落らく語ごの濫らん觴しやうは、昔むか時し狂きや歌うか師しが狂きや歌うかの開ひらきの時ときに、互たがひに手を束つかねてツクネンと考かん込がへこんで居をつては気きが屈くつします、乃そこで其その合あひ間まに世の中の雑ざつ談だんを互たがひに語り合あうて、一時じの鬱うつを遣やつたのが濫はじ觴まりでござります。尚なほ其その前まへに溯さかのぼつて申まうしますると、太たい閤かふ殿でん下かの御ごぜ前んにて、安あん楽らく庵あん策さく伝でんといふ人が、小さい桑くはの見けん台だいの上に、宇うじ治しふ拾ゐも遺のが物た語りやうなものを載のせて、お話を仕したといふ。是これは皆みな様さまも御ごあ案んな内いのことでござりますが、其その時とき豊ほう公こうの御ごち寵よう愛あいを蒙かうむりました、鞘さや師しの曾そろ呂りし利ん新ざ左ゑ衛も門んといふ人が、此この事ことを聴きいて、私わたくしも一つやつて見たうござる、と云いふので、可をか笑しなお話をいたしましたが、策さく伝でんの話より、一層そう御ぎよ意いに適かなひ、其その後のち数たび度〳〵御ごぜ前んに召めされて新しん左ざゑ衛も門んが、種しゆ々〴〵滑こつ稽けい雑ざつ談だんを演えんじたといふ。夫それより後のちに鹿しか野のぶ武ざ左ゑ衛も門んといふ者が、鹿しかの巻まき筆ふでといふものを拵こしらへ、又また露つゆ野の五ご郎ろ兵べ衛ゑといふものが出でて、露つゆ物もの語がたりでござりますの、或あるひは露つゆの草さう紙しといふものが出で来きました。夫それ切きり絶たえて此この落らく語ごと云いふものはなかつたのでございます。夫それより降くだつて天てん明めい四年ねんに至いたり、落らく語ごと云いふものが再さい興こういたしました。是これは前まへにも申まうしました通とほり、狂きや歌うか師しが寄よつて狂きや歌うかの開ひらきをいたす時、何なにかお互たがひに可を笑かしい話でもして、ワツと笑ふ方はうが宜よからうと云いふので、二三囘くわいやつて見ると頓とんだ面おも白しろいから、毎まい月げつやらうと云いふ事に相あひ成なり、蜀しよ山くさ人んじん、或あるひは数す寄き屋や河が岸しの真まが顔ほでございますの、談だん洲しゆ楼うろ焉うえ馬んばなどゝ云いふ勝すぐれた狂きや歌うか師しが寄よつて、唯たゞ落らく語ごを拵こしらへたまゝ開ひらいても面おも白しろくないから、矢やは張り判はん者じやを置おく方はうが宜よからうと云いふので、烏うて亭いえ焉ん馬ばを判はん者じやに致いたし、乃そこで狂きや歌うか師しの開ひらきと共に此この落らく語ごの開ひらきもやらうと云いふ事になり、談だん洲しゆ楼うろ焉うえ馬んばが判はん者じやで、四よ方もの赤あか良らが補ほじ助よといふ事で、披ち露ら文しを配つたが、向むか島うじまの武むさ蔵し屋やの奥おく座ざし敷きが閑しづ静かで宜よからう、丁ちや度うど桜さく花らも散つて了しまうた四月ぐわつ廿一日にちごろと決したが、其その披ち露ら文しの書かき方かたが誠に面おも白しろい。
﹁這この囘たび向むか島うじまの武むさ蔵し屋やに於おいて、昔むか話しばなしの会くわいが権ごん三ざりやす﹂
と書いた、是これは武むさ蔵し屋や権ごん三郎らうを引ひツ掛かけたのだが何なん日かとも日ひが認したゝめてないから、幾いく日かだらう、不思議な事もあるものだ、是これは落らく字じをしたのか知ら、忘れたのではないか、と不ふし審んを打つ者があると、数す寄き屋や河が岸しの真まが顔ほが、﹁イヤ是これは大おほ方かた二十一日にちであらう、﹁昔むかし﹂と云いふ字じハ、廿一日にちと書くから、まア廿一日にちに行いつて見なさい。成なる程ほどと思つて当たう日じつ行いつて見ると、幟のぼ等りなどを建たて盛さかんに落はな語しの会くわいがあつたといふ。して見ると無理に衆ひ人とに聴きかせよう、と云いふ訳わけでも何なんでもなかつたのでござります。
恁かゝる事は円わた朝くしも薩さつ張ぱり存ぞんぜずに居をりましたが、彼かの談だん洲しゆ楼うろ焉うえ馬んばが認したゝめた文に依よつて承しよ知うちいたしました。其その文ぶんに、
﹁夫それ羅らざ山んの口こう号がうに曰いはく、萬まん葉えふ集しふは古こ詩しに似にたり、古こき今んし集ふは唐たう詩しに似にたり、伊いせ勢もの物がた語りは変へん風ぷうの情じやうを発はつするに贋にせたり、源げん氏じも物のが語たりは荘さう子しと天てん台だいの書しよに似にたりとあり。爰こゝに宇うぢ治しふ拾ゐも遺のが物た語りと云いへるは、大だい納なご言んた隆かく国にき卿やう皐さつ月きより葉はづ月きまで平びや等うど院うゐん一いつ切さい経きやうの山やま際ぎは南なん泉せん坊ばうに籠こもりたまひ、あふさきるさの者のはなし、高き賤いやしきを云いはず、話に従したがひ大おほきなる草さう紙しに書かれけり、貴たつとき事もあり、哀あはれなる事もあり、少しは空そら物もの語がたりもあり、利りこ口うなる事もありと前ぜん文ぶんに記しるし置おかれたり、竹たけ取とり物もの語がたり、宇うつ津ぼも保のが物た語りは噺はなしの父ちゝ母はゝにして、夫それより下しもつ方かたに至いたりては、爺ぢゞは山へ、婆ばゞは川へ洗せん濯たく、桃もゝの流れしと云いふ事を始め、其その咄はなしの種たね、夭よう々〳〵として其その葉は秦しん々〳〵たり。されば竹に囀さへづる舌した切きり雀すゞめ、月に住む兎うさぎの手てが柄ら、何いづれか咄はなしに洩もれざらむ、力をも入れずして顋おとがひのかけがねを外はづさせ、高き華おい魁らんの顔をやはらぐるも是これなり。此この噺はなし日いつ外ぞや下しもの日ひま待ちの時とき開ひら始きはじめしより、いざや一会くわい催もよほさんと、四よも方のあ赤か良ら大う人し、朱あけ楽らく管わん江かう大う人し、鹿しか都つべ辺ま真が顔ほ、大おほ屋やの裏うら住ずみ、竹たけ杖づゑの為すが軽る、つむりの光、宿やど屋やの飯めし盛もりを始めとして、向むか島うじまの武むさ蔵し屋やに落らく語ごの会くわいが権ごん三ざり升ますと、四よ方もの大う人しの筆ふでにみしらせ、おのれ焉えん馬ばを判はん者じやになれよと、狂きや歌うかの友どち一百ぴやく余よに人ん、戯げさ作くの口を開けば、遠からん者は長なが崎さきから強こは飯めしの咄はなし、近くば、寄よつて三みま升すの目めじ印るし、門もん前ぜんに市いちを為なすにぞ、のど筒づゝの往わう来らいかまびすしく、笑ふ声こゑ富ふ士じ筑つく波ばにひゞく。時に天てん明めい四ツの年とし甲きの辰えたつ四月ぐわつ廿一日にちなり。夫それより両りや国うご尾くを上のへ町ちやう、京きや屋うやが楼ろう上じやうに集しふ会くわいする事十歳とせあまり、之これを聞くものおれ我われに語り、今は世よわ渡たるたつきともなれり、峨がこ江う初はじめは觴さかづきを泛うかめ、末すゑは大たい河がとなる噺はなしも末すゑは金きん銭せんになるとは、借しや家くやを貸かして母おも屋やを取らるゝ譬たとへなるべし、とは云いへ是これも大おほ江え戸どの有ありがたき恵めぐみならずや。
よいおとし噺 も年 も七十の
市 が栄 へて千代 やよろづよ
文化十癸酉春
談語楼銀馬 の需 に応 じて
文化十癸酉春
七十一翁 、烏亭焉馬
右みぎは軸ぢくになつて居をりますが、三遊いう亭てい一派ぱの共きよ有うい物うぶつとして、円わた朝くしは門もん弟てい共どもの方はうへ預あづけて置おきましたけれども、是これは河かは竹たけ黙もく阿あみ弥を翁うが所しよ有いうされて居ゐたのを、円わた朝くしが貰もらひ受うけました。夫それ故ゆゑ箱はこ書がきも黙もく阿あみ弥を翁うに認したゝめて貰もらひましたが、此この文ぶん中ちうにもある通とほり十有いう余よね年ん昔むか話しばなしが流はや行つたことと見えまする。夫それゆゑ誰だれも彼かれも聴ききに参まゐる中なかに、可から楽くと云いふ者があつて、是これは櫛くし職しよ人くにんでござりましたが、至いたつて口くち軽がるな面おも白しろい人ゆゑ、私わたくしも一つ飛とび入いりに落はな語しをして見たいと申まう込しこんだ。
すると此この狂きや歌うか師しの中なかへ職しよ人くにんを入いれたら品ひ格んが悪くなるだらうと拒こばんだものもあつたが、ナニ職しよ人くにんだツて話が上じや手うずなら仔しさ細いないと云いふ事で、可から楽くを入いれてやらせて見た所が、大たい層そう評ひや判うばんが宜よろしく、可から楽くが出るやうになつてから、一ト際きは聴きゝ手てが殖ふえたと云いふ位くらゐ。
そこで可から楽くが不ふ図と考かんがへ附ついた可﹁是これは面おも白しろい、近ちか頃ごろ落らく語ごが大だい分ぶ流は行やるから、何ど所こかで座ざれ料うを取とつて内ない職しよくにやつたら面おも白しろからう、事に依よつたら片かた商しや売うばいになるかもしれない。と昼ひる間まは櫛くしを拵こしらへ、夜だけ落はな語し家かでやつて見ようと、是これから広くわ徳うと寺くじ前まへの○○茶ぢや屋やと云いふのがござりまして、其その家いへの入いり口ぐちへ行あん燈どんを懸かけたのです。唯たゞ﹁はなし﹂と書かき放はなしにして名前などを書いたものではない、細い小さな行あん燈どんを出して、入いらつしやい〳〵と云いふと、大だい都とく会わいの事だから直すぐに御お武ぶ家けが一ひと人り這はい入つて来きて○﹁早くして呉くれ﹁エヽもう二三人にん御お入い来でになると直ぢきに始まります。○﹁モウ二三人にん来くるまで待つては居をられぬ、腹はらが空へつて耐たまらぬのぢや――是これは菜なめしと間まち違がへたと云いふ話です、其その頃ころは商しや売うばいではなかつたから、其その位くらゐのものでござりましたらう。然しかるに当たう今こんに至いたつては寄よせ席しよ商うば売いと云いふものが大たい層そう殖ふえて、斯かや様うに隆りゆ盛うせいに相あひ成なつたのでござります。
︵拠酒井昇造筆記︶