亭﹁今いま帰かへつたよ。女房﹁おやお帰かへりかい、帰かへつたばかりで疲つかれて居ゐやうが、後ごし生やうお願ねがひだから、井ゐど戸ば端たへ行いつて水を汲くんで来きてお呉くれな、夫それから序ついでにお気の毒だけれど、お隣となりで二杯はい借かりたんだから手てを桶けに二杯はい返かへしてお呉くれな。亭﹁うーむ、水まで借かりて使ふんだな。妻﹁其その代かはりお前まへの嗜すきな物を取とつて置いたよ。亭﹁え、何なにを。妻﹁赤おこ飯は。亭﹁赤おこ飯は、嬉うれしいな、実じつア今け日ふなんだ、山やま下したを通とほつた時、ぽツ〳〵と蒸け気むが立たつてたから喰くひてえと思つたんだが、さうか、其そい奴つア有あり難がてえな、直すぐに喰くはう。妻﹁まア〳〵喫たべるのは後あとにして、早く用を仕しちまつてから、ちよいとお礼れいに行いつてお出いでよ。亭﹁うむ。是これから水を汲くんで了しまひ、亭﹁ぢアま行いつて来くるが、何ど家こから貰もらつたんだ。妻﹁アノ奥おくのね、真しん卓たく先せん生せいの許とこから貰もらつたんだよ。亭﹁うむ、アノお医いし者やか、可をか笑しいな。妻﹁ナニ可を笑かしいことがあるものか、何なんだかね、お邸やしきからいゝ熊くまの皮を到たう来らいしたとか云いつて、其その祝いはひだつて下くだすつたのだよ、だからちよいとお礼れいに往いつてお出いで。亭﹁何なんてツて。妻﹁何なんだつてお前まへ極きまつてらアね、承うけたまはりますれば御おや邸しきから何なにか御ごは拝いり領やう物ものの儀ぎに就つきまして、私わた共くしどもまでお赤せき飯はんを有あり難がたう存ぞんじますてんだよ。亭﹁おせきさんを有あり難がたう。妻﹁お前まへ何なにを云いふんだ、おせきさんぢやないお赤せき飯はんてえのだ。亭﹁お赤せき飯はんてえのは何なんだ。妻﹁強おこ飯はのことだよ。亭﹁ムー、お赤せき飯はんてえのか、さうか。妻﹁でね、一番ばん終しまひに私わたしも宜よろしくとさう云いつてお呉くれよ。亭﹁己おれが行いくのに私わたしも宜よろしくてえのは可を笑かしいぢやないか。妻﹁ナニお前まへが自分の事を云いふのぢやない、女によ房うばうも宜よろしくといふのだよ。亭﹁うむ、お前まへがてえのか、で何なんてんだ。妻﹁承うけたまはりますれば、何なにか御おや邸しきから御ごは拝いり領やう物ものの儀ぎに就ついて、私わた共くしどもまでお赤せき飯はんをお門かど多おほいのに有あり難がたう存ぞんじますつて。亭﹁少し殖ふえたなア。妻﹁殖ふえたのぢやアありアしない、当あた然りまへな話だよ。亭﹁其そん様なに色いろんな事を云いつちやア側そばから忘れちまあア。妻﹁お赤せき飯はんを有あり難がたう存ぞんじますつて、一番ばん終しまひに女によ房うばうも宜よろしくと云いふんだよ。亭﹁エヘ〳〵、何なんだか忘れさうだな、もう一遍ぺん云いつて呉くんねえな。妻﹁困るねえ、承うけたまはりますれば何なにか御おや邸しきから御ごは拝いり領やう物ものの儀ぎに就つきまして私わた共くしどもまでお赤せき飯はんを有あり難がたう存ぞんじます序ついでに女によ房うばうも宜よろしくてえんだよ。亭﹁え。妻﹁本ほん当たうに子供ぢやアなし、性しやうがないね、確しつかりおしよ。亭﹁ア痛いてえ、何なにをするんだ。妻﹁余あんまり向むか脛うずねの毛が多おほ過すぎるから三本ぼん位ぐらゐ抜ぬいたつて宜いいや、痛いと思つたら些ちつたア性しやうが附つくだらう。亭﹁ア痛いてえ。妻﹁痛いと思つたら、女によ房うばうも宜よろしくてえのを思おも出ひだすだらう。亭﹁うむ、ぢやア行いつて来くるよ。是これから衣きも服のを着きか換へて、奥おくのお医いし者やの許もとへやつて参まゐり、玄げん関くわんへ掛かゝつて、甚﹁お頼たのウ申まうします。書生﹁どーれ、ヤ、是これはお入い来でなさい。甚﹁エヽ先生は御ごた退いく屈つですか。書﹁別に退たい屈くつも致いたしちやア居ゐませぬが、何なんですい。甚﹁いえ、お宅たくにお出いでなせえますかツてんで…エヘ…御ござ在いた宅くかてえのと間まち違がひたんで。書生﹁さうか、ま此こつ方ちへお上あがり。甚﹁アヽお目めに懸かゝつて少せう々〳〵お談だんじ申まうしてえ事があつて出ましたんで。書生﹁お談だんじ申まうしたい……エヽ先生八や百ほ屋やの甚じん兵べ衛ゑさんがお入い来でで。真﹁おや〳〵夫それは能よくお入い来でだ、さア〳〵此こ方れへ、何どうも御ごき近んじ所よに居ゐながら、御ご無ぶ沙さ汰たをしました、貴あな方たは毎まい日にち能よくお稼かせぎなさるね朝も早く起おきて、だから近所でもお評へう判ばんが宜ようごすよ。甚﹁えゝ、何なにかソノ承うけたまはりまして驚おど入ろきいりましたがね。真﹁エ、何なにを驚おどろいた。甚﹁何なんだか貴あな方たはソノお邸やしきから持もつてお出いでなすつたてえことで。真﹁エ。甚﹁盗ぬすんで来きたつてね。真﹁何どうも怪けしからぬことを仰おつしやるねお前まへさんは、私わたしも随ずゐ分ぶん諸しよ家けさ様まへお出でい入りをするが、塵ちりツ葉ぱ一本ぽんでも無むだ断んに持つて来た事はありませぬよ。甚﹁いゝえ夫それでも確たしかに持つて来なすつた。真﹁何どうも怪けしからぬ事を、何なんぼお前まへさんは人が良いいからつて、よもや証しよ拠うこのない事を云いひなさるまい。甚﹁エヽありますとも、アノ一番ばん奥おくの掃はき溜だめの前まへの家いへのお関せきさん、彼あの方かたが証しよ拠うこ人にんです。真﹁証しよ拠うこ人にんならお連つれなさい、此こつ方ちは些ちつとも覚おぼえのない事だから。甚﹁エヘヽヽヽ、ナニおせきさんぢやない赤いソノ何なんとか云いつたつけ、うむ、お赤せき飯はんか。真﹁えゝ成なる程ほど、夫それぢやア先さつ刻きお前まへさん所ところへお赤せき飯はんを上あげた其その礼れいに来きなすつたのかね。甚﹁ヘイ能よく知つて居ゐますね、横わう着ちや者くもの。真﹁ナニ横わう着ちやくな事があるものか、イエ彼あれはほんの心ばかりの祝いはひなんで、如い何かにも珍めづらしい物を旧きゆ主うし人ゆじんから貰もらひましたんでね、実じつは御ごぞ存ん知ぢの通とほり、僕ぼくは蘭らん科くわの方はうは不ふ得え手てぢやけれど、時じせ勢いに追はれて止やむを得えず、些ちつとばかり西せい洋やう医いの真まね似ご事ともいたしますが、矢やは張り大おほ殿とのや御ごい隠んき居よさ様まな杯どは、水みづ薬ぐすりが厭いやだと仰おつしやるから、已ま前への煎せん薬やくを上あげるので、相あひ変かはらずお出でい入りを致いたして居ゐる、処ところが這この囘たび多たぶ分んのお手てあ当てに預あづかり、其その上うへ珍めづらかなる熊くまの皮を頂ちや戴うだいしましたよ、敷しき皮がはを。甚﹁へえーアノ何なんですか、蟇ひきがへるを。真﹁蟇ひきがへるぢやアない、敷しき皮がはです、彼あ所れに敷しいてあるから御ごら覧んなさい。甚﹁へえー成なる程ほど大きな皮だ、熊の毛てえものは黒いと思つたら是こりア赤あかうがすね。真﹁いま山さん中ちゆうに接すむ熊とは違つて、北ほつ海かい道だう産さんで、何どうしても多く魚ぎよ類るゐを食しよくするから、毛が赤いて。甚﹁へえー、緋ひを縅どしの鎧よろひでも喰くひますか。真﹁鎧よろひぢやアない、魚ぎよ類るゐ、さかなだ。甚﹁へえー成なる程ほど、此こ処ゝに弾てつ丸ぱうだまの穴か何なにかありますね。真﹁左さや様うさ、鉄てつ砲ぱう傷きずのやうだね。甚﹁何どうも大たい変へんに毛が長ながうがすな。真﹁うむ、牛うし熊ぐまの毛はチヤリ〳〵して長いて。甚﹁ア想おも出ひだした、女によ房うばうも宜よろしく。