今日は愛國歌について一言を徴せられたが、大東亞戰爭の勃發して以來、國民が奮つて愛國歌を讀み、朗誦し、萬葉集に載つた、﹃海ゆかば水漬く屍山ゆかば草むす屍大おほ皇きみの邊にこそ死なめ顧みは爲じ﹄や、﹃けふよりは顧みなくて大君の醜の御楯といでたつわれは﹄の如きは、全く人口に膾炙せられるに至つた。また、私の先輩友人等から、雜誌により、著書により、ラジオ放送によつて、愛國歌がつぎつぎに發表せられたから、私が今日愛國歌について答へるとしても、自然重複してしまふのではあるまいかとおもつたが、併し縱しんば重複してしまつても、或は幾たび同じ歌が吟誦せられるにしても、あへて餘計だといふわけ合のものではあるまいから、左に、十人あまりの人によつて作られた愛國歌を抽出して置かうとおもつたのである。 ○
うらうらとのどけき春の心よりにほひいでたる山ざくら花 (賀茂眞淵)
しきしまの大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花 (本居宣長)
しきしまの大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花 (本居宣長)
これはおなじく、皇國の心の象徴ともいふべき櫻を讚美した歌であるが、眞淵の歌の方は、自然に無理なく出來てゐて、特に、﹃やまと心﹄といふやうなことを露はには云つてゐない。おなじく眞淵の歌に、﹃もろこしの人に見せばやみよし野のよし野の山の山ざくら花﹄といふのがあるが、この方には幾分、﹃やまと心﹄といふことを表面に出して居る。宣長の歌は、既に有名な歌で、大衆化すべき要約を具備して通俗的である。さうしてこの程度の通俗性は宣長の意圖としては、是非必要であつたこととおもふ。
宣長には、玉矛百首のごとき愛國吟があつて、その中に、﹃かしこきやすめら御みく國にはうまし國うら安の國くにのまほくに﹄﹃百もも八や十そと國はあれども日の本のこれの倭やまとにます國はあらず﹄﹃天地のそきへのきはみ覓まぎぬとも御みく國ににましてよき國あらめや﹄等の歌がある。これ等の百首と餘り歌まで合せて、殆ど全部が古語を縱横に使つた、いはゆる古調の歌であるから、﹃朝日ににほふ山ざくら花﹄の歌のやうに分かりよくない。これもまた宣長自身さう意識して作つて居るのである。
眞淵の歌は六十歳ごろから益々萬葉調となり、純粹に古調となつて行つたが、宣長の方は、古風と近風と使ひわけをして歌を咏んだ。﹃朝日ににほふ﹄の歌は、その中の近風の歌に屬するもので、一般の人々に分かりよい、大衆性を餘計に持つて居るものである。かういふ作歌態度は態度としてはいかがともおもふが、國學の思想を説くにあたつては是非必要なことであつた。
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これは、蒙古襲來の繪卷を見て作つた長歌の反歌であるが、この弘安の役の神風について長歌の方には、﹃もろもろの、大御神たち、おもほてり、いきどほらして、神風の、いぶきまどはし、天雲の、五百重むら雲、とこやみに、おほひたまひて、えみしらが、のれる千船を、木の葉なす、いぶきはなちて、荒浪に、めたまへば、千萬の、えみしがともは、わたつみの、水屑となりぬ﹄云々と歌つてゐる。
この短歌でも、神風のことを﹃神のいぶき﹄とあらはし申してゐる。これなども、神代以來のわが國びとの表現であつて、只今それを讀んでも極めて適切のやうに聞こえる。
結句の、﹃あやにかしこき﹄は、畏れ敬ふ心のさまで、萬葉にも、﹃かけまくもあやに畏かしこきすめらぎの神の大御代﹄といふのがあり、莊重のひびきがある。
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むぐら刈る利鎌 のかまのやき鎌 のつかのまも見む魂 あひの友 (和田嚴足)
この歌には、﹃神の道を説き給へることをよろこぼひてよめる歌﹄といふ題があるごとく、外國の思想にかぶれて、皇國本來の道の教をおろそかにすることを排撃し、﹃皇すめ神かみの、御みま政つり事ごとの廣ひろ道みちの道の大道に、導けよ君﹄といふ長歌があつて、その反歌がこの一首なのであるから、同じ思想を以てこの一首も貫かれてゐる。
暫しの間なりとも、心の合つた同志の友には會ひたいものだ、といふので、その上は序詞の形式になつてゐるが、單に音調上の聯絡ではなく、雜草を刈りのぞくところの鋭い鎌、即ち利とが鎌ま、燒やき鎌がまの柄つかといふ意味から、束つかの間まの束に同音で以てつづけたものである。當時の歌人はまた國學者でもあつたから、最も純粹に自然に先學の心をひいて、かういふ歌が出來たのであつた。
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おほ神のいはへる國のますらをの矢先 に向ふ敵 あらめやは (千種有功)
﹁武威﹂といふ題がある。天照皇大神はじめ奉り、八百萬の神々の加護したまふ、わが皇國の軍人の矢先に刀向ひ得る外敵は一人もゐない、といふ意味の歌てある。﹃齋いはへる﹄は此處では、萬葉集卷十九の、﹃大船に眞まか楫ぢしじ貫きこの吾あ子ごを韓國へ遣る齋いはへ神かみたち﹄の例と同じく、﹃齋ひ護まもりて平たひ安らかにあらしめ給へ神だちよ﹄︵古義︶といふ意味である。日本は神代から武勇の國であることを讚へた歌であつて、歌調は稍弱いが、それでも大東亞戰爭下に吟誦するに堪ふるものである。
なほこの人の作に﹁武運長久﹂といふ題にて、﹃治まれる世にも忘れぬもののふの八や十その街ちまたのながくひさしも﹄﹃八やは幡たや山ま雲のはたても豐かにてとほく榮さかゆくもののふの道﹄というのがある。ここの八幡山は山城の岩清水八幡宮で、武神におはすのである。
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あなあはれ
嘉永六年にペルリが相模浦賀に來り、人心を動搖せしめたが、嘉永七年︵安政元年︶彼は二たび浦賀に來た。その時の歌である。その年三月神奈川條約が成つたが、幕府もいろいろと難儀した。この二つの如きは、その當時の國民の心を代表したものといふべく、亞米利加よ巫山戲たことをいふな、汝等は皇國の神風を知らないのか、といふので、攘夷の氣概を存分にあらはして居る。此處の歌は七首の聯作で、ほかの歌には、﹃後悔いむかも鈍おぞの亞米利加﹄とあつたり、﹃罪をはや知りて贖あがなひまつれ亞米利加奴やつこ﹄とあつたりして、堂々のいきほひを示して居る。これ等を讀むと、まさに大東亞戰の直前に國民がきほひ立つたのと殆ど同樣の意氣込であつたことが分かる。
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朝日さすすめら御國 のかたをこそ天 のはじめといふべかりけれ (橘守部)
朝日子のとよさかのぼる御國 こそ日のいる國の初めなりけれ (同)
大君の高くら山の高ねより落つるしづくやみめぐみのつゆ (同)
朝日子のとよさかのぼる
大君の高くら山の高ねより落つるしづくやみめぐみのつゆ (同)
第一首には、﹁天﹂といふ題がある。さういふ題咏ではあるが、彼の國體觀が反映してゐて眞率な歌調をなした。﹃天﹄には始もなければ終もなく、況して方嚮といふやうなものも無いわけであるが、彼の信仰では、皇國の天が即ち天の始だといふのである。これは大きくてなかなか好い。第二首も同樣の思想であつて、天つ日の豐榮のぼる皇國は、日の入る國即ち韓、諸越その他萬邦のさきがけをなすものだといふのである。これには、﹁國﹂といふ題がついて居る。第三首には﹁雫﹂といふ題があり、大君の御めぐみの廣大無邊をあらはさうとした。
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すめらぎの道ただ一つこをおきて他 し小徑 によらめやも人 (平田篤胤)
畏くもわが大神 ともち齋 く赤きこころを愛 しく思ほせ (同)
天皇 のもとつ御國 に古 ごとのみち榮ゆべき時は來にけり (同)
畏くもわが
第一首は、﹃孝徳天皇紀の大詔命によりて﹄といふ詞書があるが、孝徳紀の大詔には、﹃告二天神地祇一曰、天覆地載、帝道唯一﹄云々とあるのに據つた。皇國民はただ一つのこの﹃すめらぎの道﹄に隨順して、決して傍徑や、外道に據つてはならぬといふのである、第二首は、わが國の大神をば絶待として齋いつきまつる、わが丹心の至誠をば、ねがはくは見そなはし給へといふので、同時に作つた歌に、﹃言はまくもゆゆし畏し挂かけまくもあやに尊きこれの皇すめ神がみ﹄といふのもある。第三首は、自作數首を島津侯に獻じた折のもので、皇國の古道の認識せられる氣運に向つたことを喜んだものである。
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みちのくの外 なる蝦夷 の外 を漕 ぐ船よりとほく物をこそ思へ (佐久間象山)
この一首は佐久間象山のいはゆる感情歌の中のもので、象山が皇國のために邊防を策すること十數年に及んだが、毫も當時の人々に理解せられず、却つてそのために罪を問はれたのであつた。象山はみづから題詞を以て、﹃拳拳の忠、閔察を得ず﹄と云つて居る。
一首の意は、﹃とほく物をこそ思へ﹄に中心點があり、とほく深く皇國をおもふ、といふ意味となつて、その前半は即ち序詞のやうな形式になつてゐるのだが、併し意味のない序詞ではなく、北邊防備の畫策があつたがために、﹃みちのくの外なる蝦夷の外を漕ぐ﹄云々の句が、おのづからにして作者の意識のうへに浮んだものとおもへる。
象山は歌を井上文雄に學んだが、萬葉調を取入れて歌を作つたから、この歌もやはりその特徴を有つて居り、眞率憂思のひびきを傳ふるものである。
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この歌は、安政元年︵?︶、叔父の玉木文之進に與へたものであるが、大洋をも容易に渡りうる外國の大汽船、大軍艦も、わが皇國になくてはならない。これも必ず近き將來に造らずには置かぬといふ決心の一首である。
この外國を窺知つて、それに負けまいとする意氣込は、前出の佐久間象山の、﹃余年二十以後、乃ち匹夫一國に繋ること有るを知る。三十以後、乃ち天下に繋ることあるを知る。四十以後、乃ち五世界に繁ること有るを知る﹄云々と類似して、松陰が、﹃逸氣神州を隘せましとし、乃ち五州を窮めんと欲す。憐むべし蹉跌の後、一室に孤囚となる﹄と歌つた、五世界、五州といふ意氣込であつた。そして、この五州を窮めむとする思想は、﹃七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾忘れめや﹄﹃骨を粉にし身を碎きつつ大君に丹き心を捧げてしがな﹄の思想と同一に歸著してゐたものである。
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おほきみの御稜威 かがやく日 の本 に狂業 するな癡 の漢人 (平賀元義)
これに、﹃からふね﹄の題があるけれども、題詠ではなく、そのころ外國の軍艦どもが、しきりに我國にむかつてこけ威しを敢てした時の事實が念中にあつてこの歌が咏まれたものに相違ない。
天皇の御稜威のかがやく皇國にむかつて、何のふざけた眞似をするか、承知をせぬぞ、癡呆の外國人どもよ、といふ意味である。萬葉集に、﹃いざ子ども狂たは業わざなせそ天あめ地つちのかためし國ぞ大和島根は﹄があつて、狂たは業わざの語が入つて居る。
なほ、元義の歌には、﹃大君の御楯となりし丈ます夫らをの末はますますいや榮えたり﹄﹃整ひし五い百ほ津つの軍いくさいかでかも君が御みた楯てとならざらめやも﹄などがあつて、萬葉から脈を引いた、﹃大君の御楯﹄﹃君が御楯﹄の語の入つて居るのに注意すべきである。
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とつ國の道にまどへる世の人のやまとへ還るしるししてまし (大國隆正)
四方 の海とほきえみしの國までも我が大君のものならじやは (同)
えみしらが寇 せむ舟を拂ひすて大海原 にいぶきすててむ (同)
えみしらが
第一首は、漢學・佛教に心醉してしまつて、皇國の學からそれてしまつてゐる世の人々のために、正道に立還るべき道しるべを作るべきである。指導方針を示して欲しいものであるといふのである。第二首は、四方の海の、またその海の遠き彼方の外夷の國々までも、わが大君の御めぐみに浴せない筈はあるまい、必ずさうに相違ないといふことである。第三首は、即ち黒船以來の國民思想を歌つたものであるが、只今の大東亞戰爭に當嵌めても毫も差支ないほどの氣勢を揚げた歌である。思想そのものは宣長あたりからの脈を引いてゐるが、ペルリ以來の實情でなかなか好い。
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右は、橘曙あけ覽みの作で、概ね出陣する人に贈つたものが多い。さういふ軍にいでたつ人に贈つたかういふ種類の歌はもつとあるが、今は割愛することとする。
なほ曙覽には、﹃いさぎよき神つ國くに風ぶりけがさじとこころ碎くか神かみ國ぐにの人ひと﹄や、﹃天すめ皇らぎに身もたな知らず眞心をつくしまつるか我が國の道﹄といふごとき、一般的勤皇を詠んだのも相當にある。
なほ、﹃たのしみは神の御みく國にの民として神の教へをふかく思ふ時﹄といふ獨樂などもあつて、曙覽の勤皇歌はなかなか多い。これは時勢にしたがつたせゐもあつた。
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大君の邊 に捨てたりしもののふの命 は道のいのちならずや (八田知紀)
この歌は、元治元年、蛤御門の戰に死した士を追悼した歌である。君國のために戰つて、それに一命をささげた士の命は、即ち士としての眞の生命であるといふので、﹃道のいのちならずや﹄といふ句は流石に專門歌人らしい好い句である。幕末志士等の歌は、感激に滿ち、實行派であるけれども、言葉が洗練せられぬために、折角の感激も充分に表現せられないといふ憾があつた。さういふ點でこの一首などは、さういふ憾を充足するに足るものである。なほこの作者には、﹃戊辰の年のみ軍に御楯となりて身を捨てし人々の功を譽めたまひ魂の行方を慰め給ふとて、いともかしこき仰言どものありける由を承りて、萬代の末までかかる御めぐみの露には濡れぬ袖なかりけり﹄といふのもある。これは内容は詞書に讓つて、歌は感慨をその儘あらはしたものになつた。