磯馴松

清水紫琴




   

 ()()()()()()()()西西()()()()()
 
 ハハハハお月様が笑つてごさらア、あんまりおれが夢中になつて愚痴をこぼすもんだから。
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 振向きたるまま、さらでも倒れかけし表戸に、ドサリ身を寄せ掛けたれば、メキメキと音して戸とともに転げ込みし身を、やうやくに起こして、痛き腰を撫でながら、
 チヨツ危険ねえや、こんな戸を鎖しとくもんだから、ヲイお千代火を見せてくんな、まるで化物屋敷へ踏ン込んだやうだ。
 呼べど答へなきにニタリと笑ひ、
 
と戸を飛越えて、
 南無八幡ぢやアなかつた、山の神大明神、この酔心地醒まさせたまふなかハハハハ
 興に乗りて柏手一ツ二ツ叩くを、前刻より寐た振りして聞きゐたる女房、堪へかねてや、かんばりたる声張上げ、
 ()()()()()鹿鹿
 小言ききながら手暴く枕もとのかんてらひきよせて、マツチも四五本気短く折り捨てたる末、やうやくに火を移せしを見れば、垢にこそ染みたれ、この家には惜しきほどの女房なり。
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 うつつたわいもなきままに、上り口といふも一間きりの、框へバタリと倒れたるまま、はや正躰なき様子に、女房はいとどぢれ込みて、ヌツと起き出で、その枕を蹴らぬばかり頭の際に突立ちて足踏み鳴らし、
 
 
 
 ふしやうぶしやうに、庭に下りて、外れし戸をやうやくに建て合はせ、竿竹にてともかくも支へ来り、上りかけにわざと強く夫の足に突当たれば、
 アイタアイタ痛てえや、何をするんだ。
 気味よしといはねばかり、女房は冷やかに笑ひて、
 怪我だわな。こんな処へ足が出てやうとは思はないからね。
 少しくきツとなりて、
 
 
 鹿
 
 女房は口惜しさうに夫の顔を見て、鋭き眼を涙に曇らせ、
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 いひかけて傍に寐させし子の、十歳とおには小さきが寒さうに、母親の古袷一ツに包まれたる寝姿を見て、急にホロリとなり、
 
 前刻より妻の小言を添乳に、うとりうとりと眠りゐし夫、ここに至りてブルリと身を顫はせ、
 ああ寒いや。
とクルリあなたへ寝返りうち、
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 女房はいとどぢれ込みて、夫の肩へ手をかけ、力を極めてこなた向かせむとつとめながらさも口惜しさうに、
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 いかにもして夫の睡りを醒まさせむと、いよいよ押さへし手に力を入れて、その肩をゆり動かすにぞ、さすがは男の我を悪しとは知りながら、
 うるせへえや。ふざけた真似をしやアがるな。
 大喝一声やにはに起き上りて、女房の横腹を丁と蹴り上げ、おのれはそのまま子供に掛けたる古袷の袖引きつかみて、肥大なる身をその脇に横たへむとせしに、子供ながらも空腹に眼敏き松之介、これに睡りを醒まされて、薄暗き燈に父を認め、
 おツかア、ちやんはもう帰つたね。おらアお米を買つて来やうや。
 睡き眼をこすりながら、むくむくと起き出づる、子の可愛さは忘れねど、腹立つ際とて、夫への面あて、わざともぎだうに突遣りて、
 
 
 
 そそのかされて正直に、父のからだに取付きつ、
 ちやんやちやんやおあしをおくれ、お米を買つて来るんだからヨー。
 幾度か呼べど答へもなき出して、再び母の袖にすがるをさすがにも振切りかねて、我知らず松之介を抱き寄せ、
 仕方がないからもう一寐入しなよ、今に夜が明けたら、おツかアがどうにかしてやるよ。いい児だ寐なよ。
姿()

   

 西()()調
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 詞の末は半ば消えて、いつしか立止まりたる足の、白く細き爪先にて美しき砂を弄びながら、なほも思ひかねたまひたる様子に、老女はわざと軽くホホと受けて、
 
 いひかけて四辺あたりに気を配り、若きおんなの三四間後れたるに心を許し、
 
とはいかなる子細ありてやらむ。奥様はいとどこれにむつがらせたまひて、血の気とてはなき唇を噛みしめたまひ、
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 露かあらぬか、奥様のお袖にははらはらと玉散りて、お顔を背けたまふかなたの木影に、しよんぼりと立ちし男の子、田舎にも珍しきまでむさげなるが、これもしくしく泣きゐる様子に、奥様は我を忘れて、いぢらしがりたまひ、
 
 老女も御機嫌損ねたる末のよきつき穂と、
 オヤさやうでございますねー。承つてみませう、どう致したのでございますか。
 いひながらかの子の傍へ立寄りて、優しく問ひ掛けしに、子供心にも人の深切身にしみじみと嬉しくてや、忍び泣きの急に切迫して、泣きしやくり上げながらのとぎれとぎれ、
 
 
 
 
 
といよいよ泣声になり、
 
 
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 それからどうおしだえ。
と問はれて我にかへりたれど、なほも奥様の方を気にして、我知らず着ものの前など掻き合はせながら、
 
 にもとうなづく老女の顔を見て安心し、またそつと奥様の方をぬすみ見るに、目睫めまじもせで我が顔をまもりゐたまふに気後れしてや、しばし行きつまりてまた覚束なき語句をつづけ、
 するとおつかアは須磨の村雨亭といふお茶屋にゐると教へてくれたんだ。近所の桂庵の婆さんがよ。
 怨めしさうに声顫はせて、
 
 
と老女目をしばたたきて更に奥様の方に向ひ小腰をかがめて、
 何でございますとね、これが独りで須磨まで参つたのでござりますと。
 奥様も聞きゐたまふことを改めて伝達するも、あまりの事に感心してなるべし。奥様もしばしばうなづきたまひ、始めて優しきお声にて、
 さう、そして分つたかえ。
 老女に聞くともなく、かの子に聞かずとしもなく問ひたまへば、
 ああ分つたよ、分つた事は分つたんだけれど……
 大粒の涙をポトリポトリと落としながら、
 おツかアはくに大坂へ行ツちまつたとさ、何でも大坂から養生に来てた、金持の旦那に連れられて、行つたんだと。
 この一句に老女は端なくも奥様と顔見合はせて胸轟かせつつ、せはしく子供に向ひ、
 
 
 
 
 
 
 かかる折には他人ながらも、その人たのもしく思はれてや、彼はまた老女の顔を覗き込みて、
 
 しばしば問へど、老女はとかく奥様の、お顔色のみ窺ひて、とみには慰めかねたるを、もどかしとや奥様の自ら進み出でたまひて、勿躰なや美しき手にも汚き子供の頭撫でたまひ、
 お案じでない、今私がいいやうにしてあげるから。
 老女に何か囁きたまへば、老女は心得て若き婢を招き、仰せを伝へたりと覚しく、彼は小走りしていづかたへか行きたるが、やがてささやかなる革提かばん携へ来りしを、奥様は力なき手にそれを開き、中より幾片かの紙幣さつとり出でて老女に渡したまひしかば、老女は万事その意を得て、これを子供の肌へ、落ちぬやうに手拭もて括り付けながら、
 ほんとにお前は仕合せものだよ。お慈悲深い奥様に、たんとお礼を申し上げないでは済まないよ。奥様がこの夥しいお金を、お前にお恵み下さるんだから。落とさないやうに持つてお帰り。さうすればちやんも怒らなからうし、また一月や二月は、お父ちやんもお前も、これで楽々と御飯が戴けるんだから。きつと落とさないやうに気を注けるんだよ。奥様も今ではここにいらつしやるけれど、やはりお家は大坂なんだから……
といひかかるを、奥様目顔で制したまへば、老女は本意なげに口をつぐみたれどさすがに老の繰言止め難くや、更に詞をあらためて、
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 宿

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2004920

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