人形の家

ET DUKKEHJEM

ヘンリック・イブセン Henrik Ibsen

島村抱月譯




 人物

トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルト・ヘルマー
ノラ(ヘルマーの妻)
醫師 ランク
リンデン夫人
ニルス・クログスタット
ヘルマー家の三兒
アンナ(三兒の保姆)
エレン(女中)
使の男


  場所

ノルウェーの首都クリスチアニアにあるヘルマーの家(大建物の内部を幾家屋かに仕切つた一つ)
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    第一幕



使


 使
使の男 二十五エール。
 使
ヘルマー (自分の室で)そこで囀つてるのは家の雲雀かい?
ノラ (忙しげに手近の小包を開きながら)さうですよ。(一つの包みをピアノの傍のマントの下にかくす)
ヘルマー 跳ね廻つてるのは栗鼠さんかい?
ノラ えゝ。
ヘルマー 栗鼠さん、いつ歸つてきたんだい?
ノラ 今歸つてばかし(パン菓子の袋を隱しに忍ばせ口を拭ふ)いらつしやいよ、あなた、買物をしてきたから御覽なさいよ。
ヘルマー うるさいな(暫くして扉を開けペンを持つたまゝ此方を覗いて)買物をした? それを皆かい? 家の無駄使家がまたお金を撒き散してきたね。
ノラ だつてあなた、もういゝわ、少しくらゐお金を使ひに出かけたつて。やつとクリスマスが樂にできるやうになつたんですもの。
ヘルマー おい/\、無駄にお金を使つちやよくないな。
 使 
ヘルマー そりや新年からはさうだが、しかし給料の手に入るまでには、まだまる三月もあるからな。
ノラ 構ふもんですか、その間借金して置けば。
ヘルマー ノラ! (女の方へ行つて戲れに耳を引つ張り)相變らず暢氣だなあ。まあ假に今私が五百クローネも借りたとするぜ、それをお前がクリスマスの間に使つてしまふ、そして年越しの晩に屋根から瓦が落ちてきて俺の腦天を割つたとする――
ノラ (男の口に手を當てゝ)嫌よ/\! 何て嫌なことをおつしやるの(自分の耳をふさぐ)
ヘルマー まあさ、さうなつたと假定する――さうするとどうなるだらう?
ノラ そんな大變な騷ぎになつちや借金のことなんか考へてやしません。
ヘルマー けれども貸した人はどうする?
ノラ 貸した人? 誰が構ふもんですか、赤の他人ぢやありませんか。
  
ノラ (ストーヴの方へ行きながら、ちよつとスカートを擴げておじぎする)畏まりました――あなたのお氣に召すやうに。
 ()  
ノラ (急に振り向いて)お金!
ヘルマー そうら! (紙幣を幾枚か與へて)無論クリスマスには色んな物の入ることはわかつてるよ。
  
ヘルマー どうかさうして貰ひたいね。
 ()※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
ヘルマー そのこつちの包みは?
ノラ いけませんよ。それは晩まで見せないで置くの。
ヘルマー あゝ、はあ、それでお前は何を買つたんだい、いたづら屋さん。
ノラ 私? えゝ、私は何もいらないの。
ヘルマー 馬鹿をいふなよ。氣の利いたもので何か欲しいものがあるなら、いつて御覽。
ノラ いゝえ、本當にいらないの――さうね、あのね。
ヘルマー ふむ?
ノラ (男の上着のボタンをいぢくりながら顏を見ないで)あなた本當に何か買つて下さるつもりなら、あのね、ほら、あのね――
ヘルマー ふむ、ふむ、いつて御覽。
ノラ (早口に)お金を下さる方がいゝわ、いくらでもいゝから。さうすると私、自分であとから何か買ひますわ。
ヘルマー だけれど、お前――
 
ヘルマー えゝと、いつも金を撒き散らしてる者を何とかいつたつけな。
 使
 
ノラ まあ、あなた。
ヘルマー 嘘だといふのかい? (女を片手に抱いて)こんな可愛らしい雲雀が隨分と物凄く金を使ふものだ。お前ほどの小鳥を一羽飼ふためにどれ位金がかゝるか人にいつたつて本當にはしないからねえ。
ノラ およしなさいよ、そんなこと。私、殘せるだけは殘しますわ。
ヘルマー (笑ひながら)よかつたね――殘せるだけ殘しますは――所が一向殘せません。
ノラ (得意さうな體で鼻唄、にこ/\しながら)ふむ、私のやうな雲雀や栗鼠がどの位お金を使ふか、今にわかるでせうよ。
 使
ノラ 私?
ヘルマー あゝ、さうだ。こつちを向いて御覽。
ノラ (夫の方を見ながら)はい。
ヘルマー (指でつゝく眞似をしながら)此奴、今日はいけないといふ物を食べたな。
ノラ 嘘ですよ、ひどい人。
ヘルマー 菓子屋をちよつぴり覗きやしなかつたか?
ノラ 嘘ですよ、あなた、本當に。
ヘルマー ゼリーを一なめやりはしなかつたか?
ノラ 嘘、誰がそんなことをするものですか。
ヘルマー パン菓子を一つ二つ摘みやあしなかつたか。
ノラ 嘘ですつてばねえ。
ヘルマー よし/\、冗談だよ。
ノラ (右の上手のテーブルの方へ行き品を包む)あなたがいけないといふことを何で私がするものですか。
 
ノラ あなた、ランク先生をよぶことを忘れはなさらなくて?
 
ノラ 私だつてさうですわ、子供がどんなにか嬉しがるでせう、ねえ。
 
ノラ えゝ、すてきですわ。
ヘルマー お前去年のクリスマスのことを覺えてるかい。まる三週間も前から、お前は皆を驚かさうといふんで部屋に引込んだまゝ夜中過ぎになつても寢ないでクリスマス・ツリーの花だの色んな飾りだのを拵へたつけ、私はあの時ほど退屈したことはない。
ノラ 私はまた退屈するどころぢやあなかつたわ。
ヘルマー (笑ひながら)それで結果はどうかといふとまるで形なしでねえ。
  
 
ノラ ねえ、すてきですわね。
ヘルマー もう私もこゝに坐つて、獨りで退屈してる必要もなし、お前だつてその可愛らしい目や細つそりした指で夜通しかゝつてクリスマスの飾りをこしらへる必要もなしさ。
 
ヘルマー 俺は留守のことにして置くのだよ、忘れちやいけないよ。
エレン (室の入口で)奧さまご婦人の方がお出でになりまして、お目に掛りたいとおつしやいます。
ノラ 誰だらう? お通しして。
エレン (ヘルマーの方へ)それからお醫者さまも、いらつしやいました。
ヘルマー 書齋の方へか?
エレン はい。
(ヘルマーは書齋に入る。エレンが旅行服姿のリンデン夫人を通して跡の扉をしめる)
リンデン (おづ/\とためらひながら)ノラさん、お變りもなく。
ノラ (不審げに)お變りもなく。
リンデン お忘れなすつたでせうねえ。
  
リンデン えゝ、私ですわ。
ノラ クリスチナさん、まあ、あなたを見忘れるなんてどうしたんでせう。だけどまるつきり――(一層柔かに)あなた隨分お變りになつてね。
リンデン えゝさうでせうとも。九年か十年の間。
 
リンデン 今朝の汽船で着きました。
   
リンデン それにね、お婆さんになつたんですよ。
ノラ さうね、幾らか年もお取りになつた――けどそんなぢやなくつてよ――ほんの少うしばかり(突然話を切り眞面目になつて)まあ、私なんといふうつかり者でせう。お喋りばかりしてゐて――クリスチナさん許して下さいね。
リンデン 何をです?
ノラ (柔らかに)あなた、お氣の毒ねえ、私忘れてゐた。未亡人にお成りになつたんでせう?
リンデン えゝ、あの人が亡くなつてから三年になります。
ノラ さう/\それでね、本當はね、手紙を差上げるつもりでしたの、ところが延ばし/\してる中に色んなことが起つたもんですから。
リンデン それはノラさん、よく承知してゐますよ。
  
リンデン 何もありません。
ノラ お子さんは?
リンデン 子供もないんですよ。
ノラ まるつきり何も無いんですね?
リンデン 無いつたら、それこそ、心配の種も無ければこれから先どうといふ望み一つも殘つちやゐないんですよ。
ノラ (不思議さうにリンデンを見て)だつてクリスチナさん、まあどうしてそんなことが。
リンデン (微笑しながら髮の毛を撫でて)それはあなた、折々そんなことになるものですよ。
  
リンデン いえいえ、あなたこそ、どうぞ。
 
リンデン へえ、どうなさつたの。
ノラ まあどうでせう、主人が銀行の支配人になつたんですよ。
リンデン ご主人が? ほんとにお仕合せねえ。
  
リンデン えゝ、いるだけのものが取れゝばね、幸福に相違ありません。
ノラ いるだけぢやありませんよ、お金が山ほど――山ほど取れるんですもの。
リンデン (微笑しながら)ノラさん、あなたはいまだにねんねえですのねえ。ご一緒に學校に行つてる頃から、大變お金を使ふことの好な方でしたつけが。
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)鹿使
リンデン あなたがですか?
 ()()※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
リンデン えゝ/\、たしかイタリアに一年行つてらつしやつた?
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
リンデン さうでせうとも。
ノラ 千二百ターレル、隨分かゝつたでせう?
リンデン そんなお金があつたのですから、結構ですわ。
ノラ それは私の父の手元から出たのです。
リンデン なるほどね、あなたのお父さんは、丁度あの時お亡くなりでしたね。
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 
リンデン あなたは大變お父さん思ひでしたわね。で、それからイタリヤへいらつしやつたの?
ノラ えゝ、お金はできますし、お醫者は是非といふもんですから、一ヶ月ばかりして立ちました。
リンデン それですつかり良くおなりなすつたのですか?
ノラ すつかり丈夫になりました。
リンデン ですけれど――さつきのお醫者さまは?
ノラ 何ですの?
リンデン 私、こちらへ參つた時に、丁度女中さんがさう申してゐやしませんでしたか?
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 
 
ノラ それはねえ。で、その方は金持だつたんでせう?
 
ノラ それから?
 
ノラ さぞ、自由な身になつたとお思ひでせうね。
 
ノラ だけどクリスチナさん、そんなことは氣の詰るものでせうよ。あなたは大變疲れていらつしやるやうだから、それよりか温泉にでも行つて保養した方がよかありません?
リンデン (窓の方へ行きながら)私にはお金を出してくれる父もゐませんし。
ノラ あら、お氣に障つたらご免なさいね。
 
ノラ といひますと? あゝわかりました。主人があなたのために盡力してくれるだらうと仰有るのでせう?
リンデン えゝ、さう思つたのですよ。
 ()
リンデン 美しいご親切ですわねえ。美しいといへば、あなたのご氣性は本當に美しい、浮世の荒い波風に揉まれていらつしやらないから。
ノラ 私が? 揉まれてゐないんですつて――?
リンデン (微笑しながら)さうですね、少しばかりの内職くらゐのものでせう。全くのねんねえでいらつしやるのですよ。
ノラ (頭を立てゝ室内を歩く)おや/\、そんなにねんねえ扱ひにするもんぢやありませんわ。
リンデン ぢやあないんですか?
ノラ あなたも外の人と同じことねえ、みんな寄つてたかつて、私をまるで眞面目なことの出來ない人間にしてしまつてよ。
リンデン それはね――
ノラ 私、この窮屈な世間の苦勞をまるで知らないと思つてらつしやるのね。
リンデン だつてノラさん、あなたは今、これまでの苦勞をみんなお話なすつたぢやありませんか。
ノラ ほゝ――あんな詰らないこと! (柔かに)私まだ大事件をお話してませんわ。
リンデン 大事件ですつて? どんなこと?
ノラ あなたが私を見くびつていらつしやるのは知つてますけどね、あなたにその權利はないわよ、お母さんのために長い間一生懸命お働きなすつたといふのが、あなたの誇りでせう?
 
ノラ それから、あなたのご兄弟のためにお盡しなすつたことも誇りでせう?
リンデン 當り前のことぢやありませんか。
 
リンデン さうでせうとも。どうかそれを聞かせて下さい。
  ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
リンデン どんなことでせう?
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
リンデン 命を救つたとおつしやると? どうしてです?
ノラ 私共のイタリヤに行つたことをお話したでせう? あの時、もしイタリヤに行かなかつたら、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトは死んでしまつたのですよ。
リンデン えゝ、それであなたのお父さんがお金を下すつて。
ノラ (微笑しながら)えゝ、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルト始めみんなさう信じてゐますけれどね。
リンデン けれども、どうしましたの?
ノラ 父は一文もくれたのぢやありません、私がそのお金を拵へたのです。
リンデン あなたが? すつかりそのお金を?
ノラ 千三百ターレル、四千八百クローネ。どうでせう?
リンデン まあ、ノラさん、どうしてそれが出來ました? 富籤でも當つたの?
ノラ (蔑んだ樣子で)富籤ですつて? そんなことならどんな馬鹿にでも出來ますわ。
リンデン ぢや何處からそのお金を手に入れたの?
 
リンデン 無論、借りる譯には行かなかつたでせうし。
ノラ 借りられないつて? なぜ?
リンデン だつて、妻が夫に内證で借金をする譯には行きますまい。
ノラ (頭を立てゝ)ですけれどね、少し實際のことを知つてゝ、手筈をさへ心得てゐれば何でもありませんわ――
リンデン ですけれどノラさん。私わかりません――
 
リンデン ノラさん、あんまり駄々つ子過ぎますよ。
ノラ さうらね、わからないでせう? 不思議でせう?
リンデン まあお聞きなさい、ノラさん。あなた、少し亂暴ぢやなかつたんですか?
ノラ (眞直に坐わり直して)夫の命を救ふのが亂暴ですつて?
リンデン 亂暴といふのは、御主人に知らせないで――
  使()()
リンデン そしてお宅では、そのお金のことを、先方からお聞きにはならなかつたのですか?
 
リンデン で、御主人には何も打ち明けてはいらつしやらない?
  ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 
リンデン ぢやあ一切話さないお積りですか?
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 鹿   ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)()使
リンデン 骨が折れたでせうね、ノラさん。つまり皆なあなたのお小遣から出た事になるんですね。
  使
リンデン そんなにして今までにどのくらゐ借金しました。
 
リンデン え、誰ですつて――
ノラ なあに誰でもないんですよ――そしてその人が死んぢやつて遺言状を開けてみると大きな字で「予が死する時所有せし一切の財産を直ちに彼の愛らしき人ノラ・ヘルマー夫人に讓渡すべし」と書いてある。
リンデン ですけど、ノラさん、あなた誰のことをいつてるのです?
  ()()※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
(廊下口のベルが鳴る)
リンデン (立ち上りながら)ベルが鳴ります。私はお暇した方がいゝでせう。
ノラ いゝえ、まあいゝんですよ、來たのはきつとトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトの客ですから。
エレン (入口の所で)奧さま、お客樣が見えまして旦那さまにお目にかゝりたいとおつしやいます。
ノラ 誰方? 支配人さんはとおつしやつたらう。
エレン はい、支配人さまと――でもあちらにはランク先生がいらつしやいますからお通してもよろしいかと存じまして。
クログスタット (廊下への入口で)私です、奧さん。
(エレン去る。リンデン立つて窓の方へ向ふ)
ノラ (一足男の方へ行き、心配氣にやゝ聲高く)あなたですか? 何です、主人にどんなご用があるんですか?
クログスタット 銀行の用事――といつてもいゝでせうな。私はあの銀行でちよつとした仕事をしてゐますが、今度ご主人があすこの新支配人にお成りになると聞きましてね。
ノラ それで?
クログスタット ごく詰らない用事ですがね、奧さん、たゞそれだけですがね。
ノラ ぢやどうか書齋にゐますからお通り下さい。
(クログスタット行く。ノラ無雜作に腰を屈め廊下への扉をしめる。そしてストーヴの傍により、火をおこす)
リンデン ノラさん、誰方でした?
ノラ クログスタットさんといつて、もと辯護士をしてゐた人です。
リンデン ぢや、やつぱりさうだ。
ノラ あなたご存じ?
リンデン もと知つてました――よほど前のことです。私どもの町の辯護士の所にゐましたつけ。
ノラ えゝ、さうですつてね。
リンデン あの人も隨分變りましたわねえ。
ノラ たしか結婚をしてうまく行かなかつたんでせう?
リンデン ぢや、今は獨身?
ノラ 大勢の子供をつれてね。さあやつと燃えつきました。(ストーヴの戸を閉め、ロッキングチエアを少し側によせる)
リンデン あの人のやつてる仕事はあまり立派なことぢやあないつてますね。
 
(ランクがヘルマーの室から出て來る)
 
ノラ いゝえ、ちつとも(二人を紹介する)ランク先生――リンデンの奧さん。
 
リンデン はあ、私ゆつくり/\と歩くものですから。上り下りに骨が折れるので。
ランク あんまりお丈夫でない?
リンデン たゞ無理な仕事をしたせゐですけれど。
ランク あゝ、それで此方へ來て少し呑氣に保養をなさらうといふのですね。
リンデン いえ、此方へ參つたのは、職を求めたいと思ひまして。
ランク それぢやあ療養にはなりますまい、無理な仕事をなすつて疲れておいでなのに。
リンデン でも生きなくてはなりませんもの、先生。
ランク さやう、世間ではさういつてますね。
ノラ あら先生、あなただつて生きてゐたいとお思ひでせう?
 
リンデン (柔かに)まあ!
ノラ 誰のことですか?
 
ノラ さう? そしてトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトにどんな用事があるといつてました?
ランク 實は私、何も知らないのですがね、話の樣子ぢや何でも銀行の事務に關したことらしかつたですよ。
ノラ 私はちつとも、あいつが――あのクログスタットさんが銀行に關係してゐるといふことを知りませんでしたわ。
  
リンデン えゝ、それはさうでせうけれど――さういふ病人にこそ、尚のこと醫者の必要があるのぢやないのでせうか。
ランク (肩を搖つて)それだ! その考へからして人間社會を病院にしてしまふのです。
(ノラは自分獨りで何か考へ込んでゐたが、半ば押潰したやうに笑ひ出す)
ランク 何がをかしいのです。あなたは社會がどういふものかご存じですか。
  使※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
ランク それがあなたにとても面白いことなのですか?
ノラ (微笑、鼻唄)いゝんですよ/\(室内を歩き廻る)さうなの、全くさう思ふと愉快ですよ、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトが、そんなに多勢の人を自由にする身分になつたと思ふと(隱しから小さい紙袋を取出す)ランク先生、お菓子を召上りませんか?
ランク おうやおや――菓子? 菓子はこの家ぢや禁制品だと思つてたが?
ノラ さうです、けれどもクリスチナさんが持つて來てくれましたの。
リンデン あら! 私が?
 
ランク へえ、何です?
ノラ トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトの聞いてる前で――是非いつて見たいと思ふことがあるんですよ。
ランク ぢやあ何故言はないのです?
ノラ 言へないのですもの、大變無茶なこと。
リンデン 無茶なこととは?
ランク そんならいはない方がいゝ。だが私達だけにはいへませう? ヘルマー君に聞かせたいといふのはどんなことです。
ノラ 馬鹿野郎ッ! といつたらどんなにいゝ氣持でせう。
ランク 奧さん、氣が違やしませんか?
リンデン まあどうしたんです、ノラさん。
ランク いつて御覽なさい――ちやうどあすこに來たから。
ノラ (菓子を隱す)しいつ!
(ヘルマー、手に帽子を持ち、腕に外套をかけて自分の室から出て來る)
ノラ (ヘルマーの方へ行きながら)ね、あなた、あの男の用は濟んだのですか?
ヘルマー あゝ、あの男は今歸つたよ。
ノラ ご紹介しますよ、クリスチナさん、丁度此方へお出になつて――
ヘルマー クリスチナさん? 失禮だが誰方だつたか――
ノラ リンデンの奧さんですよ、あなた――クリスチナ・リンデンとおつしやつて。
ヘルマー (リンデン夫人の方へ)さうしますと、たしか、妻の學校友達でいらつしやつたのですな。
リンデン はい、子供の時分からご懇意に致してをります。
ノラ でねえ、まあどうでせう、この遠い處をあなたにお話がしたいつて、いらつしやつたのですよ。
ヘルマー 私と話がしたい?
リンデン は、いゝえ、さういふ譯でも――
 使
ヘルマー (リンデン夫人の方へ)それは結構ですな。
 
ヘルマー 出來ないこともないが、未亡人でお出でのやうですね。
リンデン はあ。
ヘルマー で、會社などの事務にご經驗がありますか?
リンデン 充分ございます。
ヘルマー はゝあ、それなら何處かへお世話が出來さうですな。
ノラ (手を拍ちながら)そうらご覽なさい! そうらご覽んなさい!
ヘルマー 丁度いゝ時にお出でになつたのですよ、奧さん。
リンデン 本當にお禮の申しやうもございません。
ヘルマー (微笑しながら)どう致しまして(外套を着る)私はちよつと御免蒙りますから――
ランク 待ち給へ、私も一緒に行かう。(廊下から毛皮の外套を取つて火に暖める)
ノラ 直ぐ歸つて來て、よくつて。
ヘルマー ちよつと一時間ばかり。
ノラ あなたもお歸り? クリスチナさん。
リンデン (外出の支度をしながら)えゝ、これから下宿を探さなくちやなりませんから。
ヘルマー ではご一緒に出かけませうか?
ノラ (リンデンの世話をしながら)家に明いた部屋があるといゝんですけれどねえ、みんな使つてゐるので。
リンデン とんでもないこと、こちらへそんなご迷惑をかけてすむものですか。さようなら、あなた色々とご親切にありがたうございました。
    
ランク 吹きさらしでお喋りをしてゐちやいけませんよ。
ヘルマー さあ、リンデンの奧さん、母親でなくちや此の寒さにあゝしてゐられるものぢやありません。

 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)  ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)   ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)  ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)  

クログスタット 奧さん、ご免なさい。
ノラ (押しつけたやうな叫聲で振り向き、半ばとび上る)お! 何かご用ですか?
クログスタット 失禮致しました。外の戸が開いてゐましてね、誰か閉めるのを忘れたのでせう――
ノラ (立ち上りながら)宅は今留守ですよ。
クログスタット 承知してをります。
ノラ ぢやどういふご用でいらつしやつたのです?
クログスタット あなたに少しお話し申すことがありましてね。
  
クログスタット はい。
ノラ 今日? だつてまだ一日にはならないぢやありませんか――
 
ノラ どうなさらうといふんです? 今日は私少しも用意してませんから――
クログスタット その方はいまご心配には及びません。お話は外のことですが、ちよつとの間お差支へありますまいか。
ノラ さうですね、構ひませんけれど、たゞ――
クログスタット よろしうございます。ご主人のお出かけになるのを、私この向ふの料理屋に待つてゐて、突きとめたものですからな。
ノラ それで?
クログスタット 一人のご婦人と。
ノラ それがどうしました?
クログスタット もしやあのご婦人はリンデンの奧さんといふのぢやありませんか?
ノラ えゝ。
クログスタット 此方へお出でになつた許り?
ノラ えゝ今日。
クログスタット お親しくしておいでなさるのでせう?
ノラ えゝえ、ですけど、あなたどういふ譯で?
クログスタット 私もあの婦人とはもと知合ひでしてね。
ノラ それは聞きましたよ。
  
 () 使
クログスタット やつぱり思つた通りだな。
ノラ (歩き廻りながら)ねえ? これでもちよつと權力があるでせう? 女だからつていつもさう――ね、クログスタットさん、下に立つ者は氣をつけて失禮なことのないやうにしないと、私のやうに――
クログスタット 權力のある場合にですか?
ノラ えゝ。
クログスタット (調子をかへて)奧さん、どうか、あなたの權力で私をお助け下さる譯には參りますまいか。
ノラ え? 何ですつて?
クログスタット お慈悲でどうか、目下の私ですから、銀行の地位が保つて行けるやうにご盡力下さい。
ノラ なせ、そんなことをいふんです? 誰もあなたの地位を奪やしないでせう?
 
ノラ だつて私は決して――
 
ノラ ですけどクログスタットさん、私何も權力なんかありやしません。
クログスタット 權力がない? しかし唯今伺つたところぢやあ――
ノラ 勿論、そんな意味ぢやなかつたのですよ。私なんぞ――どうして主人に對してそんな權力があるものですか。
クログスタット いや、ご主人のことは大學にゐた頃からよく知つてますが、奧さんに對してさう強硬な態度を取れるたちぢやありませんな。
ノラ あなた、手前どもに對して失敬なことをおつしやるなら、お歸りを願はなくちやなりませんよ。
クログスタット 思ひ切りがいゝですな、奧さん。
ノラ 私もう貴方を怖がつちやゐませんよ、新年がすむと早々すつかり片をつけてしまひますから。
クログスタット (我慢しながら)ま、お聞きなさい、奧さん。場合によつちや私は命けでも銀行のあのちつぽけな地位を爭つて見せますぞ。
ノラ えゝ、そんなこともなさりかねないやうね。
 
ノラ 何かそんな話を聞いたやうですね。
クログスタット その事件は裁判沙汰とまではならなかつたが、しかしそれからといふもの私の前途はぱつたり塞がつてしまひました。そこでご承知の通りの商賣を始めたのですがね、さうするしか仕方がなかつたんです。けれども、もうあの方はすつかり止さなきやならなくなりました。伜どもが段々大きくなつてみると、あれらのためにも是非出來るだけの信用を取り返して置いてやらなくちやなりませんからな。で、銀行に入つたのがその第一歩といふ譯なのです。處が、そこへ此方こちらのご主人が出ておいでなすつて、折角登りかけた梯子から泥沼の中へ突き落しておしまひなさらうといふんだ。
ノラ ですけど、クログスタットさん、實際私は、貴方を救ふ力はないんですよ。
クログスタット 救つて下さる氣がないんだ、しかし是非救つていたゞく方法はありますな。
ノラ 借金の事を主人にお話なさらうといふのですか?
クログスタット ふむ、もしさうするとしましたら?
ノラ そんな不徳義なこと(目に涙をためて)私が悦んで誇りにしてゐる祕密を――そんな淺間しい非道い仕方で、それも貴方の口から打明けてしまふなんて! そんなことになつたら私はどんなにか不愉快な身の上になるでせう?
クログスタット たゞ不愉快なばかりですか?
  
クログスタット いや私はたゞあなたが家庭の不愉快といふことばかり氣にかけていらつしやるのかとお尋ねしてゐるのです。
 
 
ノラ どうしたといふんです?
クログスタット ご主人がご病氣の時に、貴方は私の所へお出でになつて、千二百ターレル貸してくれとおつしやつた。
ノラ 他に懇意な方もなかつたものですから。
クログスタット で、私はその金を拵へて上げませうとお約束をしました――
ノラ そして、拵へて下すつたぢやありませんか。
 
ノラ えゝ、それで私はその手形に署名しました。
 
ノラ 署名するはずですつて? 署名したぢやありませんか。
クログスタット 日付の所を明けて置きましたらう? 即ちお父さんが自身で署名の上に日付をお入れなさるやうになつてました。ご記憶ですか?
ノラ えゝ、さうのやうでしたわ――
クログスタット そこで私はその手形をあなたに差上げてお父さんの方へお送りを願つた。さういふ順序でしたな?
ノラ えゝ。
  
ノラ それでどうしたといふんです? 私拂ふものはきちん/\とお拂ひしてるぢやありませんか。
クログスタット まづねえ。所で話の要點に成ると、その頃あなたは大變お困りのやうでしたね、奧さん。
ノラ 實際さうでしたよ。
クログスタット あなたのお父さんは大病だといふし。
ノラ とても助からないといふ時でしたからね。
クログスタット そして間もなくお亡くなりになつたでせう?
ノラ えゝ。
クログスタット 何ですか? 奧さん、あなたはお父さんのお亡くなりになつた日を覺えていらつしやいますか、月の幾日といふことを?
ノラ 父は、九月の二十九日に亡くなりました。
 
ノラ 重大なことつて何です? どんなことか知りませんが――
クログスタット 重大なことと申すのはね奧さん、お父さんがこの手形に署名なすつたのは、お亡くなりになつてから三日後のやうですぜ!
ノラ 何ですつて? 私まだわからないんですが――
  ()() 
ノラ (暫く默つてゐて、頭を後へそらせ、決然たる樣子で彼を見る)いゝえ、父の名を書いたのは私です。
クログスタット もし、奧さん、あなた危險なことをおつしやつてますぞ、よございますか。
ノラ 構はないでせう、お金はぢき拂ひますから。
クログスタット 尚一つ伺ひたいことがあります、なぜこの手形をご親父の方へお送りにならなかつたのですか?
  使
クログスタット そんなら旅行をお止しなすつたらよかつたでせう。
 
クログスタット で、あなたは私に對して詐欺をしてお出でになるとは氣がつかなかつたのですか?
 
クログスタット 奧さん、あなたは現にやつてお出でなさることがどんな事だかご存じないやうですね。私がかうやつて社會から投り出されたのも、あなたとおなじことをしたからですぜ。
ノラ まあ、この人は! 細君の命でも救ふために立派なことをしたやうな顏をして。
クログスタット 法律は動機の如何を問ひません。
ノラ それぢや、その法律は大間違ひの法律です。
クログスタット 間違つてゐようがゐまいが、この證書を裁判所にさへ持出せば、あなたは法律上の罪人にならなくてはなりませんよ。
  
  
   
子供 (左手の扉の處で)お母さん、よそのおぢさん、もう行つちまひましたよ。
 
子供 えゝ、だから一緒に遊びませうよ、ねえお母さん?
ノラ いゝえ、今はいけないの。
子供 ねえ、遊びませうよ。お母さん、約束したんですもの。
 ()()()()    
エレン (クリスマス・ツリーを持つて)何處へお立て申しませうか。
ノラ そこへ、部屋の眞中の處へ。
エレン 何かまだ他のものを持つて參りませうか。
ノラ いゝえ、よくてよ、それですつかり揃ひます。
(エレンは、木を置いて出て行く)
  
(ヘルマーが一束の書類を持つて廊下の扉から入つて來る)
ノラ あら! もう歸つてらしつたの?
ヘルマー あゝ、誰か來てゐたかえ?
ノラ 此處へ? いゝえ。
ヘルマー 變だな。クログスタットがこの家から出て行つたが。
ノラ お會ひなつたの? さう/\、何でしたつけ、ちよつとの間來てたのですよ。
ヘルマー ノラ、お前の樣子でちやんとわかるよ、彼奴め、お前に口をきかせようと思つて來たな!
ノラ えゝ。
ヘルマー で、お前はそれを自分の料簡一つでやらうと思つたのかい? お前は彼奴が此處にゐたことを知らせまいとしてゐるやうだが、それも彼奴の入智惠ぢやなかつたか?
ノラ えゝ、ですけどね――
ヘルマー ノラ! どうしてお前そんなことが出來るんだ! あんな奴と話をして約束までするなんて、それで私には嘘をついて、ごまかさうとする!
ノラ 嘘ですつて?
ヘルマー 誰も來ないといつたぢやないか(指で突く眞似をして)家の小鳥さんは二度とそんなことをいつちやいけないよ、小鳥が調子の違つた歌なんか囀つちや仕樣がない(片手に女を抱きながら)え、さうぢやないか――さうだらう、さうなくちやならない(女を放す)ぢや、もうそのことはいはないことにしようね(ストーヴの前に坐る)あゝ、靜かでいゝ氣持だな! (持つてゐる書類を覗き込む)
ノラ (クリスマス・ツリーに氣を取られてゐる。暫く默つてゐて)あなた!
ヘルマー え?
ノラ 私、本當に明後日のステンボルグさんの假裝舞踏會が待ち遠しいわ。
ヘルマー 私はまたお前がどんな趣向で私を驚かすだらうと、それが樂しみだよ。
ノラ 私も全く思案にあまつてゐるのよ。
ヘルマー どうして?
ノラ 幾ら考へても旨い思つきが出ないんですもの。何を考へてみても下らない、平凡なものばかりですから。
ヘルマー ノラさんがさういふ發見をしたんだな?
ノラ (夫の椅子の後から腕をもたせかけて)貴方、非常にお忙しくつて?
ヘルマー さうさな――
ノラ その書類は何のご用?
ヘルマー 銀行の用事だ。
ノラ もう?
 
ノラ ぢや、そのためですわ、可哀さうに、あのクログスタットが――
ヘルマー ふむ――
ノラ (尚、椅子の背の處によりかゝり、靜かに夫の髮の毛を掻きながら)貴方、餘り忙しくなかつたら本當にお願ひしたいことがあるんですけれどね。
ヘルマー 何だらう? いつてご覽。
  
ヘルマー あはあ! 家の剛情屋さんが、途方にくれてしよげ始めて來たね。
ノラ えゝ、どうかね。貴方がいらして下さらなくちやどうにもならないんですもの。
ヘルマー よし/\、考へてみよう、そのうち何かつかるさ。
   
ヘルマー 私文書僞造といふだけだがね、それはどんなことか知つてるかい?
ノラ 何か止むを得ない事情で、そんなことをしたんでせうね?
 ()()
ノラ でせう? 私だつてさう思ひますわ。
ヘルマー たゞ自分の罪を白状して、それだけの刑罰を受けちまへば、それですつかり道徳上正しい人間になることが出來るんだが。
ノラ 刑罰ですつて?
 
ノラ あなた、それでは――?
  
ノラ 何故です?
ヘルマー 何故つてお前、そんなうそいつはりが入つて來ると、家庭の空氣はすつかり腐つてしまつて毒をもつて來るからな、子供が呼吸する度に罪惡の黴菌を吸ひ込むやうなものだ。
ノラ (夫の後の方へ近よつて行つて)貴方本當にさう思ふんですか?
ヘルマー 辯護士をしてる間に私は幾度もさういふ例を見たよ、子供の時分に惡いことをする奴は、十中八九まで母親が嘘をつくのに原因してるやうだ。
ノラ まあ――母親がですか?
 
(ノラは自分の手をひいてクリスマス・ツリーの向ふ側へ行く)
ノラ この室は暑いわ。私まだ澤山色んなことをしなくちや。
ヘルマー あゝ、俺も夕飯までに書類の必要なものだけすつかり見て置かなくちやならない、それからお前の衣裳のことも考へなくちやならないし。クリスマス・ツリーに金紙で下げるものも何か思ひつくかも知れない(女の頭に手を置いて)家の大事な小鳥さん。
(ヘルマー自分の室に入り後の扉を閉める)
 
アンナ (左手の扉の處で)皆さんがママの處へ行きたいんですつて、此處へお連れしてもよろしいでせうか?
 
アンナ はい(扉を閉める)
     
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    第二幕







 便鹿
(アンナが左手から大きなボール箱を持つて入つて來る)
アンナ やつとタランテラの衣裳の箱を見つけました。
ノラ 有難うよ、テーブルの上に置いておくれ。
アンナ (さうする)ですけれども、大變ひどくなつてゐますよ。
ノラ 仕樣がないね、ずた/\に引つ裂いてしまへ。
アンナ いけませんよ。すぐ直ります――ちよつとの間、待つていらつしやい。
ノラ ぢや私、リンデンの奧さんにお手傳ひを頼んで來よう。
アンナ またお出かけなさいますか? こんな天氣にまあ、風邪をひいたらどうなさいます?
ノラ 風邪よりも、もつと惡いことがあるかも知れないよ。子供はどうしてるの?
アンナ みんなクリスマスの贈物を持つて遊んでいらつしやいます。お可哀さうにね、ですけれども――
ノラ 私のことを聞くかえ?
アンナ それはもう、ねえ、いつもお母さんとご一緒でいらつしやつたのですから。
ノラ さうねえ、けれどもアンナや、これからはね、私あんまり子供と一緒にゐられないの。
アンナ それはもう、お小さい内ならどうにでも仕つけやう一つでございますからね。
ノラ さういふ風に仕つけられると思へる? 母親がゐなくなつたら忘れてしまふだらうか?
アンナ まあ、何をおつしやいます。ゐなくなつたらですつて?
ノラ あのねえ、アンナ――私いつもさう思ふのだけれど――どうしてお前は自分の子供を他人にやることが出來たの?
アンナ ノラさんをお育て申すことになつて否應なしにさうしたのでございます。
ノラ けれども、どうしてそんな決心がついたの?
 
ノラ それぢや、お前の娘さんは、お前を忘れてしまつただらうね。
アンナ ところがそんなことはございませんよ、奧さま。忘れないものと見えましてあれが聖體式を受けました時と結婚しました時には、手紙をよこしました。
ノラ (アンナを抱きながら)ねえ婆や、お前も年を取つたねえ――私小さい時は本當に母親も及ばない世話になつたつけ。
アンナ あの頃のノラさんは本當にお可哀さうでしたよ、お母さまはいらつしやらず、私ひとりが頼りだつたのですからね。
 鹿
アンナ きつと明日の舞踏會には、ノラさんより綺麗な方はないにきまつてゐますよ(左手の室に入る)
 鹿
(リンデン夫人が廊下で外出仕度の物を脱ぎ入つて來る)
   
リンデン 私の所へお出でになつたさうですね。
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
リンデン さうですか、見物でせうね。
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
  
ノラ まあ、すみませんねえ。
 
ノラ (立ち上り室を向ふへ歩く)いゝえ、昨日はね、不斷ほど面白くなかつたのですよ。もう少し早くいらつしやるとよかつた。トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトは實際、家の中を樂しくするのが上手なの。
リンデン あなただつてさうぢやありませんか。でなければお父さんのお子さんぢやありませんもの。それはさうと――ランク先生はいつもあんなに昨晩のやうに沈んでいらつしやいますか?
 
リンデン (縫物を續ける、ちよつと經つて)ランク先生は毎日此方へ見えるの?
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
リンデン ですがね、あなた――あの方は全く眞面目な方なの? 口先だけの出任せをいふ人ぢやありませんか?
ノラ そんなことはありませんわ、どうしてそんな風にお考へなすつて?
リンデン 昨日あなたがお引合せ下すつた時にあの方は、何度も私の名を聞いたといつたでせう? ところがお宅のご主人は少しも私をご存じなかつたでせう? それでどうしてランク先生が――?
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
 
ノラ どんな關係?
リンデン あなたは昨日、金持であなたを崇拜してる人にお金を拵へて貰ふといつたでせう?――
ノラ えゝ、實際はゐない人にねえ、お氣の毒さま、それがどうしました?
リンデン ランク先生はお金を持つてるの?
ノラ えゝ、持つてます。
リンデン そして、遺産相續といつては、誰もゐないでせう?
ノラ 誰もゐません。だけれど――
リンデン それで以て、あの人は毎日この家へ來るんでせう?
ノラ えゝ、毎日。
リンデン 私は、あの人がもう少し嗜みを持つててくれるといゝと思ひます。
ノラ 私まだあなたのおつしやる意味がわからない。
リンデン 白ばくれちやいけませんよ、ノラさん。あなたまだ千二百ターレルのお金をあなたに貸した人が、誰だか私に當てがつかないと思つてるの?
  
リンデン ぢやあ本當にあの人ぢやないの?
 
リンデン まあ、その方があなたのためにはよかつたと思ひます。
ノラ 全く私、ランク先生のことなんぞは考へても見なかつたのだけれど、もしあの方に頼んだらきつと――
リンデン けれども、あなた頼む氣は無論ないのでせう?
ノラ 無論ですとも。そんな必要なんかないんですもの。けれども、きつと何よ、もしランク先生に話したら――
リンデン ご主人にいはないで?
ノラ 私ね、これから切り拔けなくちやならないことがあるの、それも主人に隱して是非その方の片をつけなくちやならない。
リンデン それがいゝわ、私、昨日もさういつたでせう? たゞ――
ノラ (あちらこちらと歩きながら)えゝ、こんなことを運ぶのは、女よりもずつと男の方がいゝんだけれど。
リンデン 夫にさせるなら、無論いゝですとも。
ノラ そんな馬鹿な(じつと立止る)あのね、借りてたものをすつかり返せば證書は返つて來るのでせうか?
リンデン 無論ですよ。
ノラ 返つて來たら、あの汚れた嫌なものをずた/\に引き裂いて燒いてしまひたいわ!
リンデン (じつとノラを見て、仕事の物を下に置いて徐々と立上る)ノラさん、あなたは私に何か隱していらつしやるのね?
ノラ さう私の顏に書いてあるの?
リンデン 昨日の朝から何か變なことがあつたのね、何です? ノラさん。
  ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
リンデン (手近の物を取り集めて)はい/\、ですけれども、すつかりお話を聞くまでは歸りませんよ。
(リンデン夫人は左手に出て行く、引きちがへにヘルマーが廊下から入つて來る)
ノラ (走りよつて迎へる)まあ、お歸りなさい。
ヘルマー 仕立屋が來てゐたのか?
ノラ いゝえ、クリスチナさんですよ、私の衣裳を手傳つてゐてくれるの、今に綺麗に出來上るから見ていらつしやい。
ヘルマー あゝ、俺のあの考へは、いゝ思ひつきだつたらう?
ノラ ほんとによかつたわ、けれども私があなたの考へに賛成したのも、えらいでせう?
   
ノラ これから、あなたは仕事におかゝんなさるの?
ヘルマー あゝ(一たばの書類をノラにしめす)これをご覽(自分の室の方へ行く)今銀行へ行つて來たところだ。
ノラ あなた。
ヘルマー (立止りながら)えゝ?
ノラ あなたの栗鼠さんがね、大變可愛らしくて何か貴方にお願ひするといつたら――
ヘルマー ふむ?
ノラ 叶へて下さる?
ヘルマー まあどんなことだか聞かなくちやあ。
ノラ たゞ貴方が優しくしていふことを聞いてさへ下さればね。栗鼠はそこら中跳ねまはつてどんな藝當でもしますわ。
ヘルマー ぢやあ、いつてご覽。
ノラ あなたの雲雀は朝から晩まででも囀つてゐますわ――
ヘルマー いや、この雲雀は、いつでもよく囀るやうだよ。
 
ヘルマー ノラ――お前のいふのは、今朝遠廻しにいつてた、あのことぢやあるまいな。
ノラ (傍へよつてきて)あのことよ、ね、あなた、どうかお願ひですから。
ヘルマー お前は實際、またそれをいひ出す勇氣があるのかい?
ノラ えゝ、ですから私を助けると思つて、是非クログスタットを銀行に置いてやつて下さい。
ヘルマー でもお前、私がリンデンの奧さんをつけようと思ふのは、あいつの地位なんだよ。
ノラ えゝ、それは有難いんですけれどね、クログスタットの代りに誰か他の者を免職にして下さいな。
ヘルマー どうしたんだ、わからないにもほどがあるな。お前がよく考へもしないで、あんな奴に約束をするものだから、そのために私が――
  
ヘルマー さういふ風にお前があいつの頼みを聞かうとするから、却つて益々あいつを置いとくことが出來なくなるのだ。私がクログスタットを出すといふ話は銀行へ知れてるのだから、萬一、新支配人は妻君の小指で引き廻はされたといふやうな噂がたつと――
ノラ さうすると、どうなります?
 
ノラ どんなこと?
ヘルマー 俺は已むを得なければ、あいつの暗い性格は我慢できるかも知れない――
ノラ えゝ、さう。
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
ノラ あなた、眞面目なの?
ヘルマー 眞面目なのかつて? なぜだ?
ノラ そんなことは小つぽけな理由ぢやありませんか。
ヘルマー 何だつて? 小つぽけな? お前は俺を小つぽけな人間だと考へるのか。
ノラ いゝえ、その反對ですわ、ですから私は――
  
ノラ 何のご用?
 使使
エレン はい畏りました(手紙を持つて出て行く)
ヘルマー (書類を重ねながら)さあ、剛情奧さん。
ノラ (息をしないで)あなた、あの手紙は、どんな用のですか?
ヘルマー クログスタットの免職だ。
   
ヘルマー もう遲い。
ノラ もう遲い。
 
ノラ (恐怖に打たれて)あなた、それは何をおつしやるのです?
ヘルマー 重荷をすつかりといふんだ。
ノラ (決心して)あなたにそんなことは決してさせません。決して(ヘルマーを抱く)
 
  
(ノラ、兩手で顏を撫でて氣を取り直し、扉の方へ行つて開ける。ランクは外に外套をかけながら立つてゐる。次の臺詞の間に段々暗くなる)
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
ランク あなたはお暇なのですか?
ノラ 私はもう、あなたのためなら、いつだつて時間を明けてるぢやありませんか。
ランク 有難う、ぢや、ご親切に甘えて出來るだけゆつくりして行きませう。
ノラ 出來るだけゆつくりですつて?
ランク はあ、それが氣に懸りますか。
ノラ 何だか變なおつしやりやうぢやありませんか。何か變つたことでもありさうですね。
ランク 前から仕度をして待つてゐたことが來さうです。たゞこんなに早く來ようとは思はなかつた。
ノラ (ランクの腕を取りながら)それはどんなことです? 先生、聞かして下さい。
ランク (ストーヴの傍に坐りながら)私は今、急な坂を馳け下りてるやうなものです。助けようといつたつて方法はありません。
ノラ (ホッと長い息を引く)あなたが――?
 
ノラ まあ! 何ていやなことをおつしやる。
 
ノラ ですけれど先生――
 
ノラ まあ何てことを、あなた、今日はまるで駄々ッ子ですね、今日こそ愉快にして頂きたいの――
ランク 正面から死といふものに睨まれてゐてですか? そして他人の罪惡のために私が苦しまなくちやならない、そんな理窟に合はない話があるもんか。
ノラ (兩方の耳をふさぎながら)もう/\そんなことは止して下さい。さあ愉快になさいよ。
ランク あゝあ、要するに世のなかのことといふものはをかしなものだ。何も知らない私の背髓が親父の將校時代の放蕩の償ひをしなくちやならないなんて。
ノラ (左手のテーブルに向つて)多分、あなたのお父さんはアスパラガスや鳥の卵がお好きだつたでせうね?
ランク えゝ、それからきのこも好きでした。
ノラ さうでせうねきのこも。それからきつと牡蠣もお好きでしたらう?
ランク えゝ、牡蠣、牡蠣は勿論ですとも。
  
ランク それも惡くなつた背髓が自分でそんなものを食つたわけぢやないんですからね。
ノラ えゝ、それが何よりもね。
ランク (探るやうな目付で女を見る)ふむ――
ノラ (ちよつとして)何をお笑ひなすつて?
ランク いゝや、お笑ひなすつたのは、貴女だ。
ノラ いゝえ、あなたですよ、先生、お笑ひなすつたのは。
ランク (立ち上りながら)あなた――あなたも相當なものですね。
ノラ 私、今日は氣が違ひさうなんです。(唐突に)
ランク さう、そんな風ですよ。
ノラ (兩手を男の肩にかけ)ね、先生、あなたをトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトや私から連れて行くことは死の力でも出來ませんわね。
ランク なあに、ゐなくなれば譯なく忘れておしまひなさる、去る者日々に疎しでね。
ノラ (心配氣に男の方を見る)さうでせうか?
ランク 新しい友達を拵へて、そして――
ノラ 誰が新しい友達を拵へるの?
 
ノラ あら、あんなこと――クリスチナさんのことを妬いてらつしやるんですか?
ランク えゝ、妬けます。あの婦人が私の後繼になつてこの家へ這ひこむんでせう。私がゐなくなると、きつとあの人が――
ノラ 叱ッ! そんな大きな聲をして、あの方がそこにをりますよ。
ランク 今日も來てゐるんですか、さうれご覽なさい。
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
ランク (坐りながら)何ですそれは?
ノラ さ、これ!
ランク 絹の靴下。
  
ランク ふむ――(じろ/\眺める)
ノラ どうして、そんなにじつと眺めていらつしやるの? 私に似合はないこと。
ランク さあ何と云つたらいゝか。さうしたことは私にはわかりません。
ノラ (暫く男の方を見てゐて)まあ、いぢわる。(靴下で男の耳の處を輕く打つ)これが罰ですよ(靴下を元のやうに卷いておく)
ランク まだ外に何か珍らしいものがありますか?
ノラ もう、あなたには見せない。禮儀を知らないから。(ちよつと鼻唄を歌ひ、色々な物を探しまはる)
ランク (暫く默つてゐた後)かうして、あなた方と親しくして無駄口でも利いてると私はつくづくさう思ひますね、これが、もしまるでこの家に出入りをしなかつたら、私の身體はどうなつてるでせう?
ノラ (微笑しながら)さう思ふでせう? あなたは私どもへいらつしやると、全く樂しさうに見えますよ。
ランク (眞直に自分の前を見ながら、一層柔かな調子で)ところが、もう、すつかりそれも見納めにしなくちやならない――
ノラ 下らないこと、私どもを見限つていらつしやるには及びますまい。
 調
ノラ ぢやあ、もし私がお頼みすることがあつたら――? 止しませう――
ランク どういふお頼みですか?
ノラ あなたのご友情の印に。
ランク ふむ――といふのは?
ノラ よさう/\。本當はね――大變な役目。
ランク 一生の思ひ出に是非それをさせて下さい。私はどんなにか嬉しいでせう。
ノラ だつて、あなた、どんなことだかご存じないぢやありませんか。
ランク ぢや、聞かせて下さい。
ノラ いけませんよ、本當にいへないんですよ。全く大變なことですもの――たゞ役目をして頂くといふのでなく、助けて頂くといふのですからね。
ランク なほ結構です。どういふ意味だかちよつと私には見當がつかないが、さあさあお話なさい。私を信用して下さらないのですか?
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
ランク (女の方に屈みながら)ノラさん、あなたはヘルマー君の外には誰も――
ノラ (ちよつと身體を起して)誰も――?
ランク 貴女のために命を捨てゝ厭はない者はゐないと思つてらつしやるのですか。
ノラ (悲しげに)まあ! (顏をおほふ)
ランク 私は――是非このことをお別れする前にいつて置かうと心に誓つたのですよ、こんないい機會はまたとなからうから――さうだ、ノラさん、これだけ申したら私の心持はわかりましたらう? それから、他に信用する者がなければ私を信用して下さいといふ譯もわかつたでせう?
ノラ (無雜作に靜かに立ちながら)ちよつとご免下さい。
ランク (女の通れるやうに道を開ける。けれども自分は坐つたまゝでゐる)ノラさん。
ノラ (入口の處で)エレン、ランプを持つてお出で! (ストーヴの方へ横切る)まあ先生、惡いことをいつて下すつたわね。
ランク (立ち上りながら)あなたを愛してるといふことがですか、愛してる點では誰にも讓らない。それがそんなに惡いことですか?
ノラ さうぢやありませんけど、私にさういつて下さつたのが惡いんです。おつしやる必要はなかつたのでせうに――
ランク どういふわけで? あなた、知つてたのですか?――
(エレン、ランプを持つて入つて來る。それをテーブルの上に置いて出て行く)
ランク ノラ、ヘルマーの奧さん――あなた知つてたのですか?
  
 
ノラ (男の方を見ながら)話の先ですつて――今になつて?
ランク どうか、貴女の頼みといふのを聞かせて下さい。
ノラ 今となつては私もう何も申し上げられませんわ。
ランク いや/\、そんな風にして私を罰しなくてもいゝでせう。男として出來ることなら何でもしますから、あなたのために働かせて下さい。
  
ランク いや、さうも思へません。が、もう私はお暇した方がよささうです――永のお暇を。
 
ランク それはわかつてますが、あなたは?
ノラ それは知れきつてるぢやありませんか、私かうやつて貴方とお話するのが何よりも好きですもの。
 
ノラ ね? さうでせう? 自分の愛する人も好きですけれど、話をして面白い人も好きですわねえ。
ランク 左樣――さういふこともいへますね。
  
ランク おや、おや、ぢや、私がその下男代りといふわけですね。
ノラ (とび上つてランクの方へ急ぎ行く)あらまあ先生、そんな意味ぢやないんですよ、ですけれど、おわかりでせう? トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトは丁度私に取つては、お父さんのやうなものですからね――
(エレンが廊下から入つて來る)
エレン 奧さま――(ノラへ囁く、そして一枚の名刺を渡す)
ノラ (名刺を一瞥しながら)あつ! (名刺を隱袋に入れる)
ランク 何か變つたことですか?
ノラ いゝえ、何でもないの、たゞ――私の注文して置いた衣裳が來たのですよ――
ランク だつて衣裳はそこにあるぢやありませんか。
ノラ あ、そのはうはさうですよ。けれど、これはまた別なのです――注文して置いたのです――家に内緒なのですよ――
ランク あはあ、ぢや、大祕密なんですね。
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
ランク 安心してらつしやい。ヘルマー君をしつかり掴まへときますから(ヘルマーの室へ行く)
ノラ (エレンの方へ)あいつは臺所で待つてるのかえ?
エレン はい、裏の階段から上つて參りまして――
ノラ 私、今、手が塞がつてるといへばよかつたのに。
エレン さう申しましたけれど、利目がございませんでした。
ノラ あいつ、歸らないつていふのかい?
エレン はい、あなたにお話のすむまでは歸らないと申してをります。
ノラ ぢやお通し! 靜かにね! それからあいつの來たことをいつちやいけないよ。旦那樣に聞えるとびつくりするからね。
エレン はい承知いたしました。(出て行く)
 
(ノラは、ヘルマーの室の處に行き、指錠をおろす。エレンは廊下への扉を開きクログスタットを通す。そして後を閉め切る。クログスタットは旅行上衣を着、長靴をはき、毛皮の鳥打帽子を冠つてゐる)
ノラ 靜かにお話下さい、主人が家にをりますから。
クログスタット 承知しました。そんなことはどうでもかまひません。
ノラ どんな御用ですか?
クログスタット 少しお知らせ申すことがありましてね。
ノラ ぢや早くして下さい、何ですか?
クログスタット ご承知かも知れませんが、私は免職になりました。
 
クログスタット そんなにご主人は貴女のことを何とも思つてお出でにならないのですか。私が貴女をどんな目に合はせるかも知れないといふことはご承知でせうが、それでもやつぱり――
ノラ 貴方はすつかり主人に私がいつたと思つていらつしやるの?
クログスタット いや、實は貴女が、それを話しておいでなさらないといふ事はよく承知してゐました。私の知つてるトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルト・ヘルマー君なら、それを聞いてゐては、あれ程の勇氣は出ませんからな――
ノラ クログスタットさん、どうか主人についてあまり失敬なことはいはないやうにして下さい。
 
ノラ 貴方に伺つた以上に、ずつとよくわかつてゐますよ。
クログスタット 左樣、私のやうな碌でもない法律家にお聞きなさるよりはね――
ノラ 貴方のご用といふのは?
 
ノラ ぢやそれを見せて下さい。子供達のことを考へて下さい。
  
ノラ さうでせう、そんなことをなさるはずはないと思つてました。
 
ノラ ですけど、主人にだけはどうあつても知らせられません。
クログスタット どうしてさういふ事が出來ますか。貴女、ご自分で、すつかりお拂ひになりますか。
ノラ それは、直ぐといふ譯には參りませんが。
クログスタット それともこの兩三日のうちにその金を拵へる手段てだてがおありですか?
ノラ それも直ぐといつて間に合ひさうなのはありませんけれど。
クログスタット また、それがおありなさるとしても、今となつちや役に立ちますまい。すつかり金を積んで返さうとおつしやつても證文は貴女の手には返しません。
ノラ それを取つておいて何になさらうといふのです?
 
ノラ 起したらどうします?
クログスタット 例へば夫や子供を捨てゝしまつて、といふやうなことを考へるとか――
ノラ もし捨てゝしまつたらどうなります?
クログスタット または――何かもつと亂暴なことをお考へなすつた場合に――
ノラ どうして貴方は、それを知つてゐます?
クログスタット そんなことは殘らず頭の中から打つちやつておしまひなさい。
ノラ どうして貴方は、私の心で思つてることをご存じですか?
クログスタット 誰でも始めは、さういふことを考へるものです。私もそれを考へました、けれども私には勇氣がなかつた。
ノラ 私にも、それがない。
クログスタット その上――始めの嵐がすぎてしまふと――そんなことは至つて馬鹿らしいものです。私こゝにご主人に當てた手紙をポケットに入れて來てゐます。
ノラ すつかり打ち明けようと言ふのですか?
クログスタット あなたは出來るだけかばつてあります。
 
クログスタット 相すみませんな、奧さん、しかし私はさう申し上げたと思ひますが。
ノラ いゝえ、何も借りてゐるお金のことをいつてるのぢやありません。一體あなたは主人からどの位お金を取らうと思つていらつしやるのですか――私がそれを差上げませう。
クログスタット 私はご主人からお金を貰はうとは思つてゐません。
ノラ 何がそれじや欲しいのです?
 滿
ノラ 主人が、そんなことをするものですか。
クログスタット いや、なさるでせう、私はご主人の人物を存じてをります――よもや拒みはなさるまいと思ひます。そして私が銀行に入れば、見ていらつしやい、直に支配人の右の腕にはなつてみせます。トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルト・ヘルマーでなくニルス・クログスタットが株式銀行は切り廻してご覽に入れます。
ノラ おやまあ、そんなことができるものですか。
クログスタット では何でせうな、あなた――?
ノラ もう止して下さい。今こそ私勇氣が出ましたよ。
クログスタット 私を嚇かしちやいけませんよ。貴女のやうな華車な荒い風にも當らないものがどうして――
ノラ まあ、見ていらつしやい!
クログスタット おそらく氷の下に閉じ込められて? あの冷たい黒い水の底に沈んで? 翌年の春になつて浮き上つて來ると、醜い嫌な姿に代つてゐて髮の毛も無くなつて、誰だか見わけもつかないやうになつて――
ノラ 私を怖がらせようと思つたつて駄目ですよ。
 
ノラ 後々までも? 私がゐなくなつてからも――?
 鹿
 便  便便
(リンデン夫人が踊衣裳を持つて左手からよつて來る)
リンデン さあ、もうすつかり直りました。ちよつと着てご覽なさい。
ノラ (嗄れ聲で柔かに)クリスチナさん、こちらへ。
リンデン (衣裳をソファの上において)どうなすつたんです? あなた、まるで顏色が變つてゐますよ。
ノラ こゝへいらつしやい。あの手紙が見えますか? さう、ね――あの郵便受のガラスに。
リンデン えゝ、えゝ、見えてよ。
ノラ あの手紙はクログスタットから來たんですよ――
リンデン ノラさん――あなたに金を貸してるのはクログスタットでしたのね?
ノラ えゝ、ですからもう愈々トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトが何もかも知つてしまふことになります。
リンデン ノラさん、惡いことは言ひません、きつとその方が貴女がたお二人のためですよ。
ノラ 貴女はまだすつかりわけがわからないから、そんなことを言ふけれど、私、實は名前を僞署してゐるのですよ――
リンデン どうしたんですつて――
ノラ ですから、ねえ、クリスチナさん、あなた聞いてゐて下さい。私のために證人になつて下さいな――
リンデン 證人とは? 何のです――
ノラ もし私が氣でも違ふやうだつたら――そんなことになるかも知れませんから。
リンデン まあ、ノラさん――
ノラ それでなくとも何か私の身の上に變つたことが起つたら――さうして私がもうかうしてゐられない場合にでもなつたら――
リンデン まあノラさん、あなた――どうかしたの?
ノラ もし誰か出て來て何もかも自分が引き受けようと言ふ場合には――すべての罪をね――わかりましたか?
リンデン えゝ、けれども、どうしてあなたはそんなことをお考へになるの――?
 
リンデン それは覺えておきますがね、どうしてそんなことをおつしやるか、私にはわかりません――
ノラ それがどうして貴女にわかりませう? これから現れて來ようといふ奇蹟ですもの。
リンデン 奇蹟ですつて?
 
リンデン ぢや、私クログスタツトの方へ直ぐ行つて話してみませう。
ノラ いけませんよ。あの男は貴女に害を加へますよ。
リンデン あの人は私のためなら何でもした時代がありましたのよ。
ノラ あいつが?
リンデン あの人の家は何處ですの?
ノラ そんなことをどうして私が――? さう/\(隱しを探る)こゝにあいつの名刺があります。けれども、あの手紙をどうしませう――
ヘルマー (外から戸を叩きながら)ノラ!
ノラ (恐怖の叫び)なあに? 何かご用ですか?
 
 
リンデン (名刺を讀んで)ぢや、あの人の家はすぐ近くですね。
 便
リンデン そして箱の鍵はご主人が持つてお出でなの?
ノラ えゝ、いつも。
リンデン それぢや、クログスタットにさういつて、あの手紙を讀まないうちに取返させませう。何かいひ譯をさせればすみますから――
ノラ けれども、もうトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトがいつも郵便受をあける時刻ですから――
リンデン 引き止めておゝきなさいよ、いつも手を塞がせておくとよくつてよ、私出來るだけ早く歸つて來ますから(急いで廊下の扉を開けて行く)
ノラ (ヘルマーの室の扉を開けて中を覗く)あなた!
ヘルマー うむ、もうそつちへ行つてもいゝかね、さあランク君、行つてみよう――(入口の處で)おや、どうしたんだ?
ノラ なあに? あなた。
ヘルマー ランク君の話で、大變な衣裳稽古を見る積りだつたが?
ランク (入口の所で)私もさう思つてゐた。聞き違ひとみえる。
ノラ いけませんよ、明日の晩までは私の晴衣裳は誰にも見せないの。
ヘルマー どうしたんだ、お前は大變疲れてるやうにみえる、稽古をし過ぎたのだらう。
ノラ いゝえ、まだ少しも稽古なんかしやしません。
ヘルマー けれども、お前やらなくちやいけないんだらう――
 
ヘルマー あゝ、そりやまた直に思ひ出すさ。
 
ヘルマー 約束するよ、今夜はすつかりお前の奴隷になるよ。可哀さうに、氣の弱い奴だな――それはさうと先づ――(廊下の扉の方へ行きながら)
ノラ 何をなさるの?
ヘルマー 手紙が來てやしないか見るのさ。
ノラ いけません、いけません。そんなことをしちや、ねえ。
ヘルマー なぜさ?
ノラ あなた、お願ひですから止して下さいな、手紙なんか來ちやゐませんよ。
ヘルマー ま、ま、見てくるよ(行かうとする)
(ノラはピアノの前に坐つて、タランテラ踊の音樂の一小節を奏でる)
ヘルマー (入口の處に立止る)おや?
ノラ 私最初にあなたとおさらひをしておかなくちや明日踊れませんもの。
ヘルマー (女の方へ行きながら)お前本當にさう昂奮してるのかえ、ノラ?
 
 
ノラ さあ、彈いて下さい! 踊りますよ!
(ヘルマーが彈きノラが踊る。ランクはピアノの前、ヘルマーの後に立つて眺めてゐる)
ヘルマー (彈きながら)もつと、ゆつくり、ゆつくり!
ノラ ゆつくりは踊れませんの。
ヘルマー これノラ、そんな亂暴でなく。
ノラ いゝんですよ、いゝんですよ。
ヘルマー (止める)ノラ! それぢや到底ものにならないよ。
ノラ (笑つてタンバリンを振り動かす)だから、さういつたぢやありませんか。
ランク 私が彈いてあげませう。
ヘルマー あゝ、どうか――さうすれば私が教へてやるのに都合がいゝから。
(ランクはピアノに向つて彈ずる。ノラは段々氣狂のやうに踊り出す。ヘルマーはストーヴの傍に立つて、絶えずノラの踊振りを直すやうに差圖する。ノラはその言葉が聞えないやうにみえる。その髮の毛がほぐれて兩肩に垂れかゝる。ノラはそれに氣も付かない樣子で踊り進む。そこへリンデン夫人が入つてきて、入口の處に襲はれた樣に立すくむ)
リンデン まあ――
ノラ (踊りながら)こんな面白いことをしてるんですよ、クリスチナさん!
ヘルマー どうしたんだ、ノラ、お前の踊りはまるで生死いきしにの騷ぎのやうだ。
ノラ えゝ、生命がけの踊りなの。
ヘルマー ランク君、止め給へ! これぢやまるで氣狂だ。おい君止め給へ。
(ランク、ピアノを彈き止める。ノラ、それと同時に突然立止つて身動きもせぬ)
ヘルマー (女の方へ行きながら)これほどまでとは思はなかつたが、お前、俺の教へてやつたものを、すつかり忘れてしまつたな。
ノラ (タンバリンを投出す)ね、ご覽なすつたでせう。
ヘルマー これぢやあ實際教へる必要がある。
 
ヘルマー よろしい、よろしい。
ノラ 今日と明日とは私のことのほか、何も考へないでゐて下さい。手紙一本だつて開けちやいけませんよ――郵便受なんか見ちやいけませんよ。
ヘルマー あゝ、お前やつぱり、あの男を怖がつてるんだな――
ノラ さうですよ、私怖いんですよ。
ヘルマー お前の顏にちやんと書いてあるよ。ノラ――あいつから來た手紙があの郵便受の中にあるな。
 
ランク (ヘルマーに向つて柔かに)逆らはないでおいた方がいゝ。
ヘルマー (手を女にかけながら)赤ん坊だからな、したいやうにさせておくさ。けれども、明日の晩踊りがすんだら――
ノラ その時は、あなたの自由よ。
(エレンが右手の入口のところへ出て來る)
エレン 奧さま、お夕飯の仕度が出來ました。
ノラ シャンペンを出しておおきよ、エレン。
(エレンお辭儀をする)
ヘルマー おや/\、宴會のやうだな。
ノラ えゝ、そして明日の朝まで飮み續けませうよ(エレン去る、その方へ向いて呼ぶ)それからね、エレン(エレン出る)パン菓子も出しておおき――どつさりだよ――これ一度つきりだから。(エレン去る)
ヘルマー (ノラの手を捕へながら)これ、これ、さう無闇に昂奮しちやいけない、もう一度家の小雲雀になんなさい。
 
ランク (彼方へ行きながら柔かに)この先き何か變つたことでもあるのぢやないかね? 何もなければいゝが――
 
(兩人、右手の方へ出て行く)
ノラ それで?
リンデン あの人は旅行してゐて、こつちにゐません。
ノラ そんなことだらうと、あなたの顏を見た時に思ひました。
リンデン 明日の晩は歸つて來ますから、手紙をおいて來ました。
 
リンデン その待つてる奇蹟といふのを聞かせて下さい。
ノラ それは、あなたにはわかりませんわ、食堂の方へいらつしやい。私も直ぐ行きますから。
(リンデン夫人は食堂へ入る。ノラは考へを落着けるやうな樣子で、暫く立つてゐる。そして懷中時計を眺める)
  
(ヘルマーが右手の扉のところへ現はれる)
ヘルマー ヘルマー家の小雲雀は何をしてるんだい?
ノラ (兩腕を擴げて夫に走りすがる)こゝにをりますよ!
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    第三幕







 
クログスタット (入口の所で)あなたの置手紙を讀みました、あれはどういふ譯でおよこしになつたのですか?
リンデン 是非あなたに、お話したいことがありまして。
クログスタット さうですか? そしてこの家で?
 
  
リンデン えゝ、踊りに行つてたつていゝぢやありませんか。
クログスタット いゝですとも。何で惡いものですか。
リンデン ぢやちよつとあなたにお話がしたいんですが――
クログスタット 私たち二人の間に話があるといふのはなんですかな?
リンデン 澤山ありますよ。
クログスタット 別にあるはずもないと思ふがな。
リンデン それは、あなたが私を本當に理解して下さらないからです。
クログスタット 理解することが何かありますか。これほど當り前のことはなかつたでせう?――薄情な女が好い相手を見つけて前の男を捨てゝしまふ。
リンデン あなたは實際私をそんな薄情者だと思つていらつしやるの? 私があなたと別れたのはそんな簡單なことだつたと思つていらつしやるの?
クログスタット 簡單ぢやありませんか。
リンデン 本當にさう思つてらつしやるのですか?
クログスタット もしさうでないなら、なぜあんな手紙をよこしました?
リンデン だつて、あれが一番いゝ手段ぢやありませんか? 別れなくちやならない事情になつた以上、私に對するあなたの愛をなくさすのが一番よかつたでせう。
クログスタット (自分の兩手を握りしめながら)さういふわけでしたか? そしてその起りといへば――皆、金のためだ――
リンデン 私には頼りない母と二人の弟があつたことをお忘れなすつちやいけませんよ、私達はあなたの行末を當にして待つてゐるわけには行かなかつたのです。
クログスタット それであなたには、私を捨てゝ他人に見更へる權利があるのですか。
リンデン どうですか、私もそのことについては、折々自分が惡かつたか知らと思ひ直してみます。
クログスタット (一層柔かに)あなたに捨てられた當座は、大地が足の下から沈んで行くやうな氣持でした。まあ私を見て下さい、私は今ぢや帆柱にすがりついてる難船者だ。
リンデン あなた、すぐ傍まで救助船が來てるかも知れませんよ。
クログスタット 何、來かゝつてゐたんだ。ところへあなたが出て來て邪魔をしてしまつたんだ。
 
クログスタット ふむ、それぢやあ、その方はさうとしておいて、愈々それとわかつてみれば、どうです、私にそれを讓らうとおつしやるのでせうか?
リンデン いゝえ、そんなことはあなたを救ふ道ではないと思ひます。
クログスタット あゝ、その救ひです――私は是非ともさうして頂きたい。
リンデン ですけれども、私も冷靜にことを運べと教へられましたからね、世間とむごい辛い暮しとが私を教育したのですよ。
クログスタット それから、私には人の言葉を滅多に信用するなと世間が教へてくれました。
リンデン ぢや世間はあなたに本當のことを教へましたね。けれども實行すれば信用なさるでせう。
クログスタット といふと――?
リンデン お話によると、あなたは今難船して帆柱に縋りついていらつしやるのですね。
クログスタット さういへる理由が澤山あります。
リンデン さうすれば、私も難船して帆柱に縋つてゐる女でせう? 誰を愛するといふ當もなく。
クログスタット それは、あなたがすき好んでおやんなすつたことだ。
リンデン 好き嫌ひをいふ暇はなかつたのです。
クログスタット まあ、さうとして、それでどうするといふのです?
リンデン かうやつて難船した二人が手を握り合ふことが出來たら、どんなものでせう。
クログスタット 何ですと?
リンデン 一本々々の帆柱に縋りついてゐるよりか、それを組合せて筏にした方がいゝ譯でせう。
クログスタット クリスチナ!
リンデン 私がこの町へ來たのは、どういふ譯だと思つていらつしやるの?
クログスタット 何か私のことでも考へて來たのか?
  
クログスタット いや、いや、それは駄目だ。たゞもう女が自分を犧牲にしようといふロマンチックな考へに過ぎないんだ。
リンデン あなたは私をロマンチックな女だと思つてらつしやつて?
クログスタット では、あなたは實際? 全體あなたは私の過去を知つてますか?
リンデン えゝ。
クログスタット そして世間の奴が私をどういつてるか、それも知つてますか?
リンデン ですけど、あなたは今、私と一緒だつたらまるで別な人になつてゐたらうとおつしやるやうなお口吻だつたぢやありませんか。
クログスタット それは確かにさうだ。
リンデン 今ではもう遲くつて?
 
  
クログスタット (女の手を取りながら)有難う――(立つ)有難うクリスチナ、これから一つあなたが見てくれた本當の私に立ち戻つて世間の奴を見返してやるよ。あ、私は忘れてゐた――
リンデン (聞耳を立てながら)叱ッ! タランテラよ、早くお歸んなさいよ。
クログスタット どうして? どうしろといふんだ?
リンデン 上で踊つてるのが聞えませんか? あれが濟むと、直ぐここの人達が歸つてくるでせうよ。
 
リンデン いゝえ、知つてゐます。
クログスタット クリスチナ、それでもあなたは、あゝいふことをする勇氣が――
リンデン それはね、あなただつて絶望すれば、どんなことでもやらうとするでせう? それは私察してゐますよ。
クログスタット あゝ、どうかして取消すことが出來るといゝがな。
リンデン 出來ます――あなたの手紙はまだ郵便受の中にあります。
クログスタット たしかに?
リンデン えゝ、けれどもね――
  
リンデン あなた、女は一度他人に身を賣れば、二度とそんなことはしないものですよ。
クログスタット ぢやあとにかく私は手紙を返して貰はう。
リンデン お待ちなさい。
クログスタット いや、さうするのがあたり前だ。ヘルマー君のくるまで待つてゐよう。そして返して貰ふやうに頼まう――それから用事はたゞ私の免職に關することだといつて――讀んで貰ふ必要のないことだといつておかう――
リンデン いけませんよ、あの手紙は取り戻さない方がいゝのです。
クログスタット けれどもあなたが私をここへ伴れてきたのは、そのためぢやなかつたか?
 
クログスタット では、それもよからう。危險を冐してやつてみようと思ふのならね。たゞ私のすぐにやれることが一つあるが――
リンデン (聞耳をたてながら)早く、早くいらつしやいよ。踊がすみました、もうちよつとたつとかうしちやゐられません。
クログスタット ぢや、通りで待つてゐよう。
リンデン えゝ、どうぞ家へ連れて行つて下さいな。
クログスタット あゝ、今夜ほど、幸福なことは一生涯なかつたよ。
(クログスタット外の扉から出てゆく。廊下と室の間の扉は開け放したまま)
  

   
ヘルマー だつてお前!
ノラ ね、どうかね、あなた。もうたつた一時間でいゝから!
   
(男は女の抵抗するにも拘はらず、なだめるやうにして部屋の中に連れてくる)
リンデン 今晩は。
ノラ クリスチナさん!
ヘルマー おゝ、リンデンの奧さん! あなた、こんなに晩く、こゝにいらつしやつたのですか?
リンデン はい、ご免下さいませ、私ノラさんの衣裳をつけていらつしやるのが、是非拜見したかつたものですから。
ノラ あなたは、こゝに坐つたまゝ私を待つてたの?
 
 
リンデン えゝ、本當に――
  
 
      
ノラ (息の聞えないやうにつぶやく)どうしました?
リンデン (柔かに)あの人に話しましたよ。
ノラ そして?
リンデン ですけれどね、ノラさん――あなたは、すつかりご主人に打開けてお仕舞ひなさらなくちやいけませんよ――
ノラ (殆んど聲に出さないで)そんなことだらうと思ひました!
リンデン クログスタットの方は少しも怖がる必要はありません。けれども、とにかくすつかりいつてお仕舞ひなさる方がいゝのですよ。
ノラ いゝえ、いひますまい。
リンデン だつて手紙がいつてしまひますよ。
ノラ クリスチナさん、どうも色々ご心配下すつたわね、それでもう、私のすることはわかりました、叱ッ!
ヘルマー (歸つてくる)そこで奧さん、見てやつて下さいましたか?
リンデン えゝ、ぢや私はもうお暇申しませう。
ヘルマー え? もうですか? この編物はあなたのですか?
リンデン (それを取る)えゝ、どうも有難う、私、餘程忘れるところでしたよ。
ヘルマー ぢや、あなたは編物をなさるのですね。
リンデン えゝ。
ヘルマー それよりか刺繍ぬひとりをなさる方がいゝでせう。
リンデン さうですか? どうしてゞせう?
 
リンデン えゝさう。
 ()
リンデン ぢや、お休み遊ばせ。ノラさん、もう剛情を張つちやいけませんよ。
ヘルマー よくいつて下すつた、奧さん――
リンデン あなた、お休み遊ばせ。
 
ノラ あなた、大變疲れてはをりませんか?
ヘルマー いや、ちつとも。
ノラ 眠くなくつて?
  
ノラ えゝ、非常に疲れちやつた。もう直ぐ寢ませう。
ヘルマー そらご覽! 早く連れて歸つてよかつただらう。
ノラ それは、あなたのなさることなら何でも本當ですよ。
ヘルマー (女の額に接吻しながら)それで、家の雲雀が大人しくなりました。お前、ランクが非常に愉快さうだつたのに氣がついてゐたかい?
ノラ さうでしたか? 私あの人と話をする折がまるでなかつたのですよ。
  
ノラ そんな風に私の方を見ちやいけませんよ。
ヘルマー 私の一番貴い寶物を見てるのぢやないか――美そのものだ、そしてそれが私の物なのだからな、全然私一人で占領してゐるのだからな。
ノラ (テーブルの向側にゆく)今夜はそんな事をいつちやいけませんよ。
 退
ノラ どうぞねえ。
   
ノラ わかりましたよ、わかりましたよ。あなたはすつかり私のことばかり考へていらつしやるのでせう!
 
ノラ あなた! あちらへ行つて下さいよ。そんなことは聞きたくないから。
   
(外の戸を叩く音)
ノラ (立ち上る)聞えましたか?
ヘルマー (廊下の方へ行きながら)誰ですか?
ランク (外で)私ですよ、ちよつと入つてもいゝですか?
 調 
ランク 君の聲が聞えたやうだつたから、それでふと思ひ出してね(見廻す)あゝ、この部屋も隨分古い馴染だが、お二人で睦まじさうですね!
ヘルマー 君は二階でも隨分愉快さうに見えたね。
   
ヘルマー シャンペンが特別に良かつたね。
ランク 君も氣がついたかね? 私が喉へ流し込んだ分量だけでも隨分なものだらう。
ノラ トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトも隨分シャンペンを飮みましたよ。
ランク さうでしたか?
ノラ えゝ、シャンペンを飮みますとね、いつもとても上機嫌になるのですよ。
ランク 結構です、働き甲斐のある一日を送つた後で、一晩愉快を盡すに不思議はありませんからね。
ヘルマー 働き甲斐がある! さうだな、私はあまりその自慢も出來なかつたが。
ランク (ヘルマーの肩を叩きながら)けれども、私は働き甲斐があつたよ、君。
ノラ きつと、あなたは科學上の研究をやつてらつしやつたのでせう、先生?
ランク さうですよ。
ヘルマー おや、おや、ノラさんが科學上の研究なんてことをいひ出したね。
ノラ 結果はお目出たい方でしたか?
ランク 申分なく。
ノラ ぢや、いゝ方でしたね。
ランク 極上々です、醫者に取つても患者に取つても――確實といふ結果です。
ノラ (早口に、そして探るやうな樣子で)確實といふと?
ランク 絶對的に確實だといふことを確かめました。ですから、その後で私が一晩愉快にやるのも當然ぢやありませんか。
ノラ えゝ、さうですよ、先生。
ヘルマー 私もそれに異議はないが、たゞしかし翌日になつて償ひをしなくちやならないやうなことのないやうにしてもらひたい。
ランク それは君、この世の中で、何だつて償ひなしには得られるものはないよ。
ノラ ランク先生、あなたは假面舞踏が大變お好きなのね。
ランク はあ、滑稽な風をしたのが出てくるのは面白いですね。
ノラ ではね、この次の假面舞踏には、私達は何になりませうね――
ヘルマー 慾張り屋! もう次の舞踏會のことを考へてるのかい!
ランク 私達? それぢやいひますがね、あなたは幸運の天子におなんなさい。
ヘルマー 成程な、しかしどんな衣裳を着たら天子に見えるだらう。
ランク たゞもう不斷通りの着物を着てゐればいゝさ。
ヘルマー そいつはいゝ! けれども君は何になる積りか、まだ決つてゐないか。
ランク いや、その方はもうすつかり決つてるよ。
ヘルマー といふと?
ランク この次の假裝會には、僕は見えない姿で出席するね。
ヘルマー 隨分妙な考へだな!
ランク それ、あの大きな黒い帽子――君はあの目に見えない帽子の話を聞いたかね、そいつがお互の上に冠さるといふと誰も見えないやうになつちまふ。
へルマー (笑ふのを耐へて)見えない、それに違ひない。
 
ヘルマー さあ、さあ、どうぞ(箱を渡す)
ランク (一本とつて端を切る)有難う。
ノラ (蝋マッチをすりながら)火を點けさせて頂戴。
ランク 有難う。
(ノラがマッチを差出す。ランクはそれで葉卷に火をつける)
ランク それぢや、さようなら!
ヘルマー おゝ君、さようなら。さようなら。
ノラ よくお休みなさい、先生。
ランク ご好意有難う。
ノラ 私にも挨拶して下さいな。
  
(ランクは、二人に頭を下げて挨拶して出て行く)
ヘルマー (小聲で)あの男も、よつぽど飮んだやうだね。
ノラ (外のことに氣を取られてゐる體に)さうねえ(ヘルマーは隱しから一束の鍵を取出し、廊下の方へ行く)あなた、そこで何をなさるの?
ヘルマー 郵便箱を開けなくちや、一杯になつてゐて明日の朝の新聞が入らない。
ノラ 今夜これから仕事をなさるつもりですか?
ヘルマー 馬鹿をいふなよ――おや、どうしたんだらう、誰か錠前をいぢつたな。
ノラ 錠前を――?
ヘルマー さうに違ひない。どうしたのだらう。女中どもがいぢる譯もなしと――ピンの折れたのがあるぞ、ノラ、お前のやうだが――
ノラ (早口に)ぢや、子供でせう――
 
ノラ (窓の方で)手紙! あゝ、いけません/\、あなた!
ヘルマー 名刺が二枚、ランクのだ。
ノラ ランク先生の!
ヘルマー (名刺を見ながら)これが一番上に載つてゐたところをみると、入れて間もないのだらう。
ノラ 何が書いてありますか?
ヘルマー 名の上に墨で十字架が書いてある。ご覽、縁起でもない思ひつきぢやないか、これで見ると自分が死ぬといふ知らせとも取れる。
ノラ さうだつたんですよ。
ヘルマー 何だと! 何かお前は知つてるか? 何かあれが話したか。
ノラ えゝ、その名刺をよこしたのはね、私どもに暇乞ひのつもりですよ。あの人はこれから一人で閉ぢ籠つて死ぬ覺悟でゐるのですよ。
ヘルマー 可哀さうに。無論長くは持つまいと思つたが、しかしかう急にとはなア。
  
 
ノラ (身をすり拔け確乎とした調子で)さあ、あなた、その手紙を讀んで下さい。
ヘルマー いや/\。今夜は止さう、お前のお伽をするよ、ねえ。
ノラ あなたの死にかゝつてゐるお友達のことを考へながらですか?
 
ノラ (夫の首に兩腕を卷いて)あなた、お休みなさい。
ヘルマー (女の額に接吻しながら)お休みよ、家の小鳥さん、よくお休み、どれ行つて手紙でも讀んでみるか。
(ヘルマーは自分の室に入り扉を閉める)
 調
(女は廊下から走り出ようとする。その瞬間にヘルマーが手荒く扉を開け、開いた手紙を手に持つて現はれる)
ヘルマー ノラ!
ノラ (叫びながら)あゝ!
ヘルマー これは何だ? この手紙の中に書いてあることを、お前は知つてるか。
 
ヘルマー (引き留めながら)どこへ行くといふんだ。
ノラ (振り離さうとして)私を助けて下さらなくてもいゝんです、あなた。
  
ノラ 本當です、それといふのも私、あなたを愛するためには何をしてもいゝと思つたからです。
ヘルマー 辯解はしなくてもよろしい。
ノラ (一足夫の方へ進んで)あなた――
ヘルマー 困つた奴! 何といふことをやつたのか――
ノラ だから私を行かして下さいよ――私を助けて下さらなくともよいのです。あなたが自身で私の罪を着るには及びません。
 
ノラ (固くなつてじつとヘルマーを見る)はい、今始めてよくわかりました。
 
ノラ 私がゐなくなつたら、あなたのご迷惑はなくなります。
  
ノラ (冷靜に)はい。
    
(ノラは身動きもしないで立つてゐる。ヘルマー扉の方へ行つて開ける)
ヘルマー エレンか?
エレン (着物を引かけたまま廊下で)奧樣にお手紙が參りました。
ヘルマー 私によこせ(手紙を引つかんで扉を閉める)さうだ、あいつからだ。お前はいけないよ、俺がよむ。
ノラ 讀んで下さい。
 
(ノラは不思議さうに男を見る)
  
ノラ 私は?
 鹿鹿
ノラ この三日の間、全く死物狂ひでしたのよ。
 
ノラ それだけは本當です。
 
ノラ お許し下すつて、有難うございます(右手から出て行く)
ヘルマー あ、これ、お待ち(覗き込んで)そつちへ行つて何をするつもりだ?
ノラ (内から)人形の衣裳を脱ぎます。
  
ノラ えゝ、あなた、やつと着物を着かへましたよ。
ヘルマー けれども、どうしてこんなに遲く?
ノラ 今夜は私、寢ないのです。
ヘルマー でもお前――
ノラ (懷中時計を見て)まだそんなに遲くはありません。ちよつと坐つて下さいな。あなた、お互にいひたいことが澤山あるから(テーブルの一方の椅子にかける)
ヘルマー ノラ、どうした譯だ、その冷たいむづかしい顏付は――
ノラ 坐つて下さい。幾らか暇が取れるでせうから、私、澤山あなたに話したい事があるのですよ。
(ヘルマーはテーブルの向側に腰を下ろす)
ヘルマー 出しぬけに變ぢやないか、お前のいふことはさつぱりわからない。
  
ヘルマー (大して氣づかずに)それはどういふ譯だ?
ノラ (暫く默つてゐた後)あなたは、かう二人向き合つてゐて、一つ不思議な事があるとはお思ひにならないの?
ヘルマー 何だらう?
 
ヘルマー 眞面目な話……ふむ、どういふ話?
ノラ 丸八年、もつと經つたでせう――始めて私達が知合つてからといふもの――私達はたゞの一度も眞面目なことを眞面目な言葉で話し合つたことはありませんよ。
ヘルマー すると、お前ぢやどうすることも出來ないやうな心配事まで持ちかけてお前に苦勞させろといふのか?
ノラ 私、心配ごとをいつてるのぢやありません。私達はどんなことだつて、つひぞ底の底まで眞面目に話し合つたことがないといふのですよ。
ヘルマー でもお前、眞面目なことなんかお前の柄にないことぢやないか?
  
ヘルマー 何をいふ? お前のお父さんと私から間ちがつた取扱ひだと?――あれほど深くお前を愛してゐた俺たちに?
ノラ (頭を振りながら)あなたは決して私を愛していらつしやつたのではありません。愛するといふことを慰みにしてお出でなすつたのです。
ヘルマー どうしたんだらう。隨分不條理な恩知らずのいひ方ぢやないか。お前はこの家へきて幸福だとは思はないか?
 
ヘルマー 幸福でなかつたと?
 
ヘルマー 大げさにいひすぎたところはあるが、お前のいふことにも道理はある。しかし今日からはそれを一變させる、遊びごとの時代が過ぎて今は教育の時代が來たのだ。
ノラ 誰の教育です? 私のですか、子供のですか?
ヘルマー それはお前、兩方さ。
ノラ あなたの力では、私を教育してあなたに適する妻になさることはできません。
ヘルマー お前がそんなことをいふのか?
ノラ それはそれとして、私は子供を教育するのに相應はしいかしら?
ヘルマー ノラ! もう止せよ。
ノラ あなたご自身で、つい二三分前に、子供は私に托されないとおつしやつたぢやありませんか?
ヘルマー 激したはずみにつひいつたのだ。どうしてお前そんなことに拘はつてるのだ。
 
ヘルマー (びつくりしてとび上り)何だと?――どういふ意味だか――
ノラ 自分自身や周圍の社會を知るために、私は全く一人になる必要があります。ですから、この上あなたと一緒にゐることは出來ないといふのです。
ヘルマー ノラ! お前!
ノラ 私はすぐ行かうと思ひます。今夜はクリスチナさんが泊めてくれませうから――
 
 
ヘルマー 狂氣の沙汰だな。
ノラ 明日、私は生れた所へ行きます。
ヘルマー 生れた町へ!
ノラ 生れた町といつても今は何にもありませんけれど。何か生活の便宜があるかと思ひますから。
ヘルマー どうしてお前のやうな何もわからない世間知らずが――
ノラ ですからあなた、生活の經驗を積む工夫をしなくちやなりません。
ヘルマー それで家も夫も子供も振り捨てようなんて。お前は世間の思はくといふものを考へてゐない。
ノラ そんなことには構つてゐられません。私はたゞしようと思ふことは是非しなくちやならないと思つてるばかりです。
ヘルマー 言語同斷だ、お前は全體そんな風にしてお前の一番神聖な義務を棄てることが出來るのか?
ノラ 私の一番神聖な義務といふのは何でせう?
ヘルマー それを私に尋ねるのかい。夫に對し子供に對するお前の義務を。
ノラ 私には同じやうに神聖な義務が他にあります。
ヘルマー そんなものがあるものか、どんな義務といふのだ。
ノラ 私自身に對する義務ですよ。
ヘルマー 何よりか第一に、お前は妻であり母である。
 滿
ヘルマー お前は家庭における自分の地位といふものを知つてないのか? お前だつて何等かの道徳心は持つてゐようから、それとも何かえ、お前には良心さへもないのだらうか?
 
ヘルマー お前のいふことは子供のやうだ。お前は自分の住んでゐる社會を理解しない。
 
  
ノラ 今までに今夜ほど氣分のはつきりしてゐることはありません。
ヘルマー それほどはつきりした考へで、夫や子供を棄てるといふのかい?
ノラ さうです。
ヘルマー ではもう、説明の途は、たゞ一つしか殘つてゐない。
ノラ それはどういふのですか?
ヘルマー お前はもう俺を愛しない。
ノラ 愛しません、それが大事な點です。
ヘルマー ノラ! お前、さういひ得るかい?
 
ヘルマー (辛うじて氣を取り直しながら)その點も、はつきりと考へたのかい?
ノラ えゝ、はつきりと。もうこの家を出て行くといふのもそのためです。
ヘルマー ではもう一つ、どうして私がお前の愛を失つたか、聞かせてくれまいか?
 
ヘルマー もつとはつきり説明してくれ。私にはわからない。
 便
ヘルマー けれども、さうして自分の妻の名を恥辱や不名譽の中に曝すといふことは――
ノラ そして、あなたが進み出て、何もかも身に引受けて「罪人は私だ」とおつしやるだらうと信じてゐました。
ヘルマー (ハツとうけながら)ノラ!
 
ヘルマー (立つ)お前のためなら私は晝も夜も喜んで働く――不幸も貧乏もお前のためなら我慢する――けれども、幾ら愛する者のためだつて名譽を犧牲にする男はないよ。
ノラ (靜かに)何百萬といふ女は、それをしてきたのです。
ヘルマー あゝ、お前の考へてることやいふことは駄々ツ子のやうだ。
 
ヘルマー (悲しげに)わかつた。私達の間には深い淵が出來たのだ。けれどもノラ、その淵は何とかして埋まらないものだらうか?
ノラ 今では、あなたの妻になれません。
ヘルマー 俺は生れ變つたやうな別の人になる力を持つてゐる。
ノラ さうかも知れません――人形と縁を切つてからはね。
 
ノラ (右手の室に入りながら)仕方がありません、理由があれば、どんなことでも起つてきます。
(ノラは、外出仕度の物と小さい旅行鞄を持つて出てきて、それを椅子の上に置く)
ヘルマー ノラ、ノラ、今でなく明日まで待つてくれ。
ノラ (外套を着ながら)他人の家に寢ることは出來ません。
ヘルマー けれども、兄と妹のつもりで住つては行けなからうか?
 
ヘルマー しかしいつかは、ノラ、いつかは――
ノラ そんなことがどうしてわかりませう。私は自分がこれからどうなることやら、少しもわかつてはゐません。
ヘルマー (大聲でわめく)だが、お前はいつまでも私の妻だ。
 
ヘルマー これまでもかい?
ノラ それもですよ。
ヘルマー さあ、これ。
 
ヘルマー あゝもう駄目だ! もう駄目だ! ノラ! お前はもうどんなことがあつても二度と私のことは考へてくれなからうか。
ノラ それは、あなたのことも子供のことも、この家のことも、どうして思ひ出さずにゐられませう。
ヘルマー 手紙をやつてもいゝか。
ノラ いけません。決してなりません。
ヘルマー けれども、お前に送らなくちやならないものが――
ノラ 何もいけません。何もいけません。
ヘルマー もし必要な場合には助けなくちやならないから。
ノラ いけませんてば。見ず知らずの他人からは、どんな物だつて貰ひません。
ヘルマー 私はもうどういつても、お前には見ず知らずの他人より以上のことはできないのか?
ノラ (旅行鞄を取りながら)それは、あなた、そんなことの出來る時には、本當の奇蹟が現はれなくちやなりますまい。
ヘルマー 本當の奇蹟とは?
ノラ 私達が二人ともすつかり變つて――あゝもう、私、奇蹟なんか信じない。
ヘルマー けれども私は信ずるよ。私達がすつかり變つて――
ノラ 二人の仲が本當の結婚にならなくてはなりません。左樣なら。
(ノラ出て行く)
    ※(感嘆符疑問符、1-8-78) 







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