故正岡子規先生の﹃仰臥漫録﹄は、私の精神生活にはなくてかなわぬ書物の一つであった。
﹃仰臥漫録﹄の日々の筆録が明治三十四年九月に入って、﹁病人の息たえだえに秋の蚊帳﹂とか﹁病室に蚊帳の寒さや蚊の名残﹂とか、﹁糸へち瓜まさへ仏になるぞ後おくるるな﹂などいうあわれな句が書いてあるようになって、その廿三日のくだりに、
九月廿三日。晴。寒暖計八十二度︵午后三時︶ 未明ニ家人ヲ起シテ便通アリ。朝。ヌク飯三ワン。佃煮。ナラ漬。胡くる桃み飴煮。便通及繃帯トリカヘ。腹猶なお張ル心持アリ。牛乳五合ココア入。小菓数個。午。堅かつ魚おノサシミ。ミソ汁実ハ玉たま葱ねぎト芋。粥三ワン。ナラ漬。佃煮。梨一ツ。葡萄四房。間食。牛乳五合ココア入。ココア湯。菓子パン小十数個。塩センベイ一、二枚。夕。焼鰮いわし四尾。粥三ワン。フヂ豆。佃煮。ナラ漬。飴二切。巴パ里リ浅井氏ヨリ上ノ如キ手紙来ル。
こう書いてあって、そのうえの方にワットマン紙の水彩絵ハガキが張りつけてある。川の水が緩く流れていて、黒い色の目めが金ねば橋しが架かっている。その橋が水に映っているところである。その向うに翠みどりの濃い山が見えて、左手には何かポプラアのような木が五、六本かいてある。その余白に﹁ほととぎす著。昨日虚子君の消息を読み泣きました。この画はグレーといふ田舎の景色なり御病床の御慰みまで差上候。木魚生﹂とあり、それから﹁只今は帰りがけに巴里によりて遊居候その内に帰朝致久ひさ振しぶりにて御伺申すべく存候御左右その後いかが被なさ為れ入候哉や。三十四年八月十八呉くれ秀三﹂とあり、その他に和田英作満みつ谷たに国くに四しろ郎う氏も通信している。正岡先生はこの絵ハガキを﹃仰臥漫録﹄と簽せんした帳面に張りつけて朝な夕なにながめておられたのであった。私は計らずも故正岡先生と呉先生との精神上芸術上のこの交渉を見出いだして、不思議な因縁のつらなりに感動したのであったことを今想起する。
呉先生の欧洲留学に出掛けられたときの諸名家の送別の詩しい歌かち帖ょうを私は一度先生の御宅で拝見した。それは長風万里と題した帖であって、その中に正岡先生の自筆俳句がある。﹁瓜うり茄なす子び命があらば三年目﹂というのである。正岡先生はこの時既に病の篤あついのを知っておられた。三年の後呉先生の帰朝されて再たび面会された時、相互のその喜びその憂い誠に如いか何がであったろうか想像に余りあることである。
私がいまだ少年で神田淡路町の東京府開成中学校に通っているころである。多分その学校の四級生︿今の二年生﹀ぐらいであっただろうか。学校の課程が済むと、小川町どおりから、神保町どおりを経て、九段近くまでの古本屋をのぞくのが楽しみで、日の暮れがたに浅草三みす筋じま町ちの家に帰るのであった。ある日小川町通の古本屋で﹃精神啓微﹄と題だい簽せんした書物を買って、めずらしそうにひろい読みしたことを今想起する。その古本屋は今は西洋鞄かば鋪ん︵旅行用鞄製造販売︶になり、その隣は薬湯︵人参実母散薬湯稲川楼︶になっている。﹃精神啓微﹄は呉先生がいまだ大学生であったころに書かれたもので、初版は明治二十二年九月廿日の刊行である。その後私が第一高等学校の学生になった時、本郷のある書鋪で、﹃精神啓微﹄の第二版を求め得た。第二版は明治二十三年十月十日の刊行で、表紙の字が初版よりも少し細くなっており、巻末に世評一般がのせてあって、その中には﹃国民の友﹄記者の評に対する森林太郎先生の弁べん駁ばく文などもある。
﹃精神啓微﹄は脳髄生理から出発して形而上学の諸問題に触れ精神の本態に言及されたものであるが、﹁万象ヲ鑒かん識しきスルノ興奮ハ視官ニ於テ最盛ナリ。光線ノ発射ト色沢ノ映昭トハ吾ごじ人んノ終身求メテ已やマザル所ナリ。耳モ亦また之これニ同ク、響ト音トハ其常ニ欲スル所タリ。光ヲシテ絶無ナラシメバ聴覚ノ困弊果シテ如いか何ん。天地皆暗ク満目冥めい冥めいタラバ眼ナキト別ツベキナク、万物尽ことごとく静ニシテ千里蕭しょ条うじょうタラバ耳ナキト別ツベキナシ。何ヲ以テ吾人ノ心情ヲ慰スルニ足ランヤ﹂というごとき荘厳簡浄の文体からなっているので、いまだ少年であった私がいたく感動して、著者である呉先生の名を今でもよくおぼえていることは、極めて自然的な心の過程であったような気がしてならない。
﹃精神啓微﹄の初版を買ってから幾年ぐらい経ってからであったろうか。私は冨山房発行の﹃人身生理学﹄︿明治二十六年九月十日初版発行﹀を買った。当時私が良教科書として尊敬しておった所の五島清太郎氏著﹃中等動物学教科書﹄白井光太郎氏著﹃中等植物学教科書﹄山やま県がた正雄氏著﹃中等生理学教科書﹄︿以上三書共に金港堂発行﹀など以外に、﹃人身生理学﹄を求め得てひどく喜んだことを想起する。﹃人身生理学﹄は中学校程度の教科書としては甚はなはだくわしいもので、そのころ知識欲の熾さかんであった私の心を刺しげ戟きしたのみでなく、その文章はたとえば、﹁作業ノ健康ニヨキハ其休止ト適当ニ交代スルニアリ。精励勉強ノミアリテ逸予休きゅ竭うけつナケレバ精神身体共ニ頽たい廃はいスベシ﹂。あるいは、﹁人既ニ生ルレバ皆各其体質アリ。筋骨強堅ニシテ肩広ク胸きょ瞠うどう大ニ毛髪叢そう生せいシ、膚色潤沢ニ歯整ヒ且かつ強ク、臓腑善よク発達スルモノ之これヲ強壮ノ体質トシ、之ニ反スルヲ羸るい弱じゃくノ体質トス﹂などというが如きものであって、いまだ見ぬ著者呉先生を欽きん慕ぼする念の募りいたることは推するに決して難くはない。
ある時また私は、﹃人体ノ形質生理及ビ将護﹄という合本講義録を買い得た。どこの講習会で講ぜられたものか。明治何年ごろに講ぜられたものか。もはや今の私には分からないが、はじめの方で男子の形態を記載した条くだりに、﹁稜りょ々うりょうトシテ鋭シ﹂の句があり、脳髄を説かれた条に、﹁大脳ハ精神ノ物質的代標タリ﹂とあるのを、私は忘れずにいた。今春呉先生を祝いまつる会に参列するために、私は東京に帰って来て、中学校時代のいろいろの書物をさがしたが、大方は売ってしまっていたのに、不思議にもこの講義録は行こう李りの隅の方から出て来た。そこでしらべてみると、﹁女子ニハ皮膚下ノ脂肪富ふせ贍んナルガ為ニ形態豊満ニシテ、男子ニハ筋肉腱骨ノ強大ニシテ挺てい起きスルガ為ニ其形態稜々トシテ鋭シ﹂という文章であった。いまだ少年であった頃の私が紅あか鉛筆で標しるしを打ってある文章の一つに、﹁精神的養生ト云ヘルモ亦また然しかリ。整然タル休養ヲナシツツ絶エズ習練スルコト最モ須しゅ要ようナリ。知覚ノ能ハ実歴親験ノ重ナルニ随したがヒテ長ジ、記憶ノ能ハ同一ノ観像ヲ屡しばしば反復スルニヨリテ長ジ、弁別ノ能ハ原因結果ノ比較ヲ屡スルニヨリテ長ズ。他ノ高等精神作用亦皆習練ニヨリテ育成セラルルコト此これニ同キモノナリ﹂というのがある。此かくの如く呉先生の著書の幾通が偶然か否か私の手に入ったためか、その頃まだ少年であった私が未見の呉先生に対する一種の敬慕の心は後年私が和歌を作るようになって、正岡子規先生の著書を何くれとなく集め出した頃の敬慕の心と似ているような気がする。私の中学校の同窓に橋健行君がいて、橋君が私よりも二年はやく呉先生の門に入ったということも、私に取りては極めて意味の深いことである。
明治三十五年の秋頃か、明治三十六年の春のころかに、第一高等学校の前庭で故第一高等学校教師プッチール氏 Fritz Putzier︵1851-1901︶の胸像除幕式が行われた。その時第三部一年生であった私がおおぜいの生徒らの後ろの方に立って、式の行われるのを見ていた。独ドイ逸ツ公使伯爵ワルライ氏 Von Arco Valley︿明治三十四年から明治三十九年まで独逸公使であった﹀の演説があり、当時の第一高等学校独逸語教師メンゲ氏 Menge の演説があり、第三部三年生からは片山久寿頼氏、二年生からは関口蕃樹氏などが、生徒代表者として出て、何か言ったのであったが、独逸公使の次に額ひろく、眼光鋭く、鬚ひげが豊かで、後年写真版で見たニイチェの鬚のような鬚をもったひとりの学者が、プッチール氏から教を受けた人々の総代として独逸語で演説された。私のそばにいた三年生のひとりが、﹁あれは呉博士である﹂とおしえてくれた。﹃精神啓微﹄﹃人身生理学﹄﹃人体ノ形質生理及ビ将護﹄などの著者を私はその時はじめて目まのあたり見たのであった。そして私は目をってふかいなつかしい一種の感動をもって瞬時も免のがすまいとしてその人を見たのであった。
明治三十九年七月はじめから法医学教室の講堂で先生の心理学講義があって、七月十一日に終了した。その時私ははじめて先生の講義を聴いたのであった。また先生の助手として森田正馬さんなどが、その席にいて、私は西洋語の綴つづ方りかたを訊ねたりした。私はもう医科大学の二年生になろうとしており、父上が独逸から帰って精神病医として立っていたのであるから私が先生の門に入る機縁はそのあたりから形成されていたのである。私は学生として先生の講こう筵えんに出席している間に﹃精神病学集要﹄・﹃精神病学要略﹄・﹃精神病鑑定例﹄・﹃精神病検診録﹄・﹃精神病診察法﹄等の書物を知り、傍ら﹃柵しがらみ草紙﹄の文章や医学雑誌︵﹃中外医事新報﹄︶に連載された徳川時代の医学という論文などを読んで見たりした。
明治四十三年十二月のすえに卒業試問が済むと、直ぐ小石川駕かご籠ま町ちの東京府巣鴨病院に行き、橋健行君に導かれて先生に御目にかかった。その時三宅先生やその他の先輩にも紹介してもらった。明治四十四年一月から、いよいよ先生の門に入り専門の学問を修めることとなったのであるが、先生の回診は病室の畳のうえに据わられて、くどくどと話す精神病者の話を一時間にても二時間にても聴いておられた。それがいかにも楽しそうで、ちっとも不自然なところがない。私は先輩の医員の後ろの方から、先生の如かく是のごとき態度を覗のぞ見きみながら、先生の﹁問診﹂がすなわち既に﹁道﹂を楽しむの域に達しているのではなかろうかなどと思ったことを今想起する。私は先生の教室に入れていただいてから、既に十年を経過した。先生莅りし職ょく廿五年の祝賀会を挙ぐるにあたって、先生の偉大さ先生の本質を申す者には、同門の先輩中その人に乏しくはない。門末の私が先生について敢あえて論讚にわたる言をなすのは、おのずから僭せん越えつの誚しょうを免れず、不遜の罪を免れぬであろう。私はただ少年時における私の心持を想起し、それを記して、謹んで先生を祝福する。︵この文章は大正十年二月長崎において稿を起し、十一月一日熱田丸船上にて書おわったものである︶