いや是これは若わか林ばや先しせ生んせい、さア此こち方らへお這は入いんなさい。どうも久ひさし振ぶりでお目めに掛かゝりました。裏うら猿さる楽がく町ちやう二番ばん地ちへ御ごて転んぢ住うになつたといふ事でございますから、一ちよ寸つとお家いへ見みま舞ひにあがるんですが、どうも何なにも貴あな方たのお座ざし敷きへ出すやうな話がないので、つい御ご無ぶ沙さ汰た致いたしました。時に斯かういふ話があるんです。是これは貴あな方たも御ごし承よう知ちの石いし切きり河が岸しにゐた故こじ人ん柴しば田たぜ是しん真を翁うの処ところへ私わたくしが行いつて聞いた話ですが、是これは可を笑かしいて……私わたくしが何ど処こへ行いつても口くち馴なれてお喋しやべりをするのは御ごし承よう知ちの塩しほ原ばら多たす助けの伝でんだが、此この多たす助けの伝でんは是ぜし真んを翁うが教へてくれたのが初まりだが、可を笑かしいぢやありませぬか。どういふ訳わけかといふと、其その頃ころ私わたくしが怪くわ談いだんの話の種た子ねを調べようと思つて、方はう々〴〵へ行いつて怪くわ談いだんの種た子ねを買かひ出だしたと云いふのは、私わたくしの家うちに百幅ぷく幽いう霊れいの掛かけ物ものがあるから、百怪くわ談いだんといふものを拵こしらへて話したいと思ふ時じぶ分んの事で、其その頃ころはまだ世の中が開ひらけないで、怪くわ談いだんの話の売うれる時じぶ分んだから、種た子ねを探して歩いた。或ある時とき是ぜし真んを翁うの処ところへ行ゆくと、是ぜし真んを翁うが﹁お前まへは此この頃ごろ大たい層そう怪くわ談いだんの種た子ねを探しておいでださうだ。﹂﹁どうか怪くわ談いだんの種た子ねを百種いろ買かひ出だして見たいと思ひます。八代だい目め団だん十郎らうや市いち村むら羽うざ左ゑ衛も門んの怪くわ談いだん、沢さは村むら宗そう十郎らうの御ごで殿んぢ女よち中うの怪くわ談いだん、岩いは井ゐは半ん四郎らうの怪くわ談いだん、其その他た聞いた事見た事を種いろ々〳〵集めてゐるんですが﹂と云いふと、是ぜし真んを翁うが﹁円ゑん朝てうさん、妙めうな怪くわ談いだんの種た子ねがある。こりやア面おも白しろい怪くわ談いだんだが、お前まへ何なにを知らないか、塩しほ原ばら多たす助けといふ本ほん所じよ相あひ生おひ町ちやう二丁ちや目うめの炭すみ屋やの怪くわ談いだんを﹂﹁知りませぬ﹂﹁さうかね、塩しほ原ばら多たす助けといふ炭すみ屋やの井ゐ戸どは内うち井ゐ戸どであつたさうだが、其その家うちはたいした身しん代だいだから、何なんとかいふ名なのある結けつ構こうな石でこしらへた立りつ派ぱな井ゐ戸どださうだ。ところが其その井ゐ戸どの中なかへ嫁よめが身を投げて死んだり、二代目と三代目の主人が気きち違がひになつたりしたのが、其その家いへの潰つぶれる初まりといふので、そりやア何なんとも云いへない凄すごい怪くわ談いだんがある﹂﹁へー、それはどう云いふ筋すぢです﹂﹁委くはしい事は知らないが、何なんでも其その初しよ代だいの多たす助けといふ人は上じや州うしうの方はうから出て来きた人で、同じ国くに者ものが多たす助けを便たよつて来きて、私わしもお前まへのやうな大きな身しん代だいになりたい、国くにの家いへが潰つぶれたから江え戸どで稼かせいで、国くにの家いへを再さい興こうしたいと思つて出て来きたのだから、どうか資もと本でを貸かしてくれと云いふと、多たす助けがそりやアいけない、他ひ人とに資もと本でを借かりてやるやうな事では仕しか方たがない、何なんでも自分で苦しんで蟻ありが塔たふを積つむやうにボツ〳〵身しん代だいをこしらへたのでなくては、大きな身しん代だいになれるものではないから、兎とも角かくも細こまかい商あきなひをして二朱しゆか三朱しゆの裏うら店だなへ住すまつて、一生しや懸うけ命んめいに稼かせぎ、朝は暗い中うちから商あきなひに出で、日ひが暮くれてから帰かへつて来くるやうにし、夜よるは翌あし日たの買かひ出だしに出る支した度くをし、一時ときか一時とき半はんほか寝ねないで稼かせいで、金かねを貯ためなければ、本ほん当たうに金かねは貯たまらない。私わしなども其その位くらゐな苦しみをして漸やうやく斯かういふ身みの上うへになつたのだ。と云いはれて此この人ひとも多たす助けのいふことを成なる程ほどと感かん心しんしたから、自分も何なんぞ商あきなひをしようといふので、是これから漬つけ物もの屋やを初めた。すると相さう応おうに商あきなひもあるから、商あきなひ高だかの内うちより貯ためて置いて、これを多なす助けに預あづけたのが段だん々〳〵積つもつて、二百両りやうばかりになつた。其その頃ころの百両りやう二百両りやうと云いふのは大たいしたものだから、もう是これで国くにへ帰かへつて田でん地ぢも買かへるし、家いへも建たてられるといふので、大おほいに悦よろこんで多たす助けに相談の上うへ、国くにへ帰かへつた。国くにへ帰かへつて田でん地ちを買ふ約束をしたり、家いへを建たてる木きざ材いを山から伐きり出だすやうにしたり、ちやんと手ては筈ずを付つけて江え戸どへ帰かへつて来くると、塩しほ原ばら多たす助けが死しんでゐた。さア大おほいに驚おどろいて、早さつ速そく多たす助けの家うちへ行いつて、番ばん頭とうに掛かけ合あふと、番ばん頭とうは狡ずるい奴やつだから、そんなものはお預あづかり申まうした覚おぼえはござりませぬ、大おほ旦だん那なさ様まお亡かくれの時お遺ゆゐ言ごんもございませぬから上あげる事は出で来きない、一体たいお前まへさんは何なにを証しよ拠うこに預あづけたと云いひなさるか、預あづけたものなら証しよ拠うこが無なければならない。といふ取とつても付つけない挨あい拶さつ。其その時じぶ分んは人間が大おほ様やうだから、金かねを預あづける通かよ帳ひちやうをこしらへて、一いち々〳〵附つけては置いたが、その帳ちや面うめんは多たす助けの方はうへ預あづけた儘まゝ国くにへ帰かへつたのを、番ばん頭とうがちよろまかしてしまつたから、何なにも証しよ拠うこはない。さア其その人ひとは口く惜やしくつて耐たまらないから、預あづけたに違ちがひない、多たす助けさんさへゐれば其その様やうなことを云いふ筈はずはないのだから、返かへしてくれ。と云いつても肯きかない。決して預あづかつた覚おぼえはない、と云いひ張はる。預あづけた預あづからないの争あらそひになつた処ところが、出で入いりの車しや力りきや仕しご事と師しが多おほ勢ぜい集あつまつて来きて、此こい奴つは騙かた取りに違ちがひないと云いふので、ポカ〳〵殴なぐつて表おもてへ突つき出だしたが、証しよ拠うこがないから表おも向てむ訴きうつたへることが出で来きない。頭あたまへ疵きずを付つけられて泣く〳〵帰かへつたが、国くにでは田で地ぢを買ひ、木きざ材いを伐きり出す約束をして、手てき金んまで打つてあるから、今いま更さら金かねが出で来きないと云いつて帰かへることは出で来きない。昔の人で了れう簡けんが狭せまいから、途とは方うに暮くれてすご〳〵と宅うちへ帰かへり、女によ房うばうに一いち伍ぶし一じ什うを話し、此この上うへは夫ふう婦ふわ別かれをして、七なゝ歳つばかりになる女の子を女によ房うばうに預あづけて、国くにへ帰かへるより仕しか方たがない。と云いふと、お前まへさんのやうな生いく地ぢのないものはない、預あづけたものを預あづからないと云いはれて、はいと云いつて帰かへつて来くると云いふのは、何どういふ訳わけです、殊ことに頭あたまへ疵きずを付つけられて帰かへつて来くるとは、余あんまり生いく地ぢが無なさ過すぎる、そんな生いく地ぢのない人と連つれ添そつてゐるのは嫌いやだ、此この子こはお前まへさんの子こだからお前さんが育てるが宜いい、私わたしはもつと気きぢ丈やうな人のところへ縁かた付づくから、といふ薄はく情じやうな言いひ分ぶん、此この女をんなは国くにから連つれて来きたのではない、江え戸どで持もつた女をんなか知れない、それは判はつ然きり分わからないが、何なにしろ薄はく情じやうの女をんなだから亭てい主しゆを表おもてへ突つき出す。男をとこは怨うらめしさうに宅うちの方はうを睨にらんで、泣く〳〵向むかうへ行ゆかうとすると、お父とツつアんエーと云いつて女の子が追おつ掛かけて来くるから、どうかお母つかさんの処ところへ帰かへつてくれ、お父とツつアんは無ないものと思つてくれと言ひ聞かせて、泣きながら帰かへる子の後うし姿ろすがたを見送り、あゝ口く惜やしい、二代目の多たす助けといふ奴やつは恐おそろしい奴やつだ、親おや父ぢに金かねを預あづけた事を知つてゐながら、預あづかつた覚おぼえはないと云いふのは酷ひどい奴やつだ、塩しほ原ばらの家いへへ草を生はやさずに置くべきか、と云いつて吾あづ妻まば橋しからドンブリと身を投げた。さうすると円ゑん朝てうさん、その死しが骸いが何どういふ潮しほ時どきであつたか知らないが、流れ〳〵て塩しほ原ばらの前まへの桟さん橋ばしへ着いたさうだ。それを店みせの小こぞ僧うが見み付つけて、土どざ左ゑ衛も門んが着ついてゐます土どざ左ゑ衛も門んが着ついてゐますと云いつて騒さわぐ。若い衆しうがどれと云いつて行いつて見ると、どうも先さつ刻き店みせへ来きて、番ばん頭とうさんと争あらそひをして突つき出だされた田ゐな舎かも者のに似にてゐますといふから、どれと云いつて番ばん頭とうが行いつて見ると、成なる程ほど先さつ刻き店みせへ来きた田ゐな舎かも者のの土どざ左ゑ衛も門んだから、悪あく人にんながらも宜よい心こゝ持ろもちはしない、身みの毛け慄よ立だつたが、土どざ左ゑ衛も門ん突つき出だしてしまへと云いふので、仕しご事と師しが手てか鍵ぎを持もつて来きたり、転かる子こが長なが棹さをを持もつて来きたりして突つき出だすと、また其その桟さん橋ばしへ戻もどつて来くる、幾いくら突つツ放ぱなしても戻もどつて来くるから、そんなこつてはいけないと云いふので、三人にん掛かゝつて漸やうやく突つき出だしたところが、桟さん橋ばしで車しや力りきが二ふた人り即そく死ししてしまひ、仕しご事と師しが一ひと人り気きが違ちがつてしまつたと云いふ騒さわぎ。それから其それが祟たゝりはしないか〳〵といふ気き病やみで、今いまいふ神しん経けい病びやうとか何なんとか云いふのだらうが、二代目はそれを気き病やみにして遂つひに気きが違ちがつた。それから三代目が嫁よめを貰もらつたのは、名前は忘れたが、何なんでもお旗はた本もとのお嬢ぢや様うさまとか何なんとかいふことだつた。お旗はた本もとのお嬢ぢや様うさまが嫁よめに来くるやうな身しん代だいになつたのだから、たいした身しん代だいになつた。すると此この嫁よめを姉あねと番ばん頭とうとで虐いぢめたので、嫁よめは辛つらくて居ゐられないから、実さ家とへ帰かへると、親おや父ぢは昔むか気しか質たぎの武ぶ士しだから、なか〳〵肯きかない、去さられて来くるやうな者は手てう打ちにしてしまふ、仮たと令ひどんな事があらうとも、女をんなは其その嫁かした家いへを本ほん当たうの家いへとしなければならぬと云いふことを云いひ聞かして帰かへされたから、途とは方うにくれて其その嫁よめが塩しほ原ばらの内うち井ゐ戸どへ飛とび込こんで幽いう霊れいに出るといふのが潰つぶれ初はじめで、あの大きな家うちが潰つぶれてしまつたが、何なんとこれは面おも白しろい怪くわ談いだんだらう﹂といふ話を聞いて、成なる程ほどこれは面おも白しろい話だ、これを種た子ねにして面おも白しろい話をこしらへたいと思つたが、其その塩しほ原ばら多たす助けといふ者が本ほん所じよ相あひ生おひ町ちやうに居ゐたか居ゐないか、名なさへ始めて聞いた位くらゐだから分わからない。兎とに角かく本ほん所じよへ行いつて探して見ようと思つて、是ぜし真んを翁うの家いへを暇いと乞まごひして是これから直すぐに本ほん所じよへ行ゆきました。
さて是ぜし真んを翁うの宅たくを暇いと乞まごひして、直すぐに本ほん所じよへ行いつて、少し懇こん意いの人があつたから段だん々〳〵聞いて見ると、二ふたつ目めの橋の側そばに金かな物もの屋やさんが有あるから、そこへ行いつて聞いたら分わかるだらうと云いふ。それから其その金かな物もの屋やさんで、名前は云いへないが、是これ々〳〵の炭すみ屋やが有ありましたかと聞くと、成なる程ほど塩しほ原ばら多たす助けといふ炭すみ屋やがあつたさうだが、それは余よほ程ど古いことだといふ。それでは塩しほ原ばらのことを委くはしく知つてゐる人がありませうかと云いつて聞いたところが、無ないといふ。何ど処こを捜さがしても分わからない。其その時とき六十九になる、仕しご事と師しの頭かしらといふほどではないが、世せわ話ば番んぐらゐの人に聞くと、私わたしは塩しほ原ばらの家いへへ出でい入りをしてゐたが、細こまかいことは知りませぬといふ。それでは塩しほ原ばらの寺てらは何ど処こでせうと聞いたところが、浅あさ草くさの森もり下したの――たしか東とう陽やう寺じといふ禅ぜん宗しう寺でらだといふことでございますといふ。それから直すぐに本ほん所じよを出て吾あづ妻まば橋しを渡つて、森もり下したへ行いつて捜さがすと、今いまの八軒けん寺でら町まちに曹さう洞どう宗しうの東とう陽やう寺じといふ寺てらがあつた。門の所で車から下おりてズツと這は入いると、玄げん関くわんの襖から紙かみに円まるに十の字じの標しるしが付ついてゐる。はてな、これは薩さつ摩まさ様まのお寺てらではないかと思ひました。門もん番ばんの処ところで花を買つて十銭せん散さん財ざいして、お墓はかを掃さう除ぢして下さい、塩しほ原ばら多たす助けの墓はかは此こち方らでございませうか、私わたしは塩しほ原ばらの縁えん類るゐの者でございますが、始めてまゐつたので墓はかは知りませぬから、案内して下さいと云いふと、﹁へい畏かしこまりました﹂と云いつて墓はかへ案内して掃さう除ぢしてくれましたから、墓はかの前に向むかつて私わたしは縁えん類るゐでも何なんでもないが、先せん祖ぞだ代い/々\と囘ゑか向うをしながら、只と見みると、墓はか石いしを取とり巻まいて戒かい名みやうが彫ほつてある。第だい一に塩しほ原ばら多たす助けと深く彫ほつてある。石せき塔たふの裏うらには新らしい塔たふ婆ばが立つてゐて、それに梅うめ廼の屋やと書いてある。どういふ訳わけで梅うめ廼の屋やが塔たふ婆ばを上あげたか、不ふし審んに思ひながら、矢やた立てと紙かみ入いれの鼻はな紙がみを取とり出だして、戒かい名みやうや俗ぞく名みやうを皆みな写うつしましたが、年ねん号がう月ぐわ日つぴが判はつ然きり分わかりませぬから、寺てらの玄げん関くわんへ掛かゝつて、﹁お頼たのみ申まうします﹂といふと、小こば坊う主ずが出て取とり次つぎますから、﹁私わたしは本ほん所じよ相あひ生おひ町ちやう二丁ちや目うめの塩しほ原ばら多たす助けの縁えん類るゐのものでございますが、まだ塩しほ原ばらの墓はかも知らず、唯たゞ塩しほ原ばらのお寺てらは此こち方らだといふことを聞きゝ伝つたへて、今こん日にちお墓はか参まゐりにまゐりました、これはほんの心ばかりでございますが、どうか先せん代だい多たす助けの御ごゑ囘か向うを願ひたいものでございます﹂と云いつて金かねを一円ゑん包つゝんで出すと、奥おくから和をし尚やう様さまが出て来きまして、﹁あなたが塩しほ原ばら多たす助けの御ごえ縁んる類ゐの方かたでございますか、愚ぐそ僧うが当たう住ぢうで……只たゞ今いま御ごゑ囘か向うを……﹂﹁いえ、今こん日にちは拠よんどころないことで急ぎますから、御ごゑ囘か向うは後あとでなすつて下さい……塔たふ婆ばをお立てなすつて、どうぞ御ごゑ囘か向うを願ひます﹂﹁畏かしこまりました﹂と茶を入れて金こん米ぺい糖たうか何なにかを出します。すると和をし尚やうさんの手ても許とに長はせ谷がは川ちや町うの待まち合あひの梅うめ廼の屋やの団うち扇はが二本ほん有ありますから、はてな此この寺てらに梅うめ廼の屋やの団うち扇はのあるのは何どういふ訳わけか、殊ことに塩しほ原ばらの墓はかにも梅うめ廼の屋やの塔たふ婆ばが立つて居をりましたから、何なにか訳わけのあることゝ思つて、﹁和をし尚やうさん、こゝにある団うち扇はは長はせ川がは谷ちや町うの待まち合あひの梅うめ廼の屋やの団うち扇はですか﹂﹁左さや様うです﹂﹁梅うめ廼の屋やは此こち方らの檀だん家かでございますか﹂﹁いえ檀だん家かといふ訳わけではありませぬが、長ながい間あひだ塩しほ原ばらの附つけ届とゞけをしてゐる人は梅うめ廼の屋やほかありませぬ、それで此この団うち扇はがあるのです﹂﹁それは何どういふ訳わけです﹂と聞くと、梅うめ廼の屋やは五代だい目めの塩しほ原ばら多たす助けの女によ房うばうで、それが亭てい主しゆが亡なくなつてから、長はせ谷がは川ちや町うへ梅うめ廼の屋やといふ待まち合あひを出したのです﹂﹁へえーさうでございますか﹂それぢやア梅うめ廼の屋やのお母ふくろに聞けば塩しほ原ばらの事は委くはしく分わかる。梅うめ廼の屋やに聞くのは造ざう作さもない事だ。といふのは梅うめ廼の屋やは落らく語ごし社やく会わいの寄より合あひ茶ぢや屋やでございますから……﹁有あり難がたうございます、どうか御ごゑ囘か向うを願ひます、又また参おま詣ゐりを致いたします﹂と云いつて、それから直すぐに浜はま町ちやう一丁ちや目うめの花はな屋やし敷きの相あひ鉄てつといふ料ち理や屋やへ行いつて、お膳ぜんを誂あつらへ、家うちの車をやつて、此この車で直すぐに来きてくれと云いつて梅うめ廼の屋やを迎むかへにやりました。
梅うめ廼の屋やは前にも申まうしました通とほり、落らく語ご家か一統とうの寄より合あひ茶ぢや屋やで、殊ことに当たう時じ私わたくしは落らく語ご家かの頭とう取どりをして居をりましたから、為ためになるお客と思ひもしまいが、早さつ速そく其その車くるまで来きてくれました。﹁何どうしたんです、何なにか急きふの御ごよ用うですか﹂﹁いや、改あらたまつてお聞き申まうしたいのだが、お前まへは塩しほ原ばらといふ炭すみ問どん屋やへ嫁よめになつた事が有あるさうだ﹂﹁いゝえ、炭すみ問どん屋やは疾とうに潰つぶれて、お厩うま橋やばしへ来きた時私わたくしが縁えん付づいたのです﹂﹁お前まへの御ごて亭いし主ゆは﹂﹁秀ひで三郎らうと云いつて五代目でございます﹂﹁早く死んだのかえ﹂﹁へえ、少し気きが違ちがつて早く死にました﹂と云いふから、成なる程ほど是ぜし真んを翁うの話の通とほり祟たゝつたのだなと思ひ当あたりました。﹁お前まへさんの所に何なにか書かき物ものはありませぬかえ――御ごせ先ん祖ぞ塩しほ原ばら多たす助けの書しよ類るゐか何なにか残のこつてゐませぬか﹂﹁何なにも有ありませぬ、少しは残のこつてゐた物も有ありましたが、此この前まへの火事で焼やけましたから、書かき付つけ類るゐはありませぬが、御ごせ先んぞ祖さ様まの着た黒くろ羽はぶ二た重へに大きな轡くつわの紋もんの附ついた着物が一枚あります。それは二代目塩しほ原ばらが、大たい層そう良よい身しん代だいになつて跡あと目めさ相うぞ続くをした時、お父とつさん、お前まへさんはもう是これだけの身しん代だいになつたら、少しはさつぱりした着物をお召めしなさるが宜よい、何い時つまでも木もめ綿んの筒つゝツぽでは可を笑かしいから、これを着て下さいと云いつて、其その黒くろ羽はぶ二た重への着物を出したところが、こんな物を着るやうで、商あき人んどの身しん代だいが上あがるものかと云いつて、一度も着たことは無なかつたさうです。其その着物が残のこつて居をります。それから御ごせ先んだ代いの木もく像ざうと過くわ去こち帳やうが残のこつて居をります﹂﹁それでは、ちよいとそれを持もつて来きて貰もらひたい﹂といふと、女おつ将かあは直すぐに車に乗つて行いつて取つて来きました。其その中うちに誂あつらへた御ごは飯んが出で来きましたから、御ごは飯んを食たべて、其その過くわ去こち帳やうを皆みな写うつしてしまつた。其その過くわ去こち帳やうの中うちに﹁塩しほ原ばら多たす助け養やう父ふ塩しほ原ばら覚かく右ゑ衛も門ん、実じつ父ぷ塩しほ原ばら覚かく右ゑ衛も門ん﹂と同じ名前が書いてある。はてな、同じ名前は変へんだと思つたから、﹁お母つかさん、こゝに同じ名前があるが、是これは何どういふ訳わけだらう﹂と聞くと、﹁それは私わたしには分わかりませぬ、そんな事が書かき物ものにあつたと云いひますけれども、私わたしには分わかりませぬ﹂﹁初しよ代だいの多たす助けといふ人は上じや州うしうの人ださうですが、さうかえ﹂﹁さうでございます、上じや州うしう沼ぬま田たの在ざいだと云いふことでございます﹂﹁何どこ処む村らといふことは分わかりませぬか﹂﹁どうも分わかりませぬ﹂﹁それぢや少し聞いたことが有あるから、私わたしは一つ沼ぬま田たへ行いつて見ようと思ふ﹂﹁沼ぬま田たの親しん類るゐもあの五代目が達たつ者しやの時じぶ分んは折をり々〳〵尋たづねて来きましたが、亡なくなつて後のちは音おと沙さ汰たはありませぬ、もしお逢あひになつたら、どうか宜よろしく・……﹂﹁何なんといふ名前です﹂﹁お師しし匠やうさん、私わたしは年を老とつて物おぼえが悪くなつて、よく覚おぼえて居をりませぬが、何なんでも多たの字じの付つく名前でしたが、忘れました﹂﹁分わかりませぬか﹂﹁分わかりませぬ﹂どうも村とこ名ろも分わからず、名前も分わからず、殆ほとんど困りましたけれども、細こまかに尋たづねたら知れぬ事もあるまいと、是これから宅たくへ帰かへつて、直すぐに旅たび立だちの支した度くを始めたから、宅うちの者は驚おどろいて、何ど処こへ行ゆくといふ。少し理わ由けがあつて旅をすると云いふと、弟で子しや何なにかが一緒しよに行ゆきたがるが、弟で子しでは少し都つが合ふの悪いことがある。宅たくに酒さか井ゐで伝んき吉ちといふ車を曳ひく男をとこがある、此この男をとこは力が九人にん力りきある、なぜ九人にん力りきあるかといふと、大だい根こん河が岸しの親しん類るゐの三さん周しうへ火事の手てつ伝だひにやつたところが、一人で畳たゝみを一度に九枚持もち出だしたから、九人にん力りきあると私わたしが考へた。其その伝でん吉きちを呼よんで、﹁時に私わたしは今こん度ど下しも野つけから上じや州うしうの方はうへ行ゆくに就ついて、お前まへを供ともに連つれて行ゆかうと思ふが、面おも白しろくも何なんともない、ひどい山の中へ行ゆくんだが、行ゆくかえ﹂﹁それは有あり難がたい、――どんな山の中でも行ゆきます、私わたしの生しや国うこくは越ゑつ中ちうの富とや山まで、反はん魂ごん丹たん売うりですから、荷にも物つを脊せ負おつて、まだ薬くすりの広ひろまらない山の中ばかり売うつて歩くのです、さうして又また翌よく年ねん其その山の中を売うつて歩くので、山の中は歩きつけて居をります、又また私わたしは力がありますから、途とち中うで追おひ剥はぎが五人や六人出ても大丈夫でございます、富とや山まの薬くす屋りやは風ふろ呂し敷きを前で本ほん当たうに結んでは居をりませぬ、追おひ剥はぎにでも逢あふと、直すぐに風ふろ呂し敷きの結び目がずつと抜ぬけてしまつて、後うしろへ荷物を投はふり出し、直すぐと匕あひ首くちを抜ぬいて追おひ剥はぎと闘たゝかふくらゐでなければ、迚とても薬くす屋りやは出で来きませぬ、私わたしが行ゆけば大丈夫でございます、御安心なさい﹂﹁さうかえ、足は大丈夫かえ﹂﹁足は大丈夫でございます、車を引いてゐる位くらゐでございますから﹂と云いふので、是これから支した度くをしまして、両りや人うにんで出かけましたが、何なんでも歩かなければ実じつ地ちは履ふめませぬ。東とう京きやうの内うちはうるさいから車に乗つて、千せん住ぢう掃かも部んじ宿ゆくで車より下おりて、是これから上じや州うしう沼ぬま田たへ捜さがしに行ゆきました。
︵拠若林蔵筆記︶