むかしむかし、ひとりの漁りょ師うしとそのおかみさんがおりました。ふたりは、海のすぐそばの小こ屋やに住んでいました。漁師はまい日魚さかなつりにでかけました。あけてもくれても、魚つりばかりしていました。 あるとき、漁りょ師うしはつりざおのそばにすわって、きらきらかがやく水のなかをじっとのぞきこんでいました。漁師は、いつまでもすわったきりでした。 と、とつぜん、つり糸が水みな底そこふかくぐんぐんしずんでいきました。漁師がさおをあげてみますと、大きなヒラメがかかっていました。すると、そのヒラメが漁師にむかっていいました。 ﹁ねえ、漁りょ師うしさん、おねがいだから、わたしを生かしておいてください。わたしは、ほんとうはヒラメではなくって、魔まほ法うをかけられている王おう子じなんです。あなたがわたしを殺ころしたところで、なんの役やくにたちましょう。食べてもおいしくはありませんよ。どうかもういちどわたしを水のなかにいれて、にがしてください。﹂ ﹁よしよし。﹂ と、漁りょ師うしはいいました。 ﹁そんなにいろいろいいたてなくてもいい。口のきけるヒラメなら、にがさずにおくもんかい。﹂ こういって、漁師はきらきらかがやいている水のなかへ、もういちど魚さかなをはなしてやりました。ヒラメは水みな底そこへもぐっていきましたが、あとへ長い血ちのすじをのこしていきました。そこで、漁師は立ちあがって、おかみさんのいる小こ屋やにかえっていきました。 ﹁おまえさん、きょうはなんにもとれなかったのかい。﹂ と、おかみさんがたずねました。 ﹁うん、なんにもだ。﹂ と、漁りょ師うしはいいました。 ﹁ヒラメを一ぴきとりはしたがな、そいつが魔まほ法うをかけられた王おう子じだっていうもんだから、またにがしてやっちまった。﹂ ﹁で、おまえさん、そいつになんにもたのまなかったの。﹂ と、おかみさんがたずねました。 ﹁そうよ。﹂ と、漁師はいいました。 ﹁いったい、なにをたのもうっていうんだい。﹂ ﹁あきれたねえ。﹂ と、おかみさんがいいました。 ﹁こんな小こ屋やにいつまでも住んでるなんて、いやんなっちゃうよ。このなかはくさくって、胸むねがむかむかするじゃないの。小さなうちをひとつほしいっていやあよかったのに。もういっぺんいって、そのヒラメをよびだしてさ、わたしたちゃ小さなうちがほしいっていってごらんよ。きっと、くれるから。﹂ ﹁それにしてもなあ――﹂ と、漁りょ師うしはいいました。 ﹁なんだって、もういっぺんいくんだい。﹂ ﹁だってさ、おまえさん、そいつをつかまえて、またにがしてやったんだろ。だから、きっと、なんとかしてくれるさ。すぐいっといでよ。﹂
漁りょ師うしは、それでもまだ気がすすみませんでしたが、おかみさんに反はん対たいしようとも思いませんので、海へでかけていきました。さっきのところへきてみますと、海はすっかりみどり色と黄色になっていて、もうきらきらひかってはいませんでした。 漁りょ師うしは海べに立って、こういいました。
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの
おれの思うようにならんのだ
すると、あのヒラメがおよいできて、いいました。
﹁なんです、おかみさんはなにがほしいっていうんです。﹂
﹁いやなあ。﹂
と、漁りょ師うしはいいました。
﹁おれはおまえをつったろう。だから、おまえになにかたのめばよかったと、女にょ房うぼのやつがいうんだよ。あれはもうぼろ小ご屋やに住むのはいやで、小さなうちが一軒けんほしいんだそうだ。﹂
﹁おかえりなさい。おかみさんには、もううちができていますよ。﹂
と、ヒラメがいいました。
こういわれて、漁師が家にかえってみますと、おかみさんはもう小屋にはいませんでした。そこには小さな家が一軒けんたっていて、おかみさんは戸口のベンチにこしかけていました。おかみさんは漁りょ師うしの手をとって、いいました。
﹁まあ、はいってごらん。まえよりはずっといいよ。﹂
ふたりはなかへはいりました。家には、小さな玄げん関かんと、小さなりっぱな居い間まと、ベッドのおいてある小べやがありました。それに、台だい所どころも食しょ堂くどうもあります。どのへやにもじょうとうの道どう具ぐがそろっていて、入り用なものは、すずやしんちゅうでまことにみごとにそなえつけができていました。さらに家のうしろには、ニワトリやアヒルのいる小さな庭にわもありましたし、いろんな野やさ菜いや、くだものの木のうわっている、ちょっとした畑もありました。
﹁ごらんよ。﹂
と、おかみさんがいいました。
﹁わるくないじゃあないか。﹂
﹁まったくだ。﹂
と、漁りょ師うしがいいました。
﹁ずうっとこのまんまでいてもらいたいもんだ。もう、これでいいとしてくらそうぜ。﹂
﹁まあ、よく考えてみようよ。﹂
と、おかみさんはいいました。
それから、ふたりはなにか食べて、ベッドにはいりました。
こうして、一週間か二週間は、うまいぐあいにすぎました。ところが、そのうちに、おかみさんがこんなことをいいだしました。
﹁ねえ、おまえさん、このうちはせますぎるよ。それにさ、庭にわだって畑だって小さすぎるよ。ヒラメは、もっと大きいうちだってあたしたちにくれられたろうにねえ。あたしゃ大きい石のお城しろに住んでみたいよ。ヒラメのところへいって、お城をもらっといでよ。﹂
﹁あきれたなあ、おまえ。﹂
と、漁りょ師うしはいいました。
﹁このうちでたくさんじゃないか。なんだってお城に住みたいなんていうんだ。﹂
﹁なにいってんだい。いいから、いっといでよ。ヒラメにゃそのくらいのこと、いつだってできるんだよ。﹂
と、おかみさんがいいました。
﹁そいつあ、いけねえよ、おまえ。﹂
と、漁師はいいました。
﹁ヒラメはこのうちをおれたちにくれたばっかりじゃないか。いますぐいくなんて、おれはまっぴらごめんだ。そんなことをすりゃ、ヒラメだって気をわるくすらあ。﹂
﹁いいから、いってきてよ。﹂
と、おかみさんがいいました。
﹁そのくらいのこと、ヒラメならうまくやってのけるよ。よろこんでしてくれるさ。さあさあ、いっといでよ。﹂
漁りょ師うしは気がおもくて、いきたくはありませんでした。
﹁こいつは、どうもよくねえ。﹂
と、漁師はひとりごとをいいましたが、しかたなくでかけていきました。
海にきてみますと、水の色はすっかりスミレ色とあい色と灰はい色いろになっていて、おまけにどろっとしていて、もうまえのようにみどり色や黄色ではありませんでした。でも、まだおだやかでした。
漁りょ師うしはそこに立って、いいました。
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの
おれの思うようにならんのだ
﹁どうしたんです、おかみさんは、いったいなにがほしいんです。﹂
と、ヒラメがいいました。
﹁それがなあ。﹂
と、漁りょ師うしははんぶんびくびくしながら、いいました。
﹁大きな石のお城しろに住みたいっていうんだよ。﹂
﹁おかえりなさい。おかみさんは戸口に立っていますよ。﹂
と、ヒラメがいいました。
そこで、漁りょ師うしはひきかえして、家へかえろうと思いました。ところが、もどってみますと、そこには大きな石のお城しろがそびえています。おかみさんは、ちょうど階かい段だんの上に立っていて、いまなかにはいろうとしているところでした。おかみさんは漁師の手をとって、
﹁なかへおはいりよ。﹂
と、いいました。
こういわれて、漁りょ師うしがおかみさんといっしょになかへはいってみますと、お城しろのなかには、大だい理りせ石きをしきつめた、大きな入り口の間まがありました。そして、そこには召めし使つかいたちがおおぜいいて、大きな扉とびらをつぎつぎとあけてくれました。
ぐるりの壁かべは、みんなぴかぴかひかっていて、美しい壁かけがかかっていました。へやのなかのいすやテーブルは金きんでできていて、天てん井じょうからは水すい晶しょうのシャンデリアがさがっていました。そして、どのへやにもどの小べやにも、すっかりじゅうたんがしきつめてありました。しかもテーブルの上には、ごちそうや、とびきりじょうとうのブドウ酒しゅが、いまにもテーブルをおしつぶしてしまいそうなくらい、いっぱいのせてありました。
それから、お城しろのうしろには大きな庭にわがあって、そこには馬うま小ご屋やも牛小屋もありました。そして、りっぱな馬ばし車ゃも、いく台かおいてありました。
また、世よにも美しい草花や、おいしいくだものの木のうわっている、大きなすばらしい花かだ壇んもありました。それにまた、たっぷり半マイル︵一ドイツマイルは七・五キロメートル︶はある遊ゆう園えんもあって、そこには大きなシカでも、小さなシカでも、ウサギでも、人のほしいと思うものは、なんでもおりました。
﹁どう、よかあない。﹂
と、おかみさんがいいました。
﹁まったくよ。﹂
と、漁りょ師うしがいいました。
﹁ずうっとこのまんまでいたいもんだ。おれたちゃこのきれいなお城しろに住むんだぞ。これでもう、いいとしようぜ。﹂
﹁まあ、よく考えてみようよ。﹂
と、おかみさんはいいました。
﹁とにかく、ねるとしようよ。﹂
こうして、ふたりはベッドにはいりました。
つぎの朝、おかみさんのほうがさきに目をさましました。ちょうど夜よがあけたばかりのところでした。おかみさんは、ベッドのなかから、目のまえにひろがっているすばらしい土地をながめました。
漁りょ師うしはまだ手足をのばして、ねていました。すると、おかみさんはひじで漁師の横よこっ腹ぱらをつっついて、いいました。
﹁おまえさん、おきて、窓まどのそとを見てごらんよ。ねえ、あたしたち、ここらじゅうの王さまになれないもんかね。ヒラメのとこへいっといでよ。あたしたちゃ、王さまになりたいんだもの。﹂
﹁いやんなっちゃうなあ、おまえ。﹂
と、漁りょ師うしがいいました。
﹁なんだって王さまになんかなりたいんだ。おれは王さまなんぞ、ごめんこうむる。﹂
﹁へえ、そうかい。﹂
と、おかみさんがいいました。
﹁おまえさんが王さまになりたくなけりゃ、あたしが王さまになるよ。ヒラメのとこへいってきとくれ。あたしゃ、王さまになりたいんだよ。﹂
﹁おどろいたなあ、おまえ。﹂
と、漁りょ師うしはいいました。
﹁どうしてまた、王さまになんかなりたいんだ。おれは、そんなこというのは、いやだよ。﹂
﹁なにがいやなのさ。﹂
と、おかみさんはいいました。
﹁ぐずぐずいわずに、さっさといってきとくれよ。あたしゃ、どうしたって王さまになるんだから。﹂
そこで、漁りょ師うしはでていきましたが、おかみさんが王さまになりたいなどというものですから、すっかりよわりきっていました。
︵こいつはよくねえ。よくねえこった。︶
と、漁師は思いましたので、いきたくはありませんでした。しかし、どうにもしかたなく、でかけていきました。
海べへきてみますと、海はすっかり黒ずんでネズミ色をしていました。水は底そこのほうからブツブツわきかえっていて、くさったようないやなにおいが、ぷんぷんしていました。
漁りょ師うしはそこに立って、いいました。
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの
おれの思うようにならんのだ
﹁どうしたんです、おかみさんはなにがほしいっていうんです。﹂
と、ヒラメがいいました。
﹁それがなあ。﹂
と、漁師はいいました。
﹁王さまになりたいっていうんだよ。﹂
﹁おかえりなさい。おかみさんはもうのぞみどおりになっていますよ。﹂
と、ヒラメがいいました。
そこで、漁りょ師うしはかえっていきました。お城しろのそばまできてみますと、お城はまえよりもずっと大きくなって、大きな門にはすばらしいかざりがしてあります。扉とびらのまえには番ばん兵ぺいが立っています。そこらじゅうに、おおぜいの兵へい隊たいがいて、たいこやラッパもたくさんありました。
お城しろのなかへはいってみますと、なにもかもがほんものの大だい理りせ石きに金きんをとりあわせたものばかりでした。ビロードのおおいには、大きな金のふさがついていました。
大おお広ひろ間まの扉とびらがあきますと、そこには宮きゅ中うちゅうのお役やく人にんが、ひとりのこらず、いならんでいました。そして漁りょ師うしのおかみさんは、金とダイヤモンドでできている高い玉ぎょ座くざにすわり、大きな金のかんむりをかぶって、金と宝ほう石せきのしゃくをもっていました。そして、おかみさんの両がわには、わかい侍じじ女ょがそれぞれ六人ずつ一列れつにならんで立っていました。そのひとりひとりは、頭の高さだけじゅんじゅんに背せがひくくなっていました。
漁師はおかみさんのまえまで歩いていきますと、立ちどまって、いいました。
﹁おやおや、おまえは王さまになったのかい。﹂
﹁そうだよ、あたしゃ王さまだよ。﹂
と、おかみさんはこたえました。
漁りょ師うしはそこにつっ立ったまま、おかみさんをじろじろながめていました。こうして、しばらくながめてから、漁師はいいました。
﹁なあ、おまえ、おまえが王さまたあ、すばらしいこった。もうこのうえのぞむのはよそうぜ。﹂
﹁それがねえ、おまえさん。﹂
と、おかみさんはちっともおちつかないようすで、いいました。
﹁あたしゃあ、すっかりあきあきしちまって、もうどうにもがまんができないんだよ。ヒラメのところへいってきとくれ。あたしゃ王さまなんだから、こんどは、どうしても皇こう帝ていになりたいんだよ。﹂
﹁じょうだんじゃないよ、おまえ。﹂
と、漁りょ師うしはいいました。
﹁どうしてまた、皇帝になんかなりたいんだ?﹂
﹁おまえさん、ヒラメのとこへいってきとくれよ。あたしゃ、皇帝になりたいんだもの。﹂
﹁だがなあ、おまえ。﹂
と、漁師はいいました。
﹁ヒラメだって、皇こう帝ていになんかするこたあできない。おれは、ヒラメにそんなこというのはいやだ。皇帝といやあ、国じゅうにひとりっきりしかいないもんだ。いくらヒラメだって皇帝をこしらえるこたあできない。どうしたって、そんなこたあできない。できやしないよ。﹂
﹁なんだって。﹂
と、おかみさんがいいました。
﹁あたしが王さまで、おまえさんはただの、あたしの夫おっとなんだよ。すぐいってくれるね。さあ、すぐいってきておくれよ。ヒラメは、王さまだってこしらえたんだもの、皇こう帝ていだってこしらえられるさ。あたしゃ、どんなことをしても皇帝になりたいんだよ。すぐいってきておくれ。﹂
漁りょ師うしはどうしてもいかなければなりません。それで、でかけるにはでかけましたが、なんだか心しん配ぱいで心配でなりませんでした。そして歩きながら、ひとりで考えました。
︵こいつぁあ、よくねえ、よくねえことになるぞ。皇こう帝ていたあ、あんまりあつかましすぎらあ。ヒラメだって、しまいにゃいやになっちまうぞ。︶
こんなことを考えながら、海べにきてみますと、海はまっ黒で、どろどろしていました。そして、底そこのほうからブツブツわきかえりはじめましたので、たちまち、あわだらけになりました。しかもその上を、つむじ風がふきまくるものですから、水はちりぢりにちぢれました。このありさまを見て、漁師はおそろしくなりました。けれども、浜はまべに立って、いいました。
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの
おれの思うようにならんのだ
﹁どうしたんです、おかみさんはなにがほしいっていうんですか。﹂
と、ヒラメがいいました。
﹁それがねえ、ヒラメさん、皇こう帝ていになりたいっていうんだよ。﹂
と、漁りょ師うしはこたえました。
﹁おかえりなさい。おかみさんはのぞみどおりになっていますよ。﹂
と、ヒラメがいいました。
そこで、漁師は家にかえりました。もどってみますと、お城しろぜんたいが大だい理りせ石きづくりになっていて、まっ白な石せっこうの彫ちょ像うぞうもおいてあれば、金きんのかざりもついていました。
扉とびらのまえでは兵へい隊たいたちが行こう進しんして、ラッパをふいたり、大だいこや小だいこをうちならしていました。お城のなかでは、男だん爵しゃくや伯はく爵しゃくや公こう爵しゃくが、家けら来いとしていったりきたりしていました。そしてその人たちが、純じゅ金んきんでできている扉とびらをあけてくれました。
漁りょ師うしがなかにはいってみますと、おかみさんは玉ぎょ座くざにすわっていました。その玉座は、ひとかたまりの金きんでつくってあって、高さはたっぷり二マイルぐらいもありそうでした。そして、おかみさんは金のかんむりをかぶっていましたが、その高さがまた、三エレ︵二メートル︶ほどもあって、ダイヤモンドとルビーがちりばめてありました。それから、かたほうの手にはしゃくをもち、もういっぽうの手には皇こう帝ていのしるしの、宝ほう珠じゅをもっていました。
そのうえ、おかみさんの両がわには、近この衛えへ兵いが二列れつにずらっとならんでいました。それがまた、身みのたけ二マイルもある大男から、ひとりずつじゅんじゅんに小さくなって、おしまいはわたしの小こゆ指びぐらいしかない小男までがならんでいるのでした。そのまえには、ちょうどおなじ数だけの公こう爵しゃくと伯はく爵しゃくが立っていました。
漁りょ師うしはそのなかを歩いていって、まんなかに立ちどまって、いいました。
﹁おまえ、皇こう帝ていになったのかい。﹂
﹁そうだよ、あたしは皇帝だよ。﹂
と、おかみさんはこたえました。
それから、漁師はまた歩いていって、立ちどまりますと、おかみさんをつくづくながめました。しばらくこうしてながめてから、いいました。
﹁なあ、おまえ、おまえが皇こう帝ていたあ、すばらしいこった。﹂
﹁おまえさん、なんだってそんなとこにつっ立ってるんだい。あたしゃ皇帝になったけど、こんどは法ほう王おうにもなりたいんだよ。ヒラメのとこへいってきとくれ。﹂
と、おかみさんがいいました。
﹁あきれてものもいえねえな。﹂
と、漁りょ師うしはいいました。
﹁いったい、おまえがなりたくないってものは、ないのかい。法ほう王おうになんかなれっこねえよ。法王といやあ、キリスト教きょうの世せか界いでたったひとりしかいないんだからな。いくらヒラメだって、法王はこしらえられねえよ。﹂
﹁おまえさん、あたしゃ法ほう王おうになりたいんだよ。さあ、はやくいってきとくれよ。あたしゃ、なんでもかんでもきょうのうちに法王になりたいんだもの。﹂
と、おかみさんがいいたてました。
﹁いやだよ、おまえ。﹂
と、漁りょ師うしはいいました。
﹁おれは、そんなこというのはごめんだ。そいつはよくねえぜ。あんまりあつかましすぎるもの。ヒラメにだって、おまえを法ほう王おうにするなんてこたあ、できやしないよ。﹂
﹁おまえさん、なにをばかなこといってんだい。﹂
と、おかみさんがいいました。
﹁皇こう帝ていにすることができるんなら、法王にだってできるはずさ。さっさといってきとくれ。あたしゃ皇帝で、おまえさんは、ただのあたしの夫おっとなんだよ。すぐいってきてくれるかい。﹂
こういわれますと、漁りょ師うしはびくびくして、でていきました。けれども、からだの力がすっかりぬけてしまったようです。からだはがたがたふるえ、ひざやふくらはぎはがくがくしていました。
風が陸りく地ちの上をビュウビュウふきまくっています。雲は矢やのようにはやくとんでいます。日がくれかかって、あたりがくらくなってきました。木この葉はが、木からバラバラとおちてきました。水は煮にえくりかえるように、とどろきゆれて、バチャバチャと岸べをうっていました。
遠くのほうに、いくそうかの船ふねが見えました。船は波なみの上で、おどったりはねたりしながら、鉄てっ砲ぽうをうって、たすけをもとめていました。
しかし、空のまんなかには、まだわずかながら青いところが見えました。そのまわりは、ひどい嵐あらしのときのように、まっかでした。
このありさまに漁りょ師うしはすっかりおじけづいて、おどおどしながら、浜はまべに立って、いいました。
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの
おれの思うようにならんのだ
﹁どうしたんです、おかみさんはなにがほしいっていうんですか。﹂
と、ヒラメがいいました。
﹁それがねえ。﹂
と、漁りょ師うしはこたえました。
﹁法ほう王おうになりたいっていうんだよ。﹂
﹁おかえりなさい。おかみさんはのぞみどおりになっていますよ。﹂
と、ヒラメがいいました。
そこで、漁師はかえっていきました。もどってみますと、こんどは、りっぱな宮きゅ殿うでんでかこまれた大きな教きょ会うかいのようなものがたっています。
漁りょ師うしが人ごみをおしわけていきますと、そのなかは、何千というあかりであかあかとてらされていました。おかみさんは金きんの衣いし装ょうを身みにつけて、まえよりもずっと高い玉ぎょ座くざにすわり、大きな金のかんむりを三つもかぶっていました。
そのまわりには、坊ぼうさんたちがおおぜいいました。それから、両がわには、ろうそくが二列れつに立てられていました。そのなかのいちばん大きいのは、世せか界いでいちばん大きい塔とうぐらいもふとくて大きく、いちばん小さいのは台だい所どころの豆まめろうそくぐらいしかありませんでした。
皇こう帝ていや王さまがひとりのこらずそこにいて、おかみさんのまえにひざまずいて、そのくつにせっぷんしていました。
﹁おまえ――﹂
と、漁りょ師うしはいって、おかみさんをじろじろながめました。
﹁法ほう王おうになったのかい。﹂
﹁そうだよ、あたしは法王だよ。﹂
と、おかみさんはいいました。
それから、漁師はそばへあゆみよって、おかみさんをじいっと見つめました。そのようすは、まるで明るいお日さまを見ているようでした。こうして、しばらく見つめてから、いいました。
﹁なあ、おまえ、おまえが法ほう王おうたあ、すばらしいこった。﹂
けれども、おかみさんは、まるで木のようにしゃちほこばって、身みう動ごきひとつしません。
そこで、漁りょ師うしはいいました。
﹁おまえ、もうこれでいいとしろよ。おまえは法ほう王おうなんだぞ。もうこれいじょうのものにはなれやしねえ。﹂
﹁まあ、よく考えてみるよ。﹂
と、おかみさんはいいました。
こうして、ふたりはベッドにはいりました。けれども、おかみさんはまだ満まん足ぞくしてはいませんでした。おかみさんは欲よくの皮かわがつっぱって、どうしてもねむることができません。こんどはなんになってやろうかと、そんなことばかり考えていたのです。
漁りょ師うしのほうは、すぐにぐっすりとねむりこんでしまいました。むりもありません。一日じゅうかけずりまわったんですからね。
ところがおかみさんのほうは、どうにもねむることができず、ひと晩ばんじゅう、ごろごろねがえりばかりうっていました。そして、こんどなれるのはなんだろうと、いっしょうけんめい考えていましたが、なにひとつ思いつくことができませんでした。
そうしているうちに、とうとう、お日さまがのぼりだしました。おかみさんは東の空が明るくなってくるのを見ますと、ベッドのはしにからだをおこして、そっちのほうをじっとながめていました。こうして、窓まどのそとにお日さまがのぼってくるのを見ますと、おかみさんは、
︵ふん、あたしにも、お日さまやお月さまをのぼらせることはできないもんかね。︶
と、こんなことを考えました。
﹁おまえさん。﹂
と、おかみさんはいいながら、漁りょ師うしのあばら骨ぼねをひじでつつきました。
﹁おきて、ヒラメのとこへいってきとくれ。あたしゃ神かみさまになりたいんだよ。﹂
漁師はまだねぼけまなこでいましたが、びっくりぎょうてんして、ベッドからころげおちました。そして、じぶんがききちがえたのではないかと思って、目をこすりこすり、
﹁ねえ、おまえ、いまなんていったんだい。﹂
と、たずねました。
﹁おまえさん。﹂
と、おかみさんはいいました。
﹁あたしゃあね、じぶんでお日さまやお月さまをのぼらせることもできないで、お日さまやお月さまがのぼっていくのを、ただぼんやりながめているだけじゃ、どうにも承しょ知うちができないんだよ。じぶんでのぼらせることができないようなら、もう一時間だっておちついちゃいられないよ。﹂
こういって、おかみさんはおそろしい顔をして漁りょ師うしをにらみつけたものですから、漁師はふるえあがってしまいました。
﹁さあ、さっさといってきとくれ。あたしゃ神かみさまになりたいんだよ。﹂
と、おかみさんがいいました。
﹁なあ、おまえ。﹂
と、漁りょ師うしはいって、おかみさんのまえにひざまずきました。
﹁そんなこたあ、ヒラメにゃできやしないよ。皇こう帝ていや法ほう王おうにならすることもできるけどさ。おねがいだから、このまま法王でがまんしていてくれよ。﹂
それをききますと、おかみさんはものすごく腹はらをたてました。髪かみの毛けはさかだってぼうぼうになり、胸むねははだけました。そうして、漁師をけとばして、さけびました。
﹁あたしゃあ、もうがまんできない。もうこれっぱかしもがまんできない。おまえさん、いってくれるかい。﹂
そこで、漁りょ師うしはあわててズボンをはいて、気がくるったようにかけだしました。
ところが、おもては、ものすごい嵐あらしがあれくるっていましたので、漁師はほとんど立っていることもできないくらいでした。
家や木ぎはひっくりかえり、山やまはぐらぐらゆれて、岩はごろごろと海のなかにころがりおちました。空はまっ黒で、かみなりがとどろきわたり、いなびかりがぴかぴかひかっていました。海は教きょ会うかいの塔とうか山ぐらいもあるまっ黒な大おお波なみをもりあげていました。その大波のひとつひとつのてっぺんには、白いかんむりのようにあわがわきたっていました。
漁りょ師うしは大声をはりあげてどなりましたが、じぶんの声もきこえないくらいでした。
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの
おれの思うようにならんのだ
と、ヒラメがいいました。
「それがねえ、
「おかえりなさい。おかみさんは、もとのぼろ
と、ヒラメがいいました。
ふたりは、それからずうっと、いまでも、その小屋のなかにすわっていますよ。