ジョン・ヒンクマン氏の田園住宅は、いろいろの理由から僕にとっては甚はなはだ愉快な場所で、やや無遠慮ではあるが、まことに居いご心こ地ちのよい接待ぶりの寓ぐう居きょであった。庭には綺麗に刈り込んだ芝原と、塔のように突っ立った槲かしわや楡にれの木があって、ほかにも所どころに木立ちが茂っていた。家から遠くないところに小さい流れがあって、そこには皮付きの粗末な橋が架けてあった。
ここらには花もあれば果物もあり、愉快な人たちも住んでいて、将棋、玉突き、騎馬、散歩、魚釣りなどの遊戯機関もそなわっていた。それらはもちろん、大いに人を惹ひくの力はあったが、単にそれだけのことでは、そこに長居をする気にはなれない。僕は鱒ますの捕れる時節に招待されたのであるが、まず初夏の時節をよしとして訪問したのである。草は乾いて、日光はさのみ暑からず、そよそよと風が吹く。その時、わがマデライン嬢とともに、枝の茂った楡の下蔭をそぞろに歩み、木立のあいだをしずかに縫ってゆくのであった。
僕はわがマデライン嬢といったが、実のところ、彼女はまだ僕のものではないのである。彼女はその身を僕に捧げたというわけでもなく、僕のほうからもまだなんとも言い出したのではなかったが、自分が今後この世に生きながらえてゆくには、どうしても彼女をわがものにしなければならないと考えているので、自分の腹のうちだけでは、彼女をわがマデラインと呼んでいるのであった。自分の考えていることを早く彼女の前に告白してしまえば、こんな独りぎめなどをしている必要はないのであるが、さてそれが非常にむずかしい事件であった。
それはすべての恋する人が恐れるように、およそ恋愛の成るか成らぬかの間にまた楽しい時代があるのであるから、にわかにそれを突破して終末に近づき、わが愛情の目的物との交通または結合を手早く片付けてしまうのを恐れるばかりでなく、僕は主人のジョン・ヒンクマン氏を大いに恐れているがためであった。かの紳士は僕のよい友達ではあるが、彼にたいしておまえの姪めいをくれと言い出すのは、僕以上の大胆な男でなければ出来ないことであった。彼女は主としてこの家内いっさいのことを切り廻している上に、ヒンクマン氏がしばしば語るところによれば、氏は彼女を晩年の杖はしらとも頼んでいるのであった。この問題について、マデライン嬢が承諾をあたえる見込みがあるなら断然それを切り出すだけの勇気を生じたでもあろうが、前にもいう通りの次第で、僕は一度も彼女にそれを打ち明けたことはなく、ただそれについて、昼も夜も――ことに夜は絶えず思い明かしているだけのことであった。
ある夜、僕は自分の寝室にあてられた広びろしい一室の、大きいベッドの上に身を横たえながら、まだ眠りもやらずにいると、この室内の一部へ映さし込んできた新しい月のぼんやりした光りによって、主人のヒンクマン氏がドアに近い大きい椅子に沿うて立っているのを見た。
僕は非常に驚いたのである。それには二つの理由がある。第一、主人はいまだかつて僕の部屋へ来たことはないのである。第二、彼はけさ外出して、幾日間は帰宅しないはずである。それがために、僕は今夜マデライン嬢とあいたずさえて、月を見ながら廊下に久しく出ていることが出来たのであった。今ここにあらわれた人の姿は、いつもの着物を着ているヒンクマン氏に相違なかったが、ただその姿のなんとなく朦もう朧ろうたるところがたしかに幽霊であることを思わせた。
善良なる老人は途中で殺されたのであろうか。そうして、彼の魂こん魄ぱくがその事実を僕に告げんとして帰ったのであろうか。さらにまた、彼の愛する――の保護を僕に頼みに来たのであろうか。こう考えると、僕の胸はにわかにおどった。
その瞬間に、かの幽霊のようなものは話しかけた。
﹁あなたはヒンクマン氏が今夜帰るかどうだか、ご承知ですか﹂
彼は心配そうな様子である。この場合、うわべに落ち着きを見せなければならないと思いながら、僕は答えた。
﹁帰りますまい﹂
﹁やれ、ありがたい﹂と、彼は自分の立っていたところの椅子に倚よりながら言った。﹁ここの家うちに二年半も住んでいるあいだ、あの人はひと晩も家うちをあけたことはなかったのです。これで私がどんなに助かるか、あなたにはとても想像がつきますまいよ﹂
こう言いながら、彼は足をのばして背中を椅子へ寄せかけた。その姿かたちは以前よりも濃くなって、着物の色もはっきりと浮かんできて、心配そうであった彼の容貌も救われたように満足の色をみせた。
﹁二年半……﹂と、僕は叫んだ。﹁君の言うことは分からないな﹂
﹁わたしがここへ来てから、たしかにそれほどの長さになるのです﹂と、幽霊は言った。﹁なにしろ私のは普通の場合と違うのですからな。それについて少しお断わりをする前に、もう一度おたずね申しておきたいのはヒンクマン氏のことですが、あの人は今夜たしかに帰りませんか﹂
﹁僕の言うことになんでも嘘はない﹂と、僕は答えた。﹁ヒンクマン氏はきょう、二百マイルも遠いブリストルへいったのだ﹂
﹁では、続けてお話をしましょう﹂と、幽霊は言った。﹁わたしは自分の話を聴いてくれる人を見つけたのが何より嬉しいのです。しかしヒンクマン氏がここへはいって来て、わたしを取っつかまえるということになると、わたしは驚いて途とほ方うに暮れてしまうのです﹂
そんな話を聞かされて、僕はひどく面喰らってしまった。
﹁すべてが非常におかしな話だな。いったい、君はヒンクマン氏の幽霊かね﹂
これは大胆な質問であったが、僕の心のうちには恐怖などをいだくような余地がないほどに、他の感情がいっぱいに満ちていたのであった。
﹁そうです。わたしはヒンクマン氏の幽霊です﹂と、相手は答えた。﹁しかし私にはその権利がないのです。そこで、わたしは常に不安をいだき、またあの人を恐れているのです。それはまったく前例のないような不思議な話で……。今から二年半以前に、ジョン・ヒンクマンという人は、大病に罹かかってこの部屋に寝ていたのですが、一時は気が遠くなって、もう本当に死んだのだろうと思われたのです。その報告があまり軽けい率そつであったために、彼はすでに死んだものと認められて、わたしがその幽霊になることに決められたのです。さていよいよその幽霊となった時、あの老人は息を吹きかえして、それからだんだんに回復して、不思議に元のからだになったと分かったので、その時のわたしの驚きと怖れはどんなであったか。まあ、察してください。そうなると、私の立場は非常に入り組んだ困難なものになりました。ふたたび元の無形体に立ちかえる力もなく、さりとて生きている人の幽霊になり済ます権利もないというわけです。わたしの友達は、まあそのままに我慢していろ、ヒンクマン氏も老人のことであるから長いことはあるまい。彼が今度死ねば、おまえの地位を確保することが出来るのだから、それまで待っていろと忠告してくれたのですが……﹂と、かれはだんだんに元気づいて話しつづけた。
﹁どうです、あの爺じいさん。今までよりも更に達者になってしまって、私のこの困難な状態がいつまで続くことやら見当がつかなくなりました。わたしは彼と出逢わないように、一日じゅう逃げ廻っているのですが、さりとてここの家を立ち去るわけにはいかず、また、あの老人がどこへでも私のあとをつけて来るように思われるので、実に困ります。まったく私はあの老人に祟たたられているのですな﹂
﹁なるほど、それは奇妙な状態に立ちいたったものだな﹂と、僕は言った。﹁しかし、君はなぜヒンクマン氏を恐れるのかね。あの人が君に危害を加えるということもあるまいが……﹂
﹁もちろん、危害を加えるというわけではありません﹂と、幽霊は言った。﹁しかし、あの人の実在するということが、わたしにとっては衝ショ動ックでもあり、恐テロ怖ルでもあるのです。あなたがもし私の場合であったらばどう感じられますか。まあ、想像してごらんなさい﹂
僕には所しょ詮せんそんなことの想像のできるはずはなく、ただ身ぶるいするばかりであった。幽霊はまた言いつづけた。
﹁もし私が質たちのわるい幽霊であったらば、ヒンクマン氏より他の人の幽霊になったほうが、さらに愉快であると思うでしょう。あの老人は怒りっぽい人で、すこぶる巧妙な罵ばり詈ぞう雑ご言んを並べ立てる……あんな人にはこれまでめったに出逢ったことがありません。そこで、彼がわたしを見つけて、わたしがなぜここにいるか、また幾年ここにいるかということを発見したら……いや、きっと発見するに相違ありません……そこにどんな事件が出しゅ来ったいするか、わたしにもほとんど見当がつかないくらいです。わたしは彼の怒ったのを見たことがあります。なるほど、その人たちに対して危害を加えはしませんでしたが、その風あら雨しのすさまじいことは大変で、相手の者はみな彼の前に縮みあがってしまいました﹂
それがすべて事実であることは、僕も承知していた。ヒンクマン氏にこの癖がなければ、僕も彼の姪について進んで交渉することが出来るのであった。こう思うと、僕はこの不幸なる幽霊にむかって本当の同情を持つようにもなって来た。
﹁君は気の毒だ。君の立場はまったく困難だ。ひとりの人間が二人になったという話を僕も思い出した。そうして、彼が自分と同じ人間を見つけた時には、定めて非常に憤激するだろうということも想像されるよ﹂
﹁いや、それとこれとはまるで違います﹂と、幽霊は言った。﹁ひとりの人間が二人になって地上に住む……ドイツでいうドッペルゲンゲルのたぐいは、ちっとも違わない人間が二人あるのですから、もちろん、いろいろの面倒を生じるでしょうが、わたしの場合はまたそれとまるで相違しているのです。私はヒンクマン氏とここに同棲するのでなく、彼に代るべくここに控えているのですから、彼がそれを知った以上、どんなに怒るか知れますまい。あなたはそう思いませんか﹂
僕はすぐにうなずいた。
﹁それですから今日はあの人が出て行ったので、わたしも暫ざん時じ楽らくとしていられるというわけです﹂と、幽霊は語りつづけた。﹁そうして、あなたとこうして話すことのできる機会を得たのを、喜んでいるのです。わたしはたびたびこの部屋に来て、あなたの寝ているところを見ましたが、うっかり話しかけることが出来なかったのです。あなたが私と口をきいて、もしそれがヒンクマン氏に聞こえると、どうしてあなたが独り言をいっているのかとおもって、この部屋へうかがいに来る虞おそれがありますから……﹂
﹁しかし、君の言うことは人に聞こえないのかね﹂と、僕は訊いた。
﹁聞こえません﹂と、相手は言った。﹁誰かが私の姿を見ることがあっても、誰もわたしの声を聞くことは出来ません。わたしの声は、わたしが話しかけている人だけに聞こえるので、ほかの人には聞こえません﹂
﹁それにしても、君はどうして僕のところへ話しに来たのかね﹂と、僕はまた訊いた。
﹁わたしも時どきには人と話してみたいのです。ことにあなたのように、自分の胸いっぱいに苦労があって、われわれのような者がお見舞い申しても驚く余地がないような人と話してみたかったのです。あなたも私に厚意を持ってくださるように、特におねがい申しておきます。なにしろヒンクマン氏に長生きをされると、わたしの位い地ちももう支え切れなくなりますから、現在大いに願っているのは、どこへか移転することです。それについて、あなたもお力を貸してくださるだろうと思っているのです﹂
﹁移転……﹂と、僕は思わず大きい声を出した。﹁それはどういうわけだね﹂
﹁それはこうです﹂と、相手は言った。﹁わたしはこれから誰かの幽霊になりにゆくのです。そうして、ほんとうに死んでしまった人の幽霊になりたいのです﹂
﹁そんなことはわけはあるまい﹂と、わたしは言った。﹁そんな機会はしばしばあるだろうに……﹂
﹁どうして、どうして……﹂と、私の相手は口早に言った。﹁あなたはわれわれ仲間にも競せり合あいのあることをご存じないのですな。どこかに一つ空あきができて、私がそこへ出かけようとしても、その幽霊には俺がなるという申し込みがたくさんあって困るのです﹂
﹁そういうことになっているとは知らなかった﹂と、僕もそれに対して大いに興味を感じてきた。﹁そうすると、そこには規則正しい組織があるとか、あるいは先口から順じゅんにゆくというわけだね。まあ、早くいえば、理髪店へいった客が順じゅんに頭を刈ってもらうというような理屈で……﹂
﹁いや、どうして、それがそうはいかないので……。われわれの仲間には果てしもなく待たされている者があります。もしここにいい幽霊の株があるといえば、いつでも大変な競争が起こる。また、つまらない株であると、誰も振り向いても見ない。そういうわけですから、相当の空き株があると知ったら、大急ぎでそこへ乗り込んで、私が現在の窮境を逃がれる工夫をしなければなりません。それにはあなたが加勢してくださることが出来ると思います。もしなんどき、どこに幽霊の空き株ができるという見込みがあったら、まだ一般に知れ渡らないうちに、前もって私に知らせてください。あなたがちょっと報告してくだされば、わたしはすぐに移転の準備に取りかかります﹂
﹁それはどういう意味だね﹂と、僕は呶ど鳴なった。﹁すると、君は僕に自殺でもしろというのか。さもなければ、君のために人殺しでもしろと言うのかね﹂
﹁いや、いや、そんなわけではありません﹂と、彼は陽気に笑った。﹁そこらには、たしかに多大の興味をもって注意されるべき恋人同士があります。そういう人たちが何かのことで意気銷沈したという場合には、まことにお誂あつらえむきの幽霊の株ができるのです。といっても、何もあなたに関かかわることではありません。ただ、わたしがこうしてお話をしたのはあなたひとりですから、もし私の役に立つようなことがあったらば、早速お知らせを願いたいというだけのことです。その代りに、わたしの方でもあなたの恋愛事件については、喜んでご助力をするつもりです﹂
﹁君は僕の恋愛事件を知っているらしいね﹂と、僕は言った。
﹁オー、イエス﹂と、彼は少しく口をあいて言った。﹁私はここにいるのですからね。それを知らないわけにはゆきませんよ﹂
マデライン嬢と僕との関係を幽霊に見張っていられて、二人が立ち木のあいだなどを愉快に散歩している時にも彼についていられるのかと思うと、それは気味のよくないことであった。とはいえ、彼は幽霊としてはすこぶる例外に属すべきもので、かれらの仲間に対して普通にわれわれがいだくような反感を持つことも出来なかった。
﹁もう行かなければなりません﹂と、幽霊は起たちあがりながら言った。﹁明晩もどこかでお目にかかりましょう。そうして、あなたがわたしに加勢する……わたしがあなたに加勢する……この約束を忘れないでください﹂
この会見について何事をかマデライン嬢に話したものかどうかと、僕もいったんは迷ったが、またすぐに思い直して、この問題については沈黙を守らなければならないと覚さとった。もしこの家のうちに幽霊がいるなどということを知ったらば、彼女はおそらく即刻にここを立ち去ってしまうであろう。このことについてはなんにも言わないで、僕も挙動を慎んでいれば、彼女に疑われる気遣いはたしかにない。僕はヒンクマン氏が初めに言ったよりも、一日でもいいから遅く帰って来るようにと念じていた。そうすれば、僕は落ち着いてわれわれが将来の目的についてマデライン嬢に相談することが出来ると思っていたのであるが、今やそんな話をする機会がほんとうに与えられたとしても、それをどう利用していいか、僕にはその準備が整っていないのであった。もし何か言い出して、彼女にそれを拒絶されたらば、僕はいったいどうなるであろうか。
いずれにしても、僕が彼女にいっさいを打ち明けようとするならば、今がその時節であると思われた。マデライン嬢も僕の内心に浮かんでいる情緒を大抵は察しているべきはずであって、彼女自身も何とかそれを解決してしまいたいと望んでいるのも無理からぬことであろう。しかも、僕は暗闇のなかを無鉄砲に歩き出すようには感じていなかった。もし僕が汝なんじを我われにあたえよと申し出すことを、彼女も内ないない待ち受けているならば、彼女はあらかじめそれを承諾しそうな気色を示すべきはずである。もしまた、そんな雅量を見せそうもないと認めたらば、僕はなんにも言わないで、いっさいをそのままに保留しておくほうがむしろ優ましであろうと思った。
その晩、僕はマデライン嬢と共に、月の明かるい廊下に腰をかけていた。それは午後十時に近いころで、僕はいつでも夜食後には自分の感情の告白をなすべき準備行動を試みていたのである。僕は積極的にそれを実行しようとは思わない。適当のところで徐じょじょに到達して、いよいよ前途に光明を認めたという時、ここに初めて真情を吐と露ろしようと考えていたのである。
彼女も自分の位地を諒解しているらしく見えた。少なくとも僕から見れば、僕ももうそろそろ打ち明けてもいいところまで近づいてきて、彼女もそれを望んでいるらしく想像された。なにしろ今は僕が一生涯における重大の危機で、いったんそれを口へ出したが最後、永久に幸福であるか、あるいは永久に悲惨であるかが決定するのである。しかも僕が黙っていれば、彼女は容易にそういう機会をあたえてくれないであろうと信じられる、いろいろの理由があった。
こうして、マデライン嬢と一緒に腰をかけて、少しばかり話などをしていながら、僕はこの重大事件についてはなはだ思い悩んでいる時、ふと見あげると、われわれより十二尺とは距はなれていないところに、かの幽霊の姿が見えた。
幽霊は廊下の欄てす干りに腰をおろして片足をあげ、柱に背中を寄せかけて片足をぶらりと垂れていた。僕はマデライン嬢と向かいあっているので、彼は彼女のうしろ、僕のほとんど前に現われているのであった。僕はそれを見て、ひどく驚いたような様子をしめしたに相違なかったが、幸いに彼女は庭の景色をながめていたので気がつかないらしかった。
幽霊は今夜どこかで僕に逢おうと言ったが、まさかにマデライン嬢と一緒にいるところへ出て来ようとは思わなかったのである。もしも彼女が自分の叔父の幽霊を見つけたとしたら、僕はなんと言ってその事情を説明していいか分からない。僕は別に声は立てなかったが、その困惑の様子を幽霊も明らかに認めたのである。
﹁ご心配なさることはありません﹂と、彼は言った。﹁私がここにいても、ご婦人に見つけられることはありません。また、わたしが直接にご婦人に話しかけなければ、何もきこえるはずはありません。もちろん、話しかけたりする気遣いもありません﹂
それを聞いて、僕も安心したような顔をしたろうと思われた。幽霊はつづけて言った。
﹁それですからお困りになることはありません。しかし、私の見るところでは、あなたの遣り口はどうも巧うまくないようですね。私ならば、もう猶ゆう予よなしに言い出してしまいますがね。こんないい機会は二度とありませんぜ。躊ちゅ躇うちょしていてはいけませんよ。私の鑑定では、相手の婦人もよろこんであなたの言うことに耳を傾けますよ。婦人のほうでも、ふだんからそうあれかしと待ちかまえているのですからね。あるじのヒンクマン氏は今度ぎりで当分どこへも出かけそうもありませんぜ。たしかにこの夏は出かけませんよ。もちろん、私があなたの立場にあれば、ヒンクマン氏がどこにいようとも、最初からその人の姪にラヴしたりなんぞはしませんがね。マデライン嬢にそんなことを申し込んだ奴があると知れたら、あの人は大立腹で、それは、それは、大変なことになりましょうよ﹂
それは僕も同感であった。
﹁まったくそれを思うと、実にやり切れない。彼のことを考えると……﹂と、僕は思わず大きい声を出した。
﹁え、誰のことを考えると……﹂と、マデライン嬢は急に向き直って訊いた。
いや、どうも飛んだことになった。幽霊の長ばなしはマデライン嬢の注意をひかなかったが、僕はわれを忘れて大きい声を出したので、それははっきりと彼女に聞こえてしまったのである。それに対して何とか早く説明しなければならないが、もちろん、その人が彼女の大事な叔父さんであるとは言われないので、僕は急に思いつきの名を言った。
﹁え、ヴィラー君のことですよ﹂
思いつきといっても、これは極めて正当の陳述であった。ヴィラー君というのは一個の紳士で、彼もマデライン嬢に対して大いに注目しているらしいので、僕はそれを考えるたびに、彼に対して忍ぶあたわざる不快を感じていたのであった。
﹁あなた、ヴィラーさんのことをそんなふうに言っては悪うござんすわ﹂と、彼女は言った。﹁あのかたは若いに似合わず、非常によく教育されて、物がよく分かって、へいぜいの態度も快活な人ですわ。あのかたはこの秋、立法官に選挙されたと言っていらっしゃるのですが、私も適任者だと思っていますのよ。あのかたならばきっとようござんすわ。言うべきことがあれば、どういう時にどう言うかということを、あのかたはちゃんとご存じですもの﹂
彼女は別に腹を立てたという様子も見せずに、極めておだやかに、極めて自然にそれを話した。もしマデライン嬢が僕に厚意を有するならば、僕が自分の競争者に対して不折り合いの態度を示したからといって、それについて悪感をいだかないはずである。彼女の言葉全体を案ずれば、僕にもたいてい分かるだけのヒントを得た。もしヴィラー君が僕の現在の地位にあれば、すぐに自分の思うことを言い出すに相違あるまいと思った。
﹁なるほど、あの人に対してそんな考えを持つのは悪いかもしれませんが……﹂と、僕は言った。﹁しかしどうも僕には我慢が出来ないのですよ﹂
彼女は僕を咎とがめようともせず、その後はいよいよ落ち着いているように見えた。しかし僕は、はなはだ苦しんだ。僕は自分の心のうちに絶えずヴィラー君のことを考えていないということを、ここで承認したくなかったからである。
﹁そんなふうに大きい声で言わないほうがいいでしょう﹂と、幽霊は言った。﹁そうでないと、あなた自身が困るようなことになりますよ。私はあなたのために、諸事好都合に運ぶことを望んでいるのです。そうすれば、あなたも進んで私を助けてくださるようになるでしょう。ことに私があなたのご助力をいたすような機会をつくれば……﹂
彼が僕を助けてくれるのは、この際ここを早く立ち去ってくれるに越したことはないと、僕は彼に話して聞かせたかったのである。若い女と恋をしようというのに、そばの欄てす干りには幽霊がいる――しかもその幽霊は僕の最も恐れている叔父の幽霊であることを考えると、場所も場所、時も時、僕はふるえあがらざるを得ないのである。ここで事件を進行させようとするのは、たとい不可能といわないまでも、すこぶる困難であるといわなければならない。しかも僕は自分のこころを相手の幽霊に覚さとらせるにとどまって、それを口へ出して言うわけにはゆかないのである。
幽霊はつづけて言った。
﹁あなたはたぶん、わたしの利益になるようなことをお聞き込みにならないのだろうと察しています。私もそうだと危あやぶんでいたのです。しかし何かお話しくださるようなことがあるならば、あなたが一人になるまで待っていてもよろしいのです。私は今夜あなたの部屋へおたずね申してもよろしい。さもなければ、この婦人の立ち去るまでここに待っていてもよろしいのですが……﹂
﹁ここに待っているには及ばない﹂と、僕は言った。﹁おまえになんにも言うようなことはないのだ﹂
マデライン嬢はおどろいて飛びあがった。その顔は赧あかくなって、その眼は燃えるように輝いた。
﹁ここに待っている……﹂と、彼女は叫んだ。﹁私が何を待っていると思っていらっしゃるの。わたしになんにも言うことはない……。まったくそうでしょう。わたしにお話しなさるようなことはなんにもないはずですもの﹂
﹁マデラインさん﹂と、僕は彼女のほうへ進み寄りながら呶ど鳴なった。﹁まあ、わたしの言うことを聴いてください﹂
しかも彼女はもういってしまったのである。こうなると、僕にとっては世界の破滅である。僕は幽霊の方へあらあらしく振り向いた。
﹁こん畜生! 貴様はいっさいをぶちこわしてしまったのだ。貴様はおれの一生を暗くら闇やみにしてしまったのだ。貴様がなければ……﹂
ここまで言って、僕の声は弱ってしまった。僕はもう言うことができなくなったのである。
﹁あなたは私をお責めなさるが、私が悪いのではありませんよ﹂と、幽霊は言った。﹁私はあなたを励まして、あなたを助けてあげようと思っていたのです。ところが、あなた自身が馬鹿なことをして、こんな失しっ策さくを招いてしまったのです。しかし失望することはありません。こんな失策はまたどうにでも申しわけができます。まあ、気を強くお持ちなさい。さようなら﹂
彼は石しゃ鹸ぼんの泡の溶けるがごとくに、欄干から消え失せてしまった。
僕が思わず口走ったことを説明するのは、不可能であった。その晩はおそくまで起きていて、繰り返し繰り返してそのことを考え明かしたのち、僕は事実の真相をマデライン嬢に打ち明けないことに決心した。彼女の叔父の幽霊がここの家に取り憑ついていることを彼女に知らせるよりも、自分が一生ひとりで苦しんでいるほうがましであると、僕は考えた。ヒンクマン氏は留守である。そこへ彼の幽霊が出たということになれば、彼女は叔父が死なないとは信じられまい。彼女も驚いて死ぬであろう。僕の胸にはいかなる手てき疵ずをこうむってもいいから、このことはけっして彼女に打ち明けまいと思った。
次の日はあまり涼しくもなく、あまり暖かくもなく、よい日ひよ和りであった。そよ吹く風もやわらかで、自然はほほえむようにもみえた。しかも今日はマデライン嬢と一緒に散歩するでもなく、馬に乗るでもなかった。彼女は一日働いているらしく、僕はちょっとその姿を見ただけであった。食事の時にわれわれは顔を合わせたが、彼女はしとやかであった。しかも静かで、控え目がちであった。僕はゆうべ彼女に対してはなはだ乱暴であったが、僕の言葉の意味はよく分かっていないので、彼女はそれをたしかめようとしているに相違なかった。それは彼女として無理もないことで、ゆうべの僕の顔色だけでは、言葉の意味はわかるまい。僕は伏目になって凋しおれかえって、ほんの少しばかり口をきいただけであったが、僕の窮きゅ厄うやくの暗黒なる地平線を横断する光明の一線は、彼女がつとめて平静をよそおいながら、おのずから楽しまざる気色のあらわれていることであった。
月の明かるい廊下もその夜は空から明あきであった。しかし僕は家のまわりをうろつき歩いているうちに、マデライン嬢がひとりで図書室にいるのを見つけた。彼女は書物を読んでいたので、僕はそこへはいって行って、そばの椅子に腰をおろした。僕はたといじゅうぶんでなくとも、ある程度まではゆうべの行動について弁明を試みておかなければなるまいと思った。そこで、ゆうべ僕が用いた言葉に対して、僕が弁解すこぶるつとめているのを、彼女は静かに聴きすましていた。
﹁あなたがどんなつもりでおっしゃっても、私はなんとも思っていやあしませんわ﹂と、彼女は言った。﹁けれども、あなたもあんまり乱暴ですわ﹂
僕はその乱暴の意思を熱心に否認した。そうして、僕が彼女に対して乱暴を働くはずがないということを、彼女もたしかに諒解したであろうと思われるほどの、やさしく温かい言葉で話した。僕はそれについて懇こんと説明して、そこにある邪魔がなければ、彼女が万事を諒解し得るように、僕がもっと明白に話すことが出来るのであるということを、彼女が信用してくれるように懇願した。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて以前よりもやさしく思われるように言った。
﹁とにかく、その邪魔というのは私の叔父に関係したことですか﹂
﹁そうです﹂と、僕はすこし躊ちゅ躇うちょしたのちに答えた。﹁それはある程度まであの人に関係しているのです﹂
彼女はそれに対してなんにも返事をしなかった。そうして、自分の書物にむかっていたが、それを読んでいるのではないらしかった。その顔色から察しると、彼女は僕に対してやや打ち解けてきたらしい。彼女も僕が考えるとおなじように自分の叔父を見ていて、それが僕の話の邪魔になったとすれば――まったく邪魔になるようないろいろの事情があるのである――僕はすこぶる困難の立場にあるもので、それがために言葉が多少粗暴になるのも、挙動が多少調子外れになるのも、まあ恕じょすべきであると考えたであろう。僕もまた、僕の一部的説明の熱情が相当の効果をもたらしたのを知って、ここで猶予なしにわが思うことを打ち明けたほうが、自分のために好都合であろうと考えた。たとい彼女が僕の申し込みを受け入れようが受け入れまいが、彼女と僕との友情関係が前日よりも悪化しようとは思われない。僕が自分の恋を語ったならば、彼女はゆうべの僕がばかばかしく呶鳴ったことなどを忘れてくれそうである。その顔色が大いに僕の勇気を振るい起こさせた。
僕は自分の椅子を少しく彼女に近寄せた。そのとき彼女のうしろの入り口から幽霊がこの部屋へ突入して来た。もちろん、ドアがあいたわけでもなく、なんの物音をさせたわけでもないが、僕はそれを突入というのほかはなかった。彼は非常に気がたかぶっていて、その頭の上に両腕をふりまわしていた。それを見た一刹那、僕はうんざりした。出しゃばり者の幽霊めが入り込んで来たので、すべての希望も空くうに帰した。あいつがここにいる間は、僕は何も言うことは出来ないのである。
﹁ご存じですか﹂と、幽霊は呶鳴った。﹁ジョン・ヒンクマン氏があすこの丘をのぼって来るのを……。もう十五分間ののちにはここへ帰って来ますぜ。あなたが色女をこしらえるために何かやっているなら、大急ぎでおやりなさい。しかし、私はそんなことを言いに来たのではありません。わたしは素敵滅めっ法ぽう界かいの報道をもたらして来たのです。私もとうとう移転することになりましたよ。今から四十分ほどにもならない前に、ロシアのある貴族が虚きょ無む党に殺されたのですが、誰もまだ彼の死について幽霊の株のことを考えていないのです。わたしの友達が、そこへ私をはめ込んでくれたので、いよいよ移転することが出来たのです。あの大禁物のヒンクマン氏が丘を登って来る前に、わたしはもう立ち去ります。その瞬間から私は大嫌いの贋まがい者をやめにして、新しい位地を占めることになるのです。さあ、おいとま申します。とうとうある人間の本当の幽霊になることが出来て、私はどんなに嬉しいか、あなたにはとても想像がつきますまいよ﹂
﹁オー!﹂と、僕は起たちあがって、はなはだ不格好に両腕をひろげながら叫んだ。﹁私はあなたが私のものでありしことを天に祈ります!﹂
﹁私は今、あなたのものです﹂
マデライン嬢は眼にいっぱいの涙をたたえて、わたしを仰ぎながら言った。