イーサル川は南の方のアルプス山中から出て、北へ向つて流れてゐる。分水嶺は既に独ドイ逸ツの国境を越して墺オー太スト利リーの領分になつてゐるので、さう手たや易すく其そ処こを極めることは出来ないやうである。 川の沿岸には、Tテlルzツ, Mミnユcンhヘeンn, Lラaンnヅdフsーhトut, Lラaンnダdウauなどの町があり、ミユンヘンはそのうちで一番大きい。川は道を稍やや東の方に取つて、Dデeツgゲgンeドnルdフorf の近くに来てドナウに這は入ひる。Tテlルzツ からもつと水みな上かみに Lレeンnグgグgリrーiスesといふ一小せう邑いふがあり、眺ながめのいい城がある。Hホoーhヘeンnブbルuクrgの城といふのはそれである。 ドナウの流れは﹃藍のドーナウ﹄と謂いふが、ここは、﹃緑のイーサル﹄である。“Solang die grne Isar, durch's mnch'ner Stadt'el geht.”といふ古い歌謡は、ミユンヘンの市民が麦ビー酒ルに酔うてよくうたふのであつた。 私は西暦一九二三年の夏にこの土地に来、翌年の夏までゐたので、屡しばしばこの川に親しみ、心に憤怒があり、心に違和があるときには、いつも私はひとりこの川べりに来て時を消すことをしてゐた。 ここに来て間もなく日本大地震の報に接し、前途が暗あん澹たんとしてゐた時にも私はよくこの川かは原らに来た。まだ気候が暑いので、若者に童子を交へて泳ぎ、寒くなると砂原に焚たき火びをしてあたつて居る。そこから少し離れたところに少女の一組が泳ぎ、中にはもう体の定まつたのも居り、稍やや恥を帯びた形をして水から上がつて来たりして居る。川は概して急流であるが、流が緩慢のところがあり、さういふところを尋ねて彼等は泳いで居る。ここの川にも矢張り支流があつて、流れ込む有様が見えてゐる。流の岸は人造石の堤防で堅めてゐるので、水は割合に激せずに流れるのであるが、それでもその堤防の損じた処がところどころにある。恐らく春の雪ゆき解どけの季節に洪水のする為しわ業ざであるだらう。長い木の橋が掛かつてゐたりして、そこを大勢の人が往来してゐる。日曜の散策であるがここの住民は、維ウ也イ納ンなどに比して都雅でなく、山国の趣が抜けないやうに見える。 ある日、友人の家で日本飯を焚たいてもらひ、それに生卵をかけ大根に塩を附けながら食つた。満腹してここの川原に来るといい気持である。川原には砂原の上に川柳の一めんに生えたところがある。豌ゑん豆どうのやうな花の咲いた細かい草などもある。向うの土手のところに山や羊ぎの一群が居り、少女ひとりが鵞がて鳥うの一群を遊ばせてゐたりする。生れ故郷の日本のやうに、蝉のこゑも聞こえず、きりぎりすのやうな夏の昆虫も聞こえない。かういふ静かな川原の柳の木蔭に、潜むやうにして私がゐると、﹃ヒネエゼ!﹄かう突然こゑがして、ひとりの童子が向うの柳のかげに隠れたりする。 また、或る夏の暑い日曜にここの川原を歩くと童幼が砂をいぢつて遊んでゐる。一人の小さい男の子が急がしさうに私の傍に来て何か言ふ。が、私にはちつとも分からない。私は三度も四度も問返して辛うじて意味だけが分かつた。﹃ぼくの妹の靴紐ひもが長過ぎますから、切つてやらうとおもひます。小こが刀たなを持つて居りませんか﹄かういふのであつた。私が非常に骨折つて理解した独逸語は如によ是ぜのものに過ぎぬ。いま当時の日記を検するに、これは九月二十三日のことで、﹃嗚あ呼あ、言葉はむづかし﹄と書いてある。 また或日、この川に掛かつてゐる町中の橋の上に立つて、急きふ潭たんのさかまくのを見てゐた。それから橋を渡つて木立の中から水際に下りて行き、二時間ばかり水を見てゐた。太陽が傾いたので飛ひま沫つのうちに虹が暫しばらく立つたりする。イーサル川が二わかれして、その中に此こ処この木立がある。木立の中には今は誰もゐず、ある数学者の銅像が一つある。私はゆうべ見たヒマラヤ山中の活動写真の光景などを思浮べ、しきりに眠気を催すのであつた。二わかれした向うの流の方には釣してゐる者が五六人ゐる。市場で買へば手てつ取とり速ばやく済むのに、気長に釣つてゐるところは、東洋国の風習とちつとも変りはない。何向き、市街の真中にかういふ河水の怒どた濤うを見るのは気味がいいのである。 ある日、軽い頭痛がして川原を歩いてゐると、出て来た雲が見る見るうちに険しくなつて来、むかうに鳴つてゐた雷が急速度に強まる気けは配ひがしたから、兎に角土手の方へ急いだ。川原にゐた老若男女も慌しく駆歩などをするので、これは降るかも知れんといふ気がしてゐるうちに、もう大おほ滴つぶの雨が落ちて来た。雷が既に頭のうへに来て鳴るので、為しか方たがない、差さし向むきむかうに見える記念塔のやうなところまで駈出した。合あひ著ぎの服をだいぶ濡ぬらしてそこまで辿たどりつくと、土地の人で一ぱいである。そのうち川原も川向うの市街も見みさ界かひが付かぬばかりに打けむつて、銀線のやうな雷雨が降つた。雨やどりしてゐる男女老若は笑ぜう談だんなどを云ひ云ひ、一歩も動くことが出来ずに居る。そして口ひげの長い翁などが隣の娘に何かいへば皆がどうつと笑つたりする。どこの国土でも同じい恋愛か何ぞの言葉であらうが、黄色人種の私ひとりが身動きも出来ずにしばらくさういふ気分の中にゐるのも亦また一つの情趣である。三十分も経つたころは、もう向うの空にはけろりとした按あん排ばいに瑠る璃り色のところが見え出して居る、さういふこともあつた。 そのうち追々気候が寒くなつて行つた。十月廿一日、広い森林を抜けて川かは上かみの方へ行つたときには、広い葉の並木はしきりに落葉し、さういふ散ちりしいた落葉を踏んで私どもが歩いて行つた。林中には樅もみが生ひ茂つて、その木こし下たには茸きのこの群生した所もあつた。そこを通抜けると、紅もみ葉ぢして黄色く明るくなつた林を透して深い谿たに間まが見える、その谿間をイーサルの川が流れてゐるのである。川は紺こん碧ぺきになつて川原をつくつて流れてゐる。谿間を隔てて向うは二たび一つの高原を形成してゐる。高原は一めんに紅葉し、静かな家がそこここに散在してゐる。見おろして見てゐるイーサル川は如い何かにも寂しい。途中で麦ビー酒ルを飲み、そこを出たときにはもう対岸の家に燈火がついてゐた。途中で連れになつた独ドイ逸ツ人があるところまで来ると、対岸の一つの家のあたりを指して、ルウデンドルフ将軍はあのへんに居ります。と教へて呉れた。イーサル川は、かういふ断崖の間をも流れるのである。 十月廿八日、けふも一人で﹃緑グリのユネ森ワルト﹄と謂いふ方に行つた。今朝、靴下、越中褌ふんどしなどの洗濯をし、下半身を冷水で洗つた。心が平へい衡かうを得てゐるやうでもあり、不安なやうでもある。地震のため、いまの為しご事とを棄てて帰国せねばならぬとして、陸路を取るにせよ海路を取るにせよ千円はかかるのである。そんならその旅費だけの分をミユンヘンに踏ふみ留とどまつて勉強しようか。と、斯かう心を極きめたのであつた。心が平衡を得たやうに思ふのはそのためであつただらうか。林をいで、散り敷いた落葉のうへに来て憩ふともなく憩ふに早くも眠気を催したので、頭を垂れたまま半時ばかりの仮寝をした。国民党の旗を立てて多勢の遠足隊が私の前を通つたのをも半はん眠みんのやうな状態で意識してゐた。身に寒さむ気けして目が醒さめ、それからイーサルの川の方に下りて行つた。此こ処こに来るとまた別様に寂しい。私から少し離れたところに童どう子じがゐてしきりに谺こだまを起おこしてゐる。童子が、ハルロー! といふと、それが五つも六つもの谺こだまになつて遙はるかの方に消える。童子が、イイヤー、ホホー! といふ。谺が消えてしまふとまた其を繰返す。童子の声は澄んで清い、そして或る節せつ奏そうを持つた間を置いてそれを繰返してゐる。私は、自身欧ヨー羅ロツ巴パに来てゐることを確然と意識せざることを得なかつた。 そこを去つて川上の方に行くに、林中から湧わいた泉が流になつてそそぐところがある。そこに二人の童子が一人の守もりに連れられて遊んでゐた。そこを通過ぎようとすると、一人の童子が来て、時計はもう幾時でせう? といふことを訊きいた。守の方は十六七歳にもならうか可哀らしい顔をしてゐるので私はいろいろ話をして見ようとして近づいた。然しかるに童子のなれなれしく振舞ふに似ず、守の娘は決して私に狎なれ親したしむことをしない。私が数語を以て問へば数語を以て答へるのみである。この地の処女に如によ是ぜの躾しつけもあることを思ひ、興あることに思つたので、挨あい拶さつをして其処を去つた。 気候が寒く、その間に Hヒiツtトlレeルrの騒さう擾ぜうがあつたりして、川べりにも来ずにゐた。年の暮になり日本の留学生と議論して憤怒したときにも川べりに来たのであつたが、その時には川原は一めんの雪で蔽おほはれ、私は川原におりて行かずにしまつた。 寒い冬に閉ぢられ、慌しく日を送つてゐるうちいつか春になつた。雪が解け、草が萌もえ、そして日光の美しい五月が来た。五月十一日の日曜に久しぶりに川べりに来ると、対岸の町に市が立つてゐる。いろいろ価の廉やすい日用品、食料品を商ふ市で、主に労働階級の者を相手にしてゐるやうである。川魚を天てん麩ぷ羅らにして売つてゐたり、著き類の競売などは幾組もある。鉛筆のきずもの、刃物類を山のやうに積んで売つてゐたが、この中で私は大だい根こん卸おろしを一つ買つた。瀬戸物のところに行つたとき、瀬戸でこしらへた日本娘が三とほりばかりある、それを私は買つた。安やす芝しば居ゐがあり、人形芝居がある。人形芝居は見料は客の自由で、児童は無料だから、幕のなかは児童で充満してゐる。大だい蛇じやなどが出て来て頭の禿はげた猟かり人うどを呑のむところをやると、児童らは大ごゑをあげて、アア! などといふのでひどく愉快である。労働者達もけふは日曜なので帽も服も他よそ所ゆ行きのを著、なかには男の子を肩車にして、妻を連れて歩いてゐるのなどもある。路傍に立つて心霊療法の本を売つてゐるのにも労働者等がたかつてゐる。心霊者は髪を長くして、時々医学上の術語を使つたりしてこれも甚だ愉快である。私はこの市で婦人のかぶる頭づき巾ん地ぢを三四枚買つた。これは山村の女のかぶるものだが、日本の風呂敷になるのである。そのなかには太陽の光を模様にしたやうな図案などもあつた。五月十八日の日曜も同じやうに市が立つた。盛な人出で驢ろ馬ばに児童を乗せるところなどは一ぱいになつてゐた。安息日の日曜に商売の市の立つのも私には面白かつた。維ウ也イ納ンならば Mメeツsセseのやうな大きな市を除き、それから Pプrラaーtテeルrのやうな遊び場所を除けば、日曜に働くのは猶ユダ太ヤ族の仕業だぐらゐにおもふのであつた。 五月廿五日、川べりを歩いてくると植木園がある。なかには日本の藤の花を咲かせ、芍しや薬くやく、石せき竹ちくのたぐひを植ゑてゐる。楓かへでの葉が紅くのび、ぼけの木があり、あやめがある。これは個人の経営だが私にはやはり心を引くものがあつた。雨が振つて来たので傘をさしていつまでも園中を逍せう遙えうしたが、芭蕉・蕪村の趣味から行けば、晩春・行春の気品といふべきである。私は秘ひそかに思うたに、この経営者の趣味は、戦前からの惰勢ではあるまいか。戦前には多くの日本留学生が此地に居り、日本飯を焚かしぎ、牛肉の鋤すき焼やきをし、窓前に紅い若葉の楓盆栽をおいて、端はう唄た浄瑠璃を歌つたその名残ではあるまいか。 六月一日、Sシpユeペtテeツcヒhといふ民ミユ顕ンヘンの図書館員と共に汽車でイーサルに沿うて溯さかのぼつた。けふの午前には在郷軍人の記念儀式があつたので、それを見てそれが終つてから汽車に乗つた。汽車で暫しばらく来て Eエbーeベnンhハaウuゼsンenといふところに来た。ここのイーサル川は川下よりも川幅が広く、人々が短ボー艇トを漕こいで遊んだりして居る。さう暑くもないのに泳ぐものがゐる。シナ人二人が一人の独ドイ逸ツ女と連立つて私等のまへを行くが、いい独逸語を使つてゐた。川の水は此処は少しく白く濁つてゐる。近くに僧院があり、そこに多くの少年が養成されてゐる。その少年の読経するところなども私らは見た。Sシpユeペtテeツcヒh君は麦ビー酒ルを好み、私も敢あへて辞せぬので二人はいい心地になるまで飲んだ。けふの遊あそびはイーサル川に来た最後の日になつた。 私は一度、Tテlルzツ に行かうと思ひつつ遂にその念願を果さずにしまつた。Tテlルzツ はイーサル川の上流にある町で、沃ヨー度ド・曹ソー達ダ・硫いわ黄うを含んだ鉱泉が湧わくために一つの浴泉地にもなつてゐる。私は此処のイーサル川の美しい有様を絵葉書で見て時々夢想を馳はせたのであつたが、私の生涯のうちにはそれが出来なくなつてしまつた。