私は七つのとき村の小学校に入つたが、それは明治廿一年であつた。丁度そのころ、私の兄が町の小学校からベースボールといふものを農村に伝へ、童幼の仲間に一時小流行をしたことがあつた。東北地方の村の百姓は、さういふ閑をも作らず、従つて百姓間にはベースボールは流行せずにしまつた。
正岡子規が第一高等中学にゐてベースボールをやつたのは、やはり明治廿二年頃で、松羅玉液といふ随筆の中でベースボールを論じたのは明治廿九年であつた。松羅玉液の文章は驚くべきほど明快でてきぱきしてゐる。本基︵ホームベース︶廻了︵ホームイン︶討死、除外︵アウト︶立尽、立往生︵スタンデング︶などの中、只今でもその名残をとどめてゐるものもあるだらう。
﹃球戯を観る者は球を観るべし﹄といふ名文句は、子規の創めた文句であつた。﹃ベースボールには只一個の球ボールあるのみ。而して球は常に防者の手にあり。此球こそ此遊戯の中心となる者にして球の行く処、即ち遊戯の中心なり。球は常に動く故に遊戯の中心も常に動く﹄云々に本づくのであつた。
明治卅一年、子規はベースボールの歌九首を作つた。明治卅一年といへば、子規の歌としては最も初期のもので、かの百中十首の時期に属する。
﹃久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも﹄。子規も明治新派和歌歌人の尖端を行つた人であるが、﹃久方の﹄といふ枕言葉は天あめにかかるものだから同音のアメリカのアメにかけた。かういふ自在の技法をも子規は棄てなかつた。また一首の中に、洋語系統のアメリカビト、ベースボールといふ二つの言葉を入れ、そのため、結句には、﹃見れど飽かぬかも﹄といふやうな、全くの万葉言葉を使つて調子を取らうとしたものである。つまり子規のその時分の考へは、言葉といふものは、東西古今に通じて、自由自在を目ざしたものであり、その資材も何でもかでもこだはることなく、使ひこなすといふことであつた。ベースボールの歌を作つたのなどもやはりさういふ考へに本づいたものであつた。それ以前にも﹃開化新題﹄の和歌といふものがあつたけれども、それと子規の新派和歌とは違ふのである。
﹃若わか人ひとのすなる遊びはさはにあれどベースボールに如くものもあらじ﹄。これはベースボールといふ遊戯全体を讚美したものである。
﹃国人ととつ国人と打ちきそふベースボールを見ればゆゆしも﹄。競技が国内ばかりでなく、外国人相手をもするやうになつたことを歌つたもので、随筆に、﹃近時第一高等学校と在横浜米人との間に仕マツ合チありしより以来ベースボールといふ語は端なく世人の耳に入りたり﹄云々ともある。
﹃打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に﹄の結句﹃人の手の中に﹄はベースボール技術を写生したのであつた。﹃今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな﹄は、ベースといふ字をそのまま使つてをり、満基︵フルベース︶の状態を歌つたもので、人をはらはらさせる状態を歌つてゐる。一小和歌といへども、ベースボールの歴史を顧れば感慨無量のものとなる。