心の鬼

清水紫琴




   

 ()()()西()()()()()()()()()()()()()()廿()()()()()()
 ()()()()調
 これお糸や。
といひながら臭き煙草を一ぷくくゆらし、これも吹殻より煙の立つやうな不始末な吸ひやうはせず。吹かしたる煙の末をも篤と見済まして、あはれこれをも軒より外へは出しともなげなり。さて炭団埋めたる火鉢の灰を、かけた上にもかけ直して、ほんのりとぬくい位の上加減と、手つきばかりは上品にのんびりとその上にかざし、またしげしげとその顔を見て、
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 ちよつと妻の顔色を窺ひしかど、何の返事もなければ不満らしく、また煙草一二ふく燻らして、ポンと叩く灰吹の音にきじめを利かし。
 
 少し声を潜めて、
 
 

 
 高く笑ひてまた小声になり、
 さうするとまア一人前に一杯づつは違てくるといふもんじや。一杯づつ違ふとして見ると、コーツとなんぼになる知らん。
 首をひねりてちよつと考へ、
 まア男が十人で女が三人そこへ丁稚の長吉やがな……
 いひかけてまた考へ、ポンと膝を叩きて、
 ええわ、子供の割にはよう喰ひよるさかい、こいつも一人前に見といてやろ、さうするとコーツとなあ。……
 次第に左の手の指を折りたるを、妻の面前にさし出して、それと七分三分にその顔を眺め、
 そやろがな、これで十四人じや、そうするとどれだけになる知らん。
 得意らしくうつむきて勘定にかかり、たちまちに胸算は出来たりと見えて、しきりに自ら感歎し、
 えらいものなア。ちよつとこれで一遍に四合六勺あまりは違ふさかいな。
 振り向きて肩後うしろひかへし張箪笥の上より、庄太郎の為には、六韜三略虎の巻たる算盤、うやうやしく取上げて、膝の上に置き、上の桁をカラカラツと一文字に弾きて、エヘント咳払ひ、ちよつとこれを下に置きて、あたかも説明委員といふ見得になり、
 まあそれざつと三杯を一合と見いな、もつとも家の茶碗は小さうしてあるけど、みんながてんこ盛りに盛りよるさかいな、そこで、
とまた算盤を取り上げて、今度は手に持ちたるまま妻の顔を見て、
 先づここへ三と置くやろ、さうしてこちらへ十四とおいてと、エエ十四を三で除るとすると、――な、それな三一三十の一三進が一十、ソレ三二六十の二、三二六十の二でそれな……
 ちよつと頭を掻きて、
 除り切れんさかい都合が悪いけど、これでざつと四合六勺なんぼといふものやろ、
 どうじやといはぬばかり手柄顔に、また妻の顔を見て、
 それな、そこでコーツと一石を十二円の米として、
とまたぱちぱち算盤と相談、
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 アハ……これはまたちと御機嫌を損ねたかな。
 これには妻も何とかいうてくれさうなものと、しばしためらひゐたりしが、なほもかなたは無言なれば、また重ねかけて、
 
 自ら詫びるやうな調子になりて、
 わしも今出て行こうといふ矢先じや。お前の怒つた顔を見て行くのも、あんまりどつとせんさかい、ちと笑ろて見せいな。
 同時に算盤は、無情にもわきへ突遣られたり。
 コーツとなア、その代はり土産は何を買うて来か知らん、二ツ井戸のおこしはお前が好きやけど、○万の蒲鉾はわしも喰べたいさかいな。
 さも大事件らしくしばし考へ込みしが、庄太郎はポンと手を叩きて、
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 宜しうござります、何んにも御心配おしやすな、あんたに御心配かけるやうな事はしまへんさかい、安心してゆつくりと行ておいでやす。
 大張込みにいひたるつもりなれど、そのゆつくりといひしが気にかかりて、庄太郎はむツとした顔付、
 何じやゆつくりと行て来いといふのか。
 俄然軟風の天気変はりて、今にも霹靂一声頭上に落ちかからむ気色にて、庄太郎は猜疑の眼輝かせしかど、例の事とて、お糸は早くも推しけむ、につこりと笑ひを作りて、
 いいえ、なアゆつくりというたのはそりやあなたのお心の事、おからだはどこまでもお早う帰つて貰ひまへんと、私も心配どすさかい。
 庄太郎はとみに破顔一番せむとしたりしにぞ、白き歯を見せてはならぬところと、わざと渋面、
 
 考へ果てしなき折しも、店の方にて丁稚の長吉、待ちあぐみての大欠伸、
 旦那はまアいつ大阪へ行かはるのやろ、人を早う早うと起こしといて、今時分までかかてはるのやがな、おつつけ豆腐屋の来る時分やのに。
 庄太郎聞き付けてくわつと怒りを移し、
 これ長吉ちよつと来い。
 我が前へ坐らせて、
 
 叱り飛ばして出しやり、もと柱時計の掛けありし鴨居の方を見て独言のやうに、
 
 これにも女房無言なれば、また不機嫌なりしところへ、長吉帰り来りて、九時三十分といふ報告に、さうさうはゆつくりと構へて居られず、
 ええか、今いうただけの事は覚えてるな。
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 ヘイ番頭さんただ今、
 いひ訳ばかり頭を下げぬ。名は番頭なれどこれも白鼠とまではゆかぬ新参、長吉の顔見てニヤリと笑ひ、
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 おだてかかれば、上を見習ふ若い者二三人、中にも気軽の三太郎といふが、
 
 アハ……と笑い転げる長吉をまた一人が捉へて、
 
 いふ尾についてまた一人が、
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 銘々少し思ふふしありと見えて、冗談半分真顔半分で問ひかかるをかしさを、長吉はこらへて、
 へいへいただ今申します、旦那のいははりましたのには、店の奴等は三太郎といひ、惣七十蔵、その他のものに至るまで……

 いづれを見ても山家育ち、身代はりに立つ面はない、長吉心配するに及ばぬといわはりました。
といひ捨てて、己れ大人を馬鹿にしたなと、三人が立ちかかりし時は長吉の影は、はや裏口の戸に隠れたり。跡にはどつと大笑ひ、中にも番頭の声として、
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 ヘイお母アさんただ今。
 おとなしく手をつかゆるを、お糸は見て淋しげなる笑ひを漏らし、
 
 
 
 お駒はものいひたげに、もぢもぢとしてやがて、
 
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 ()()()姿
 

   

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 これはこれはお糸さん、あなたも今日はお花見どすか。可愛らしいお子様の、いつの間にお出来やしたの。
 ちよつと庄太郎に会釈して、愛想よし。お駒の頭撫でなどするを、苦々しげに見てをりし庄太郎に、お糸は少しも心付かず、
 ほんにあなたは幸之介様でござりましたへな、ついお見それ申しまして失礼を致しました。わたしもただ今では糸屋町の、近江屋といふ家に居りますさかい、お夏さんにもちとお遊びにお出やすやうに。
 通り一遍の世辞をいひたるなれど、庄太郎は例の心より、たちまちこれが気にかかり。
 今の人はえらひええ男やな、お前心易いと見えるな。
 疑問の前触まへぶれは早くも掲げられたれど、お糸は未だ心付かず。
 
 
 
 
 あまりの事に、お糸も少しムツとして、
 
 素気なくいひ放ちたるに、それより庄太郎の気色常ならず、せきかくの花見もそこそこにして、帰りは合乗車といふは名のみ。面白からぬ心々を載せたればや、とかくに二人が擦れ合ふのみにて口も利かねば、たまたまの事にまた旦那が箱やを起こして、ほんに陰気な事やつたと、下女も丁稚も小言つぶやきぬ。

 その翌日も日一日庄太郎は、絶えてお糸にものいはず、されどその人に在りては、かかる事珍しきにもあらねば、また旦那の病が起こりしとのみ思ひて、お糸も深く心にとめず。まさかに昨日の幸之介一条、心にかかりてとまでは推せねど、ただ危きものに触るやうにして、やうやくに日を暮せしに、やがて寝に就かむとする十時頃に、
 ヘイ郵便が参りました。
み女の梅の持ち来りしを、庄太郎は手に取りて、見て見ぬ振り、無言にお糸の方へ投げ遣りぬ。お糸は近江屋様にてお糸様とあるに、我のなりとうなづきて開き見れば、きのう逢ひし幸之介の妹なつといふより寄せしなり。たださらさらと書き流して何の用もなければ、きのう兄より御噂承りて、あまりの御なつかしさにとあるのみ。されど絶えて久しき友よりの手紙なれば、お糸は我知らず繰返して眺め居たるを、先刻より恐ろしき眼にてじろじろと見ゐたる庄太郎だしぬけに、
 お糸それはどこからの手紙じや。
 きのふ逢ひました人の妹よりといはむは、いとも易き事ながら、前夜より口を利かざりし人の、すさましく問ふ気色さへあるに、ふと今日の不機嫌もその人の事にはあらぬかと心付きては、何となく隠したる方安全らしく思はれもして、
 ヘイ友達の処からの手紙でござりまする。
 フム昨日の人の妹か。
 いいえ。
 つがひたる一矢は、はや先方の胸を刺したり、かかる事に注意深き庄太郎の、いかでかは昨日夏と聞きし名の、その封筒に記されたるを見のがすべき。
 フムそれに違ひないか。
 ヘイほんまでござります。
 勢ひ確答を与へざるを得ずなりしお糸、庄太郎はクワツと怒りて立上り、
 おのれ夫に隠し立するなツ。
 いふより早し肩先てうと蹴倒し、詫ぶる詞は耳にもかけず、力に任せて打擲ちやうちやくしつ、
 お前のやうな不貞なものは、ちよつとも家に置く事は出来ぬ。たつた今出て行けツ。
 血相も変はりて、逆上したるらしき庄太郎、これもこなたの常なれど、不貞の名を負はされては、お糸もくせと知りつつだまつてゐられず。一生懸命にて夫の拳の下を潜りながら、
 
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 怒りはますます急になり、今は太き火箸を手にしての乱打。
 サア出て行かぬか、何出る事は出来ぬ、出ぬとて出さずに置くものか。
 勢ひすさまじく飛びかかり、十畳の間をかなたこなたへ追ひ廻す騒ぎも、広き家とて、始めは台所のものも気付かざりしが、あまりの物音にやうやく駈け来りたる下女三人、
 マ……旦那さんお待ちやす、お糸さん早うお断りおいひやす、どうぞ旦那さん旦那さん。
 おづおづとして止めてゐたれど、庄太郎の暴力とても女の力に及ばざれば、側杖喰はむ恐ろしさに、下女等は店へ駈け付けて、若い者呼びさましたれど、これは日頃覚えあれば出も来ず、男の顔見せてはかへつて主人の機嫌損はむと、いづれも寐た振して起きも来ず。お糸も今はその身の危さに、前後を顧ふにいとまあらず、我を忘れて表の方に飛出したるを見て、庄太郎は我手づからくわんぬきを※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し、
 誰でも彼でも、断りなしにお糸を内へ入れたものには、きつとそれだけの仕置をするぞ。
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と声を顫わせ頼むけしき、容易の事とも思はれねば、叔父もやうやく納得して、
 
 ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
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 一言を労するにも及ばぬ仕儀に、叔父はそれ見た事かといはぬばかり、お糸の方を顧みて苦き笑ひを含みながら、
 おおかたそんな事やろと思うたのやけど、お糸が泣いて頼むものやさかい、よんどころなくついて来たのじや。――がマア痴話もよい加減にして人にまで相伴させぬがよい。
 日頃庄太郎の仕向けを、快からず思へるままに、少しは冷評をも加へて、苦々しげに立去りぬ。跡にはお糸叔父の手前は面目なけれど、まづ夫の機嫌思ひの外なりしを何よりの事と喜びしに、これはただ叔父の手前時の間の変相なりしと見えて、叔父が帰りし後はまたジリジリと責めかけて、
 なぜお前は、日頃心易くもない叔父さんの許へ逃げて行く気になつたのじや。ただしおれの留守に叔父さんと心易くした事があつてか。
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 便()()()使()
 これお糸どうしたのじやどこに居るのじや、亭主の帰りを出迎へぬといふ不都合な事があるものか。
 見当り次第叱り付けむの権幕恐ろしく、三人の下女は互ひに相譲りたる末遂に年若なるが突き出されて、
 
 
 
 
 
 
 
 
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 調
 ハテナ別に何にも持出してはゐぬやうな。そんならやはりほんまかしら、ええわおれが行て見て来てやろ――これ長吉車呼んで来い。
 いつになき寸法に長吉は驚きて、
 
 鹿
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 どうもよほどむつかしさうに見えまするな、滅多な事はござりますまいか。
 案じ顔に問ふは主人なり、八字髭美しき医師はちよつと首をひねりて、
 さうーどうもまだ何ともいへませぬネ。先づ今日明日はよほど御大事になさい。
 かくとききては庄太郎も、お糸にここへ出よとはいはれず。急に我も気遣はしさに、見舞に来りし体にもてなして、医師を見送り果てたる重兵衛に向ひ、慇懃に会釈しつつ、
 
 心配らしくいはれて重兵衛も喜び、
 
 事をわけていはれてみれば、嫌といふ訳にはゆかず、かへつて藪を叩いて蛇を出したといふやふな心持を抑へて、
 
 ちよつとお糸をと顔だけでも見たさに呼びて、舅の手前殊勝らしく、
 そんなら二三日御介抱申すがよい、家の方は気にかけいでもええさかい。
 さすがに人の性は善なりけり。かく世間並の挨拶はして帰りしものの、考へて見れば父も義父なり、医師も立派なる紳士なりと、また例の心よりさまざまなる妄想起こりて夜もおちおちと眠られず、淋しさと気遣はしさに明くるを待ち侘びて、再び見舞といふ触れ込みにて去年の暑中見舞に、外より貰ひ受けたる吉野葛壱箱携へ、お糸の方へ至りしは、その実妻を監督する心とも、知らぬ母親は喜びて、
 ああ今の今まで庄太郎さんは、あんな深切なお方とは知らなんだ。御用も多かろにまた御見舞にとは……お糸庄太郎さんを大事にしてたもや、一生見捨てられぬやうにな、あんな深切なお方はまたとない、私もこれでお前の事は安心の上にも安心して死ねる。
 聞くお糸はあながちさうとのみは思はねど、死ぬる際にも我が事は思はず、子を思ひくるる親の慈愛、身にしみじみと有難く、ああ何にも御存じない母様の、御安心なさるがせめてもの思ひ出、母様なき後は父様も義理ある中、打明けて相談する人はなけれど、今逝くという人には、何事もお聞かせ申さぬが何よりの孝行と、わざと嬉しげなるおももちにて、
 さうでござりまする、誠にやさしい人で、私も幸福でござりまする。どうぞお母アさん何も御心配おしやはんと……
 さりげなくいふお糸の胸は、乱れ乱れてかきむしらるるやうなり。さるを庄太郎は急に帰りさうなる気色もなく、とかくうるさく附き纒ふを、親の手前よきほどにもてなして、心は母の枕辺にのみ附き添へど、勤めは二ツ身は一ツ、一ツの躰を二ツに分けて、心を遣ふぞいぢらしき。
 かくて庄太郎夜は帰れど昼は来て、三日ばかり経し明け方、医師の見込よりは、一日後れて知らぬが仏の母親は、何事も安心して仏の御国へ旅立ちぬ。お糸は今更のやうに我が身の上悲しく、ああ甲斐もなきこのわたしをなど母様の伴ひたまはざりしと、音にこそ立てね身をもだえて泣き悲しむ傍らに、庄太郎が我を慰め顔に共泣きするがなほ悲しく、ああこれがこんな人でなければとお糸はいとど歎きの数添へぬ。
 知らぬ庄太郎は早これにて事済みたるかのやうに、
 お糸もう明日はいぬるやろ。
 
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 お糸マアそないにくよくよせんと、ちつとはここへ来て気を晴らしいなア。何もこれが逆さま事を見たといふではなし、親にはどつちみち別れんならんものやがな。
 一かど慰め顔にいふ詞も、お糸にとりては何となくうるさく情なければ、とかくことばすくなに、よそよそしくのみもてなすを、廻り気強き庄太郎は、おひおひに気を廻し、果ては我を疎んじての事とのみ思ひ僻みけむ。お糸の心の涙はくまで、いとど内外に眼を配りぬ。
 涙の内にも日は過ぎていつしか忌明といふに、お糸の父は挨拶かたがた近江屋方に至りしに、この日も折悪しく庄太郎留守なりしかば、男には逢へぬ家法ながらも、父といひ殊にはまた、母亡き後は義父ながらも、この人ひとしほなつかしければ、他人は知らず父にはと、お糸もうつかり心を許し、奥へ通してしばし語らひし事、庄太郎聞知りての立腹おほかたならず、
 
 あまりの事にお糸も呆れて、それ程私を疑ふなら、もうどうなとしたがよいと、身を投げ出して無言なり。庄太郎はまた重ねかけて、
 
 
 
 
 とりとりに膝を進めて囁くを、お糸は力なき手に制して涙を呑み、
 なんのなんの女子の身は、たとへどんな事があらふとも、嫁入した先で死なねばならぬと、常にお母アさんがおつしやつてたし、またどのよな訳があつて帰つても、いんだト一生出戻りと人に謡はれ、肩身を狭めねばならぬさかひ、私はどこまでも辛抱するつもり、それでも同じ事なら、一日も早う死んだ方が。……
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 イイエさういふ事はござりませぬ。とかく人と申すものは、悪い事はいひたがりますもので。
 立派にいふて除けるつもりなりしも、涙の玉ははらはらはら、ハツト驚くお糸の容子かほに、前刻せんこくより注意しゐたる義父は、これも堪へず張上げたる声を曇らし、
 お糸、お、お前はおれを隔てるなツ。
 
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   1983585101

   1897301
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2004920
2005116

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