1 八十吉
僕は維ウイ也ン納ナの教室を引上げ、笈きふを負うて二たび目差すバヴアリアの首府民ミユ顕ンヘンに行つた。そこで何や彼や未だ苦労の多かつたときに、故郷の山形県金かな瓶かめ村むらで僕の父が歿ぼつした。真夏の暑い日ざかりに畑はたけの雑草を取つてゐて、それから発ほつ熱ねつしてつひに歿した。それは大正十二年七月すゑで、日本の関東に大おほ地震のおこる約一ヶ月ばかり前のことである。
僕は父の歿したことを知つてひどく寂しくおもつた。そして昼のうちも床のうへに仰向に寝たりすると、僕の少年のころの父の想おも出ひでが一種の哀調を帯びて幾つも意識のうへに浮上つてくるのを常とした。或る時はそれを書きとどめておきたいなどと思つたこともあつて、ここに記入する﹃八やそ十き吉ち﹄の話も父に関するその想出の一つである。かういふ想出は、例へば念ねん珠じゆの珠たまの一つ一つのやうにはならぬものであらうか。
八十吉は父の﹃お師匠様﹄の孫で、僕よりも一つ年上の童わらべであつたが、八十吉が僕のところに遊びに来ると父はひどく八十吉を大切にしたものである。読よみ書かきがよく出来て、遊びでは根ねつ木きを能よく打つた。その八十吉は明治廿五年旧暦六月二十六日の午ひるすぎに、村の西方をながれてゐる川の深しん淵えんで溺でき死しした。
そのときのことを僕はいまだに想おも浮ひうかべることが出来る。その日は村人の謂いふ﹃酢す川か落おち﹄の日で、水みづ嵩かさが大分ふえてゐた。川上の方から瀬をなしてながれて来る水が一たび岩石と粘土からなる地層に衝つき当つてそこに一つの淵ふちをなしてゐたのを﹃葦よし谷や地ぢ﹄と村人が称となへて、それは幾いく代だいも幾代も前からの呼名になつてゐた。目をつぶつておもふと、日本の東北の山村であつても、徳川の世を超え、豊臣、織田、足利から遠く鎌倉の世までも溯さかのぼることが出来るであらう。﹃葦谷地﹄といふから、そのあたり一面に蘆ろて荻きの類が繁しげつてゐて、そこをいろいろの獣類が恣ほしいままに子を連れたりなんかして歩いてゐる有様をも想像することが出来た。明治廿五年ごろには山川の鋭い水の為めにその葦原が侵しん蝕しよくされて、もとの面影がなくなつてゐたのであらうが、それでもその片隅の方には高い葦が未だに繁つてゐて、そこに葦よし切きりがかしましく啼ないてゐるこゑが今僕の心に蘇よみがへつて来ることも出来た。その広々とした淵はいつも黝くろずんだ青い水を湛たたへて幾いく何ばく深いか分からぬやうな面おも持もちをして居つた。
瞳ひとみを定めてよく見るとその奥の方にはゆつくりまはる渦があつて、そのうへを不断の白い水みな泡わが流れてゐる。その渦の奥の奥が竜宮まで届いて居るといつて童どもの話し合ふのは、彼等の親たちからさう聞かされてゐるためであつて、それであるから縦たとひ大人であつてもそこから余程川かは下しもの橋を渡るときに、信心ふかい者はいつもこの淵に向つて掌てのひらを合せたものである。その淵も瀬に移るところは浅くなつてその底は透き徹とほるやうな砂であるから、水みづ遊あそびする童どう幼えうは白い小石などを投げ入れて水中で目を明いてそれの拾ひろ競ひくらをしたりするのであつた。
旧暦の六月廿六日は﹃酢す川か落おち﹄の日であつたけれども、もう午過ぎであるから多くの人は散じてしまつて、恰あたかも祭礼のあとの様な静かさが川の一帯を領して居た。弱くて小さい魚は死しが骸いとなつて川の底に沈み、なかには浮いて流れてゐるのもある。割合に身が大きく命を取留めた魚は川下に下れる限り下つたのもあり、あるものは真水の出いづるところにかたまつて喘あへいでゐるのもある。さういふ午過ぎに十四ぐらゐを頭かしらに十又は九つ八つぐらゐまでの童が淵の隅の割合浅いところに水遊をしてゐた。水遊と云つてもふだんの日の水遊とは違つて、一方には底に潜つて行つて死んだ小魚を拾ふのもその楽みの一つなのである。間まが好よくば弱つて喘いでゐる大きな魚をつかまへることが出来たりするので、童らは何い時つまでも陸に上らうとはしない。
泳げるものは最も気味の悪い深いところまで泳いで行つて、渦のところを二まはり三まはりぐらゐ廻つて来るのが自慢の一番と謂いつてよかつた。すると淵の向う岸に八十吉がたつたひとり浅瀬のところで何かしてゐるのが見えた。向う岸と云ふと童らの居るところからは平らな光つてゐる水面を中に置いて可なりの距へだたりがある。八十吉は唯一人で小魚でも見つけて居るのかも知れんと思つてから五分間位も経つた頃であらうか。岸から少し淵に入つた鏡のやうな水面に人の両方の手が五寸ぐらゐひよいと出たのが見えた。童らの驚く間もなく、人の両方の手が二たび水面から五寸ばかり出た。ほんの刹せつ那なである。
そのとき十四になる童が水中に飛込んで泳ぎ出した。稍ややしばらく泳いでゐたが人の両手が水面から出たあたりに行ゆき著つくと、頭の方を下にして水中ふかく潜くぐつて行つた。その童の両の足の活溌な運動も見えなくなつて、いよいよ水中ふかく潜つて行つたことを観念すると、こんどはみんな息を屏つめて、小さい心臓の鼓動をせはしくしてそこの水面を見てゐた。水面は全く水の動揺を収めてこの事件を毫すこしも暗あん指じしてゐる様な気けは色ひがない。やや暫しばらくすると、童はつひに空むなしく水面に浮上つて来て、しきりに手ての掌ひらで顔を撫なでた。その時である、はじめて事の軽々しくないといふ一種の不安が僕らの心を圧して来て、そこに居たたまらないやうな気がした。童は二たび身を逆さかしまにして水中に潜つて行つた。けれども暫くののちまた手を空しうして水面に浮上つたとき、水面にあつて、人を呼べとこゑを立てた。それから童らはひた走りに走つて田畑に働いてゐる大人を呼びに行つた。
村の人々が数十人集つて、かはるがはる淵の中に飛込んだのは、人の両手が見えてから三十分ぐらゐも経つてゐたであらうか。大人が息こんで水中に潜るのであるが、八十吉はなかなか見つからない。入りかはり立かはり水中にもぐつて、また三十分間ぐらゐも経つた頃であつたらうか。一人の若者がたうとう八十吉を肩にかついで水面に浮上つて来た。若者は何か鋭く叫んで、その肩には生白い人の体がぶらさがつて、首の方がだらりとして腕などは日にからびた葱ねぎの白いところを見るやうな、さういふ光景が電光のごとくに僕に見えた。
﹃お関の婿だ。あれあ﹄
﹃お関の婿あ八十吉を見つけた﹄
かういふこゑが聞こえた。お関は村はづれに小さい店を開いてそこで揚物だの蒟こん蒻にやく煮などを売つてゐた。八十吉を引上げたお関の婿といふのはそこへ他村から入婿に来た若者のことであつた。この若者は其その数年後隣村の火事に消防に行つて身を挺ぬきんじて働いたとき倉の鉢巻が落ちてつひに死んだ。八十吉が水の中からやうやく上つてから暫くは、人間の重苦しい鋭い一種の叫びごゑがそのあたり一帯にきこえて居たが、間もなく元の静寂に帰つた。
蔵ざわ王うさ山んの麓ふもとに湧わき出でる硫黄泉の湯ゆじ尻りが、一つの大きい滝瀬をなして流れてゐる。それが西に向つて里へ里へと流れ下つて、金瓶村の東ひが境しざかひに出るとそこから急に折れて北へ向つて流れる。此この川の川かは原らの石はいつも白い様な色合を帯びてゐて水みづ苔ごけ一つ生えない。清く澄んだ流であるが味が酸いので魚も住まず虫のたぐひも卵一つ生むことをしない。又この水を田に引くと稲いな作さくに害があるので、百姓にとつて此の川は一つの毒川だと謂いつてよい。これを酢すか川はと何い時つの頃からか名づけて来た。それから、金瓶村の西方を流れる川は米よね沢ざは境さかひの分水嶺から出てくるもので、山形の平野に出てから遂に最上川に入るのであるが、これは淡水であつて多くの魚類を住まはせてゐる。然しかるに昔、雨降の後に洪おほ水みづが出た時、村の東境まで西へ向つて流れて来た酢川が、北へ折れる処で北へ折れずにそこを突破したから、村の西方を北へ流れてゐる淡水の川に、酢川の水が混つてしまつた。いはば西洋文字のHの様な恰かつ好かうになつたのである。すると其の川に住んでゐる魚族が一度にむらがり死ぬといふ現象が起つた。さういふ害のある水が淡水の川に混つては困るから、村では破れたところに堤防を築いてその混入を防いだのである。然るにいつの頃からであらうか。時代はずつとずつと溯さかのぼるであらう。深夜人無きに乗じてその堤防を破つて、故意に酸い水を淡水の川に灑そそいだものがあつた。その酸い水が混じると、魚の族は真黒になるほど群がつて川下へ川下へとくだる。それを梁やなで取れるだけ取つて、暁にならぬうちに家に帰つて知らんふりしてゐるのである。これを﹃酢す川か落おち﹄と唱へる。
暁に先立つて草くさ刈かりに行く農夫の一人二人がそれを見つけて、村役場へ届ける。村役場では人にん足そくを出して堤防の修理をする。然るに一方では村の老若男女童男童女が我先にと川へ出かけて行つて、弱り切つてゐる魚を捕まへるので、つまり余よと得くにありつくのである。この﹃酢川落ち﹄はさうたびたびは無い。また村人も一種の楽みとおもふので、役場がそれを大目に見て、罪人を発見しようと努めるやうなことはない。﹃酢す川かおとし﹄の行為は法に触れるべきものであるが、﹃酢川おち﹄の現象は村民にとつては無くてはならぬ、謂いはば一つの年中行事の如き観を呈するに至つた。それがずつとずつと古い代から続いて来たのである。泳およぎを知らない、常には川遊などをしない八十吉が、この﹃酢川おち﹄の日に、ただのひとりで川に遊びに来てゐたのである。
八十吉は終つひに蘇らなかつたことを下男が来て話して呉れた。八十吉のこの事があつた時父は他村に用足しに行つて、日暮時に入つてやうやく帰つて来た。父の顔を見るや否や、あわてて僕は父の側に行き、八十吉の溺おぼれる有様、それから八十吉を水から揚げてから、藁わら火びをどんどん焚たいて、身の皮のあぶれる程八十吉を温めたこと、八十吉の肛かう門もんから煙きせ管るを入れて煙たば草このけむりを骨折つて吹き込んだこと、さういふことを息をはずませながら話をした。
﹃八十吉の尻けつの穴さ煙管が五本も六本もずぼずぼ這は入ひつたどつす。ほして、煙草の煙けむが口からもうもう出るまで吹いたどつす﹄
かういふ僕の話を聞いてゐた父は、どうしたのか一ことも云はずにいきなりと僕をにらめつけるやうな顔をして、僕は予期しない父の此の行為に驚きや愕うがくするいとまもなく、父はあたふたと著きも物のを著換へて出て行つてしまつた。祖母も母もみんな八十吉の家につめ切つてゐた時である。
僕は父の歿した時、民ミユ顕ンヘンの仮かぐ寓うにあつてこのことを想おも出ひだして、その時の父の顔容を出来るだけおもひ浮べて見ようと努めたことがあつた。帰国以来僕は心に創き痍ずを得て、いまだ父の墓参をも果はたさずにゐる。家兄の書信に拠よると八十吉は十二で死んでゐるから僕の十一のときであつた。八十吉は金瓶村宝泉寺に葬られてあつて、円阿香彩童子といふ戒名をもつてゐる。︵大正十四年九月記︶
2 痰
父は長い間、痰たんを煩つてゐた。小男で痩やせた父が咳せき込こんで来ると、少し前かがみになつて、何だかお腹なかの皮でも捩よぢれるやうに咳込むのがいかにも苦しさうであつた。ところが、その苦しさうな咳が一とほり済むと、イツヘ、イツヘ、イツヘ、イツヘといふ咳が幾つか続いて、それから、イツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ咳になる。その工合がどうもをかしいので、幼童の僕がその真ま似ねをしたものであつた。仏壇の勤めなどがまだ終らぬうちに父が咳込んで来てさういふ異様な咳になると、勝手元で働く母の傍にくつついてゐながら僕がイツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ真似をして、母から睨にらまれたりするけれども、母もたうとう笑つてしまふのであつた。
年に一度、多くは冬を利用して人形芝居が村にかかつた。夕飯を終へてから、翁をう媼あうも、婦をんなも孫も、みんな、深く積つた雪がかんかんと氷る道を踏んでその人形芝居を見に行つた。時にはひどい吹雪の夜のことなどもあつた。その人形芝居には、美しい娘をさらつてゐる大猿を一人の侍さむらひが来て退治したり、松前屋五ご郎ろ兵べ衛ゑが折せつ檻かんされて血を吐いたり、若い女房がひとりの伴を連れて峠を上つて行くと、そこに山さん賊ぞくが出て来たりした。杉の木立の向うは暗くら闇やみで星が輝いてゐるやうにも拵こしらへてあつた。ある晩に父は僕を背中に負つてその人形芝居を見に行つたときにも、父はひどく咳込んでいかにも困つた様子であつたが、僕がまたそれの真似して、それでも穉をさなごころに悪いことをしたやうな気持でゐたことをおぼえてゐる。
父の痰たん持もちは僕の生れる前からであつた。祖父が隠居してから楽みに飼つた鯉こひが、水が好いので非常に殖え、大きな奴がいつも沢山泳いでゐた。雪がもう二三度降つてからのことであつたさうである。大雪にならぬ前に、その鯉池の浚さらひをする方がいいといふので、寒さの厳しい日に父は若者を督促して働いたのが本もとで、たうとう痰になつてしまつたといふことであつた。痰になつてからも父はやはり働いてゐた。僕の生れたのは父が痰になつてから後のことである。僕は小さい時は腺せん病びや質うしつでひよろひよろしてゐた。父が痰でなやんでゐたときの子だからだなぞと祖母の云ふのを聞いたことがある。
父は痰持であつたから、水みづ飴あめだの生しや薑うがの砂さた糖うづ漬けなどを買つてしまつて置いた。水飴は隣の宝泉寺からよく貰もらつて来たやうである。宝泉寺では村人が餅もちを搗つくたびに持つて行くので、餅の食べきれないときにはそれを水飴に作つた。いつか宝泉寺では、琥こは珀く色の透とほる水飴が甕かめに一ぱいあるのを持つて来て分けて呉れたことを僕は覚えてゐる。父の居ないときに時折兄と僕とがその水飴を盗んで嘗なめた。
或る時僕は生薑の砂糖漬をも盗んで来たことがあつた。そして砂糖だけを嘗めて生薑を外に棄すてた。外には雪が一めんに降ふり積つて居る。生薑が雪の上におちると三四の雀すずめが勢よく飛んで来てそれを争つたことをおぼえてゐる。痰と生薑とに何かの因いん縁ねんがあるやうにも思へたがそれが穉をさない僕には分からない。それから大だい分ぶ経たつて僕は東京にのぼるやうになり、好んで浪なに花はぶ節しを聞いた。浪花節かたりは、﹃せめて生薑の一へげも﹄といふことをうたふ。その度ごとに僕は父の痰のことを追憶した。医学を学んでから僕は漢かん方ぱうまたは民間医いは方うに興味をもつたこともある。さて生薑のことを注意するに、﹃思しばの云いはく。八九月に多く食へば、春にいたりて眼を病む。寿いのちを損じ筋力を減らす。妊はら婦みをんなこれを食へばその子六むつ指ゆびならしむ﹄なんぞと説明したのもあつて僕を驚かしたが、多くの漢医方には、生薑に開かい痰たんの作用あることが説いてある。痰たん火くわの条くだりに薑汁を用ゐることもあり、治二寒痰咳嗽一といふ句もあり、導だう痰たん丸ぐわん、導痰湯たうなどの処方もあるので、父が砂糖生薑をしまつてゐたことが、何だか一種の哀あはれふかいやうな気持で僕の心に浮んでくることもあつたのである。
父は三さん山ざんや蔵ざわ王うさ山んあたりを信心して一生四しそ足くを食はずにしまつた。僕の寝小便がなかなか直らぬので、牛ぎうが好い、馬ばが好い、犬いぬが好いなどと教へて呉れるものがあつたが、父はわざわざ町まで行つて、朝鮮人にん蔘じん二三本買つて来てくれたことをおぼえて居る。それであるから、兄が十五になつて、若者仲間に入つてから間もなく、大雪が降つてそれの固まつた或る晩に、鮭さけの頭に爆発する為しか掛けをして、狐きつね六疋ぴきを殺した。六疋の狐は銘々行くところに行つて死んでゐたさうである。垂れてゐる血を辿たどつて行くと其そ処こに狐が死んでゐるので、一つなどはそれでも、林の中の泉の傍まで行つてゐたさうである。兄達五六人の若者は夜業の藁わら為しご事とが済んでからそれを煮て食つた。兄は爆発為掛の旨うまく行つたことを得意に話しながら、どうも少し臭くて駄目だな。牛ぎうよりも旨くないな。こんなことを話した。それを次の日父が聞きつけて非常に怒り、何でも狐のことをひどく勿もつ体たい無ながつたことをおぼえてゐる。
父は痰を病んでから、いつのまにか何かの神に願ぐわんを掛けて好きなものを断つことを盟ちかつた。ただ、酒も飲まず煙たば草こも吸はぬ父は、つひに納なつ豆とうを食ふことを罷やめた。幾十年も納豆を食ふことを罷めて、もう年寄になつてから或る日納豆を食つたが、どうも痰に好くない。また痰がおこりさうだなどと云つたことがある。父はその時から命のをはるまで納豆を食はずにしまつただらうと僕はおもふ。父は食べものの精しや進うじんもした。併しかしさういふ普通の精進の魚ぎよ肉にくを食はぬほかに穀ごく断だち、塩しほ断だちなどもした。みんなが大根を味み噌そで煮たり、鮭の卵の汁などを拵こしらへて食べてゐるのに、父はただ飯に白砂糖をかけて食べることなどもあつた。併し僕には何のために父がそんな真似を為するかが分からなかつた。
3 新道
六歳ぐらゐになつた僕を背負つて、父は早はや坂さか新しん道だうを越えて上かみ山のやまへ向つて歩いた。雨あがりの道はよく固まつて、天がよく晴れても塵ちりの立ちのぼるやうなことはない。両側に密生した松林がしばらくの間続いてゐて寂しいやうである。人どほりの尠すくない朝のうちで、街道は曲折のなるべく無いやうについてゐるから、遙はるか向うから人の来るのが見えてその人に逢あふまでには大分かかる。それからその人が後の林の角に見えなくなるまでも大分かかる。さういふ街かい道だうを父はいい気持で歩いて行つた。時節は初夏の頃ではなかつたらうかと思はれる。さういふ記憶は朦もう朧ろうとしてゐるが、松まつ蝉ぜみでも鳴いてゐたやうな気持もする。
上かみ山のやまは温泉場で、松平藩主の居きよ城じやうのあつたところである。御ごい一つし新ん後はその城をこはして、今では月つき岡をか神社の鎮座になつてゐる。後年俳人の碧へき梧ごど桐うがここを旅して、﹃出で羽はで最もが上みの上かみ山のやまの夜寒かな﹄といふ句を残した。僕の村からこの広い新道を通つて上山まで小一里ある。そこまで村の人が大概買物などに行つた。
さういふ街道を父は独占したやうなつもりで街道の真まん中なかを歩いて行つた。然るに稍ややしばらくすると、僕のうしろの方で人じん力りき車しやの車輪の軌きしる音がした。さうしてヘエ、ヘエ、といふ懸かけ声ごゑがした。これは避よけろといふ合図に相違ないから、父は当然避けるだらうとおもつてゐると依然として避けない。その刹せつ那なにどしんといふ音がして人じん力りきの梶かぢ棒ぼうがいきなり僕の尻のところに突当つた。父は前にのめりさうになつた。
すると父は突とつ嗟さに振向きしなに人力車夫の項うなじのところをつかまへて、ぐいぐい横の方に引いたから人力車がくつがへりさうになつた。人力車夫は慌しく梶棒をおろさうとしたが父はなほ攻勢をゆるめない。人力車夫はつひに左方になつて倒れた。父は人力車夫の咽のどのあたり項のあたりを二三度こづいたが、それでも人力車夫は再び起き上つて父と争はうとした。そのとき乗つてゐた老翁が頻しきりにそれを止め父に詫わびをした。
父は威張つた恰かつ好かうで尻を高くはしより再び街道の真中を歩いた。その老翁を乗せて後から来た人力車は今度は僕らを避よけて追越して行つた。追越すときに車夫は何か口の中で云つてゐたが父はそれにはかまはなかつた。僕は事件のあつた時父の背中で声を立てて泣いたことをおぼえてゐる。
僕は明治四十二年に熱を病んで、赤十字病院の分病室にゐたときに、終日少年の頃の回想に耽ふけつたことがある。そしてなぜあの時、人力車夫が梶棒をあんなにひどく突当てたであらうと考へたことがある。この文章を書いてゐる現在の僕がやはりそのことを思ふのと同じであつた。
この街道の開通されるまでは、小山を幾つも越えて漸やうやく上かみ山のやまに行ゆき著つくのであつた。そこは如い何かにも寂しい山道で、夜よあ遊そびに上山まで行く若者が時々道が分からなくなつて終夜そのあたりをさまよふといふやうなことがあつた。上山から魚を買つて夜道すると屹きつ度と道が分からなくなるといふこともいはれた。夜更けてから、ほうい、ほうい、といふこゑがその山道あたりから聞こえるのはさう稀まれなことではなかつた。
一つの小山の中腹に大きな石が今でもある。それを狼おほ石かみいしと称となへてゐるのはそこには狼が住んでゐて子を生むと、村の人が食べ物を持つて行つてやる。小さい狼の子が出て来て遊ぶといふやうなことがあつて、夜半などに鋭い狼のこゑがよく聞こえたものださうである。その石の近くを上山へ行く山道が通つてゐた。この山道には狐こ狸りの変へん化げに関する事件がなかなか多く、母も度々さういふ話をした。
そこへ御ごい一つし新んが来、開化のこゑがかういふ山の中にも這は入ひつて来るやうになつた。三みし島ま県令が赴任するとたうとう小山の中腹を鑿きり開ひらいて山形から上山を経て米よね沢ざはの方へ通ずる大街道が出来た。早坂新道と村の人が称となへたのはこの新道である。この新道は僕の生れるずつと前に開通されたものだが、連日の人にん足そくで村の人々の間にも不平の声が高かつた。ある時、県令の臨りん場ぢやうの際に人足に寝そべつてゐる者のあるのを役人が咎とがめると、﹃人としてねぶたきことはあるものを吾われにはゆるせ三島県令﹄といふ一首を差上げたなどといふ逸話も伝へられた。その男は僕が東京に来てからも年取つて未だ存命して居つたが余程前に亡くなつた。
さて新道が出来ると人じん力りきが通る。荷車は干ほし魚うをなどを積んで通る。郵便脚きや夫くふが走る。後には乗のり合あひ馬ばし車やが通り、新し発ば田たの第十六聯れん隊たいも通つた。たまには二頭馬車などの通ることもあり、騎馬の人の通ることもある。珍らしいものの通るときには、宝泉寺まで走つていつて遠とほ目めが鏡ねでそれを見た。
人力車夫が此この大街道を勢づいて走つてゐるときには心中に一種の誇ほこりがあつただらう。恰あたかもヴアチカノの宮殿を歩いてゐるときに何か胸が開くやうに感ずるが如きものである。僕の父にしてもさうである。父がこの大街道を独占したやうにして歩いてゐたときには、そこにやはり不意識の矜きよ尚うしやうがあつたに相違ない。父の剛がう愎ふくな態度は人力車夫の矜尚の過程に邪魔をしたから、梶棒をどしんと僕の尻に突当てたのである。その不ふい意う打ちの行為が僕の父の矜尚の過程に著しい礙さまたげを加へたから父は忽こつ然ぜんとして攻勢に出いでたのではなかつたらうか。
4 仁兵衛。スペクトラ
仁に兵へ衛ゑは謡うたひの上手で、それに話上手であつた。仁兵衛はいつも日の暮方になると丘陵にのぼつて川に沿うた村だの山ふところに点在してゐる村だのを眺める。村の家から豊かに煙の立ちのぼるのを見極めると、仁兵衛はいつも著きが換へしてその家に行く。その家には必ず婚礼があつた。祝しう言げんの座に請しやうぜられぬ仁兵衛ではあるが、いつも厚く饗きやうせられ調法におもはれた。仁兵衛は持前の謡をうたひ、目め出で度たや目出度を諧かい謔ぎやくで収めて結構な振ふる舞まひを土産に提げて家へ帰るのであつた。村の人々はその男を﹃煙けむ仁りに兵へ衛ゑ﹄と云つた。
その仁兵衛が或る夜上等の魚を土産に持つて帰途に著くと、すつかり狐に騙だまされてしまふところを父はよく話した。どろどろの深田に仁兵衛が這は入ひつて酒さか風ぶ呂ろのつもりでゐる。そして、﹃あ、上じや燗うかんだあ、上燗だあ﹄と云つてゐるところを父は話した。そこのところまで来ると父のこゑに一種の勢いきほひが加はつて子供等は目を大きくして父の顔を見たものである。父は奇蹟を信じ妖えう怪くわ変いへ化んげの出現を信じて、七十歳を過ぎて此世を去つた。
寺小屋が無くなつて形ばかりの小学校が村にも出来るやうになつた。教員は概おほむね士族の若者であつた、なかには中年ものも居た。﹃窮理の学﹄といふことがそれらの教員の口から云はれた。父は冬の藁わら為しご事との暇に教員のところに遊びに行くと、今しがた届いたばかりだといふ三さん稜りよ鏡うきやうを見せられた。さうして日光といふものは斯かうして七色の光から出来て居る。虹にじの立つのはつまりそれだ。洋語ではこれをスペクトラと謂いつて七つの綾あやの光といふことである。旧弊ものは来らい迎がうの光だの何のと謂ふが、あれは木でく偶ほふ法い印んに食はされてゐるのだ。教員は信心ぶかい父のまへにかう云つて気きえ焔んを吐いた。
父は切しきりにその三稜鏡をいぢつてゐたが、特別に為しか掛けも無く、からくりも見つからない。しかしそれで太陽を透すかして見ると、なるほど七綾りようの光があらはれる。
父は暫しばらく三稜鏡をいぢつてゐたが、ふと其それを以もつて炉の火を覗のぞいた。すると意外にも炉の炎がやはり七つの綾になつて見える。父は忽たちまち胸に動どう悸きをさせながら、これは、きりしたん伴ばて天れ連んの為しわ業ざであるから念力で片付けようと思つた。
教師様。お前はきりしたん伴天連に騙だまされて居るんではあんまいな。これを見さつしやい。お天てん道たうさまも、ほれから囲炉裏のおきも、同じに見えるのがどうか。からくりが無いやうにして此の中に有るに違ひないな。きりしたん伴天連おれの念力でなくなれ。
かういつて、父は三稜鏡をいきなり炉の炎の中に投げた。教員は驚き慌ててそれを拾つたが、忿ふん怒どすることを罷やめて、やはり父がしたやうに炉の炎をしばらくの間三稜鏡で眺めてゐた。教員は日光と炉の焚たき火びと同じであるか違ふものであるかの判断はつかなかつた。教員の窮理の学はここで動揺した。父は威張つてそこを引きあげた。
後年父は屡しばしばその話をした。文明開化の学問をした教員を負かしたといふところになかなか得意な気持があつた。けれども単にそれのみではなかつたであらう。神を念じて穀ごく断だち塩しほ断だちしてゐたやうな父は、すぐさまスペクトラの実験の腑ふにおちよう筈はずはないのである。腑に落ちるなどと謂いふより反はん撥ぱつしたといつた方がいいかも知れない。
それからずつと月日が立つて、父は還暦を過ぎ古こ稀きをも過ぎた。父は上山町のとある店先で、感に堪へたといふ風で、蓄音機の喇ラツ叭パから伝つてくる雲くも右ゑ衛も門んの浪花節を聞いてゐたことがある。けれども、父はその蓄音機は窮理の学に本づくものだといふことなどは追つゐ尋じんしようともしなかつた。スペクトラを退治した写象なども無論意識のうへにのぼつて来なかつたのである。
5 漆瘡
村の学校が隣りん村そんの学校に合併されて、そこに尋常高等小学校の建つたのは、森文部大臣が殺されて、一二年も経つたころであつただらう。
学校まで小こ一里あつた。雪の深い朝などには、せいぜい炭つけ馬が一つ二つ通るぐらゐなところで、道がまだ附いてゐない。雪が腰を没すといふやうなことは稀まれでなかつた。子供等は五六人固まつてその深雪を冒して行くのであるが、ひどく難儀をしたものである。途中で泣出して学校に行著くまで黙らなかつた子などもゐた。
けれどもそこを辛抱すれば、柳に銀色の花が咲くころから早春が来て、雪の降るのがだんだん少くなつて来る。それから一月も立てば、麗うららかな天気が幾日も続いて、雪がおのづと解けてくる。道は﹃雪ゆき解どけみち﹄になつて、朝のうちは氷つても午ひる過ぎからは全くの泥道で、歩くのにまた難儀なのが幾日も幾日も続く。さういふ時には草わら鞋ぢは毎日一足ぐらゐづつ切れた。八つか九つになつた僕はかうして毎日学校へ通つた。
それを通越すと、道の片隅の方などに乾いたところが見え初めてくる。それが日一日と大きくなり、向うの方に見えてゐた乾いたところと連続してしまふ。さういふ土の乾いたところを、子ども達は﹃草履道﹄と云つて、そこを踏んで躍をど上りあがつて喜んだ。
街道の雪が消え、日あたりの林の雪が消え、遠山を除いて、近在の山の雪が消えると、春が一時に来てしまふ気持である。太陽はまばゆいやうに耀かがやく。木の芽がぐんぐん萌もえはじめる。苞つとをやうやく破つたばかりの、白つぽいやうな芽だの、赤味を帯びたやうなものだの、紫がかつたものだの、子供等は道ぐさ食ひながらさういふ木の芽をぽきりと摘んで口の中で弄もてあそぶものもゐる。雲ひば雀りは空気を震動させて上天の方にゐるかとおもふと、閑かん古こど鳥りは向うの谿たに間まから聞こえる。楢なら、櫟くぬぎの若葉が、風に裏がへるころになれば、そこに山やま蚕こが生れて、道の上に黒く小さい糞ふんを沢山おとすのであつた。
五六人総勢十人ぐらゐの子供等が、さういふ日に恣ほしいままに道草を食つて毎日おなじ道を往わう反へんする。蟻ありの穴に小便をしたり、蛇を殺してその口こう中ちゆうに蛙かへるを無理におし込んだり、さういふ悪いた戯づらをしながら、時間が迫つてくると皆学校まで駈出して行つた。
然しかるにそれらの子供を威圧してゐる童子がひとりゐた。年はそのころ十一ぐらゐであつた。年かさも大きいし猛烈なところがあつて、村の学校の子供等を征服してゐた。周囲の子供等を引率して学校の授業も何もかまはずに山や沢に出掛けるので、そのやり方が何ど処こか猛烈なところがあつた。一度教員は忿ふん怒どして学校の梁はり木きにその童子をつるして折せつ檻かんしたことがある。それは森文部大臣が東北の学校を視察して、山形から上山に行くために早坂新道を通られるといふ日であつた。僕らは文部大臣を敬礼するために四五日の間その稽けい古こをし、滅多に穿はくことのない袴はかまを穿き、中にはこれも滅多には著きぬ襯しや衣つを著たりなどして学校に行つたのであつたが、童子は何い時つの間にかさういふ子供等を引率して山に遊びに行つてしまつた。それであるから、文部大臣を敬礼する時がだんだん近づいてくるのに子供等が帰つて来ないといふのであつた。併し文部大臣の敬礼がどうにか間に合つて、僕等は早坂新道に整列し、人力車で通つた文部大臣森有礼に小さいかうべをさげた。教員はその日は平穏な風をしてゐた。が、次の日にその童子を学校の梁木に吊つるして、鞭むちで続けざまに打つてみんなに見せたのであつた。それから間もなく森文部大臣が殺されたのだといふやうな気がする。さういふことは総すべてまだ学校の合併されない前のことである。学校が合併されてからは、その童子もやはり学校に通つて、おのづから周囲の子供どもを威圧してゐた。
美しく晴れた朝、その童子は僕らを合せた七八人の中心になり、思ふ存分道ぐさを食ひながら学校へ出掛けて行つた。硫黄泉を源とする酢すか川はの橋から石を投げたりなんぞして、しばらく歩くと、道端に五六本の漆うるしの木がある。これは秋には真まつ赤かに紅葉したのであつたが、今は小さい芽が枝の尖せん端たんのところから萌えいでてゐる。
その漆の木のところに行くと、童子はみんなに列ならぶやうに言附けた。そして自分で漆の芽を摘み取ると芽の摘つみ口ぐちから白い汁が出て来た。童子はみんなに腕をまくらせて、前ぜん膊はくの内面のところに漆の汁で女陰と男根とを画ゑがいた。女陰などといふとすさまじく聞こえるが、実は支那の古こて篆んの﹃日﹄の字のやうな恰かつ好かうをしてゐるものに過ぎない。男根でもさうである。皆Prputium などが無く思ひきり単純化されたものである。中江兆民は癌がんに罹かかつて余命いくばくもないといふとき、﹁一年有半﹂といふ随筆を書いた。そのなかに慥たしか、﹃陰陽二物﹄の何のと云つて日本国を貶けなしてゐたとおもふが、あれは無理だ。羅ロオ馬マは無論巴パ里リに行つても、倫ロン敦ドン、伯ベル林リンに行つても、さういふ邪気の無い絵はいくつも描いてある。この童子もただ邪気の無い絵をかいたに過ぎない。童子はそれでも漆の芽を幾つか取換へたりなどしてそれを描いた。描いて貰もらふと皆みんなが声を挙げて笑つた。そして汁の乾くのを促すために息を吹きかけたりなどした。
大小いろいろと描いて来て、僕の腕に小さいのを描いてくれた。それは今からおもへば降誕八日めに割かつ礼れいした耶ヤ蘇ソの男根のやうな恰好であつたとおもへばいい。童子は最後に自分の腕に思ひ切り大きいのを描いておしまひにした。
次の日の朝みんなが集まつて腕の絵を見せ合つて大声で笑つた。絵のところだけが黒くなつて乾いたから、きのふに較くらべてはつきりして来てゐる。然るに僕のだけは絵のところが黒くならずに赤くなつて少し腫はれあがつてゐる。
その次の朝もみんなが絵を見せあふと、絵のところが益ます黒くなつて乾いてゐるのに、ただ僕のだけはゆうべから癢かゆ味みが増して来、それに痛いた味みが加はつて絵のところから汁が出はじめた。僕は授業をうける時にも癢いのと痛いのとでなやんで居た。さうすると、沢さは蟹がにをつぶしてつけると直るといふものがあつた。学校の裏は直ぐ沢になつてゐて、石を一ちよ寸つと避よけると小さい蟹を幾つも捕へることが出来る。僕はそれをつぶして臓ざう腑ふをかぶれかかつてゐる腕になすりつけたけれども、赤く腫はれて汁の出て来たところは今度は結けつ痂かして行つた。
絵のところだけが黒く結痂したから、直つたのかといふとさうでない。それだから風ふ呂ろに入つた時などに、秘ひそかにその痂かさぶたを除いてみると、その下は依然として爛ただれて居つて深い溝みぞのやうになつてゐる。そして次の日には二たびそこに結けつ痂かするといふ具合でなかなか直らない。ほかの子供等は、さういふ女陰・男根図のことなどはいつのまにか忘れて行つた。それはその筈で描いて貰つてからすでに一ヶ月余も経過したのであるから剥はげて取れてしまつたのが多かつた。縦たとひ残つてゐてもそんなものはもう珍らしくはなかつた。ただ僕ひとりは毎日そのことで苦しんだ。そして痛いのを我慢して痂を除いてはそこに蟹の臓腑をつけてゐるに過ぎなかつた。痂を取つたところの溝がだんだん深くなるのに気付いてもそれを母や父に打明けることが出来ない。僕は空むなしく二月を過ごした。
けれども、或時たうとうそれを母から見付けられその成行を一々白状してしまつた。母は僕を父のところに連れて行つた。僕は恐る恐るすでに結痂した男根図を父に見せた。父も母も共に笑つた。叱しかられるつもりのところ叱られなかつたので僕も大きなこゑを立てて笑つた。その晩に父はどろどろした油あぶ薬らぐすりのやうなものを拵こしらへて来て塗つて呉れた。さうすると二三日で痂が取れて行つた。そこへまた油薬のやうなものを塗つて呉れた。ひどく苦んだ漆しつ瘡さうの男根図はかくのごとくにしてつひに直つた。瘡かさは極く﹃平凡﹄に癒いえた。
﹃はじめは脱だつ兎との如く﹄と云つておいて、そして、﹃をはりは処しよ女ぢよのごとし﹄と云ふあたりは、味あぢはつてみるとどうも旨うまいところがある。ただ余り陳腐になつてゐるから、今までそれを味はぬのであつた。その陳腐さは、レオナルド・ダ・ヴインチの画ゑがいた、モナ・リザ・ジヨコンダの像のやうなものであつた。そして僕の漆しつ瘡さう物語の結末が消えるやうにして無くなつてしまつたときに、この諺ことわざ、警句をおもひ起したのであつた。おもひ起して味つてみるとどうも言方に旨いところがあつた。僕は心中ひそかに満足をおぼえた。レオナルド・ダ・ヴインチをおもひ起したのはかういふ訣わけである。
﹃凡およそ児童はその父の能力に就いてどう思惟してゐるか﹄といふことに就いて、ある時期には児童は父の万能を信ずることがある。さて時が経つと、児童のまへには父は追々と平凡化されて行く。僕の父もその数に漏れなかつた。僕が少しづつ大きくなるに連れて僕の父も益平凡化されたから、父が三稜鏡を炎のなかに投じた話などをしても僕は心中感服したことはない。然るに僕が漆しつ瘡さうであれほど苦しんだ時に、父は極めて平凡にそれを直して呉れた。僕はその時、父には何か知らんやはり特殊の﹃能力﹄があるのではあるまいかと思つたのである。ここで父の平凡化は別な色いろ合あひを以て姿を変へたのであつた。それから﹃平凡治癒﹄といふ概念である。これは実地医家は必ず思おも当ひあたるに違ひない。疾やまひは幾ら骨折つても癒えぬときがある。さうしてゐて癒ゆるときには極めて平凡に癒えてしまふ。即ち疾を﹃平凡治癒﹄の機転に導くのが名医である。
彼の童子から漆の汁で描いて貰つた絵がかぶれて二月も苦しんだけれどもそれは癒えた。癒えたが痂かさぶたを結んだところが瘢ばん痕こん組織で補はれたと見えてそこに痕あとが残つた。その小さい男根図の痕は、小学校を出て中学校に入り中学校を出て高等学校に入るころまでは残つてゐた。僕は風呂に入つたりするとその痕を凝視して追憶にふけることもあつた。然るにその痕はいつのまにかおぼろになつて行き今ではもはやその形を認めることが出来なくなつた。僕もそろそろ初老期へ近づいて来た。南独ドイ逸ツの客舎で父の死報に接した時も僕は忽こつ然ぜんとして漆瘡のことを想おも出ひだし、床のなかで前膊の内面を凝視したけれども形はすでになくなつてゐた。
漆瘡に、生蟹黄調塗とか、蟹沫塗之とか、または蟹殻滑石研細※﹇#﹁てへん+參﹂、121-下-9﹈之乾者蜜和塗などといふ療方のあるのは漢医方に本づくのであつた。和文に漆まけを癒いやしとあるのも亦またさうである。父の拵こしらへて呉れたものはそんなものではなかつた。油薬のやうなどろどろしたものであつたが、その薬の色やなんかはどうしてもおもひ起すことが出来ない。そのあたりの父の顔も分からない。努めておもひ浮べようとすると、晩年の老いた父の顔のみが浮んでくるのである。
6 初詣
明治二十九年に丁度僕が十五になつたので、父は湯ゆど殿の山の初はつ詣まうでに連れて行つた。その時父は四十五六であつただらうから現在の僕ぐらゐの年であるがもう腰が屈まがつてゐた。これは田畑に体を使つたためであつた。しかしそれまで幾度となく湯殿山に参さん詣けいし道だう中ちゆう自じま慢んであつた。
僕も父もしばらくの間毎朝水を浴びて精進し、その間に喧けん嘩くわなどを避さけ魚介虫類のやうなものでも殺さぬやうにし、多くの一厘銭を一つ一つ塩で磨いて賽さい銭せんに用意した。参詣というても今時のやうに途中まで汽車で行くのではない。夜半にならぬ頃に出立して夜の明けぬうち五六里は歩くのである。第一日は本ほん道だう寺じといふところに泊つた。そこまでは村から行かう程てい十四里である。第二日は、まだ暁にならぬうちに志し津づといふ村に著いて、そこで先せん達だつを頼んだ。それからの山道は雪ゆき解どけの水を渡るといふやうなところが度々あつた。まだ午前であつたが、湯殿山の谿たに合あひにかかると風の工合があやしくなつてきてたうとう﹃御おや山ま﹄は荒れ出して来た。豪雨が全山を撫なでて降つてくるので、笠かさは飛んでしまひ、蓙ござもちぎれさうである。大木の枝が目前でいくつも折れた。それでも先せん達だつはひるまずに六ろく根こん清しや浄うじ御やう山おや繁まは盛んじやうと唱へて行つた。さうするうち、渡るべき前方の谿は一めんの氷でうづめられてそれが雨で洗はれてすべすべになつてゐる。下しも手ての方は深い谿に続いてひどくあぶないところである。僕は恐る恐るその上を渡つて行つたが、そこへ猛風が何ともいへぬ音をさせて吹いて来た。僕は転倒しかけた。うしろから歩いて来た父は、茂もき吉ち匍はへ。べたつと匍へ。鋭い声でさういつたから僕は氷のうへに匍つた。やつとのことでしがみ付いてゐたといふ方が好いかも知れない。さういふことを僕はおぼえてゐる。
﹃語られぬ湯ゆど殿のにぬらす袂たもとかな﹄といふ芭蕉の吟のあるその湯殿の山に僕は参拝して、﹃初まゐり﹄の願ねがひを遂げた。鉄かねの鎖で辛うじて谿底の方へくだつて行つたことだの、それから、谿間の巌いはから湯が威勢よく湧わいてながれてゐるところだのをおぼえてゐる。もどりに志し津づに一泊して、びしよぬれの衣服をほした。この日の行程十六里と称へられてゐる。
第三日は、麗うららかな天気に帰路に就いた。七八里も来たころ、父は茶屋に寄つてぬた餅もちを註文した。ぬた餅と謂いふのは枝豆を擂すり鉢ばちで擂すつて砂糖と塩で塩あん梅ばいをつけて餅にまびつたものである。父は茂吉なんぼでも食べろと云つた。それから道中をするには腹を拵こしらへなければ駄目である。山を越す時などには、麓ふもとで腹を拵へ、頂上で腹を拵へて、少し物を持つて出懸けるといいなどといつてなかなか上機嫌であつた。
もう山やま形がたの街まちも近くなつたころ、当時の中学校で歴史を担任してゐる教諭の撰した日本歴史が欲しくなり、しきりにそれを父にせがんだ。その日本歴史は表の様に出来てゐて工面のいい家の子弟は必ず持つてゐたし小学校でも先生がそれを教場に持つて来たりするので、僕は欲しくて欲しくて溜たまらなかつたものである。然るに父はどうしてもそれを買つて呉れない。僕らは山形の街に入つた。僕は幾たびも頼むが父は承諾しない。そのうち、書物の発行書店のまへを通りすぎてしまつた。僕はなぜ父はそんなに吝りん嗇しよくだらうかなどと思ひながら父の後ろを歩いたのであつた。
7 日露の役
日露戦役のあつたときには、僕はもう高等学校の学生になつてゐた。日露の役には長兄も次兄も出征した。長兄は秋田の第十七聯隊から出征し、黒こく溝こう台だいから奉ほう天てんの方に転戦してそこで負傷した。その頃は、あの村では誰だれ彼かれが戦死した。この村では誰彼が負傷したといふ噂うはさが毎日のやうにあつた。恰あたかも奉天の包囲戦が酣たけなはになつた時であつただらう。夜半を過ぎて秋田の聯隊司令部から電報がとどいた。そのとき兄嫁などはぶるぶるふるへて口が利けなかつたさうであつた。父は家人の騒ぐのを制して、袴はかまを穿はきそれから羽織を著きた。それから弓ゆみ張はりを灯ともし、仏壇のまへに据わつて電報をひらいたさうである。そのことを僕が偶たま帰省したりすると嫂あねなどがよく話して聞かせたものである。
父は若いころ、田植をどりといふのを習つてその女をん形ながたになつたり、堀ほつ田たの陣屋があつた時に、農兵になつて砲術を習つたり、おいとこ。しよがいな。三さがり。おばこ。木こび挽きぶし。何でもうたふし、祖父以来進歩党時代からの国会議員に力ちか※らこぶ﹇#﹁やまいだれ+︵﹁堊﹂の﹁王﹂に代えて﹁田﹂︶﹂、124-下-1﹈いれて、応りゆうおう和尚から草稿をかいてもらつて政談演説をしたり、剣術に凝り、植木に凝り、和讃に凝り、念仏に凝り、また穀ごく断だち、塩しほ断だちなどをもした。
僕のやうな、物に臆し、ひとを恐れ、心の競ひの尠すくないものが、たまたま父の一生をおもひ起すと、そこにはあまり似によ寄りの無いことに気付くのであつたが、けれども是これは自ら斯かう思ふといい。僕は父が痰たんを煩つたときの子である。生しや薑うがの砂糖漬などを舐ねぶつてゐたときの子である。さういふ時に生れた子である。ただ、どちらにしても馬ばた胎いを出いでて驢ろた胎いに生じたぐらゐに過ぎぬとは僕もおもふ。
8 青根温泉
父は五つになる僕を背負ひ、母は入いり用ようの荷物を負うて、青あを根ね温泉に湯たう治ぢに行つたことがある。青根温泉は蔵王山を越えて行くことも出来るが、その麓ふもとを縫うて迂うく回わいして行くことも出来る。
父の日記を繰つて見ると、明治十九年のくだりに、﹃八月七日。雨降。熊次郎、おいく、茂吉、青根入湯に行ゆく。八月十三日、大雨降り大川の橋ながれ。八月十四日。天気吉よし。熊次郎、おいく、茂吉三人青根入湯返がへり。八月廿三日。天気吉。伝でん右ゑ衛も門ん、おひで、広吉、赤あか湯ゆ入湯に行。九月朔ついたち。伝右衛門、おひで、広吉、赤湯入湯かへる﹄。ここでは、父母が僕を連れて青根温泉に行つたことを記し、ついで、祖父母が僕の長兄を連れて、赤湯温泉に行つたことを記してゐる。父の日記は概おほむね農業日記であるが、かういふ事も漏らさず、極く簡単に記してある。青根温泉に行つたときのことを僕は極めて幽かすかにおぼえてゐる。父を追慕してゐると、おのづとその幽微になつた記憶が浮いてくるのである。
父は小田原提ちや灯うちんか何かをつけて先へ立つて行くし、母はその後からついて行くのである。山の麓の道には高低いろいろの石が地面から露出してゐる。石道であるから、提灯の光が揺いで行くたびにその石の影がひよいひよいと動く。その石の影は一つ二つではなく沢山にある。僕が父の背なかで其それを非常に不思議に思つたことをおぼえてゐる。
まだ夜中にもならぬうちに家を出て夜よど通ほし歩いた。あけがたに強がう雨うが降つて合かつ羽ぱまで透した。道は山中に入つて、小川は水みづ嵩かさが増し、濁つた水がいきほひづいて流れてゐる。川幅が大きくなつて橋はもう流されてゐる。山中のこの激流を父は一度難儀してわたつた。それからもどつてこんどは母の手を引ひかへて二人して用心しながら渡つたところを僕はおぼえてゐる。それから宿へ著くとそこの庭に四角な箱のやうなものが地にいけてある。清い水がそこに不断にながれおちて鰻うなぎが一ぱい泳およいでゐる。そんなに沢山に鰻のゐるところは今まで見たことはなかつた。
帳場のやうなところにゐる女は、いつも愛想よく莞にこ爾にこしてゐるが、母などよりもいい著きも物のを著てゐる。僕が恐る恐るその女のところに寄つて行くと女は僕に菓子を呉れたりする。母は家に居るときには終日忙せはしく働くのにその女は決して働かない。それが童子の僕には不思議のやうに思はれたことをおぼえてゐる。
僕は入湯してゐても毎晩夜ねね尿うをした。それは父にも母にも、もはや当りまへの事のやうに思はれたのであつたけれども、布団のことを気にかけずには居られなかつた。雨の降る日にはそつとして置いたが、天気になると直ぐ父は屋根のうへに布団を干した。器械体操をするやうな恰かつ好かうをして父が布団を屋根のうへに運んだのを僕はおぼえてゐる。
或る日に、多分雨の降つてゐた日ででもあつたか、湯たう治ぢき客やくがみんなして芝居の真ま似ねをした。何でも僕らは土つち戸どのところで見物してゐたとおもふから、舞台は倉座敷であつたらしい。仙台から湯治に来てゐる媼おうななども交つて芝居をした。その時父はひよつとこになつた。それから、そのひよつとこの面めんをはづして、囃はや子し手てのところで笛を吹いてゐたことをおぼえてゐる。
父の日記に拠よると、青根温泉に七日ゐた訣わけである。それから、明治二十丁ひの亥とゐ年六月二日。晴天。夜おいく安産。と父の日記にあつて、僕の弟が生れてゐるから、青根温泉湯治中に母は懐くわ妊いにんしたのではないかと僕は今おもふのである。
9 奇蹟。日記鈔
不思議奇蹟などいふことは中江兆民には無かつた。それは開化を輸入するには物質窮理の学を先づ輸入せねばならぬから、兆民は当時﹃理学﹄と謂いつてゐる哲学をも輸入したが、いきほひ﹃奇蹟﹄を対たい治ぢする立場にあつた。けれども僕のやうな気の弱いものには、﹃奇蹟﹄は幾つもある。
大正十三年の暮に火事があつて、僕の書籍なんどもあんなに焼け果ててしまつたのに、僕が郷里から持つて来て、新聞紙に一包にしてゐた祖父と父の覚おぼ帳えちやうが煙にこげたまま焼けずにゐた。びしよぬれになつてゐた日本紙で綴つづつた帳面を一枚一枚火鉢の火で乾かしながら、僕は実に強い不思議を感じてゐた。僕の甥をひは、紙を乾かすのを手伝ひながら、﹃軽いものですから、二階の焼落ちるときに跳ね飛ばされたんでせう﹄などと云つた。また﹃被ひふ服くし廠やうの時のやうにつむじ風が起つて吹き飛ばしたのかも知れませんね﹄﹃併しかしあんなぺらぺらな紙の帳面ですから、直ぐ焼けてもいい筈はずですがね﹄などとも云つた。甥はなるべく物理学の理屈で説明をつけようとするのであるがそれでは分からない点が幾らもあつた。
祖父のものは、俳はい諧かい連れん歌がか何かを記入したものであつたが、父のものには、﹃品しな々じな万よろ書づか留きと帳めちやう﹄といふ、明治七甲きの戌えいぬ年二月吉日に拵こしらへたものである。これは長兄が生れたとき、祝いはひに貰もらつた品々などの記入から始まり、法事の時の献こん立だて、病気見舞の品々、婚礼のときの献立など、こまごまと記しるしてあるので、僕は珍しいと思つて貰ひ受けたのであつた。例へば、明治廿三年二月廿三日夜より廿四日。盛華院清阿妙浄善大姉三回忌仏事献立控の廿四日十二人前まへの条くだりに、平︵かんぴよう。いも。油あげ。こんにやく。むきたけ︶。手しほ皿︵奈良漬。なんばん︶。ひたし︵韮にら︶。皿︵糸こん。くるみ合︶。巻ずし︵黒のり、ゆば︶。吸物︵包ゆば二つ。しひたけ。うど︶。あげ物︵牛ごば蒡う。いも。かやのみ。くわい。柿︶。煮にし染め︵くわい。氷こん。にんじん。竹の子。しひたけ︶。手しほ皿︵焼とうふ。くづかけ。牛蒡黒煮︶。皿︵うこぎ。わらび漬︶。下あげもの︵くわい。牛蒡。柿。かやのみ。赤いも︶。大おほ平ひら︵くわい。しひたけ。ゆづ︶。汁︵とうふ。ふのり︶。茶くわし︵せんべい︶。引くわし︵うんどん五わ但ただし四十めたば。まんぢゆう七つ但ただし一つに付四厘づつ︶。こんなことが書いてある。これで思おも起ひおこすのは、陰暦の二月すゑには、既に韮が萌もえ、木の新芽が饌せんに供し得る程になつてゐるといふことである。それから、﹃わらび漬﹄などとあるのも少年の頃をしのばしめるのであつた。
その父の帳面に、僕が生れた時祝に貰つた品々を記した個所があるから一ちよ寸つと書とどめておきたいと思ふ。明治十五壬みづ午のえうま年三月廿七日出しゆ生つしやう。守もり谷や茂吉義豊。安あん産ざん見みま舞ひう受けち帳やう。小王余魚七枚、菅野弥や五ご右ゑ衛も門ん。金二十銭外に味噌一重、金沢治右衛門。金十銭、鈴木庄右衛門。金十銭、鈴木作さく兵べ衛ゑ。金十銭、斎藤三郎右衛門。鰹かつをぶし一本外に味噌一重、永沢清左衛門。焼かれい三枚、松原村山本善十郎。金五銭、斎藤富右衛門。金十銭、大沢才兵衛。以上である。同じ村から八軒祝を貰つてをり、他村から一軒貰つて居る。他村の松原村と記してあるのは、母の姉が嫁入つたところである。それから最後に、大沢才兵衛とあるのは、父の弟で、漆の芽で僕の腕に小男根を描いてくれた童子の父である。明治十五年頃の東北の村ではこんな程度であつた。
僕は留学から帰つて来て、家兄に頼んで少しばかり父の日記から手抄して貰つたのであつた。そのうちに僕に銭ぜにを呉れたのを記したところが処々に見つかる。明治十九年十月十五日曇り。二銭柿代富太郎、茂吉え遣つかはし。明治二十年七月十五日。四銭茂吉え遣し。明治廿三年正月七日。十八銭、茂吉授業料正二二ヶ月分。三銭茂吉え遣し。十日休日。三銭茂吉え遣し。十五日休日。一銭茂吉え遣し。七月二日。五銭茂吉書しよ物もつ代だい。十二日。四銭茂吉え遣し。十二月廿四日。二十二銭茂吉薬くす代りだい。こんな工合である。ここに二十二銭茂吉薬代とあるのは、僕が絵具に中毒して黄わう疸だんになつたとき、父は何ど処こからか家伝の民間薬を買つて来てくれた。それを云ふのである。
明治廿四年。二月十五日。一銭直吉笛代。五銭富太郎え遣し。三銭茂吉え遣し。三月三日。二十銭茂吉書物代画学紙共。十五日。一銭茂吉え遣し、廿八日。二銭茂吉え遣し。八月十四日。天気吉よし。茂吉直吉おみゑ上かみ山のやま行。九銭茂吉筆代。十月廿一日。天気吉よし。七銭茂吉下げた駄だ代い。廿二日。天気吉。広吉茂吉は半郷学校え天てん子し様のシヤシン下るに付つい而てゆ行く。熊次郎紙つき。富太郎金三郎深田の葦よし刈かり。女中三人は午前菜なつけ。午後裏うら畑はた草くさ取とり。伝太郎を頼たのんで十一俵買。
合併になつた隣村の学校に、御ごし真んえ影いがはじめて御さがりになつた時の趣で、それは明治廿四年十月廿二日だつたことが分かるが、これはすべて陰暦の日附である。大雪にならぬ前に深田の葦を刈り、菜を漬け、畑の草を取つて播まくべきものは播き、冬ごもりの準備をする光景である。父の日記は、大おほ凡よそ農業日記であつて、そのなかに、ぽつりぽつり、僕に呉れた小こづ遣かひ銭せんの記入などがあるのである。明治廿二年の条くだりに、宝泉寺え泥ぼう入はひり、伝右衛門下げな男ん刀持もちて表より行ゆく。熊次郎槍やり持もちて裏より行、などといふ事件の記事もある。これは、宝泉寺住職応りゆうおう和尚が上京して留守中、泥棒が入らうとして日本刀で戸をずたずたに切つた。倔くつ強きやうの若者が二人ばかり宿とまつてゐたが、恐れてしまつて何の役にも立たなかつた時の話である。伝右衛門は祖父の名で未だ存命中であつた。熊次郎は父の名である。
一時剣術に凝つたり、砲術を習つたりした名なご残りで、どちらかといへば、さういふ時に槍など持つことを好んでゐた。父はさういふとき﹃得え手てまへ﹄といふ言葉を好よく使つた。
10﹇#﹁10﹂は縦中横﹈ 念珠集跋
﹁念珠集﹂は、所しよ詮せん﹃わたくしごと﹄の記に過ぎないから、これは﹃秘録﹄にすべきものであつた。それであるから、僕の友よ、どうぞ怒いからずに欲しい。
ミユンヘンに留学中は、主に実験脳病理学のことをやつた。少い暇に読む書物も、それから考へることもさういふことが主おもになつてゐた。ischmische Zellvernderung といふやうなこと、Kolliquations-Nekrose とか、koagulierende Nekrose とか、例へばさういふ概念が頭を領してゐるのであつた。そのまた暇に僕は心理書を読んでみた。Hylopsychismus といふことだの、Zerlegung der Gignomene とか、Unbewusstheit der Reduktionsbestandteile とかいふことだの、さういふことが頭を悩ましたのであつた。
ところが、僕の下宿に馬ばき琴んのものが置いてあつた。もう古びて、何なん代だいもの留学生が異郷の寂しさをそれで紛らしたといふことを証拠立ててゐた。馬琴のものなどはこれまで読んだことのない僕が、ある時ふとそれを読んでみた。久くを遠んのむかしに、天てん竺ぢくの国にひとりの若い修しゆ行ぎやう僧が居り、野にいでて、感ずるところありてその精せいを泄もらしつ、その精草の葉にかかれり。などといふやうなことが書いてあつた。僕は計らずも洋臭を遠をん離りして、東方の国土の情調に浸つたのであつた。さういふ心の交錯のあつたときに、僕は父の訃ふお音んを受取つた。七十を越した齢よはひであるから、もはや定ぢや命うみやうと看みても好よいとおもふが、それでもやはり寂しい心が連日湧わいた。夜の暁あけ方がたなどに意識の未だ清せい明めいにならぬ状態で、父の死は夢か何かではなからうかなどと思つたこともある。併しかし目の覚めて居るときには、いろいろと父の事を追慕した。それは尽ことごとく東とう海かいの生れ故郷の場面であつた。﹁念珠集﹂は所詮、貧しい記録に過ぎぬ。けれどもさういふ悲しい背景をもつてゐるのである。僕を思つてくれる友よ。どうぞ怒いからずに欲しい。
大正十四年八月に、比ひえ叡いざ山んのアララギ安あん居ごく会わいに出席して、それから先輩、友人五人の同どう行ぎやうで高かう野やさ山んにのぼつた。登山自動車の終点で駕か籠ごに乗らうとした時に、男が来て北室院といふ宿しゆ坊くばうを紹介してくれた。それから豪雨の降るなかを駕籠で登つて宿坊へ著いた。そこに二晩宿とまり、貧しい精しや進うじん料理を食つた。饅まん頭ぢゆうが唯ひとつ寂し相に入つてゐる汁で飯を食べたことなどもある。而そして、そこで勧められる儘ままに、父の追つゐ善ぜんのために廻ゑか向うをして貰もらつた。その時ふと僕は父が死んでからもう三回忌になると思つたのであつた。
本来からいへば七月に三回忌の法事をするのであるが、稲いな作さくの為しご事とが終へてから行ふことになり、八月、九月、十月と過ぎて、十月のすゑに行つた。けれども僕は東京の事情に礙さまたげられて列席することが出来ないので、そのことをも僕はひどく寂しくおもつた。法事終へてから家兄が父の小さい手帳を届けて呉れた。これは大正四年に西さい国こくに旅たびした時の父の日記である。
五月六日。旧三月廿三日。天気吉よし。吉野町より、朝六時吉野山のぼり、午前十一時吉野駅発。高かう野やぐ口ち駅え午後一時三十分著。是これより五十丁つめ三里高野山え上り、午後八時頃北室院に著。一円、吉野町宿料払。五十銭、吉野山見物車くるまちん。五十銭、同所寺に参詣費。三十銭、吉野口駅より高野口駅迄切符代。五十銭、昼飯料。二円六十銭、籠かごに乗賃払。七円五十銭、日ぱい料北室院に上げる。
五月七日。旧三月廿四日。晴天。朝の八時より参詣致いたす。総参詣人一日へいきん二万人以上づつ有ある由よし。午後一時より高野山より下り高野口駅え午後四時に著。是より粉こか河は駅え著。かなも館支店宿泊。一円、参詣費。一円五十銭、北室院宿料。五十銭、荷物負おひ賃ちん。一円、途中小使。五十銭、昼飯料。五十銭、車くる賃まちん。四十銭、汽車賃。
これを見ると、父は十年前に高野山にのぼり偶然にも北室院に宿泊して、宿料が一円五十銭なのに、日につ牌ぱい料れう七円五十銭も上げてゐる、これは、僕の母のために供くや養うして貰つたのに相違ない。母は大正二年に歿ぼつしたのだから、大正四年は三回忌に当る都合である。父の日記に拠よると、高野山を半日参詣して直すぐその午後には下山して居る。仏ぶつ法ぽふ僧そ鳥うを聞かうともせず、宝はう物もつも見ず、大門の砂のところからのびあがつて、奥深い幾重の山の遙はるか向うに淡あは路ぢし島まの横よこたふのも見ようともせず、あの大名の墓ぼせ石きのごたごたした処を通り、奥の院に参詣して半日つぶして直ぐ下山して居る。道中自慢であつた父も、その時は既に六十四五歳になつて居り、四十歳ごろから腰が屈まがつて、西さい国こくの旅に出るあたりは板に紙を張りそれを腹に当てて歩いてゐた。さうすれば幾分腰が延びていいなどと云つてゐたのだから、高野の旅なども矢張り難儀であつたらうと僕はおもふ。そして、僕らが食べたやうな、汁の中にしよんぼりと入つた饅まん頭ぢゆうを父も食べたのだらうとおもふと、何だか不思議な心持にもなるのであつた。これを﹁念珠集﹂の跋ばつとする。︵大正十五年二月記︶