一
エヽ講談の方の読物は、多く記録、其の他た古書等とう、多少拠よりどころのあるものでござりますが、浄瑠璃や落語人情噺に至っては、作さく物ぶつが多いようでござります。段々種を探って見ると詰らぬもので、彼かの浄瑠璃で名高いお染久松のごときも、実説では久松が十五、お染が三みッ歳つであったというから、何どうしても浮気の出来よう道理がござりませぬ。久松が十五の時、主人の娘お染を桂川の辺ほとりで遊ばせて居る中うちに、つい過あやまってお染を川の中へ落したから御主人へ申訳がない、何うかして助けにゃならぬと思ったものか、久松も続いて飛込むと、游およ泳ぎを知らなかったからついそれ切りとなった。これを種にしてお染久松という質しち店みせの浄瑠璃が出来ましたものでござります。又大阪の今宮という処に心中があった時に、或ある狂言作者が巧たくみにこれを綴つゞり、標題を何なんとしたら宜よかろうかと色々に考えたが、何うしても工夫が附きませぬ、そこで三みよ好しし松ょう洛らくの許もとへ行って、 ﹁なんとこれ迄に拵こしらえたが、外げだ題いを何とつけたらよかろう﹂ ﹁いやお前のように、そんなに凝こっちゃアいけませぬ、寧いっそ手軽く﹃心中話たった今宮﹄と仕たらようござりましょう﹂ ﹁成程﹂ と直すぐに右の通とおりの外題にして演やると大層に当ったという話がある。その真似をして林はや家しや正しょ藏うぞうという怪談師が、今いま戸どに心中のあった時に﹃たった今戸心中噺﹄と標題を置き拵えた怪はな談しが大たいして評が好よかったという事でござります。この闇夜の梅と題するお話は、戯作物などとは事違い、全く私わたくしが聞きました事実談でござります。 えゝ、浅草に三みす筋じま町ちと申す所がある。是も縁で、三筋町があるから、其の側に三味線堀というのがあるなどは誠におかしい、それゆえ生いこ駒まというお邸やしきがあるんだなんぞは、後あとから拵えたものらしい。下した谷やがあるから上野があって、側に仲なか町ちょうがありまして上じょ中うち下ゅうげと揃そろって居おる。縁というものは何う考えても不思議なもので、腕うで尽ずくにも金かね尽ずくにも及ばぬものだというが、これは左様かも知れませぬ、まア呉服屋などで、不ふ図と地じば機たの好よい、お値段も恰かっ好こうな反たん物ものを見附けたから買おうと思って懐ふと中ころへ手を入れて見ると、金か子ねが少々足りないから、一旦立ち帰り、金きん子すの用意をして再び来ると、誠にお気の毒様でござりますが、貴あな方たがお帰りになると、直に入らしったお方が見せて呉れと仰おっしゃいまして、到とう頭とう其の方の方へ縁えん附づきになりました。いやそれは残念な事をした、もうあゝいうのはありませぬか。へい、あれは二百反の中うち二反だけ別べつ機ばたであったのですから、もう外ほかにはござりませぬ。それでは仕方がない、縁がなかったのだろう。と諦めてしまうと、時経たってから不意と田舎などから、自分が買いたいと思った品とそっくりな反物を貰う事などがある。又お馴なじ染みの芸者でも、生あい憎にく買おうと思った晩外にお約束でもあれば逢う事は出来ませぬ。又金か子ねを沢山懐ふと中ころに入れて芝居を観ようと思って行っても、爪も立たないほどの大おお入いりで、這は入いり所どころがなければ観る事は出来ませぬ。だから縁の無い事は金尽にも力尽にもいかぬもので、ましてや夫婦の縁などと来ては尚なお更さら重い事で、人間の了簡で自由に出来るものではござりませぬ。 えゝ浅草の三筋町――俗に桟さん町まちという所に、御ごい維っし新ん前まで甲州屋と申す紙かみ店やがござりました。主ある人じは先年みまかりまして、お杉という後家が家あ督とを踏まえて居おる。お嬢さんは今年十七になって、名をお梅と云って、近所では評判の別べっ嬪ぴんでござります。番頭、手代、小僧、下女、下男等数あま多た召使い、何暗からず立派に暮して居りました。すると子こが飼いから居おる粂くめ之のす助けというもの、今では立派な手代となり、誠に優しい性うま質れつきで、其の上美びな男んでござります。嬢さんも最早妙とし齢ごろゆえ、良いい聟むこがあったらば取りたいものと、お母っかさんは大事がって少しも側を離さないようにして置きましたが、どうも仕方がないもので、ある晩のことお母さんが不図目を覚まして見ると娘が居ない。 ﹁はてな、何ど処こへ行ったか知らん、手ちょ水うずに行ったならもう帰りそうなものだが﹂ と思ったが何い時つまで経っても戻って来ない。 母﹁はてな嬢ももう年頃、外に何も苦労になる事はないが、店の手代の粂之助は子飼からの馴染ゆえ大層仲が好いいようだが、事によったら深い贔ひい屓きにでもしていはせぬか知ら﹂ とお母さんが始めて気が付いたけれども、気の付きようが遅かったから、もう間に合いませぬ。これが馬鹿のお母さんなら直すぐに起き上って紙しし燭ょくでも点ともし、から〳〵方々を開け散かして、﹁此の娘こは何うしたんだよ﹂なんて呶鳴って騒ぐんだが、沈おち着ついた方だから其そ様んな蓮はす葉はな真似はしない、いきなり長なが羅ら宇うの煙きせ管るで灰はい吹ふきをポン〳〵と叩いた。深夜のことゆえピーンと響いたから、お嬢さんは恟びっくりいたし、そっと抜ぬき足あしをして便所へ参り、ギーイ、バタンと便所から出たような音ばかりさせて、ポチャ〳〵〳〵と水をかけて手を洗い、何喰わぬ顔をして其の晩は寝てしまった。翌よく朝あさになると、お母さんが直に鳶かし頭らを呼びにやって、右の話をいたし、一いち時じ粂之助の暇ひまを取って貰いたいと云う。鳶頭も承知をして立帰った後で、 主婦﹁粂や、粂﹂ 粂﹁へい﹂ 主婦﹁あのお前のう、ちょいと鳥とり越こえの鳶頭の処まで行ってくんな、用は行ゆきさえすれば解る………私がそういったから来ましたといえば解るんだよ﹂ 粂﹁へい畏かしこまりました﹂ 何だか理わ由けは解らぬが、粂之助は直に抱かゝえの鳶頭の処へやって来まして、 粂﹁へい今こん日ちは﹂ 鳶﹁いや、お上あがんなさい、宜いいからまアお上んなさい、ずうっと二階へ、梯はし子ごが危のうがすよ、おいお民たみ、粂どんに上げるんだから好いい茶を入れなよ、なに、何か茶うけがあるだろう、羊よう羹かんがあった筈だ、あれを切んなよ、チョッ不精な奴だな、折おりの葢ふたの上で切れるもんか、爼まな板いたを持って来なくっちゃアいかねえ、厚く切んなよ、薄っぺらに切ると旨くねえから、己おれが持って来いてったら直に持って来な、宜いいか、話の真まっ最さい中ちゅうはんまな時分に持って来ちゃアいけねえぜ﹂ トン〳〵〳〵と梯子を上あがって、 鳶﹁へ、今こん日ちは﹂ 粂﹁何なんだかね鳶頭、お内か儀みさんが、鳶頭の処へ行ゆきさえすれば解るから、行って来いと仰しゃいましたから参りました﹂ 鳶﹁それは何どうもお忙がしい処をお呼び立て申して済みませんね、粂どん実は斯こういう話だ、今朝ねお内儀さんから私へお人だ、何だろうと思って直すぐに出掛けてってお目にかゝると、奥の六畳へ通して長々と昔噺が始まったんだ、鳶頭お前がまだ年の行ゆかねえ時分から当う家ちへ出でい入りをするねと仰しゃるから、左様でござえます、長なげえ間色々お世話になりますんで、なに其そ様んな事は何うでも宜いいが、旦那が死んで今年で四年になるし、私も段々年を取るし、お梅ももう十七になる、来年は歳廻りが良いいから何ど様んな者でも聟を取ったらよかろうと話をすると、いつでも娘が厭いやがる、他ひと人さ様まから、斯ういう良よい聟がありますと申込んでも厭がるもんだから、他ひ人とが色々な事を云って困る、妙とし齢ごろの娘が聟を取るのを厭がるには、何か理わ由けがあるんだろう、なにそれは店の手代に粂之助という好いい男があるから事に依よったらあの好い男と仔わ細けでもありはしないか、と云いもしまいが、ひょっとして其様なことを云われた日には、世間の口にゃア戸が閉たてられねえ、ねえ鳶頭、と斯うお内儀さんがいうのだ、してみると何かお前さんとお嬢さまとあやしい情な交かにでもなっているように私わしの耳には聞えるんだ、宜ようがすかい、それから、誠に何うもそれは御心配なことでというと、お内儀さんの仰しゃるには、粂之助も小さい時分から長く勤めて居たから、能よく気心も知れて居るが、何分今直すぐに何どう斯こうという訳にも往ゆかず、捨すてて置いて失しく策じりでも出来るといけねえから、一と先まず谷やな中かの兄あにさんの方へ連れて行って、時節を待ったら宜かろう、其の中うちにはまた出入をさせる事もあるじゃアねえか、と斯う仰しゃるのだ、うむ、それから、なんだ斯ういう事も云った、何分宅うちの奉公人や何かの口がうるせえから、一いち時じそういう事にするんだが、仮たと令え他ひ人とが何なんといおうと、私の為にはたった一人の娘だから、同じ取るなら娘の気に入った聟を取って、初うい孫まごの顔を見たいと云うのが親の情じょ合うあいじゃアねえか、娘が強たって彼あれでなければならないといえば、私には気に入らんでも、娘の好いた聟を取って其の若夫婦に私は死しに水みずを取って貰う気だが、鳶頭何うだろう、と仰しゃるのだ、お内儀さんの思おぼ召しめしでは、一時お前めえさんに暇を出して、世間でぐず〳〵いわねえようにしちまって、それから良い里を拵えて、ずうっと表向きお前まえさんを聟にして、死水を取って貰おうてえお心持があるんだから、粂どん早まっちゃアいけねえよ、宜うがすか、お内儀さんには、色々深ふけえ思召があるんだから、私わっしも大旦那のお若わけえ時分、まだ糸いと鬢びん奴やっこの時分から、甲州屋のお店へ出入りをしてえて、お前めえさんとも古い馴染だが、今度来やアがった番頭ね、彼あい奴つが悪い奴なんだ、いろ〳〵胡麻を摺すりやアがって仕様がねえからお内儀さんも心配をしていらっしゃるんだが、ねえ粂どん﹂ 粂﹁ヘエ、承知いたしました﹂ 鳶﹁でね、何なんにもいわず、少し兄の方に用事が出来ましたからお暇いとまを願います、長々御ごや厄っけ介えになりました、と斯こういって廉かどをいわずにお暇ひまを取っちまう方が好いい、いろ〳〵くど〳〵しく詫わびなんぞを仕ちゃア可いけねえよ﹂ 粂﹁ヘエ、畏かしこまりました、何うも誠に面目次第もござりませぬ﹂ とおろ〳〵泣きながら、粂之助が帰りまして、 粂﹁ヘエ、只今﹂ 内儀﹁あい粂か、此こっ方ちへお這入り、好いよ遠慮をしないでも………先さっ刻き、鳶頭が来たから四よも方や山まの話をして置いたが、何うだい能よくお前の胸に落ち入ったかい、何も是これという越おち度どの無いお前に暇を出すといったら、如い何かにも酷ひどい主人のようにお思いかも知らないが、これはお前の為だよ、お前も小さい時分にいたから、何だか私も子のような心持がして誠に可かわ愛ゆく思うが、何分世間の口が面倒だから暇を出すのだけれども、又縁があれば一旦主しゅ従うじゅうとなったのだもの、出入の出来ないことは無いから、まあ〳〵気を長く、兄あにさんの処におとなしくしているが好い、軽はずみな心を出して、こんな淋しいお寺なんぞにいられるものかって、ふいと何ど処こかへ姿を隠すような事でもあられると、どんなに案じられるか知れないから、ようく心を落着けて時節を待ってゝ呉れなくちゃア私が困るよ﹂ 粂﹁ヘエ、有難うございます、誠に何うも面目次第もございませぬ﹂ 内儀﹁さ、早く行くが好い、何時までも此こ処ゝにいると面倒だから、谷中のお寺へ行ったら能く兄さんのいう事を聴いて、身体を大事にして時節の来るのを待っていなよ﹂ 粂﹁ヘエ有難う存じます﹂ と袂たもとから手てぬ拭ぐいを取出し、涙を拭いながら店へ出て来ると、番頭は粂之助が暇いとまになって好い気味だと喜んで居る。 粂﹁えゝ、番頭さん、私は唯今お暇いとまになりまして谷中の兄の方へ参りますから、何分お店の事をよろしく願います﹂ 番頭﹁左様じゃげな、根ねっから些ちっとも知らんかったが、何う云う理わ由けで粂之助がお暇になりますかと云うて、私わしも色々言葉を尽してお詫をしたが、なか〳〵お聴き容いれがない、お前方が知った事こっちゃない、此こな様いに云われるで何うにも仕ようがないじゃて、併しかし何うも気の毒な事こっちゃな、根ねっから、全体商あき人んどはお前の性分に合わぬのじゃから、却かえって谷中のお寺へ行ゆきなはった方が心が沈おち着ついて宜いいやろう﹂ 粂﹁ヘエ有難う、何うも長々お世話さまでございました、お店の方も段々忙しくなりますから、人が殖ふえなければならぬ処を少なくなるんですから、何分宜よろしくお頼み申します、あの定さだ吉きちどんは何ど処っかへ行ゆきましたか﹂ 番頭﹁いや今其そ処こに居ったッけ、定吉イ定吉﹂ 定﹁おや粂どん、今お前さんを探しに表へ出ましたが、貴あな方たはお暇ひまになりましたてえから、何ういう理わ由けだろうと聞いても解らないんですが、本当に何うもお気の毒さまで﹂ 粂﹁お前と私とは別段仲が好よかったから、お前に別れるのは誠に辛いけれども、拠よんどころない事があってお暇になったのだが、私が居なくなると番頭さんに無理な小言をいわれても、誰も詫びてくれるものがないから、お前も能く気を附けて叱られないように御奉公を大事にするんだよ﹂ 定﹁ヘエ有難う、お前さんが下さがるくらいなら私も下った方がようございます、幾ら私がいる気でも、外ほかの者は、みんな意地が悪くって居られませぬもの、其そん中でも、新しん次じろ郎うどんなどは、しんねりむっつりの嫌な人で、私が寝てえると焼芋の皮なんぞを態わざと置いて、そうしてお内儀さんが朝暖のれ簾んの処とこから顔を出して、さ、皆みんな起きなよと仰しゃる時に新どんの意地悪が、あの昨晩定吉が寝ながら焼芋を食べましたなんて嘘ばかり吐ついて人を叱らせるんですもの、そうすると番頭さんが私の尻を捲まくって、定規板でピシャ〳〵撲なぐるんですもの、痛くて堪たまりゃアしませんや、此こな間いだも宿やど下おりの時お母っかさんにそういったんです、お内儀さんもお嬢さんも粂どんも皆みんな善いい方だけれども、ほかの者は残らず意地が悪くって辛抱が出来ないてえと、そんな事をいうものじゃアない、それが身の修しゅ行うぎょうだから、我慢をしなくっちゃアいけないと云われますから、粂どんがおいでなさる間は辛抱が出来る、粂どんは大層私を可愛がっておくんなすって、何かおいしい物があると、お蔵の棚へ内ない証しょうで取っといておくんなすって、ちょいと出し物があるから蔵まで一緒に行っておくれって連れてって、さ、お食べってカステラ巻だの何なんだのを食べさせて下すったり、お小遣をおくんなすったりして、本当に優しくして下さるよと然そういったら、母おふ親くろが涙ぐんで、あゝ有難いことだ、そういうお方が在いらっしゃるのはお前が奉公の出来る瑞ずい相そうだから、何でもその方をしくじらないように為しなくっちゃア可いけない、その方の御機嫌を損ねるとお店にはいられないから、どんな無理なことを仰しゃってもいう事を聴くんだよといいました﹂ 粂﹁早く彼あっ方ちへお出で、何時までも此こ処ゝにいると又叱られるから﹂ 定﹁ヘエ、今行きます﹂ 粂﹁清せい助すけどんは何うしたえ﹂ 定﹁今物置に薪まきを積直して居ましたっけ﹂ 粂﹁ちょいと清助どんにも暇いと乞まごいをして行こう﹂ 定﹁じゃア私も一緒に行きましょう﹂ 粂﹁清助どん、何うも長々お世話になりました﹂ 清﹁おゝ粂どんか、今ね己おれが聞いたんだ、おさきどんがの話に、今日急に粂どんがお暇いとまになったてえから、己ハアほんとうに魂たま消げただ、何でもこれは番頭野郎の策略に違ちげえねえ、彼あい奴つは厭に意地が悪くって、何かお前めえ様さまを追出させるように巧たくんだに違え無ねえだ、本当にあのくれえ憎らしい野郎も無えもんだ、ちょいと何一つくれるんでもお前めえさんと番頭とではこう違うだ、こんな物は己おらア嫌きれえだ、お前めえも嫌えかも知れねえが喰うなら喰ってくんろ、勿体ねえからってお前めえさんは旨うめえ物をくれるだが、番頭野郎は自分がそれ程に好かねえもんでも惜しがってくれやアがるだ、此こね間えだも他よ処そから法事の饅頭が来た時、お店へも出ると彼奴は酒呑だから甘あめえ物は嫌えだろう、それだのにさ、清助汝われがに饅頭をくれてやる、田舎者だから此こ様んな結構な物は食ったことは有るめえ、汝がのような奴に惜しいもんだけんど、汝がに食わすと、斯こう吐ぬかしやがるだ、己も余あんまり腹が立ったから、何うかして意いし趣ゅげ返えしをしてやろうと思って、此こね間えだ鹿ひ角じ菜きと油あぶ揚らげのお菜さいの時に、お椀の中へそっと草わら鞋じむ虫しを入れて食わせてやっただ、そんな事は何うでも好いいが、お前めえさんがお暇いとまになるなら何なんにも楽たのしみが無ねえから己おらも下さがろうか知ら、下らば直すぐに故く郷にへ帰けえるだよ、己おれは信州飯いい山やまの在ぜえでごぜえますから、めったに来る事もあるめえが、善光寺へ参詣にでも来ることが有ったら是非寄って下せえまし、田舎の事こッたから、何も外に御馳走の仕ようが無ねえから、鹿でも打ぶって御馳走しべいから、何だか馴染の人に別れるのは辛つれえもんだね、何どうかまア成るたけ煩らわねえように気い付けて、好よいかね﹂ 粂﹁有難う﹂ 娘のお梅に逢いたいは山々だが、お内儀さんのお言葉添えもあるから、その儘暇いとまを取って、これから谷中の長安寺へ参り、いまに好いい便りがあるだろうと待って居りました。此こち方らはお梅、あれきり何の便りもないが、もしや粂之助の了簡が変りはしないかと、娘心にいろ〳〵と思い計り、耐こらえ兼ねたものか、ある夜よ二にぶ歩き金んで五十両ほどを窃ぬすみ出して懐中いたし、お高こそ祖ず頭き巾んを被かむり、庭下駄を履いたなりで家を抜け出し、上野の三さん橋はしの側まで来ると、夜よあ明かしの茶飯屋が出ていたから、お梅はそれへ来て、 梅﹁御免なさいまし﹂ 爺﹁ヘエおいでなさいまし、此こち方らへお掛けなさいまして﹂ 梅﹁はい、あの谷中の方へは何う参ったら宜よろしゅうございましょう﹂ 爺﹁えゝ谷中は何どち方らまでお出でなさるんですい﹂ 梅﹁あの長安寺と申す寺でございますがね﹂ 爺﹁えゝ*仰こう願がん寺じをくれろと仰しゃるんですか、えへゝ仰願寺なら蝋ろう燭そく屋やへお出いでなさらないじゃアございませぬよ﹂ *﹁小さき一種のろうそく江戸山谷の仰願寺にて用いはじめしより云う﹂ 梅﹁いえあのお寺でございますがね﹂ 爺﹁何なんですいお螻けらの虫ですと﹂ 梅﹁いゝえ長安寺というお寺へ参るのでございますが﹂ すると小暗い所にいた一人の男が口を出して、 男﹁えゝ、もし〳〵お嬢さん、その長安寺というのは私わっちが能く知ってますよ﹂ と云いながらずっと出た男の姿なりを見ると、紋もん羽ぱの綿頭巾を被かむり、裾すそ短みじかな筒つゝ袖そでを着ちゃくし、白しろ木きの二ふた重えま廻わりの三さん尺じゃくを締め、盲めく縞らじまの股引腹掛と云う風ふう体てい。 男﹁まア御免なさい、私わっちアこんな形な姿りをしてえますが、その長安寺の門番でげす﹂ 梅﹁おや〳〵、それじゃア貴あな方たにお聞きをしたら分りましょうが、あの粂之助はやっぱり和尚様のお側に居りますか﹂ 男﹁えゝ、粂之助さんは、おいででござえます、あなたは何なんぞ御用でもあるんでげすか﹂ 梅﹁はい、あの、粂之助は私わたくしどもに長らく勤めて居ったものですが、少し理わ由けがありまして先せん達だって暇いとまを出しましたが、それきり何の沙汰もございませんで、余あんまり案じられますから出て参りましたのでございます﹂ 男﹁ヘエー左様でございますか、じゃアまア私わっしと一緒においでなさい、どうせ彼あっ方ちへ帰るんですからお連れ申しましょう、其の代りお嬢様に少しお願ねげえがあるんでげす、毎度私は和尚様から殺生をしてはならねえぞとやかましく云われるんでげすが、嗜すきな道は止やめられず、毎晩斯こうやって、*どんどんへ来ては鰻の穴あな釣づりをやってるんでげすが、どうぞお嬢さま私が此こ処ゝで釣をした事は和尚様に黙ってゝおくんなさい﹂ *﹁三橋の側にあった不忍池の水の落口﹂ 梅﹁御不都合の事なら決して申しは致しませぬ﹂ 男﹁おい老じ爺いさん﹂ 爺﹁へい﹂ 男﹁あのね、此のお嬢様は己の方へ来るお方だから、己が御案内をして行ゆくんだ、さ、喰った代でえを此こ処ゝへ置くぜ﹂ 爺﹁あなた、これは一分銀で、お釣はござりませぬが﹂ 男﹁なに釣は要らねえ、お前めえにやっちまわア﹂ 爺﹁それは何うも有難う存じます、左様なら夜よが更けて居りますから、お気を附けあそばして﹂ 男﹁なに大でえ丈じょ夫うぶだ、己が附いてるから﹂ と怪しの男がお梅を連れて、不しの忍ばず弁べん天てんの池の辺ほとりまでかゝって参りました。二
えゝ引ひき続つゞきのお梅粂之助のお話。何ういう理わ由けか女おん子なの名を先に云って男おと子この名を後あとで呼ぶ。お花半七とか、お染久松とか、夕霧伊左衞門とかいうような訳で、実に可お笑かしいものでござります。さて日本も嘉かえ永いの五年あたりは、まだ世の中が開ひらけませぬから、神かみ信しん心じんに凝こるとか、易うら占ないに見て貰うとかいうような人が多かったものでござります。丁度嘉永の六年に亜あめ米り利か加ぶ船ねが日本へ渡来をいたしてから、諸藩共に鎖国攘夷などという事を称え出し、そろ〳〵ごたつきはじめましたが、町ちょ家うかでは些ちっとも気が附かずに居ったことでござります。 彼かの浅草三筋町の甲州屋の娘お梅が、粂之助の後あとを慕って家出をいたす。何なん程ぼ年が行かぬとは申しながら、実に無分別極まった訳でござります。左様な事とは毫すこしも知らぬ粂之助が、丁度お梅が家出をした其の翌よく朝あさのこと、兄の玄げん道どうが谷中の青雲寺まで法要があって出かけた留守、竹箒を持って頻しきりに庭を掃いていると、表からずっと這入って来た男は年頃三十二三ぐらいで、色の浅黒い鼻筋の通ったちょっと青あお髯ひげの生えた、口くち許もとの締った、利口そうな顔附をして居ますけれども、形な姿りを見ると極ごく不ぶす粋いな拵こしらえで、艾もぐ草さじ縞まの単ひと衣えに紺の一いっ本ぽん独どっ鈷この帯を締め、にこ〳〵笑いながら、 男﹁え、御免なさいまし﹂ 粂﹁はい、お出でなさい﹂ 男﹁えゝ、長安寺というのは此こち方らですか﹂ 粂﹁ヘエ、左様でございます﹂ 男﹁あの此方に粂之助さんというお方がおいででござりますか﹂ 粂﹁ヘエ、粂之助は私わたくしでございますが…﹂ 男﹁ア左様でげすか、是は何うも…左様ならちょいと表まで顔を貸してお貰い申したいもので﹂ 粂﹁ヘエ………あの生あい憎にく兄が居ませぬで、何うも家うちを空からにして出る訳には参りませぬから、若もし何なんぞ御用がおあんなさるなら庫く裏りの方へお上あがんなすって﹂ 男﹁左様でげすか、じゃア御免なせえまし﹂ 粂﹁さ、何どう卒ぞ此こち方らへ﹂ 男﹁へい﹂ 紺足袋の塵ほこ埃りを払って上へ昇あがる。粂之助は渋茶と共に有あり合あいの乾ひ菓が子しか何かをそれへ出す。 男﹁いえ、もうお構いなせえますな、へい有難う、え、貴あな方たにはお初にお目にかゝりますが、私わっちは千せん駄だ木ぎの植木屋九く兵へ衞えという者でございまして﹂ 粂﹁へえへえ﹂ 九﹁実ア其の、昨ゆう夜べ、お嬢様さんが突だし然ぬけに私わっちん処へおいでなすったんで﹂ 粂﹁え、嬢さんと仰しゃるのは……………﹂ 九﹁へえ鳥とり越こえ桟さん町まちの甲州屋のお嬢さんで﹂ 粂﹁へえー、何ういう理わ由けで貴方の処へお嬢様さんが……﹂ 九﹁いや、これは解りますめえ、斯こういう理由なんでげす、あのお嬢さんが二ふた歳つの時に、私わっしの母おふ親くろがお乳を上げたんで、まア外ほかに誰も相談相手が無いからって、訪ねておいでなすったから、母親もびっくりして、まアお嬢さん、今時分何ういう理わ由けで入らしったてえと、犬に吠えられたり何かして、命からがら漸ようようの事でお前の処とこへ来た理由は、誠に乳ば母あや面目ないが、長らく宅うちに勤めて居た手代の粂之助というものと、人知れず懇ねんごろを通じて夫婦約束をした、処がお母っかさんが世間の口がうるさいから一いち時じ斯こうはするものゝ、後のちには必ず添わせてやると仰しゃって、粂之助に暇いとまを出して了しまった後あとで、外ほかから聟を取れと仰しゃる、それじゃアどうも粂之助に義理が済まないから、私は斯うやって駈出したんだと仰しゃるんです、そうすると私わっしの母親は胆きもをつぶしてね、素すッ堅かた気ぎだから、なか〳〵合がっ点てんしねえ、それはお嬢様さん飛んでもない事で、お店の奉公人や何かと私いた通ずらをするようなお嬢様なら、私の処へは置きませぬ、只たった今出てお出いでなせえというから、私わっしが仲裁をして、まアお母っかア待ちねえ、そうお前めえのように頑かた固くななことばかりいっちゃアしょうがねえ、折角頼りに思っておいでなすったお前まで、そんな邪険な事を云ったら娘心の一筋に思い詰め、此こ家ゝから又駈出して途中散さん途とで、何ど様んな軽はずみな心を出して、間まち違げえがねえとも限らねえ、まア〳〵己のいう通りにして居ねえといって、それからお嬢様を此こっ方ちへ呼んでお母ふくろはあんな事を云いますが、お前まえさんは何ど処こまでも粂之助様さんと添いたいという了簡があるなれば、私わっしがまア何うにでもしてお世話を致しましょう、貴方はお宅うちを勘当されても、粂之助様と添遂げるという程の御決心がありますかてえと、屹きっ度と遂げます、一旦粂之助も私と夫婦約束をしたのですもの、確たしかに私を見捨てないという事もいいましたし、又そんな不実な人ではありませぬ、じゃア宜ようがすが、何処か行ゆく所がありますかと云うと、何処も目あ的てがねえ、こう云うから私わっちも困って、兎も角粂さんに逢ってからの事に仕ましょうといって、今け日さわざ〳〵お前めえさんの所とこへ訪ねて来たんですが、お前さんも矢っ張お嬢様と何処までも添い遂げるという御了簡があるんですか、ないんですか、一応貴方の胸を聴きに来たんでげす﹂ 粂﹁それは何うも怪けしからぬ事です、あの時お内かみ儀さ様んが色々と御真実に仰しゃって下すったから、私わたくしは斯こうやって何処へも行ゆかずに辛抱をして居ますのに、お嬢様さんに聟を取れと仰しゃるような、そんな御了簡違いのお方なら、私は何処までもお嬢様を連れて逃げまして、何ど様んな真似をしたって屹度添い遂げます﹂ 九﹁それで私わっちも安心をしたが、お前さん何ど処っか知ってる所がありますか﹂ 粂﹁私わたくしは別に懇意な家うちもありませぬ﹂ 九﹁そりゃア困るね、何ど所こかありませぬか﹂ 粂﹁ヘエ、何も﹂ 九﹁何も無いたって困るねえ、じゃまア斯こうしよう、下しも総ふさの都つが賀ざ崎きと云う所に金きん藏ぞうという者がある、私わっちとは少し親類合あいの者だから、これへ手紙を附けて上げるから、当人に逢って、能よく相談をして世しょ帯たいを持たせて貰いなさるが宜いい、併しかし彼あっ方ちへ行ゆくだけの路銀と世帯を持つだけの用意はありやすか﹂ 粂﹁金と云っては別にございませぬが、兄が此こな間いだ私わたくしにしまって置けと預けた金がございます、それは本堂再さい建こんのため、世話人衆しゅのお骨折で、八十両程集りましたのでございます﹂ 九﹁イヤ八十両ありゃア結構だ、三十両一ト資もと本でと云うが、何ど様んな事をしても五十両なければ十分てえ訳には往ゆかねえが、其の上に尚なお三十両も余計な資も金のがあれば、立派にそれで取附けますが、其の金をお前様さん取れますか﹂ 粂﹁へえ、用よう箪だん笥すの抽ひき斗だしに這入っていますから直すぐに取れます、そうして後のちにお宅へ出ますが何どち方らです﹂ 九﹁あの千駄木へお出でなさると右側に下駄屋があります、それへ附いて広い横町を右へ曲ると棚たな村むらというお坊主の別荘がある、其のうしろへ往って植木屋の九兵衞といえば直じきに知れます﹂ 粂﹁じゃア、今晩兄が帰ったら直すぐに出ます﹂ 九﹁今晩といってもなるたけ早い方が宜ようがすよ﹂ 粂﹁ヘエ日暮までにはどんな事をしても屹きっ度と参ります﹂ 九﹁じゃア其の積つもりで何分お頼み申します﹂ 粂﹁ヘイ宜しゅうございます﹂ 九﹁左様なら﹂ プイと表へ出て了しまう。其の跡で粂之助が、無分別にも不ふ図と悪心を起し、己おのれが預りの金子八十両を窃ぬすみ出し、此こな方たへ出て見ると今の男が証拠に置いて行ったものか、予かねて見覚えあるお梅の金かね巾ぎん着ちゃくが其そ処こに抛ほうり出してあった、取上げて見ると中に金子が三両ばかり這入っている。 粂﹁はてな、是はあの人が置いて行ったのか知ら、ア、そう〳〵、これを置いて行ゆくからは此こん中へ八十両の金か子ねを入れて来いという謎かも知れない﹂ と右の*女めお夫とぎ巾んち着ゃくの中へ金か子ねを入れ、確しっかり懐に仕舞って、そろ〳〵出かけようかと思っている処へ兄の玄道が帰って参り、それより入替り立代り客が来るので、何分出る事が出来ませぬ。 *﹁せなかあわせにくッついている巾著﹂ お話は二つに分れまして鳥越桟町の甲州屋方では大騒ぎ、昨ゆう夜べ娘のお梅が家出をいたした切りかいくれ行方が解りませぬから、家うち内じゅ中うの心配大方ならず、お鬮みくじを取るやら、卜うら筮ないに占みてもらうやら、大変な騒ぎをして居る処へ、不忍弁天の池に、十六七の娘の死体が打込んであるという噂を聞込んで来て、知らせた者があるから、母おふ親くろは仰天して取るものも取とりあえず来て見ると、お梅に相違ないから早々人を以もって御検視を願い、段々死体を調べて見ると、縊くびり殺して池の中へ投込んだものらしく、殊ことには持出した五十両の金きん子すが懐にないから、おおかた物もの取どりであろうと、事が極って検視済の上死骸を引取り、漸ようやく日暮方に死骸を棺桶へ収めることになった。処へ鳶かし頭らが来まして、 鳶﹁ヘエ唯今、あの何なんでげす、八丁堀さんと、それから一番遠いのが麻あざ布ぶの御親類でげすが、それ〴〵皆みんな子分を出してお知らせ申しました﹂ 番頭﹁あ、それはどうも大きに御苦労〳〵﹂ 鳶﹁何だなア、定さん、男の癖におい〳〵泣くのは止しねえ、お内かみ儀さ様んは女でこそあれ、あゝいう御気象だから、涙一滴澪こぼさぬで我慢をしていらっしゃるのだ、それだのにお前が早桶の側へ行って、おい〳〵泣くもんだから不いけ可ねえよ﹂ 定﹁泣くなってそれは無理でございます、何だか此の早桶の側へ来ると哀しくなるんですもの、お嬢様さんは別段に可愛がって呉れましたから、私は哀しくなるのです﹂ 鳶﹁まア泣いちゃア不可ねえ、えゝお内儀様唯今﹂ 内儀﹁あい、鳶頭大きに色々お骨ほね折おりで、何も彼かもお前のお蔭で行ゆき届とゞきました﹂ 鳶﹁どう致しまして、就つきまして麻布様さんの方へお嬢様さんが家出をなすった事を知らせにやりまして、金きん太たがようやく先むこ方うへ着いたくらいの時に、又斯こういう変事が出来ましたから、追おっかけて人を出し、これ〳〵でおなくなりになったてえ事をお知らせ申しましたら、大層にお驚きなすったそうでげす﹂ 内儀﹁そうであったろう、もう麻布のが一番彼あれを可愛がってくれたから、誠に有難う、万事お前のお蔭で行届きました、が斯うなるのも皆みんな因縁事と諦めて居ますから、私は哀しくも何ともありませぬよ﹂ 鳶﹁いえ、何どうも御気象な事で、まアどうもお嬢様さまがお小さい時分、確か七なゝ歳つのお祝の時、私わっしがお供を致しまして、鎮守様から浅草の観音様へ参めえりましたが、いまだに能く覚えております、往来の者が皆みんな振返って見て、まアどうも玉子を剥むいたような綺麗なお嬢様さんだ、可愛らしいお児こだって誰でも誉めねえものは無ねえくれえでげしたが、幼ち少いせい時分からのお馴染ゆえ、此の頃になってお嬢様さんが高慢なことを仰しゃいましても、あなた其そ様んな事をいったッていけませぬ、わたしの膝の上で小便をした事がありますぜてえと、あら鳶頭幼少せい時分の事をいっちゃア厭だよなんて、真まっ紅かにおなりでしたが、何とも申そうようはござえませぬ﹂ 内儀﹁はい、お前も久しい馴染ゆえお線香でも上げてやっておくれ﹂ 鳶﹁へえ、有難う………えゝ番頭さん、誠に何うも飛んでもねえ事で﹂ 番頭﹁いや鳶頭大きに御苦労であった、まア此こっ方ちへ来なさい、何うもお内儀さんの思おぼ召しめしを考えて見るとお気の毒で何うもならぬ、ならぬが当う家ちのお嬢様さんを殺したのは誰じゃという事は大概お前も感付いておるじゃろうな﹂ 鳶﹁いゝえ、些ちっとも知りやせぬよ、何だか物取だろうってえ評判なんで﹂ 番﹁いゝや物取ではない、何でも是は粂之助の仕しわ業ざに相違ないという私わたいの考かんがえだ﹂ 鳶﹁ハ、飛んでもねえ事をいいますね、其そ様んなお前めえさん……ナなんぼ粂どんが憎いたって、無むや暗みに人ひと殺ごろしに落したりなんかして、どうしてお前まえさん粂どんは其様な悪い事をするような人じゃアねえ﹂ 番﹁いやそれはいかぬ、お内い儀えはん斯こういう最中で争いさ論かいをしては済みまへんが、一ちょ寸っとこれに就ついておはなしがあるんでおす、一おと昨つ夜い私わたいが一寸用場へ参りまして用を達たしてから、手を洗うていると、ほんのりと星ほし光あかりで人影が見えるで、はてナと思うて斯う透すかして見ておると、垣根の外へ廻って来たのが粂之助でおす、するとお嬢様さまがこっちゃから声を掛けて粂之助やないかというと、はい私わたくしでございますと低こゞ声えでいいましたわい、まア粂之助よう来ておくれた、はい漸ようようの事で忍んで参りました、お前に逢いとうて逢いとうてどうもならぬであった、私わたいも逢いとうてならぬから、漸うの思いで参りました、私わたいもそう長う寺に辛抱しては居られまへぬ、あんたはんも私わたいのような者でも本当に思うて下くだはるなら、寧いっそ手に手を取って此こ所ゝを逃げまひょう、そうしてあんたと二人で夫婦になって、深みや山まの奥なりと行いんで暮したいが、それに就いても切せめて金か子ねの五六十両も持ってお出でやというと、おゝ左さ様よか、そんなら屹きっ度と明あ日すの晩持って行いぬという事を確かに聞いた﹂ 鳶﹁へえ、それから﹂ 番﹁どうも変やと思うていると、あんたお嬢様さんが莫大のお金を持とって逃げやはった、それ故何うも私わたいの思うには粂之助がお嬢様さまを殺して金か子ねを取って、其の死骸を池ン中へ投ほうり込んだに違いないと斯こう考えるのでおす﹂ 鳶﹁おう、おう番頭さん、詰らねえ事を云っちゃアいけねえぜ、お前めえは全ぜん体てえ粂どんを憎むから然そう思うんだが、まアよく考えて見ねえ、粂どんが人殺をするような人だか何だか、ソヽ其そ様んな解らねえ事をいったって仕様がねえじゃアねえか﹂ 番﹁イヤ真まっ実たくの事だ、証拠があるぜ﹂ 鳶﹁証しょう、な何が証拠だ﹂ 番﹁定吉い、ちょっと此こ処ゝへ来い、えゝめろ〳〵泣くな﹂ 定﹁何です番ばん頭つさん、泣くなたってお嬢様が死んで哀しくって堪たまらないから、泣くんです﹂ 番﹁えゝい、汝おのれがお嬢様を殺したもおんなじ事こった﹂ 定﹁あゝいう無理な事ばかりいうんだもの、どういう理わ由けで﹂ 番﹁汝おのれは一おと昨と日いの夜よこの店で帯を締め直す時に落した手紙は、お嬢様さんに頼まれて粂之助の処へ届けようとしたのじゃないか﹂ 定﹁あら………仕様がないな、彼あす所こに持っているのだもの、道理で無いと思った﹂ 番﹁此こ様んなものをお嬢様から頼まれるのが悪いのだ﹂ 定﹁頼まれるのが悪いたって………仕様がないナ………その頼まれたのはなんでございます………仕様がないな………あの……それはお嬢様さんが、定や、ちょいとお出でてえから、はいてってお居間へ行ったんです、然そうするとお前何ど所こへ行ゆくんだと仰しゃるから、私わたくしは谷中の方へ参るんですといったら、そんならお前これを粂どんに届けてお呉れって、お手紙を私の懐へ入れたから持って行ったんです﹂ 番﹁ウム、持って行って何うした﹂ 定﹁何うしたって……しようがないな﹂ 番﹁汝おのれは度たび々〳〵粂之助の処とこへ寄るから悪いのじゃ﹂ 定﹁ナニ寄る気でもないんですが、近いから、あのお寺の前を通ると曲まが角りかどのお寺だもんですから、よく門の所とこなんぞを箒はいてゝ、久ひさ振しぶりだ、お寄りなてえから、ヘイてんで旧もとは朋ほう輩ばいだから寄りますね﹂ 番﹁道理で毎いつも使つかいが長いのや﹂ 定﹁ナニ別に長い訳もないんですが、今お葬とむ式らいが来てお饅頭を貰った、それをお前に上げるから、お待ちてえから待ってたんです﹂ 番﹁えゝい、喰くらい物の事ばかり云うて居おる。汝おのれが取次をするから此の様な間違が出で来けたのや、サ是を御覧、此の手紙が何よりの証拠や、私わたいはお前に逢いとうて逢いとうてならぬから、家出をしてお前の処とこへ行ゆく、何どう卒ぞ末長く見捨てずに置いておくれと書いてあるやないか、是が何よりの証拠や﹂ 鳶﹁証拠だッて、そんな事は私わっしア知りやアしねえ﹂ 番﹁知りやせぬと云うてまアよく考えて見なはれ、当う家ちのお内いえ儀は様んはこないに諦めの宜ええお方やから、涙一滴澪こぼさぬが、鳶頭が仲へ這入って口を利き、もう甲州屋の家うちへは足踏をさせぬと云い切って引取ったのやないか、それじゃのに、又此こ処ゝへ粂之助が忍んで来て、お嬢様さんを誘い出すような事になったのは、大方鳶頭も内ない々〳〵知って居おるのではないか、粂之助と共ぐ謀るになってお嬢様を誘い出し、金か額ねを半分ぐらい取ったのではないかアと思われても是非がないやないか﹂ 云うと怒おこったの怒らないの、もと正直な人だから、額へ青筋を出して、 鳶﹁何を吐ぬかしやアがるんでえ、撲なぐり付けるぞ、コレ頭を禿はげらかしやアがって馬鹿も休み休み云え、粂どんが人を殺して金を取る様な人か人でねえか大てえ概げえ解りそうなもんだ、手てめ前えの心に識別ウするから其そん様な事を吐ぬかすんだ、己が半分取ったたア何だ、撲り付けるぞ﹂ 番﹁打ぶたいでも宜ええ、私あたいは理の当然をいうのや、お嬢様さまを殺して金か子ねを取ったという訳じゃないが、然そう思われても是非がないと云うのや﹂ 鳶﹁何が是非がないんだ、撲はり倒たおすぞ﹂ 清﹁まア〳〵少し待っておくれ﹂ と云いながら台所より出て来たは清助というお飯まん炊またき。 清﹁鳶頭まア〳〵貴あん方たは正直な方だから、こんな事を云われたら、嘸さぞはア胆きもが焦いれて堪たまるめえが、己が一と通りいわねばなんねえ事があるだアから、少し待ったが宜ええ――コレ番頭さん、此こ処ゝへ出ろ﹂ 番﹁何じゃ、汝おのれが出る幕じゃアない、汝は飯めし炊たきだから台所に引ひっ込こんで、飯の焦こげぬように気を附けて居おれ、此こな様いな事に口出しをせぬでも宜えいわ﹂ 清﹁成程己は僅わずかなお給金を戴いて飯炊をしてえるからッて、飯せえ焦がさねえようにしていれば宜ええというもんじゃアあんめえ、当う家ちへ泥坊が這へ入いってお内かみ儀さ様んを斬きり殺ころしても、己が飯炊だからって、何なんにも構わずに竈へっついの前めえにぶっ坐つわってゝ宜えと思わしゃるか、汝われが曲った心に識別するから然そういう間違った事をいうだ、コレよく考かんげえて見ろよ、汝は粂どんを憎むから、少しのことを廉かどに取って粂どんが嬢じょ様うさまを殺したなんてえが、何ど処こまでも汝がそんな事を頑張って殺したといわば、己おらア合がっ点てんしねえだ、粂どんが庭へ来てお嬢様と相談して、明あし日たの晩連れて逃げようてえ約束をしたのを見たと云わば、何故早く其の事をお内儀様へ知らせねえだ、粂どんがコソ〳〵でお嬢様を誘い出しに来やしたから、油断をしねえが宜ようがすとちょっと知らせればそれで宜ええだ、然うすれば直すぐにお嬢様を他わ家きへ預けるとか、左さもなければお内儀様が気イ附けて奉公人も皆起きて居おらば、何うしたって嬢様が逃げ出す気きづ遣けえはねえだ、逃げなけりゃア殺されることもねえだ、それを知って居ながら黙ってゝ、嬢様が逃出してから殺されゝば、汝が殺したも同じ事こんだぞ、まだぐず〳〵何か云やアがると打ぶっ殺して己おれも死んじまうだ﹂ 内儀﹁コレ〳〵清助静かにしないか、番頭様さんに向ってそんな事をいっては済まないじゃないか、鳶頭、お前も嘸さぞ腹が立つだろうが、何どう卒ぞ我慢をしておくれ、悉みん皆な私が呑込んでいるから、私は決して粂之助の仕しわ業ざとは思わないけれども、大方粂之助も此の事を知らずに谷中に居るに違いない、お前が行って斯こう〳〵と知らせたら、粂之助も定めて恟びっくりするだろうと思うから、お願いだが、お前ちょいと此の事を粂之助へ知らせてお呉れでないか﹂ 鳶﹁え、往いきますとも、半分取ったろうなんて、飛んでもねえ濡ぬれ衣ぎぬを着せられたんですもの、直すぐに行って来ます、少し提ちょ灯うちんをお貸しなすって﹂ ずうっと腹はら立たち紛まぎれに飛びだして谷中の長安寺へやって来ました。 鳶﹁え、御免なせえ、御免なせえ﹂ 粂﹁はい……おや〳〵鳶頭﹂ 鳶﹁や、粂どん……まア宜よかった、はあ…お前めえに怪しい事があれば何ど所っかへ逃げちまうんだが、ちゃんと此こ処ゝに居てくれたんでまア宜かった、あゝ有あり難がてえ﹂ 粂﹁あの兄あにさん、何だか鳥越の鳶頭がおいでなさいましたよ﹂ 玄﹁いやア、鳶頭、まあ何どう卒ぞ此こち方らへ誠に何どうも御無沙汰をして済まぬ、ちょっとお礼かた〴〵お訪ね申さんければならぬのじゃが、何分にも寺じよ用うに取紛れて存じながら大きに御無沙汰を……﹂ 鳶﹁そう長ったらしく云ってられちゃア困る、大騒動が出来たんだ、まア御挨拶は後あとにしておくんなせえ、おゝ粂どん、お嬢様が昨ゆう夜べ家出をした事を知ってるかい﹂ 粂﹁いゝえ…………﹂ 鳶﹁いゝえって震えたぜ、え、おい、お嬢様が殺されちまったんだよ﹂ 粂﹁えっ、お嬢様が……﹂ 鳶﹁死骸が弁天の池から今朝上がって、御検視を願うの何なんのって大騒ぎをしたんだ﹂ 粂﹁へえー……じゃア千駄木の植木屋の九兵衞さんというのは何です、全体まア何ういう理わ由けなんです﹂ 鳶﹁何ういう理由の何のって、大変な騒ぎなんで、まア和尚様さんお聴きゝになって下せえまし、お嬢様は粂どんに逢いてえ一心から、莫ばく大でえの金か子ねを持もって家出をしたから、大方泥坊に躡つけられて途中で遣やるの遣らねえのといったもんだから、殺されたに違ちげえねえんで、それを店の番頭野郎がこう吐ぬかすんだ、何なんでも粂どんがお嬢様を誘い出して、途中で殺して金子を取ったに違えねえ、鳶頭も粂どんと共ぐ謀るになって、其の金を二十五両ぐらい取ったろう、こう吐すんだ、私わっしは腹が立って堪らねえから、余よっ程ぽど殴りつけてやろうとは思ったけれども、お前めえさん何うもね、お内かみ儀さ様んが御愁傷の中だから、そんな乱暴狼籍の﹇#﹁狼籍の﹂はママ﹈真似をしちゃア済まねえと思って、耐こらえていたが、粂どんが何なんにも知らずに斯こうやっているから本当に宜かった、何どう卒ぞ直すぐに行っておくんなせえ﹂ 玄﹁いや、それは重々御ごも道っと理もな訳じゃ、此こち方らにも不ふし行だ跡らがある事こっちゃから然そう云う御疑念が懸っても仕方がない、仕方がないが、然う云う場合になると、粂之助は頓とんと口の利けぬ奴じゃで、私わしも一緒に参りましょう﹂ 鳶﹁そりゃア有あり難がてえ、なるたけ大勢の方がようがす、じゃア直すぐに行っておくんなせえ﹂ これから提灯を点つけて寺を出かけ、三人揃って甲州屋の裏口から這入って来ました。 内儀﹁さア、何どう卒ぞ此こち方らへ、〳〵﹂ 鳶﹁え、お内かみ儀さ様ん、谷中の長安寺の和尚様も入らっしゃいましたよ﹂ 内儀﹁おや〳〵それは何うもまア何うぞ此方へ﹂ 玄﹁はい、御免を……唯今鳶頭から不慮の事を承りまして、何とも御愁傷の段察し入ります﹂ 鳶﹁まア、其そ様んな長ったらしい悔くやみは後あとにしておくんなせえ、さ、粂どん此こっ方ちへ這入んなよ﹂ 粂﹁ヘエ……えゝ、お内かみ儀さ様んお嬢様が飛んだ事にお成りあそばしまして、嘸さぞ御愁傷でござりましょう﹂ 是迄は涙一滴澪こぼさぬでいたが、今しも粂之助の顔を見ると、堪こらえかねて袖を顔へ押おし宛あてて、わっとばかりにそれへ泣倒れました。 内儀﹁粂や、何うも飛んだ事になりましたよ、私はね、くれ〴〵もそう云っていたのだよ、決して出ちゃアならない、今に私が宜よいようにするから、お前心配おしでないよといって置くのに、親の言葉に背いて家出をしたものだから、忽たちまち親の罰ばちがあたって、あゝいう訳になったんだから、私はもう皆みんなこれまでの約束ごとと諦めていたが、お前の顔を見たら何うにも我慢が出来なくなって声を出しましたが、もと〳〵お前の為に家出をしてこんな死しに様ようをしたのだからお前何どう卒ぞお線香の一本も上げて回向をしてやっておくれ﹂ 粂﹁ヘエ、何とも申そう様はございませぬ、誠に何うも重々私わたくしが悪いのでございます﹂ 内儀﹁いゝえ、お前ばかりが悪い訳じゃアないよ﹂ 鳶﹁おゝ番頭様さんちょいと此こ処ゝへ来ねえ﹂ 番﹁あい、何じゃ﹂ 鳶﹁おゝ粂どんはちゃんと此処にいるよ、え、おう、人を殺して金を取ったような訳なら、プイと何ど処こかへ逃げちまわア、己が寺へ知らせに行ゆくまであっけらけんと居られるか、さ、何うだ、これでもまだ手てめ前えは己を疑うたぐってやアがるか﹂ 番﹁まアあんたは、粂之助を贔屓にしておるで、そう思いなはるのじゃ、これ粂之助ちょっと此こ処れへ来い、汝おのれはまだ年は十九で、虫も殺さぬような顔附をして居るが太い奴やッちゃ、体ていよくお嬢様を誘い出して、不忍弁天の池の縁ふちの淋しい処でお嬢様を殺して、金を取って、死骸を池の中へ投ほうり込んだに違いあるまい、さ、どうだ、真まっ直すぐに云うてしまえ﹂ 斯こう云われるともと人が善よいから、余あんまり腹が立って口が利かれない、いきなり立って番頭の胸倉へ武者振りつこうとする途端に、ポンと堕おちたのは九兵衞が置忘れて帰った女みょ夫うと巾ぎん著ちゃく、番頭は早くも之これを拾い取って高く差上げ、 番﹁こ、是じゃ、お内い儀えはん、是はお嬢様さんが不断持って居やはりました巾着でがしょう﹂ 云いながら振ると、中からドサリと落ちた塊かたまりは五十両ではなくて八十両。三
えゝ引続いてお聴きに入れまする、お梅粂之助は互に若い身そらで心得違をいたしたるより、其の身の大難を醸かもしました。扨さて彼かの梅には四徳を具すというが然そうかも知れませぬ、若木を好まんで老おい木きの方を好む、又梅の成熟するを貞ていたり、とか申して女おな子ごの節みさ操おあるを貞女というも同じ意味で、春は花咲き、夏は実を結び、秋は木この葉が落ちて枯木のようになったかと思うと、又自然に芽が出て来るは、誠に妙なものでございまして、人も天然自然に此の物を見る、あゝ好よい景色だとか、綺麗な色だとか、五ごし色きばかりではなく木きの葉の黄ばんだのも面白く、又染しみだらけになったのも面白い、これは唯其の人の好みによって色々になるのでございます。﹁心をぞわりなきものと思いぬる見る物からや恋しかるべき﹂で見る物も恋しく、心と云うものは別に形は無いが、善を見れば善に感じ、悪に出逢えば悪に染まる、されば己おのれの好む所の境きょ界うがいが悪いと其の身を果はたすような事もあるのでございます。
粂之助は奉公中主人の娘お梅に想われたのが、因果の始はじまりでござりまして、自分も済まない事と観念を致したから、兄玄道の側へ参り、小さくなって、温おと順なしく時節到来を待って居ました、所へ千駄木の植木屋九兵衞というものが参り、
九﹁昨晩お嬢様さんがお出いでになりましたから、私わたくしが何ど処こへでもお逃し申すようにするゆえ、金か子ねの才覚をして来い﹂
と云うので、態わざとお梅の巾着の中に三両ばかり入れた儘置いて帰った。是が九兵衞の企たくみのある処でござります。此こち方らはまだ年が若いから、何の気も附かず、是は全くお梅から届けたものと心得て、前あと後さきの思慮も浅く、其の巾着の内へ、本堂再さい建こんの普請金八十両というものを盗み出して押込み、これを懐へ入れて置いたのが、立上る機はず勢みにドサリと落ちたから番頭はこゝぞと思って右の巾着を主ある婦じの前へ突付けたり、鳶かし頭らにも見せたりして居いた丈けだ高かになり、
番﹁さ、粂之助、此の巾着が出る上は貴様がお嬢様さんを殺したに相違あるまい﹂
と責めつけたから、座中の人々互に顔と顔を見合せ、鳶頭も甲州屋の家内も実に驚いて、﹁よもや粂之助がお梅を殺して五十両という金きん子すを取りはすまい﹂とは思うが、金か子ねが出た。見ると五十両ではなくして八十両の包み金がね、表う書えには﹁本堂再さい建こん普請金、世話人萬よろ屋ずや源げん兵べ衞え預あずかる﹂と書いてあったから、誰より驚いたのは玄道和尚で、ぶる〳〵震えながら、
玄﹁ま、これ粂之助、ま、此の金か子ねは何うした﹂
粂﹁はい〳〵申し訳がございませぬ﹂
玄﹁これはまア……番頭さん、鳶頭、又御当家の御家内様まで、粂之助がお嬢様を殺して金きん子すを取ったろうという御疑念をお掛けなさるは御ごも道っと理もの次第でござる、なれども、此の儀に就ついては私わたくしより少々粂之助へ申もう聞しきけたい事がござれど、少しく他聞を憚はゞかりまする故、何ど所こか離れたお居間はござりますまいか、余り人様のお出いでのない所を拝借いたしたいもので﹂
内儀﹁はい〳〵、あの鳶頭、奥の六畳へ連れて行ったらよかろう、離れてゝ彼あす所こが一番静しずかでもあり人が行かないから﹂
鳶﹁宜いいかね、大丈夫かえ和尚様さん﹂
玄﹁いえ、決して逃しは致しませぬから、御安心なすって……さア来い﹂
と粂之助の手を執とって引立てる。粂之助は和尚の従と者もで来たのだから今日は*耳こじりを差して居る、兄玄道に引立てられ、拠よんどころなく奥の離座敷へ来るといきなり肩を突かれたからパッタリ畳の処へ伏しました。玄道和尚は開き直って、
*﹁みじかいわきざし﹂
玄﹁これ粂、手前はまア呆れ返った奴じゃ、これ手前はな、御両親が相あい果はててからと云うものは、私わしの手許に置いて丹精をしてやったのじゃないか……女おな子ごの手もない寺へ引取り、十一の歳としから私が丹精をして、読よみ書かきから行儀作法に至るまで一通りは仕込んでやったが、何をいうにも借財だらけの寺へ住職をしたのが過あやまりで、なか〳〵然そう何い時つまでも手前一人に貢いでやる訳にも往ゆかぬから、不自由を堪こらえて御当家へ願い、住みこませると、長の歳とし月つき御丹精を戴いた御主人様の大恩を忘れ、奉公人の身の上でありながら、御主人様の令嬢と不義いたずらをするとは、何と云う心得違の事じゃ、それで手前は武士の胤たねと云われるか、私も手前も、土どい井おお大いの炊か頭みの家来早はや川かわ三さん左ざえ衞も門んの胤じゃないかい、私は子供の時分は清せい之のし進んと云うたが、どの人相見に観みせても、剣難の相があると云うたに依よって九歳の折おりに出家を遂とげ、谷中南なん泉せん寺じの弟子になって玄道、剃てい髪はつをしてから、もう長い間の事じゃ、其の後ご嘉永の始はじめに各かく藩ばんにて種さま々〴〵の議論が起り、えろうやかましい世の中になった、其の折父早川三左衞門殿には正義を主張して、それはいかぬ、然そういう道理は無いと云うて殿へ御ごか諫んげ言んを申上げたる処、重役の為に憎まれて遂には追放仰付けられた、お父様にはそれを口く惜やしゅう思おぼ召しめしてか、邸やしきを出てから切腹をして相あい果はてられた、続いて母様もお逝かく去れになる時の御遺言に、お前の弟粂之助はまだ頑がん是ぜもない小しょ児うに、外ほかに頼る者もないに依って何どう卒かお前、丹精をして成人させて呉れとのお頼み、そこで私が寺へ引取って、十一から三ヶ年も貴様の面倒を見てやったが、今もいう通り何分不ふに如ょ意いじゃに依って御当家へ願うたのも、然ういう柔弱な身体じゃから、商あき人んどに仕ようと思うた私の心こゝ尽ろづくしも水の泡となり、それのみならず誠に愧はじ入いったのは此の八十両の金か子ねじゃ、知っての通りの貧乏寺じゃが幸いにも檀だん家けの者にも用いられ、本堂が大破に及んだ、再さい建こんをせにゃなるまい、私わしが世話人に成ってやる奮発せいと、萬屋も心配をして呉れて、これ見ろ、まア是だけの金子を集めて、是を資もと本でに追おい々〳〵と再建に取掛るつもりでわざ〳〵源兵衞さんが一おと昨つ日い持って来たに依って、直すぐ手前に仕舞って置けと云うて渡した其の金子を手前が盗ぬす出みだして此こ所ゝへ持って来るとは何ういう了簡じゃ、此こ金れがなければ片時も己はあの寺に居おられぬという事も、手前能よう知って居おるじゃないか、憎い奴じゃ、同じ早川の家に生れても、私は総領の身の上でありながら出家となり、又手前の兄三さん次じろ郎うと云う者は、何ういう因縁か、十一二歳の頃からして盗とう心しんがあって、一ちょ寸っと重役の家うちへ遊びに行っても、銀の煙管じゃとか、紙入じゃとか、風呂敷とか、手拭とか云うものを盗んで袂たもとへ入れて来るじゃ、そこでお父とう様さまも呆れてしまい、此こや奴つが跡目相続をすべき奴じゃけれども仕方がないと云うて、十九の時に勘当をされた、丁度三人の同きょ胞うだいでありながら、私は出家になり、弟は泥坊根性があり、手前は又主しゅ家うかの娘と不義をして暇いとまを出されるのみならず、兄の身に取っては大切の金か子ねまで取るという奴じゃから、何う人さんから云われても一言の申訳はあるまい、憎い奴じゃ、兄の自滅をするという事を悉くわしく知って居ながら、斯こういう不都合をするとは云おう様ない人にん非ぴに人んめ﹂
と腹立紛れに粂之助の領えり上がみを取って引倒して実の弟を思うあまりの強こわ意いけ見ん、涙るい道どうに泪なみだを浮べ、身を震わせながら粂之助を畳へこすり附ける。粂之助は身の言いい分わけが立ちませぬから、
粂﹁申訳を致します……もも申訳を……何どう卒ぞお放しなすって下さいまし﹂
玄﹁さ、何う言分をする﹂
粂﹁へい申訳は此の通りでござります﹂
と自分の差して来た小短い脇差を取って抜くより早く喉のどへ突立てにかゝった。玄道は胆きもを潰して其の手を抑おさえ、
玄﹁こ、これ待てッ﹂
粂﹁いゝえ、お留め下さるな、申訳が有りませぬから、私わたくしは自害をいたして申訳をいたします﹂
玄﹁自害をしたってそれで済むと思うか﹂
頻しきりに争うておる処へ、ガラリと縁側の障子を開けて這入って来た男を見ると、紋もん羽ぱの綿頭巾を鼻はな被っかむりにして、結ゆう城きの藍あい微みじ塵んに単ひと衣えものを重ねて着まして、盲縞の腹掛という扮こし装らえ、小意気な装なりでずっと這入って、
男﹁ま、ま、お待ちなせえ、おう詰らねえ事をするない、手てめ前えは死なねえでも宜いいや﹂
粂﹁ヘエー﹂
と顔を見ると今日朝の中うちに来た、千駄木の植木屋の九兵衞だから恟びっくりして、
粂﹁おや、貴方は千駄木の植木屋さんで……﹂
九﹁ウム、植木屋の九兵衞だ、お前めえはまア死なねえでも宜いい……え、和尚さん私わっちは、千駄木の植木屋の九兵衞と云って、此の粂之助を騙だまかしに行った悪党でごぜえます﹂
玄﹁何じゃ……悪党とは﹂
九﹁ヘエ誠に面目次第もござえませぬ、お前めえさんの為には現在の弟でありながら、十九の時に邸やしきを出て了しまいやした、それゆえ粂の顔を知らねえもんだから騙だまかしに行ったんです、兄あにさん大層まア年が寄って、お顔を見忘れちまいましたよ﹂
玄﹁なに誰じゃ﹂
九﹁誰でもねえ、お前まえさんの弟の三次郎です﹂
玄﹁おゝ、弟の三次郎、成程然そう云えば、何ど所こか見覚えのある顔だ、それが何うして此こ所ゝへ出て来た﹂
九﹁まア聞いてくだせえ、私わっちが上野の三橋側の夜よあ明かしの茶飯屋のところで、立派な身みな形りの新しん造ぞが谷中長安寺への道を聞いてるんで、てっきり駈落ものと睨にらんで横合から飛び出し、私もね、お前さんが其の長安寺の和尚さんとも知らず、粂之助が私の弟ということも知らねえもんだから、旨い金かね蔓づるに有附いたと実ア其の娘を駆だまかして﹇#﹁駆だまかして﹂はママ﹈引ひっ張ぱり出だし、穴の稲荷の脇で娘を殺し、巾着ぐるみ有金を引ひっ浚さらい、死骸は弁天の池ン中へ投ほうり込んだのは私の仕業だ、そればかりでなく、娘を殺す前めえに、段々様子を聞くと、宅うちに奉公をして居た粂之助と云う者は、暇いとまが出て当時では谷中仲門前の長安寺と云う寺に居るんだと聞いたから、もう一仕事しようと思って粂の処とこへ出かけ、旨く騙だまかして金か子ねを持って逃げておいでなさいと云ったのは、私の入いれ智ぢ慧え、本堂再建の普請金八十両を盗ませたのも皆この三次郎の作略でごぜえます﹂
玄﹁ふむー、此こや奴つ……えらい奴じゃな﹂
三﹁でね、まア然そういう理わ由けなんだから、鳶頭と番頭や何か残らず此こ所ゝへ呼んでおくんなせえ﹂
玄﹁粂、早う呼んで来い﹂
粂﹁誰どな方たも早く来て下さいましよ﹂
と呶鳴ったから、何事かと思って鳶頭も番頭も皆揃って来ました、ずらりと大勢ならべて置いて、右の一いち伍ぶし一じゅ什うを三次郎が話した時には、鳶頭も番頭も驚いて暫しばらくは口も利けぬくらいでありました。
三﹁さ、何うぞ私わっしに縄を掛けて引く処へ引いてお呉んなせえ、決して粂之助の科とがじゃアねえ、私わっちが人ひと殺ごろしをしたんですから……其の代りどうか兄あにさん粂を可愛がってやってお呉んなさい、又粂も宜いいか、もう四十を越してる兄さんだ、能よく大事にして上げてくれ、よ、お前幾いく歳つになる、なに十九歳だ、うむ然そうか、いや鳶頭、誠に何とも云いようがごぜえませぬ、お前めえさんは粂を贔屓にしてお呉んなすって、やれこれ云って下すったのは、私わっちからも厚くお礼を申します、実ア今日此こ処ゝへ忍び込んで間まが好よかったら、此のどさくさ紛れに、もう一仕事する積つもりで来た処が、まア斯こういう訳になりましたから何どう卒ぞ私へ縄を掛けて突出してお呉んなせえ……やい番頭、さ、己を縛れ﹂
番﹁なに此こい奴つ……汝おのれが泥坊か、此のお庭へ何ど所こから這入った﹂
三﹁何所からだって這へ入いるが、さ縛れ、其の代り己が喰くらい込めば、もう娑婆ア見る事ア出来ねえから、此の番頭手てめ前えも一緒に抱いて行ゆくから然そう思え﹂
番﹁そりゃアえらい事こっちゃな﹂
是これから捨て置けませぬから、甲州屋の家内は家うちから縄なわ付つきを出すのも厭だと心配をして果はてしがない。そこで三次郎が到頭自訴いたして、何うしても斬ざん首しゅの刑に行わるべきであったのが、何ういう事か三宅へ遠島を仰おお付せつけられましたが、大層改かい悛しゅんの効が顕あらわれ、後のちお赦しゃになって、此の三次郎は兄玄道の徒弟となり、修しゅ行うぎょうの功を積んで長安寺の後ごじ住ゅうを勤めました。此の者は穴あな釣づり三さん次じと云って、其の頃下谷では名高い泥坊でござりました。又粂之助は遂に甲州屋へ貰われまして、甲州屋の跡目を相続いたし、其の後のち浅草仲町の富田屋という古ふる着ぎ商やから嫁を貰いましたが、此の嫁も誠に心懸けの良い婦人でござりまして、母に孝行を尽したという末お目出度いお話でござります。