西航日録

井上円了






 
  
井上円了 しるす
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西航日録


一、再び西航の途へ

 明治三十五年十一月十五日、余再び航西の途に上らんとし、午前八時半、新橋を発す。ときに千百の知友、学生の余が行を送るありて、汽笛の声は万歳の声にうずめられ、秋雨蕭々のうちに横浜に着す。ときに拙作二首あり。
  
西
西
  


 正午十二時、天ようやく晴る。知友と袂をわかちて港内より発錨す。汽船は若狭丸と号し、六千二百六十トンの大船なり。晩来風浪少しく起こり、船体ために微動せるも、かえって催眠の媒介となり、遠灘七十三里は一夢のうちに過ぎ去り、暁窓近く紀南の諸山に接見す。午後、神戸入津。哲学館得業生潮田玄乗氏来訪あり。翌十七日午前上陸、県知事服部一三君および特別館賓伊藤長次郎氏を訪問す。午後伊藤氏、余を送りて本船に至る。当夜四面雲晴れ、明月天に懸かり、波間の清数点の船灯と相映じ、湾内の風光筆紙のよく尽くすところにあらず。余、船中にありて「阜頭明月情如満、不照江山照我心」(埠頭の明月は満月のごとく、江山を照らさずしてわが心を照らす)とうそぶけり。十八日滞泊、十九日正午出帆、二十日朝門司着。哲学館出身者泉含章氏、小艇をもって出でて迎うるあり。余これに移りて馬関に上陸し、泉氏の宅にて丘道徹氏および山名、西尾等の諸氏に会す。

二、シャンハイ上陸

 西()()

三、日本人とシナ人

 調
 

四、シャンハイ所感

 西鹿
城頭一望感無窮、英艦露兵西又東、大陸風雲日将急、黄竜何歳見晴空。
(上海の市街を一望して往時を思い感慨きわまりなく、英国の軍艦や露国の兵が西より来たり、東より来たる。中国大陸の風雲は日々に急を告げようとし、楊子江はいつになったら晴れやかな空を見せるのであろうか。)

五、ホンコン上陸、旧知に会う

 沿
 西

六、シンガポールに着す

 漿
 西沿


 本邦よりシンガポールまで日本人中船室を同じくするもの、河合操氏(陸軍少佐)および甲賀卯吉氏(造船技師)なり。毎夕、三人相会して船中の内閣を組織し、鼎座一卓をかこみ、河合少佐は兵事を論じ、甲賀技師は工業を説き、余は教学を談じ、一言として本邦の前途、国家の大計に関せざるはなし。その論極めて大にして、その心最も切なり。ときどき船中の主治医岡村氏および事務長小野氏これに加わりて、五人内閣を団成し、中央のテーブルと相合して梅花状をなし、悲憤のあまり口角泡を飛ばし、切歯腕を扼し、日本男児の真相を演ずることあるも、局勢たちまち一変して、棋戦となり、雑談となり、滑稽となる。これ船中の余興なり。もって「船中無新聞寒尽不知年」(船中では新しい情報もなく、寒さもなく新年のことも知ることなし)の境界を見るべし。午前十時、三人相携えて上陸。余は領事館および三井物産会社支店を訪い、馬場氏に面し、日新館にて河合、甲賀両氏と手を分かち、印度支那汽船会社の便船瑞生号(Suisang)に転乗し、午後五時、ペナン(Penang)に向かって発す。

七、ペナン遊覧

 西沿
去国西航已二旬、洋中風色日加新、今朝船入彼南港、緑葉紅花冬似春。
(国を出て西に航行すること二十日、海洋のけしきは日々新しく、今朝、船は彼南ペナン港に入れば、緑の葉と紅の花がさきみだれて、暦の上の十二月はあたかも春のようである。)
 また瀑布あり、神戸布引に類す。午後雷雨あり。七日(日曜)碇泊、八日正午抜錨。これよりマラッカ海峡を一過して、インド洋の東端に出でて、アンダマン群島に沿ってベンガル湾に入る。その間、毎日快晴。涼風船上を払い、暑気大いに減ずるを覚ゆ。ことに毎夕、明月中天に懸かり、四面雲影を見ず。蒼海渺茫としてただ流光の波間に躍るを見るは、また無限の趣あり。船中にはインド人の乗客多し。その習俗として、鬚髭を刈るにかみそりを用いず、毎日毛抜きをもって抜きおるを見る。これを見るすら、なお痛癢を感ずるなり。

八、カルカッタで大宮孝潤・河口慧海に会す

 
 
喜麻拉亜の雪はいかほど深くとも埋めかねたる君が赤心
 
西宿
西()()()()()宿()()()()()()
 今夕、この本邦をさること海外数千里のカルカッタ府にありて、哲学館同窓会を開くことを得たるは、だれも夢想しあたわざるところなるべし。

九、カルカッタ市内見聞

 西
来て見れば恒河の水は濁りてぞ、きよき仏の月はやどらず
 西
 
日の国の月にかはらぬ月なれど、殊にさやけく見ゆる月哉

一〇、ダージリン着

 DarjeelingSilliguri

一一、康有為を訪う

 
  日本井上円了博士遠訪于哲孟雄金剛宝土贈詩和之
万死奔亡救国危、余生身世入須弥、何当空谷来鸞嘯、了尽人天更不悲。
康有為
(日本の井上円了博士は遠く哲孟雄金剛宝土シッキムダージリンを訪れて詩を贈るにこれに和す
死を覚悟の上で奔亡して国家の危難を救おうとし、わが経験した一生のことをもって妙高の地に入らんとする。いずくにか空谷に鸞鳥のうそぶくを聞かん。人事と天命とを尽くしてさらに悲しまず)
 また、君は余がかつて孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四聖を祭れるを知り、特にその賛を作りて余に贈る。
東西南北地互為中、時各有宜、春夏秋冬軌道之行雖異、本源之証則同、先後聖之揆一、千万里之心通、薈諸哲心肝于一堂、鎔大地精英于一籠、藐茲丈室与天穹窿羹牆如見、夢寐相逢、諸星方寸億劫且暮、待来者之折衷。
  孔子二千四百五十三年
康有為 題
西姿調

一二、ヒマラヤ見物

 Kanchenjunga姿
喜麻拉亜よ印度貴女ヒンズーレディーのまねをして雲の衣で姿かくすな
 姿Tigerhill
喜麻拉亜の虎が岡なる朝ぼらけひかる雲間に雪山を見る
 余、幼学詩韻的詩をもってこれに和す。


 また拙句を得たり。
嗚呼是れが華厳の時の景色なり(日上先照高山)(日のぼりてまず高山を照らす)
 綿
喜麻拉亜が天が狭いと小言いひ

第一、エベレスト(Everest)峰(二万九千二フィートにして世界第一の高峰と称す。タイガーヒルをさること百二十マイル以上ありという)
第二、カンチェンジュンガ峰(二万八千百五十六フィートにして前にすでに記せり)
第三、ジャヌー(Janu)峰(二万五千三百四フィート)
第四、カブルー(Kabru)峰(二万四千十五フィート)
 以下これを略す。しかして、いずれもわが富士山の二倍以上の高山なれば、余一句をつづりて、
喜麻拉亜が富士山などゝ笑ひけり
 姿
喜麻拉亜に富士の姿を持たせたい

 姿
喜麻拉亜が大和男に遇はんとて二日余りぞ化粧しにける
とよみ、またさらに歌および詩をつづりてその形状を述ぶ。


姿
 またこの日の壮遊を詠じて、「八千代にも得難き今日の遊かな」などとよめり。かくして一、二時間を経る間に、白雲四方に起こり、獅子のごとき形と勢いとをもって奮進し、ヒマラヤ連峰はもちろんタイガーヒルまでも、雲煙の中にうずめらるるに至れり。少時を過ぎてまたはれ、また陰り、出没変幻窮まりなく、その妙、実に言うべからざる趣あり。帰路紅葉を採集し、チベット寺に休憩し、午後二時寓所に着す。当夜、康有為君の宅に遊び、ついに一泊し、筆談深更に及ぶ。二十二日正午ダージリンを辞し、二十三日午前十時カルカッタに帰り、大宮氏の寓所に入る。過日、大宮氏は釈尊の降誕に関係ありとて、無憂樹の葉を余に贈れり。ゆえに、余はその返礼としてヒマラヤより楓葉を持ち帰り、左の歌を書して氏に贈る。
喜麻拉亜の土産に木の葉贈るのは木の葉もらひし返しにぞある

一三、ブッダガヤからベナレスへ

 Dakbungalow
正覚のむかし思へばあかつきの星の光りもあはれなりけり
 二十五日午前、光瑞上人に随半して、ブッダガヤに詣ず。また詩あり。

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 これより尼連河の両岸を徘徊して旧蹤をたずね、晩に至りてガヤに帰り、即夜の汽車にてバンキポールに着し、さらに乗車して二十六日午前八時、ベナレスに着す。これ釈尊成道後、はじめて法輪を転ぜられたる地と称す。着後ただちにロシア国博士マッチセン(Mathisen)氏の寓居に入り、氏とともに仏跡を探り、午後アジア学会に列す。ミスベサントおよびオルゴット氏の演説あり。この地において懐古の詩を賦す。

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一四、ボンベイに着し、新年を迎える

 
ネチーブか達磨を気取る寒かな
 Europeans only
 
 
 
 
正月にそなへる餅も喰ふ餅もみな盆餅ボンベイと呼ぶぞおかしき
 
西
西()
寿
寿
 

一五、インドの宗教所感

 
 退
 
まゝ親の下で苦む印度人
孤児が親ある国を恋しがる
ものいはぬ口まで寒し旅の風
旅の雨我真心を固めけり

一六、ボンベイを発し、スエズに向かう

 

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 八日朝、アラビア号よりヴィクトリア号に移り、午前十時アデン港を発す。この日、雨少なく降る。去月十日以来、はじめて雨を見る。九日、十日、紅海中を北走す。十一日(日曜)夜、スエズに着す。当夜より運河に入りて航行す。気候は意外に冷気なり。運河はその幅およそ三十間くらいに見ゆ。まま四十間以上の所あり。両岸は一面に砂漠にして、草木皆無のありさまなれども、所々に蓬草の生ぜるを見る。十二日、午後一時イスマイリアに着し、当夜十時ポートサイドに着す。これよりエジプトの古都カイロに入り、ピラミッドを見る予想なりしも、汽船滞泊の時間なきをもって果たさず。

一七、地中海に入る

 
 
  

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 ホンコンよりここに至るまでの間、経過するところの国々は、たいていみな欧人のほろぼすところとなり、いささか感慨にたえず。よって、また詩をもって懐を述ぶ。


 西西
天日アマツヒは云ふに及ばず旗までも世界を照す今日の御代かな
 西
 
白金の中に独りの黄金哉
 十五日、午後イタリアの山脈を望み、夜に入りてメッシナ海峡を通過す。ときに晩望の詩あり。


 
地中海寒気の為に癪起し夜昼かけて怒鳴りつゞける

一八、マルセイユからジブラルタル海峡をぬけ北走す

 


 アデンよりポートサイドまで海路一千四百マイル余、ポートサイドよりマルセイユまで一千五百マイル余なりという。十八日(日曜)、午後二時マルセイユ港抜錨。十九日、夜来急雨あり。気候にわかに暖を加う。二十日早天、スペインの連山を見る。その高きものは、みな冠するに白雪をもってす。
今日も亦ヒマラヤを見る心地せり
 
輿

 
 


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 二十三日午後四時、英国南海岸に接見す。


 

一九、ロンドン着、二週間余り滞在す

 使


 
 
 宿
鼻だせし子供の道に見えざるは国の開けししるしなるらん
 
千万里隔つる旅の外までも今日のよき日を祝ひけるかな
耶蘇ヤソよりも遥かに古き紀元節是れ日の本の名物にぞある
 
欲使国光輝極東、鞠躬須尽赤心忠、泰西文物君知否、都是千辛万苦功。
(日本の国を極東の地に光輝あらしめんと欲すれば、つつしみ深い態度でまごころから忠を尽くさなければならない。西洋諸国の文物について君は知っているのか、それとも知らないのか、すべてはあらゆる辛苦のうえでなしとげられたものなのである。)

二〇、哲学館教員免許取り消しの報あり

 
今朝の雪畑を荒らすと思ふなよ生ひ立つ麦の根固めとなる
苦にするな荒しの後に日和あり
火に焼かれ風にたをされ又人にられてもなほ枯れぬ若桐
伐ればなほ太く生ひ立つ桐林

二一、バルレー村に転住す

 
 
 
日は寒く風は荒びし其中にいと煖き人心かな
 余はこれを英語に直訳して村内の人に示せり。
The day is cold. The wind is rough. In midst of this, the people's minds are very warm.
 
木の黒く河の濁るは工業の土地に栄ゆる印なりけり
 一日晴天を卜し、渓流にさかのぼること八マイル、ボールトン・アベーの勝を探り、左の句を得たり。
谷川の景にかわりはなけれどもかわりし地にて見ると思へば
 また一日、英国中の鉱泉場なるハロゲートに遊び、その規模の大なる、結構の盛んなるを見て、
此地こゝ見ては磯部を談る勇気なし
 U+9F9E191-13
煙突の数で知らるゝ町の富
 
 
下女までが准奏任の所得あり
 西
喚鐘声裏往来忙、士女如花満会堂、日曜朝昏修養力、能教国富又兵強。
(鐘の音のひびくなかで人の往来することせわしなく、紳士も叔女も花のごとく色とりどりに会堂にみちる。日曜の朝から夕暮れまで修養につとめ、それが国を富ませ兵を強くさせているのである。)

 
 使使宿便
 

二二、アイルランドに向かう

 
プツデング次の代りはシチウなり
 西Fleetwood

姿()()
 船中にありて過般の哲学館事件を想起し、感慨のあまり、左の七絶をつづる。


 

二三、ベルファストの実況

 十三日午前五時半、汽船すでにベルファスト(Belfast)湾に着す。寓所を同市ユニバーシティー街(University Street)に定む。その街にアイルランド大学の一部(Queen's College)ある故にその名あり。大学教授アンダーソン氏と同居せり。アイルランドはイングランド、スコットランド、ウェールズの三州と連合して一大王国を成せるも、人情、風俗すべて英国と異なり、自然に別国の形勢あり。その市街の大なるものを挙ぐれば、ダブリンを第一とす。これアイルランドの首府なり。そのつぎをベルファストとす。これ商工業の中心にて、近来、年一年より繁栄に進むという。工業中、当地の特産は麻布なり。
十万人家工又商、街車トラム如織往来忙、煙筒林立凌雲処、都是績麻製布場。
(十万の人家は工と商に従う、街車トラムは織るように往き交って忙しい。煙突は林のごとく立って雲をしのぐほどである。すべてが麻布を製造する工場なのである。)
 
 Campbell College宿
 ArmaghLisburn

二四、ロンドンデリーに遊ぶ

 三月十七日はセント・パトリック(St. Patrick)の記念日なりとて、アイルランド中みな諸業を休みて寺院に詣す。余、当日同州の古都ロンドンデリー(Londonderry)に遊ぶ。ベルファストをさること百数十里なり。その地、山に踞し湾に枕し、風景すこぶる佳なり。市街を囲繞せる城壁今なお存し、四方に城門ありてこれより出入す。城内には壮大の寺院数個、いずれも老若男女群れを成す。なかんずく旧教の本山には、愚夫愚婦山のごとくまた海のごとく集まり来たり、感泣の涙にむせびおるものあり。もしアイルランドの名都を日本に比すれば、ダブリンは東京、ベルファストは大阪、ロンドンデリーは京都に当たるべし。余、ロンドンデリーに着するや、楼台高くそびえ、宛然大本山のごときものを見、その堂内に入れば、こは寺院にあらずして税関なるに驚けり。これ、余が失策談の一つなりと思い、図らずも、
失策を見る人もなし独り旅
失策をしても甲斐なし独り旅
との句を吐き出だせり。当夕はさらに北海に沿って車行し、ポートラッシュ(Portrush)港に泊す。同港は海峡を隔ててスコットランドと相対す。

宿()()()

二五、ジャイアンツ・コーズウェーに遊ぶ

 翌十八日、快晴。ポートラッシュより電車に駕し、世界の地誌上その名最も高きジャイアンツ・コーズウェー(Giant Causeway)に遊ぶ。その地海岸にそい、およそ一マイルほどの間、一定の角石をもって天然の庭を築き、造化の妙を示せり。その石、あるいは五角なるあり、あるいは六角ないし八角なるあり、直径一尺五寸ないし二尺余にして、その数幾万なるを知らず。上下となく左右となく、一面に整列排置し、あたかも人工をもって庭石を敷きたるがごとし。俗説に、古来この地に一大巨人棲居したる遺蹤なりといい、今現にその洞窟なりと伝うる所あり。これをジャイアンツ・コーズウェーと名づけしは、その怪談にもとづく。余これを訳して、巨人庭石という。天工の巧妙なるに感じて、
使西
西
 綿Bessbrook

二六、ダブリンの実況

 三月二十八日、朝ベルファストを去り、車行およそ百マイルにして首府ダブリンに着す。途上一詠あり。
西
西
 西西
 
木がなくて吹く甲斐なしと風がいふ
 
 DublinTrinity College西
蛛の巣で蟻を運ふやダーブリン
とよみ、また左のごとく吟ぜり。
達府湾頭十万家、愛州又見此繁華、街如経緯人如織、幾百飛梭是電車。
達府ダブリン湾のほとりに十万の家が建つ、愛州アイルランドにもこの繁華なさまをみる。街は縦横に整い、人は織るがごとく往来し、幾百ものはたおりののごとくゆきかうのは電車である。)
 
 Bray
アイリスの春は如何と出で見れば桜の花の影だにもなし
 ダブリンにありては、各大学はもちろん、男女の中学校、小学校、幼稚園、各宗大学等を参観せり。ある日、アレキサンドラと名づくる高等女学校に至り、名刺を通ぜしに、校長はたちまち生徒一名を呼び出だして余に応接せしむ。その語全く日本語なり。怪しみてその故をたずねしに、同人の父は英人、母は日本人にて、自身は横浜において生育せりという。日本人の一人も住せざるダブリンにて、日本語の通訳官を得たるは意外なりき。

二七、アイルランドの風俗・人情

  live to eat  eat to live 

二八、ダブリンからウェールズ・バンガー村へ

 WalesHolyhead
我富士の孫子を見るや今日の旅
 Bangor

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 SnowdonMenai()()

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 Friars SchoolWilliams宿宿便
 便宿調
  ダブリン寓居にて
煖かき心の下に宿取れば寒き日までも春心地する
If we lodge under the shelter of one's warm heart,
 we may feel even on a cold day as warm as the spring.
  バンガー中学校にて(この中学は三年前に建築せるものにして新校舎なり)
新らしき学びの庭に立寄りて咲きつる花をみるぞうれしき
In the new gardens of learning which I am now visiting,
 it is joyful to me to see the flowers just going to open.
 (on the pupils' intellectual trees understood.)
 バンガー滞在中、一日車行九マイル、カーナーボン(Carnarvon)町に遊び、実業中学校を参観し、また当地にて有名なる旧城楼に登臨せり。これよりさらに車行九マイルにして、雪動山腹ランベリス(Lanberis)村に着す。二個の湖あり、数派の渓流ありて、風景ことに美なり。ただ雲煙深くとざし、峰頂を望むことを得ざりしは遺憾なり。
スノードン富士見し人に恥かしく思ひけるにや姿かくせり
 Bethesda

二九、へースティングズに遊ぶ

 

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 Hastings


 へースティングズはわが国の熱海に比すべき地にして、ロンドン人士の避寒および養病のために輻湊する所なり。

宿
 その地たるや気候温和、風光明媚と称すべき名所なるも、これをわが熱海に比するに、天然の風致にいたりては大なる懸隔ありといわざるべからず。その第一の欠点を挙ぐれば、樹木および清流の欠乏せると、地形の屈曲起伏せるがごとき変化を有せざるとに帰す。しかしてこの欠点を補うに、人工的装置をもってす。例えば海上に桟道を設け、丘上に鉄路を架し、遊歩場、遊覧所等、実に美にしてかつ大なり。またその地、熱海のごとき天然の温泉なきも、海岸遊歩場の地下に壮大なる人工的浴泳場および温泉場を設け、その傍らに奏楽場ありて、ときどき音楽を奏するがごときは、到底熱海にありて夢想しあたわざるところなり。要するに、その地天然の美を欠くも、これを補うに人工の美をもってし、いわゆる人盛んなれば天に勝つの勢いあり。ゆえに、人目に触るるもの、一つとして黄金の光ならざるはなし。
海の色山の景色に至るまですべて黄金の光りなりけり
 へースティングズ滞在中、一日快晴を卜し、その近傍バトル(Battle)村に遊ぶ。これウィリアム・コンクェロール王の古戦場にして、当時戦勝記念に建立せし寺院、今なお存せり。


 
 WinchelseaRye
花ちりてはや今頃は蛍狩さるに此地は雪風ぞ吹く
 へースティングズ滞在一週間にして病気全快し、いよいよ欧州大陸旅行の途に上る。

三〇、ワーテルローの古戦場を見る

 Dover
嗚呼こゝが三途の河の出店かと思うて渡るドーバーの瀬戸
 Ostend
今日よりは旅路の旅にかゝり鳧
 宿Lion hill
夢跡に留めし獅子のかげ寒し
 この句は陸軍将校某の「獅子一ツウオターローの夢の痕」の句に擬したるものなり。

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三一、アントワープ港に遊ぶ

 四月二十八日朝、アントワープ港に遊ぶ。郷友木島孝蔵氏の案内にて、古版博物館、旧教大寺院、船渠桟道等を一見す。博物館中には、活版印刷器械の歴史的材料を収集せり。最後に、当港にて名高き「三人娘」と名づくる茶亭に休憩す。この茶亭に三人の女子あり。郵船会社の汽船この港に往復するに及び、日本人に接するごとにその語を記憶し、三、四年間にして大いに熟達し、昨今は本邦人同様に日本語を話すことを得。ことに日本の歌にその妙を得、音曲に和してこれを誦するに、いかなる日本人も一驚を喫せざるはなし。その天性、言語の才に富めるや実に驚くべし。これを当港名物の第一とす。よって余戯に、
船渠桟上往来繁、博物場中古版存、此地可驚唯一事、紅毛女子解和言。
(ドックの足場かけはしの上は人の往来もしきりである。博物館には古版本が保存されている。この地の驚くべき唯一のことは、紅毛の女子が日本語をよく解することである。)

三二、アムステルダム、ハーグを見てブリュッセルに帰る

 
 
 

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三三、ベルリンへ

 
 
 


 

三四、ルターの遺跡を見る

 五月六日、ウィッテンベルクに至り、ルターの遺跡および遺物を拝観し、大いに感ずるところあり。


 かかる新教開立の霊場なるも、当日、余のほかに一人の参拝者を見ざるは奇怪なり。また、ルターの銅像の周囲に、牛肉、野菜等の露店を設け、実に殺風景を極む。これ、東西宗教の相違せる一斑を見るに足る。

三五、カントの墓所

 西

西
西
 プレゲルはカント先生の墓畔に流るる川なり。

三六、ロシアに向かう

 調()()
汽車までが大国気取る露士亜かな
 翌九日、早朝より車外を望むに、四面一体に荒漠無限の平原にして、森林数里にわたり、その間往々麦田を挟むを見る。しかして人家は極めて疎にして、その建築はみな横に材木を積みて四壁に代用し、一つとして土壁を塗りたるものなし。木造草舎は実にロシア民家の特色なり。一見すべて貧家の状態あり。これに住するものは、多く垢衣跣足、東洋然たる風致あり。


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三七、サンクト・ペテルブルグ見学

 
 使
 便
 
満城霞気暁如凝、五月中旬猶結氷、此地又驚無昼夜、十時日没二時昇。
(市街のすべてが霞にとざされ、暁もそのままこり固まったように思われる。五月も中旬であるのになお氷を結ぶ。この地はまた驚くべきことに昼夜の区別がなく、十時に日没を迎え、二時には日が昇るのである。)
 使
 西
 使使

三八、ベルリン、フランクフルトそしてスイスへ

 宿使
満目青山雨後新、花光麦色已残春、壮游未脱風流癖、来印河辺訪故人。
(みわたすかぎりの青々とした山は、雨に洗われて一新し、花の色麦の色にすでになごりの春を知る。この壮大な旅ではまだ風流心の癖がぬけ切らず、来印ライン河のほとりに故人(ゲーテ、シラー)の跡をおとずれたのである。)
 翌十六日、早朝フランクフルトを発してスイスに入る。途上、また一作あり。
西
()西()
 
 Z※(ダイエレシス付きU小文字)rich
西
西
 
 BadenLuzern
よく出来た造化の筆のてぎわ哉
 その風景、あたかも画幅に面するがごとし。


 これより登山の汽車に駕し、背後の山頂に達すれば、五湖全面を一瞰するを得。
句がまけて唯なるほどゝいふばかり
 
 


三九、パリに着す

 宿宿使
 
  

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 二十四日、パリを去るに及び一句を吐きて、
遊ぶなら巴里に越えたる処なしさういふ人は金持の事

四〇、スコットランドへ

 AberdeenUnion Street西
 Forth Bridge
一、パリ・エッフェル塔(Eiffel Tower)
その高さ、地上直立九百八十四フィート(およそわが百六十五間)、右は米国ワシントンの記念碑より高きこと二倍なりという。その基礎の地下に入ること四十六フィートの深きに達すという。
一、スコットランド・フォース橋(Forth Bridge)
その長さ、二千七百六十五ヤード(わが千三百八十間余)
その橋杭の高さ、三百六十フィート(わが六十間余)
その重量五万トン
その建築費三千万円也

四一、スコットランド高地

 InvernessHighlandStrathpefferBen Wyvis
 
 Ben Nevis

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 これよりパース(Perth)駅を経て、再びエジンバラ市に出ず。その途上、牧場の風景を見て、
目がさめるほどに牧場の草の色

四二、温泉場バース

 CarlisleBath
 湿

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 これより十マイルを隔ててブリストル(Bristol)と名づくる町あり。これ、南イングランドの大都会なり。余、一日ここに遊ぶ。

四三、ニュートン、ダーウィン墓参

 六月二日、再びロンドンに帰る。毎日帰航の準備に奔走す。十一日、大雨をおかしてウェストミンスターに至り、ニュートン先生の墓所に詣す。その所感をつづること左のごとし。
曾観墜果究天元、一代新開万学源、身死骨枯名不朽、永同日月照乾坤。
(かつて果物の落ちるを観察して自然法則の本源を究め、一代で新たなあらゆる学問の源を開いたのである。身は死して骨枯れても、名声は朽ち果てることなく、ながく日や月と同じく天地を照らすのである。)
 また、同所にダーウィン翁の墓所あり。余、また詩をもって所感を述ぶ。


 当夕、有吉領事の招きにより、領事館において送別の饗応をかたじけのうす。

四四、リバプールよりニューヨークに向かう

 
 西
 


 
 


 

四五、ハーバード大学学位授与式に列席

 二十四日はハーバード大学学位授与式の挙あるを聞き、前夕の汽車にて同所に至り、場内に列席す。当日は哲学館出身高木真一氏も、卒業生の一人に加わりて学位を授かる。同氏は米国に渡りて以来、毎日労働しつつ修業を継続し、本邦より一銭の学資を仰がず、全く自力にて米国最第一の大学を卒業するに至りしは、日本青年学生の模範とするに足る。しかして、その在学中の成績すこぶる優等なりという。同日、ハーバードよりボストンに出でて、ウェード氏をその本宅に訪い、同氏秘蔵の妖怪的図画を一覧せり。ニューヨークよりボストン行きの途上、うそぶくこと左のごとし。
昨夜辞新府、今朝到北陲、車窓何所見、草野緑無涯。
(昨夜新府ニューヨークを離れて、今朝は北辺の地に至る。車窓から見えるところは何か、それは草野の緑が果てもなく広がっていることだ。)
 
米国は名前ばかりと思ひしに米の出来ると聞きてビツクリ
 
普天の下は王土なり、率土の浜は王臣なり、日本狭しとなげくなよ、異国遠しと思ふなよ、光りかがやく天ツ日の、照す所は皆我地、狭き国にて眠るより、出でゝ働け四千万、大和人種の苗裔が、五大洲に満ちてこそ、皇ら御国の御威光も、高く揚りて忠孝の、名実共に行はれ、目出度限りと申すなれ。

四六、シアトルへ向かう

 二十八日、午後八時ニューヨーク発車、翌日バッファローに降車す。また一句を浮かぶ。
アメリカはたゞあを/\と草の海
 同所よりさらに乗車、三十日朝シカゴ市に着す。


 これよりセントポールに至るの間、カナダ地方に接続して、平野茫々、一望無涯、しかしてみな耕地なり。

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 七月一日、セントポール駅に宿して、
西
西()()
 同四日より五日へかけてロッキー山嶺にかかる。すなわち一律を賦す。
宿
()()宿

四七、シアトルから帰国の途へ

 
 
  レーニア山曰く、
我顔は兎てもお富士にかなはねどお嶽などにはまけるものかや
 
アメリカと云ふは嘘にて好天気
 米国漫遊中その盛況を見て、いささか感ずるところあり。左に所感のままをつづる。


 
 

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 船中、最初は毎日一物の眼光に触るるなきも、さらに退屈を感ぜず。よって、
安芸丸に乗りてもあきぬ気楽旅
と詠みたるも、四、五日を経て後は乗客みな倦怠を催せり。よって、
安芸丸でなくてもあきる太平洋ましてあき丸あきる筈なり
とよみたり。十八日にはべーリング海峡の群島を望見し、十九日は西経より東経に入りたるが故に、一日をむなしくすることとなりて、十八日よりただちに二十日に移れり。その後は毎日冷気を覚え、深霧にとざさる。二十六日午後三時、犬吠埼の灯台を望む。二十七日横浜入港、六時検疫あり、七時上陸す。太平洋航海中は、その名のごとく、風穏やかに波平らかにして、四千五百里の間を無事に通過し、本邦に安着するを得たるは、これ余が大幸とするところなり。

四八、欧米巡見所感

 退
 






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西
   190437118



20101118
201191

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「敝/龜」、U+9F9E    191-13


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