欧ヨー羅ロッ巴パには、骨こっ骼かくの逞たくましい、実に大きな馬がいる。僕は仏フラ蘭ン西スに上陸するや、直すぐその大きな馬に気づいた。この馬は、欧羅巴の至るところで働いている。その骨組が巌丈で、大きな図ずう体たいは、駈かけ競くらべをする馬などと相対せしめるなら、その心持が勿もっ体たいないほど違うのであった。 僕はいまだ童どう子じで、生れた家の庭にわ隈くまでひとり遊んでいると、﹁茂吉、じょうめが通るから、ちょっと来てみろまず﹂母はこんなことをいって僕を呼んだものである。なるほど遥はるか向うの街道を騎馬の人が駆かけ歩あししている。駆歩する馬の後しりえには少しずつ土げむりが立って見える。その遥かな街道は、小山の中腹を鑿ほり開いたのであるから、やや見上げるようになっていた。 じょうめは上じょ馬うめの義ででもあろうか。けれども東北の訛なまりはすでに労働馬と相あい対たいの名に変化していた。その日本の労働馬は欧羅巴のに較くらべるといかにも小さい。 僕は維ウイ也ン納ナで勉強をしていて、朝夕にこの大きな馬を見た。馬は、或る時は石炭を一ぱい積んだ車をひいていた。維也納は困っていた時なので、血の気のうすい上かみさんが佇たたずんでその車をしばらく目送している光景などもあった。馬は或る時は麦ビヤ酒だ樽るを満載して通っていた。或る時は屠ほふった仔こう牛しを沢山積んで歩いていた。仔牛の屍しかばねの下半身が一列にぶらさがっている。下肢と尾が一様の或る律動で揺れている。その上段には仔牛の首の方が一列に並びいる。みんな目をつぶって舌が垂れている。そんな光景もあった。 大きな蹄ひづめが音立てて街上を踏んでいるのを見ると、寂しい留学生の心はいつも和なごんで来た。馬は或る時はらはらさせるほど賑にぎやかなところで悠ゆう々ゆうと黄いろな尿を垂れているのを、暫しばらくながめていたこともある。そして、三軍疾とく戦はば敵人必ず敗亡せむ。武王曰いわく、善よい哉かな。これでなければ駄目だ。こういってはしゃいだこともあった。 或る冬の朝、青い玉菜を山のように積んだ箱ぐるまを引いていた。何しろ玉菜の数が多くて、たかだかと虚こく空うに聳そびえているような気がした。僕はこの光景にひどく感服した。ひとりの翁が車上にあって、二つの馬を馭ぎょしている。鉄てつ錆さびのような声で馬にものいっているが、その単調な語が留学生には分からない。馬の肩のところに頸クム圏メントが二つ並んで、その尖さきが上を向いているのは、馬に一種の威容を保たせている。僕は時々その頸圏のことも思った。 きょうも教室を出て玉菜ぐるまを見ようと思った。徒歩して先ず輪リン街グをめぐった。それからドナウ運河を渡り、プラテル街から道を東北に取って、プラテルに来た。ついにドナウの長橋を渡った。そこで市街が絶えて、ようやく村落の趣になった。 僕は疲れてカフェに入り気のしずまることを欲していた。その時、実に偶然を絶して、大きな玉菜ぐるまが、地ひびき立てて窓前を通った。僕は戸を排し、感心してそれを見た。その時神の加護ということを思うた。次いでこの神は一体 Kosmogonie か Theogonie かと思うた刹せつ那なに、何か罪ふかいような気がしてそれを否定してしまった。