよ僕だから、妙だ〳〵ヘイそれから﹂
ます﹁そうしてお前、そんなあぶく銭ぜにで是までになったのに、お前は女狂いを始め、私を邪魔にして殺すとは余あんまり酷ひどい﹂
伴﹁どうも仕様がないの、何をいうのだ﹂
志﹁よろしいよ、妙だ、心配したもうな、これは早速宿へ下げたまえ、と云うと、宿で又こんな譫語を云うと思し召そうが、下げれば屹きっ度と云わない、此の家うちに居るから云うのだ、僕も壮年の折おりこういう病人を二度ほど先生の代だい脉みゃくで手掛けた事があるが、宿へ下げれば屹度云わないから下げべし〳〵﹂
と云われて、伴藏は小気味が悪いけれども、山本の勧めに任せ早速に宿を呼寄せ引渡し、表へ出るやいなや正気に復かえった様子なれば、伴藏も安心していると今度は番頭の文助がウンと呻うなって夜着をかむり、寝たかと思うと起上り、幽霊に貰った百両の金でこれだけの身代になり上り、といい出したれば、又宿を呼んで下げてしまうと、今度は小僧が呻り出したれば又宿へ下げてしまい、奉公人残らずを帰し、あとには伴藏と志丈と二人ぎりになりました。
志﹁伴藏さん、今度呻ればおいらの番だが、妙だったね、だが伴藏さん打明けて話をしてくんなせえ、萩原さんが幽霊に魅みいられ、骨と一緒に死んでいたとの評判もあり、又首に掛けた大事の守りが掏すり代かわっていたと云うが、其の鑑定はどうも分らなかった、尤もっとも白翁堂と云う人相見の老おや爺じが少しは覚けどって新幡随院の和尚に話すと、和尚は疾とうより覚さとっていて、盗んだ奴が土どち中ゅうへ埋め隠してあると云ったそうだが、今きょ日う初めて此の病人の話によれば、僕の鑑定では慥たしかにお前と見て取ったが、もう斯こうなったらば隠さず云ってお仕舞い、そうすれば僕もお前と一つになって事を計はからおうじゃないか、善悪共に相談をしようから打明け給え、それから君はおかみさんが邪魔になるものだから殺して置いて、盗どろ賊ぼうが斬きり殺ころしたというのだろう、そうでしょう〳〵﹂
といわれて伴藏最早隠し遂おおせる事にもいかず、
伴﹁実は幽霊に頼まれたと云うのも、萩原様のあゝ云う怪しい姿で死んだというのも、いろ〳〵訳があって皆みんな私わっちが拵こしらえた事、というのは私が萩原様の肋あばらを蹴けって殺して置いて、こっそりと新幡随院の墓場へ忍び、新塚を掘起し、骸しゃ骨りこつを取出し、持帰って萩原の床の中へ並べて置き、怪しい死しにざまに見せかけて白翁堂の老おや爺じをば一ぺい欺はめ込こみ、又海音如来の御守もまんまと首尾好よく盗み出し、根津の清水の花壇の中へ埋めて置き、それから己が色々と法ほ螺らを吹いて近所の者を怖がらせ、皆あちこちへ引ひっ越こしたを好よいしおにして、己も亦またおみねを連れ、百両の金を掴つかんで此の土地へ引ひっ込こんで今の身の上、ところが己が他わきの女に掛り合った所から、嚊かゝアが悋りん気きを起し、以前の悪事をがア〳〵と呶ど鳴なり立てられ仕方なく、旨く賺だまして土手下へ連出して、己が手に掛け殺して置いて、追剥に殺されたと空涙で人を騙だまかし、弔とむらいをも済すまして仕舞った訳なんだ﹂
志﹁よく云った、誠に感服、大概の者ならそう打明けては云えぬものだに、己が殺したと速すみやかに云うなどは是は悪党アヽ悪党、お前にそう打明けられて見れば、私はお喋りな人間だが、こればッかりは口外はしないよ、其の代り少し好このみがあるが何どうか叶えておくれ、と云うと何か君の身代でも当てにするようだが、そんな訳ではない﹂
伴﹁あゝ〳〵それはいゝとも、どんな事でも聞きやしょうから、どうか口外はして下さるな﹂
と云いながら懐中より廿五両包を取出し、志丈の前に差置いて、
伴﹁少すくねえが切きり餅もちをたった一ツ取って置いてくんねえ﹂
志﹁これは云わない賃かえ薬礼ではないね、宜しい心得た、何なんだかこう金が入ると浮気になったようだから、一杯ぺい飲みながら、緩ゆるりと昔むか語しがたりがしてえのだが、こゝの家うちア陰気だから、これから何ど処こかへ行って一杯やろうじゃアねえか﹂
伴﹁そいつは宜よかろう、そんなら己おいらの馴染の笹屋へ行ゆきやしょう﹂
と打うち連つれ立だって家うちを立たち出いで、笹屋へ上り込み、差向いにて酒を酌くみ交かわし、
伴﹁男ばかりじゃア旨くねえから、女を呼びにやろう﹂
とお國を呼寄せる。
國﹁おや旦那、御無沙汰を、よく入いらっしゃって、伺うかゞいますればお内か儀みさんは不慮の事がございましたと、定めて御愁傷な事で、私も旦那にちょいとお目に懸りたいと思っておりましたは、内の人の傷も漸ようやく治り、近きん々〳〵のうち越後へ向けて今一ひと度たび行ゆきたいと云っておりますから、行った日には貴方にはお目に懸ることが出来ないと思っている所へお使つかいで、余あんまり嬉しいから飛んで来たんですよ﹂
伴﹁お國お連つれの方に何故御挨拶をしないのだ﹂
國﹁これはあなた御免遊ばせ﹂
と云いながら志丈の顔を見て、
國﹁おや〳〵山本志丈さん、誠に暫しばらく﹂
志﹁これは妙、何どうも不思議、お國さんがこゝにお出いでとは計らざる事で、これは妙、内ない々〳〵御様子を聞けば、思うお方と一緒なら深みや山まの奥までと云うようなる意いき気ごと事す筋じで、誠に不思議、これは希きた代いだ、妙々々﹂
と云われてお國はギックリ驚いたは、志丈はお國の身の上をば精くわしく知った者ゆえ、若もし伴藏に喋べられてはならぬと思い、
國﹁志丈さんちょっと御免あそばせ﹂
と次の間へ立ち。
國﹁旦那ちょっと入っしゃい﹂
伴﹁あいよ、志丈さん、ちょいと待ってお呉れよ﹂
志﹁あゝ宜しい、緩ゆっくり話をして来たまえ、僕はさようなことには慣れて居るから苦しくない、お構いなく、緩くりと話をして入っしゃい﹂
國﹁旦那どう云うわけであの志丈さんを連れて来たの﹂
伴﹁あれは内に病人があったから呼んだのよ﹂
國﹁旦那あの医者の云う事をなんでも本当にしちゃアいけませんよ、あんな嘘つきの奴はありません、あいつの云う事を本当にするととんでもない間違いが出来ますよ、人の合あい中なかを突つッつく酷ひどい奴ですから、今夜はあの医者を何ど処っかへやって、貴あな方た独りこゝに泊っていて下さいな、そうすれば内の人を寝かして置いて、貴方の所へ来て、いろ〳〵お話もしたい事がありますから宜ようございますか﹂
伴﹁よし〳〵、それじゃア内の方をいゝ塩あん梅べいにして屹きっ度と来きねえよ﹂
國﹁屹度来ますから待っておいでよ﹂
とお國は伴藏に別れ帰り行ゆく。
伴﹁やア志丈さん、誠にお待ちどう﹂
志﹁誠にどうも、アハヽあの女はもう四十に近いだろうが若いねえ、君もなか〳〵お腕うで前めえだね、大方君はあの婦人を喰っているのだろうが、これからはもう君と善悪を一ツにしようと約束をした以上は、君のためにならねえ事は僕は云うよ、一体君はあの女の身の上を知って世話をするのか知らないのか﹂
伴﹁おらア知らねえが、お前めえさんは心安いのか﹂
志﹁あの婦人には男が附いて居る、宮野邊源次郎と云って旗はた下もとの次男だが、其そい奴つが悪人で、萩原新三郎さんを恋こい慕したった娘の親おや御ご飯島平左衞門という旗下の奥様附づきで来た女中で、奥様が亡くなった所から手がついて妾と成ったが今のお國で、源次郎と不義をはたらき、恩ある主人の飯島を斬きり殺ころし、有あり金がね二百六十両に、大小を三腰とか印籠を幾つとかを盗み取り逐ちく電でんした人殺しの盗どろ賊ぼうだ、すると後あとから忠義の家来藤とう助すけとか孝助とか云う男が、主人の敵かたきを討ちたいと追おっかけて出たそうだ、私の思うのは、あれは君に惚れたのではなく、源次郎が可かあ愛いいからお前の云う事を聞いたなら、亭主のためになるだろうと心得、身を任せ、相あい対たい間まお男とこではないかと僕は鑑定するが、今聞けば急に越後へ立つと云い、僕をはいて君独り寝ている処へ源次郎が踏込んでゆすり掛け、二百両位の手切れは取る目算に違ちげえねえが、君は承知かえ、だから君は今夜こゝに泊っていてはいけねえから、僕と一緒に何ど処っかへ女郎買に行ってしまい、あいつ等ら二人に素すま股たを喰わせるとは何どうだえ﹂
伴﹁むゝ成程、そうか、それじゃアそうしよう﹂
と連つれ立だってこゝを立たち出いで、鶴屋という女郎屋へ上あがり込む。後あとへお國と源次郎が笹屋へ来て様子を聞けば、先さっ刻き帰ったと云うことに二人は萎しおれて立帰り、
源﹁お國もうこうなれば仕方がないから、明あし日たは己が関口屋へ掛合いに行ゆき、若もし向うでしらをきった其の時は﹂
國﹁私が行って喋りつけ口を明かさずたんまりとゆすってやろう﹂
と其の晩は寝てしまいました。翌よく朝ちょうになり伴藏は志丈を連れて我わが家やへ帰り、種いろ々〳〵昨ゆう夜べの惚のろ気けなど云っている店みせ前さきへ、
源﹁お頼ん申す〳〵﹂
伴﹁商あき人んどの店先へお頼ん申すと云うのは訝おかしいが、誰だろう﹂
志﹁大方ゆうべ話した源次郎が来たのかも知れねえ﹂
伴﹁そんならお前めえ其そっ方ちへ隠れていてくれ﹂
志﹁弥いよ々〳〵難かしくなったら飛出そうか﹂
伴﹁いゝから引ひっ込こんでいなよ……へい〳〵、少々宅うちに取とり込こみが有りまして店を閉めて居りますが、何か御用ならば店を明けてから願いとうございます﹂
源﹁いや買物ではござらん、御亭主に少々御面談いたしたく参ったのだ、一ちょ寸っと明けてください﹂
伴﹁左様でございますか、先まずお上あがり﹂
源﹁早朝より罷まかり出いでまして御迷惑、貴あな方たが御主人か﹂
伴﹁へい、関口屋伴藏は私わたくしでございます、こゝは店先どうぞ奥へお通りくださいまし﹂
源﹁然しからば御免を蒙こうむる﹂
と蝋ろい色ろざ鞘や茶ちゃ柄つかの刀を右の手に下げた儘まゝに、亭主に構わずずっと通り上かみ座ざに座す。
伴﹁どなた様でござりますか﹂
源﹁これは始めてお目に懸りました、手前は土手下に世しょ帯たいを持っている宮野邊源次郎と申す粗そこ忽つの浪人、家内國事こと、笹屋方にて働はた女らきおんなをなし、僅わずかな給金にてよう〳〵其の日を送りいる処、旦那より深く御贔屓を戴くよし、毎度國より承わりおりますれど、何分足そく痛つうにて歩行も成り兼ねますれば、存じながら御無沙汰、重々御無礼をいたした﹂
伴﹁これはお初にお目通りをいたしました、伴藏と申す不調法もの幾久しく御懇意を願います、お前様の塩あん梅ばいの悪いと云う事は聞いていましたが、よくマア御全快、私わっちもお國さんを贔屓にするというものゝ、贔屓の引倒しで何なんの役にも立ちません、旦那の御ごし新ん造ぞがねえ、どうも恐れ入った、勿もっ体ていねえ、馬ま士ごや私のようなものゝ機嫌気づまを取りなさるかと思えば気の毒だ、それがために失礼も度たび々〳〵致しやした﹂
源﹁どう致しまして、伴藏さんにちと折入って願いたい事がありますが、私わた共くしども夫婦は最早旅費を遣つかいなくし、殊ことには病中の入いり費め薬礼や何やかやで全く財さい布ふの底を払はたき、漸ようやく全快しましたれば、越後路へ出立したくも如い何かにも旅費が乏しく、何どうしたら宜よかろうと思案の側から、女房が関口屋の旦那は御親切のお方ゆえ、泣附いてお話をしたらお見み継つぎくださる事もあろうとの勧めに任せ参りましたが、どうか路ろぎ金んを少々拝借が出来ますれば有り難う存じます﹂
伴﹁これはどうも、そう貴方のように手を下げて頼まれては面目がありませんが﹂
と中は幾いく許らかしら紙に包んで源次郎の前にさし置き、
伴﹁ほんの草わら鞋じせ銭んでございますが、お請うけ取とり下せえ﹂
と云われて源次郎は取上げて見れば金千疋びき。
源﹁これは二両二分、イヤサ御主人、二両二分で越後まで足あし弱よわを連れて行ゆかれると思いなさるか、御親切序ついでにもそっとお恵みが願いたい﹂
伴﹁千疋では少ないと仰しゃるなら、幾いく許ら上げたら宜よいのでございます﹂
源﹁どうか百金お恵みを願いたい﹂
伴﹁一本え、冗談言っちゃアいけねえ、薪まきかなんぞじゃアあるめえし、一本の二本のと転がっちゃアいねえよ、旦那え、こういう事こたア一体たえ此こっ方ちで上げる心持次しで第いのもので、幾いく許らかくらと限られるものじゃアねえと思いやす、百両くれろと云われちゃア上げられねえ、又道中もしようで限きりのないもの、千両も持って出て足りずに内へ取りによこす者もあり、四百の銭ぜにで伊勢参宮をする者もあり、二分の金を持って金こん毘ぴら羅ま参いりをしたと云う話もあるから、旅はどうとも仕様によるものだから、そんな事を云ったって出来はしません、誠に商あき人んどなぞは遊んだ金は無いもので、表おも店てだなを立派に張って居ても内ない々〳〵は一両の銭に困る事もあるものだ、百両くれろと云っても、そんなに私わっちはお前めえさんにお恵みをする縁がねえ﹂
源﹁國が別段御贔屓になっているから、兎とやかく面倒云わず、餞別として百金貰おうじゃアねえか、何も云わずにサ﹂
伴﹁お前めえさんはおつう訝おかしな事を云わっしゃる、何かお國さんと私わっちと姦くッ通ついてでもいるというのか﹂
源﹁おゝサ姦まお夫とこの廉かどで手てぎ切れの百両を取りに来たんだ﹂
伴﹁ムヽ私わっちが不義をしたが何どうした﹂
源﹁黙れ、やい不義をしたとはなんだ、捨て置き難がたい奴だ﹂
と云いながら刀を側へ引寄せ、親指にて鯉こい口ぐちをプツリと切り、
﹁此の間から何かと胡うさ散んの事もあったれど、堪こらえ〳〵て是迄穏おん便びん沙ざ汰たに致し置き、昨晩それとなく國を責めた所、國の申すには、実は済まない事だが貧に迫って止やむを得ずあの人に身を任せたと申したから、其の場において手打にしようとは思ったれども、斯こう云う身の上だから勘弁いたし、事穏おだやかに話をしたに、手てめ前えの口から不義したと口外されては捨置きがてえ、表向きに致さん﹂
と哮たけり立って呶鳴ると、
伴﹁静しずかにおしなせえ、隣はないが名主のない村じゃアないよ、お前めえさんがそう哮り立って鯉口を切り、私わっちの鬢びんたを打うち切きる剣幕を恐れて、ハイさようならとお金を出すような人間と思うのは間まち違げえだ、私なんぞは首が三ツあっても足りねえ身体だ、十一の時から狂い出して、脱ぬけ参めえりから江戸へ流れ、悪いという悪い事は二三の水出し、遣やらずの最もな中か、野ので天んち丁ょう半はんの鼻はなッ張ぱり、ヤアの賭ど場ばまで逐おって来たのだ、今は胼ひゞ皹あかぎれを白しろ足た袋びで隠し、なまぞらを遣つかっているものゝ、悪い事はお前より上だよ、それに又姦まお夫とこ々/々\というが、あの女は飯島平左衞門様の妾で、それとお前がくッついて殿様を殺し、大小や有あり金がねを引ひっ攫さらい高たか飛とびをしたのだから、云わばお前も盗みもの、それにお國も己なんぞに惚れたはれたのじゃなく、お前が可愛いばッかりで、病気の薬やく代だいにでもする積りで此こっ方ちに持ち掛けたのを幸いに、己もそうとは知りながら、ツイ男のいじきたな、手を出したのは此方の過あやまりだから、何も云わずに千疋を出し、別段餞はな別むけにしようと思い、これ此の通り廿五両をやろうと思っている処、一本よこせと云われちゃア、どうせ細ほそった首だから、素そっ首くびが飛んでも一文もやれねえ、それにお前よく聞きねえ、江戸近ぢかのこんな所にまご〳〵していると危ねえぜ、孝助とかゞ主人の敵かたきだと云ってお前を狙っているから、お前の首が先へ飛ぶよ、冗談じゃアねえ﹂
と云われて源次郎は途とむ胸ねを突いて大いに驚き、
源﹁さような御苦労人とも知らず、只の堅かた気ぎの旦那と心得、威おどして金を取ろうとしたのは誠に恐縮の至り、然しからば相済みませんが、これを拝借願います﹂
伴﹁早く行ゆきなせえ、危けん険のんだよ﹂
源﹁さようならお暇いとま申します﹂
伴﹁跡をしめて行ってくんな﹂
志丈は戸棚より潜もぐり出し、
志﹁旨かったなア、感服だ、実に感服、君の二三の水出し、やらずの最もな中かとは感服、あゝ何どうもそこが悪党、あゝ悪党﹂
これより伴藏は志丈と二人連れ立って江戸へ参り、根津の清水の花壇より海音如来の像を掘出す処から、悪事露顕の一埓らつはこの次までお預りに致しましょう。
十九
引続きまする怪談牡丹灯籠のお話は、飯島平左衞門の家来孝助は、主人の仇あだなる宮野邊源次郎お國の両人が、越後の村上へ逃げ去りましたとのことゆえ、跡を追って村上へまいり、諸方を詮議致しましたが、とんと両人の行方が分りませんで、又我が母おりゑと申す者は、内ない藤とう紀きい伊のか守みの家来にて、澤さわ田だう右ゑ衞も門んの妹いもとにて、十八年以前に別れたが、今も無事でいられる事か、一目お目に懸りたい事と、段々御城中の様子を聞きゝ合あわせまする処、澤田右衞門夫婦は疾とくに相果て、今は養子の代に相成って居おる事ゆえ母の行方さえとんと分らず、止やむを得ず此こ処ゝに十日ばかし、彼あす処こに五日逗留いたし、彼あ方ち此こ方ちと心当りの処ところを尋ね、深く踏込んで探って見ましたけれども更に分らず、空むなしく其の年も果て、翌年に相成って孝助は越後路から信濃路へかけ、美濃路へかゝり探しましたが一向に分らず、早はや主人の年ねん囘かいにも当る事ゆえ、一度江戸へ立帰らんと思い立ち、日ひか数ずを経て、八月三日江戸表へ着ちゃくいたし、先まず谷中の三崎村なる新幡随院へ参り、主人の墓へ香こう花げを手た向むけ水を上げ、墓はか原はらの前に両手を突きまして、
孝﹁旦那様私わたくしは身不ふし肖ょうにして、未まだ仇あだたるお國源次郎にり逢わず、未だ本懐は遂げませんが、丁度旦那様の一周忌の御年囘に当りまする事ゆえ、此の度たび江戸表へ立帰り、御法事御供養をいたした上、早速又敵かたきの行方を捜しに参りましょう、此の度は方角を違え、是非とも穿せん鑿さくを遂げまするの心得、何なに卒とぞ草葉の蔭からお守りくださって、一いっ時ときも早く仇の行方の知れまするようにお守り下されまし﹂
と生きたる主人に物云う如く恭うや〳〵しく拝はいを遂げましてから、新幡随院の玄関に掛りまして、
﹁お頼み申します〳〵﹂
取次﹁どウれ、はア何どち方らからお出いでだな﹂
孝﹁手前は元牛込の飯島平左衞門の家来孝助と申す者でございますが、此の度主人の年囘を致したき心得で墓参りを致しましたが、方丈様御ござ在い寺じなればお目通りを願いとう存じます﹂
取﹁さようですか、暫しばらくお控えなさい﹂
と是から奥へ取次ぎますると、此こち方らへお通し申せという事ゆえ、孝助は案内に連つれられ奥へ通りますると、良石和尚は年五十五歳、道心堅固の智識にて大だい悟ご徹底致し、寂じゃ寞くまくと坐蒲団の上に坐っておりまするが、道どう力りょく自然に表に現われ、孝助は頭がひとりでに下がるような事で、
孝﹁これは方丈様には初めてお目にかゝりまする、手前事は相川孝助と申す者でございますが、当年は旧主人飯島平左衞門の一周忌の年囘に当る事ゆえ、一度江戸表へ立帰りましたが、爰こゝに金子五両ございまするが、これにて宜しく御法事御供養を願いとう存じます﹂
良﹁はい、初めまして、まアこっちへ来なさい、これはまア感心な事で…コレ茶を進ぜい…お前さんが飯島の御家来孝助殿か、立派なお人でよい心懸け、長旅を致した身の上なれば定めて沢山の施せし主ゅもあるまい、一人か二人位の事であろうから、内の坊主どもに云い付けて何か精進物を拵こしらえさせ、成るたけ金のいらんように、手は掛るが皆此こち方らでやって置くが、一ヶ寺じの住職を頼んで置きますが、お前ナア余り早く来ると此方で困るから、昼ひる飯はんでも喰ってからそろそろ出掛け、夕ゆう飯はんは此方で喰う気で来なさい、そしてお前は是から水道端の方へ行ゆきなさろうが、お前を待っている人がたんとある、又お前は悦び事か何か目め出で度たい事があるから早う行って顔を見せてやんなさい﹂
孝﹁へい、私わたくしは水道端へ参りまするが、貴あな僧たは何どうしてそれを御存じ、不思議な事でございます﹂
と云いながら、
﹁左様ならば明あし日た昼飯を仕舞いまして又出ますから、何分宜しくお願い申しまする、御機嫌よろしゅう﹂
と寺を出ましたが、心の内に思うよう、何うも不思議な和尚様だ、何うして私わたしが水道端へ行ゆく事を知っているだろうか、本当に占うら者ないしゃのような人だと云いながら、水道端なる相川新五兵衞方へ参りましたが、孝助は養子に成って間もなく旅へ出立し、一年ぶりにて立帰りました事ゆえ、少しは遠慮いたし、台所口から、
孝﹁御免下さいまし、只今帰りましたよ、これ〳〵善藏どん〳〵﹂
善﹁なんだよ、掃除屋が来たのかえ﹂
孝﹁ナニ私だよ﹂
善﹁おやこれはどうも、誠に失礼を申上げました、いつも今時分掃除屋が参りまするものですから、粗相を申しましたが、よくマア早くお帰りになりました、旦那様々々孝助様がお帰りになりました﹂
相﹁なに孝助殿が帰られたとか、何ど処こにお出いでになる﹂
善﹁へい、お台所にいらっしゃいます﹂
相﹁どれ〳〵、これはマア、何なんで台所などから来るのだ、そう云えば水は汲んで廻すものを、善藏コレ善藏何をぐる〳〵廻って居おるのだ、コレ婆ばゞア孝助どのがお帰りだよ﹂
婆﹁若旦那がお帰りでございますか、これはマア嘸さぞお疲れでございますだろう、先まず御機嫌宜しゅう﹂
孝﹁お父とっ様さまにも御機嫌宜しゅう、私わたくしも都つ度ど々/々\書面を差上げたき心得ではございまするが、何分旅先の事ゆえ思うようにはお便たよりも致し難がたく、お父様は何うなされたかと日々お案じ申しまするのみでございましたが、先ずはお健すこやかなる御おん顔かおを拝しまして誠に大たい悦えつに存じまする﹂
相﹁誠にお前も目出たく御帰宅なされ、新五兵衞至極満足いたしました、はい実にねえ烏からすの鳴かぬ日はあるがと云う譬たとえの通りで、お前のことは少しも忘れたことはない、雪の降る日は今日あたりはどんな山を越すか、風の吹く日はどんな野原を通るかと、雨につけ風につけお前の事ばかり少しも忘れた事はござらん、ところへ思いがけなくお帰りになり、誠に喜ばしく思いまする、娘もお前のことばかり案じ暮らし、お前の立った当座は只ただ泣いてばかりおりましたから私がそんなにくよ〳〵して煩わずらいでもしてはいかないから、気を取り直せよといい聞かせて置きましたが、お前もマア健かでお早くお帰りだ﹂
孝﹁私わたくしは今日江戸へ着き、すぐに谷中の幡随院へ参さん詣けいをいたして来ましたが、明あし日たは丁度主人の一周忌の年囘にあたりまするゆえ、法事供養をいたしたく立帰りました﹂
相﹁そうか、如い何かにも明あし日たは飯島様の年囘に当るからと思ったが、お前がお留守だから私でも代参に行ゆこうかと話をしていたのだこれ婆ア、こゝへ来な、孝助様がお帰りになった﹂
婆﹁あら若旦那様お帰り遊ばしませ、御機嫌様よろしゅう、貴あな方たがお立ちになってからというものは、毎日お噂ばかり致しておりましたが、少しもお窶やつれもなく、お色は少しお黒くおなり遊ばしましたが、相変らずよくまアねえ﹂
相﹁婆ア、あれを連れて来なよ﹂
婆﹁でも只今よく寝んねしていらッしゃいますから、おめんめが覚めてから、お笑い顔を御覧に入れる方が宜しゅうございましょう﹂
相﹁ウンそうだ、初めて逢うのに無理にめんめを覚さまさして泣顔ではいかんから、だが大概にしてこゝへ連れて抱いて来い﹂
娘お徳は次の間に乳ちの児みごを抱いて居りましたが、孝助の帰るを聞き、飛立つばかり、嬉し涙を拭いながら出て来て、
徳﹁旦那様御機嫌様よろしゅう、よくマアお早くお帰り遊ばしました、毎日々々貴方のお噂ばかり致しておりましたが、お窶れも有りませんでお嬉しゅう存じまする﹂
孝﹁はい、お前も達者で目出たい、私が留守中はお父様の事何かと世話に成りました、旅先の事ゆえ都度々々便りも出来ず、どうなされたかと毎日案じるのみであったが、誠に皆みんなの達者な顔を見るというは此の様な嬉しいことはない﹂
徳﹁私は昨晩旦那様の御出立になる処を夢に見ましたが、よく人が旅たび立だちの夢を見ると其の人にお目にかゝる事が出来ると申しますから、お近いうち旦那様にお目にかゝれるかと楽しんで居りましたが、今日お帰りとは思いませんでした﹂
相﹁おれも同じような夢を見たよ、婆アや抱いてお出いで、最もうおきたろう﹂
婆ば々ゞは奥より乳ちの児みごを抱いて参る。
相﹁孝助殿これを御覧、いゝ児こだねえ﹂
孝﹁どちらのお子様で﹂
相﹁ナニサお前の子だアね﹂
孝﹁御冗談ばかり云っていらっしゃいます、私わたくしは昨年の八月旅へ出ましたもので、子供なぞはございません﹂
相﹁只たった一ぺんでも子供は出来ますよ、お前は娘と一つ寝をしたろう、だから只一度でも子は出来ます、只一度で子供が出来るというのは余よっ程ぽど縁の深い訳で、娘も初はじめのうちはくよ〳〵しているから、私が懐姙をしているからそれではいかん、身体に障さわるからくよ〳〵せんが宜しいと云っているうちに産み落したから、私が名付け親で、お前の孝の字を貰って孝こう太たろ郎うと付けてやりましたよ、マアよく似ておる事を、御覧よ﹂
孝﹁へい誠に不思議な事で、主人平左衞門様が遺言に、其の方養子となりて、若もし子供が出来たなら、男なん女にょに拘かゝわらず其の子を以もって家督と致し家の再興を頼むと御遺言書にありましたが、事によると殿様の生れ変がわりかも知れません﹂
相﹁おゝ至極左様かも知れん、娘も子供が出来てからねえ、嬉し紛れにお父様私は旦那様の事はお案じ申しまするが、此の子が出来ましてから誠によく旦那様に似ておりますから、少しは紛れて、旦那様と一つ所におるように思われますというたから、私が又余あんまり酷ひどく抱締めて、坊の腕でも折るといけないなんぞと、馬鹿を云っている位な事で、善藏や﹂
善﹁へい〳〵﹂
相﹁善藏や﹂
善﹁参っています、何なんでございます﹂
相﹁何だ、お前も板橋まで若旦那を送って行ったッけな﹂
善﹁へい参りました、これは若旦那様誠に御機嫌よろしゅう、あの折は実にお別れが惜しくて、泣きながら戻って参りましたが、よくマアお健かでいらっしゃいます﹂
孝﹁あの折は大きにお世話様であったのう﹂
相﹁それは兎も角も肝腎の仇あだの手掛りが知れましたか﹂
孝﹁まだ仇には廻めぐり逢いませんが、主人の法事をしたく一先ず江戸表へ立帰りましたが、法事を致しまして直すぐに又出立致します﹂
相﹁フウ成程、明あ日す法事に行ゆくのだねえ﹂
孝﹁左ようでございます、お父様と私わたくしと参りまする積りでございます、それに良石和尚の智識なる事は予かねて聞き及んではいましたが、応おう験けん解げど道う窮きわまりなく、百年先の事を見抜くという程だと承わっておりまするが、今日和尚の云う言葉に其の方は水道端へ参るだろう、参る時は必ず待っている者があり、且かつ慶よろこび事があると申しましたが、私の考えは、斯かく子供の出来た事まで良石和尚は知っておるに違い有りません﹂
相﹁はてねえ、そんな所まで見抜きましたかえ、智識なぞという者は趺ふか跏りょ量うけ見ん智ちで﹇#﹁趺ふか跏りょ量うけ見ん智ちで﹂は底本では﹁跌ふか跏りょ量うけ見ん智ちで﹂﹈、あの和尚は谷中の何とか云う智識の弟子と成り、禅学を打破ったと云う事を承わりおるが、えらいものだねえ、善藏や、大急ぎで水道町の花屋へ行って、おめでたいのだから、何かお頭かし付らつきの魚を三品ばかりに、それからよいお菓子を少し取ってくるように、道中には余り旨いお菓子はないから、それから鮓すしも道中では良いのは食べられないから、鮓も少し取ってくるように、それから孝助殿は酒はあがらんから五合ばかりにして、味みり淋んのごく良いのを飲むのだから二合ばかり、それから蕎そ麦ばも道中にはあるが、醤した油じが悪いから良い蕎麦の御膳の蒸せい籠ろうを取って参れ、それからお汁粉も誂あつらえてまいれ﹂
と種いろ々〳〵な物を取寄せ、其の晩はめでたく祝しまして床に就つきましたが、其の夜よは話も尽きやらず、長き夜も忽たちまち明ける事になり、翌日刻限を計り、孝助は新五兵衞と同道にて水道端を﹇#﹁水道端を﹂は底本では﹁水道橋を﹂﹈立たち出いで切きり支した丹んざ坂かから小石川にかゝり、白はく山さんから団だん子ござ坂かを下おりて谷中の新幡随院へ参り、玄関へかゝると、お寺には疾とうより孝助の来るのを待っていて、
良﹁施主が遅くって誠に困るなア、坊主は皆みんな本堂に詰つめ懸かけているから、さア〳〵早く﹂
と急せき立てられ、急ぎ本堂へ直りますると、かれこれ坊主の四五十人も押おし並ならび、いと懇ねんごろなる法事供養をいたし、施せ餓が鬼きをいたしまする内に、もはや日は西せい山ざんに傾く事になりましたゆえ、坊ぼう様さん達たちには馳走なぞして帰してしまい、後あとで又孝助、新五兵衞、良石和尚の三人へは別に膳がなおり、和尚の居間で一口飲むことになりました。
相﹁方丈様には初めてお目にかゝります、私わたくしは相川新五兵衞と申す粗忽な者でございます、今こん日にち又御ごね懇んごろな法事供養を成しくだされ、仏も嘸さぞかし草葉の蔭から満足な事でございましょう﹂
良﹁はいお前は孝助殿の舅しゅ御うとごかえ、初めまして、孝助殿は器量と云い人柄と云い立派な正しい人じゃ、中々正直な人間で余程怜りこ悧うじゃが、お前はそゝっかしそうな人じゃ﹂
相﹁方丈様はよく御存じ、気味のわるいようなお方だ﹂
良﹁就ついては、孝助殿は旅へ行ゆかれる事を承わったが、未まだ急には立ちはせまいのう、私が少し思う事があるから、明あ日す昼ひる飯めしを喰って、それから八やツ前後に神田の旅はた籠ごち町ょうへ行ゆきなさい、其そ処こに白翁堂勇齋という人相を見る親おや爺じがいるが、今年はもう七十だが達者な老人でなア、人相は余程名人だよ、是これに頼めばお前の望みの事は分ろうから往いって見なさい﹂
孝﹁はい、有り難う存じます、神田の旅籠町でございますか、畏かしこまりました﹂
良﹁お前旅へ行ゆくなれば私が餞別を進ぜよう、お前が折角呉れた布施は此こち方らへ貰って置くが、又私が五両餞別に進ぜよう、それから此の線香は外ほかから貰ってあるから一箱進ぜよう仏壇へ線香や花の絶えんように上げて置きなさい、是れだけは私が志じゃ﹂
相﹁方丈様恐れ入りまする、何どうも御出家様からお線香なぞ戴いては誠にあべこべな事で﹂
良﹁そんな事を云わずに取って置きなさい﹂
孝﹁誠に有り難う存じます﹂
良﹁孝助殿気の毒だが、お前はどうも危い身の上でナア、剣つるぎの上を渡るようなれども、それを恐れて後あとへ退さがるような事ではまさかの時の役には立たん、何なんでも進むより外ほかはない、進むに利あり退しりぞくに利あらずと云うところだから、何でも憶おくしてはならん、ずっと精神を凝こらして、仮たと令え向うに鉄門があろうとも、それを突つッ切きって通り越す心がなければなりませんぞ﹂
孝﹁有難うござりまする﹂
良﹁お舅御さん、これはねえ精進物だが、一体内で拵こしらえると云うたは嘘だが、仕出し屋へ頼んだのじゃ、甘うもうもあるまいが此の重箱へ詰めて置いたから、二重とも土産に持って帰り、内の奉公人にでも喰わしてやってください﹂
相﹁これは又お土産まで戴き、実に何ともお礼の申そうようはございません﹂
良﹁孝助殿、お前帰りがけに屹きっ度と剣難が見えるが、どうも遁のがれ難いから其の積りで行ゆきなさい﹂
相﹁誰に剣難がございますと﹂
良﹁孝助殿はどうも遁れ難い剣難じゃ、なに軽くて軽うす傷で、それで済めば宜しいが、何うも深ふか傷でじゃろう、間が悪いと斬り殺されるという訳じゃ、どうもこれは遁れられん因縁じゃ﹂
相﹁私わたくしは最早五十五歳になりまするから、どう成っても宜しいが、貴あな僧た孝助は大事な身の上、殊ことに大事を抱えて居りまする故、どうか一つあなたお助け下さいませんか﹂
良﹁お助け申すと云っても、これはどうも助けるわけにはいかんなア、因縁じゃから何うしても遁るゝ事はない﹂
相﹁左様ならば、どうか孝助だけを御ごと当う寺じへお留とめ置きくだされ、手てま前いだけ帰りましょうか﹂
良﹁そんな弱い事では何うもこうもならんわえ、武士の一大事なものは剣術であろう、其の剣術の極意というものには、頭の上へ晃きらめくはがねがあっても、電いな光づまの如く斬込んで来た時は何うして之これを受けるという事は知っているだろう、仏ぶっ説せつにも利りけ剣ん頭ずめ面んに触ふるゝ時如いか何んという事があって其の時が大切の事じゃ、其の位な心得はあるだろう、仮たと令え火の中でも水の中でも突つッ切きって行ゆきなさい、其の代りこれを突切れば後あとは誠に楽になるから、さっ〳〵と行きなさい、其のような事で気きお怯くれがするような事ではいかん、ズッ〳〵と突切って行くようでなければいかん、それを恐れるような事ではなりませんぞ、火に入いって焼けず水に入って溺おぼれず、精神を極きよめて進んで行きなさい﹂
相﹁さようなれば此のお重箱は置いて参りましょう﹂
良﹁いや折角だからマア持って行ゆきなさい﹂
相﹁何どち方らへか遁にげ路みちはございませんか﹂
良﹁そんな事を云わずズン〴〵と行ゆきなさい﹂
相﹁さようならば提ちょ灯うちんを拝借して参りとうございます﹂
良﹁提灯を持たん方が却かえって宜しい﹂
と云われて相川は意地の悪い和尚だと呟つぶやきながら、挨拶もそわ〳〵孝助と共に幡随院の門を立たち出いでました。
二十
孝助は新幡随院にて主人の法事を仕舞い、其の帰り道に遁のがれ難き剣難あり、浅あさ傷でか深ふか傷でか、運がわるければ斬り殺される程の剣難ありと、新幡随院の良石和尚という名僧智識の教えに相川新五兵衞も大いに驚き、孝助はまだ漸ようやく廿二歳、殊ことに可愛いゝ娘の養子といい、御おし主ゅうの敵かたきを打つまでは大事な身の上と、種いろ々〳〵心配をしながら打ち連れ立ちて帰る。孝助は仮たと令え如い何かなる災わざわいがあっても、それを恐れて一歩でも退しりぞくようでは大事を仕遂げる事は出来ぬと思い、刀に反そりを打ち、目めく釘ぎを湿しめし、鯉こい口ぐちを切り、用心堅固に身を固め、四方に心を配りて参り、相川は重箱を提さげて、孝助殿気を付けて行ゆけと云いながら参りますると、向うより薄すゝきだゝみを押分けて、血ちが刀たなを提げ飛出して、物をも云わず孝助に斬り掛けました。此の者は栗橋無宿の伴藏にて、栗橋の世しょ帯たいを代しろ物もの付つきにて売払い、多分の金か子ねをもって山本志丈と二人にて江戸へ立たち退のき、神かん田ださ佐くま久ち間ょ町うの医師何なに某がしは志丈の懇意ですから、二人はこゝに身を寄せて二三日逗留し、八月三日の夜よ二人は更ふけるを待ちまして忍び来きたり、根津の清水に埋うずめて置いた金無垢の海音如来の尊そん像ぞうを掘出し、伴藏は手早く懐中へ入れましたが、伴藏の思うには、我が悪事を知ったは志丈ばかり、此の儘まゝに生いけ置かば後のちの恐れと、伴藏は差したる刀抜くより早く飛びかゝって、出し抜けに力に任して志丈に斬り付けますれば、アッと倒れる所を乗のし掛り、一刀逆さか手てに持直し、肋あばらへ突つき込こみこじり廻せば、山本志丈は其の儘にウンと云って身を顫ふるわせて、忽たちまち息は絶えましたが、此の志丈も伴藏に与くみし、悪事をした天罰のがれ難く斯かゝる非業を遂げました、死骸を見て伴藏は後あとへさがり、逃げ出さんとする所、御用と声掛け、八方より取巻かれたに、伴藏も慌あわてふためき必死となり、捕とり方かたへ手向いなし、死物狂いに斬り廻り、漸ようやく一方を切抜けて薄すゝきだゝみへ飛込んで、往来の広い所へ飛出す出合がしら、伴藏は眼も眩くらみ、是これも同じ捕方と思いましたゆえ、ふいに孝助に斬掛けましたが、大概の者なれば真まっ二ぷたつにもなるべき所なれども、流さす石がは飯島平左衞門の仕込で真影流に達した腕前、殊ことに用意をした事ゆえ、それと見るより孝助は一歩あし退しりぞきしが、抜ぬき合あわす間もなき事ゆえ、刀の鍔つば元もとにてパチリと受流し、身を引く途端に伴藏がズルリと前へのめる所を、腕を取って逆に捻ねじ倒たおし。
孝﹁やい〳〵曲くせ者もの何なんと致す﹂
曲﹁へい真まっ平ぴら御ごめ免ん下さえまし﹂
相﹁そら出たかえ、孝助怪我は無いか﹂
孝﹁へい怪我はございません、こりゃ狼ろう藉ぜき者ものめ何なん等らの遺恨で我に斬付けたか、次第を申せ﹂
曲﹁へい〳〵全く人違いでごぜえやす﹂
と小声にて、
﹁今この先で友達と間違いをした所が、皆みんなが徒党をして、大勢で私わっちを打うち殺ころすと云って追おっ掛かけたものだから、一生懸命に此こ処ゝまでは逃げて来たが、目が眩んでいますから、殿様とも心付きませんで、とんだ粗相を致しました、何どうかお見逃しを願います、其そい奴つらに見付けられると殺されますから、早くお逃しなすって下されませ﹂
孝﹁全くそれに違いないか﹂
曲﹁へい、全く違ちげえごぜえやせん﹂
相﹁あゝ驚いた、これ人違いにも事によるぞ、斬ってしまってから人違いで済むか、べらぼうめ、実に驚いた、良石和尚のお告げは不思議だなアおや今の騒ぎで重箱を何ど処こかへ落してしまった﹂
と四あた辺りを見している所へ、依よだ田ぶぜ豊んの前か守みの組下にて石いし子こば伴んさ作く、金かな谷やと藤うた太ろ郎うという両人の御ごよ用うき聞ゝが駆けて来て、孝助に向い慇いん懃ぎんに、
捕﹁へい申し殿様、誠に有難う存じます、此の者はお尋ね者にて、旧悪のある重罪な奴でござります、私わた共くしどもは彼あす処こに待受けていまして、つい取逃がそうとした処を、旦那様のお蔭で漸ようやくお取押えなされ、有難うございます、どうかお引渡しを願いとう存じます﹂
相﹁そうかえ、あれは賊かい﹂
捕﹁大おお盗どろ賊ぼうでござります﹂
孝﹁お父とっ様さま呆れた奴でございます、此の不埓者め﹂
相﹁なんだ、人違いだなぞと嘘をついて、嘘をつく者は盗どろ賊ぼうの始りナニ疾とうに盗賊にもう成っているのだから仕方がない、直すぐに縄を掛けてお引きなさい﹂
捕﹁殿様のお蔭で漸く取押え、誠に有り難う存じます、何どうかお名前を承わりとう存じます﹂
相﹁不浄人を取押えたとて姓名なぞを申すには及ばん、これ〳〵〳〵重箱を落したから捜してくれ、あゝこれだ〳〵、危なかったのう﹂
孝﹁然しかしお父様、何分悪人とは申しながら、主人の法事の帰るさに縄を掛けて引渡すは何うも忍びない事でございます﹂
相﹁なれども左そ様う申してはいられない、渡してしまいなさい、早く引きなされ﹂
捕方は伴藏を受取り、縄打って引立て行ゆき、其の筋にて吟味の末、相当の刑に行われましたことはあとにて分ります。さて相川は孝助を連れて我わが屋敷に帰り、互に無事を悦び、其の夜よは過ぎて翌日の朝、孝助は旅支度の用意の為ため、小こあ網みち町ょう辺へ行って種いろ々〳〵買物をしようと家うちを立ち出いで、神田旅籠町へ差懸る、向うに白き幟のぼりに人相墨すみ色いろ白翁堂勇齋とあるを見て、孝助は
﹁はゝアこれが、昨きの日う良石和尚が教えたには今日の八ツ頃には必ず逢いたいものに逢う事が出来ると仰せあった占うら者ないしゃだな、敵かたきの手掛りが分り、源次郎お國に廻めぐり逢う事もやあろうか、何にしろ判断して貰おう﹂
と思い、勇齋の門かど辺べに立って見ると、名人のようではござりません。竹の打ち付け窓に煤すゝだらけの障子を建て、脇に欅けやきの板に人相墨色白翁堂勇齋と記して有りますが、家の前などは掃除などした事はないと見え、塵ごみだらけゆえ、孝助は足を爪つま立だてながら中うちに入いり、
孝﹁おたのみ申します〳〵﹂
白﹁なんだナ、誰だ、明けてお入はいり、履はき物ものを其そ処こへ置くと盗まれるといけないから持ってお上あがり﹂
孝﹁はい、御免下さいまし﹂
と云いながら障子を明けて中うちへ通ると、六畳ばかりの狭い所に、真まっ黒くろになった今いま戸どや焼きの火鉢の上に口のかけた土どび瓶んをかけ、茶碗が転がっている。脇の方に小さい机を前に置き、其の上に易えき書しょを五六冊積上げ、傍かたえの筆ふで立たてには短かき筮ぜい竹ちくを立て、其の前に丸い小さな硯すゞりを置き、勇齋はぼんやりと机の前に座しました態さまは、名人かは知らないが、少しも山も飾りもない。じゞむさくしている故、名人らしい事は更になけれども、孝助は予かねて良石和尚の教えもあればと思って両手を突き、
孝﹁白翁堂勇齋先生は貴あな方たさ様までございますか﹂
白﹁はい、始めましてお目にかゝります、勇齋は私だよ、今年はもう七十だ﹂
孝﹁それは誠に御壮健な事で﹂
白﹁まア〳〵達者でございます、お前は見て貰いにでも来たのか﹂
孝﹁へい手前は谷中新幡随院の良石和尚よりのお指さし図ずで参りましたものでございますが、先生に身の上の判断をしていたゞきとうございます﹂
白﹁はゝア、お前は良石和尚と心安いか、あれは名僧だよ、智識だよ、実に生いき仏ぼとけだ、茶は其そ処こにあるから一人で勝手に汲んでお上り、ハヽアお前は侍さんだね、何いく歳つだえ﹂
孝﹁へい、二十二歳でございます﹂
白﹁ハア顔をお出し﹂
と天眼鏡を取出し、暫しばらくのあいだ相を見ておりましたが、大道の易者のように高慢は云わず
白﹁ハヽアお前さんはマア〳〵家柄の人だ、して是まで目上に縁なくして誠にどうも一々苦労ばかり重なって来るような訳に成ったの﹂
孝﹁はい、仰せの通り、どうも目上に縁がございません﹂
白﹁其そ処こでどうも是迄の身の上では、薄はく氷ひょうを蹈ふむが如く、剣つるぎの上を渡るような境きょ界うがいで、大いに千辛しん万ばん苦くをした事が顕あらわれているが、そうだろうの﹂
孝﹁誠に不思議、実によく当りました、私わたくしの身の上には危あやうい事ばかりでございました﹂
白﹁それでお前には望みがあるであろう﹂
孝﹁へい、ございますが、其の望みは本意が遂げられましょうか如いか何ゞでございましょう﹂
白﹁望のぞ事みごとは近く遂げられるが、其そ処この所がちと危ない事で、これと云う場合に向いたなら、水の中でも火の中でも向うへ突つッ切きる勢いがなければ、必ず大たい望もうは遂げられぬが、まず退しりぞくに利あらず進むに利あり、斯こういう所で、悪くすると斬きり殺ころされるよ、どうも剣難が見えるが、旨く火の中水の中を突切って仕舞えば、広々とした所へ出て、何事もお前の思う様になるが、それは難かしいから気を注つけなけりゃいけない、もう是切り見る事はないからお帰り〳〵﹂
孝﹁へい、それに就つきまして、私わたくし疾とうより尋ねる者がございますが、是は何どうしても逢えない事とは存じて居りますが、其の者の生しょ死うしは如いか何ゞでございましょう、御覧下さいませ﹂
白﹁ハヽア見せなさい﹂
と又相そうして、
白﹁むゝ、是は目上だね﹂
孝﹁はい、左さよ様うでございます﹂
白﹁これは逢っているぜ﹂
孝﹁いゝえ、逢いません﹂
白﹁いや逢っています﹂
孝﹁尤もっとも今こん年ねんより十九年以前に別れましたるゆえ、途中で逢っても顔も分らぬ位でありまするから、一緒に居りましても互いに知らずに居りましたかな﹂
白﹁いや〳〵何でも逢って居ます﹂
孝﹁少ちいさい時分に別れましたから、事に寄ったら往来で摩すれ違った事もございましょうが、逢った事はございません﹂
白﹁いや〳〵そうじゃない、慥たしかに逢っている﹂
孝﹁それは少さい時分の事故ゆえ﹂
白﹁あゝ煩うるさい、いや逢っていると云うのに、外ほかには何も云う事はない、人相に出ているから仕方がない、屹きっ度と逢っている﹂
孝﹁それは間違いでございましょう﹂
白﹁間違いではない、極きめた所を云ったのだ、それより外に見る所はない、昼寝をするんだから帰っておくれ﹂
とそっけなく云われ、孝助は後あとを細かく聞きたいからもじ〳〵していると、また門口より入いり来るは女連れの二人にて、
女﹁はい御免下さいませ﹂
白﹁あゝ又来たか、昼寝が出来ねえ、おゝ二人か何一人は供だと、そんなら其そ処こに待たして此こっ方ちへお上り﹂
女﹁はい御免くだされませ、先生のお名を承わりまして参りました、どうか当とう用ようの身の上を御覧を願います﹂
白﹁はい此こっ方ちへお出いで﹂
と又此の女の相をよく〳〵見て、
﹁これは悪い相だなア、お前はいくつだえ﹂
女﹁はい四十四歳でございます﹂
白﹁これはいかん、もう見るがものはない、ひどい相だ、一体お前は目の下に極ごく縁のない相だ、それに近きん々〳〵の内屹きっ度と死ぬよ、死ぬのだから外に何なんにも見る事はない﹂
と云われて驚き暫しばらく思案を致しまして、
女﹁命数は限りのあるもので、長い短かいは致し方がございませんが、私わたくしは一人尋ねるものがございますが、其の者に逢われないで死にます事でございましょうか﹂
白﹁フウム是は逢っている訳だ﹂
女﹁いえ逢いません、尤もっとも幼年の折に別れましたから、先でも私わたくしの顔を知らず、私も忘れたくらいな事で、すれ違ったくらいでは知れません﹂
白﹁何なんでも逢っています、もうそれで外に見る所も何なにもない﹂
女﹁其の者は男の子で、四つの時に別れた者でございますが﹂
という側から、孝助は若もしやそれかと彼かの女の側に膝をすりよせ、
孝﹁もし、お内かみ室さ様んへ少々伺いますが、何いずれの方かは存じませんが、只今四つの時に別れたと仰しゃいます、その人は本郷丸山辺あたりで別れたのではございませんか、そしてあなたは越後村上の内藤紀伊守様の御家来澤田右衞門様のお妹御ではございませんか﹂
女﹁おやまアよく知ってお出いでゞす、誠に、はい〳〵﹂
孝﹁そして貴あな方たのお名前はおりゑ様とおっしゃって、小出信濃守様の御家来黒川孝藏様へお縁かた附づきになり、其の後ご御離縁になったお方ではございませんか﹂
女﹁おやまア貴方は私わたくしの名前までお当てなすって、大そうお上手様、これは先生のお弟子でございますか﹂
と云うに、孝助は思わず側により、
孝﹁オヽお母かゝ様さまお見忘れでございましょうが、十九年以前、手前四歳の折お別れ申した忰せがれの孝助めでございます﹂
りゑ﹁おやまアどうもマア、お前がアノ忰の孝助かえ﹂
白﹁それだから先さっ刻きから逢っている〳〵と云うのだ﹂
おりゑは嬉うれ涙しなみだを拭い、
りゑ﹁何どうもマア思い掛かけない、誠に夢の様な事でございます、そうして大層立派にお成りだ、斯こう云う姿になっているのだものを、表で逢ったって知れる事じゃアありません﹂
孝﹁誠に神の引合せでございます、お母様お懐かしゅうございました、私わたくしは昨年越後の村上へ参り、段々御様子を伺うかゞいますれば、澤田右衞門様の代も替り、お母様のいらっしゃいます所も知れませんから、何うがなしてお目に懸りたいと存じていましたに、図はからずこゝでお目に懸り、先まずお壮すこ健やかでいらッしゃいまして、斯こんな嬉しい事はございません﹂
りゑ﹁よくマア、嘸さぞお前は私を怨んでおいでだろう﹂
白﹁そんな話をこゝでしては困るわな、併しかし十九年ぶりで親子の対面、嘸話があろうが、いらざる事だが、供に知れても宜よくない事もあろうから、何ど処こか待まち合あいか何かへ行ってするがいゝ﹂
孝﹁はい〳〵、先生お蔭様で誠に有難うございました、良石様のお言葉といい、貴方様の人相のお名人と申し、実に驚き入りました﹂
白﹁人相が名人というわけでもあるまいが、皆こうなっている因縁だから見けん料りょうはいらねえから帰りな、ナニ些ちっとばかり置いて行くか、それも宜かろう﹂
りゑ﹁種いろ々〳〵お世話様、有り難う存じました、孝助や種々話もしたい事があるから斯うしよう、私は今馬ばく喰ろち町ょう三丁目下しも野つけ屋やという宿屋に泊っているから、お前よ一ト足先へ帰り、供を買物に出すから、其の後あとへ供に知れないように上あがっておいで﹂
白﹁嘸さぞ嬉しかろうのう﹂
孝﹁さようならば、これから直すぐ見え隠がくれにお母様のお跡に付いて参りましょう、それはそうと﹂
と云いつゝも懐中より何程か紙に包んで見料を置き、厚く礼を述べ白翁堂の家を立たち出いで、見え隠れに跡をつけ、馬喰町へまいり、下野屋の門かど辺べに佇たゝずみ待って居おるうちに、供の者が買ものに出て行ゆきましたから、孝助は宿屋に入はいり、下おん女なに案内を頼んで奥へ通る。
りゑ﹁サア〳〵〳〵此こ処ゝへ来な、本当にマアどうもねえ﹂
と云いながら孝助をつく〴〵見て、
﹁見忘れはしませぬ幼おさ顔ながお、お前の親御孝藏殿によく似ておいでだよ、そうして大層立派におなりだねえ、お前がお父とっ様さまの跡を継いで、今でもお父様はお存ぞん生しょうでいらッしゃるかえ﹂
孝﹁はい、お母様此の両隣の座敷には誰も居りは致しませんか﹂
りゑ﹁いゝえ、私も来て間もないことだが、昼の中うちは皆みんな買物や見物に出かけてしまうから誰もいないよ、日暮方は大勢帰って来るが、今は留守居が昼寝でもしている位だろうよ﹂
孝﹁フウ、左様なら申上げますが、お母様は私わたくしの四つの時の二月にお離縁になりましたのも、お父様があの通りの酒乱からで、それからお父様は其の年の四月十一日、本郷三丁目の藤村屋新兵衞と申す刀屋の前で斬きり殺ころされ、無むざ慙んな死をお遂げなされました﹂
りゑ﹁おやまア矢やっ張ぱり御ごし酒ゅゆえで、それだから私アもうお前のお父とっさんでは本当に苦労を仕抜いたよ、あの時もお前と云う可愛い子があることだから、別れたいのではないが、兄が物堅い気性だから、あんな者へ付けては置かれん、酒ゆえに主しゅ家かをお暇いとまに成るような者には添わせて置かんと、無理無体に離縁を取ったが、お行方の事は此の年とし月つき忘れた事はありませぬ、そうしてお父様が亡くなっては、跡で誰もお前の世話をする者がなかったろう﹂
孝﹁さアお父様の店たな受うけ彌兵衞と申しまする者が育てゝ呉れ、私わたくしが十一の時に、お前のお父さんはこれ〳〵で死んだと話して呉れました故、私も仮たと令え今は町人に成ってはいますものゝ、元は武家の子ですから、成人の後のちは必ずお父様の仇あだを報いたいと思い詰め、屋敷奉公をして剣術を覚えたいと思っていましたに、縁有って昨年の三月五日、牛込軽子坂に住む飯島平左衞門とおっしゃる、お広ひろ敷しき番ばんの頭をお勤めになる旗下屋敷に奉公住ずみを致した所、其の主人が私をば我わが子このように可愛がってくれましたゆえ、私も身の上を明あかし、親の敵かたきが討ちたいから、何どうか剣術を教えて下さいと頼みましたれば、殿様は御番疲れのお厭いといもなく、夜よまでかけて御剣術を仕込んで下されました故、思いがけなく免許を取るまでになりました﹂
りゑ﹁おやそう、フウンー﹂
孝﹁すると其の家うちにお國と申す召使がありました、これは水道端の三宅のお嬢様が殿様へ御縁組になる時に、奥様に附いて来た女でございますが、其の後ご奥様がお逝かくれになりましたものですから、此のお國にお手がつき、お妾となりました所、隣とな家りの旗はた下もとの次男宮野邊源次郎と不義を働き、内ない々〳〵主人を殺そうと謀たくみましたが、主人は素もとより手てし者ゃの事故ゆえ、容易に殺すことは出来ないから、中川へ網あみ船ぶねに誘い出し、船の上から突つき落おとして殺そうという事を私わたくしが立聞しましたゆえ、源次郎お國をひそかに殺し、自分は割腹しても何うか恩ある御主人を助けたいと思い、昨年の八月三日の晩に私が槍を持って庭先へ忍び込み、源次郎と心得突つッ懸かけたは間違いで、主人平左衞門の肋あばらを深く突きました﹂
りゑ﹁おやまアとんだ事をおしだねえ﹂
孝﹁サア私わたくしも驚いて気が狂うばかりに成りますと、主人は庭へ下りて来て、ひそ〳〵と私への懴ざん悔げば話なしに、今より十八年前の事、貴様の親おや父じを手に掛けたは此の平左衞門が未まだ部屋住にて、平太郎と申した昔の事、どうか其の方の親の敵と名な告のり、貴様の手に掛りて討たれたいとは思えども、主しゅ殺うころしの罪に落すを不ふび便んに思い、今日までは打過ぎたが、今日こそ好よい折からなれば、斯かくわざと源次郎の態なりをして貴様の手にかゝり、猶なお委細の事は此の書置に認したゝめ置いたれば、跡の始末は養父相川新五兵衞と共に相談せよ、貴様はこれにて怨うらみを晴してくれ、然しかる上は仇あだは仇恩は恩、三世せも変らぬ主しゅ従うじゅうと心得、飯島の家いえを再興してくれろ、急いで行ゆけと急せき立てられ、養家先なる水道端の相川新五兵衞の宅へ参り、舅と共に書置を開いて見れば、主人は私を出した後あとにて直すぐに客きゃ間くのまへ忍び入り源次郎と槍試合をして、源次郎の手に掛り、最後をすると認めてありました書置の通りに、遂ついに主人は其の晩果は敢かなくおなりなされました、又源次郎お國は必ず越後の村上へ立越すべしとの遺書にありますから、主しゅうの仇を報わん為ため、養父相川とも申し合せ、跡を追いかけて出立致し、越後へ参り、諸方を尋ねましたが一向に見当らず、又あなたの事もお尋ね申しましたが、これも分りません故、余儀なく此の度たび主人の年囘をせん為めに当地へ帰りました所、不ふ図と今日御面会を致しますとは不思議な事でございます﹂
と聞いて驚き小声に成り、
りゑ﹁おやマア不思議な事じゃアないか、あの源次郎とお國は私の宅うちにかくまってありますよ、どうもまア何なんたる悪縁だろう、不思議だねえ、私が廿六の時黒川の家うちを離縁になって国へ帰り、村上に居ると、兄が頻しきりに再縁しろとすゝめ、不思議な縁でお出入の町人で荒物の御用を達たす樋ひの口くち屋や五兵へ衞えと云うものゝ所へ縁付くと、そこに十三になる五ごろ郎さぶ三ろ郎うという男の子と、八ツになるお國という女の子がありまして、其のお國は年は行いかぬが意地の悪いとも性しょうの悪い奴で、夫婦の合あい中なかを突つッついて仕様がないから、十一の歳とし江戸の屋敷奉公にやった先は、水道端の三宅という旗下でな、其の後ご奥様附づきで牛込の方へ行ったとばかりで後あとは手紙一本も寄越さぬくらい、実に酷ひどい奴で、夫五兵衞が亡くなった時も訃しら音せを出したに帰りもせず、返事もよこさぬ不孝もの、兄の五郎三郎も大層に腹を立っていましたが、其の後ご私共は仔細有って越後を引払い、宇都宮の杉すぎ原はら町まちに来て、五郎三郎の名前で荒物屋の店を開いて、最早七年居ますが、つい先せん達だってお國が源次郎と云う人を連れて来ていうのには、私が牛込の或るお屋敷へ奥様附で行った所が、若気の至りに源次郎様と不義私いた通ずらゆえに此のお方は御勘当となり、私わたくし故に今は路頭に迷う身の上だから、誠に済まない事だが匿かくまってくれろと云って、そんな人を殺した事なんぞは何とも云わないから、源次郎への義理に今は宇都宮の私の内にいるよ、私は此の間五郎三郎から小こづ遣かいを貰い、江戸見物に出掛けて来て、未だこちらへ着いて間も無くお前に巡り逢って、此の事が知れるとは何たら事だねえ﹂
孝﹁ではお國源次郎は宇都宮に居りますか、つい鼻の先に居ることも知らないで、越後の方から能登へかけ尋ねあぐんで帰ったとは、誠に残念な事でございますから、どうぞお母様がお手引をして下すって、仇を討ち、主人の家の立たち行ゆくように致したいものでございます﹂
りゑ﹁それは手引をして上げようともサ、そんなら私は直すぐにこれから宇都宮へ帰るから、お前は一緒にお出いで、だがこゝに一つ困った事があると云うものは、あの供がいるから、是これを聞き付け喋られると、お國源次郎を取逃がすような事になろうも知れぬから、こうと……﹂
思案して、
﹁私は明あ日すの朝供を連れて出立するから、今日のようにお前が見え隠れに跡を追って来て、休む所も泊る所も一つ所にして、互に口をきかず、知らない者の様にして置いて、宇都宮の杉原町へ往ったら供を先へ遣やって置いて、そうして両人で相あい図ずを諜しめし合あわしたら宜よかろうね﹂
孝﹁お母様有り難う存じます、それでは何うかそういう手ては筈ずに願いとう存じます、私わたくしはこれより直すぐに宅たくへ帰って、舅へ此の事を聞かせたなら何どのように悦びましょう、左様なら明朝早く参って、此の家うちの門口に立って居りましょう、それからお母様先刻つい申上げ残しましたが、私は相川新五兵衞と申す者の方かたへ主人の媒なか妁だちで養子にまいり、男の子が出来ました、貴方様には初孫の事故お見せ申したいが、此の度たびはお取急ぎでございますから、何いずれ本懐を遂げた後あとの事にいたしましょう﹂
りゑ﹁おやそうかえ、それは何なにしても目出度い事です、私も早く初孫の顔が見たいよ、それに就ついても、何どうか首尾よくお國と源次郎をお前に討たせたいものだのう、これから宇都宮へ行ゆけば私がよき手引をして、屹きっ度と両人を討たせるから﹂
と互に言葉を誓い孝助は暇いとまを告げて急いで水道端へ立帰りました。
相﹁おや孝助殿、大層早くお帰りだ、いろ〳〵お買物が有ったろうね﹂
孝﹁いえ何も買いません﹂
相﹁なんの事だ、何も買わずに来た、そんなら何か用でも出来たかえ﹂
孝﹁お父とっ様さまどうも不思議な事がありました﹂
相﹁ハヽ随分世間には不思議な事も有るものでねえ、何か両国の川の上に黒こく気きでも立ったのか﹂
孝﹁左ようではございませんが、昨日良石和尚が教えて下さいました人相見の所へ参りました﹂
相﹁成程行ったかえ、そうかえ、名人だとなア、お前の身の上の判断は旨く当ったかえ〳〵﹂
孝﹁へい、良石和尚が申した通り、私わたくしの身の上は剣つるぎの上を渡る様なもので、進むに利あり退くに利さあらずと申しまして、良石和尚の言葉と聊いさゝか違いはござりません﹂
相﹁違いませんか、成程智識と同じ事だ、それから、へえそれから何なんの事を見て貰ったか﹂
孝﹁それから私わたくしが本意を遂げられましょうかと聞くと、本意を遂げるは遠からぬうちだが、遁のがれ難がたい剣難が有ると申しました﹂
相﹁へえ剣難が有ると云いましたか、それは極ごく心配になる、又昨日のような事があると大変だからねえ、其の剣難は何どうかして遁れるような御祈祷でもしてやると云ったか﹂
孝﹁いえ左ような事は申しませんが、貴あな方たも御存じの通り私わたくしが四歳の時別れました母に逢えましょうか、逢えますまいかと聞くと、白翁堂は逢っていると申しますから、幼年の時に別れたる故、途中で逢っても知れない位だと申しても、何なんでも逢っていると申し遂ついに争いになりました﹂
相﹁ハアそこの所は少し下手糞だ、併しかし当るも八はッ卦け当らぬも八卦、そう身の上も何もかも当りはしまいが、強情を張ってごまかそうと思ったのだろうが、其そ所この所は下手糞だ、なんとか云ってやりましたか、下手糞とか何とか﹂
孝﹁すると後あとから一人四十三四の女が参りまして、これも尋ねる者に逢えるか逢えないかと尋ねると、白翁堂は同じく逢っているというものだから、其の女はなに逢いませんといえば、急きっ度と逢っていると又争いになりました﹂
相﹁あゝ、こりゃからッぺた誠に下手だが、そう当る訳のものではない、それには白翁堂も恥をかいたろう、お前と其の女と二人で取って押えてやったか、それから何うした﹂
孝﹁さア余り不思議な事で、私わたしも心にそれと思い当る事もありますから、其の女にはおりゑ様と仰しゃいませんかと尋ねました所が、それが全く私わたくしの母でございまして、先でも驚きました﹂
相﹁ハヽア其の占うらないは名人だね、驚いたねえ、成程、フム﹂
是より孝助はお國源次郎両人の手懸りが知れた事から、母と諜しめし合わせた一いち伍ぶし一じゅ什うを物語りますると、相川も驚きもいたし、又悦び、誠に天から授かった事なれば、速すみやかに明あ日すの朝遅れぬように出立して、目出度く本懐を遂げて参れという事になりました。翌よく朝ちょう早天に仇あだ討うちに出立を致し、是より仇討は次に申上げます。
二十一
孝助は図らずも十九年ぶりにて実母おりゑに廻めぐり逢いまして、馬喰町の下野屋と申す宿屋へ参り、互に過すぎし身の上の物語を致して見ると、思いがけなき事にて、母方にお國源次郎がかくまわれてある事を知り、誠に不思議の思いをなしました処、母が手引をして仇あだを討たせてやろうとの言葉に、孝助は飛立つばかり急ぎ立帰り、右の次第を養父相川新五兵衞に話しまして、六日の早天水道端を出立し、馬喰町なる下野屋方へ参り様子を見ておりますると、母も予かねて約したる事なれば、身支度を整え、下男を供に連れ立たち出いでましたれば、孝助は見え隠がくれに跡を尾つけて参りましたが、女の足の捗はかどらず、幸手、栗橋、古河、真ま間ゝ田だ、雀すゞめの宮みやを後あとになし、宇都宮へ着きましたは、丁度九日の日の暮くれ々〴〵に相成りましたが、宇都宮の杉原町の手前まで参りますと、母おりゑは先まず下男を先へ帰し、五郎三郎に我が帰りし事を知らせてくれろと云い付けやり、孝助を近く招ぎ寄せまして小声になり、
母﹁孝助や、私の家うちは向うに見える紺こんの暖のれ簾んに越えち後ご屋やと書き、山形に五の字を印しるしたのが私の家だよ、あの先に板塀があり、付いて曲ると細い新道のような横よこ町ちょうがあるから、それへ曲り三四軒行ゆくと左側の板塀に三尺の開ひらきが付いてあるが、それから這は入いれば庭伝い、右の方ほうの四畳半の小座敷にお國源次郎が隠れいる事ゆえ、今晩私が開きの栓せんをあけて置くから、九ツの鐘を合図に忍び込めば、袋の中うちの鼠同様、覚さとられぬよう致すがよい﹂
孝﹁はい誠に有り難うぞんじまする、図はからずも母はゝ様さまのお蔭にて本懐を遂げ、江戸へ立帰り、主しゅ家うか再興の上私わたくしは相川の家いえを相続致しますれば、お母様をお引取申して、必ず孝行を尽す心得、さすれば忠孝の道も全うする事が出来、誠に嬉しゅう存じます、さようなれば私は何どち方らへ参って待受けて居ましょう﹂
母﹁そうさ、池いけ上がみ町まちの角すみ屋やは堅いという評判だから、あれへ参り宿を取っておいで、九ツの鐘を忘れまいぞ﹂
孝﹁決して忘れません、さようならば﹂
と孝助は母に別れて角屋へまいり、九ツの鐘の鳴るのを待受けて居ました。母は孝助に別れ、越後屋五郎三郎方へ帰りますと、五郎三郎は大きに驚き、
五﹁大層お早くお帰りになりました、まだめったにはお帰りにならないと思っていましたのに、存じの外ほかにお早うござりました、それでは迚とても御見物は出来ませんでございましたろう﹂
母﹁はい、私は少し思う事があって、急に国へ帰る事になりましたから、奉公人共への土産物も取っている暇もない位で﹂
五﹁アレサなに左様御心配がいるものでございましょう、お母っかさまは芝居でも御見物なすってお帰りになる事だろうから、中々一ト月や二タ月は故こき郷ょう忘ぼうじ難がたしで、あっちこっちをお廻りなさるから、急にはお帰りになるまいと存じましたに﹂
母﹁さアお前に貰った旅用の残りだから、むやみに遣つかっては済まないが、どうか皆みんなに遣やっておくれよ﹂
と奉公人銘めい々〳〵に包んで遣わしまして、其の外ほか着古しの小袖半はん纒てんなどを取分け。
五﹁そんなに遣らなくっても宜よろしゅうございます﹂
と申すに、
母﹁ハテこれは私の少々心あっての事で、詰らん物だが着古しの半纒は、女中にも色々世話に成りますからやっておくれ、シテお國や源次郎さんは矢張奥の四畳半に居りますか﹂
五﹁誠にあれはお母かゝ様さまに対しても置かれた義理ではございません、憎い奴でございますが、強しいて縋すがり付いて参り、私故にお隣屋敷の源次郎さんが勘当をされたと申しますから、義理でよんどころなく置きましたものゝ、嘸さぞあなたはお厭いやでございましょう﹂
母﹁私はお國に逢って緩ゆっくり話がしたいから、用もあるだろうが、いつもより少々店を早くひけにして、寝かしておくれ、私は四畳半へ行って國や源さんに話があるのだが、是でお酒やお肴を﹂
五﹁およし遊ばせ﹂
母﹁いや、そうでない、何も買って来ないから是非上げておくれよ﹂
五﹁はい〳〵﹂
と気の毒そうに承知して、五郎三郎は母の云付けなれば酒さけ肴さかなを誂あつらえ、四畳半の小間へ入れ、店の奉公人も早く寝かしてしまい、母は四畳半の小座敷に来たりて内にはいれば、
國﹁おや、お母はゝ様さま、大層早くお帰り遊ばしました、私わたくしは未まだめったにお帰りにはなりますまいと思い、屹きっ度と一ト月位は大丈夫お帰りにはならないとお噂ばかりして居りました、大層お早く、本当に恟びっくり致しました﹂
源﹁只今はお土産として御ごし酒ゅこ肴うを沢山に有り難うぞんじます﹂
母﹁いえ〳〵、なんぞ買って来ようと思いましたが、誠に急ぎましたゆえ何も取って居る暇ひまもありませんでした、誰も外ほかに聞いている人もないようだから、打解けて話をしなければならない事があるが、お國やお前が江戸のお屋敷を出た時の始末を隠さずに云っておくんなさい﹂
國﹁誠にお恥かしい事でございますが、若気の過あやまり、此の源さまと馴なれ染そめた所から、源さまは御勘当になりまして、行いき所のないようにしたは皆みんな私わたしゆえと思い、悪いこととは知りながらお屋敷を逃出し、源さまと手を取り合い、日頃無沙汰を致した兄の所に頼り、今ではこうやって厄介になって居りまする﹂
母﹁不義淫いた奔ずらは若い内には随分ありがちの事だが、お國お前は飯島様のお屋敷へ奥様付になって来たが、奥様がおかくれになってから、殿様のお召使になっているうちに、お隣の御二男源次郎さまと、隣りずからの心安さに折おり々〳〵お出いでになる所から、お前は此の源さまと不義密いた通ずらを働いた末、お前方が申し合せ、殿様を殺し、有金大小衣きる類いを盗み取り、お屋敷を逃げておいでだろうがな﹂
と云われて二人は顔色変え、
國﹁おやまア恟びっくりします、お母かゝ様さま何をおっしゃいます、誰が其の様な事を云いましたか、少しも身に覚えのない事を云いかけられ、本当に恟り致しますわ﹂
母﹁いえ〳〵いくら隠してもいけないよ、私の方にはちゃんと証拠がある事だから、隠さずに云っておしまい﹂
國﹁そんな事を誰が申しましたろうねえ源さま﹂
と云えば、源次郎落おち着つきながら、
源﹁誠に怪けしからん事です。お母様もし外ほかの事とは違います、手前も宮野邊源次郎、何ゆえお隣の伯父を殺し、有金衣いる類いを盗みしなどゝ何者がさような事を申しました、毛頭覚えはございません﹂
母﹁いや〳〵そうおっしゃいますが、私は江戸へ参り、不思議と久し振りで逢いました者が有って、其の者から承わりました﹂
源﹁フウ、シテ何者でございますか﹂
母﹁はい、飯島様のお屋敷でお草履取を勤めて居りました、孝助と申す者でなア﹂
源﹁ムヽ孝助、彼あい奴つは不届至極な奴で﹂
國﹁アラ彼奴はマア憎い奴で、御主人様のお金を百両盗みました位の者ですから、どんな拵こしらえ事をしたか知れません、あんな者の云う事をあなた取上げてはいけません、何どうして草履取が奥の事を知っている訳はございません﹂
母﹁いえ〳〵お國や、その孝助は私の為には実の忰せがれでございます﹂
と云われて両ふた人りは驚き顔して、後あとへもじ〳〵とさがり、
母﹁さア、私が此の家やへ縁付いて来たのは、今年で丁度十七年前の事、元私の良つれ人あいは小出様の御家来で、お馬廻り役を勤め、百五十石頂戴致した黒川孝藏と云う者でありましたが、乱らん酒しゅ故に屋敷は追放、本郷丸山の本ほん妙みょ寺うじ長屋へ浪人していました処、私わたくしの兄澤田右衞門が物堅い気質で、左様な酒さけ癖くせあしき者に連添うているよりは、離縁を取って国へ帰れと押おして迫られ、兄の云うに是非もなく、其の時四つになる忰を後あとに残し、離縁を取って越後の村上へ引ひき込こみ、二年程過ぎて此の家に再縁して参りましたが、此の度たび江戸で図らずも十九年ぶりにて忰の孝助に逢いましたが、実の親子でありますゆえ、段々様子を聞いて見ると、お前達は飯島様を殺した上、有金大小衣類まで盗み取り、お屋敷を逐電したと聞き、私は恟りしましたよ、それが為飯島様のお家は改易になりましたから、忰の孝助が主人の敵かたきのお前方を討たなければ、飯島の家名を興おこす事が出来ないから、敵を捜す身の上と、涙ながらの物語に、私わたしも十九年ぶりで実の子に逢いました嬉し紛れに、敵のお国源次郎は私の家に匿かくまってあるから、手引をして敵を打たせてやろうと、サうっかり云ったは私の過り、孝助は血を分けた実子なれども、一旦離縁を取ったれば黒川の家の子、此の家に再縁する上からは、今はお前は私の為に猶なお更さら義理ある大だい切じの娘なりや、縁の切れた忰の情なさけに引かされて、手引をしてお前達を討たせては、亡くなられたお前の親御樋口屋五兵衞殿の御位牌へ対して、何うも義理が立ちませんから、悪い事を云うた、何うしたら宜よかろうかと道々も考えて来ましたが、孝助は後あとになり先になり私に附きて此の地に参り、実は今晩九こゝ時のつどきの鐘を合図に庭口から此こ家ゝに忍んで来る約束、討たせては済まないから、お前達も隠さず実はこれ〳〵と云いさえすれば、五郎三郎から小こづ遣かいに貰った三十両の内、少し遣つかって未まだ二十六七両は残ってありますから、これをお前達に路銀として餞別に上げようから、少しも早く逃げのびなさい、立たち退のく道は宇都宮の明神様の後うし山ろやまを越え、慈じこ光う寺じの門前から付いて曲り、八幡わた山やまを抜けてなだれに下りると日光街道、それより鹿かぬ沼まみ道ちへ一里半行いけば、十郎ろうヶ峰みねという所、それよりまた一里半あまり行ゆけば鹿沼へ出ます、それより先は田たぬ沼まみ道ち奈なら良む村らへ出る間かん道どう、人の目つまにかゝらぬ抜ぬけ道みち、少しも早く逃げのびて、何いず処この果なりとも身を隠し、悪い事をしたと気がつきましたら、髪を剃そって二人とも袈け裟さと衣ころもに身を窶やつし、殺した御主人飯島様の追善供養致したなら、命の助かる事もあろうが、只不ふび便んなのは忰の孝助、敵の行方の知れぬ時は一生旅寝の艱かん難なん困こん苦く、御おし主ゅうのお家も立ちません、気の毒な事と気がついたら心を入れかえ善人に成っておくれよ、さア〳〵早く﹂
と路銀まで出しまして、義理を立てぬく母の真まご心ゝろ、流さす石がの二人も面めん目ぼくなく眼と眼を見合せ、
國﹁はい〳〵誠にどうも、左様とは存じませんでお隠し申したのは済みません﹂
源﹁実に御ごし信んじ実つなお言葉、恐れ入りました、拙者も飯島を殺す気ではござらんが、不義が顕あらわれ平左衞門が手槍にて突いてかゝる故、止むを得ず斯かくの如きの仕しあ合わせでございます、仰せに従い早々逃げのび、改心致して再びお礼に参りまするでございます、これお國や、お餞別として路銀まで、あだに心得ては済みませんよ﹂
國﹁お母はゝ様さま、どうぞ堪忍してくださいましよ﹂
母﹁さア〳〵早く行ゆかぬか、かれこれ最も早はや九ツになります﹂
と云われて二人は支度をしていると、後うしろの障子を開けて這入りましたはお國の兄五郎三郎にて、突いき然なりお國の側へより、
五﹁お母様少しお待ちなすってください、これ國これへ出ろ〳〵、本当にマア呆れはてゝ物が云われねえ奴だ、内へ尋ねて来た時なんと云った、お隣の次男と不義をしたゆえ、源さんは御勘当になり、身の置所がないようにしたも私ゆえ、お気の毒でならねえから一緒に連れて来ましたなどと、生なま嘘ぞらを遣つかって我をだましたな、内に斯こうやって置く奴じゃアねえぞ、お父とっ様さまが御ごし死き去ょに成った時、幾いく度たび手紙を出しても一通の返事も遣よこさぬくらいな人でなし、只たった一人の妹いもとだが死んだと思ってな諦めていたのだ、それにのめ〳〵と尋ねて来やアがって、置いてくれろというから、よもや人を殺し、泥坊をして来たとは思わねえから置いてやれば、今聞けば実に呆れて物が云われねえ奴だ、お母はゝ様さま誠に有り難うございまするが、あなたが親父へ義理を立てゝ、此こ奴い等つを逃がして下さいましても天命は遁のがれられませんから、迚とても助かる気きづ遣かいはございません、いっそ黙っておいでなすって、孝助様に切られてしまう方が宜しゅうございますのに、やいお國、お母かゝ様さまは義理堅いお方ゆえ、親父の位牌へ対して路銀まで下すって、そのうえ逃にげ路みちまで教えて下さると云うはな実に有り難い事ではないか、何なんとも申そう様ようはございません、コレお國、この罰ばち当あたりめえ、お母かゝ様さまが此の家へ嫁にいらッしゃった時は、手てめ前えがな十一の時だが、意地がわるくてお父様とお母様と己との合あい中なかをつゝき、何分家が揉めて困るから、己がお父やじさんに勧めて他人の中を見せなければいけませんが、近い所だと駈出して帰って来ますから、いっそ江戸へ奉公に出した方が宜かろうと云って、江戸の屋敷奉公に出した所が、善いゝ事ことは覚えねえで、密いろ夫おとこをこしらえてお屋敷を遁にげ出すのみならず、御主人様を殺し、金を盗みしというは呆れ果てゝ物が云われぬ、お母様が並の人ならば、知らぬふりをしておいでなすッたら、今夜孝助様に斬きり殺ころされるのも心がら、天罰で手てめ前えた達ちは当あた然りまえだが、坊主が憎けりゃ袈裟までの譬たとえで、此こい奴つも敵かたきの片かた割われと己までも殺される事を仕し出で来かすというは、不孝不義の犬畜生め、只たった一人の兄きょ妹うだいなり、殊ことにゃア女の事だから、此の兄の死しに水みずも手てま前えが取るのが当あた前りまえだのに、何の因果で此こん様な悪あく婦とうが出来たろう、お父やじ様さまも正直なお方、私も是までさのみ悪い事をした覚えはないのに、此の様な悪人が出来るとは実になさけない事でございます、此の畜生め〳〵サッサと早く出て行ゆけ﹂
と云われて、二人とも這ほう々〳〵の体ていにて荷にご拵しらえをなし、暇いと乞まごいもそこ〳〵に越後屋方を逃出しましたが、宇都宮明神の後うし道ろみちにかゝりますと、昼さえ暗き八幡山、況まして真夜中の事でございますから、二人は気味わる〳〵路みちの中ばまで参ると、一叢むら茂る杉林の蔭より出てまいる者を透すかして見れば、面部を包みたる二人の男おのこ、いきなり源次郎の前へ立たち塞ふさがり、
○﹁やい、神しん妙びょうにしろ、身ぐるみ脱いて置いて行いけ、手てめ前えた達ちは大方宇都宮の女郎を連出した駈かけ落おち者ものだろう﹂
×﹁やい金を出さないか﹂
と云われ源次郎は忍び姿の事なれば、大小を落し差ざしにして居りましたが、此の様子にハッと驚き、拇おや指ゆびにて鯉口を切り、慄ふるえ声を振ふり立たって、
源﹁手てま前えた達ちは何だ、狼藉者﹂
と云いながら、透すかして九日の夜よの月影に見れば、一人は田中の中間喧嘩の龜藏、見みま紛ごう方かたなき面部の古ふる疵きず、一人は元召使いの相助なれば、源次郎は二度恟びっくり、
源﹁これ、相助ではないか﹂
相﹁これは御次男様、誠に暫しばらく﹂
源﹁まア安心した、本当に恟りした﹂
國﹁私も恟りして腰が抜けた様だったが、相助どんかえ﹂
相﹁誠にヘイ面目ありません﹂
源﹁手前は未まだ斯かよ様うな悪い事をしているか﹂
相﹁実はお屋敷をお暇いとまに成って、藤田の時藏と田中の龜藏と私と三人揃そろって出やしたが、何ど処こへも行いく所はなし、何どうしたら宜かろうかと考えながら、ぶら〳〵と宇都宮へ参りやして、雲助になり、何うやら斯こうやらやっているうち、時藏は傷しょ寒うかんを煩わずらって死んでしまい、金はなくなって来た処から、ついふら〳〵と出来心で泥坊をやったが病やみ付つきとなり、此の間かん道どうはよく宇都宮の女郎を連れて、鹿沼の方へ駈落するものが時々あるので、こゝに待伏せして、サア出せと一ひと言こといえば、私は剣術を知らねえでも、怖がって直じきに置いて行くような弱い奴ばっかりですから、今日もうっかり源様と知らず掛かりましたが、貴方に抜かれりゃアおッ切られてしまう処、誠になんともはや﹂
源﹁これ龜藏、手前も泥坊をするのか﹂
龜﹁へい雲助をしていやしたが、ろくな酒も飲めねえから太く短くやッつけろと、今では斯こんな事をしておりやす﹂
と云われ、源次郎は暫しばし小首を傾かたげて居りましたが、
﹁好いい所で手前達に逢うた、手前達も飯島の孝助には遺恨があろうな﹂
龜﹁えゝ、ある所じゃアありやせん、川の中へ放り込まれ、石で頭を打ぶっ裂さき、相助と二人ながら大曲りでは酷ひどい目に逢い、這ほう々〳〵の体ていで逃げ返った処が、此こっ方ちはお暇いとま、孝助はぬくぬくと奉公しているというのだ、今でも口惜しくって堪たまりませんが、彼あい奴つはどうしました﹂
源﹁誰たれも外ほかに聞いている者はなかろうな﹂
相﹁へい誰たれがいるものですか﹂
源﹁此の國の兄の宅たくは杉原町の越後屋五郎三郎だから、暫しばらく彼あす処こに匿かくまわれていたところ、母というのは義理ある後妻だが、不思議な事でそれが孝助の実母であるとよ、此の間母が江戸見物に行った時孝助に廻めぐり逢い、悉くわしい様子を孝助から残らず母が聞取り、手引をして我を打たせんと宇都宮へ連れては来たが、義理堅い女だから、亡父五兵衞の位牌へ対してお國を討たしては済まないという所で、路銀まで貰い、斯こうやって立たせてはくれたものゝ、其そ処こは血肉を分けた親子の間、事によると後あとから追掛けさせ、やって来きまいものでもないが、何どうしてか手てめ前えらが加勢して孝助を殺してくれゝば、多分の礼は出来ないが、二十金やろうじゃないか﹂
龜﹁宜しゅうございやす、随分やッつけましょう﹂
相﹁龜藏安やす受うけ合あいするなよ、彼あい奴つと大曲で喧嘩した時、大おお溝どぶの中へ放り込まれ、水を喰くらってよう〳〵逃帰ったくらい、彼奴ア途方もなく剣術が旨いから、迂うっ濶かり打たゝき合うと叶かなやアしない﹂
龜﹁それは又工夫がある、鉄砲じゃア仕様があるめえ、十郎ヶ峰あたりへ待受け、源さまは清水流れの石橋の下へ隠れて居て、己おら達たちゃア林の間に身を隠している所へ、孝助がやって来くりゃア、橋を渡り切った所で、己が鉄砲を鼻ッ先へ突付けるのだ、孝助が驚いて後あとへさがれば、源さまが飛出して斬付けりゃア挟はさみ打ち﹇#﹁挟はさみ打ち﹂は底本では﹁狭はさみ打ち﹂﹈、わきアねえ、遁にげるも引くも出来アしねえ﹂
源﹁じゃアどうか工夫してくれろ、何分頼む﹂
と是から龜藏は何ど処こからか三挺ちょうの鉄砲を持ってまいり、皆々連立ち十郎ヶ峰に孝助の来るを待受けました。
二十一の下
さて相川孝助は宇都宮池上町の角屋へ泊り、其の晩九ツの鐘の鳴るのを待ち掛けました処、もう今にも九ツだろうと思うから、刀の下さげ緒おを取りまして襷たすきといたし、裏と表の目めく釘ぎを湿しめし、養父相川新五兵衞から譲り受けた藤四郎吉光の刀をさし、主人飯島平左衞門より形見に譲られた天正助定を差さし添ぞえといたしまして、橋を渡りて板塀の横へ忍んで這入りますと、三尺の開き戸が明いていますから、ハヽアこれは母が明けて置いてくれたのだなと忍んで行ゆきますと、母の云う通り四畳半の小座敷がありますから、雨戸の側わきへ立寄り、耳を寄せて内の様子を窺うかゞいますと、家内は一体に寝静まったと見え、奉公人の鼾いびきの声のみしんといたしまして、池上町と杉原町の境に橋がありまして、其の下を流れます水の音のみいたしております。孝助はもう家内が寝たかと耳を寄せて聞きますと、内では小声で念仏を唱えている声がいたしますから、ハテ誰だれか念仏を唱えているものがあるそうだなと思いながら、雨戸へ手を掛けて細目に明けると、母のおりゑが念ねん珠じゅを爪繰りまして念仏を唱えているから、孝助は不審に思い小声になり。
孝﹁お母っかさま、これはお母様のお寝間でございますか、ひょっと場所を取違えましたか﹂
母﹁はい、源次郎お國は私が手引をいたしまして疾とくに逃がしましたよ﹂
と云われて孝助は恟びっくりし、
孝﹁えゝ、お逃し遊ばしましたと﹂
母﹁はい十九年ぶりでお前に逢い、懐かしさのあまり、源次郎お國は私の家うちへ匿かくまってあるから手引きをして、私が討たせると云ったのは女の浅あさ慮はか、お前と道々来ながらも、お前に手引きをして両人を討たしては、私が再縁した樋口屋五兵衞どのに済まないと考えながら来ました、今こゝの家の主人五郎三郎は、十三の時お國が十一の時から世話になりましたから実の子も同じ事、お前は離縁をして黒川の家いえへ置いて来た縁のない孝助だから、両ふた人りを手引をして逃がしました、それは全く私がしたに違いないから、お前は敵かたきの縁に繋つながる私を殺し、お國源次郎の後あとを追掛けて勝手に敵をお討ちなさい﹂
と云われ孝助は呆れて、
孝﹁えゝお母様、それは何ゆえ縁が切れたと仰しゃいます、成程親は乱酒でございますから、あなたも愛あい想そが尽きて、私の四ツの時に置いてお出でになった位ですから、よく〳〵の事で、お怨み申しませんが、私わたくしは縁は切れても血ちす統じは切れない実のお母さま、私は物心が付きましてお母様はお達者か、御無事でおいでかと案じてばかりおりました所、此こん度ど図はからずお目にかゝりましたのは日頃神かみ信しん心じんをしたお蔭だ、殊ことにあなたがお手引をなすって、お國源次郎を討たせて下さると仰しゃッたから、此の上もない有難いことと喜んでおりました、それを今晩になってお前には縁がない、越後屋に縁がある、あかの他人に手引をする縁がないと仰しゃるはお情ない、左様なお心なら、江戸表にいる内に何な故ぜこれ〳〵と明かしては下さいません、私も敵の行方を知らなければ知らないなりに、又外ほか々〳〵を捜し、仮たと令え草を分けてもお國源次郎を討たずには置きません、それをお逃がし遊ばしては、仮令今から跡を追かけて行いきましても、両ふた人りは姿を変えて逃げますから、私には討てませんから、主人の家を立てる事は出来ません、縁は切れても血ちす統じは切れません、縁が切れても血統が切れても宜しゅうございますが、余りの事でございます﹂
と怨みつ泣きつ口説き立て、思わず母の膝の上に手をついて揺ゆすぶりました。母は中々落おち着つきものですから、
母﹁成程お前は屋敷奉公をしただけに理窟をいう、縁が切れても血ちす統じは切れない、それを私が手引きをして敵を討たなければ、お前は主人飯島様の家を立てる事が出来ないから、其の言いい訳わけは斯こうしてする﹂
と膝の下にある懐剣を抜くより早く、咽の喉どへガバリッと突き立てましたから、孝助は恟びっくりし、慌あわてゝ縋すがり付き、
孝﹁お母っか様さま何なに故ゆえ御自害なさいました、お母様ア〳〵〳〵﹂
と力に任せて叫びます。気丈な母ですから、懐剣を抜いて溢あふれ落おちる血を拭ぬぐって、ホッ〳〵とつく息も絶え〴〵になり、面めん色しょく土気色に変じ、息を絶つばかり、
母﹁孝助々々、縁は切れても、ホッ〳〵血ちす統じは切れんという道理に迫り、素もとより私は両ふた人りを逃がせば死ぬ覚悟、ホッ〳〵江戸で白翁堂に相みて貰った時、お前は死相が出たから死ぬと云われたが、実に人相の名人という先生の云われた事が今思い当りました、ホッ〳〵再縁した家の娘がお前の主人を殺すと云うは実に何なんたる悪縁か、さア死んで行ゆく身、今息を留めれば此の世にない身体、ホッ〳〵幽霊が云うと思えば五郎三郎に義理はありますまい、お國源次郎の逃げて行った道だけを教えてやるからよく聞けよ﹂
と云いながら孝助の手を取って膝に引寄せる。孝助は思わずも大声を出して
﹁情ない﹂
と云う声が聞えたから、五郎三郎は何事かと来て障子を明けて見れば此の始末、五郎三郎は素もとより正直者だから母の側に縋り付き、
五﹁お母っか様さま〳〵、それだから私が申さない事ではありません、孝助様後あとで御挨拶を致します、私はお國の兄で、十三の時から御恩になり、暖のれ簾んを分けて戴いたもお母様のお蔭、悪人のお國に義理を立て、何な故ぜ御自害をなさいました﹂
と云う声が耳に通じたか、母は五郎三郎の顔をじっと見詰め、苦しい息をつきながら、
母﹁五郎三郎、お前はちいさい時から正しょ当うとうな人で、お前には似合わない彼あのお國なれども、義理に対しお位牌に対し、私が逃がしました、又孝助へ義理の立たんというは、血ちす統じのものが恩義を受けた主人の家が立たないという義理を思い、自害をいたしたので、何どうかお國源次郎の逃げ道を教えてやりたいが、ハッ〳〵必ずお前怨んでお呉れでないよ﹂
五﹁いゝえ、怨む所ではありません、あなたおせつないから私が申しましょう、孝助様お聞き下さい、宇都の宮の宿しゅ外くはずれに慈光寺という寺がありますから、其の寺を抜けて右へ往ゆくと八幡山、それから十郎ヶ峯から鹿沼へ出ますから、貴あな方たお早くおいでなさい、ナアニ女の足ですから沢山は行ゆきますまいから、早くお國と源次郎の首を二つ取って、お母っか様さまのお目の見える内に御覧にお入れなさい、早く〳〵﹂
と云うから孝助は泣きながら、
孝﹁はい〳〵お母様、五郎三郎さんがお國と源次郎の逃げた道を教えて呉れましたから、遠く逃げんうちに跡追っかけ、両ふた人りの首を討ってお目にかけます﹂
という声漸ようやく耳に通じ、
母﹁ホッ〳〵勇ましい其の言葉何どうか早く敵を討って御主人様のお家いえをたてゝ、立派な人に成って呉れホッ〳〵、五郎三郎殿此の孝助は外ほかに兄弟もない身の上、また五郎三郎殿も一粒種だから、これで敵は敵として、これからは何うか実の兄弟と思い、互に力になり合って私の菩提を頼みますヨウ〳〵﹂
と云いながら、孝助と五郎三郎の手を取って引き寄せますから、両ふた人りは泣く〳〵介抱するうちに次第々々に声も細り、苦しき声で、
母﹁ホッ〳〵早く行ゆかんか〳〵﹂
と云って血のある懐剣を引き抜いて、
﹁さア源次郎お國は此の懐剣で止とゞめを刺せ﹂
と云いたいがもう云えない。孝助は懐剣を受取り、血を拭い、敵を討って立帰り、お母様に御覧に入れたいが、此の分では之これがお顔の見納めだろうと、心の中うちで念仏を唱え、
孝﹁五郎三郎さん、どうか何分願います﹂
と出掛けては見たが、今母上が最後の際きわだから行ゆき切れないで、又帰って来ますと、気丈な母ですから血だらけで這出しながら、虫の息で、
母﹁早く行ゆかんか〳〵﹂
と云うから、孝助は
﹁へい往ゆきます﹂
と後あとに心は残りますが、敵を逃がしては一大事と思い、跡を追って行ゆきました。先刻からこれを立聞きして居た龜藏は、ソリャこそと思い、孝助より先さきへ駆けぬけて、トッ〳〵と駆けて行ゆきまして、
龜﹁源さま、私わっちが今立聞をしていたら、孝助の母おふ親くろが咽の喉どを突いて、お前なれ﹇#﹁お前なれ﹂はママ﹈さん方の逃げた道を孝助に教おせえたから、こゝへ追おっ掛かけて来るに違ちげえねえから、お前めえさんは此の石橋の下へ抜ぬき身みの姿なりで隠れていて、孝助が石橋を一つ渡った所で、私共が孝助に鉄砲を向けますから、そうすると後あとへ下さがる所を後から突だし然ぬけに斬っておしまいなさい﹂
源﹁ウム宜しい、ぬかっちゃアいけないよ﹂
と源次郎は石橋の下へ忍び、抜身を持って待ち構え、他ほかの者は十郎ヶ峰の向むこうの雑ぞう木きや山まへ登って、鉄砲を持って待っている所へ、かくとは知らず孝助は、息をもつかず追おっ掛かけて来て、石橋まで来て渡りかけると、
龜﹁待て孝助﹂
と云うから、孝助が見ると鉄砲を持っている様ようだから、
孝﹁火縄を持って何者だ﹂
と向うを見ますと喧嘩の龜藏が、
龜﹁やい孝助己を忘れたか、牛込にいた龜藏だ、よく己を酷ひどい目にあわせたな、手てめ前えが源様の跡を追っかけて来たら殺そうと思って待っているのだ﹂
相﹁いえー孝助手てめ前えのお蔭で屋敷を追出されて盗どろ賊ぼうをするように成った、今此こ処ゝで鉄砲で打ち殺すんだからそう思え﹂
と云えばお國も鉄砲を向けて、
國﹁孝助、サア迚とても逃げられねえから打たれて死んでしまやアがれ﹂
孝助は後あとへ下さがって刀を引き抜きながら声張り上げて。
孝﹁卑ひき怯ょうだ、源次郎、下げに人んや女をこゝへ出して雑木山に隠れているか、手てめ前えも立派な侍じゃアないか、卑怯だ﹂
という声が真夜中だからビーンと響きます。源次郎は孝助の後うしろから逃げたら討とうと思っていますから、孝助は進めば鉄砲で討たれる、退しりぞけば源次郎がいて進退此こゝに谷きわまりて、一生懸命に成ったから、額と総そう身しんから油汗が出ます。此の時孝助が図らず胸に浮んだのは、予かねて良石和尚も云われたが、退ひくに利あらず進むに利あり、仮たと令え火の中水の中でも突つッ切きって往ゆかなければ本ほん望もうを遂げる事は出来ない、憶おくして後あとへ下さがる時は討たれると云うのは此の時なり、仮令一発二発の鉄砲丸だまに当っても何程の事あるべき、踏込んで敵かたきを討たずに置くべきやと、ふいに切込み、卑怯だと云いながら喧嘩龜藏の腕を切り落しました。龜藏は孝助が鉄砲に恐れて後あとへ下さがるように、わざと鼻の先へ出していた所へ、ふいに切込まれたのだから、アッと云って後あとへ下さがったが間に合わない、手を切って落すと鉄砲もドッサリと切落して仕舞いました。昔から随分腕の利きいた者は瓶かめを切り、妙みょ珍うち鍛んきたえの兜かぶとを割きった例ためしもありますが、孝助はそれほど腕が利いておりませんが、鉄砲を切り落せる訳で、あの辺は芋畑が沢山あるから、其の芋ずい茎きへ火縄を巻き付けて、それを持って追おい剥はぎがよく旅りょ人じんを威おどして金を取るという事を、予かねて龜藏が聞いて知ってるから、そいつを持って孝助を威かした。芋茎だから誰にでも切れます。是これなら圓朝にでも切れます。龜藏が
﹁アッ﹂
と云って倒れたから、相助は驚いて逃出す所を、後ろから切きり掛かけるのを見て、お國は
﹁アレ人殺し﹂
と云いながら鉄砲を放り出して雑木山へ逃げ込んだが、木の中だから帯が木の枝に纒からまってよろける所を一ひと刀たちあびせると、
﹁アッ﹂
と云って倒れる。源次郎は此の有様を見て、おのれお國を斬った憎い奴と孝助を斬ろうとしたが、雑木山で木が邪魔に成って斬れない所を、孝助は後うしろから来る奴があると思って、いきなり振返りながら源次郎の肋あばらへ掛けて斬りましたが、殺しませんでお國と源次郎の髻もとどりを取って栗の根株に突き付けまして、
孝﹁やい悪人わりゃア恩義を忘却して、昨年七月廿一日に主人飯島平左衞門の留守を窺うかゞい、奥庭へ忍び込んでお國と密通している所へ、此の孝助が参って手前と争った所が、手前は主人の手紙を出し、それを証拠だと云って、よくも孝助を弓の折おれで打ぶったな、それのみならず主人を殺し、両ふた人り乗込んで飯島の家を自じま儘ゝにしようと云う人にん非ぴに人ん、今こそ思い知ったか﹂
と云いながら栗の根株へ両ふた人りの顔を擦すり付つけますから、両人とも泣きながら、
﹁免ゆるせえ、堪忍しておくんなさいよう﹂
というのを耳にも掛けず、
孝﹁これお國、手前はお母っか様さまが義理をもって逃がして下すったのは、樋口屋の位牌へ対して済まんと道まで教えて下すったなれども、自害をなすったも手前故だ、唯たった一人の母親をよくも殺しおったな、主人の敵親の敵、なぶり殺しにするから左様心得ろ﹂
と、これから差さし添ぞえを抜きまして、
孝﹁手前のような悪人に旦那様が欺だまされておいでなすったかと思うと﹂
といいながら顔を縦たて横よこズタ〳〵に切りまして、又源次郎に向い、
孝﹁やい源次郎、此の口で悪あっ口こうを云ったか﹂
とこれも同じくズタ〳〵に切りまして、又母の懐剣で止とゞめをさして、両ふた人りの首を切り髻たぶさを持ったが、首という物は重いもので、孝助は敵を討って、もうこれでよいと思うと心に緩ゆるみが出て尻もちをついて、
孝﹁あゝ有難い、日頃信心する八幡まん築つく土どみ明ょう神じんのお蔭をもちまして、首尾よく敵を討ちおおせました﹂
と拝みをして、どれ行ゆこうと立上ると、
﹁人ひと殺ごろし々々﹂
という声がするからふり向くと、龜藏と相助の二人が眼が眩くらんでるから、知らずに孝助の方へ逃げて来るから、此こい奴つも敵の片われと二人とも切殺して二つの首を下げて、ひょろ〳〵と宇都宮へ帰って来ますと、往ゆき来ゝの者は驚きました。生首を二つ持もって通るのだから驚きます。中には殿様へ訴える者もありました。孝助はすぐに五郎三郎の所へ行って敵を討った次第をのべ、殊ことに
﹁母がまだ目が見えますか﹂
と云われ、五郎三郎は妹いもとの首を見て胸塞ふさがり、物も云えない。母おっ上かさ様まは先程息がきれましたというから、この儘まゝでは置けないというので、御領主様へ届けると、敵かた討きうちの事だからというので、孝助は人を付けて江戸表へ送り届ける。孝助は相川の所へ帰り、首尾よく敵を討った始末を述べ、それよりお頭かしら小林へ届ける。小林から其の筋へ申立て、孝助が主人の敵を討った廉かどを以もって飯島平左衞門の遺言に任せ、孝助の一子し孝太郎を以て飯島の家を立てまして、孝助は後見となり、芽出度く本ほん領りょ安うあ堵んどいたしますと、其の翌日伴藏がお仕置になり、其の捨すて札ふだをよんで見ますと、不思議な事で、飯島のお嬢さまと萩原新三郎と私くッ通ついた所から、伴藏の悪事を働いたということが解りましたから、孝助は主人の為ため娘の為め、萩原新三郎の為めに、濡ぬれ仏ぼとけを建こん立りついたしたという。これ新幡随院濡れ仏の縁えん起ぎで、此の物語も少しは勧かん善ぜん懲ちょ悪うあくの道を助くる事もやと、かく長々とお聴きゝにいれました。
︵拠若林藏筆記︶