さてこれは外げだ題いを心しん眼がんと申まうす心の眼めといふお話でござりますが、物の色を眼めで見ましても、只たゞ赤あかいのでは紅こう梅ばいか木ぼ瓜けの花か薔ば薇らか牡ぼた丹んか分わかりませんが、ハヽア早はや咲ぎきの牡ぼた丹んであるなと心で受けませんと、五色しきも見みわ分けが付つきませんから、心しん眼がんと外げだ題いを致しましたが、大おほ坂さか町ちやうに梅ばい喜きと申まうす針はり医いがございましたが、療れう治ぢの方はうは極ごく下へ手たで、病人に針はりを打ちますと、それがためお腹なかが痛くなつたり、頭痛の所へ打ちますと却かへつて天あた窓まが痛んだり致しますので、あまり療れう治ぢを頼たのむ者はありません。すると横よこ浜はまの懇こん意いな人が親切に横よこ浜はまへ出でか稼せぎに来くるが宜いい、然さうやつてゐては何い時つまでも貧乏してゐる事では成ならん、浜はまはまた贔ひい屓きづ強よい処ところだからと云いつてくれましたので、当たう人にんも参まゐる気になりましたが、横よこ浜はまへ参まゐるには手てひ曳きがないからと自分の弟の松まつ之のす助けといふ者を連つれまして横よこ浜はまへまゐりまして、野の毛げの宅うちへ厄やつ介かいになつて居をり、せめて半年か今年一年位ぐらゐ稼かせいで帰かへつて来くるだらうと、女によ房うばうも待つて居をりますと、直すぐに三日目に帰かへつてまゐりました。鼻の尖あた頭まへ汗をかき、天あた窓まからポツポと煙けむを出し、門かど口ぐちへ突つツ立たつたなり物も云いひません。女房﹁おやお前まへお帰かへりか。梅﹁い……今帰かへつたよ。女房﹁おや何どうしたんだね、まア何どうも余あんまり早いぢやアないか、浜はまへ往いつて直すぐに帰かへつて来きたの。梅﹁直すぐにたツて居ゐられねえもの、どうも幾いく許ら居ゐたくつても居ゐられません、あまり馬ば鹿か馬ば鹿かしくつて口く惜やしいたツて口く惜やしくねえたツて耐たまらないもの……。と鼻はな息いき荒あらく思ふやうに口もきけん様子。女房﹁何どうしたんだねえ、まア何なんだね。梅﹁何どうしたつて、フン〳〵あの松まつン畜ちく生しやうめ……。女房﹁松まつさんが何どうしたんだえ。梅﹁彼あい奴つが、己おれを置おき去ざりにして先へ帰けへりやアがつたが、岩いは田た屋やさんは親切だから此こつ方ちへ来きな、浜はまは贔ひい屓きづ強ええから何なんでも来きねえと仰おつしやるので、他ほかに手てひ曳きがねえから松まつを連つれていくと、六畳でふの座ざし敷きを借かり切きつてゐると、火ひば鉢ちはここへ置おくよ、烟たば草こぼ盆んも置おくよ、土どび瓶んも貸かしてやる、水みづ指さしもこゝに有あるは、手てう水づ場ばへは此こ処ゝから往いくんだ、こゝへ布ふき巾んも掛かけて置おくよ、この戸とだ棚なに夜や具ぐ蒲ふと団んもあるよと何なにから何なにまで残のこらず貸かして下すだすつてよ、往いつた当たう座ざだから療れう治ぢはないや、退たい屈くつだらうと思つて岩いは田た屋やの御ごふ夫う婦ふが来きて、四よも方や山まの話をして居をると、松まつが傍そばで土どび瓶んをひつくりかへして灰はい神かぐ楽らを上あげたから、気きを附つけろ、粗そこ忽つをするなつて他ひ人とさまの前まへだから小こご言とも云いはうぢやアねえか、すると彼あい奴つが己おれにむかツ腹ぱらア立たつて、よく小こご言とをいふ、兄あに振いぶつたことを云いふな、己おれが手を曳ひいてやらなけりやア何ど処こへも往いかれめえ、御おま飯んまの世せ話わから手てう水づ場ばへ往いくまで己おれが附ついてツてやるんだ、月げつ給きふを取るんぢやアなし、何なんぞと云いふと小こご言とを云いやアがる、兄あにきもねえもんだ、兄あにき︵狸たぬき︶の腹はら鼓つゞみが聞いて呆あきれると吐ぬかしやアがるから、やい此こン畜ちく生しやう、手てめ前えは懶なま惰けも者んでべん〳〵と遊んでゐるから、何ど処こへ奉ほう公こうに遣やつたつて置いてくれる者もないから、己おれが養やしなつて置くからには、己おれの手を曳ひくぐらゐは当あた然りまいだ、何なにを云いやアがるつて立たち上あがつて戸そ外とへ出たが、己おれも眼めが見えないから追おつ掛かけて出ても仕しや様うはなし、あんな奴やつにまで馬ば鹿かにされると腹を立つのを、岩いは田た屋やの御ごふ夫う婦ふが心配して、なに松まつさんだつて家うちへ帰かへれば姉あねさんに小こご言とを云いはれるから、帰かへつて来くるに違ちがひない、なに彼あい奴つは銭ぜにを持もつてゐる気きづ遣かひは有ありませんから、停ステ車イシ場ヨンへ往いつたツて切符を買ふ手てあ当てもありませんから、いまに帰かへりませうと待つたが、帰かへつて来こねえ、処ところで悪い顔もしず、御ごは飯んの世せ話わから床とこの揚あげ下おろしまで岩いは田た屋やさん御ごふ夫う婦ふが為して下くださるんだが、宜いい気きになつて其そ様んなことがさせられるかさせられねえか考へて見ねえ、とてもそれなりに世せ話わに成なつてもゐられねえから帰かへつて来きたのよ。女房﹁本ほん当たうに困るぢやアないかね、私わたしも義ぎ理りある間なかだから小こご言とも云いへないが、たつた一人の兄にいさんを置おき去ざりにして帰かへつて来くるなんて……なに屹きつ度と早い晩まにぶらりと帰かへつて来くるのが落おちだらうが、嚥さぞ腹が立つたらうね。梅﹁腹が立つたつて立たねえツてえ、詰つまらねえ事ことを腹ア立てやアがつて、たつた一人の血を分けた兄の己おれを置おき去ざりにしやアがつてよ、是これと云いふのも己おれの眼めが悪いばつかりだ、あゝ口く惜やしい、何どうかしてお竹たけや切せめて此この眼めを片かた方〳〵でも宜いいから明けてくんなよ。女房﹁明けてくんなと云いつて、私わたしア医いし者やぢやアなし、そんな無理なことを云いつたツて私わたしがお前めへの眼めを明あける訳わけにはいかないが、苦しい時の神かみ頼だのみてえ事も有るから、二人で信しん心〴〵をして、一生懸命になつたら、また良いいお医いし者やに出で会あふことも有らうから、夫婦で茅かや場ばち町やうの薬やく師しさまへ信しん心〴〵をして、三七、二十一日にち断だん食じきをして、夜よな中かま参ゐりをしたら宜よからう。と是これから一生懸命に信しん心〴〵を始めました。すると一いつ心しんが通とほりましてか、満まん願ぐわんの日に梅ばい喜きは疲れ果てゝ賽さい銭せん箱ばこの傍そばへ打ぶつ倒たふれてしまふ中うちに、カア〳〵と黎しの明ゝめ告つぐる烏からす諸もろ共ともに白しら々〳〵と夜よが明け離はなれますと、誰たれやらん傍そばへ来きて頻しきりに揺ゆり起おこすものが有ります。×﹁梅ばい喜きさん〳〵、こんな処ところに寐ねて居ゐちやアいけないよ、風かぜえ引くよ……。梅﹁はい〳〵……︵眼めを擦こすり此こつ方ちを見る︶×﹁おや……お前まい眼めが開あいたぜ。梅﹁へえゝ……成なる程ほど……是これは……あゝ︵両りや手うてを合あはせ拝をがみ︶有あり難がたう存ぞんじます、南なむ無やく薬しる師りく瑠わう璃に光よ如ら来い、お庇か陰げを以もちまして両りや眼うがんとも明あきらかになりまして、誠に有あり難がたう存ぞんじます……成なる程ほどウ是これは手でございますか。×﹁然さうよ。梅﹁へえゝ巧うまく出で来きてゐますね。×﹁お前まへ何どうして眼めが明あいたんだ。梅﹁へえ実じつは二十一日にち断だん食じきをしました、一心しんが届とゞいたものと見えます。×﹁ムヽウ、まゝ此この位くらゐな目め出で度たい事はないぜ。梅﹁へえ誠に有あり難がたう存ぞんじます……あなたは何どち方らのお方かたで。×﹁フヽヽ何どち方らだつて、お前まへ毎まい日にちのやうに宅うちへ来きてえるぢやアねえか、大おゝ坂さか町ちやうの近あふ江みや屋き金ん兵べ衛ゑだよ。梅﹁へえ、是これは何どうも誠にへえゝ……あなたは其そ様んなお顔でございましたか。近江屋﹁フヽヽ其そ様んなお顔と云いふものもねえもんぢやアねえか、何なににしても眼めの明あいたは共に悦よろこばしい、ま結けつ構こうな事で。梅﹁へえ有あり難がたう存ぞんじます、毎度また御ごひ贔い屓きになりまして……これは何なんです、一体たいにかう有あるのは……。近江屋﹁成なる程ほどな、眼めのない人が始めて眼めの明あいた時には、何なん尺じやく何なん間げんが解わからんで、眼めの前さきへ一体たいに物ものが見みえると云いふが、妙めうなもんだね、是これは薬やく師しさまのお堂だうだよ。梅﹁へえゝ、お堂だうで、是これは……。近江屋﹁お賽さい銭せん箱ばこ。梅﹁成なる程ほど皆みんながお賽さい銭せんを上あげるんで手を突つツ込こんでも取れないやうに…巧うまく出で来きて居ゐますなア…あの向むかうに二つ吊ぶら下さがつて居ゐますのは…。近江屋﹁あれは提ちや灯うちんよ。梅﹁家かな内いなどが夜よる点つけて歩きますのは彼あれでげすか。近江屋﹁なに、それはもつと小さい丸いので、ぶら提ぢや灯うちんといふのだが、あれは神しん前ぜんへ奉ほう納なふするので、周まは囲りを朱あかで塗ぬり潰つぶして、中なかへ墨くろで﹁魚うをがし﹂と書いてあるのだ、周まは囲りは真まツ赤か中なかは真まツ黒くろ。梅﹁へえゝ真まツ赤か……真まツ黒くろ旨うまく名つけましたな、成なる程ほど真まツ赤からしい色で……彼あれは。近江屋﹁彼あ家れは宮みや松まつといふ茶ちや屋やよ。梅﹁へえゝ……これは甃しき石いしでございませう。近江屋﹁おや〳〵よく解わかつたね。梅﹁へえ是これは下げ駄たを履はいて通とほると、がら〳〵音がしますから解わかりますが、是これは盲まう人じんが歩きいゝやうに何ど処こへでも敷しいて有あるのでせう。近江屋﹁なアに社しや内ないばかりだアね、そろ〳〵出で掛かけようか。梅﹁へえ有あり難がたう存ぞんじます、只たゞ今いま杖つゑを持つてまゐりませう。近﹁もう杖つゑも要いらねえから薬やく師しさまへ納をさめて往いきな。梅﹁へえ誠に有あり難がたう存ぞんじます……へえゝ何どうも日につ本ぽん晴ばれがしたやうだてえのは、旦だん那なさま此この事ことでございませう、本当に有あり難がたいことで。近﹁まア芽め出で度たかつた。梅﹁旦だん那な々/々\これは何なんでげす。近﹁生きぐ薬すり屋やの看かん板ばんだよ。梅﹁あれは……。近﹁糸いと屋やの看かん板ばんだ。梅﹁へえゝ……あれは。近﹁人が見て笑つてるに、水みづ菓ぐわ子し屋やだ。梅﹁へえゝ……あ彼あす処こに在ある円まアるいものは何なんです、かう幾いくつも有あるのは。近﹁あれは密みか柑んだ。梅﹁あの色は何なんと云いふんです。近﹁黄きい色ろいてえのだ。梅﹁へえゝ……密みか柑んには異ちがつたのが有ありますなア、かう細ほそ長ながいやうな。近﹁フヽヽあれは乾ころ柿がきだ。梅﹁乾ころ柿がき、へえゝ彼あれは。近﹁第一の銀行よ。梅﹁成なる程ほど噂うはさには聞いて居をりましたが立りつ派ぱなもんですね……あれは。近﹁橋だ、鎧よろ橋ひばしといふのだ。梅﹁へえゝ立りつ派ぱな物もんですね何どうも……あの向うへ往いきますのは女をんなぢやアございませんか。近﹁然さうよ。梅﹁へえゝ女をんなてえものは綺きれ麗いなものですなア、男をとこが迷まよふな無理もありませんね。近﹁あれは何ど処こかの権ごん妻さいだか奥おくさんだか知れんが、人ひと柄がらで別べつ嬪ぴんだのう。梅﹁へえゝ綺きれ麗いなもんですなア、私わた共しどもの家かな内いは、時とき々〴〵私わたしが貴あな方たの処ところへお療れう治ぢに参まゐつて居ゐると迎むかひに来きた事もありますが、私わたしの女によ房うばうは今のやうな好いい女をんなですか。近﹁ウフヽヽ、アハヽヽ梅ばい喜きさん腹はらア立たつちやアいけないよ、お前まへん処とこのお内か儀みさんは失しつ敬けいだが余あまり器きり量やうが好よくないよ。梅﹁へえゝ何どんな工ぐあ合ひですな。近﹁フヽヽ何どんな工ぐあ合ひだツて……あ彼あそ処こへ味みそ噌こ漉しを提さげて往いく何ど処こかの雇やとひ女をんなが有あるね、彼あれよりは最もう少し色が黒くろくツて、ずんぐりしてえて好よくないよ。梅﹁彼あれより悪わるうございますと、それは恐おそ入れいりましたな、私わたくしは美人だと思つてましたが、器きり量やうの善よし悪あしは撫なでたツて解わかりません……あ……危あぶねえなア、何なんですなア……是これは……。近﹁人じん力り車きだ。梅﹁へえゝ眼めの見えない中うちは却かへつて驚おどろきませんでした、何どうでも勝手にしねえと云いふ気きが有ありましたから、眼めが明あいたら何なんだか怖こはくツて些ちつとも歩けません。近﹁それぢやア車くるまに乗のせよう、然さうして浅あさ草くさの観くわ音んおんさまへ連つれて往ゆかう。と是これから合あひ乗のりで、蔵くら前まへ通どほりから雷かみ神なり門もんの際きはで車くるまを下おり、近﹁梅ばい喜きさん、是これが仲なか見み世せだよ。梅﹁へゝえ何ど処こウ……。近﹁なアにさ、ここが観くわ音んおんの仲なか見み世せだ。梅﹁何なにかゞございませう玩おも具ちや店みせが。近﹁べた玩おも具ちや店みせだ。梅﹁どれが……。近﹁あの種いろ々んなものを玩おも具ちやと云いふのだ。梅﹁へえゝ……種いろ々んな物ものが有ありますな、此この間あひだね山やま田ださんの坊ぼつちやんが持もつていらしつたのを私わたしが握にぎつたら、玩おも具ちやだと仰おつしやいましたが、成なる程ほどさま〴〵の物ものが有ありますよ、此こつ方ちも玩おも具ちや……彼あつ方ちも玩おも具ちや、其その隣となりも玩おも具ちや、あゝ玩おも具ちやを引ひつ張ぱつて伸のばして居をります。近﹁フヽヽあれは飴あめやだよ。梅﹁へえゝ成なる程ほど、此こつ方ちは。近﹁人にん形ぎや屋うや。梅﹁向むかうのは。近﹁料れう理りぢ茶やや屋まん萬ば梅いといふのだ。梅﹁あら〳〵。近﹁見みつともねえなア、大きな声こゑであらあらと云いひなさんな。梅﹁あれは。近﹁絵ゑざ草う紙しだよ。梅﹁へえゝ綺きれ麗いなもんですな、撫なでて見ちやア解わかりませんが、此この間あひだ池いけ田ださんのお嬢ぢやうさまが、是これは絵ゑだと仰おつしやいましたが解わかりませんでした。梅﹁おゝ突つき当あたりやがつて、気きを附つけろい、盲めく人らに突つき当あたる奴やつが有あるかい。近﹁眼めが明あいて居ゐるぢやアないか。梅﹁ヘヽヽ今け日ふ明あきましたんで、不ふだ断ん云いひ慣つけて居ゐるもんですから。と云いひながら両りや手うてを合あはせ、梅﹁南なむ無だい大じ慈だ大い悲ひの観くわ世んぜ音おん菩ぼさ薩つ……いやア巨おほきなもんですな、人が盲めく目らだと思つて欺だますんです、浅あさ草くさの観くわ音んおんさまは一寸すん八分ぶだつて、虚う言そばツかり、巨おほきなもんですな。近﹁そりやア仁にわ王うも門んだ、是これから観くわ音んおんさまのお堂だうだ。梅﹁道だう理りで巨おほきいと思ひました……あゝ……危あぶない。と驚おどろいて飛とび下さがる。近﹁フヽヽ何なんだい、見みつともない、鳩はとがゐるんだ。梅﹁へえゝ豆をやるのは是これですか……鳩はとがお辞じ儀ぎをして居ゐますよ。近﹁なに豆を喰くつてゐるんだ。梅﹁異ちがつたのが居をりますね、頭あたまの赤あかい。近﹁あれは鶏には鳥とりだ……ま此こつ方ちへお出いで、こゝがお堂だうだ。梅﹁へえゝ成なる程ほど、十八間けん四面めんとは聞いてゐましたが、立りつ派ぱなもんですな。近﹁さ此この段だん々〴〵を昇のぼるんだ。梅﹁へえ何なんだか何どうも滅めち茶やでげすな……おゝ〳〵大たい層さう絵ゑざ双う紙しが献あがつてゐますな。近﹁額がくだアな、此こつ方ちへお出いで、こゝで抹まつ香かうを供あげるんだ、是これがお堂だうだよ。梅﹁へえゝ是これが観くわ音んおんさまで……これは何なんで。近﹁お賽さい銭せん箱ばこだ。梅﹁成なる程ほど先さつ刻きも薬やく師しさまで見ましたが、薬やく師しさまより観くわ音んおんさまの方はうが工くめ面んが宜いいと見えてお賽さい銭せん箱ばこが大きい……南なむ無だい大じ慈だ大い悲ひの観くわ世んぜ音おん菩ぼさ薩つ、今こん日にち図はからず両りや眼うがん明あきらかに相あひ成なりましてございます、誠に有あり難がたき仕しあ合はせに存ぞんじます……。近﹁梅ばい喜きさん、此こつ方ちへお出いでよ。梅﹁へえ……こゝに大たい層そう人が立つてゐますな。近﹁なに彼ありやア此こつ方ちの人が映うつるんだ、向うに大きな姿すが見たみが立つてゐるのさ。梅﹁此こつ方ちの人が向うへ……︵前ぜん後ごを見みか返へり︶え成なる程ほど近あふ江み屋やさん貴あな方たが向うに立つてゐますな、成なる程ほど能よく似にてゐますこと。近﹁似にてゐる筈はずよ、鏡かゞみへ映うつるんだから、並んで見えるだらう。梅﹁私わたしは何ど方れで。近﹁何ど方れだツて二人並んで居ゐるだらう。梅﹁へえ……。首を動かし見て、﹁成なる程ほど此こつ方ちで首を振ふるやうに向うでも振ふり、舌したを出せば彼あつ方ちでも出しますな。近﹁止よしねえ、見みつともねえから。梅﹁ムヽウ私わたしは随ずゐ分ぶん好いい男をとこですな。近﹁ウン……。梅﹁私わたしは此この位くらゐな器きり量やうを持もつてゐながら、家かな内いは鎧よろ橋ひばしで味みそ噌こ漉しを提さげて往いつた下をん婢なより悪いとは、ちよいと欝ふさぎますなア。近﹁其そ様んなことを云いつたつて為しやうがない、さアこゝは奥おく山やまだ。梅﹁へえ……。ときよろ〳〵してゐる中に、近あふ江み屋やの旦だん那なを見みは失ぐつてしまひました。梅﹁金きん兵べ衛ゑさアん……近あふ江み屋やさアん……。と大きな声こゑを出して山やま中ぢう呶ど鳴なり歩きます中うちに、田たん圃ぼの出でぐ口ちの掛かけ茶ぢや屋やに腰を掛かけて居ゐました女をんなは芳よし町ちや辺うへんの芸げい妓しやと見えて、お参まゐりに来きたのだから余あまり好よい装なりでは有ありません、南なん部ぶの藍あゐの萬まん筋すぢの小こそ袖でに、黒くろ縮ちり緬めんの羽はお織り、唐たう繻じゆ子すの帯おびを〆しめ、小さい絹きぬ張ばりの蝙かう蝠もり傘がさを傍そばに置き、後あと丸まるののめりに本ほん天てんの鼻はな緒をのすがつた駒こま下げ駄たを履はいた小こい粋きな婦ふじ人んが、女﹁ちよいと梅ばい喜きさん、ちよいと。梅﹁へえへえ何ど処こウ……︵彼あち方ら此こち方らを見みま廻はす︶女﹁何なんだよう、私わたしが先さつ刻きから見てゐると、お前まへがこゝを往いつたり来きたりしてえるが、眼めが開あいて居ゐるから能よく似にた人が有あると思おもつてゐたら、矢やつ張ぱり梅ばい喜きさんなんだよ、ま何どうしたえ。梅﹁へえ、今け日ふ眼めが開あきました。女﹁眼めが開あいたえ……だから馬ば鹿かには出で来きないものだよ、本ほん当たうに神かみさまの御ごり利や益くだよ、併しかしまア見みち違がへるやうな好いい男をとこになつたよ。梅﹁へえ、あなたは何ど処このお方かたで。女﹁いやだよ、大たい概がい声こゑでも知れさうなもんだアね、小こは春るだよ。梅﹁え……小こは春るね姐えさんで、成なる程ほど……美うつくしいもんですなア。小春﹁いやだよ、大たい概がいにおし。梅﹁へゝゝお初はつにお目めに懸かゝりました。小春﹁何なんだね、お初はつウなんて。梅﹁いえ、お顔を見るのはお初はつウで。小春﹁お前まへは眼めが開あいてちよいと子こが柄らを上あげたよ、本ほん当たうにまア見みち違がいちまつたよ、一人で来きたのかい、なに近あふ江み屋やの旦だん那なを、ムヽ失はぐれて、然さうかい、ぢやア何ど処こかで御ごぜ飯んを食たべたいが、惣そうざい料れう理りもごた〳〵するし、重おんもりする処ところも忌いやだし、あゝ釣つり堀ぼりの師しゝ匠やうの処ところへ往ゆかうぢやアないか。梅﹁へえゝ釣つり堀ぼりさまとは。小﹁何なんだね釣つり堀ぼりだね。梅﹁有あり難がたい……私わたしは二十一日にち御ごぜ飯んを食たべないので、腹はらの空へつたのが通とほり過すぎた位くらゐなので、小﹁ぢやア合あひ乗のりで往ゆかう。と是これから釣つり堀ぼりへまゐりますと、男なん女によの二ふた人りづ連れゆゑ先せん方ぱうでも気きを利きかして小こ間まへ通とほして、蜆しゞみのお汁つけ、お芋いもの転につころがしで一いつ猪ちよ口こ出ました。小﹁さ、お喫たべよ、お前まへの目めが開あいて芽め出で度たいからお祝いはひだよ、私わたしがお酌しやくをして上あげよう……お猪ちよ口こは其そ処こに有あらアね。梅﹁へえゝ是これがお猪ちよ口こ……ウンナ……手には持もち慣つけて居ゐますが、巧うまく出で来きてるもんですな、ヘヽヽ、是これはお徳とく利り、成なる程ほど此こン中なかからお酒さけが出るんで、面おも白しろいもんですな。小﹁何なんだよ、猪ちよ口この中へ指を突つつ込こんでサ、もう眼めが開あいて居ゐるから、お酒さけの覆こぼれる気きづ遣かひはないは。梅﹁へゝゝ不ふだ断んやりつけてるもんですから……︵一口くち飲のんで猪ちよ口こを下に置き︶有あり難がたう存ぞんじます、どうも……。小﹁冷さめない中うちにお吸すひよ、お椀わんを。梅﹁へえ是これがお椀わんで……お箸はしは……これですか、成なる程ほど巧うまく出で来きて居ゐますな……ズル〳〵ズル〳〵︵汁を吸ふ音︶ウン結けつ構こうでございます……が、どうもカ堅かたくつて……。小﹁ホヽいやだよ此この人ひとは、蜆しゞみの貝かひごと食たべてさ……あれさお刺さし身みをおかつこみでないよ。梅﹁へえ……あゝ好いい心こゝ持ろもちになつた。と漸だん々〴〵盞さかづきがまはつて参まゐるに従したがつて、二人とも眼めの縁ふちほんのり桜さく色らいろとなりました。小﹁梅ばい喜きさん、本ほん当たうにお前まへ男をと振こぶりを上あげたよ。梅﹁へえ私わたしは随ずゐ分ぶん好いい男をとこで、先さつ刻き鏡かゞみでよく見ましたが。小﹁お前まへに去きよ年ねん私わたしが寸すば白こで引ひいてゐる時じぶ分ん、宅うちへ療れう治ぢに来きたに、梅ばい喜きさんの療れう治ぢは下へ手ただが、何ど処こか親しん切せつで彼あ様んな実じつの有ある人はないツて、宅うちの小こう梅めが大たい変へんお前まへに岡をか惚ぼれをしてゐたよ、あれで眼めが有あつたら何どうだらうと云いつたが、眼めが開あいたから誰だれでも惚ほれるよ、私わたしは本当に岡をか惚ぼれをしたワ。梅﹁えへゝゝゝ冗じよ談うだん云いつちやアいけません、盲めく人らにからかつちやア困ります。小﹁盲めく目らだつて眼めが開あいたぢやアないか、冗じよ談うだんなしに月つき々〴〵一度ど位ぐらゐづゝ遊んでおくれな、え梅ばい喜きさん。梅﹁あなた、そりやア本当でげすかい。小﹁本当にも嘘うそにも女をんなの口から此こ様んなことを云いひ出すからにやア一生懸命だよ。梅﹁え……本当なれば私わたしア嬶かゝあを追ひ出しちまひます、へえ鎧よろ橋ひばしの味みそ噌こ漉し提さげより醜わるいてえひどい顔で、直すぐにさらけだしちまひます、あなたと三日かでも宜いいから一緒しよに成なり度たいね。と云いつて居をりますと、突いき然なり後うしろの襖ふすまをがらりと開あけて這は入いつて来きた婦ふじ人んが怒いかりの声こゑにて、婦人﹁何なんだとえ。梅﹁え……何ど処この人ひとだえ。婦人﹁何ど処この人ひとだつて、お前まへの女によ房うばうのお竹たけだよ。梅﹁お竹たけえ……是これはどうも……。竹﹁何なんだとえ、今いま聞きいてゐれば、彼あい奴つの顔は此こんなだとか彼あんなだとかでいけないから、さらけだしてしまひ、小こは春るね姐えさんと夫ふう婦ふに成ならうと宜よく云いつたな、お前まへ其そ様んなことが云いはれた義ぎ理りかえ、岩いは田た屋やの旦だん那なに連つれられて浜はまへ往いつて、松まつさんと喧けん嘩くわアして帰かへつて来きた時に何なんとお云いひだえ、あゝ口く惜やしい、真しん実じつの兄きや弟うだいにまで置おき去ざりにされるのも己おれの眼めが悪いばかりだ、お竹たけや何どう卒ぞ一かた方〳〵でも宜いいから明あけてくれ、どうかエ然さうして薄くも見えるやうにして呉くれと云いふから、私わたしも医いし者やぢやアなし、お前まへの眼めを明あけやうはないが、夫それ程ほどに思ふなら定さだめし口く惜やしかつたらう、何どうかして薄うすくとも見えるやうにして上あげたいと思つて、茅かや場ばち町やうの薬やく師しさまへ願ぐわ掛んがけをして、私わたしは手てさ探ぐりでも御ごぜ飯んぐらゐは炊たけますから、私わたしの眼めを潰つぶしても梅ばい喜きさんの眼めを明あけて下くださるやう、御ごり利や益くを偏ひとへに願ひますと無理な願ぐわ掛んがけをして、寿じゆ命みやうを三年ねん縮ちゞめたので、お前まへの眼めが開あいたのは二十一日にち目めの満まん願ぐわんぢやアないか、私わたしは今け朝さ眼めが覚さめてふと見みると、四あた辺りが見えないんだよ、はてな……私わたしの眼めが潰つぶれたか知らん、私わたしが見えなければきつと梅ばい喜きさんの眼めが開あいたらう、それとも無理な願ぐわ掛んがけを為したから私わたしへ罰ばちが中あたつて眼めが潰つぶれたのかと思つて、おど〳〵してゐる所ところへ、近あふ江み屋やの旦だん那なが帰かへつて来きて、梅ばい喜きの眼めが開あいたから浅あさ草くさへ連つれて往いつたが、奥おく山やまで見みは失ぐつたけれども、眼めが開あいたから別べつに負け傷がはないから安心して居ゐなと云いはれた時には、私わたしは本当に飛とび立たつ程ほどに嬉うれしく、自分の眼めが潰つぶれた事も思はないでサ、早くお前まへに遇あつて此この事ことを聞かしたいと思つたから、お前まへの空あき杖づゑを突ついて方はう々〴〵探さがして歩くと、彼あす処この茶ちや店やで稍やうやく釣つり堀ぼりへ往いつたといふ事が解わかつたから、こゝへ来きてもお前まへの女によ房うばうとは云いはない。只たゞ梅ばい喜きさんに遇あひたうございます。何どう卒ぞ遇あはしておくんなさいまし、私わたしは女をん按なあ摩んまでお療れう治ぢにまゐりましたと云いつたら、按あん摩まさんなら茲こゝにおいで、今お酒さけが始まつて居ゐるからと云いふので、私わたしは次つぎの間まに居ゐるとも知らず、お前まへは眼めが開あいたと思つて宜よくのめのめと増ぞう長ちやうして私わたしを出すと云いつたね。梅ばい喜きは天あた窓まを両りや手うてで押おさへ、梅﹁はあア誠に面めん目ぼく次しだ第いもない、お前まへが次つぎの間まに居ゐやうとは知らず、誠に済すまない……。女によ房うばうは暫しばらく泣なき伏ふし涙を拭ぬぐひつゝ、竹﹁どうも本当に呆あきれちまつたね、私わたしは死にます……何なにを押おさへるんだ、放はなしておくれ。と止める手てさ先きを振ふり切きつて戸そ外とへ出る途とた端んに、感が悪いから池の中へずぶり陥はまりました。梅﹁おゝ……お竹たけや〳〵。竹﹁何なんだよ、しつかりお為しよ、梅ばい喜きさん〳〵、お起おきよ。と揺ゆり起おこされ、欠あく伸びをしながら手てさ先きを掻かき、梅﹁ハアー……おや燈あか火りを消したかえ。竹﹁何なにを云いふんだね、しつかりおしよ、お前まへ何なにか夢でも見たのかえ、額ひたひへ汗をかいてゝさ。梅﹁へえゝ……お前まへは誰だれだえ。竹﹁ホヽヽ何なんだよ、お竹たけだアね。梅﹁こゝは釣つり堀ぼりかい。竹﹁何なんだね、宅うちに寐ねて居ゐるんだよ、お前まへ寐ね耄ぼけたね、何どうか夢でも見たんだよ。梅﹁あ……夢かア、おや〳〵盲めく人らてえものは妙めうな者もんだなア、寐ねてゐる中うちには種いろ々〳〵のものが見えたが、眼めが醒さめたら何なにも見えない。……心しん眼がんと云いふお話でございます。
︵拠酒井昇造筆記︶