ネロとパトラッシュは、この世で二人きりでした。 彼らは、実の兄弟よりも仲のよい大の親友でした。ネロは、アルデンネ生まれの少年でした。パトラッシュは、大きなフランダース犬でした。どちらも年は一緒でした。けれども、ネロはまだ若く、パトラッシュはもう年寄りでした。彼らは生きている間、ほとんど一緒に暮らしていました。どちらも両親を亡くし、非常に貧しく、同じ人の手で養われていました。二人には、初めて出会った時から、共感というきずなが存在しました。そして、その共感のきずなは日を追う毎ごとに強まり、彼らが成長するにつれてしっかりと成長し、切り離すことができなくなりました。そして、ついには、お互い同士、深く愛し合うようになったのでした。 彼らの家は小さな村のはずれにある、小さな小屋でした。村は、フランダース地方にあり、アントワープから五キロばかり離れていました。村は、広々とした牧草地と、とうもろこし畑に挟まれた平野にありました。平野を横切る運河のほとりには、ポプラとハンノキの長い並木がそよ風に吹かれてたなびいていました。村には、およそ二十軒ばかりの家と農家がありました。その家々は、雨戸は明るい緑か空色で、屋根はばら色か白と黒のまだらで、壁は日差しに照らされると雪とみまがうほどに真っ白でした。村の中心には、風車小屋がありました。その小屋は、少しこけの生えた斜面に建っていました。風車小屋は、あたり一帯の平野からは、よい目印になっていました。かつて風車小屋は、帆も何もかも真っ赤に塗られていました。しかしそれは、まだ風車小屋ができた頃の話で、もう半世紀以上も前のことでした。当時は、この小屋はナポレオン将軍の兵士のために小麦を挽ひいていたのでした。今や、風車小屋は赤茶色でした。長年の風や日射しで色あせてしまったのです。 風車は、時々奇妙な具合に動きました。それは、まるで年取って痛風や関節炎になったかのようでした。けれども、近隣一帯の人たちはみな、この風車小屋で小麦を挽ひいていました。きっと、よそに小麦を持っていくことは、村の小さな灰色の教会で行われるミサに参列せず、よその教会のミサに参列するのと同じくらい不信心なことであると、村人たちは考えていたに違いありません。その教会は、丸いとがった尖せん塔とうがあって、風車小屋の反対側に建っていました。教会の一つしかない鐘が、この地方一帯の鐘に共通した、奇妙に沈んだ、うつろな悲しい響きを響かせながら、朝昼晩に鳴らされました。 ネロとパトラッシュは、ほとんどの生涯を、時を告げるもの悲しい鐘の音が聞こえる場所で一緒に暮らしていました。二人が住んだ村のはずれの小屋の北側にはアントワープの大聖堂の尖せん塔とうがそびえ、小屋との間には、どこまでも続く緑の草原ととうもろこし畑とが、まるで満ち引きすることのない海のように広がっていました。そこは、とても年をとったまずしい老人の小屋でした。ジェハン・ダースは、若い頃は兵士でした。ジェハンじいさんは、牛が畑のあぜを掘り返すように国土を踏みにじった戦争のことを覚えていました。老人は、兵士として祖国に奉仕しましたが、奉仕で得たものは、老人をびっこにした傷だけでした。 年老いたジェハンじいさんが八十歳になったとき、娘がアルデンヌ地方のスタヴロ近くで亡くなり、形かた見みに二歳になる孫が残されました。ジェハンじいさんは、自分一人で食べていくことすらままならない状態でした。けれどもジェハンじいさんは、ぐち一つこぼさずにその重荷を引き受けました。そして、孫はすぐにジェハンじいさんにとって歓迎すべき、かけがえのない存在になりました。小さなネロは、ジェハンじいさんと一緒に成長しました。ネロの本当の名前は﹁ニコラス﹂で、﹁ネロ﹂はニックネームでした。老人と子供は、貧しい小さな小屋で、満ち足りた日々を過ごしていました。 その小屋は、実際とても粗末で小さく、泥でできていました。けれども、きちんと整とんされ、貝かい殻がらのように真っ白で、豆とハーブとカボチャが植えられた小さな菜園がありました。二人は、本当にひどく貧しかったのでした。まったく食べるものがない日もたくさんありました。満腹するまで食べる機会など、決してありませんでした。満腹するまで食べられるだけで、天にも昇るような心地になったことでしょう。けれども、老人は非常に穏やかで、少年に優しくしました。そして、少年はかわいく、純真で、正直で、優しい性格の子でした。彼らはパンのかけらと数枚のキャベツの葉っぱだけで幸せでした。そして、天にかけても地にかけても、それ以上のものを求めませんでした。パトラッシュがいつも一緒にいてくれることを除いて。パトラッシュなしでどこに安住できるのでしょうか? というのは、二人にとって、パトラッシュは、すべてのすべてでした。 二人の宝庫であり、穀倉。二人の黄金の蓄えであり、富の杖。二人のパンのかせぎ手であり、召使い。二人の唯一の友だちであり、なぐさめ。パトラッシュが死ぬか、二人からとりあげられてしまうと、二人とも倒れて死んでしまったにちがいありません。パトラッシュは、二人にとって胴体であり、頭であり、手足でした。パトラッシュは、二人にとって人生であり、魂でした。というのは、ジェハン・ダースは足が不自由な老人で、ネロはほんの子どもに過ぎなかったからです。そして、パトラッシュは彼らの飼い犬でした。 フランダースの犬は、茶色い色をし、頭と手足は大きく、まっすぐに立ったおおかみのような耳をして、足は曲がり、何世代にもわたる厳きびしい労働によって発達した筋肉を持っていました。パトラッシュは、フランダース地方で何世紀にもわたって先祖代々酷こく使しされる種族の子孫でした。奴どれ隷いの中の奴どれ隷いであり、人々にこき使われる犬いぬ畜ちく生しょうであり、荷車を引くのに使われる獣けものでした。彼らは、激しい荷役で筋肉を痛め、道の敷石で心臓が破れて死んでいったのでした。 パトラッシュの両親は、東西フランダースやブラバントの、あちこちの町のするどいとがった敷石と、長く、日陰のない、うんざりするような道を、一生働き通したのでした。パトラッシュが両親から受け継いだものと言えば、同じような苦しみと重労働だけでした。パトラッシュは、悪あく態たいを食べ、殴おう打だで洗礼を受けました。なぜそれがいけないのでしょう? ここは文明国、キリスト教国です。そして、パトラッシュは犬に過ぎません。パトラッシュは大人になる前に、荷車と首輪のにがさを味わっていました。生後十三か月も経たないうちに、パトラッシュは、北の果てから南の果てまで、青い海辺から緑の山の上まで行商することをなりわいとしていた、金物の行商人の持ち物になりました。パトラッシュはまだ小さかったので、安い値段で売られました。 この行商人は、大酒飲みで獣けだもののような人間でした。パトラッシュの生活は、地じご獄くの生活でした。まるで動物に対して地じご獄くの拷ごう問もんを行うことが、﹁地獄は本当にある﹂という自分の信仰を示す方法であるかのように思っている人々がいます。パトラッシュの買い手は、陰気で、邪悪で、残忍なブラバント生まれの男で、荷車につぼ、なべ、びん、ばけつやいろいろな瀬せと戸も物のや金属類をいっぱいに積んで、パトラッシュひとりに力の限り荷物を引かせていました。その間、男はといえば、太った体でのんびりとパイプをふかしながらのろのろと荷車のそばを歩き、街道沿いにある酒屋や茶屋を通り過ぎるたびに、きまって腰をおろすのでした。 幸か不幸か、パトラッシュはとても丈夫だったのです。パトラッシュは、鉄の種族の生まれでした。その種族は、情け容よう赦しゃのない労苦に従事するために長年繁殖させられたものでした。そういう訳でパトラッシュはひどい重荷を負わされ、むちうたれ、飢えと渇きに苦しめられ、なぐられ、ののしられて、すっかり疲れ果ててしまっても、何とかみじめに生き長らえることができたのでした。こうした苦しみが、もっとも忍耐強く、よく働く四つ足の犠牲者に対して、フランダースの人間が与える唯一の報ほう酬しゅうでした。 この長くて死にそうな苦しみを味わって二年経ったある日のこと、パトラッシュはルーベンスの住んだアントワープに通じるまっすぐな、埃ほこりっぽい、不快な道をいつも通り進んでいました。真夏で、とても暑い日でした。荷車はとても重く、金物や瀬戸物の商品がうず高く積まれていました。パトラッシュの持ち主は、ときどきパトラッシュの腰に鞭むちをピシッと打つ以外は、パトラッシュのことなど気にもとめずにぶらぶらと歩いていました。このブラバント生まれの男は、道ばたで居酒屋をみつけるたびにビールを飲むために立ち寄りました。けれども、パトラッシュが運河で水を一口飲むために一瞬でも立ち止まることは、許さなかったのです。パトラッシュは、こんな状態で、かんかん照りの中、焼けるような街道を歩いていきました。パトラッシュは二十四時間何も食べず、もっと悪いことには、十二時間近くも水も飲んでいなかったのでした。ほこりで目がくらみ、むち打たれた傷は痛み、情け容よう赦しゃのない重荷に感覚がなくなり、パトラッシュはよろめいて口から少しあわをふいて倒れました。 パトラッシュが倒れたのは、日差しの強烈なまぶしい光を浴びた、白い、埃ほこりっぽい道の真ん中でした。パトラッシュは病気で死にそうになり、動かなくなりました。彼の主人は彼が持っていたただ一つの薬を与えました。それは、パトラッシュを蹴けり、ののしり、そして、樫かしの木の棍こん棒ぼうでなぐることでした。これらは、これまでもしばしばパトラッシュに提供されるただ一つの食べ物であり、報酬でもあったのです。しかし、パトラッシュはどんな拷ごう問もんも悪あく態たいも、手の届かないところにいました。夏の白いほこりの中で、パトラッシュはどう見ても、死んだように横たわっていました。しばらくして、いくら肋ろっ骨こつをけとばしても、いくら耳元でどなりつけても役に立たないと分かり、このブラバンド生まれの男は、パトラッシュが死んでしまったか、死にかけていて、誰か死体の皮を剥はいで手袋を作らない限りはもう役に立たない、と思いました。そこで、これが最後とばかりにはげしくののしり、引き具の皮ひもをとりはずし、パトラッシュの体を道路の脇の草むらまでけとばしました。それから激しく怒り、ぶつぶつと不平をこぼしながら、上り坂をのろのろと荷車を押していきました。このように死にかけた犬は置き去りにして、アリがかんだり、カラスがつついたりするのに任せておきました。 翌日は、ルヴァンの町で祭りの市が立つ日でした。だから、ブラバンド生まれの男は、早く市が立つ場所に駆けつけて、金物の商品をつんだ自分の荷車に、いい場所を確保しようとやっきになっていました。彼は激しく怒りました。というのは、パトラッシュは今までがん丈で辛しん抱ぼう強い動物だったのに、今度はルヴァンまでの遠い道のりを重い荷車を引いていくというきつい仕事を、自分でやらなくてはならなくなったからです。けれども、パトラッシュの看病をするためにとどまることなど、思いもよらないことでした。獣は死にかけていて役に立ちませんでした。この行商人は、主人からはぐれた大きな犬を見つけたら、きっと盗んでパトラッシュの替わりにしたことでしょう。 彼がパトラッシュに費やしたお金といえば、ほとんどないに等しいものでした。そして、二年もの長い、残酷な月日を、朝から晩まで、夏も冬も、天気のよい日も悪い日も、絶え間なく酷使し続けたのです。 彼は、パトラッシュを利用するだけ利用しつくし、けっこうなお金をパトラッシュから得ていました。しかし、彼は人間らしくずる賢く、犬がみぞで最後の息を引き取るにまかせておきました。カラスがパトラッシュの血走った目をえぐりだすかもしれませんが、彼はルヴァンで物乞いをしたり、盗んだり、食べたり、飲んだり、踊ったり歌ったり、楽しむために、道を進んでいきました。死にかけた犬、荷車引きの犬。なぜそんなものの苦しみに付き合って時間を無駄にし、小金を稼ぎそこなったり、笑うような楽しい思いをふいにしなければならない危険を冒さなければならないのでしょうか。 パトラッシュは、道ばたの草むらが茂るみぞに投げ捨てられたまま、そこで横たわっていました。その日は人通りが多い日でした。何百人もの人々が歩いたり、ラバに乗ったり、荷馬車や荷車に乗ったりしてルヴァンに向かって急ぎ足で陽気に通り過ぎていました。何人かはパトラッシュをみました。ほとんどの人は、見向きさえしませんでした。皆、通り過ぎていきました。死んだも同然の犬。それは、ベルギー人にとって価値はありませんでした。いや、世界中のどこだって、何の価値もなかったでしょう。 しばらくして、休日を楽しむ人々に混ざって、小柄な老人がやってきました。その老人は、腰が曲がり、足が不自由で、とても弱々しそうでした。彼はとても貧しく、みすぼらしい服を着ていて、とても祭りに行くような格好ではありませんでした。そして、彼は祭りを楽しもうとしている人たちの群れでほこりが立っている中を、とぼとぼとゆっくりと歩いていきます。老人は、パトラッシュを見て立ち止まり、不思議に思って脇により、みぞの草むらにうずくまって、同情のこもった優しい目で犬を調べました。二、三歳くらいの、少しバラ色で金髪の、黒目をした子どもが老人と一緒にいました。子どもは、胸の高さもある草むらの中をぱたぱたと走って、このかわいそうな、大きな、じっとしている動物を、立ったまま、かわいらしくまじめにじっと見つめました。 小さなネロと大きなパトラッシュは、このようにして出会ったのでした。 その日の結末はというと、年老いたジェハンじいさんは、たいそう骨を折って苦しんでいるパトラッシュをジェハンじいさんが住んでいる小さな小屋に引きずっていったのでした。その小屋は、パトラッシュが倒れていた場所から、石を投げれば届くような、ごく近いところにありました。そこでパトラッシュはじゅうぶんに介抱されました。病気は熱と渇きと疲れによる脳のう発ほっ作さでしたから、日陰で時間をかけてゆっくりと休むと、健康と力が戻ってきました。そして、パトラッシュは、四本の丈夫な黄きか褐っし色ょくの足で、再びよろめきながらも立ち上がることができるようになったのでした。 何週間もパトラッシュは使い物にならず、無力で、体中が痛み、ほとんど死にかけていました。けれども、この間、パトラッシュは粗いことばを耳にしませんでしたし、残酷にぶたれることもありませんでした。そのかわりにただ、同情のこもった子どものつぶやきと、老人のいたわるような愛撫だけを感じたのでした。 パトラッシュが病気の間、この孤独な男と小さな幸せな子供は、パトラッシュが好きになりました。小屋の片隅に干し草を積んで、パトラッシュのベッドにしました。そして、二人は、パトラッシュが生きているかどうか確かめるために、暗闇の中でパトラッシュの息づかいに聞き耳をたてるようになりました。そして、パトラッシュがはじめて大きくうつろな、切れ切れの鳴き声をたてた時、パトラッシュが回復したという確かなしるしに、二人は声をたてて笑い、一緒に喜んで、ほとんど泣き出しそうになりました。そして、小さなネロは、喜びのあまり、マーガレットの花輪をパトラッシュのがん丈な首にかけて、新鮮な赤い唇で彼にキスしました。それから、パトラッシュがたくましい、大きな、やせた、力のある犬として再び立ち上がったとき、大きな熱心な目は、穏やかな驚きに満たされました。なぜなら、二人は、パトラッシュをののしって駆り立てたり、ぶって歩かせたりはしなかったからです。パトラッシュの心に強い愛が芽生えました。そして、この忠実な愛は、パトラッシュの命ある限り、決して揺らぐことがありませんでした。 しかし、パトラッシュは、犬らしく、恩の心も忘れませんでした。パトラッシュは横たわり、まじめな、優しい、茶色い目で友人たちの動きを見つめながら、じっと物思いにふけっていました。 年をとった元兵士のダースじいさんが生計を立てるための仕事といえば、今や毎日小さな荷車でミルクをアントワープの町まで、足を引きずりながら運ぶこと以外ありませんでした。ジェハンじいさんよりは幸運な近所の村人たちのミルクの缶がその荷物でした。村人たちは、ジェハンじいさんに同情してちょっとした仕事を彼に与えたのでした。もう一つ、とても正直な運び手に町までミルクを運んでもらって、その間自分たちは家にいて、牛やアヒルの世話をしたり、庭や小さい田畑の仕事をする方が好都合だった、というのがもっと大きな理由でした。しかし、この仕事は、老人にとっては大変骨の折れる仕事になってきました。彼は八十三歳でした。そして、アントワープまでは五キロか、もっとありました。 パトラッシュが回復して、マーガレットの花輪を黄きか褐っし色ょくの首にかけられて日なたぼっこしていたある日のこと、パトラッシュはミルクの缶を積んだ荷車が家を出て行って、帰ってくるのを見つけました。 翌朝、老人が荷車に触れる前に、パトラッシュは起きて、荷車に歩いて行って、ハンドルの間に自分の体を置きました。こうすることで、食べさせてくれたお返しに働かせてほしい、それに自分には働く能力もあると、はっきりと訴えたのでした。ジェハンじいさんは、ずいぶんと抵抗しました。というのは、老人は犬に労働させるのは犬の本性に反していて、恥ずべき行為だ、と考えていたからです。 しかし、パトラッシュはあきらめませんでした。引き具をつけてくれないとわかると、パトラッシュは歯でかじって荷車を前に引っ張ろうとしました。 ついにジェハンじいさんは根負けしました。彼が助けたこの動物の一いっ徹てつさと感謝の気持ちに降参したのです。ジェハンじいさんは、パトラッシュが引っ張れるように荷車を改造しました。その日から一生の間、毎日荷車を引っ張ることがパトラッシュの仕事となりました。 冬が来たとき、ジェハンじいさんは、ルヴァンの祭りの時にみぞで死にかけていた犬を、自分の小屋に連れ帰ってきた幸運に感謝しました。 というのは、老人はとても年をとっていて、年を経へる毎に弱っていったので、老人が助けたこの動物の力とがん張りがなかったら、雪と泥の深いわだちの中で、どうすればミルク缶の荷物を引っ張ることができるか、きっと途方に暮れていたに違いなかったからです。パトラッシュの方はと言えば、天国のようなものでした。前の主人は、それこそ一歩ごとに鞭むちをつかって、パトラッシュに無理矢理恐るべき重荷を引っ張らせましたが、そのような経験をした後で、いつもパトラッシュを優しく撫で、優しいことばをかけてくれる穏やかな老人と一緒に、真ちゅうの缶を積んだこの小さな軽い緑の荷車で出かけることは、パトラッシュにとっては、お遊びのようなものでした。 その上、仕事は三時か四時には終わり、その後、パトラッシュは自分のやりたいように過ごせたのです。のびをしたり、日なたで眠ったり、野原をぶらついたり、ネロといっしょに飛び回ったり、仲間の犬と遊んだり、何でもすることができました。パトラッシュは、とても幸せでした。 パトラッシュにとって幸いなことに、元の主人は、メクレンの祭りの市で大酒を飲んで暴れ、死んでしまいました。だから、元の主人が新しい愛情に満ちた家に、パトラッシュを追いかけてきたり、じゃまをする心配はなかったのです。 年とったジェハンじいさんは、いつもびっこを引いていました。数年経ってひどい痛風で足がほとんど動かなくなってしまい、もうこれ以上荷車につきそって外出することもできなくなってしまいました。そのとき、ネロは六歳になっていました。ネロは、何度もおじいさんに連れられて一緒に町に行ったことがあるので、町をよく知っていました。それで、ネロが代わりに町に荷車を運ぶことになりました。町でミルクを売ってその代金を受け取り、今度はそのお金をかわいらしくもけなげに、それぞれの牛の持ち主のところにとどけるのでした。そうしたネロの様子に、見る人は皆、魅みせられたのでした。 小さいアルデンネ生まれの少年は、きれいな子供でした。黒目勝ちの、まじめな、優しい目をして、金髪がふさふさして、肩までのびていました。そして、多くの画家が、ネロたちが通り過ぎるとき、その姿をスケッチしました。テーニルスやミーリスやファン・ダイクの絵に出てくるような、真ちゅう製のミルク缶を積んだ緑の荷車と褐色の大きな犬。引き具には鈴がつけられていて、進むたびにチリンチリンと鳴ったのでした。そして、そばには、小さい白い足に大きな木きぐ靴つをはいて、柔和で、まじめで、無邪気で、幸せそうな表情を浮かべた小さな少年がいるのでした。それは、まるでルーベンスの絵に出てくる、小さな金髪の少年のようでした。 ネロとパトラッシュはとても立派に、楽しそうに仕事をしました。そして、夏が来て、ジェハンじいさんが再びよくなったときも、ジェハンじいさんは外に出かける必要はなく、朝は小屋の戸口に座って中庭の戸口から二人が出かけるのを見送り、ちょっと昼寝して夢を見て、少しお祈りをして、そして三時になるとまた目を覚まして二人が帰ってくるのを待つのでした。そして、家に帰り着くと、パトラッシュは喜びの雄おた叫けびをあげながら引き綱を振りほどきますし、ネロは誇らしげにその日のできことをジェハンじいさんに話したのでした。そして、みんないっしょに、ライ麦パンとミルクかスープのごはんを食べ、大草原に長く伸びる影を眺めたり、美しい大聖堂の尖せん塔とうにかかるたそがれのとばりを眺めたりします。それから、老人がお祈りをとなえ、みんなで一緒に横になってぐっすり眠ったのです。 このように月日が過ぎてゆきました。ネロとパトラッシュの過ごした人生は、幸せに満ち、清らかで、健やかなものでした。 とりわけ、春と夏は楽しい季節でした。フランダースは美しい土地ではありません。中でも、ルーベンスで有名な、アントワープのあたりは、おそらく一番美しくなかったでしょう。トウモロコシ畑とナタネ畑、牧場と畑が、特徴のない平野に互い違いに広がっていました。そして、それがいやというほど繰り返されていたのでした。 平野にぽつぽつと立っている荒こう涼りょうとした灰色の塔の、感傷的な鐘の音の響きがなければ、あるいは、落ち穂ぼ拾いの束やたきぎの束を抱えた人が何人か荒野を横切り、絵のような趣おもむきを添えなければ、どこも代わり映えせず、単調で、美しくもありませんでした。 山や森の中に住んでいる人ならば、果てしなく続く広大で陰気な平原に退屈して気が滅入り、牢屋に入れられたような気分を味わったことでしょう。けれども、その光景は緑がいっぱいでとても肥ひよ沃くです。そして、代わり映えせず、単調であったとしても、そうした光景が広大な地平線いっぱいに広がると、それはそれで一種独特の魅力が生まれたのでした。そして、水際に茂るイグサの中にいろんな花が咲き乱れ、木々が高く青々と茂っています。荷船がすべるように進んでいき、逆光の中で大きな船体は黒く見えます。そして小さな緑色の樽や色とりどりの旗が木の葉の間からとてもきらびやかに見えるのでした。とにかく、そこには青々とした草木の緑がありました。それに、十分な広さがありました。それは、子供と犬にとっては、美しい光景と同じくらいよいことでした。そして二人は、仕事を終えるや否や、運河のそばに生えている青々とした草むらにうずもれるように寝っ転がり、運河の上を漂っている不ぶか格っこ好うな船を眺めたりしました。その船は、田舎の夏の花の香りの中に、海のさわやかな潮の香りを撒き散らしているようでした。そうしたとき、二人はもうこれ以上何も求めませんでした。 確かに、冬はもっと大変でした。ひどく寒い朝、まだ暗いうちから起きなければなりませんでした。それに、腹いっぱい食べられることなんか、ほとんどありませんでした。暖かい季節にはブドウの蔓つるがからまって、とてもきれいな小屋でした。ブドウは、実こそなりませんでしたが、花が咲き、刈り入れをするような暖かい季節には、ふさふさとした緑の葉っぱがぜいたくな網目模様のようにこの小屋を覆おおうのでした。しかし、寒い時分には、小屋は物置小屋とたいして変わらなかったのです。冬には、すきま風が壁のたくさんの穴から入り、ブドウの木は黒く、葉っぱをつけていませんでした。そして、何も生えていない大地は、とても荒こう涼りょうとした様子でした。時々、小屋の中は浸水し、それが氷ついてしまうのです。冬は、厳きびしい季節でした。ネロは雪で小さい白い手足がかじかみましたし、パトラッシュは氷つら柱らで、勇敢な、疲れを知らない足を切りました。しかし、そうした時期でさえ、ふたりは愚ぐ痴ちをこぼしませんでした。子供の木きぐ靴つと犬の四本の足は、一緒に荷車の鈴をちりんちりんと鳴らしながら勇ましく早足で進んでいきます。それに、アントワープの通りを進んでいくと、一杯のスープとパン数切れをくれたりするおかみさんがいたりしました。また、家に帰ろうとすると、ミルクを買ってくれる商人の中で、小さい荷車に少したきぎを放り込んでくれる優しい人がいたりしました。あるいは、村のおかみさんの中には、二人に、アントワープに運んでいくミルクを自分たちのために一部取っておくようにと言ってくれる人がいたりしました。そうしたとき、二人は暗くなりかけた中を、明るく幸せに、雪の上を歩いていきます。そして、喜び叫びながら家に入るのでした。 だから、だいたいのところ、とてもよかったのです。パトラッシュは、大きな街道や通りで、夜明けから夜遅くまでこき使われている犬を、いっぱい見てきました。そうした犬は、酷こく使しの代償に、ただ棒で殴なぐられるか、ののしられるばかりで、そのあげく、飢え死にでも凍え死にでも勝手にしろ、とばかりに車から蹴けり出され、やっと車からはずしてもらえるのでした。パトラッシュは、自分の運命に心から感謝しました。そして、こんなに結構でありがたいことはない、と思うのでした。パトラッシュが晩に横になったとき、本当にひどくお腹が空いていたこともしばしばありましたし、夏の昼の暑い中でも冬の明け方のこごえるような寒さの中でも、パトラッシュは働かなければなりませんでした。それに、ギザギザの舗ほど道うのとんがった石で足を怪け我がし、ずきずき痛むこともしばしばありましたし、自分の生まれには似合わないような、力に余る仕事をしなければなりませんでした。それでも、パトラッシュは満足し感謝していました。パトラッシュは毎日義務を果たしました。そして、大好きなネロの目が、パトラッシュに向かって微ほほ笑えみかけました。それだけでパトラッシュには十分でした。 ただ、パトラッシュには、一つだけ気がかりなことがありました。それは、こんなことでした。誰でも知っているように、アントワープの町には、あちこちに古い、黒ずんだ、古風な、でも荘そう厳ごんな石造りの教会がいっぱいあります。曲がりくねった路地の奥の中庭に建っているのもあれば、屋敷の門や居酒屋に挟はさまれて建っているのもありましたし、運河のほとりに建っているのもありました。塔から鐘の音が空に鳴り響き、アーチ形の扉とびらから音楽がもれ聞こえてくることがありました。現代の商業の都のむさくるしさ、あわただしさ、人混みの多さ、みにくさの中で、大きな古い聖地が残されていました。一日中、塔の上では雲がたなびき、鳥は円を描いて飛び、風がそよぎます。そして、その聖地の地下には、ルーベンスが眠っていたのです。 この傑けっ出しゅつした巨きょ匠しょうの偉力は、今でもアントワープの町に残っています。狭い道に入り込むと、いつもルーベンスの栄光がそこかしこに感じられます。そして、どんないやしいものでも、ルーベンスの栄光によって変容するのです。曲がりくねった道を進むとき、淀よどんだ運河の水のそばにたたずむとき、そして騒がしい中庭を過ぎるとき、ルーベンスの魂が私たちにまとわりつき、ルーベンスの堂々とした美の幻影が、私たちのそばにあります。そして、かつてルーベンスの足取りを感じ、ルーベンスの影を映した石畳は、今にも起きあがって生き生きした声でルーベンスについて語り出すように思われるのです。ルーベンスのお墓があるというだけで、アントワープの町は今も有名です。 その大きな白い墓の近くは、とてもひっそりと静まり返っています。ときおりオルガンの音や聖歌隊が﹁たたえよ、マリア﹂や、﹁主よ、あわれみたまえ﹂を歌う音が聞こえるのを除いては。ルーベンスが生まれたアントワープの町のまん中に位置する聖ジャック教会の内ない陣じんにある、真っ白な大理石でできたお墓以上に立派なお墓を持つ芸術家はいません。 ルーベンスがいなければ、アントワープの町は何だったというのでしょうか? 波は止と場ばで商売をする商人を別にすると、誰も見たいとは思わないような、薄汚くて薄暗い、騒々しい市場に過ぎません。ルーベンスがいたからこそ、アントワープの町は、世界中にとって、神聖な名前であり、神聖な土地であったのです。芸術の神様、ルーベンスがこの世に生まれたベツレヘムであり、芸術の神様、ルーベンスが亡くなったゴルゴダだったのです。 国よ! あなたは国に生まれた偉人を大切にしなければなりません。というのは、未来の人は、ただ偉人によってだけ国を知るからです。この時代のフランダースの人たちは賢明でした。ルーベンスが生きている間、アントワープの町は、アントワープが生んだ最も偉大な息子に名誉を与えました。そして、ルーベンスの死後は、アントワープの町はその名前を賛美します。けれども、実を言うと、フランダースの人たちがこのように賢明だったことは、めったにありませんでした。 さて、パトラッシュの問題というのは、次のようなものでした。子どものネロは、むらがりあっている屋根の中でひときわ大きくそびえ立つ、この大きな、陰気でもの悲しい、石造りの教会の中に、幾度となく入っていきました。一方、パトラッシュは一人歩道に取り残されました。そして、退屈しながら、ちょっとの間でも離れていたくない、大好きな友だちを惹きつけ、パトラッシュから離れさせているものが一体全体何だろうか、とじっと考え込みましたが、無駄なことでした。一、二度、パトラッシュは自分自身で何が起こっているかを確かめようとしました。そして、ミルクの荷車を引きながら音を立てて階段を登っていきました。けれども、そうすると、パトラッシュは背の高い、黒い服と銀色の鎖を身に付けた守衛の人にすぐに追い返されました。パトラッシュは、小さい主人を問題に巻き込むことを恐れ、教会の中に入ろうとするのはやめて、少年が再び現れるまで、教会の前で根気強く待ったのでした。パトラッシュを悩ませたのは、教会に入れなかったことではありませんでした。パトラッシュは人間が教会に行く、ということは知っていました。村人たちは、みんな、赤い風車小屋の反対側にある、小さな、今にも潰れそうな、灰色の教会に行っていました。パトラッシュを悩ませたのは、ネロが教会から出てきたとき、とても様子が変だったからです。いつも、とても顔を真っ赤にするか、とても青白い顔をしていました。そして、そのように教会に行った後に家に帰るときは、いつもじっと座って、夢見るような様子でした。遊ぼうともせず、運河の向こうにある夕方の空をじっと見つめ、ふさぎ込んで、ほとんど悲しそうでした。 ﹁いったいこれはどうしたことだろう?﹂、とパトラッシュは不思議に思いました。パトラッシュは、小さな少年がそんなに深刻になることは、よいことではないし、普通ではないことだ、と思いました。そこで、パトラッシュは、ものは言えませんでしたが身振りでなんとかネロを日なたの野原やにぎやかな市場に誘いざなおうと一生懸命努力しました。けれども、ネロはどうしても教会に行くのでした。最も頻ひん繁ぱんに行くのは、大きな大聖堂でした。そして、パトラッシュは、クウェンティン・マーシス︵十五〜十六世紀に活躍したフランダース地方の画家︶の墓に通じる壊れかけた鉄の門の近くにある石畳の上に取り残されるのでした。そこでパトラッシュは背中を伸ばし、あくびをし、ため息をつき、吠えたりもしましたが、無駄なことでした。そして、扉とびらが閉められる時間になって、ネロが仕方なしに出てくると、パトラッシュの首に抱きついて、広い茶色の額にキスをしてくれます。そして、いつも同じことばをつぶやくのでした。 ﹁パトラッシュ、あれを見ることができたらなあ。あれを見ることができたらいいのに﹂ ﹁あれ、ってなんだろう?﹂、とパトラッシュは思いました。そして、大きな、思いこがれた、同情的な目でネロを見上げました。 ある日、門番が扉を半開きにしたままで立ち去ったとき、パトラッシュは、小さな友人の後を追って様子を見るために、教会に入りました。﹁あれ﹂というのは、聖歌隊席の両側にある、布で覆おおわれた二つの名画のことでした。 ネロはうっとりと無我夢中で祭さい壇だんの聖せい母ぼひ被しょ昇うて天んの絵の前にひざまずいていました。ネロはパトラッシュに気がつくと、起きあがって、やさしくパトラッシュを外に連れていきました。ネロの顔は涙で濡ぬれていました。そして、名画の前を通り過ぎる時、それを見上げ、パトラッシュにつぶやきました。 ﹁あれを見られないなんて、ひどいよ、パトラッシュ。ただ貧乏でお金が払えないからといって! ルーベンスは、絵を描いたとき、貧しい人は絵を見ちゃいけないなんて、夢にも思わなかったはずだよ。ぼくには分かるんだ。ルーベンスなら、毎日、いつでも絵を見せてくれたはずだよ。絶対そうだよ。なのに、絵を覆うなんて! あんなに美しいものを、覆おおって暗くら闇やみの中に置いておくなんて! 絵は、人の目に触れることがないんだよ。誰もあの絵を見る人はいないんだよ。金持ちの人が来てお金を払わない限り。もし、あれを見ることができるのなら、ぼくは喜んで死ぬよ﹂ けれども、ネロはその絵を見ることができませんでした。そして、パトラッシュはネロを助けることができませんでした。というのは、教会が﹁キリスト昇しょ架うか﹂と﹁キリスト降こう架か﹂の名画を見るための料金として要求している銀貨を得ることは、大聖堂の尖せん塔とうのてっぺんによじ登ることと同じくらい、二人の手に余ることでした。二人には、節約する小銭さえありませんでした。ストーブにくべる少しばかりの薪まきや、なべに煮るわずかのスープを買うのが精一杯でした。それでも子供の心は、何とかしてあのルーベンスの二枚の名画を見たい、というあこがれに満たされていました。 小さなアルデンネ生まれの少年の魂は、芸術に対する激しい情熱でいっぱいでした。まだ日も昇らず、みんな起きない早朝からミルクを引いている大きな犬を連れて、ミルクを運んで売るために家々を回っていたネロは、一見ただの小さな農民の少年に見えましたが、ルーベンスが神様である、夢の天国に住んでいました。ネロは、こごえておなかをすかし、靴下も着けずに木きぐ靴つをはいて、冬の風が巻き毛をけちらし、みすぼらしく薄い外がい套とうを巻き上げましたが、うっとりともの思いにふけっていたのです。ネロが見るものすべては、﹁聖せい母ぼひ被しょ昇うて天ん﹂の絵に描かれたマリア様の美しい顔でした。マリア様は、波打つ金髪が肩にかかり、永遠に輝く太陽の光がひたいを照らしていました。 ネロは、貧しく育ち、運命にもてあそばれ、読み書きも教えられず、誰にも顧みられませんでしたが、その見返りに、いや、災いだったかも知れませんが、﹁天才﹂と呼ばれる才能を授さずかっていました。誰もそのことを知りませんでした。ネロ自身も全く。誰もそのことを知りませんでした。 ただ、パトラッシュだけが、いつもネロと一緒にいたので、ネロがあらゆる動物や植物の姿をチョークで石いし畳だたみに描いていたのを見ていました。そして、乾ほし草の寝床で、ネロがおずおずと、痛ましい様子で偉大なルーベンスにお祈りを捧ささげるのも聞いていました。また、夕日が空をまっかに染めるとき、朝空がばらのよう輝くとき、ネロがそれを夢中で眺め、顔が輝く様子も見守っていました。そして、苦悩と喜びが不思議に入り交じった名前のつけようのない涙がネロの輝く若い目から熱くあふれ出し、パトラッシュのしわだらけの黄色い額にこぼれ落ちることも、しばしばあったのです。 ﹁ネロや、おまえが大きくなって、この小屋と小さな畑を自分で持って、自分で働いて、近所の人からだんな、と呼ばれるようになったら、わしも安心してお墓にいけるというものだよ﹂ ジェハンじいさんは、ベッドに横になりながらよくこういったものでした。というのは、ちょっとした土地を自分で持って、まわりの村人たちからだんな、と呼ばれるのが、フランダースの百姓にとって、最高の夢だったからです。ジェハンじいさんは、兵士として若い頃はいろんな土地をあてもなくさまよって、何も持ち帰りませんでしたが、年をとると、同じ場所につつましやかに満足して暮らすことが、望みうるもっともよい運命であると考えるようになったのです。けれども、ネロは何も言いませんでした。 その昔活躍したルーベンスやヨルダンス、ヴァン・アイク、そのほか驚異の種族と同じ天分が、ネロの中に息づいていました。近年では、ディジョンの町の古い城壁をムーズ川が洗う、緑のアルデンヌ地方は、英雄パトロクロス︵ギリシャ神話の英雄で、アキレスの親友︶を描いた偉大な芸術家を生み出しています。けれども、その画家は私たちの時代に近すぎて、その才能を適切に評価することは難しいのです。 ネロの夢は、ちっぽけな畑を耕し、かやぶきの屋根に住み、自分よりすこし貧しいか、豊かな近所の人たちから﹁だんな﹂と呼ばれることではありませんでした。真っ赤な夕焼けの空のかなたに、あるいは灰色に霧がかった朝もやのかなたにそびえる大聖堂の尖せん塔とうがネロに語りかけるのは、これとは少し違った夢でした。けれども、この夢を、ネロはパトラッシュだけに話しました。夜明けの霧の中を仕事に出かけるとき、あるいは、水辺にそよぐイグサの中でいっしょに横になって休んでいるとき、ネロは、子どもっぽく自分の空想を犬の耳元でささやきました。 というのは、そのような夢をなかなか理解してくれない人が聞き手の場合は、夢を具体的に言葉にして話すことは、簡単ではなかったからです。そして、そんな夢をジェハンじいさんに話すのは、部屋の片隅で寝たきりの、この貧しい老人を困らせるだけだったでしょう。というのは、ジェハンじいさんは、アントワープの町にでかけたとき、わずかなお金で黒ビールを飲むことがありましたが、そのようなときに見る居酒屋の壁に青と赤で書かれている下へ手たくそな聖母マリアの絵だって、祭さい壇だんの有名な絵と同じくらい結構なものだと思っていたのですから。そのような有名な絵を見るために世界中からはるばる旅をして、フランダース地方に来る人も大勢いたというのに。 ネロがとほうもない夢を話すことができた相手が、パトラッシュ以外にもう一人だけいました。それは、アロアでした。アロアは、草が青々とはえた岡の上の古びた風車小屋のそばに住んでいました。父親は粉屋で、村一番の金持ちでした。小さなアロアは、優しい黒っぽい目をした、明るく血色のよい、とてもかわいい女の子でした。ところで、こうした面立ちはフランダース人にはよく見かけます。これは、アルバ公によるスペイン統とう治ちのなごりです。同じように、壮そう麗れいな宮殿や見事な邸宅や戸口の上の金ぴかの横木に、スペイン芸術の影響のあとがうかがわれます。紋もん章しょうや石造りの建物から、歴史や詩が感じられるのです。 小さなアロアは、よくネロとパトラッシュと一緒にいました。三人は野原で遊び、雪の中で走り、ヒナギクの花やコケモモの実を集めました。また、一緒に古い灰色の教会に行きました。そして三人は、よく粉屋の家の、火が赤々と燃える暖炉のそばに一緒に座りました。実際、小さなアロアは、村で一番金持ちの子どもでした。アロアには、兄弟も姉妹もいませんでした。彼女の青いサージ・ドレスに穴があることは、決してありませんでした。お祭りの日には、金ぴかにぬったクルミや、神の子羊をかたどったお菓子を両手に持ちきれないほどたくさんもらいました。そして、アロアが最初に教会の聖せい餐さん式しきに行ったときは、亜麻色の巻き毛の上に、一番上等なメケレン産のレースのぼうしをかぶっていました。これは、アロアのものになる前は、アロアのおかあさんとおばあさんのものでした。アロアはまだ十二歳に過ぎませんでしたが、村人たちはうちの息子の嫁になれば、さぞやいいお嫁さんになれるだろうと噂しあっていました。けれども、アロア自身は小さくて、明るく、純真な子どもで、自分が受け継ぐ財産のことなど、ちっとも意識していませんでした。そして、アロアは、ジェハンじいさんの孫と彼の犬が一番お気に入りの遊び友だちでした。 アロアの父親であるコゼツのだんなは、いい人でしたが、いくぶん頑がん固こなところがありました。 ある日のこと、コゼツのだんなは、牧草の二番刈りが済んだばかりの風車小屋の裏の細長い牧草地で、かわいい子どもたちの姿を目にしました。 それは、彼の小さい娘が牧草の間に座り、黄きか褐っし色ょくの大きな犬の頭をひざにのせている姿でした。どちらとも、ケシの花やヤグルマギクの花でできた花輪を首にかけていました。 きれいななめらかな松の板に、少年ネロは、木炭で二人の似顔絵を描いていました 粉屋は立って、目に涙を浮かべながら似顔絵を見ていました。その似顔絵は、不思議なくらいアロアそっくりでした。粉屋は、一人っ子であるアロアを深く愛していました。 それから粉屋は、﹁お母さんがおうちで用があるというのに、こんなところで怠けて遊んでいるなんて﹂と、アロアをしかりつけました。アロアはおびえて泣きながら家に戻りました。それからネロの方に向き直り、ネロの手から板をうばい取りました。 ﹁おまえは、いつもこんな馬鹿なまねをしているのか?﹂ 粉屋は尋たずねましたが、声は震えていました。 ネロは、赤くなってうなだれました。 ﹁ぼくは、目に入るものは、なんでも描きます﹂と、ネロはつぶやきました。 粉屋は、黙っていました。それから、粉屋は一フランを手に持って差し出しました。 ﹁今言ったように、これは馬鹿げたことだぞ。とてもよくないことだ。時間の無駄だ。けれども、この絵はアロアそっくりで、お母さんは喜ぶだろう。この銀貨でこの絵をおれに売ってくれ﹂ 若いアルデンネ生まれの少年は色を失いました。ネロは頭を上げて、手を背中の後ろに隠しました。 ﹁お金も絵も持っていって下さい、コゼツのだんな。だんなには、今までに何度も親切にしてもらいましたから﹂ ネロは短く答えました。それから、ネロはパトラッシュを呼んで、野原のむこうに行ってしまいました。 ﹁あのお金があれば、あれを見ることができたんだ。でも、ぼくはアロアの絵を売ることができなかった。たとえあれが見られたとしても﹂ ネロはパトラッシュにつぶやきました。 コゼツのだんなは、とても心を悩ませながら家に入りました。その晩、粉屋は妻にこう言いました。 ﹁あの若者をアロアに近づけさせてはいけないよ。将来問題が起きるかも知れん。ネロは十五で、アロアは十二だ。ネロは、格好もよくて、なかなか美男子だからな﹂ ﹁それに、気だてもいいし、人を裏切らない子ですよ﹂ 松の板の絵をうれしそうにながめながらアロアのお母さんは答えました。その松の板は、暖だん炉ろだ棚なの上に、カシの木でできたカッコウ時計やろうでできたキリストの十字架像と一緒に並べられていました。 ﹁そうだな、否定はせんよ﹂ 粉屋は白しろ目めの酒びんについだお酒を一気に飲みほしながら答えました。 ﹁それなら、もしあなたの考えるようなことが万が一起こったとしても﹂と、妻はためらいながら言いました。 ﹁それがそんなに大変なことなのでしょうか? アロアは二人でやっていけるものは十分あるし、それになんていったって幸せなのが一番ですからね﹂ ﹁お前はやっぱり女だ。だから、そんな馬鹿なことを言うのだ﹂ 粉屋はきびしく、パイプをテーブルでどん、とたたきながら言いました。 ﹁あの子は、乞こじ食き同然だぞ。いや、画家になろうとなぞ、夢みたいなことを思っていて、乞こじ食きよりもっとたちが悪い。二人が一緒にいることがないよう、よく見張っておくんだぞ。でなけりゃあ、もっとちゃんとアロアを見張ってもらえるよう、修道院にアロアをやっちまうぞ﹂ かわいそうな母親は震ふるえ上がって、彼の言うとおりにすると約束しました。それでも、母親は自分の娘を、娘が大好きな遊び友達から完全に引き離す気にはなりませんでした。それに粉屋の方も、貧しいということを除けば何も悪いことをしていなかった若者に、ものすごく残酷なことをするつもりもなかったのです。けれども、やっぱりアロアは仲良しの友だちから遠ざけられる機会が多くなりました。ネロは、自尊心が強く、おとなしく、敏感な少年でしたので、すぐに傷つきました。そして、ひまさえあればいつも丘の上にある風車小屋に出かけて行っていたのに、ぱったりと行くのをやめてしまいました。むろん、パトラッシュも連れて行ってもらえなくなりました。 何が粉屋を怒らせたのか、ネロには本当のことは分かっていませんでした。ネロは、草むらでアロアの絵を描いていたことが、何かの理由でコゼツのだんなを怒らせたのだと思いました。そして、ネロのことが大好きだったアロアがネロに助けを求めて、ネロの手を取ってきたとき、ネロはとても悲しげに彼女に微笑み、やさしくアロアのことを心配して言いました。 ﹁だめだよ、アロア。お父さんを怒らせてはいけないよ。アロアのお父さんは、ぼくがアロアを怠け者にすると思っているんだよ。アロアがぼくと一緒にいると、お父さんは不愉快に思うよ。アロアのお父さんは、いい人で、アロアのことを、とって愛しているじゃないか。ぼくたち、お父さんを怒らせないようにしなくっちゃ、アロア﹂ そうはいったものの、ネロは悲しくてしかたありませんでした。日が昇ってパトラッシュといっしょにポプラの並木道を歩くとき、世界は昔ほど輝いて見えませんでした。古い赤い風車小屋は、ネロにとって目印でした。ネロは行き帰りの途中でそこで立ち止まったものでした。というのは、アロアがいつも小さい亜麻色の頭を製粉場の低い木戸からのぞかせ、にこやかにあいさつしてくれるからでした。そして、アロアは小さいバラ色の手で、パトラッシュに肉のついた骨やパンの皮を投げてくれるのでした。 今や、犬は物足りなそうに閉じた扉とびらを見ました。そして、少年は心にはげしい痛みを感じながら、立ち止まらずに歩き続けました。そして、アロアはストーブのそばにある背の低い椅子に座って編み物をしていましたが、涙がぽたぽたと編み物に落ちるのでした。コゼツのだんなは、粉袋や製粉機に取り囲まれてせっせと働いていましたが、心をいっそうかたくなにしてこうつぶやくのでした。 ﹁こうするのが一番いいのだ。あの若者はほとんど乞こじ食き同然だ。おまけに、夢みたいなことばかり考えている怠けものだ。これから先、どんな間違いが起こるかも知れないからな﹂ 粉屋は世慣れていました。そして、ごくまれに、特別のはれがましい儀式のようなことがないかぎり、ネロに対して扉とびらを開けようとはしませんでした。そのような儀式のときは、二人が暖かく笑いあったりするようなことはできませんでした。 二人は、とても長い間毎日楽しく、気兼ねなく、幸せに挨あい拶さつしたり、話したり、遊んだりしていたのです。そのように二人が飛び跳はねて話したり、遊んだりするときは、パトラッシュだけが見聞きしていました。そうした時は、パトラッシュは二人の気持ちのさまざまな変化を、犬特有の素早さで見抜いて、それに反応して首輪につけた真ちゅう製のベルを鳴らしたのでした。 この間中ずっと、小さい松の板の絵は、カッコウ時計と蝋でできたキリストの像と一緒に、粉屋の家の暖だん炉ろだ棚なの上に飾ってありました。ネロは、自分の贈り物は受け入れられたのに、自分自身は拒絶されなければならないというのは、少し厳しいことだ、と時々思うのでした。 けれども、ネロは不満を言いませんでした。おとなしくしているのがネロの習慣でした。年取ったジェハン・ダースは、これまでもネロにこう言ってきました。 ﹁わしたちは、貧しいのじゃ。神様がくださるものを、よいものでも悪いものでも、受け取らなければならないよ。貧しい者は、選択をすることができないのじゃよ﹂ 少年は、年とったおじいさんを尊敬していましたので、いつも黙って聞いていました。それにもかかわらず、よく天才少年の心がとらえられる、ある漠ばく然ぜんとした、甘い希望がネロの心の中に生まれるのでした。 ﹁貧乏人だって、時には選ぶことができるんだ。誰からも﹃だめだ﹄なんて言われないように、偉くなることを選ぶことだってできるはずだ﹂ ネロは今でも無邪気にそう思っていました。 ある日、アロアは運河のそばのトウモロコシ畑でネロが一人でいるところをたまたま見つけると、ネロに駆け寄ってきました。そして、ネロをかたく抱きしめ、はげしく泣きました。というのは、明日はアロアの名前にゆかりのある聖せい徒とさ祭いの日でしたが、アロアの両親は今回はじめてネロを招待しないことにしたのです。この日は皆に夕食が振る舞われ、粉屋の納な屋やで子どもたちがはしゃぎまわってアロアの聖せい徒とさ祭いを祝うのでした。ネロは、アロアにキスし、心から固く信じた様子でアロアにこう言いました。 ﹁いつか、将来、きっと状況は変わるよ。いつか、アロアのお父さんが持っている小さな松の板の絵が、同じ重さの銀と同じ価値があるようになる日が来るよ。そうなれば、お父さんもぼくに対して扉とびらを閉ざしたりすることはないだろう。ただ、いつもぼくを好きでいて、アロア。ただ、いつもぼくを好きでいて。そうすれば、ぼくは偉くなってみせる﹂ ﹁じゃあ、もしも、わたしがあなたのこと、好きじゃなかったら?﹂ かわいらしいアロアは、女の子によくありがちなことでしたが、目に涙を浮かべて、ネロの気をひくように、ちょっとすねたように尋たずねました。 ネロの目はアロアの顔からそれ、遠くをさまよいました。そこには、真っ赤と金色に染まるフランダース地方の夕焼けの中にそびえる、大聖堂の尖せん塔とうがありました。微かな笑えみがネロの顔に浮かびました。とてもやさしそうでいて、とても悲しそうな笑顔でしたので、アロアは、はっとしました。 ﹁ぼくはそれでも偉くなるよ﹂ ネロはそっと小さな声で言いました。 ﹁それでも偉くなるか、死ぬかだ。アロア﹂ ﹁あなたは私のこと、好きじゃないのね﹂ ネロを押しのけて、小さい駄だ駄だっ子は言いました。 けれども、ネロは首を振って、微ほほ笑えみながら高い黄色く色づいたトウモロコシ畑を歩いて行きました。ネロは、こんな空想をしながら歩いていたのです。 いつか遠い将来、故郷に戻ってきて、アロアの両親にアロアをお嫁さんにもらいたいと申し込むんだ。すると、断られたりせずに、喜んで受け入れてもらえる。一方、村の人は、みんなぼくを見ようとして群がってきて、互いにこう話している。﹁あの男を見たかい? あの男は、まるで王様のようなものだよ。何と言ったって彼は偉大な芸術家で、世界中に名前が響きわたっているのだから。けれどもあの男は、昔は貧しい、あのネロ少年だったんだよ。乞食同然で、飼い犬に助けられてやっと食べていけた、あの子なんだよ﹂ そして、おじいさんには毛皮のついた、紫色の服を着せてあげて、聖ヤコブ教会の礼拝堂にある、﹁聖家族﹂の肖像画みたいな絵を描こう。それから、パトラッシュには、金の首輪をかけてやって、右側に座らせるんだ。そして、みんなにこう言うんだ。 ﹁かつては、この犬がわたしのただ一人の友だちでした﹂と。 それから、大聖堂の尖せん塔とうがそびえて見えるあの丘の斜面の上に、大きい白い大理石の宮殿を建てて、すばらしく華やかな庭園を造ろう。でも、自分で住むんじゃなくて、何か立派なことをしたいと思っている、貧しくて友だちのいない若者たちを呼び寄せて住まわせてあげるんだ。そして、若者たちがぼくを賛美しようとしたら、いつもこう言うんだ。 ﹁いや、感謝するならぼくにではなく、ルーベンスに感謝してください。ルーベンスがいなかったら、ぼくはどうなっていたか、分からないんだから﹂ こうした美しい、とても実現できそうもない、けれども無邪気で自分の欲を離れた、ただただルーベンスへの英雄的なあこがれに満ちた夢は、歩いているとき、ネロはとても身近に感じていました。悲しいアロアの聖せい徒とさ祭いの日でさえ、ネロは幸せでいられました。その日、ネロとパトラッシュは二人きりで小さい、暗い小屋に帰り、黒パンの夕飯をとりました。一方、粉屋には、村中の子どもたちが歌ったり笑ったり、ディジョンの丸い大きなお菓子や、ブラバントのアーモンド入りのしょうがパンを食べたりしました。そして、大きな納屋の中で星の光に照らされて、フルートやバイオリンの音楽と一緒に踊ったりしていました。 ﹁気にすることはないよ、パトラッシュ﹂ ネロはパトラッシュと二人で小屋の戸口に座って、犬の首を抱きしめてそう言いました。粉屋の家のにぎやかなお祝いの音が、夜風に乗って小屋まで聞こえてきました。 ﹁気にすることはないんだ。未来は変わるんだから﹂ ネロは、未来を深く信じきっていました。ネロよりもっと人生経験を積んできて、世の中というものをもっと達たっ観かんして見ていたパトラッシュは、今日招かれなかった粉屋のごちそうは、将来実現するかどうか分からないミルクやはち蜜の夢で埋め合わせできるものではない、と思いました。だからパトラッシュは、コゼツのだんなの家のそばを通り過ぎるときは、いつも吠えるのでした。 ﹁今日はアロアにゆかりの深い聖せい徒とさ祭いじゃないか﹂ その晩、小屋の隅っこのベッドに横たわっていたジェハンじいさんは言いました。 少年は、そうだという身振りをしました。ネロは、おじいさんがそんなにちゃんと憶えてなくて、記憶がもっとあやふやだったらいいのに、と思いました。 ﹁じゃあ、なぜ行かないのかね? 今まで一度だって呼ばれなかったことはなかっただろう、ネロや﹂ おじいさんは、追求しました。 ﹁おじいさんがこんなのに、行けないよ﹂ ネロはベッドの上で格好のいい頭を傾けてつぶやきました。 ﹁いや、いや! ヌレットのおばさんが来て、一緒にいてくれるよ。今までだって何度もそうしてくれたんじゃから。一体何があったんだね、ネロや? まさか、けんかでもしたんじゃあるまいな?﹂ 老人はしつこく尋ねました。 ﹁いや、そんなことは絶対にないよ﹂ 少年はうつむいた顔を真っ赤にしながら答えました。 ﹁本当のこと言うと、コゼツのだんなが今年は呼んでくれなかったんだ。コゼツのだんなは、ぼくに対して何か怒っているみたいなんだ﹂ ﹁でも、何にも悪いことはしとらんのじゃろう?﹂ ﹁うん、何もしてないよ。ただ、松の板にアロアの肖像を描いてただけなんだ。それだけなんだ﹂ ﹁ああ! そうか﹂ 老人は黙ってしまいました。少年の純真な答えから、おじいさんには事情がのみこめました。おじいさんは、今でこそぼろ小屋の隅っこで、乾燥した木の葉っぱをしきつめたベッドに寝たきりになっていますが、世間のやり方というのがどういうものかを、完全に忘れた訳ではありませんでした。 おじいさんは、いつもより優しい身振りでネロの金髪の頭を彼の胸に抱き寄せました。 ﹁おまえは、ひどく貧しいんじゃよ﹂と、震える声でジェハンじいさんはいいました。 ﹁かわいそうに! どんなにつらかろう﹂ ﹁ううん、ぼくは豊かだよ﹂ ネロはつぶやきました。ネロは無邪気にそう思っていました。王の力より強大な、不滅の力をもつ財宝を持っていると。 ネロは静かな秋の夜に、小屋の戸口にいって、柱によりかかりました。そして、星の群れを見上げました。高いポプラの木は、風でたわんで揺れていました。粉屋の家の窓は、すべて灯りがともり、時々フルートの音が聞こえてきました。涙が頬ほほにこぼれ落ちました。なんと言っても、ネロはただの子供に過ぎませんでした。でも、ネロは微ほほ笑えみました。﹁未来があるさ!﹂と、自分に言い聞かせて。 ネロは、あたりが静かになり、闇につつまれるまで、そこにたたずんでいました。それからネロとパトラッシュは、小屋の中に一緒に入って、並んでぐっすりと眠りました。 さて、ネロには、秘密がありました。そのことは、パトラッシュだけしか知りませんでした。小屋には小さな離れがありました。ネロ以外は誰も入らなかった部屋で、ひどくわびしい場所でした。でも、北側からたっぷりと光が入ってきました。ここにネロは、そまつな板で、適当に画が架かをつくりました。そこに大きな灰色の紙を広げて、頭に浮かんだ数えきれないほどの想像のうちの一つを形にしました。ネロはこれまで誰にも教わったことはありません。色のついたクレヨンは、ネロには買いようがありませんでした。ここにある、わずかな粗末な道具を揃そろえるのでさえ、ネロは時々食事を抜かなければなりませんでした。 そして、ネロが見たものを形にするのは、ただ白と黒だけでした。 彼がクレヨンで描いていたこのすばらしい画は、倒れた木に座っている老人、ただそれだけのものでした。ネロは、年をとった木こりのミッシェルが夕方にそうやって座っている姿を、しょっちゅう見たことがありました。ネロには、デッサンとか遠近法とか解剖学とか影の描き方といった、絵の技法について教えてくれる人はいませんでした。それなのに、年老いた弱々しい木こりの、とても悲しげで静かに堪たえ忍しのんでいるような様子が、あるいはごつごつとしているが疲れ切った様子が、ネロ独特の情念でもって、みごとに描かれていました。ネロが描いた、暮れゆく秋の夕暮れの暗闇の中で、何かもの思いにふけりながら枯れ木に座っている、年老いた孤独な人物の絵は、さながら一いっ編ぺんの詩のようでした。 もちろん、絵は荒削りで、いろいろな欠点もありました。それなのに、その絵は真に迫っていて、とても自然で、芸術的で、そしてとてももの悲しく、美しかったのです。 パトラッシュは、ネロが毎日の仕事が終わった後で作品を少しずつ完成させようとしているのを、数え切れないほどの時間、おとなしく見守ってきました。そして、パトラッシュはネロがある望みを抱いていることを知っていました。それは、おそらく空しく、荒こう唐とう無むけ稽いともいえる望みでしたが、ネロはこの望みを深く胸に秘めていました。それは、この絵を年に二百フランの賞金がもらえるコンクールに出品し、優勝することでした。このコンクールは、絵の才能のある十八歳以下の若者なら、学生であろうと農民であろうと誰でも参加できることになっていて、提出できる作品は、誰の助けも借りずに自分で描き上げたクレヨン画か鉛筆画とされていました。ルーベンスの町、アントワープで一番有名な三人の画家が審査員でした。三人の多数決で優勝作品が決まるのです。 春と夏と秋の間中、ネロはこの絵を描き続けました。もし優勝すれば、暮らしの心配もなくなり、今までめくらめっぽう、ただ訳もなく情熱的にあこがれてきた芸術の神秘に向けて、一歩踏み出せるのです。 ネロは、誰にもこのことを話しませんでした。おじいさんには分からなかったでしょうし、ネロはアロアを失ってしまっていました。 ﹁もしルーベンスがこのことを知っていたなら、きっと賞をぼくにくれると思うんだ﹂と、パトラッシュだけに思いのすべてを話しました。 パトラッシュもそう思いました。なぜなら、パトラッシュはルーベンスが犬好きだったことを知っていました。そうでなかったら、あんなに見事に生き生きと犬の絵を描けなかったでしょう。そして、パトラッシュが知っていたように、犬が大好きな人は、誰でも皆、憐れみ深いものなのです。 絵の提出期限は、十二月一日で、賞の発表は二十四日でした。優勝者が優勝をクリスマスに家族と一緒にお祝いできるようにしていたのでした。 ひどく寒い冬の黄たそ昏がれ時に、ネロは時には希望に燃え、時には恐怖で目がくらみそうになりながら、その傑作を緑色の荷車に積み込み、パトラッシュに手伝ってもらって、町に行って、決められたとおり、町の公会堂の入り口にその絵を置いてきました。 ﹁この絵には、何の価値もないのかも知れない。どうしたら、それがぼくに分かるんだ?﹂と、ネロはおどおどと胸を痛めながら思いました。ネロが公会堂に絵を置いた今、ネロは、自分のような靴下もはかず、ほとんど文字さえ読めないような少年が、偉大な画家であり、本物の芸術家である審査員が認めてくれるような絵を描けると夢見るなんて、とても無茶で途方もなく、ばかげたことのように思えました。 それでも、大聖堂を通り過ぎたとき、ネロは元気を取り戻しました。ネロには、ルーベンスの偉大な姿が霧と闇の中からぼうっと現れて、くちもとにやさしい笑みを浮かべながら、ネロに向かって次のようにささやいたように思われました。 ﹁だめだよ、勇気を出しなさい。私の名前がアントワープの町に永久に刻まれたのは、わたしが弱気になったり、おどおどとおびえたりしなかったからだよ﹂ ネロはその言葉に慰なぐさめられ、寒い夜を家に走って帰ってきました。ネロは、最善を尽くしました。後は神様のおぼしめしだ、とネロは思いました。ヤナギやポプラの木に取り囲まれた小さい灰色の教会で教えられたとおり、ネロは、素直に、何の疑いもなく、神様を信仰していました。 厳きびしい冬がはじまっていました。その夜二人が小屋に着いたあと、雪が降りはじめ、何日も降りつづきました。このために、道と畑の区別がよくつかなくなり、小さな小川は凍りつきました。そして、平野中、厳きびしい寒さにおおわれました。そうなると、まだ朝暗いうちからほうぼうを回ってミルクを集め、暗い中を静かな町に向かってミルクを運ぶ仕事は、本当につらい仕事になります。 とりわけ、パトラッシュにとってはそうでした。月日が経って、ネロが力強い若者に成長した一方、パトラッシュは年寄りになっていました。関節はこわばるし、骨はずきずきと痛みました。しかし、パトラッシュは自分の仕事を絶対にあきらめようとはしませんでした。ネロはむしろパトラッシュをいたわり、自分だけで荷車を引いていきたかったくらいです。しかし、パトラッシュがそれを許しませんでした。パトラッシュが許し、受け入れたのは、せいぜい氷のわだちの中をガタピシと進むとき、荷車の後ろから後押ししてもらうことだけでした。 パトラッシュは引き具とともに生きてきました。そして、パトラッシュはそれを誇りにしていました。パトラッシュは、ときどき霜しもやひどくぬかるんだ道や、リュウマチによる手足の痛みにとても苦しめられました。けれども、パトラッシュはハアハアと息をしながら、たくましい首をまげ、あくまでも忍耐強く、前へ前へと歩いていきました。 ﹁パトラッシュ、家で休んでいたらどうだい? もうお前は休んでいる時分だよ。それに、ぼく一人で十分荷車を引くことができるよ﹂ ネロは、よくパトラッシュに休むようすすめました。 パトラッシュはネロが何をいっているか、分かっていましたが、進軍ラッパが鳴り響くとしりごみしない歴戦の兵士のように、けっして家でじっとしてようとはしませんでした。そして、毎朝パトラッシュは起きるとかじ棒に体を入れ、長い長い間四本の足で無数の足あとを刻んできた雪の積もった平原を、とぼとぼと歩いていくのでした。 ﹁死ぬまで休んじゃいけない﹂と、パトラッシュは思いました。けれども、時々、もう休む時がそう遠くないように思われることがありました。目は昔ほどよく見えないようになっていました。それに、教会の鐘が五時を告げて、夜明けの労働がはじまることを知らせた時、パトラッシュはわらの寝床からぱっと飛び起きていましたが、今では夜寝た後、起きるのがつらくなってきていました。 ﹁パトラッシュや、かわいそうになあ。わしたちは二人とも、もうすぐ静かに休むことになるじゃろうよ﹂ 年老いたジェハンじいさんは言って、しわだらけの手でパトラッシュの頭をなでてやりました。その手は、いつもパトラッシュと粗末なパンのかけらを分かち合ってきた手でした。そして、老人と老犬は、同じ思いに胸を痛めていました。 二人が去ったあと、誰が愛しいネロの面倒をみてくれるのだろうかと。 雪の中、アントワープからの帰り道のことでした。雪は、フランダース地方の平野を、まるで大理石のように固くなめらかにしていました。そこで、二人はタンバリン奏者の格好をした小さな人形を拾いました。赤色と金色の服を着て、高さは十五センチほどでした。高い地位にある人が運から見失われて転落した場合と違って、この人形は転落してもまったくよごれておらず、傷もついていませんでした。それは、かわいらしいおもちゃでした。ネロは持ち主を探そうとしましたが、どうしても見つかりませんでした。ネロは、それならアロアにあげて喜ばせてあげよう、と思いました。 ネロが粉屋を通り過ぎたときは、もう夜遅い時間でした。ネロは、アロアの部屋の小さな窓をよく知っていました。持ち主の分からない小さな人形をアロアにあげることは、何も悪いことではないと、ネロは思いました。なにしろアロアとは、ずっと長い間遊び仲間だったのですから。アロアの部屋の窓の下には、傾いた屋根のある小屋がありました。ネロはここによじ上り、窓格子をそっとたたきました。室内には小さな灯りがともっていました。アロアは窓を開け、半ばおびえながら外を見ました。 ネロは、タンバリン奏者の人形を彼女の手に入れました。 ﹁アロア、この人形、雪の中で見つけたんだ。アロアにあげるよ。アロアに神様のお恵みがありますように!﹂と、ネロがささやきました。 アロアがお礼を言う間もなく、ネロはすばやく屋根から降り、暗闇の中を走り去っていきました。 その晩、粉屋で火事がありました。外の建物ととうもろこしの多くが焼けました。けれども、風車小屋と家は無傷でした。村中みな家の外に出て、火事にびっくりしてしまいました。そして、消防車が雪の中、アントワープから駆けつけてきました。粉屋は保険をかけていたので、何も損はしませんでした。けれども、彼はものすごく怒って、火は事故ではなく、誰かの悪意による放火だ、と大声で決めつけました。 ネロは眠りから覚めて、他の人たちと一緒に消火の手伝いにいきました。コゼツのだんなは、怒って彼を押しのけました。 ﹁おまえは日が暮れてからこのへんをうろついていたな。おまえは、他の誰よりも今度の火事のことを知っているはずだ﹂ コゼツのだんなは、荒々しく言いました。 ネロはぼう然として、返事もできませんでした。そんなこと、冗談でなければ言えるはずがない。けれど、こんな時に、どうして冗談が言えるのだろう、と思って、訳が分からなかったのです。 それにもかかわらず、粉屋は次の日以降も、おおっぴらに村人たちにひどいことを言いました。少年に対して正式な告こく訴そがされた訳ではありませんでしたが、ネロが暗くなってから何かよからぬ意い図とをもって粉屋の家の近くをうろついていたとか、アロアと付き合うのを禁じられて、コゼツのだんなに恨うらみをもっていた、といった類のうわさ話が広まりました。村人たちは、村一番の金持ちの地主の言うことでしたので、ただ盲目的に従いました。それに、どの家もみんな、自分の息子がアロアの財産をわがものにしてくれるのを願っていたのでした。それで、ジェハンじいさんの孫に無ぶあ愛いそ想うな顔を見せ、冷たい言葉しかかけないようになりました。誰もネロに対して面と向かっては何も言いません。しかし、村中のみんなが、粉屋の偏見に調子を合わせました。そして、ネロとパトラッシュがアントワープにミルクを運ぶためにミルクを集荷している農家の家々では、これまではにこにこ笑って明るく挨あい拶さつしてくれていたのに、今ではろくに顔も上げず、ぶっきらぼうな言葉しかかけませんでした。誰も、粉屋のばかげた疑いや、途方もない非難を本気で信じてはいませんでした。けれども、村人たちはみなとても貧しくて、無知でした。そこに、一人の金持ちの男がネロを非難したのです。ネロは無実でしたが、友だちがいませんでしたので、人々の気持ちがネロから離れていくことをせき止める力はありませんでした。 ﹁あなたは、あの子になんてひどい仕打ちをするの﹂ 粉屋の妻が、彼女の主人に泣いて訴えました。 ﹁もちろんネロは無実だし、あの子は人を裏切ったりしない子ですよ。どんなに心が傷ついていたって、そんな悪いことをしようだなんて、夢にも思うはずはありません﹂ けれどもコゼツのだんなは、頑がん固こな男でした。心の奥底ではよくないことをしているのだと知っていましたが、いったん言い出したら、聞きません。 一方、ネロの方は、不満を言うのは馬鹿げていると思い、自じそ尊んし心んをもってがまん強く、ひどい仕打ちにじっと耐えていました。年老いたパトラッシュと二人きりのときに、少し気が弱くなるだけでした。それにまた、ネロはこう思いました。 ﹁コンクールに優勝することができれば! そのときはみな、きっと済まなかったと思うに違いない﹂ それでも、ずっとこの村で育ってきて、子どもの頃は皆から甘やかされ、ほめられてきた、まだ十六歳にも満たない少年にとって、無実の罪のためにこの小さな村で村むら八はち分ぶの目にあうことは、大変つらいことでした。寒々とした、雪に閉ざされた、食べるものも十分にない冬の季節には、とりわけこたえました。というのは、この季節には、唯一の光と暖かさといえば、村の家々の暖炉のそばと、隣近所の人と交わす優しい挨あい拶さつしかなかったからです。冬の間は、みんな互いに身を寄せ合いました。ネロとパトラッシュだけが別でした。もうだれも二人にかまってくれません。それなのに二人は、体の不自由な寝たきりの老人と一緒に暮らしていかなければなりませんでした。 そして、暖炉にくべる薪まきも十分にはなく、食べるパンがないこともたびたびでした。というのは、ある買い手がアントワープからラバを引いてやってきて、いろいろな農家からミルクを買いにやってきたのです。それで、その買い手の条件を拒んで緑の荷車を裏切らないでいてくれた家は、三、四軒くらいになってしまったのです。パトラッシュが引く荷車はとても軽くなり、ネロの財布の中の小銭も、同じようにとても少なくなりました。 いつも通り、パトラッシュはよく知っている家の前で止まりますが、今や扉とびらは閉ざされたままです。パトラッシュは、物欲しそうに彼らを見上げて、無言で訴えます。村人たちにとっても、扉とびらを閉ざすだけでなく、心まで閉ざしてパトラッシュに荷車を空のままで引かせるのは、つらいことでした。それにもかかわらず村人たちはそうしました。なぜなら、村人たちは、コゼツのだんなを喜ばせたかったからです。 まもなくクリスマスでした。 天気はひどく荒れ、厳きびしい寒さが続きました。雪は、二メートルほども積もりました。そして至るところに氷が張って、牛や人間が乗っても割れないほど固く凍っていました。この季節は、小さい村は、いつもにぎやかで楽しそうでした。一番貧しい家でも、ミルク酒やケーキを作り、冗談を言ったり踊ったりしました。砂糖菓子の聖者像や金ぴかのキリスト像がかざられたりもしました。陽気なフランダースの鐘が馬車の馬につけられ、あちこちで鳴っていました。どの家の中でも、なべにはこぼれんばかりのスープが湯気をたてていて、ストーブからは煙が立ちのぼっていました。そして、明るい色のスカーフと厚手のスカートをはいた少女たちが、ミサの行き帰りにパタパタ音を立てて走っている姿が、至るところでみられました。ネロとパトラッシュのいる小さな小屋だけが、とても暗く、ひどく寒いままでした。 ネロとパトラッシュはまったく孤独のまま取り残されてしまいました。というのは、クリスマスの前の週のある晩、死に神がこの小屋にやってきて、貧乏と苦労以外は何も知らなかった、年老いたジェハンじいさんの命を永久に奪っていったからでした。ジェハンじいさんは、もう随分長い間死んだも同然の状態で、ときどきかすかな身振りをする以外は、動くこともありませんでした。また、やさしい言葉をかけてくれたりする以外は、無力でした。それなのに、ジェハンじいさんに死なれてみると、二人はぞっとするほど恐ろしい気がしました。二人は、ひどく悲しみました。ジェハンじいさんは、眠っている間に亡くなりました。明け方に、二人はジェハンじいさんが亡くなったことを知りました。ことばで言い表せないようなさびしさとわびしさとが、ひしひしと迫ってくるように感じました。ジェハンじいさんは、もう長い間、貧しくて弱々しい、体が不自由な、ただの老人でした。二人を守るために、手を上げることすらできませんでした。けれども、ジェハンじいさんは、二人を深く愛していましたし、笑顔で帰りを迎えてくれました。 白い雪の降る冬の日に、二人は小さな灰色の教会のそばにある名もない墓地に、ジェハンじいさんの亡きがらを送っていきました。その間中ずっと二人は、ジェハンじいさんの死を悲しみました。どんななぐさめの言葉も耳に入らなかったことでしょう。ジェハンじいさんの葬式の会葬者は、じいさんが死んでこの世に二人きりで取り残された、若い少年と年をとった犬だけでした。 ﹁こうなったら、うちの人だって優しくなって、かわいそうな少年をうちに来させるようになるだろう﹂ 暖炉のそばで煙草を吸っていた夫をちらっと見て、こう粉屋の奥さんは思いました。 コゼツのだんなは、彼女の考えを知っていました。けれどもいっそう意い固こ地じになって、小さい、粗末な埋葬の列が通り過ぎたときも、扉とびらを開けようとはしませんでした。 ﹁あの子は、乞こじ食きだ。アロアのそばには来させん﹂と、彼は心の中で思いました。 粉屋の奥さんは、あえて何も言いませんでした。けれども葬式が終わり、会葬者が去った時、永久花︵乾燥しても、もとの形や色が長く変わらない、ムギワラギクなどの花︶でできた花輪をそっとアロアに手渡し、雪をかきわけ、黒い土がかぶせられた、印もない塚にそれを置いてくるように言いつけました。 ネロとパトラッシュは、悲しみに暮れながら家に帰りました。けれども、この粗そま末つな、陰気な、わびしい家でさえ、彼らを慰なぐさめてはくれませんでした。 ひと月の家賃を滞たい納のうしていました。そして、ジェハンじいさんのお葬式の費用を払い終わったとき、ネロにはもう小銭も残っていませんでした。彼は、小屋の持ち主である靴屋のところに行って、家賃の支払いを待ってくれるよう頼みました。この靴屋は日曜の夜になると、いつもコゼツのだんなのところに行って、一緒に酒を飲んだりたばこをふかしたりしていました。靴屋は聞き入れようとしませんでした。彼はきつい、ケチな男で、お金が好きでした。彼は、家賃を支払わないのなら、小屋の中の棒や石、なべやかままで一いっ切さい合がっ切さい家賃の代わりに持っていくといい、ネロとパトラッシュに翌日小屋を出て行くように言いました。 小屋はとても粗そま末つで、ある意味ではとてもみじめでした。けれども、二人は、この小屋をとても愛していました。二人は、ここでとても幸せな時を過ごしたのです。夏にはブドウの蔓つるがおおいかぶさり、豆の花が咲いているこの小屋は、日差しに照らされた野原の中で、とてもすてきに明るく見えました。二人は、一生懸命働いてきましたが、とても貧乏でした。それでも、二人は満ち足りていました。二人で一緒に喜びいさんで走って家に帰ってくると、必ずおじいさんが微ほほ笑えんで迎えてくれたのでした。 一晩中、少年と犬は、火の気のない暖炉のそばに座っていました。ぴったり寄りそって体を暖めあい、悲しみをなぐさめあいました。二人の体は寒ささえ感じなくなり、なんだか心までがすっかり凍えたような気がしました。 白く雪の積もった、冷え切った大地の上に夜が明けました。この日は、クリスマス・イブの朝でした。震えながら、ネロはたった一人の友人を抱きしめました。熱い涙がぽたぽたとパトラッシュの広い額にこぼれ落ちました。 ﹁行こう、パトラッシュ、とても大好きなパトラッシュ。追い出されるまで待つことはないよ。行こう﹂ 彼はこうつぶやきました。 パトラッシュはネロのいうことなら何でも従いました。そして、二人は悲しげに一緒に並んで、小さな家を出て行きました。二人にとってはとても大事だった場所です。どんな粗そま末つな、こまごまとしたものでも、二人にはとても大切で、思い出深いものでした。パトラッシュは、緑の車のそばを通るとき、弱々しく頭をたれました。それはもはやパトラッシュのものではありませんでした。家賃の代わりに、ほかのものと一緒に置いていかなければならなかったのです。真ちゅうでできた引き具が空しく地面に置かれ、雪の上で輝いていました。パトラッシュは、荷車のそばに倒れて、そのまま死んでしまいたいと思いましたが、少年が生きてパトラッシュを必要とする間は、弱音を吐いて降参する訳にはいきませんでした。 二人は通い慣れたアントワープへの道を歩きました。やっと夜が明けたばかりの時間でした。ほとんどの家の雨戸はまだ閉められましたが、いくつかの家ではもう起きていました。犬と少年が前を通っても、誰も気にかけようとはしませんでした。ある一軒の家の扉とびらの前でネロは立ち止まり、懐かしそうに中を見ました。ネロのおじいさんがその家の人たちに、となり近所のよしみで、いろいろと親切にしてあげたことがあったのです。 ﹁パトラッシュにパンの皮をやってくれませんか? パトラッシュは年寄りです。それに、昨日の朝から何も食べてないんです﹂ おどおどとネロは言いました。 その家のおかみさんは、﹁この時期はライ麦や小麦もなかなか高くてねえ﹂、と何かはっきりしないことをつぶやきながら、急いで扉とびらを閉めました。 少年と犬は、再び弱々しく歩きはじめました。二人は、もうこれ以上何も食べ物を求めたりはしませんでした。 さんざん苦労しながらゆっくりと歩き続け、二人はアントワープに到着しました。鐘が十時の時を告げていました。 ﹁ぼくが何か持ってたら、それを売って、パトラッシュのためにパンを買ってやれるのに﹂と、ネロは思いました。しかし、ネロはリネンのシャツとサージの服を着て、木きぐ靴つを履はいている以外、何も持っていませんでした。 パトラッシュはそうしたネロの気持ちを理解しました。そして、自分のために悩んだり心配したりしないで欲しいと願うかのように、鼻を少年の手にすり寄せました。 絵のコンクールの優勝者は、正午に発表されることになっていました。ネロは苦心して描いた大事な絵を提出した公会堂に向かって歩きました。 階段や入口の広間に大勢の若者がいました。みんなネロと同じくらいか、少し年をとっていました。皆、両親や親戚や友だちと一緒でした。 パトラッシュを近くに引き寄せて彼らの中に入っていったとき、ネロは不安でどきどきしました。町の大きな鐘が、騒々しく正午を告げました。内側のホールのドアが開けられました。熱気に溢あふれかえっている若者たちの群れが、一斉にホールの中に駆け込みました。選ばれた絵は、他の絵よりも一段と高い、木の壇だんの上に置かれることになっていました。 ネロは、目の前に霧がかかったようにぼんやりとしました。頭はぐらぐらし、足はがたがたとふるえて、じっと立っていられないくらいでした。 視力が回復したとき、ネロは高くかかげられた絵を見ました。それは、ネロのものではありませんでした! ゆっくりした、朗々と響く声は、優勝者はアントワープ市で生まれた、波はと止ば場ぬ主しの息子、スティーブン・キースリンガーである、と宣言していました。 気が付くと、ネロは外の石いし畳だたみの上に倒れていました。そばにパトラッシュがいて、考えつくあらゆる方法でネロの息をふきかえさせようと、懸命になっていたところでした。遠くでアントワープの青年男女の群れは、成功した友だちの回りでわあわあと叫んでいます。そして、歓喜の声をあげながら、波は止と場ばの彼の家まで送っていきました。 ネロは、よろめきながら立ち上がり、パトラッシュを抱きました。 ﹁ねえ、パトラッシュ、何もかももうおしまいだ。もうおしまいなんだよ﹂ ネロは、つぶやきました。 ネロは、何も食べていなくて体は弱っていましたが、できるだけ元気を出して、村に引き返しました。パトラッシュは、飢えと悲しみで頭を垂れ、年取った手足がふらつくのを感じながら、ネロのそばをとぼとぼと歩いていました。 雪がはげしく降っていました。北から激しい嵐がやってきました。平野は、死んだようにひどく冷え切っていました。通いなれた道なのに、とても時間がかかりました。そして、村に帰りついたときには、四時を告げる鐘の音が鳴っていました。突然、パトラッシュは雪の中にある、何かのにおいに気がついて立ち止まりました。そして、しきりに雪をかきわけて、クンクン鳴いたかと思うと、小さな茶色の革袋を口にくわえました。パトラッシュは、暗闇の中でネロにそれを差し出しました。二人がいたところには、小さなキリストの像があって、十字架の下でランプが鈍く燃えていました。少年は、機械的に革袋を光の方に向けました。革袋には、コゼツのだんなの名前が書いてあって、中には、二千フランもの紙幣が入っていました。 これを眺ながめ、少年のぼうっとしていた頭は、少しはっきりしました。ネロは、革袋をシャツにもぐりこませてパトラッシュをやさしくなでると、前にどんどん歩き始めました。パトラッシュは、物問いたげにネロの顔を見上げました。 ネロは、風車小屋に向かってまっすぐ進み、ドアのところに行って、扉とびらをノックしました。粉屋の妻は、泣きながら戸を開けました、彼女のスカートの近くをアロアがしがみついていました。 ﹁まあ、かわいそうに。あなただったの?﹂ 彼女は泣きながら、優しく言いました。 ﹁主人が帰ってきてあなたを見つける前に、帰ってちょうだいね。わたしたちは、今夜、とても大変なの。主人は今、外で家に帰る途中でなくした財布を探しているのよ。でも、こんなに雪が降っていては、見つけることなんて、とてもできないでしょうね。そうすると、もう私たち、お終しまいなの。あなたにあんなひどいことした罰が当たったのかも知れないわ﹂ ネロは、財布を彼女の手に渡して、パトラッシュを家の中に呼び寄せました。 ﹁今晩お金を見つけたのは、パトラッシュです﹂と、ネロは素早く言いました。 ﹁そうコゼツのだんなにおっしゃってください。そうすれば、コゼツのだんなも年とった犬に、住みかと食べ物を与えてやらないとはおっしゃらないと思います。パトラッシュがぼくを追いかけてこないようにしてください。どうかパトラッシュにやさしくしてやってください。お願いします﹂ どちらの女性もパトラッシュも、ネロが何を言っているのか見当がつかないうちに、ネロはかがみこんでパトラッシュにキスをすると、急いで扉とびらを閉め、急速に暗くなっていく夜の暗がりの中に消えていきました。 女と子供は喜びと恐れとで、言葉も出ない状態でした。 パトラッシュは、かんぬきをかけたがんじょうな樫かしの木の扉とびらに向かって吠ほえたてたりして、苦しみと怒りの気持ちをぶつけましたが、何にもなりませんでした。アロアたちは、扉とびらの横木を取る勇気がなくて、パトラッシュを外に出させませんでした。 二人は、なんとかパトラッシュをなだめようと考えられる限りのことをしました。パトラッシュに、甘いケーキと汁しる気けの多い肉を持ってきました。とっておきのものを出して、パトラッシュの気を引こうとしました。暖炉のそばの暖かさで、パトラッシュをいざなおうとしました。けれども、効果はありませんでした。パトラッシュは、慰められることも、横木のある入口から動くことも拒こばみました。 粉屋が反対の入口から帰ってきました。もう六時でした。疲れ果ててぼろぼろになった様子で、妻の前に来ました。 ﹁もう、出てこない。ランタンを持って、隅々まで探したが、消えてしまった。アロアの分も全部!﹂ 青ざめた顔つきで、声を震わせながらそう言いました。 彼の妻は、お金を彼の手に渡し、どのようないきさつでそのお金が彼女のもとに戻ってきたか、話しました。この気の強い男は、体を震わせてソファーに座り、大いに恥じて、まるでおびえたように顔を覆いました。 ﹁おれは、あの若者に酷ひどいことをした。こんなことをしてもらう値打ちがない﹂と、ついにつぶやきました。 アロアは勇気を振りしぼって父親の近くに忍び寄り、金髪の巻き毛をすり寄せました。 ﹁お父さん、ネロに、また来てもらってもいい? 前みたいに。明日にでも来てもらってもいい?﹂と、アロアはささやきました。 粉屋は、アロアをしっかりと抱きしめました。彼のたくましい、日焼けした顔はとても青白く、口は震えていました。 ﹁もちろん、いいとも﹂と、子供に答えました。 ﹁クリスマスの日にはネロに来てもらおう。いや、いつでも来たいときに来てもらおう。神さまが助けてくださったんだ。おれは、ネロに償つぐないをする。この埋め合わせはきっとする﹂ アロアは、感謝と喜びの気持ちを示すために父親にキスしました。そして、父親のひざの上からすべり落ち、扉とびらが開かないかどうかと、扉とびらのそばで見張っていたパトラッシュのところに向って走っていきました。 ﹁それから、今晩は、パトラッシュをもてなしてもいい?﹂ アロアは子どもっぽくやたらにはしゃぎながら叫びました。 父親は、大きくうなずきました。 ﹁そうだね、そうだね。できるだけのことをしてやろう﹂ というのは、この頑がん固こな老人は、心しん底そこ感動していたからです。 その晩は、クリスマス・イブでした。粉屋の家には、樫かしの木の薪まきや炭がどっさりとありました。クリームやはち蜜、パンや肉もいっぱいありました。天井の柱にはときわ木の輪がつるされていて、キリストの像とカッコウ時計が、ヒイラギのしげみの間からのぞいていました。それから、アロアのために小さな紙でできたちょうちんもつるされていました。そして、いろいろな種類のおもちゃや、明るい絵がかかれた紙につつまれたお菓子がありました。至る所、光と暖かさと豊かさが満ちあふれていました。アロアは、何とかパトラッシュを大事なお客さまとして、おもてなしをしたくてしょうがありませんでした。 けれども、パトラッシュは暖かいところにやってこようともせず、一緒に楽しもうともしませんでした。 パトラッシュは、とても飢えて凍えていましたが、ネロがいないところでは、ぬくぬくとしたり、おいしいものを食べたりする気にはなりませんでした。すべての誘惑を退け、パトラッシュは扉とびらにぴったりとくっついて、逃げ出す機会をずっと待っていました。 ﹁少年を探しているのだな。いい犬だ! おれは、明日朝一番に少年を迎えにいくよ﹂と、コゼツのだんなは言いました。 というのは、パトラッシュ以外、ネロが小屋を立ち退いたことを知らなかったのです。そして、パトラッシュ以外、誰一人、ネロがひとりぼっちでみじめに飢え死にしようとしていたことを知らなかったのでした。 粉屋の台所は、とても暖かでした。大きな薪まきがぱちぱちと音を立てて暖炉の中で燃えていました。近所の人たちはあいさつをしに来て、それぞれ一杯のワインと一切れのまるまる太ったガチョウの焼き肉を振る舞われました。アロアは大喜びで、遊び友達が明日には戻ってくると信じて、金髪の髪を振り乱してはしゃいでいました。コゼツのだんなは、胸を詰まらせ、涙ぐみながらアロアに微ほほ笑えみかけました。そして、彼もアロアの大好きな友達と、どうやって仲良くなろうかと話しました。アロアのお母さんは、穏やかな、満ち足りた表情で、糸巻き車の前に座っていました。時計の中のカッコウは、かん高い声で時間を告げました。こうした中に囲まれて、パトラッシュは、ここにクリスマスのお客様としてとどまるようにと、さかんにすすめられました。しかし、どんなに和やかな雰囲気につつまれていても、どんなにごちそうがたっぷりあっても、ネロがいないところにパトラッシュを誘いざなうことはできませんでした。 夕食がテーブルの上で湯気を立て、話し声がひときわ大きくなり、おさな子イエスの格好をした小さい子どもが、アロアにとっておきのプレゼントを持ってきたその時でした。パトラッシュは、ずっと機会をうかがっていましたが、新しいお客さんが不注意にもドアの掛け金をはずしてとびらを開けたのを見て、さっと外に飛び出しました。そして、疲れ果てて弱りきった体が耐えられる限り、すばやく激しく雪が降っている夜の闇の中を、ひた走りに走っていきました。 パトラッシュには、ただひとつの思いしかありませんでした。それは、﹁ネロについて行く﹂という思いでした。 もし人間の友だちだったら、おいしいごちそうや陽気な暖かさや心地よい居眠りのために、アロアの家にとどまったかも知れません。でも、パトラッシュの友情は、そんなものではありませんでした。パトラッシュは、昔のことを覚えていました。ある老人と小さな子供が、道端でのたれ死にしかけていた自分を見つけてくれた時のことを。 一晩中、雪が降り続いていました。もう夜中の十時近くでした。 少年の足跡のこん跡は、ほとんどかき消されていました。パトラッシュは、においを発見するのに手間取りました。とうとうにおいを見つけた、と思ったら、すぐに見失ってしまいました。見失っては見つけ、見失っては見つけ、ということを百回以上も繰り返したのです。 その晩は、吹雪でした。十字路のそばのランプの明かりは、風で吹き消されてしまいました。道は、まるで氷の板のようでした。見通しのきかない暗闇が、家々の気配を隠しました。外には、生き物はいませんでした。牛はみんな牛小屋に入れられ、家々では、男も女もごちそうを楽しんでいました。パトラッシュだけが容よう赦しゃのない寒さの中にいました。年寄りで、飢えていて、体中痛みだらけでした。でも、ものすごい愛の強さと忍耐強さがパトラッシュの追跡を支えました。 ネロの足跡のこん跡は、新しく積もった雪の下にあって、かすかであいまいでしたが、それは、通い慣れたアントワープへの道に向かっていました。パトラッシュがアントワープの町境を超え、町の狭い、曲がりくねった、暗い通りへと追跡を続けたのは、もう真夜中過ぎでした。町はまったく闇に閉ざされていました。光といえば、ところどころ、家のよろい戸のすき間から漏もれてくる赤みがかった光か、酔っぱらって歌を歌いながら家路を急ぐ人たちが手にもつランタンの光しかありませんでした。通りは、氷が張って真っ白でした。高い壁と屋根は、そのそばに黒々とそびえていました。吹きすさぶ暴風が通りを吹き抜け、店の看板をキーキーと揺さぶるか、高い鋼鉄製のランプを揺らす音以外は、ほとんど音もしませんでした。 とてもたくさんの通行人が雪の上を通った後でしたし、たくさんの小道が複雑に入り組んで交差していましたので、追跡しているネロの足跡を見失わないようにするのは、大変骨が折れました。寒さが骨身に沁しみました。ギザギザの氷が彼の足を切りました。そして、ネズミが身をかじるように飢えがパトラッシュを責めさいなみました。けれども、パトラッシュは追跡をやめようとはしませんでした。パトラッシュは、今ややせ細った、ぶるぶるふるえている、あわれな犬に過ぎませんでしたが、決して追跡をやめようとはしませんでした。そして、愛するネロの足跡を辛しん抱ぼう強く追いかけ、とうとう大きい大聖堂の石段のところまでやってきました。 ﹁ネロは、大好きだったあれのところにいったんだ﹂と、パトラッシュは思いました。パトラッシュには芸術は理解できませんでしたが、ネロの芸術に対する情熱はとても尊いものだと感じていました。ネロの情熱に対して、パトラッシュは悲しみと哀れみでいっぱいでした。 大聖堂の入口は、真夜中のミサの後も、閉められていませんでした。 門番が不注意で、扉とびらのうちの一つの鍵をかけることを忘れていたのです。おそらく、家に帰ってごちそうを食べるか、早く眠るかしようとしてあせったか、ねぼけるかして、鍵を閉めたかどうか、ちゃんと確認しなかったのでしょう。こんな手落ちがあったために、パトラッシュが探していた足跡は、建物の中へと続いていました。そして、黒みがかった石の床の上に、雪の白いしるしを残していました。そのかすかな白いしるしは、床に落ちるや否や凍ってしまいましたが、パトラッシュはしんとしずまり返った丸天井の広大な空間の中を、そのしるしをたどっていきました。そして、まっすぐ教会の内陣の入り口まで来ると、石の床の上に倒れているネロを発見しました。 パトラッシュは忍び寄り、少年の顔を触りました。 ﹁ぼくがあなたに忠実でなく、あなたを見捨てるとでも思ったのですか? ぼくが犬だからって?﹂ パトラッシュは人間の言葉は話せませんでしたが、黙ってさわることでこうネロに語りかけたのです。 少年は低く叫びながら起きあがり、パトラッシュを抱きしめました。 ﹁一緒に死のう﹂と、ネロはつぶやきました。 ﹁みんな、ぼくたちに用はないんだ。ぼくたち、二人きりなんだよ﹂ その答えに、パトラッシュはもっとネロのそばに近づき、頭を若い少年の胸の上に乗せました。パトラッシュの茶色の、悲しい目に、大粒の涙が浮かびました。自分自身のためではありませんでした。なぜなら、パトラッシュは幸せだったのですから。 彼らは刺し通すような寒さの中で、一緒にぴったり寄り添って横たわっていました。北の海からフランダース地方の堤防を吹き抜けてきた激しい風は、まるで氷の波のようでした。それは触れた生き物すべてを凍らせました。彼らがいた巨大な石造りの丸天井の建物の内部は、雪に覆おおわれた外の平野より、もっとひどく冷たかったのです。時々、コウモリが闇で動きました。時々、かすかな光が、彫像が列になっているところに差し込みました。ルーベンスの絵の下で彼らは一緒に静かに横たわり、寒さで感覚がまったく麻ま痺ひして、ほとんど夢見心地になりました。 一緒になって、彼らは昔の楽しかった日のことを夢見ました。夏の草原の中、花が咲いている草の間をぬって追いかけっこをしたり、晴れた日に高いガマの木陰の水際に座って、船が海の方へ行くのを見た日のことを。 突然、暗闇の中から、大きな白い光が通路いっぱいに流れ出しました。雲の間から、月が輝きました。雪は、やみました。外の雪から反射される光は、夜明けの光のように明るく輝きました。光はアーチを伝って二つの絵の上を照らしました。ネロはその絵をおおっていた覆い布をさっと取りました。その瞬間、﹁キリスト昇しょ架うか﹂と﹁キリスト降こう架か﹂が見えました。 ネロは立ち上がって、腕を絵の方に伸ばしました。熱烈な歓喜の涙が、彼の血の気のない顔に輝きました。 ﹁ぼくは、とうとう見ることができた!﹂ ネロは声を出して泣きました。 ﹁神さま、もう十分です!﹂ 足で支え切れなくなってひざまづきましたが、ネロはなおあこがれていたキリスト像を見上げ続けていました。ほんのしばらくの間、まるで天国の玉座から流れ出してきたかのように、明るく、甘く、強い光が、あんなにも長い間ネロが見ることができなかった神聖な光景を照らしだしました。突然、光は消えてしまいました。再び暗闇がキリストの顔を覆おおいました。 再び少年は両腕で犬の体をだきしめました。 ﹁ぼくたち、もうじきイエスさまに会えるんだよ、あそこで﹂と、ネロはつぶやきました。 ﹁イエスさまは、ぼくたちを離ればなれになさりはしない、と思うんだ﹂ 翌朝、教会の大聖堂の聖壇のそばで、アントワープの人々は二人を見つけました。彼らは、どちらも死んでいました。夜の寒さは、若い命も、年老いた命も等しく、凍え死なせたのでした。クリスマスの朝が明けて、司祭たちが教会にやってきた時、ネロとパトラッシュが一緒に石の上に横たわっているのを発見したのです。覆おおいがルーベンスのすばらしい名画からはずされ、二人の頭上では、朝日の新鮮な光が、いばらの冠をかぶったキリストの頭を照らしていました。 日が高くなると、年老いた、険けわしい顔つきの男が、女のように泣きながらやってきました。 ﹁おれは、この子にひどくつらくあたってきた﹂ 彼はつぶやきました。 ﹁やっと今、償つぐないをするはずだったのに。そうだ、財産の半分をやって、将来は、おれの息子になっていたはずだったのに﹂ さらに日が高くなると、世界的に有名なある画家もやってきました。その画家は、物惜しみをしない、度どり量ょうの大きな人物でした。 ﹁私は、きのう当然優勝すべきだったはずの少年を探しているところだ。その子は、まれに見る将来有望な天才なのだ﹂と、みんなに言いました。 ﹁たそがれどきに倒れた木に腰かけている、年をとった木こり。その子の絵は、ただそれを描いただけのものだった。けれども、その絵には将来の偉大さが隠されていた。何とかその子を見つけ出して、連れて帰って芸術を仕込んでやりたいのだ﹂ それから金髪の巻き毛の女の子が、父親の腕にしがみつきながらはげしくすすり泣き、﹁ネロ、きてちょうだい!﹂と叫びました。 ﹁もう準備は出来ているのよ。おさな子イエスの格好をした子どもが手にクリスマスのプレゼントをいっぱい抱えているし、笛吹きのおじいさんが私たちのために笛を吹いてくれることになっているのよ。お母さんだってクリスマスの週の間中、いいえ、王様のお祭りの間までだって、私たちと一緒に暖炉のそばでクルミを焼きましょう、って言っているのよ。パトラッシュもとっても喜ぶわよ! ああ、ネロ。起きて、来てちょうだい!﹂ しかし、若く青白い顔は、光輝くルーベンスの名画に向けられ、口もとに笑みを浮かべながら、彼ら皆に答えました。 ﹁もう手遅れです﹂ 甘く朗々とした鐘の音が、凍てつくような寒さの中で鳴り響きました。そして、太陽は雪の野原の上で輝いていました。にぎやかに楽しげに人々が通りに集まってきました。でも、もうネロとパトラッシュが人々に施しを求めることはありませんでした。 彼らが必要としたものすべてを、アントワープの町は求められないままに与えました。彼らにとって死は、なまじ生き長らえるよりも慈悲深かったのでした。死は、パトラッシュから忠実な愛を、ネロから純粋無垢な信頼の心を奪い去りました。この世で愛は報いられず、信じる心は実を結びませんでした。 生涯ずっと、彼らは一緒でした。そして、死んでも別れませんでした。というのは、少年の腕が犬をしっかりと抱きしめていて、手荒に扱わなければ引き離すことができないことが分かった時、小さな村の人々は後悔し、恥じ入って、神様の格別のお慈悲を願い、彼らのために一つのお墓を作ったのです。一緒に安らかに眠ることができるように。いつまでも!