妻はやはり Sexus Sequior と見立てなければつまりは満足は出来まい。そういうことを考えずに済む亭主は、温良で小さく美しくて京人形のような妻を有もっているものに相違ないとおもう。 女を甘やかす今の欧ヨー羅ロッ巴パの※﹇#下側の右ダブル引用符、U+201E、92-5﹈Dame“社会状態は、全亜ア細ジ亜ヤ人からも、それから古代希ギリ臘シヤ、古代羅ロオ馬マの人々からも嘲ちょ笑うしょうされるに極きまっているといったショペンハウエルは、果してそういう京人形のような妻をば有もっていなかった。それであるからショペンハウエルは、若くして恋慕の息いぶ吹きをかけられなかったと同時に、年老いても罪深い女人どもの懺ざん悔げを聞いてやらねばならぬ加カト特リッ力クの坊主の役をつとめなくとも好よかったのである。 そのショペンハウエルは、女というものは足の短い肩の狭い臀しりばかり大きいものだといった。これは欧羅巴の女を罵ののしった言葉なのである。 僕は西暦一九二四年の初秋から、鼻の低い足の短い妻を連れて欧羅巴の大都市を歩いていた。ショペンハウエルが、満身の力をこめて罵ばと倒うした欧羅巴の女どもといえども、どうしても僕の妻よりも器量が好い。けれどもそれを逆にいえば、僕は黄顔細鼻の男に過ぎぬ。これを当年のショペンハウエルに較くらべるなら、所しょ詮せん僕は不器量に相違ないゆえに、諦てい念ねんして二人は一しょに歩いていた。 仏フラ蘭ン西スから英イギ吉リ利スに渡り、英吉利から和オラ蘭ンダ、独ドイ逸ツ、瑞スイ西スとまわって伊イタ太リ利ーのミラノに来た。ミラノに来たのは僕は二度目である、そうして歩いているうちに妻はいつのまにか懐妊していた。僕はミラノでレオナルド・ダ・ヴィンチ一派の絵画をもう一遍見直そうとして、旅たび疲づかれのしている妻を引張りまわしながら丸三日を過ごした。妻は美術館などに入っても、絵画などはどうでもいいというような顔付をして茫ぼう然ぜんとしていることが多かった。けれども僕はそんなことにはかまっていられないような気がして精を出して見て歩いた。 十月二日にミラノを立ってヴェネチアに向った。仏蘭西を出てからもはや二月ほどになった。汽車は急行で、東方へ向って驀まっ地しぐらに走っている。しばらくの間無言でいた妻は、その時何の前置もなしに僕にむいた。そして二人はこういう会話をした。 ﹁日本の梅干ねえ﹂ ﹁何だ﹂ ﹁おいしいわねえ﹂ 会話はそのまま途切れてしまったけれども、僕はその時、今までに経験しなかった一つの感情を経験したのであった。夫婦なんぞというものは一生のうちに一度ぐらいは誰でもこういう感情を経験するものかも知れぬ。あるいは運のいい夫婦はしじゅう経験しているのかも知れぬ。 僕らはヴェネチアに四日いた。けれどもその時は梅干のことなどは忘れたように話さなかった。そしてヴェネチアでは唐とう辛がら子しの酢漬を買って見たり、小こだ蛸このうでたのなどを買って食ったりしたのであった。