序言
この書には中村屋創立当時から現在までの推移をほぼ年代を追うて述べているが、店の歴史を語る主意ではない。店員たちに平素抱いている私の考えを取りまとめて話したいと思い、すべて自分の体験に即して商人の道を語ろうとしたので、勢いこの体系をなすに至った。私の店は、累代のしにせでもなければ親譲りの商家でもない。元来私は農家出で、一書生として青年期を送り、たまたま志を商売に起し夫妻力を協せて今日に至ったのである。したがって私の言うところは素人の考えにすぎない。世間の人は私に向かって中村屋が繁昌する秘訣を話せと云い、商売のコツを教えてくれなどと云う人があって、そのつど私は当惑する。自分は商家に生れたのでないから、いわゆる商家伝来の秘訣も何も知らぬ、もし中村屋の商売の仕方に何か異ったものがあるとすれば、それはみな素人としての自分の創意で、どこまでも石橋を叩いて渡る流儀であり、また商人はかくあるべしと自ら信ずる所を実行したまでのものである。したがって、自分だけが行い得られて人には行われないというようなものは絶対にない。ゆえに我が店員はもとより、かつての我々と同様、新たに商売を営もうとする人には多少の参考にもなろうかと思い、ひとえに後より来る人々への微衷よりして筆を執った次第である。 また﹁主婦の言葉﹂は、妻が私の言い漏らしたものを追補する意味で執筆したのであって、これもすべて若き人々への愛より語るものである。妻はさきに﹁黙移﹂を著し、相馬一家の自伝的なものはそちらに述べているのであって、本書はどこまでも﹁一商人として﹂の著であることを一言しておく。 昭和十三年六月相馬愛蔵
[#改丁]本郷における創業時代
郷里信州を出いづ
孔子は﹁三十にして立つ﹂と言われたが、私は三十二歳で初めて商売の道に入った。つい昨日のことのように思うが、それからもう三十七年経ち、今年は六十九歳になった。しかし私はまだ素人だという気がしている。中村屋は今でも素人の店だと思うている。商売に縁のない家に生れ、まるで畑違いの成長をした人間が、どこまでも素人の分を越えないで、こつこつと至って地味に商売をしているのが中村屋である。素人のすることだから花々しいものは何もない。が、この素人は人の後についてここまで歩いて来たのではない。中村屋の商売は人真似ではない。自己の独創をもって歩いて来ている。したがって世間と異ちがうところがあって、何故ああ窮屈に異を樹たてるのかと不審がられる向きもあろう。世間の例によらない商売の仕様をするので、お得意先に御不便なこともあろう。店員諸子にしても年少の人たちの中には、店の仕しき来たりに従うて仕事をしながらも、何故そうするのか解らないでいるものがないとも言えない。私は自分が独自の道を歩いて来たのだから、誰にも真似をせよとは言わない。各人各様の道があり、私の店にいる諸君が、他日中村屋を出て、自ら新機軸を立て、大いに個性を発揮して新商道を起してくれることをこそ望むのであるが、それにつけてはまず自分の経験したところを話し、中村屋の商売の仕振りをよく理解してもらうとともに、将来の参考ともならばと思うのである。 私が三十二歳にもなって商売に志したのは、自分が生れつき勤め嫌いで、あくまで独立独歩、自由の境涯を求めたことに原因するのはいうまでもないが、それとともにもう一つ直接の動機となったものがある。それは信州の田舎に嫁して来た私の妻が、風俗習慣の違いと安易な田園生活に希望を失い、精神的苦悩から心身疲労して病気になり、行末危ぶまれる状態となったので、病気療養とともに何らかここに新たな生活を起す必要があったのである。 私は信州、妻は仙台、この二人の結婚の動機も、いま考えると不思議なところにあった。自分は早稲田を卒業後郷里に帰って、専もっぱら蚕業の研究に没頭し、ついにその研究の結果を記述して﹁蚕種製造論﹂なる一書を出版した。この書は我が国蚕業界の進歩改善に少しは貢献するところがあったと今でも自信するが、五版を重ね、全国蚕業家の注目するところとなって、その原理による蚕種を方々から頼んで来るようになり、私もその依頼に応じて、どうやら蚕種製造が私の仕事のようになった。 当時栃木県那須野ヶ原に、本郷定次郎氏夫妻の経営する孤児院があった。これは明治二十四年の濃尾大震災に孤児となった子供を収容するために、同氏が全財産を投じ一身をなげうって設立されたものであった。私はかねてこの事業に深く同感していたことではあり、ちょうどそこで養蚕をやると聞いたので、自分の製造した蚕種を寄贈し、どうかよい成績をあげてくれるようにと願っていると、やがて本郷氏がはるばると信州に訪ねて来られて、私の贈った蚕種が非常な好成績をもたらしたことを報告された。私は氏の丁重な訪問を感謝し、かたがた一度氏の仕事を見たいと思ったので、その冬の閑散期を利用し、那須野ヶ原を訪ねて氏の孤児院を見舞った。 ところがここで私は意外な光景を見た。当時その孤児院の仕事は相当に聞えていて、世間の同情も厚いことであるから、院児たちは氏の庇護の下に不自由なく暮しているであろうと思いのほか、食べたい盛りの子供たちに薄いお粥が僅かに二杯ずつより与えられないという窮状であった。子供たちが本郷夫妻に取りすがって﹃も少し頂戴よ﹄﹃頂戴よ﹄と哀願するのに、氏はそれを与えることが出来ない。私はこれを黙視するに堪えず、幸いいま自分には暇があることでもあり、少しでも孤児院のために義金を集めることが出来たらと考えて、まず東北仙台に向かった。 何故仙台に行ったかというと、仙台にはその頃東北学院長として、基督教界の偉人押川方義氏が居られた。私は早稲田在学時代、牛込教会に通うて基督教を聴き、大いにその感化を受けて、信州に帰郷後は伝道をも助け、禁酒禁煙の運動をも行っていたほどで、まだ面識はなかったけれど、押川先生には大いに信頼するところがあった。 幸いにも私が仙台に入った日は日曜日で、ちょうど仙台教会に押川先生の説教があった。私は汽車から降りたままで教会に行き、先生の説教の後を受けて、孤児院の窮状を会衆に訴えた。どんなふうに話したかおぼえていないが、反響は意外に大きかった。大口の寄付の申し出もあり、相当の額が集まったので、私は孤児院のためじつに嬉しく、自分の誠意の容れられたことを深く感謝した。 この寄付金募集が機会となって、その後押川先生を初めその教会の人々と親しく交わるようになり、やがてこれが旧仙台藩士の娘、星良を妻に迎える縁となったのである。良は、彼女がその著﹁黙移﹂の中で言っている通り、押川先生の教え子であり、先生の高弟島貫兵太夫氏は兄弟子に当り、幼年時代からその懇切な指導を受けたものであった。すなわち押川先生と島貫氏の媒酌で、明治三十年、私の許もとに嫁いで来たのである。式は私が上京して牛込教会で挙げた。私は二十八歳、良は二十二歳であった。 良は最初田園の生活をよろこび、私の蚕種製造の仕事にもよき助手として働くことを惜しまなかったが、都会において受けた教養と、全心全霊を打ち込まねば止まぬ性格と、それには周囲があまりに相違した。その中で長女俊子が生れ、次いで長男安雄が生れた。するとまたその子供の教育が心配されて来る。良はとうとう病気になったので、私は両親に願って妻の病気療養のため上京の途についた。俊子は両親の許に残し、乳飲子の安雄をつれ、喘息で困難な妻を心配しながら、徒歩で十里の山道を越えて上田駅に向かった。時は明治三十四年九月のことである。 東京に着くと妻は活気をとり戻し、病気も拭われたように癒いえた。この上京を機会として我々は東京永住の覚悟を定め、郷里の仕送りを仰がずに最初から独立独歩、全く新たに生活を築くことを誓い、勤めぎらいな私であるから、では商売をしようということになったのである。パン屋を開く
さて商売をするとはきめたが、商いどころか、日々入用のものを買うことすら知らぬ我々である。何商売をすればよいものか、軽々しく着手すれば失敗に終るにきまっていた。これは素人の弱味ということに充分の自覚を持ってかからねばならぬと思われた。そう考えると、昔からある商売では、玄人の中へ素人が入るのだから、とうてい肩をならべて行かれそうもない。むしろ冒険のようには見えても、西洋にあって日本にまだない商売か、あるいは近年ようやく行われては来たが、まだ新しくて誰が行ってもまず同じこと、素人玄人の開きの少ないという性質のものを選ぶのが、まだしもよさそうであった。 そこで思いついたのが西洋のコーヒー店のようなものを開くことであった。上京後仮りに落着いたのが本郷であったから、ちょうど大学付近で、この店はいっそう面白そうに考えられた。そうだ、それがよかろうと夫婦相談一決して、いざ準備にかかろうとすると、もう一足お先に、本郷五丁目青木堂前に、淀見軒というミルク・ホールが出来てしまった。残念ながら先を越されて、私はもう手の出しようがなかったのである。さすがは東京だと、私はその機敏さに舌を巻いた。 次に眼をつけたのがパンであった。パンは初め在留の外人だけが用いていたのがその頃ようやく広まって来て、次第にインテリ層の生活に入り込みつつあった。けれどもこのパンが一時のいわゆるハイカラ好みに終るものか、それとも将来一般の家庭に歓迎され、食事に適するようになるものか、商売として選ぶにはここの見通しが大切であった。これは自分らで試してみるが第一と、早速その日から三食のうちの二度までをパン食にして続けてみた。副食物には砂糖、胡麻汁、ジャム等を用い、見事それで凌いで行けたし、煮炊きの手数は要らぬし、突然の来客の時などことに便利に感じられた。 こうして試みること三ヶ月、パンは将来大いに用いられるなという見込がついた。もうその年も十二月下旬であったが、萬朝報の三行広告に﹁パン店譲り受け度たし﹂と出して見ると、その日のうちに数ヶ所から、買ってくれという申し込があった。がその中につい近所帝大前の中村屋があったのにはびっくりした。それは私がこの三ヶ月間毎日パンを買っていた店で、しかも場所柄なかなか繁昌していたから、まさかその中村屋が売りに出ようとは思いもよらなかったのである。話をして見ると、商品、竈、製造道具、配達小車、職人、小僧、女中、といっさいを居抜きのまま金七百円で譲ろうという。 さてその金策であったが、幸い同郷の友人望月幸一氏に用立ててもらうことが出来て、首尾よく交渉成立し、九月以来の仮寓を引き払っていよいよ中村屋に移ったのは、その年も押し詰った十二月三十日であった。その日から私はパン屋となったのである。 これで中村屋という屋号の由来も解ってもらえるであろう。中村屋はこうして偶然に譲り受けた名であって、世間で想像されるように相馬中村の因縁があってつけたものではないのである。 さてその本郷の中村屋だが、私はそこで明治四十年まで営業した。新宿に移転後は、私にとり最初の子飼いの店員であった長束実に譲り渡した。惜しいことにこの長束は早く死んだので、店はまた他に譲られたが、現在もやはりそこに中村屋と称して存続している。五ヶ条の盟
中村屋は相当に売れている店を譲り受けたのであるから、我々にとっては全くの新天地でも、店としてはいわゆる代がわりしただけのことであった。新店を出したのとは違って、初めから売れるか売れないかの心配はなく、ある程度の売上げは当てにしてよかったのである。けれどもそこに危険がある。店が売れているのに失敗したという先の主人中村萬一さんの二の舞いを、うっかりすれば我々が演じることになるのである。ことにそちらは玄人こちらは素人、いっそう戒心を要することであった。
そこで私は中村さんがこの店を手離さねばならなくなった失敗の原因を、店の者にも質し、人からも聞き、また自分でも周囲の事情に照して考えて見た。すると、先主人中村さんは商売にはなかなか熱心であった、お内か儀みさんもしっかりしていたと誰もが皆言う。それがふと米相場に手を出し、ずるずるとそちらの方に引張られて行って損に損を重ね、とうとう債鬼に責め立てられて店を離さねばならなかった。相場は魔物だ、中村さんも魔物に憑つかれてやりそこなった、と世間の人々は言うのであった。しかしなおよく聞いて見ると、この夫妻は商売に熱心ではあったが、だいぶ享楽的であった。朝も昼も忙しいが、その間にも肴さかなを見つくろっておくことは忘れず、日が暮れれば夫婦で晩酌をくみ交して楽しむ。そういう時雇人たちは自然片隅に遠慮していなければならなかった。むろん美食は自分たちだけのことであって、職人や小僧女中たちはいわゆる奉公人並みの食事、昔からある下町の商家のきまりともいうか、とにかくこの差別待遇で、万事に主人側と雇人との区別がきちんとしていた。
それから夫妻とも信心家で、二十一日は川崎の大師様、二十八日は成田様、五日は水天宮様、というふうに、お詣りするところがなかなか多い。むろん中村さんとしては商売繁昌をお願い申しに詣るのであって、これも商売熱心の現れには違いないが、同時に楽しみでもあって、夫婦ともその日は着飾って出かけて行った。いったいにみなりを構う方で、流行に応じて着物を拵えていた。
これでは主人夫婦の生活費と小遣いに店の売上げがだいぶ引かれ、一方雇人たちは粗食に甘んじて働かねばならぬ。しごく割のわるい話である。
ことに相場に手を出してからは、無理なやりくりで店の原料仕入れも現金買いは出来なくなり、すべて掛け買いで、それも勘定が延び延びになるから、問屋も安くは売らない、少なくも一割くらいは高く買わされていた。そんな高い原料を使い、おまけにそういう暮し方をしていたのでは、少々店が売れたところで立ち行く筈はないのである。
我ら夫婦はこの先代の失敗のあとを見て、互いに戒しめ、
営業が相当目鼻のつくまで衣服は新調せぬこと。
食事は主人も店員女中たちも同じものを摂とること。
将来どのようなことがあっても、米相場や株には手を出さぬこと。
原料の仕入れは現金取引のこと。
最初の三年間は親子三人の生活費を月五十円と定めて、これを別途収入に仰ぐこと。
その方法としては、郷里における養蚕を継続し、その収益から支出すること。
この案を加えて以上を中村屋の五ヶ条の盟とし、なにぶん素人の足弱であるから慎重の上にも慎重を期して、いわゆる士族の商法に陥らぬよう心がけるとともに、店を合理的に建て直すことに力を注いだ。
私も妻も衣食のことには至って淡泊で、享楽を求める気持もないから、これらの条々に従うのにさしたる無理もなく、かえって店員たちと同じに生活し、いっさい平等に働くところに緊張があり大いに愉快を感じるのであったが、困るのは現金仕入れの一条であった。
当時の私としては借金して店を買ったのが精いっぱいで、開業早々あとには何程の所持金もない。さればとて郷里の両親に送金を頼むということも出来なかった。病気療養のために上京した年若い夫婦がそのまま東京に止まるさえ不都合というべきに、いわんや全く無経験の商売に手を出すなど危険千万、両親から見れば呆れ果てたことであったに違いない。頼んでやっても送ってくれる筈はないのである。私たちとしてもむろん自力でやって行きたかった。
幸い子供の貯金がまだ手をつけずにあった。私どもは子供が生れた時から、将来教育費に当てるつもりで少しずつ積んで行き、こればかりは自分の所有にないものとして考えていたのであるが、見ると三百円になっている。無心の子供に対して勝手なようで気が引けたが、一時これを流用することにして現金仕入れを実行した。
おかげで原料が安く手まわり、一方雇人たちも今度の主人の真剣さを理解してくれて皆々気を揃えて働き、それに我々の生活費を見込まぬという強味もあって、製品ははるかに向上し、これまでより良い品が売れることになったのである。
すると有難いもので店の売上げは日に日に上向き、間もなく二、三割方の増加を示すようになった。こうなると五ヶ条の最後の一つ、国元の養蚕収益から支出するということは要らなかった。どうやら一個のパン屋として、苦しいなりにも独立自営の目途がついたのであった。
私の母校東京専門学校の大学昇格資金に、金壱百円を寄付することが出来たのは、たしかそれから一年後であった。まず最初の三年計画が一年で行われたような結果であった。
コンミッション排斥
書生上がりのパン屋というので当時は多少珍しかったものか、婦女通信社から早速記者が見えて我々の談話を徴し、書生パン屋と題して大いに社会に紹介された。 この記事が出ると、今まで知らずにいた人も﹃ははあ、中村屋はそういうパン屋か﹄とにわかに注意する。大学や一高の学生さんで、わざわざのぞきにやって来るという物好きな方もあって、妻もまだ年は若かったし、さすがに顔を赤くしていたことがあった。 そんな関係からだんだん学生さんに馴なじ染みが出来て、一高の茶話会の菓子はたいてい中村屋へ註文があり、私の方でも学生さんには特別勉強をすることにしていた。 ある日その一高の学生さんが見えて、一人五銭ずつ八百人分の註文があった。ところがその後へ小使いが来て﹃今日寄宿舎に入る四十円の一割を小使部屋へ渡してもらいたい、八人で分ける﹄という。私は、学生さんから直接の註文であること、また学生さんのことなのですでに特別の勉強をしてあることを話し、小使いの要求に応じる筋はないと言って断った。 すると彼は意外な面おも持もちで﹃他の店ではどこでも一割出す習慣になっている、それをこの店だけが出さぬとあれば、容いれ器ものなどはどんな扱いをするか保証出来ないが﹄そこで私は﹃それも宜よかろう、君らは学校から俸給を貰っていて学生の世話が出来ないというのであれば、君らの希望通り、明日から学生の世話をしなくともよいように取り計って上げよう﹄早速学校の当局に出向いていまの言葉をそのままに話して来ようと強硬な態度を見せたところ、その小使いは驚いて逃げて帰った。あらたまって飛んで来たのが小使頭で、彼は前の小使いの失言を詫び入り、どうぞ内聞に願いたいと頼むのであった。私も気の毒になって、それではと菓子一袋ずつを与えて帰した。昔の一高の小使いなどというものは、出入り商人に対してこの通り威張ってコンミッションを取ったもので、今日から見ればまさに隔世の感がある。 コンミッションの問題はほかにもあった。中村屋も最初のうちは卸売りをした。本郷から麹町隼町、青山六丁目辺りまで、毎日小僧が卸しにまわる。そのうち大手町の印刷局へ新たに納入することになったので、その届け役を私が引き受けた。雨の日雪の朝、一日も欠かさず、本郷から神田を通って丸の内まで、前垂掛けで大きな箱車を曳いて、毎朝九時には印刷局の門をくぐった。 それが約一年ほどつづいたが、もうその頃かつての早稲田の学友の中には、官吏の肩書を聳そびやかしているものもあり、その他の知人間でも私のことはだいぶ問題になって﹃奴も物好きな奴さ﹄と嘲笑して終るのもあれば、﹃何だ貴様は小僧のようなことをして、我々卒業生の面汚しじゃないか﹄などと、途中出会って面詰するのもある。むろん私としては、別にきまりがわるいとも辛いとも思うことではなく、むしろ友人には解らぬ快味があったのである。 とにかくそうして私は印刷局通いをしたが、その最初の日のことであった。﹃オイオイ、出門の空車は必ず我々の検査を受ける規則になっている、無断の通行はならんよ﹄そう言って私を呼び止めた門番氏は、次には声をやわらげて愛想笑いさえ見せて﹃どうだね、中村屋は有名だから、職工らも今日から良いパンを食べられて喜ぶだろうな。ところで君の店には鷲印ミルクはあるかネ、明朝一ダースだけ頼む、家内がお産をして乳不足で困っているから、忘れずに﹄ 私は門番氏の月給はいくらか知らなかったが、鷲印ミルクとはちょっと解し難いことであった。当時鷲印ミルクは舶来の最上品であって一個三十銭︵今日の一円二十銭見当︶の高価で、なかなか贅沢品と見られていたものである。 翌朝、私は試みに一缶だけ持参すると、彼はすこぶる不興気に声をあららげて﹃君、一ダースの註文だよ、たった一缶とは不都合じゃないか﹄私もそこで当意即妙に、﹃私は毎日来るのだから、新しいの新しいのと届ける方がよいでしょう。ところで代価ですが、私の方は現金主義ですから三十銭頂戴しましょう﹄ 彼は代価は明日残り十一個分と引換えに渡す、という。私は前の代金を払われぬうちは残りを持参せぬというわけで、次の日から毎日この三十銭を請求した。彼が別の門に出ている日はわざわざそこまで請求に出かけて行った。何でも一月あまり請求しつづけたと思う。これが他の門番はもちろんのこと、その他の間にも評判となって、さすがの彼も兜をぬいで渋しぶ々しぶ三十銭を払い、﹃あとはもう要らないよ﹄と悲鳴をあげたことであった。それ以来他の門番衆も私にだけは決して註文しなかった。彼らは、新しく出入りする商人に対してはきまって何かしら註文し、代を支払った例がない。彼らはこれを役得としているのであった。つい弱気な商人たちはそれと知りつつも煩うるさいので求められるままに持参し、十人ほどの者から三、四円ずつの損害を蒙らぬものはなかったそうである。もちろん私はそういうことは後で聞いて知ったのだが、どこに行っても万事この通り、私は決して彼らの不正には屈しなかった。 その私の曳いて行く箱車には、もと陸軍御用の文字が入っていた。それは先の中村萬一さんが陸軍に食パンを納めていたからで、御用という字が一種の誇りにもなったのであろう。私は譲り受けるとすぐこの御用の字を塗りつぶしてしまった。私は御用商人が嫌いであった。明治維新以来、政府と御用商人との切っても切れない因縁は、いまさらここに事新しくいうまでもない。今日天下の富豪となり授爵等の恩命に浴した人々も、その源に遡れば多くはこの御用商人として政府の御用を達し、同時に特別の恩寵に浴して今日の大を成したものが多いのである。私は御用商人必ずしも非難すべきものとは言わない。そこには奉公の精神をもって立派にその務めを果たしたものもあろう。しかしとにもかくにも御用商人と特別の恩寵とはつきものであって、御用商人がその恩寵に対して、一種の卑屈と追従に陥るのもまた免れ難いことであると思う。それゆえ私は大きくとも小さくとも御用商になることが嫌いだ。兵営の酒保に堅パンを納入したパン店が、時々当番の下士の小遣いを調達させられたことも耳にしたし、その他大会社に品物を納めるとては、なおいっそうの奉仕を強要されたことも聞いている。一高の小使いの上前取りもそれだし、印刷局の門番の鷲印ミルクもその例に洩れないのである。私はそれらのところへパンを納入しても、あるいは大量註文を受けても、御用商人的な考えは少しも持っていないのであったから、彼の無法な要求には断然従わなかった。またたとえそういうことで得意を失うとしても未練はないと考えていた。爾じら来い我が中村屋は三十余年を通じて、一回たりともコンミッションに悩まされたことはない。すなわち御機嫌取りを必要とする向きにはいっさい眼をくれなかったのである。同時にまた、これが我が中村屋の急速に大を成さなかった所ゆえ以んでもあると考えている。 この問題について人のことながら思わず会心の笑みを洩らしたことがある。ついでに記すが、今から数年前のこと、中村屋を出て大阪に行き、菓子の卸売りをしている者があって、例年の如く東京に見学に来て、昔を忘れず私の所へ寄ってくれた。私は彼が卸売りをしているというので、﹃大商店や百貨店等に品物を入れるには相当のコンミッションが必要だというがどうだ﹄と尋ねて見た。すると彼はいささか面目なげにうつむいていたが﹃旦那様に虚う言そを申すわけには参りませんからありのままをお話し致しますが、実際上一割ぐらいのコンミッションは、今のところ一般に必要と致します。私も中村屋に居りまして、御主人からあくまで良品を製造して正直な商売をせよと御教訓にあずかっておきながら、これではまことに申し訳ないと存じますが、どうも商売が出来ませんのでやむを得ず眼をつむって習慣に従うて居ります。しかし小林一三さんの阪急百貨店は、一銭のコンミッションも要りません。年末にごく軽少なものを仕入部主任に持参しましてたいへん叱られたことがあります。それで私の方もここだけには正味ですから確かな品を納めることが出来まして、とても愉快に感じて居ります﹄ 私はこの話を聞いて、阪急百貨店の将来を大いに頼たの母もしく思い、仕入部その他多数の使用人に対して、断然袖の下を謝絶させるだけの力のある小林さんは、当代ちょっと他に類なき人物であると考え、それ以来ひそかに畏敬していたことであった。果たせるかな、今日の氏の活躍はあの通りである。 私のところは小林さんなどには比すべくもない小人数だが、それでさえ全くコンミッションの弊風を絶滅するには、かなり長年月の苦心を要した。世間がそんなふうであるから、私のところでも仕入部主任という地位はじつに危ない。他の係では無事に勤められたものが、ここに昇進して来るとたちまちにして過失をする。今はようやく理想的になったが、ここに至るまでに幾人かの犠牲者を出したことは、私にとってもじつに悲しい思い出である。同業者の囮おとり商略
その頃中村屋の近くに、中村屋よりもはるかに優勢で、めざましく繁昌する食料品店があった。この店ではミルク、バター、ジャム、ビスケット等を、ほとんど仕入原価で売っていた。近所で、しかも同じ商品を扱っている中村屋としては、じつに迷惑なことであった。私の経営方針は、店の経費が償われて職人その他の雇人に世間並みの待遇さえ出来れば、それ以上の利益はなくとも宜よろしいという信念に立っていたから、薄利多売大いに同感であるが、その店のようにミルクやジャムをほとんど無手数料で売っていたのでは、いくら売れたにしても店の立ちようがない。そんな商売は無茶というものであった。それでもその店は見事やって行く。どうも不思議だ。仕入れが安いか、何かぬけ道があるか、どうも正直な頭では解しかねることであったので、私はなおもその店に注意し、また相当の対抗策もなくてはならぬところであるから、いろいろ熱心に研究していた。 するとある日のこと、横浜の貿易商が来て私に、葡萄酒、コニャック、シャンパン等を売って見ないかという勧誘をした。私はかつて郷里において禁酒会を組織したほどで、飲酒の害は知りぬいていたから、それを自分の店で売ることなど思いもよらない。で、膠にべもなく拒絶した。しかし彼はなかなか引き退さがらない。私の最も気にしているところの例の店を指して、﹃あの店がミルクやジャムであれだけの安売りをして立って行けるわけをあなたは御存じですか﹄と、期するところあり気にいう。つづいて﹃それはこの洋酒や西洋煙草を売るからですよ。洋酒はだいたい卸値の二倍に売るもので、これあればこそ食料品の安売りが出来るのです、食料品は囮おとりですよ﹄ なるほど、この説明で私の長い間の疑問は解けた。それならば進んで、その店の安売りを中止させる手てだ段ては――。勧誘子はさらに語をついで﹃中村屋もせめて滋養の酒だけでも店において、他の品同様に二割くらいの利益で販売なすってはどうです。そうすれば洋酒の客はみなこちらへ来るから、あの店の財源はたちまち涸渇する。それでは食料品の安売りも出来ないという順序でしょう﹄ どうだこの種あかしを聞いては、嫌でも洋酒を売らざるを得ぬであろう、と言わんばかりの説明であって、折が折とて私もこれに動かされた。それではと葡萄酒ほか二、三の洋酒を店におくことにした。 さてお得意先へも洋酒販売のことを披露すると、翌日内村鑑三先生が入って来られた。﹃今日のあなたの店の通知、あれは何ですか﹄内村先生は逝去せられて今年はもう八年になるが、故植村正久先生、松村介石先生とともに当時基督教界の三傑と称せられたもので、明治大正昭和に亘わたって思想界宗教界の巨人であった。ことにその厳として秋霜烈日的なる人格は深く畏敬せられ、自おのずと衆人に襟を正さしむるものがあった。そして中村屋にとってはじつによき理解者で、最初からの大切なお得意であった。 ﹃私はこれまであなた方のやりかたにはことごとく同感で、蔭ながら中村屋を推薦して来ました。その中村屋が今度悪魔の使者ともいうべき酒を売るとは……私はこれから先、御交際が出来なくなりますが﹄﹃酒を売るようではあなたの店の特色もなくなります、あなたとしてもわざわざ商売を選んだ意義がなくなりましょう﹄私は全く先生の前に頭が上がらなかった。他の店の狡猾な手段を制するためとはいえ、つい心ならずも酒を売ろうとしたのだ、全く面目次第もないことであった。私がそこでただちに洋酒の販売を中止したことはいうまでもない。 こんなふうで、その店の囮商略はずいぶん中村屋を悩ませた。世間には理解のあるお客様ばかりはない。商売は儲かるものと思い、だから安く売ろうと思えばいくらでも安く売れるのだと考えている人が、まだ世間には多いのである。そういう人はこの囮商品の安値に釣られ、正しい値段で売っている方を暴利と見る。誠実な商人にとっては迷惑この上もないことである。 ﹃商売は儲かる﹄という人は、売上げから元値を引けば、後はそっくりそのまま利益として残るものとでも見るのであろうが、商売はそんなに易やす々やすとは行われていない。お客の需もとめに応ずるために各種の品物を常に用意し、買ってもらえば袋とか箱とかに入れ、紙で包み紐をかける。配達でもすればなおさらのことだ。いうまでもなく家賃、税金、装飾、電燈電話料、従業員の食費給料、むろん主人家族も生活せねばならない。それらの経費を弁ずるために、仕入値におよそ二割を加算するのが、昔から商売の約束とされてある。日本は生活費が安いから二割で足るが、物価の高い米国ではなかなかこの程度では済まない。最低二割五分、上は四割、五割に達して、まず平均が三割二、三分となっている。 とにかく我々の店で薄利多売を主義として理想的の経営をするとしても、最低一割五、六分の経費は必要であって、それに些少の利得を加算して二割の販売差益を受けるのは当然のことである。官吏が俸給を受け技師が設計費を取るのと、何ら異なるところはないのである。 それを小売商人が他の店との競争意識にとらわれて、二割要るところを一割ぐらいにして客を引くと、それでは実際の経費を償うに足らぬのであるから、この無理はどこかへ現れなくてはならない。すなわち問屋の払いを踏み倒すか、雇人の給料を不払いにするか、家賃を滞とどこらすか、いずれにしても不始末は免れないのだ。それゆえ実際の経費以下の利鞘で販売する商人は、真の勉強する商人ではなくて、他に迷惑を及ぼす不都合な商人というべきである。 以上私が近所の店の囮おとり商いに悩まされたのは三十数年の昔で、時代はそれよりたしかに進んだ筈であるが、いまだにこの囮商いは廃されない。例の一つをあげて見ると、数年前のこと都下の某百貨店で、七月の中元売出しを控えて角砂糖の特価販売をした。当時角砂糖は市価一斤二十三銭、製造会社の卸原価が二十銭でこの利鞘が一割五分であるから、これは大勉強の値段であった。この同じ角砂糖をその百貨店では一斤十八銭売りとして広告を出したから、市内の砂糖商は驚いた。これは明らかに角砂糖を囮にしたものであって、たとえ原価を二銭も切って角砂糖では損をしても﹃安いぞ﹄という印象で砂糖に釣られて他の商品がよく売れるから、損はただちに埋め合わされ、かえって幾倍かの利益を見ることが出来る。百貨店のこの計画はたちまち砂糖店の問題となった。中元売出しを目の前にしてたくさん仕入れた砂糖が、これでは客を百貨店に取られて、どこもみな品を持ち越さねばならない。そこで砂糖店側では組合長の宅に集まって、善後策を相談した。その結果組合長が電話で製造会社に問い合わせて、会社がその百貨店に売り渡した数量は二十五斤入り三千箱一万五千円であることを確かめ、一同はただちにつれ立ってその百貨店に行き、売場に積み上げてある七百箱を買い取り、さらに一千箱の予約註文を出した。先方は狼狽した。こう大量に引き上げられては無益に千余円の損失を見るわけだ。さすがに砂糖商の苦肉の策と察してただちに陳謝し、囮の特価販売を中止する代りに、砂糖店側でも一千箱の予約註文だけは取り消してもらいたいと頼んだ。砂糖店の方でも百貨店をいじめるのが目的ではなく、やむを得ずこの挙に出たのであったから了解してこの事件を解決した。 中村屋の店員諸子もやがて私のところを出て独立すれば、一度は必ずこういう試練に会うことであろう。願わくは酒を売ろうとした私の過失を君たちにおいて繰り返すことなかれ、いわんや自ら不誠実にして他人迷惑な囮商略を弄するものとなってはならない。賞与の銀時計
やはりその時分のこと、中村屋の近くに村上というパン屋があって、ちょっと他の店にない美味しいパンをつくり出し、フランスパンと称して売っていた。そのパンは学生さんたちに特に好評でよく売れたが、中村屋ファンの学生さんたちはフランスパン、フランスパンと言いながら、やはり私の店の方へ来てくれる。そして顔を見るたびに﹃中村屋でも村上のようなパンを売り出せ、出来ないことはないのだろう﹄というわけで、私も何とかしてフランスパンを拵こしらえなくては済まなくなった。 そこで職人にいいつけて研究させるのだが、彼らが何と苦心しても、そのパンのような美味しいのは出来なかった。私も残念であったが、お客様の方でもまだかまだかという催促でじつに困った。ところが一月ほどすると、長束実という少年店員がとうとうそれを造り出した。しかも食べくらべて見ると、村上のよりも美味しいくらいの出来であった。 私は大いに喜んだ。これでこそ中村屋も恥かしくない、中村屋ファンのかねての信望にも報いることが出来るのであった。早速それを製造して売り出した。お待ちかねの学生さんたちも﹃これはいっそう上等だ、よく出来た﹄と言って喜び、友人たちにも大いに吹聴してくれた。店はいっそう売れるようになった。 さてこの長束実は、中村屋が私のものになった最初に入店したもので、まだ小僧であったが、常から真面目で勤勉で研究心に富み、じつに感心な少年であった。果たして今度そういう手柄をしたのであるから、私はこれこそ表彰して他の店員の模範とすべきだと考え、賞与として長く記念に残るようにと銀時計を買って与えた。むろん店はじまって最初のことであった。純情な長束少年はこれを非常な光栄と感じ、いっそう仕事を励むとともにその時計を大切にして、つい数年前死去するまで、約三十年というもの、肌身離さず愛用し、死んで行く枕元にさえちゃんと飾っていたほどであった。 しかし後になって考えると、この銀時計を彼にのみ与えたことは私の大きな過失であった。フランスパンの製造のことでは皆が苦労したのであったのに、長束が成功して彼だけが称揚され銀時計をもらった。長束はうまいことをした、我々も苦心においては長束に劣らなかったつもりであるのに、主人は苦心を見てくれない。いったい主人はふだんから長束に目をかけていたようだ、我々は骨折り損だという気がして、店員全体にその後しばらく面白くない空気を醸かもした。なるほどと私は考えた。一つの商店は一家である。店主は店員の親であって、店員たちは店主の子であるとともに、古参新参のへだてなく、みな仲の好い兄弟でなくてはならない。兄弟は喜びも悲しみも共にすべきであって、そのうちの一人が優れていたからといって、親はそこに差別待遇をしてはならぬのであった。長束の手柄を褒めて一般店員の奮起を促そうとした私の態度は、長束には感謝されても、他の店員には気の毒なことをしたのであった。これは彼らが不満を抱くのは無理もない、たしかに自分が不明であったと、私は心ひそかに愧はじたのであった。 私はこの失敗に気づいて以来、どんなことがあっても大勢の中の一人二人だけを褒めるということはしなくなった。店員は一家族である、親子兄弟の家族の中に見ても生れつきはそれぞれ異うのであって、他人が寄ればなおさらある者は力において優れており、ある者は智ち慧えにおいて勝り、またある者はその善良さにおいて、その勤勉さにおいて、親切さにおいて、これら各々の持ち前を出し合って一つの仕事一つの生活を支え合うところに家族の面白さがあるのである。賞すべき時は全店員を賞すべきであり、その労を慰める時は全店員を同じに慰めるべきである。そうしてこそ人各々の持ち前に応じた進歩があり、調和がある。現在中村屋では店員諸子を他に招いて御馳走する時も、芝居や相撲見物に我々が同行する時も、幹部から少年店員に至るまですべて同待遇である。特にその中の誰々だけを優遇し、誰を貶おとしめるということはしない。そういう差別待遇は中村屋の制度のどの方面にも絶対に存在しないのである。 ただ罰する場合だけは、なるべく少数を罰して、他を警める方針を採っている。内村鑑三先生と日曜問題
内村鑑三先生はある時私に対むかって﹃日曜日だけは商売を休んで、教会で一日を清く過ごすことは出来ませんか﹄と勧められた。 一週に一日業務を休んで宗教的情操を養うことは望ましいが、我が国の如くいまだ一般に日曜休みの習慣なくかえって商売の最も多いその日を休むことは営業上にも宜しくない上に、多数のお客様の便利を考えぬ身勝手な仕方であると思い、これは先生の忠言にも従うことが出来なかった。 その頃日本橋通りにワンプライス・ショップという洋品店があり、また神田に中庸堂という書籍店があって、どちらも日曜を休みにしていた。私もふだん忙がしい店員に十日目に一日くらいの休みを与えたいと思いながら、それさえ実行しかねていた時であったから、商売の最も多い日曜日の休業を断行しているこの二つの店の勇気に敬服し、なお絶えず注意し、どうなって行くものであろうと見ていた。気の毒なことに私の不安な予想が当って、中庸堂は破産し、ワンプライス・ショップは日曜休みを廃止してしまった。ああ私もあの時理想を行うに急で日曜休業を実行していたとしたら、中村屋も同じ運命を免れなかったに違いない、危いことであったと思った。 いったい基督教が日本に拡がりはじめた明治の頃は、基督教徒に一種悲壮な頑固さがあった。そういう人々は基督教の精神を外来の形のままで行おうとして、風俗伝統を異にする我が国の実状とその伝統の根強さを無視してかかり、自身失敗するに止まらず、傾倒して来た多くの人々を過まらせた例が世間にじつに多いのである。 昭和三年に私は欧ヨー羅ロッ巴パの方へ行って見たが、いうまでもなくそれらの国々は基督教国であるけれども、パリ、ロンドン、ベルリンなどの都市で、我々のような菓子屋が日曜だからとて休業するのは見受けられなかった。欧州でさえこの状態である。時代と共に推移することもあろうし、何によらず型にはまってその通り行わねばならぬとすると、この通り間違いがある。休日問題に限らず、何事にも欧米の慣習を鵜うの呑みにするのは危いと思われた。店頭のお客様が大切
本郷の大学付近は、今は他の発展に圧されて目立たなくなったが、その時分はあれで学者学生の生活を中心に、その時代としての新鮮味を盛り、それらの店の中には本郷の何々といわれてかなり魅力を持ったものがあり、あの辺り一帯なかなか活気のあったものである。ちょうど三丁目の所には旧幕時代からつづいている粟餅屋があって、昔一日百両の売上げがあったという誰知らぬものない名代の店であった。 私はある日そこへ粟餅を買いに行ったが、店が閉めてある。早稲田大学の運動会に売店を出して全員総出をしたから、店の方は一日休業だということであった。私はその時、この店は必ず破滅するなと直感したが、果たして間もなく閉店してしまった。 運動会の一日の売上げが平日の幾倍に当り、どれほどの儲けがあるか知らぬが、そのために一日店を閉め切り、当てにしてわざわざ出向いて来て下さる常得意のお客に無駄足をさせる。こんな仕方をすれば多年どれほど売り込んだ老舗であっても、得意の同情を失って破滅に至るは当然である。 この粟餅屋のような極端な例は別としても、大量の臨時註文というものを持って来られるとなかなか思い切れないものらしく、無理をして引き受けて失敗した例は世間にいくらもある。 私の方でも店が繁昌し、製品が少し評判になって来ると、学校その他から四時折々の催しにつけて売店の勧誘を受けるようなり、中には前々からの関係で断りにくい場合もあったが、私は店にそれだけの余力がないことを話してお断りし、その他の臨時の註文も店の製造能力から考えて、無理と思われるものは辞退し、いつも地道に店頭のお得意第一と心がけて来た。店も多い中に特に自分のところへ御註文下さるとあっては、たとえ無理をしてもお受けせねばならぬと思うのが人情であり、またせいぜい勉強して先様のお間に合わすということも平常の同情に報ずる道であって、それを思えばつい店員を励まして非常時的努力を試みたくもなるのである。だが人間はそんなに無理の利くものではない。註文の時間に後れるとか間に合わせの品が出来るとかして、とかく不成績に終り、その上店売の製品には手がまわらなくて、せっかく出向いて来て下さったお客様に、あれもございませんこれも出来ませんでしたという不始末になる。人の能力に限りのあることを思えば、かような結果はただちに予想されるのであって、したがって無理は出来ないということになるのである。 私のところの経験によると、人は緊張すれば一時的には、平常の働きの五割増くらいまでの仕事をすることが出来るが、それ以上を望めば必ず失態を生じ、またその時は何とかなっても、後になって疲労が出て著しく能率を減ずる結果になったりする。もっとも世間には五割増どころか、いざとなれば平日の二倍も三倍もの仕事を無事に仕上げることが出来るという者がある。しかしその人が緊張時において本当に平日の二、三倍の仕事が出来たとすれば、それは平日充分の能率をあげていなかった証拠であって、それこそ大いに研究を要するところである。 この特別勤労の五割増も、精いっぱいの働きからさらに五割の力をしぼり出せるというのではなく、平日の働きが自ずから調和のとれた働きである時に初めてそれだけの緊張を予想することが出来るのであって、解りやすい例でいえば、一様に何時間労働という中にも、米国の工場における八時間は、機械が主になっていて、人は機械に従い、機械につれて速力的に働かねばならぬのであるから、自主的の労働と大いに趣きを異にし、常に緊張そのものであらねばならない。そうして彼方ではこの緊張した労働の限度を八時間としているのであって、日本のまだそれほどに機械化しておらぬ我々商店の労働をこれに較べると、彼の八時間はこれの十二時間とほぼ匹敵するであろう。それゆえ一週に一日くらいは大いに緊張して平日の五割増くらいの仕事をするのに困難はなく、したがって翌日の仕事にたいして影響するほどのこともない。それゆえ臨時の仕事を引き受ける場合は平日の五割増程度に止め、それ以上欲張ることは慎しまねばならない。 ゆえに能率が平均して向上するのでなければ、店の売上げが全体的には増加しても、最高最低の差が甚だしくては経済的にはかえって安心出来ないのであって、高低の差の少ないことが最も望ましい。理想としては売上げが毎日平均し、したがって店員の働きも平均されるのをもって上々とする。しかし商売はお客様次第、こちらでどんなに平均しようと望んでも、売れる日と売れない日があり、平均の成績は望むべくしてじつはとうてい得られるものでないが、せめて平日を基準として最高五割増、最低三分の二を下らぬよう経営の安全を計るべきである。日露戦役当時の思い出
ここにまた日露戦争当時、軍用ビスケット製造の話がある。日露の戦端が開かれた明治三十七年は、私がパン屋になって第三年目、ようやく少し経営にも道がついて、おいおい自家独特の製品を作り出そうと研究怠りなき頃であった。国内は軍需品製造で大小の工場が動員され、軍用ビスケットの製造に都下の有力なパン屋が競って参加し、一時非常な景気を呈した。納入価格はたしか九銭二厘であったと思うが、平均一店一日の製造高が五千斤にも上るという状態であったから、その利益はおよそ一割と見て毎日四十五、六円を下らぬ計算であった。 当時私の郷里長野県選出の代議士で川上源一という人があり、ある日店に来て仕事の様子を見て、﹃君もこれだけの工場を持っているのだから、一つ軍用ビスケットを製造してはどうだ、関係当局の方は私が斡旋する﹄と言って勧められた。私は川上氏の好意を感謝したが、﹃いや私はまだ素人です、軍用ビスケットの製造は私には大仕事すぎます﹄と言い、手を出す気のないことを答えた。 川上氏は﹃それは惜しい、今は二度と得難い飛躍の機会だ、勇気を出して是非やって見るよう﹄と再三推し勧められたが、私はやはり従わなかった。自分のような経験の浅いものがそういう離れわざを試みるのは全く僭越の沙汰だ、きっと成功しない、とほんとうにそう考えていたからである。 川上氏は私の頑固なのに呆あきれて帰られたが、当時そういうよい手てづ蔓るがありながらこの仕事に乗り出さぬというのは、あまりに臆病すぎる話であったかも知れない。実際この製造に参加した店々はその後も毎日莫大な利益を上げ、職人の給料なども一躍三倍という素晴しい景気を見せて、その上納入数量はますます増加する、どこまで進展するか知れぬという有様であった。が、間もなくこの仕事の成行きを見るに及んで、私はやっぱり間違わなかったことを知った。軍用ビスケットの需要が大きく、製造工場が争うて原料を吸収する結果、原料はついに一割五分高となり、ビスケットを入れて満州に送る箱材料の松板は三、四割高、箱の内張りのブリキ板と燃料の石炭は一躍して二倍という暴騰であった。 さてこうなって見ると、初めのうちは毎日数十円の利益を見て有頂天になっていたものが、今度は反対にその利益を吐き出して欠損を補い、それも出来なくなると、何しろ勢いに乗じて工場を拡張していただけに打撃が大きくて、破産また破産、参加した七、八軒が揃ってじつに気の毒なことになってしまった。ビスケットばかりでなく、他の食料品や酒類の納入者もだいたいパン店と同様の悲運に陥った。私ももしあの時手を出していたなら、これら先輩同業者と同じ失敗をし、中村屋も破産したに違いない。誘われながらこれを免れたのは何という幸運であったか。新菓発売のよろこび
さらに開業第三年目の思い出の中には、新案クリームパンとクリームワップルの二つがある。私はかねて中村屋を支持して下さるお得意に対し、これはと喜んでもらえるような新製品を何がな作り出したいものと心がけていたが、ある日初めてシュークリームを食べて美味しいのに驚いた。そしてこのクリームを餡あんパンの餡の代りに用いたら、栄養価はもちろん、一種新鮮な風味を加えて餡パンよりは一段上がったものになるなと考えたのである。 早速拵えて店に出すと案の定非常な好評であった。それからワップルに応用し、ジャムの代りにクリームを入れて見たのである。ちょうどこの試作の時に島田三郎氏が折よく見え、早速一つ試食を願うと﹃これは美味しい、いいものを思いついた﹄と氏も賞讃され、店に出すと果たしてこれもよく売れた。 クリームパンとクリームワップルはその後他の店でも作るようになり、今日ではもうありふれて珍しくもないが、こんなに拡がって日本全国津々浦々まで行き渡ったことは、私として愉快に感じる。 なおこのついでに葉桜餅のことを言っておくのも無駄ではあるまい。これはだいぶ後で、大正も終りの方のことであった。五月も十日頃、我が淀橋町の役場から電話で、小学校生徒のために赤飯一石五斗の註文があった。ちょうど私が店にいたので電話で註文をきき、早速糯もち米ごめを水に浸けるように命じて帰宅したのであったが、翌朝行って見ると番頭から意外な報告である。それは役場からまた電話があって註文の取消しがあり、やむなく承知いたしましたが、その糯米の始末に困っておりますというのであった。 私も驚いて、註文の間違いは役場にあって、この方には少しの手落もないものを、電話一つで損害の全部を引き受ける馬鹿があるかと叱っては見たものの、何としてもこの一石五斗の水に浸した糯米の始末には閉口した。 そこで取りあえず、店で朝あさ生なまと称している田舎、ドラ焼、そば饅頭などの製造をいっさい中止させ、その赤飯用の糯米を少しつぶして桜色をつけ、餡を入れて桜の葉に包み﹁新菓葉桜餅﹂として売り出して見た。するとこれが葉桜、季節に適うてまず新鮮な感じを呼んだことであろう、たいへんに受けて、拵えても拵えてもみな売り切れ、次の日と二日で一石五斗の糯米をきれいに用い尽してしまった。あまり良く売れるので引き続き毎朝製造し、およそ一月の間に二十石もの糯米を使用したほどであった。 この葉桜餅も今日では全国に行き渡り、季節の感を新たにする菓子の一つとして愛されている。缶詰業の先覚豊田翁の卓見
地方から東京に出て来て商売をしようという時、誰でも一度はきっとその故郷の物産を取り寄せて店におくことを考える。御多分に洩れず私も中村屋のはじめ、信州の杏の甘露煮缶詰をたくさんに仕入れ、これを店において大々的に売り捌こうとした。そしておきまり通り失敗した。東京には日本全国はもとより外国からも輸入されて、じつに多種類の食品が入り込み、それを自在に選択して用いている東京人であるから、その嗜好はじつに複雑で、いかに一地方で自慢の品だといっても、決してそれだけで満足はしないのである。 地方ではそれが解らぬから、青森からは東京に林檎を出して失敗し、山形の﹁乃し梅﹂越後の﹁越の雪﹂岡山の﹁きびだんご﹂等々、地方の名物で、東京に販売所を出して失敗しないものはないと言ってよいくらい、どんなに地方で物産奨励と意気込んではるばる品物を輸送し、販売所を東京に設けて見ても東京の家賃は高い、一地方の名産の一、二種ぐらいを販売して立ち行くものではないのである。客の立場から見ても、青森の林檎がどれほど好ましかろうと、それ一種の籠詰ではちょっと進物になりかねる。信州の杏の缶詰もその通り、そこに気がつかなかったのは、私がやはり田舎者であったのである。 私はまた、信州の山林にたくさん野生する山葡萄からジャムを造って売り出してはどうかと思い、缶詰業界の大先覚豊田吉三郎翁を訪問して教示を乞うた。翁はこれに答えて明快なる断定を下された。 ﹃山葡萄はジャムとしては相当味わえるが、商品としては見込がない、あの通り山林に野生するものでごく低廉に手に入るところから、誰でも一度は考えて見るのだが、さてこれを商品として売り出すようになりますと、原料は年一年と払底して次第に山の奥深く入って採集せねばならなくなり、原料代は高くなって採集量はかえって少なくなるというのが順序です。で、せっかく販路が拡張されて相当の売行きを見る頃は、製品は逆に格高となり、終には中止せねばならない。そこへ行くと栽培果実を原料としての製品は、最初は天然物に比してはるかに格高であるが、販路拡張して多量に需要されることになれば、栽培技術は進歩し、製造機関は完成し、年一年と原価の引下げを見ることになって、商品としての価値はますます向上して行くものです。それゆえ山葡萄のような自然生のものは、自家用の原料としては適当ですが、商品としてはほとんど価値を認められません﹄ 私はなるほどと思い、その教えを深く感謝した。この山葡萄に着目したのは私ばかりでなく、福島県岩手県等でこれから葡萄液を製造することを思いつき、苦心研究中の人があった。私はそれらの人々にもこの豊田翁の言を伝え、その失敗を未然に免れしめることが出来た。割引券を焼く
明治三十九年十二月は、我ら夫婦が中村屋を譲り受けてから満五年に相当した。﹃五年経った﹄この感懐は私の胸に深かった。書生上がりの素人が失敗もせずにどうやらここまでやって来たのだ、また店は日に日にいささかずつでも進展しつつある。これ偏ひとえにお得意の御愛顧の賜物であると思うと、私は何かしてこの機会に謝恩の微意を表したくなった。そして思いついたのが開業満五周年記念として、一割引の特待券を進呈することであった。割引券も上品に美術的にと意匠して、正倉院の御物中にあるという馬を写して相馬の意味を通わせ、当時有名な凸版印刷会社に調製を頼んだ。 その割引券一万枚が出来上がって間もなくのことであった。﹁松屋のバーゲンデー、売り切れぬ間に﹂という新聞広告が目についた。今の銀座松屋がまだ神田今川橋時代のことであった。二人の若い男女が急ぎ足で松屋に駆けつける絵入りの広告で、今なら百貨店の特価売出しは毎度のことだが、当時としては珍しく、思い切った試みをするものだと誰しもかなり興味を惹ひかれた。私もこの広告に惹きつけられてわざわざ松屋に出かけて行った。 割引場に入って見ると押すな押すなの大盛況で、その二室とも身動きもならぬ有様だ。私はなるほどこんなものかと、すなわち割引というものに対する大衆の心理に驚き、混雑に押されて外に出たが、他の各室の至って閑散なことはまた私に別の驚きをさせた。 帰途電車の中でも、私はバーゲンセールについて、色々と考えさせられた。 ﹃私は今日の広告を見て行ったから三割引で買物が出来たが、前日松屋で買物をした客はどんな気持がするだろう、同じ品を今日の客より三割高く買わされたという感じをしないものだろうか。そう思ったらずいぶん腹も立つことだろう﹄ ﹃バーゲンデーは一週間限りだが、八日目に行った客はどんた気持がするだろう﹄ ﹃店の方から考えても、日を限っての廉売をして一時的に多数の客を吸収することは、能率的に見てもまた経済的にも決して策を得たものではない。どちらから考えても割引販売ということはすべきでない﹄ 私は電車の中でこう断定を下した。店に帰ると家でも一割引の計画中だ。もう一万枚の割引券は立派に出来上がって来ているのだ。しかし﹃まあせっかくここまで準備の出来たものだから、今度だけはやってもよかろう﹄ということは、私には出来ないことであった。﹃割引売出しは中止だ﹄とばかり、割引券を取り出してパン焼竈に投じ、早速煙にしてしまった。 爾来三十年、私の信ずるところは少しも変らない。世間でどんなに特価販売が流行し、買手の心がどんなにそこへ動いて行っても、我が中村屋は割引を絶対にしない。どこまでも正価販売に一貫した経営で立っている。すなわちその正価というものが、中村屋では割引など仮かり初そめにも出来ないほんとうの正価に据えられているのであって、この正価販売への精進こそは我が中村屋の生命である。 当時店員の中に、山梨県出身の白砂という少年がいた。これは今は陸軍主計大佐相当官になっているが、松屋の支配人故内藤彦一氏の甥であったので、私は自分の意見をこの少年から内藤氏に伝えさせた。﹃バーゲン・セールは中止する方が得策でしょう﹄と。 その後も松屋は年々これを繰り返し、バーゲン・セールは松屋の年中行事となっていたが、銀座進出と同時にこれを廃やめてしまった。内藤氏が私の忠言に耳を傾けたのかどうかは知らぬが、他の百貨店が競って特価廉売景品等に浮身をやつす中に、現在松屋だけが超然としているのを見ると、私はじつに会心の微笑を禁じ得ないのである。 正価販売の話のついでに、私はもう一つこのことを言いたい。 現在森永の定価十銭のキャラメルが八銭で売られ、明治の小型キャラメルが三箇十銭で売られているのは周知の事実だが、信用ある大会社の製品がこんなに売りくずされているのを見るのはまことに遺憾である。 世間ではこれを単に小売店の馬鹿競争と見ているようだが、私に言わせれば両会社の責任である。会社自身が互いの競争意識に引きずられて、一時に多量の仕入れをする者には割戻し、福引、温泉案内などの景品を付ける。したがって必要以上に多量に仕入れた商品は、それだけ格安に捌さばくことが出来るのみでなく、終には投売りもするようになる。この順序が解っているから両会社も市中の乱売者を取り締ることが出来ない。森永も明治も市内目抜きの場所にそれぞれ堂々たる構えで売店を出しているが、喫茶の方は別として、ここに来て会社の製品を買う客の意外に少ないのは、この定価以下の崩し売りが会社自身の売店では出来ないからであって、会社自身の不見識な商策から直営店の繁昌が望まれないことは、皮肉といおうか笑止といおうか、会社でもたしかに困った問題であろう。 かつて森永が独占的地位を占めていた大正の初め頃、某百貨店が森永の製品を定価の一割引で売り出したことがあった。その時森永ではただちにその百貨店に抗議して、全国幾十万の菓子店の迷惑であるとて譲らず、ついに商品の輸送を停止してしまったことがある。百貨店側では自分の方の利得を犠牲にして客に奉仕するのに製造会社の干渉は受けないという言い分であったが、さすがに権威ある森永は、そんな商業道徳を無視するものの手で我が製品を売ってもらおうとは思わぬ、絶対にお断りするといって、二年間も頑張り通したのであった。 ちょうどその頃、佐久間ドロップで会社が設立されて、製品が宜よろしかったので私の店でも取引し、販売に尽力した。ところがある日お客から意外な叱言を受けた。 ﹃このドロップは○○︵森永製品の輸送を中止された店︶では一斤四十銭で売っているのに、貴店で五十銭取るとは怪しからぬ﹄ 調べて見ると仕入原価が四十二銭、五十銭の売価は不当ではないのだが、他に同じ製品を四十銭で売る店があるとは不思議なことであった。そこで○○百貨店を調べるとまさしく四十銭に違いない。問屋に照会したところ問屋の仕入原価が四十銭、問屋も驚いて会社に厳談に及ぶと、会社の言い分は、 ﹃○○百貨店は毎日六百缶︵七斤入り︶を現金取引ですから、特別待遇です﹄ これでは商業道徳も何もあったものではない。私はただちに佐久間ドロップの販売を中止した。問屋も会社との取引を拒絶した。ここまで来ると会社もさすがにその非を覚ったのであろう、○○百貨店の安売りも間もなく中止されたのであった。 さてまた森永のことにかえるが、社長森永氏が中村屋を訪問せられた際、私は二十年前、氏が某百貨店に示された毅然たる態度を称賛し、お互いに商売はかくありたいものだというと、氏は憮然として、﹃その後同業者もいくつか出来まして、競争と自衛上から、今日では売りくずし販売も前のように強くは抑えることが出来なくなりました﹄と答えられた。そこに自ずから会社の苦心も窺うかがわれるのであるが、景品付き販売や温泉招待や、やむを得ず行われるらしいこの競争によって無益に失われる莫大な費用を製品の向上に向けられたなら、販売者にとっても購買者にとってもどれほど幸いであろう。私は自分が正価販売をして、確実な商法の喜びを知るとともに、森永明治の二大会社初め他の同業者にも切にこれを勧めるものである。 ﹇#改丁﹈新宿中村屋として
新宿へ進出の前後と土地の変遷
本郷中村屋としての我々の第五年はこうしていよいよ順調に進み、よそ目には申し分なく見えたかも知れないのであるが、じつは非常な苦境に立たされていた。その事情は私が新たに語るまでもなく、妻がその著「黙移」の中で詳しく述べているから、ここにはそれを引くことにする。
日露戦争の三十七、八年までは、中村屋はまず順調に進んでおりました。どうせパン屋のことですから華々しい発展は望まれませんが、静止の状態でいたことは一月もなく、売行きはいつも上向いておりました。それが小口商いのことですから、店頭の出入りは人目に立ち﹃あの店は売れるぞ﹄というふうに印象されたと見えまして、税務署の追求が止まず、ある時署員が主人の留守に調べに来ました。私はそれに対してありのままに答えました。箱車二台、従業員は主人を加えて五人、そして売上げです。この売上高が問題で、それによる税務署の査定通り税金を払ったのでは、小店は立ち行かないのでした。
それでどこの店でもたいてい売上高を実際より下げて届け、税務署はその届け出の額に何程かの推定を加えて、税額を定めるのでありました。私にはどうしてもその下げていうことが出来ず、ありのままを言ってしまったのでしたから、当時の中村屋の店としては、分不相応な税金を納めねばならぬことになりました。これは何と申しても私一生の失敗であると、いまでも主人の前に頭が上がらないのであります。
よく売れるといっても知れたもので、一日の売上げ小売りが十円に達した日には、西洋料理と称して店員には一皿﹇#﹁一皿﹂は底本では﹁一血﹂﹈八銭のフライを祝ってやる定めにしていたことによっても、およその様子は解って頂けると思います。ただでさえ戦後は税金が上がりますのに、こんなことで中村屋は立ち行く筈もなく、私のあやまちと申しますか、心弱さと申しますか、とにかく自分ゆえこんなことになったと思い、一倍苦しうございました。
﹃仕方がない、言ってしまったことは取り返せません。この上はもっと売上げを増すより道はない。一つ何とか工夫しましょう﹄
これはその時期せずして一致した私ども両人の考えでした。しかしこちらでそう思いましたからといって、急にそれだけ多く買いに来て下さるものではありませんし、売るには売るだけの道をつけねばなりません。それにはどうしてもどこか有望な場所に支店を持つよりほかないのでした。大学正門前のパン屋としては、私どもはもう出来るだけの発展をしていました。場所柄お客様はほとんど学生ですし、大学、一高の先生方といっても、パンでは日に何程も買って下されるものではない、と言って高級な品を造って見たところで、銀座や日本橋――当時京橋、日本橋付近が商業の中心地でした――の客が本郷森川町に見えるものではなし、ここでは、たとえ税金の問題が起らなくとも、私どもの力がこの店以上に伸びてくれば、早晩よりよき場所へ移転の説が起らずにはいないところでありました。
支店を設けるにしても、移転するにしても、これはなかなか冒険です。見込違いをした日には現在以上の苦境に立たされることになります。とその頃ある地方の呉服屋の次男で、救世軍に入ったがために家を勘当された人がありまして、日曜だけは救世軍兵士として行軍することを条件にして、店員の一人に加わっておりましたが、まずこの人を郊外の将来有望と思われる方面へ行商に出して見ることに致しました。――︵﹁黙移﹂︶
当時我々が郊外において将来有望の地と見込をつけたのは、文士村と称されていた大久保の新開地、淀橋、角筈、千駄ヶ谷方面であったが、本郷からこの辺まで約二里半の道である。じつに行商係の苦労も容易でなかった。この行商には救世軍兵士の浅野以前に狩野という店員がこれに当って、最初の苦労をしたのであるが、一日ようやく五十銭程度の売上げで、これでは結局中止のほかあるまいと悲観された。しかしなお断念せずに浅野をこれに向けて見たのであった。
浅野は宮城県涌谷町の呉服屋の二男であったが、親の反対を押し切って、救世軍に身を投じた青年で、その純情と努力と熱と、彼は入店の初めから、興味ある話を中村屋に残している。彼が狩野に代って行商に出ると、悲観されていたこの方面の形勢が一変して、一年の後にはもう彼一人では得意先をまわり切れぬという盛況となった。すなわち狩野では出来ないことが浅野では出来たのである。これを見ても適材を適所におくということがいかに大切であるか、人間に向き不向きのあるのも免れ難いこととして、人を用いる場合にはよくよく注意せねばならぬことである。再び﹁黙移﹂を引用。
――その頃大久保の新開地は水野葉舟、吉江孤雁、国木田独歩――間もなく茅ヶ崎南湖院に入院――、戸川秋骨先生、それに島崎藤村先生、島崎先生は三人のお子を失われてから新片町に移転されましたが、とにかくそういう方々のよりあいで一時は文士村と称されたものでありまして、また淀橋の櫟林の聖者としてお名のひびいた内村鑑三先生、その隣りのレバノン教会牧師福田錠二氏などが、その行商の最初の得意となって御後援下されて、この文士村の知名の方々へも御用聞きに伺いまして、それぞれお引立てに預かるようになりました。初めは一週に一度ずつまわることにしておりました。この救世軍の人がじつによく出来た人で、頭のてっぺんから足の先まで忠実に充ち溢れている、というような、また時間を最も正確に守り、お約束の時間には必ず配達してお間に合わせるので、本郷中村屋のパンの評判が上がり、したがってお得意も日に日に増え、一週に二度となり三度になり、おやつ頃にはよそからお買いにならずに待っていて下さるようになりました。
それがだんだんと拡がり、千駄ヶ谷方面、代々木、柏木と、もうとうていまわり切れないほど広範囲にお得意を持つようになって、すると今度はそのお得意様の方から﹃どうだ一つこちらへ支店を出しては﹄というお心入れで、私は、それをききました時は有難さに泣き、ああもったいないと思いました。その番頭はお得意のお引立てにいっそう力を得まして、支店候補地をあらかじめ見て来たといって﹃千駄ヶ谷駅付近が最も有望です﹄という報告でした。
しかしその時私は四度目のお産の後、肥立が思わしくなく、床に就きがちでしたところへ、僅か半年でそのみどり児を失い、その悲しみや内外の心労と疲れから全く絶望の状態に陥っておりまして、気力もなく昏々と眠りつづけておりました。その中で、はっと気がつき﹃これではいけない﹄と起き上がりました。﹃店の人たちがあんなに働いて開拓していてくれるのに、これは早く見に行かなくては﹄と思うと、もう一時もじっとしていられなくなり、起きると早速支度して、主人とその人と三人で支店を出す場所を探しに出かけました。――︵﹁黙移﹂︶
ここにもある通り、その時浅野はお得意の最も集中した千駄ヶ谷を主として、今の代々木駅付近を希望したので、我々は浅野につれられてそちらから初めに見てまわり、新宿の方へ出たのであった。いかにも千駄ヶ谷は屋敷町で得意の数は多かったが、私は将来の発展の上から市内電車の終点以外に適地はないという断定を下し、すなわち新宿終点に眼をつけたのである。ちょうどそこに二間まぐち、三軒続きの新築貸家が出来かかっていたので、早速その二戸分を家賃二十八円で借り受け、ただちに開店の用意をした。
この場所は、現在の六間道路の所で、その三軒長屋の一つが今の洋品店、日の出屋になっている。
さていよいよ支店を出す段になって、全く予期せぬことが起った。それはこの支店を預って大いに働いてくれる筈であった浅野が、突然郷里に呼びかえされてしまったことで、彼もここまで運んで来ながら心残りであったろうし、私もせっかく着手する仕事にちょっと中心を失ったかたちであった。やむを得ず他の店員を留守番としてそこにおき、妻が毎日本郷から出張することにして開店した。明治四十年の十二月十五日であった。するとその開店第一日の売上げが、すでに六年間辛苦して築き上げた本郷本店の売上高を凌駕した。この一事でも、新宿という土地の将来伸びる勢いが早くもはっきりとうかがわれるのであった。
しかし当時の新宿の見すぼらしさは、いまどこと言って較べて見る土地もないくらい、町はずれの野趣といっても、それがじつに殺風景でちょっと裏手に入れば野便所があり、電車は単線で、所々に引込線が引かれ、筋向かいの豆腐屋の屋根のブリキ板が、風にあおられてバタバタと音を立てているなど、こんな荒すさんだ場末もなかった。でもそれは新宿の外形であって、もうその土地には興隆の気運が眼に見えぬうちに萌していた。
さて支店は売上げが日に日に向上し、将来有望と見極めがついて来るとともに、今度は店の狭さが問題になって来た。何しろ奥行は二間半にすぎず、裏に余裕がないので製造場を設けることが出来ない。どうかも少し広い所へ移りたいものと考えていると、私が前から関係していた蚕業会社の桑苗部主任の桑原宏という老人がひょっこり見えて、ちょうど近所に売家があるが買わないかという話で、渡りに舟と私は早速その所有主真上正房氏に会い、交渉すること僅か十五分間で、建物四棟と借地二百六十坪の権利を三千八百円で買約した。それがすなわち現在中村屋の地で、今日から見ればこれを手に入れたことは全く得難き幸いであった。明治四十二年春のことであった。
さていささか余談にわたるが、私が新宿に来たこの前後数年間が、あの辺の地価権利などの変動の最も激しかった時で、新宿変遷史の一端ともなるであろうから、少しその当時の状況を述べておこう。
私に今の場所を売ってくれた真上氏は、それより三年前にこれを他から五百五十円で買い取ったものであった。それを私は三千八百円で譲り受けたのであるから、この土地は三年間に七倍となったわけで、当時の田舎くさい新宿にじつはもうこれだけの景気が動いていたのである。さらにこの三千八百円の場所は三十年後の今日、地上権一坪平均千円として二十六万円、すなわち七十倍という躍進ぶりである。
また同じ真上氏は現在住友銀行支店となっている場所を、三十八年に一坪十円で買ったところ、五ヶ月後には十五円で売れた。さらに一ヶ月後にはこの十五円の地を浅田という人が三十円で買った。これなどは僅か六ヶ月の間に三倍となったのである。この浅田氏の浅田銀行が代って現在の住友銀行になった。
また私が最初権利なしで二十八円の家賃で借りた家から現在のところへ移ることが知れると、六百円くらいの権利金なら出すからという希望者がたくさん現れた。しかし私は缶詰の知識を私に与えてくれた豊田氏の御子息が、その希望者の一人であったので、一ヶ年半の間に私が家主に支払った家賃の四百二十円でこの人に譲った。つまり一ヶ年半を無家賃で住んだことになったのである。
しかしまさか新宿が今のようになろうとは誰しも予測し得なかったから、ある友人などは私が三千八百円という大金をこんな場末に投げ出すくらいなら、四谷の方に相当の所があるではないか、こんな所はよせと言って忠告したもので、実際その時分は四谷塩町付近が山の手銀座と称されて、市内屈指の繁栄地であった。幸いにして私の見込は違わなかったが、いろいろこうして思い出して見ると、じつに今昔の感が深い。
新宿駅は明治四十年にはまだ今の西武電車の発着所の所にあって、やっと四間に八間くらいの至って貧弱なものであった。それが急に拡張することになって、隣地角筈一番地を当時の地主武井守正氏に一坪十円で交渉を進めたが、武井氏は二十円を主張して譲らなかった。鉄道省側は、十年前坪二円であったものを二十円とは強欲過ぎると反感を起し、急に計画を変えて今の甲州街道の高い不便な場所を買った。ところがその後十年にもならぬうちに新宿駅はまたも拡張を余儀なくされ、以前二十円といわれて交渉成立しなかった地を、今度は同じ武井氏から八十円で買い取ったという話である。
それから中村屋の西隣りに育英堂という新聞配達店があったが、借財整理のために、土地二百九十坪家屋つきで三万五千円で売りたいといい、私に交渉があった。私も新宿には大いに希望を持っていたから、買い入れる心組みで、まず中村屋の地主渡辺氏に相談した。渡辺氏は地主である上に早稲田関係の先輩でもあってかねて懇意にしており、また内々隣りの地に野心のあることも解っていたから、それを出し抜いて独りで買うということは私には出来なかったのである。
すると渡辺氏はすでにこの土地に一万三千円貸し付けて居り、中村屋の土地とそれとを併せて五百五十坪の一画にすることをかねてより楽しみにしていたということで、この土地はぜひこちらに譲ってもらいたいと言う。そこで私も氏の懇望にまかせ、交渉をよして見ていた。
ところが渡辺氏はこの土地の価格を二万五、六千円と踏んでそれより出そうとしなかったので、交渉成立せず、とうとう高野果物店の手に入ってしまった。高野氏はこの時停車場の拡張で立退きを命ぜられて行き場に困っていた折柄なので、一方の交渉が破れるやただちに言い値の三万五千円で買い取ったのであった。こんなわけでいったん私の門前まで来たこの幸運は高野氏へまわったのである。しかし私にはぜひこれがなくてはならぬというのではなかったから、必要に迫られた高野氏の方へまわったのが自然で、大いに結構であったと思う。この時大正七年であったが、それから二十年経った今日では、三万五千円が三十倍以上の価格に上がり、驚くべき莫大なものとなった。
この直後の大正八年、現在の三越支店の所に郵便局があったが、これが移転することになって、その跡百六十坪の権利が売りに出た。これは私が友人務台氏に勧めて五千円で買わせておいたが、その後活動写真武蔵野館の発起者が一万八千円で務台氏から譲り受け、ただちに倍額の三万六千円で会社に提供した。その後十余年を経て昭和六年に三越が十倍の三十五万円で買い受け、そこに現在の支店が建設されたのである。
賃餅の予約と新兵衛餅
新宿に移って二年目、現在の場所を手に入れた私は、裏の空地に製造場も出来たので、これまではパン一式であったが、ここで一つ日本菓子の製造を始めようと思い立った。パンだけでは商いがあまりに細く、夏忙しい代りに冬閑散で、早くいえば商売にむらがある。そこでパンとは反対に、冬忙しく夏閑散な日本菓子を持って来て、互いに長短相補おうというのであって、これが具合よく行けば中村屋の経営は初めて合理化するのであった。 しかし日本菓子は私にとり未経験であると同時に、お得意の方でもパン屋が急に日本菓子を売り出して買って頂けるものかどうか、これは少し難かしい問題であった。 で、何とか一工夫して中村屋の新たに製造して売り出す日本菓子は、特に材料を精選した優良品であるということを、お得意に知ってもらわなくてはならぬと思い、そこで思いついたのが歳末の賃餅であった。上等の餅を勉強して売り出せば、それが機縁になって日本菓子のお得意が得られる。私はこう思うたので、餅米はどんなものを選ぶべきか、幸いこれには米穀研究の権威者と称された畑中吉五郎氏が私の親戚であったから、早速氏を訪ねて相談した。すると畑中氏は、 ﹃今日東京で餅を売るといって、ただの上餅では、たとえ原価で売ったところが、第一流の客を引くことは出来ないであろう。そこでこれは大奮発だが、旧幕時代将軍家御用となっていた新兵衛餅というのがある。これならばたしかに天下一品、こういう餅を賃餅にして売り出したら、君の思いつきはたしかに成功するであろう﹄ といって、その新兵衛餅について教えてくれた。私は氏の説に従い、すぐに産地に行って新兵衛餅百俵を買い入れ、その売渡し証を取って帰り、これを写真に撮って広告に入し、往昔徳川将軍家御用であった天下一品の新兵衛餅百俵を、表記買入れの実費をもって予約販売致します。但し予約期限は十二月十五日限り、それ以後は時の相場通り値上げする旨を発表した。 この計画は大成功でした。十五日までに百俵の餅は全部予約済みとなり、約六百軒のお得意を得ることが出来た。そして畑中氏の説に違わず、この新兵衛餅は探しても他では得られぬ最上等の餅であったから、この評判は延いて日本菓子の紹介となり、一ヶ年後にはパンよりも日本菓子の方が成績を上げて、中村屋の総売上げは急に倍加し、完全に販売能率の平均を見ることが出来たのであった。 しかしながら新兵衛餅にも不作の年はあった。新兵衛餅を産する所は、埼玉県越ヶ谷、新兵衛新田と称し、昔は沼地であったものを埋め立てて田としたのであるから、傍を流れる綾瀬川が増水するとたちまち浸水し、せっかくの最上餅も、三流以下の品に落ちてしまう。 それゆえ、この土地に限って出水の季節に先立ち、一ヶ月も早く刈り入れるのであるが、それでも水害を蒙ることがある。私は初めのうちそれを知らなかったから、浸水した餅を最上餅として売り出し、後で品質の劣ったことが判ってそれを全部引き取り、改めて他の餅を納めてお客様にお詫びしたことがある。 それ以来私は米の成熟期と収穫期と、二度は必ず産地に出向き、実地を視察することにしている。 ある年、関東地方は雨天続きで、糯米の品質が劣って、いかに新兵衛でも例年通りの最上の餅とはいえまいという見込であった。そこで私は広く日本全国の作柄を調査してみたが、その結果日本海方面はこちらとは反対に、例年にない好天気であったことを知り、秋田から餅米を取りよせて新兵衛餅と比較して見た。すると果たしてこの年は秋田餅の方が優れていたから、これを用いてお得意に配り、値も安くて品も良かったと好評を博したことがあった。 この場合、私が秋田餅の上出来なのを知らず、例年通り新兵衛餅を天下一品として納めていたとしたら、せっかく得たお得意を失い、中村屋の信用をおとすところであったのである。 こんなふうで、天下一品と折紙のついた原料を扱うからといって、決して安心は出来ない。四囲の状況に照して注意を怠らず、研究心強く、またその労を厭うところがあってはならないのだということを、その時しみじみ感じたことであった。良い品を廉く
私が静坐の岡田虎次郎先生を知ったのは明治四十五年の春であった。その動機は妻が﹁黙移﹂に書いているからここには省くが、とにかく先生はその時代におけるたしかに驚嘆すべき存在であった。その教えを受けるものには大学教授あり、富豪あり、宗教家あり、貴族あり、学生あり、また狂える婦人あり、病める者あり、じつに社会各層を網羅し、人生の諸相をここに集めたかの観があり、それらの人々がじつに絶対の信頼をもって先生の教えに服していたこと、まことに不思議なほどであった。かの有名な栃木鎮台田中正造翁もその一人であったが、翁はこの二十歳も年少な岡田先生を評して、 ﹃聖人とはこの方のことでしょう、古来支那に孔子出で、印度に釈迦あり、猶太に基キリ督ストが生れ、聖人はみな外国にあって、まだ我が日本には出なかったのであるが、今度こそは我が国にも聖人が生れました﹄ と言い、崇敬措かなかったものである。私などは先生のような大人物を評価するなど思いも及ばぬことであるが、かつて聖書で、基督の徳を慕うて集まった数百人の男女が、ホザナよホザナよと讃えつつ村から村へと続いたというところを読んで、これは後世信者が基督の徳を誇張してこのように書いたものであるとのみ考えていたことを思い、ああ見なければ解らぬものだ、現にこういう事実が眼の前にあるではないか、聖書にある基督のことも決して誇張ではなかったのだと感じ入ったほどで、実際岡田先生の静坐会に参加する人々、またどこまでもと先生の後をついて歩く人々は、雲の如くであったと言っても過言でない。 先生は当時、もの淋しい日暮里駅の上にある本行寺という寺の本堂を朝々の静坐道場としておられたが、どんな寒い冬の朝でも道場は暗いうちから満堂立錐の余地なく、後おくれたものは廊下の板の上に坐っていた。この朝の静坐が済んでから、毎週二回、我が中村屋でも第二の会が催され、ここにも毎回十数人の人々が集まり、約十年ほども引きつづき行われたのであるが、惜しいかな、先生は大正九年の十月十七日に急逝せられた。 岡田先生は何事でも三段論法で断言されるのであったが、私に教えて言われるには、﹃商売を繁昌させるのは難かしいことではない、良い品を廉やすく売ればよろしい﹄ わかり切ったことのようであるが、先生はこの鉄則を私に教えられたのであった。すなわち﹁良い品を廉く﹂を店の標モッ語トーとして中村屋は今日に至ったのである。 さて﹁良い品を廉く﹂というと、そこに連想されるものは薄利多売であるが、私は必ずしも多売を目的としなかった。良い品のその﹁良い﹂ことを落さぬためには、常に製品を内輪に見積って、どんなことがあっても翌日にまわるような売れ残りを拵えてはならない。すなわちここが大切の思い切りどころであって、多量に製造して販売能力の精一杯まで当てにするという方針は私のとらないところであった。 たとえば今日は百円くらいの売行きはあろうと思っても、夕立その他の万一の故障に備えて、その八掛け八十円だけの製造に止める。したがって毎日早く売り切れてしまうから、中村屋の品は新しいということがお得意にも判り、あの店のものならばと期待してもらえるのである。 しかし遅く見えたお客に﹃今日はもう売り切れました﹄と言って断るのはまことに辛いことであるし、またたしかに惜しい。そこでつい余分に製造するのが人情である。その余分に製造したのが売り切れれば結構だが、三日に一度くらいは売れ残り、これを捨てるのは惜しいというわけで、翌朝蒸し返し、あるいは造り直して売る。いかに精選した原料を用いてあっても、蒸し返しや造り直しでは味が死んでしまっていて、出来立ての品とは較べものにならぬ。客は失望し、その店の信用は漸次失墜する。こんなことは私が言うまでもなく、誰でも判っている筈なのだが、その判っていることを人はやはり繰り返すのである。店員諸子も他日中村屋を離れて自分の店を持つ暁には、こういう迷いに陥らぬよう、いつも内輪目の手堅い商売を目指してもらいたいものである。 中村屋では生菓子類は午後三時のおやつまでを限りとして売り切れる程度の製造に止めているから、たまたままとまった註文でも来ると、午前中に売り切れとなってしまうこともあって、お客様には不便を掛けてまことに申し訳ないのであるが、このくらいの内輪にしていてさえ、大夕立、大雪などに見舞われると、数十円の生菓子を残すことがある。もっともそんなことは年にまず三、四回あるかないかのものであるから、私はそういう時はその菓子を、日頃世話になる銀行とか郵便局、また育児院などへ寄贈し、どんなにそれが多量でも翌朝へ持ち越すことは決してしない。現在中村屋の繁昌はこうしてあらゆる角度から間違いのないことを期し、新しく良い品を廉く売ることによって招来されたものであって、決して華々しい商略で戦い勝ったというような性質のものではないのである。 しかしまだここに一つの問題が残っている。いかに見込の八掛けで手がたく構えていたとしても、前日より用意しなければならぬパンの原料が、次の日の悪天候で処分し尽せぬということは時に免れぬものである。この場合これをいかにすべきかと百方苦心したが、今から十年ほど前にその解決策を発見した。すなわち前日仕込んだものを全部パンに製造しては売れ残る恐れありと見るや、その余分だけを﹁ラスク﹂︵乾パンの菓子︶に製するのである。しかしこの場合、その製品たる﹁ラスク﹂をどう処分するかが問題で、これには別途の販路がなければならない。当時﹁ラスク﹂は市価一斤︵百二十匁︶七十銭で、相当高級品として上流家庭に需要のあったものであるが、私の﹁ラスク﹂はパンの廃物利用として造り出されたのであるから、その値段は一般民衆に得意を見出す程度のものにしたいと考えた。 そこで﹁ラスク﹂の原価調査をしてみると、一斤の原料費が三十五銭、製造費十五銭、卸売費五銭で、合計五十五銭、そこへ小売店の販売差益十五銭を加えて七十銭となっていることが判った。私はこの七十銭の市価に対して、原料費の三十五銭と雑費の五銭を加えて、四十銭で売り出すことに決めた。職人等はそんな安値で売る品物ではないと言って強く反対したが、私は、このラスクは元来がパンの過剰処分であるから、普通の商品並みにすることはよくない。原料代を回収することが出来れば、工場費も燃料も職人の給料も、全然見る必要がないという見解であった。ただこの安値で売ることはラスクの製造販売業者に対して気の毒であったが、私の店では天候急変の日の過剰処分以外には製造しないのであったから、他店に甚だしい迷惑はかけなかったことと思う。 さて出来上がった数百斤のラスクを店頭に出した成績はというと、非常な歓迎を受け、僅々二、三時間で全部売り切れとなった。爾来十年、大雨大雪の後には、ラスクが出来ているかと言ってわざわざ来店されるお客があるほどで、私の方でも心楽しくこれを店頭に出すことが出来るのである。パンの原料をラスクにするという、これだけなら判って見れば何でもないが、要はそれをいかに売るかの気転にある。物価の騰落に処する小売商の覚悟
大正四年から大正八年までの五年間は、欧州大戦の影響を受けて物価暴騰し、またその後は急落して、昨日の成金は今日その居所をさえ失うという有様で、我々のような小売商の中にも騰落に際し方針を誤ったために、多年の信用を一朝にして失い、閉店倒産したものが少なくなかった。大正四年開戦の当初は諸物価一時下落したが、たちまちにして騰勢に変じ、漸次その勢いを増して今日は昨日より明日はまた今日よりも騰あがるというふうで、株式も土地も各種材料も買えば必ず儲かるのであったから、日頃着実な地方の農家までが競って思惑株に手を出し、また土地の買占めをするものがあったりして、ほとんど国をあげて投機の熱病に罹かかった観があった。ところが大正八年三月の停戦と同時に物価急落し、それまで隆々旭の昇るが如き勢いであった神戸の鈴木、横浜の茂木などが、千万の富を負債にかえて没落したのもこの時であった。 しかしまた一方には少数ながら騰落に処して少しも損害を被らなかったものもあるのであって、それらの商店はどういう用意を持っていたか、大いにここは吟味を要するところである。私に言わせるならば、物価暴騰の際には何時かそれが旧態に復する日があることを予想すべきであって、その考えもなしに景気の好調にまかせて買い進み、上が上にも利を占めようとするなどはじつに愚かの極みである。物価が正常のところに復するのはいつであるか、その時期は容易に判らぬとしても、十円に仕入れたものが景気に乗って二十円三十円にも売れるなどということは決して尋常の沙汰でなく、儲かってもそれは不当利得である。すなわちその不当なる利益は別途に貯えておき、やがての反動期に備えるのが商人としての良心であり、また一般人の常識であらねばならない。 我々の同業者の中でも、景気に乗って思惑買いをして、一時は大いに儲けたものもあった。何しろ当時は一俵二十二円であった砂糖が、三十円になり四十円になり、終には五十五円にまで騰り、この調子では七十円くらいまで行くかも知れぬと予想されたものであった。そこで五十余円の砂糖を幾百俵も買って予想の高値を当て込んだ同業者があったが、気の毒にも次に来たものは滅茶滅茶の暴落であった。 私は最初から、思惑買いはさておき、実際に使用する砂糖でさえも買置きせず、必要量だけを購入してこの変則の場合を凌いでいたので、五十五円が一時に三十円まで下落した際も、私のところには一俵の手持もなかった。つまり不当の利を得ようとしなかった代りに損をせず、すぐに安くなった砂糖を使うことが出来たのである。むろん私は世間で投機熱がいかに流行しても、株に手を出すなどということはなかったから、好景気に際して厘毛の利益も得なかった代り、この急落によって少しも打撃を被ることもなく、したがって中村屋は安泰であった。 しかし大戦当初よりのことを考えると、中村屋のような地道な店は、世間が成金成金でお祭り騒ぎをする中にあって、ずいぶん割の悪い人知れぬ苦心をしたものであった。材料は騰貴し、世間には金が洪水をなしているような話であっても、その半面には直接好景気のお蔭を被らぬ俸給生活者の生活苦の声があり、小売商はその間にあって、一方からは高い材料を買い、一方へはそんなに高く売れないという状態であった。それゆえ砂糖は二倍半まで上がったにかかわらず、菓子の売価は前後二回の値上げで、一本十五銭の羊羹を二十三銭に改め、約五割ほどの引上げをした程度に止まるのであったから、同業者は内実みな赤字となって困難した。それでも世間一般好景気の手前、泣言もいえぬという有様であった。 しかしその赤字は停戦となって物価急落後の一年間に、だいたい補充することが出来た。それは前にも言ったように、中村屋は高値を見込んでの思惑買いというものをいっさいしていなかったから、すぐに安くなった材料を使えたこと、材料は下がってもいったん価格の上がった菓子はすぐ下がるというものでなく、なお相場の落着きを見るまで当分そのままに置かれていたから、これまでの赤字に引きかえ、普通以上の利益となったこと、もう一つはいかに原料高で赤字となって苦しい時も、平和回復の時を信じて原料を落さず、いつも最良の品を用いて来たことにより、お得意がいよいよ増加し、売上げが多くなって確実に繁昌の度を加えたこと等々、およそ世の投機的商才とは全然相反する誠実と辛抱の結果として、きわめて自然に持ち来たらされたものであった。同業者中にはここまで辛抱が出来ず、原料高に堪えかねて材料を落し、あるいは分量を減じて赤字から免れることに腐心するうち、次第に得意の信用を失い、ようやく平和となって利益の見られる時分には売れ高著しく減じて、とうとう破産したものも少なくない。 私は店員諸子に言っておく。欧州大戦で私が経験したほどのことはなくても、物価が急に騰貴し、原料高で赤字に苦しむことは今後もあるであろう。その時は焦ってはいかぬ、常時における若干の利益は得意よりの預り物と考えて、力の能あとう限り辛抱し、預金の返済をするつもりで勉強することが必要である。そうすれば販売価格の引き上げられる時、または原料下落の場合に、出しただけのものはきっと戻されて来るものである。あまりに小心に目前の赤字を免れようとして値上げを急ぎ、また品質を落すなどのことは、商人として慎しむべきの第一である。朝鮮土産と不老長寿
大正十一年、私は妻と共に朝鮮に旅行した。それまでにもちょいちょい小旅行を試みたことはあるが、両人共にこうしてやや遠くまで出かけられるようになったことは、新宿に移ってから十五年、店の成長とともに、我らと寝食を共にして来た店員の成長したことをも語るものであって、留守を預けて出るにつけてもこのことは思われ、ここにも新たに店主としての喜びがあった。 朝鮮旅行の目的は、一般に視察と称するような堅いものではなかったが、さりとて単なる遊びの旅でもなく、まず朝鮮の家庭訪問というところであった。我々はかねて、新たに同胞となったこの半島の人々に対しては一段と親しくし、互いに心と心をよく通じ合うようにせねばならぬと考えていたので、在京学生の青年たちにも喜んで接し、折に触れては家庭に招待して食事を共にするなど少しばかりの世話ぶりをしたのが、青年たちの父兄に喜ばれ、ぜひ朝鮮を見に来てくれと彼あ方ち此こ方ちから招きを受けるようになり、とうとうこの訪問となったのであった。 私はこの旅行によって初めて松の実というものを味わった。我々は京城に入っても内地人経営の旅館には入らず、朝鮮の宿に泊り、かの地の旧家であるところの家庭に彼方此方招かれて御馳走になった。朝鮮上流家庭の婦人はめったに屋外に出ることがなく、他人には顔も見せぬ慣しだが、料理には至って堪能で、どちらの家庭で御馳走になっても夫人令嬢の手料理で、じつに心地よくもてなされた。その料理の中に松の実があって、私はその味わいの上品な濃厚さに感心し、支那人がこれを不老長寿の霊薬とし、朝鮮でも比類なき最上の滋味とするいわれになるほどと肯いた。 そこで私の朝鮮土産は松の実ときまり、古来仙薬の如くに尊ばれるからには必ず何か科学的根拠があろうと考えたので、帰京後鈴木梅太郎博士に研究を依頼し、農大鈴木研究室において右川鼎造学士担当、約一ヶ年に渉る動物試験の結果、松の実中にはヴィタミンBを多量に含み、副食物として、また嗜好品としてきわめて優良であり、特に米を主食物とする我が日本人には栄養価大にして精気を加えるものであることが証明された。 そこで種々研究して、まずこれを瓶詰として売り出し、さらにこれを菓子に用いようとしてずいぶん苦心した。なにぶん松の実は日本菓子には調和しにくい性質なので、この研究には数年を費し、何十度という試みをした結果、とうとう松の実カステラをつくり出した。 苦心の甲斐あってこれが大いに世に迎えられ、売行きが増加するにつけて、松の実の買付けも多くなったので産地でも相場が上がり、このことによってまた半島の同胞に喜んでもらうことが出来たのは、私にとってまことに松の実の不老長寿以上の喜びであった。個人商店を株式会社に改む
大正十二年中村屋の売上高は一ヶ年二十万円に達した。これに対して税務署は、純所得をこの売上高の一割五分として三万円に査定するということであったが、そうすると税金だけで六千円近くになる。 税務署のかかる追求には、中村屋は本郷以来相当悩まされ、どれほど折衝したか知れないが、ついにここに至って、査定通りの税金を払ったのでは立ち行かぬということになった。 中村屋はよく売れるには相違ないが、至って地味な経営で安全第一主義であるから、利益率は売上げの増加に反比例してかえって減じているほどであった。むろん私が言う安全第一は消極的の意味ではないが、優良な品を売ることが店の眼目であれば、製造に関する諸設備も絶えず改善されねばならず、店員の待遇も漸次引き上げて、日々の繁忙の間に犠牲者を出さぬよう出来得る限り生活の安全を計るべきであるし、店が発展すればそれにも増して経営費率が上がり、利益はかえって少なくなる有様であった。したがって純益は三万円どころか、その税金の六千円だけもむずかしい実状であった。 そしてこれはひとり中村屋に限ったことではなく、世間の健実な商店の経験するところであるが、税務官にはこの理由が理解しにくいと見え、店が発展して来ればどこでも必ずこの問題に悩まされるのであった。 中村屋はついに窮余の末、十二年四月急に株式会社組織に改めた。その結果純所得が約五分の一の六千三百円に決定され、税金は、私の個人所得をも加えて千五百円となった。すなわち中村屋は個人商店を株式会社に改めて、初めて税金が負担に堪え得る程度のところに落着いたのであった。当時税務署の課税方針には、個人商店に対するのと、株式会社や百貨店に対するのと、じつにこれだけの相違があった。しかしこの不合理も近年は大いに改まり、会社組織と個人店の間に著しき相違を見ざるに至った。 さて株式会社中村屋は資本金十五万円とし、全株の半分を妻良の名義にし、残りの半分をば私と婿のボース、伜や娘、功労ある店員十名の間に分配した。 中村屋が全株の半分を主婦の所有としたについては、一通りその理由を説明せねばなるまい。私はこの会社組織に改まると同時に社長となったが、本郷中村屋の初めからここに至る二十年の長年月、中村屋の名義人は私ではなくて相馬良であり、同時に彼女が事実上の責任者であった。創業当時私は郷里に蚕種製造の仕事を残して来ており、これがために毎年三ヶ月は郷里に帰り、パン屋として最も忙しい夏期をいつも留守にしていたのであった。また日本蚕業会社の重役としておよそ十年間はこれに関与していたから、中村屋のために専心働いたのは後の五年だけであった。それゆえ中村屋の基礎を築いた創業以来の十五ヶ年は、店は全く妻の双肩にあった訳で、中村屋の今日を成したものは大部分彼女の力である。元来小売商売は男子よりもむしろ主婦の活躍舞台であって、同業者の中でも本郷三丁目の岡野さん、本所の寿徳庵さん、銀座の木村屋さんなど、揃いも揃って主婦の働きによって今日の大を成したものである。私の妻は生れつきの熱情をこの環境に傾け尽したのであって、齢ようやく定まるに及んで病弱の身となったのにも、若き日の苦闘のほどは察しられるであろう。株分配の期に当りその功労を第一とするは、中村屋として当然のことであった。 株式組織となるとともに十二年四月末日、我々家族は麹町平河町に住居を移し、新宿の家は全体を店として使うことになった。関東大震災とその教訓
数えてみると今年はもうそれから十五年になるが、あの関東大震災は、我々が麹町に移ってから五ヶ月目の九月一日であった。当時の惨状はいまさらここに語るまでもないが、人口三百万を擁した東京市は、僅かに山の手の一部を残して他は烏有に帰し、交通機関はことごとく破壊停止し、多くの避難民は住むに家なく食うに食なき有様であった。 中村屋は幸運にもこの災難を免れたが、電気も瓦ガ斯スも水道も止ったのだから、パンも菓子も製造することが出来ない。しかし店頭には食なき人々が押し寄せて、パンはないか菓子はないかと求める有様に、私は商人の義務としても手を束ねていられる時ではないと思い、手のかからぬ能率的なものをと命じ、瓦斯も電気も水道も役に立たぬ中で、全員必死の働きをもってつくり出したのが、今も年々その日に記念販売をするいわゆる地震パン、地震饅頭、奉仕パンの三品であった。僅かにこの三品ではあったが、これだけでもただちに製造して間に合わせたのは中村屋だけで、したがって製品は、日本銀行の金庫を護る兵士たちのおやつにもなれば、さらに惨状の酷い横浜からもはるばる買いに来るという次第で、拵えても拵えても間に合わず、半日の製品が一時間の販売にも足りないという状況であった。 余震は頻々として来たり、ぐらぐらと震動する工場の中は、尋常の心持ではとても仕事の出来るところではなかった。しかし店頭に山なす人々の要求を思えば、危険を顧みる暇もない。全く昼夜兼行全店員よくあれだけの働きが出来たと思う。夜半に中村屋の煙突から火の子が出たのを見て、誰しもこの折柄で昂奮していて、驚す破わまた火事よと駆けつけ﹃何だ中村屋か、人騒がせをしやがる﹄と腹を立てた人もあった。しかしそれを制して﹃中村屋は徹夜してパンを焼いてるんだ、この際これがただの商売気で出来ることかい﹄という多くの声があり、やはり心から心へ通じて真に涙ぐましいものがあった。当時下町の問屋はことごとく焼失して、材料を仕入れようにも残っていない。山の手の商店にあった僅かな品もたちまち引張り凧でからからになり、食料品缶詰は倍値に売られ、一袋四円の小麦粉が十六円まで奔騰した。 私の店でも二日ほどで原料の砂糖と粉が切れてしまった。そこで至急使いを江東の大島方面に派し、砂糖会社と製粉会社に交渉した。するとこれらの会社では、問屋からの註文は絶え、地方への輸送の途も断たれていた矢先とて、大いに歓迎して、従来問屋から仕入れた値よりもかえって格安に売ってくれた。 荷馬車数台に満載した砂糖と粉が店頭に着いた時は、﹃ああこれで原料の不安が解消した﹄と、思わず全員飛び出して万歳を叫んだ。この荷が手に入ったので私は店頭に張り出して、罹災者の方々へは小麦粉を原価の四円で分けて上げることにし、製品のパンや菓子も従前よりはおよそ一割方安く売ることが出来て、罹災者を初め物資欠乏の中にある人々へ、我が中村屋がいくらかでも務めることが出来たと思うと、私はじつに嬉しかった。 何しろあの大震火災のことで、私の方も災禍を免れたといっても相当の損害はあったが、それも世間から見れば口にして言うほどのものでなく、一人の負傷者さえも出さなかったことは、全く神仏の加護によるものだと真実有難く思い、それがこの原価販売となっただけのことであったが、震災を一転機として店の売上げがたちまち三、四割方の増加となったのには驚かされた。後で耳に入ったところによれば、多くの店が幾割かの値上げをした際に、私の方が平常よりも勉強したことが特に目立ち、中村屋に好感を持って下さる方がふえたのだということで、私はまたここに天祐の上の天祐を感じ、罹災してついに立てなくなった人も多い中に何というもったいないことであろうと思った。 それゆえこの大震災は、中村屋にとっては重々記念すべきであって、毎年九月一日には震災記念販売をし、当時の店員一同の働きをしのび、その三品をそのままの形で出して原価販売をする慣例となった。すなわち震災記念販売は中村屋の年中行事の一つとなり、お得意でも当時を思い出して、当日は特にわざわざ店を訪ねて下さる方が多く、それらのお客様としても記念販売の三品は、一種異なる愛着をもって年々変りなく迎えられている次第である。ウルスス氏と中村屋牧場
ある日、西郷隆盛然たる一壮夫が私を訪ねて来た。大正十五年春のことである。 ﹃私は北海道のトラピスト修道院に教頭をつとめて居りましたが、教義上のことで羅ロー馬マ法王と争い、破門されて本日上京致しました。他に身寄りもありませんからなにぶん宜しくお願いいたします﹄ 紹介者もなく前触れもない全く突然の訪問であったが、我々には何となくこの仁が面白く思われ、一つにはかねてひそかに関心を持っているトラピスト修道院にいたというのにも心惹かれて、それ以来彼和田武夫氏は我が家の客となった。 妻は彼を綽名してウルスス君と呼んでいた。ウルススとはシエンキエイッチ作﹁何処に行く﹂の中に出て来る巨人で、暴帝ネロの眼前で猛牛を圧殺して姫君を救うというその面影に彼が似ているというのであった。 私はウルスス君を眺めていろいろ考えたが、菓子屋の中村屋にはこんな巨人に向く仕事がない。彼も自発的に巡査を志願して試験を受けに行った。どういうことを試験されたかと訊くと、 ﹃富士山の高さは何程あるかと訊かれましたから、私は登ったことがないから知りませんと申しました。それから、泥棒を捕えた時はいかにすべきかと言いますから、私は、泥棒には将来を戒めて逃がしてやります、世間には泥棒などより悪いことをする奴がたくさんあります、その奴らを捕えないうちは小泥棒などは許してやるべきだと答えて来ました﹄ これではもう落第に決まっていた。そこで、 ﹃君は宗教のこと以外に、世間の仕事を何か知っているか﹄ と聞いて見ると、彼は修道院において、ジョアンという世界的農学者︵現在オランダの農科大学長をしている︶から牧畜のことを学びましたということであった。 ちょうどその頃、私は四男の文雄を南米ブラジルにやって、そこで彼の新天地を開拓させようと考えて、文雄もこのことを喜び、南米行の予備教育を受けるために、日本力行会︵故島貫氏創立︶の海外学校に在学中であった。そこで私が考えるのに、海外に移民する日本人が牧畜の知識を持っておらぬのが最大の欠点で、これがあれば彼地での発展に大いに役立つであろうと思われた。すなわち当時の力行会長永田氏にこのことを話し、乳牛持参の牧畜教師を雇ってくれますかというと、永田氏も大いに歓迎するということであった。私は早速七百五十円の乳牛一頭を買い、校庭に牧舎とウルスス君の住宅とを新築して、彼を学校に送った。 ところが僅か二ヶ月で、海外学校にウルスス君を中心として事件が起った。何しろ羅馬法王と争うほどの熱血漢ウルススのことで、たちまち血気の学生の共鳴するところとなり、一にも和田、二にも和田で学校職員の手にあまり、今一歩で騒動が勃発するという報告に接した。私は困った。どうもそういう学校騒動のたまごを持ち込んだのでは、会長に対しても全く相済まぬことであった。そこで牧舎と住宅とはそのまま学校に寄付して、彼に牛を曳いて帰って来いと命じた。 すると大きな体のウルスス君が牛を曳いてノッソリと帰って来たが、特別大きなこの二つの存在には、第一入れる場所からして無い。私も全く当惑した。ことここに至れば完全な牧場を設けて、この両者を活かすよりほかなしと決意した。 そこで獣医学校の大槻雅得氏に設計を託し、三井家の牧場をも参酌して、きわめて小規模ながら牧場を自営することとなった。すなわちこれが仙川にある中村屋牧場である。 この牧場はこんなわけで出来たが、今日では最も優良なる生乳と生クリームとを供給し、中村屋にとり、なくてならぬ存在となった。窮余の一策としてやむにやまれず設けたものが今日これだ。人間万事塞翁が何とやら、うまいことを言ったものだと思う。 また私はこの牧場経営で、二年ほど苦労したが、その後欧州視察の旅で、この知識がたいへん役に立ち、あちらの農業視察に大いに便宜になった。欧州の農業経済を知るにはその基礎たる牧畜の知識を切要したからである。 もう一つの幸いは、ウルスス君が私の所に来て以来、修道院製造のバター、チーズ、タニヨール、果物漬などを中村屋が取扱って全国に配布することになった。四囲の刺激に一段の飛躍
三越が新宿に進出し、現在の二幸のところに支店を開いたのは大正十五年十月であった。まだその頃の新宿は新開の発展地とはいえ、これといって目に立つほどの商店もなかったから、三越支店の出現が、新宿一帯の地に与えた刺激は大きかった。地元の商店で多少ともその打撃を受けないものはなかったが、中村屋︵当時売上げ月二万円程度︶でも、月額千円に上った商品切手が全く出なくなり、その他の売上げにおいておよそ二千円を減じ、合わせて三千円の激減を見た。これらの客はすべて三越に吸収されたものであった。 私は考えた。鳥なき里の蝙こう蝠もりという譬たとえがあるが、三越という大きな鳥が出現して中村屋がただちにこの打撃を被るのは、やはり中村屋の商売にまだ一人前として足らぬところがあるからである。これは大いに反省し環境に従って一段の飛躍を遂げるのでなかったら、せっかく独自の位置を築いて来た中村屋が、今後百貨店のおこぼれを頂戴する悲運に陥らぬとも限らぬ。これは一刻も猶予ならぬ、奮起するはこの時であると。 私はこの難関突破の決意をもって、翌昭和二年一月、幹部会を開いた。ところが幹部めいめいの感ずるところもほとんど同じであって、誰一人弱音を吐くものはない。 ﹃我々が多年努力して今日の繁栄を築いた新宿です。相手がどれほどの大資本であろうと、飛入り者の後について行けるものですか。御主人にもどうかこの辺御決心を願いたい﹄と、これが期せずして一致した意見であった。私も胸中を打ちあけ、一同に対策を諮はかったところ、店員側は何よりもまず閉店時間を、これまでより二時間延長し、日曜日も平日の時間通り営業することを希望した。 それまで中村屋は平日午後七時閉店、日曜大祭日は五時閉店のきまりであった。夏の夕の五時以後は盛り場の新宿のことで、優に半日分以上の売上げがある。私はそれを承知していたが、世間の人が一週に一度の日曜日を楽しんでいる時に、我が店員は平日よりもいっそう多忙に過ごすのである。せめて夜だけでもゆっくりさせてやりたいものだと考え、得意への御不便を察して恐縮しながらも、五時閉店を固守して来たのであった。 それを今度は店員一同、店のために進んで時間延長を希望し、日曜祭日の夜の僅かな余裕も犠牲にしようというのである。私はこの一同の案を容れるとともに、七時以後の時間を甲乙二班に分って隔日交替とし、この時間における売上げの五分を、その日の当直店員に特別手当として支給することに決めた。 次に、各工場の職長に日本一の技術者を招しょ聘うへいしたいという私のかねての宿望を実現することになり、二月初旬には日本菓子部に荒井公平、洋菓子部に高相鉄蔵、食パン部に石崎元次郎の三君の入店を見ることが出来た。喫茶部の開設を決定したのもこの時であった。これで中村屋の陣容はやや整い、目前の不利な形勢に対しても、これならば恐るるに足らぬという自信を持つことが出来たのである。店員一同の奮闘もまためざましかった。果たして形勢幾いく許ばくもなくして回復し、その後売上げは急激な勢いをもって増大した。 翌三年三月、私は欧州視察の旅に上ったが、ちょうど船が台湾沖にさしかかった時、私に無線電信が入った。私は妻が病床にあるところを発って来て、絶えずそのことが気にかかっていたから、電報ときいてぎょっとしたが、恐る恐る開いて見るとそれは店から打ったもので、﹁売上げ二千円を突破す﹂という吉報であった。 そういうふうで、昭和三年は中村屋の素晴しい躍進を記録した年で、その売上げは三越支店開設当時に比し、優に二倍を超過した。この意味において三越の新宿進出は、中村屋を一人前に育ててくれたものとして大いに感謝に値するのである。純印度式のカリー・ライス
中村屋の喫茶部開設については、その二、三年前からすでに気運が動いていた。今日でこそ新宿には多くの喫茶店が軒をならべ、各々その特色を発揮して景況いよいよ盛んだが、昭和二年にはまだ喫茶店らしいものは一軒も見当らなかったのである。しかし土地が次第に賑やかさを加えるにつれ、自然茶をのむところの必要も感じられ、中村屋のお得意からもちょっとした小休み程度の喫茶部を設けてほしいがという希望はたびたび出ていた。 しかし私は、喫茶のような丁寧なお客扱いは容易に出来るものでないからと独りぎめにきめて、それまで手をつけなかったのであるが、婿のボースが、彼の祖国印度に対する日本人の認識の誤りがちなのを歎き、中村屋で喫茶部をおくならば、純印度の上品な趣味好尚を味わってもらうために、自分はぜひ印度のカリー・ライスを紹介したい、現在世間でライス・カレーと称して行われているものは、もとは印度から出て世界中に拡まったものだが、日本では次第に安い材料を用いるようになり、今では経済料理の一種としてひどく下等になっている。印度貴族の食するカリー・ライスは決してあんなものではない。肉は最上級の鶏肉を用いるのであるし、最上のバターと十数種の香料を加え、米もまた優良品を選んですべて充分の選択の上に調えられる最上の美味である。と熱心に喫茶部開設の希望をした。ボースはすでにその妻を失っていたが、その亡妻俊子は私の長女であった。英国政府の迫害の中にある印度志士の彼に嫁した俊子は心労の果てに若死したが、それ以来印度というものに対する我々が親愛の情もまたひとしおに深いわけであって、ボースの印度料理案が出るに及んで心動き、ちょうど店の新計画と一致して、いよいよ昭和二年六月喫茶部開設となり、同時に印度式カリー・ライスを公開したのである。 果たして純印度式カリー・ライスは、洗練された味覚を持つ人々によろこび迎えられ、現在いよいよ好評であるが、純印度式であるとともに我々日本人の口にあうように、またその最上の美味を出すためには、一通りならず苦心した。まず問題は米であった。カリーに用いる米はカリーの汁をかけるとすうっと綺麗に平均して、よく浸み透るのでなくてはならない。初めは本場の印度から取り寄せて見たが、一斤︵約三合︶五十銭につき、見た眼にはじつに美事であったが、その味は日本人に向かなかった。 そこで、先に新兵衛餅を教えてもらった畑中氏をまたまた煩わすと、氏はカリーに最も適当する白目という米のあることを教えてくれた。 ﹃維新前、江戸は美食を競うところであって、ことに各藩の勘定方など、価の高下を問わず美味三昧を誇りとしたものであるが、この人たちは好んでこの白目米を用い、また一流の鳥料理、鰻屋にはぜひともなくてならぬ米であったから、他の一等米に比しておよそ三割方の高価であったが、毎年三千俵の売行きがあったものだ。維新とともにそういう微妙な舌の持主は落魄し、にわかに粗野な地方人の天下となったのであるから、爾来白目米を味わい分ける者もなく、今日では僅かに当時の百分の一くらいが用いられるだけで、それすら年々減少する傾あり、この珍品白目米も遠からず種切れとなる恐れがある﹄と。 私は畑中氏からこれを聴いて、我が中村屋のカリー・ライスのためにぜひともこれを復興させねばならぬと感じ、早速産地埼玉県庁に照会して、時の産業課長近藤氏の賛助を得、農会長の肝いりで十二人の老農を選択してもらい、一等米より二割高で引き取ることを約束して、白目米三百俵の栽培を頼んだ。これが現在中村屋のカリー・ライスに用いている米である。明治初年、文人画家として令名のあった奥村晴湖女史は、古河藩の家老の娘として生れ、一生を美食で通したというが、女史は白目以外の米は口にしなかったそうで、実際白目米には他のいかなる米も及ばぬ味がある。私はこういう良い米を復興し保存し得たことをよろこんでいる。 次はカリー・ライスの鶏肉、いかにして良き鶏肉を得るかということであった。私は欧州視察中パリの食料品市場を見て、鶏肉に大変な価格の開きのあることを発見した。下等品と最上品では一と四の割合であった。私は日本ではせいぜい一と二ぐらいの違いであったと思っていたから、フランス人がそこまで肉の優劣を味わい分けるのに感服し、帰朝の上は自分もフランスに劣らぬ優良鶏肉を作り出し、中村屋のカリー・ライスを一段と向上させなければならぬと考えた。しかしそういう知識の全くない私のことである。どうすれば最上の肉が得られるか、見当もつかない。よく肥えた最上の肉を納入せよと鳥屋に命じるだけであって、それ以上立ち入ることが出来なかった。するとある日一人のお客様が私に対して、 ﹃お店のカリー・ライスはじつに美味しいが、惜しいことには肉がなってませんね﹄ さてはと思って私はなおくわしく肉の批評を乞うと、 ﹃この肉は鶏舎飼いの鳥で、普通品です﹄ ﹃いや、優等の肉の筈です﹄ と私が答えると、 ﹃色が白くて、やわらかで味のないのが鶏舎飼いの証拠ですよ。上等の地どりなら色が赤くてもっと締って、味もはるかに優っている筈です﹄ そこで私は鳥屋を呼んで、 ﹃最優良品という条件で、値も高く買っているのに、鶏舎飼いを納めるとは怪しからんではないか﹄ と詰問した。すると鳥屋は恐縮して、 ﹃毎日これほど多数お使いになるのですから、地どりの上等だけで取り揃えることは困難なのです。時には御註文だけ揃わないことがあって、致し方なく普通品の中から上等のものを選んで混ぜることにもなりますが、どうか御辛抱を﹄ という。 それから私はこれまでの鳥屋まかせを改めて、専門の人々にも訊き、本格的に鶏肉の知識を漁った。江戸時代の第一流といわれた鳥料理店では、この原料の優良なものを集めることに非常な苦心をしたものだそうで、優等品は並品の三倍以上もするということが判った。しかし優良な地どりでも、フランスで四倍の高価を保っている肥育鶏にはやや劣る。で、この肥育鶏を用いることが出来れば申し分ないのだが、肥育鶏は今より十五年ほど前、岩崎家が千葉の末広農場で試みられたのが日本における最初で、この肉は当時外国公使館などで歓迎されたが、僅か数年の試験に五、六万円の赤字を出し、ついに中止されたとのことであった。しかしその後も、英国帰りの伴田という人が蒲田町でやっているということが判った。 私は伴田氏の鶏舎を訪ねていろいろ実状を調べたところ、丸鳥で百匁七十銭程度に取引きされて、当時の並鳥二十銭に対して三倍半の値で、フランスの四倍にやや接近していたが、ここの肥育鶏は惜しいことに種々雑多の種類を集めたもので、味が平均せぬ憾みがあった。私はこれをさらに一歩進めて食用鶏として最も味の優れている軍しゃ鶏もの一種とし、自分の手で飼育すれば完全なものが得られるのだという結論に達し、そこで初めて山梨県に飼育場を設けたのであった。 飼育場主任としてこの仕事に当った河野豊信氏は、農林省の畜産試験場で養鶏の研究をしていた人で、ここに初めて本格的の肥育が試みられることになった。その後年々需要が増加し、そこだけの設備では供給が出来なくなったので千葉県に移転し、これでようやく一年間を通じて同じ優良鶏肉を供給し得る、完全な飼育場を持つことが出来たのである。 こうして私のパリ以来の懸案は解決されたが、初め考えたよりもその実行ははるかに困難であった。カリー・ライスが好評なのでその後お客様から、﹃もし中村屋でビフテキを食べさせるならきっと最上のものが出来ると思うが、やって見ないか﹄というお勧めも出たが、私はその原料精選のことを考えて、今もって手を出し兼ねている。今日最上の牛肉は多く一流のスキ焼店に買い占められて、市中の肉屋の手に入ることはきわめて稀れである。それでは中村屋が真に美味しいビフテキを提供しようと思えばやはり軍鶏同様、自家経営で数百頭の牛を肥育するよりほかないのである。こう考えるから喫茶部にさらに一品の料理を加えるのもじつに容易でないのである。 かつて石黒忠悳翁が明治初年の頃、八百善に行き、鯛料理を註文したところ、主人が出て﹃ここ数日、鯛が品切れでございます﹄と挨拶した。﹃それでも昨日某鯛料理店では百人ほどの膳に鯛をつけたが﹄と翁が怪しむと、主人は﹃地鯛なら何程でもありますが、手前のところでは興津鯛を用いますので﹄と。翁はこれをきいて﹃なるほど、さすが八百善だ﹄と感心されたということであるが、一流料理店の苦心の一通りでないことはこれによっても察しられる。印度志士の問題
印度人のボースが私の聟むことなり、日本に帰化し、中村屋の幹部として働くようになった因縁については、妻がすでに﹁黙移﹂の中に詳しく書いているから、それを参照してもらうことにして、私はむしろ﹁黙移﹂を補足する程度にごく大略を述べることにする。 ボースは印度ベンゴールに生れた。階級の厳重な印度で彼の家は四階級の第二なる王族階級であった。彼は十六歳の時父のもとを離れ、祖国を英国の圧制より救わんとする革命運動に投じ、そのうちにラホールにおいて印度総督に爆弾を投じて以来、英国政府は彼の首に一万二千ルピーの懸賞金を付していた。 しかも彼は巧みに英国の魔手を逃れ、大正四年六月日本に亡命した。英国政府も彼が日本に入ったことを察知し、内々探査を進めていたが、その年十一月、在日本の英国官憲はついにボースを発見、日本政府に迫って彼を国外に追放せしめようとした。しかしこういう政治犯は各国ともにこれを保護する習慣であるし、現に英国自身国際的先覚者をもって任じ、その本国では各国の亡命客をどこの国よりも多く保護しているくらいであるから、ボースを印度革命の志士だと言ったのでは、日本に対し目的を達することができない。そこで苦肉の策を案じ、ちょうど欧州大戦中であったから、ボースを世界の敵なる独ドイ逸ツの秘密探偵として日本に潜入したものであるとなし、彼が日本から追われて領外に出るのを待って殺そうという計画を立てた。大英帝国ともあるものがじつに卑怯千万な話であったが、当時我が政府の外交に当る人々は、欧州列強に対し甚だ弱気で全く受身であったから、こんな侮蔑的要求をも拒否することが出来ず、ボース及び同志グプタの両志士に対し、一週間以内に国外へ退去することを命じた。 このことが聞えると、言論機関は一斉に立って我が軟弱外交を攻撃し、気骨ある志士は猛然とこれを論難した。とりわけ頭山満翁を頭目として犬養毅、寺尾亨、内田良平、佃信夫、中村弼、杉山茂丸等数十名の同志は我が国の独立的体面を守らんがために政府に抗し、自ら躬みをもって両志士の生命を保護しようと盟ちかい、そこに必死の猛運動が起されたことはいうまでもない。しかし当局は英国政府の手前、退去命令を撤回することが出来ない。そのうちに一週間の期限も迫って第六日目となり、十二月一日、今や同志の生命は風前のともしびとなった。 我ら夫婦もこれを日々の新聞紙上で承知して、志士の身の上が気の毒であり、また国家としても独探などとは口実と知りつつ他国の強要に従わねばならぬとは、何という残念なことであろうと考え、同志者の骨折りも水泡に帰して、彼ら二人もいよいよ明日は死地に赴くのかと感慨に耽る中にも、まだまだ最後ではない、何とか急に道が開けるかもしれないという気がしていた。すると偶然そこへ中村弼氏が買物に見えた。私はすぐに、どうなりましたかと訊ねた。氏は憮然として﹃絶望﹄だという答であった。私はその時どういうふうに言ったかおぼえていないが、家の裏に美術家たちのいた画室が空いているし、また我が家は外国人の出入りも多く年中雑然としているから、こういう所なら同志を匿かくまえるかも知れないという考えを、自ずと中村氏に洩らしたものであった。 万策尽きた際とて、これが中村氏から同志の人々に伝えられ、あらためて頭山先生からお話があって、ボース、グプタの二氏を私に託されることとなった。 その晩大きな黒い男二人は、退去の挨拶にまわった頭山邸から闇にまぎれて姿を消してしまった。警視庁の狼狽は一通りでなく、たちまち上を下への騒動で、大がかりな捜索をしたが、どうしても両人の行方は判らない。英国大使よりは、有名な日本の警視庁ともあるものが、色の異った大男二人を帝都の真ん中から取り逃して、行方が判らないなどとは奇怪至極だ、これは日本政府の八百長に違いないといって、毎日幾回となく外務省へ詰問的照会をする。その折衝に当った外務省の木村鋭市氏は、後に私に会った時﹃君のために三、四年の寿命を縮めた﹄と言われたが、私としてもあの厳しい捜索の中でよく匿し了せたと思い、氏の述懐をきくにつけてまたさらに感慨を深うした次第である。 こうしてボース氏を匿まうこと四ヶ月半、その間に英国はますます猜疑の眼を光らし、態度はますます露骨になり、日本に対し無礼の事柄が少なくなかったので、さすが事こと勿なかれ主義の石井外務大臣もついに勘忍袋の緒が切れたのであろう、俄然態度を硬化し、両志士を秘かに保護する決意を告げて、頭山翁に面会を求めて来た。それは大正五年四月十五日のこと、会見の場所は四谷見付の三河屋であった。今はもうなくなったが三河屋は当時東京一の牛肉屋で、座敷も相当立派であったし、まだ明治気分の残っている時代のこととて、スキ焼を囲んで毎度知名の士の会合の場所となったものである。 そこでボース氏の身柄もようやく安全となって、我々の手許を離れることになったが、この四ヶ月余の滞留で我々夫婦と彼とは親子のような情味を感ずるようになり、その後頭山先生の切望によって娘の俊子を彼に嫁がせた。したがってボースと中村屋との関係はいっそう密接となった次第である。 いま一人のグプタ氏は我が家に滞留中行方不明となり、メキシコに亡命したと言われている。露国の盲詩人とルバシカ
喫茶部では、純印度料理のカリー・ライスのほかに、露西亜料理のボルシチュを出し、また店員の制服はルバシカで、商品には露西亜チョコレートがある。これら露西亜物の因縁については、盲詩人エロシェンコのことを語らねばなるまい。 妻は昔から文学好きで、私のところに来る前から黒光の名で何か書いていたが、特に露西亜文学に興味を持ち、早稲田の片上伸氏、昇曙夢氏、若くして死んだが桂井当之助氏などと親しくし、また在留の露西亜人で遊びに来るものが多かった。エロシェンコは初め神近市子氏の紹介で来たが、彼は盲学校に学ぶために日本に来たところ、その後に起った本国の革命騒ぎで送金が絶えて困っているということであった。我々は彼が盲人の身で異郷に来て寄る辺もないのを気の毒に思い、かつてボースを匿かくまった画室に住まわせて、二、三年の間、家の者同様に不自由な彼の身のまわりの世話などしてやっていた。 彼は四歳にして失明し、光明を仰ぎ得ずに成長したからでもあろうが、見るところ著しく不平家であった。後、暁民会の高津正道氏等と交際するようになり、当局からボルシェヴィキの嫌疑を受け、退去命令を発せられて日本を去ったが、我ら夫婦は彼が滞留中の日常を通じて露西亜の衣食住に対し新たな興味を持ったのであった。ついに大正十一年六月ハルピンまで出かけて行って、露西亜料理や露西亜菓子を味わい、初めてそのうまさに驚いた。すなわち喫茶部開設に当って、カリー・ライスに対し露西亜のスープであるボルシチュを加えることにしたのである。 エロシェンコは常にルバシカを着ていた。我々はそれを見て洋服よりもはるかに便利でかつ経済的であることを知り、店の制服として採用したのであった。有名なトルストイ伯も常にルバシカを愛用したと聞いている。 今日でこそルバシカは珍しくもないが、中村屋で採用した当時はずいぶん目に立ち、ロシヤ服を着ているという廉かどで店員が警察に引き立てられたことなどもあった。 エロシェンコの退去問題で警察と中村屋の間に一騒ぎあったことは﹁黙移﹂にも記されているが、私もまたここに自分のおぼえを書いておこう。それは大正十年五月のことである。警察が私の家からエロシェンコを引き立てようとした時、私は彼の保護者としての立場から当局と折衝して、﹃今日はすでに日没後でもあり、かつ行政処分は夜中に執行すべきものでもないから待ってもらいたい。明朝八時、私が彼に付き添って警察に出頭します﹄と保証したにもかかわらず、警察ではその夜の十時過ぎ、三十二名の警官が隊をなして私の家を襲い、この一盲人を引致し去った。その際警官隊の行動は狼藉を極め、争って屋内に闖ちん入にゅうし、私や妻の室まで土足で踏み荒し、言語道断の暴れようをして行った。 私は警察の不法に驚き、忠良なる日本臣民としてこれを許しておけることでないと思った。私は滅多に怒らないが、この時は真に公憤を発したのである。 翌早朝淀橋署の刑事主任が来て、前夜の無礼を陳謝し、署長も恐縮して、後刻お詑びに来るからという。私は署長が真に反省してあやまりに来るのならば、将来をよく戒めて公の手段を取ることは見合わせようと考えた。しかし署長はとうとう顔を出さず、この事件の始末に対し全く誠意のないことが知れた。 そこで私は、警察官が乱入した際に落して行った眼鏡や手帳などを証拠品として、淀橋署長を相手に家宅侵入の告発をした。弁護士や友人たちは、警察を相手取っての訴訟は将来営業上に何かと祟られて煩うるさかろうから、思い止ってはどうかと忠告してくれたが、私はそういう意味で泣き寝入りする者が多く、ためにいっそう官憲の横暴が高まるのであると考えたので、多少の犠牲は覚悟の上で断然出訴したのであった。 その結果は、淀橋署長黒つづ葛らは原ら氏の辞職となった。私もそれ以上の追及は気の毒と考えたので出訴を取り下げ、三十二名の警官たちに対しては、彼らはただ署長の命令で行ったまでのことであるから、別に問題としなかったのである。 黒つづ葛らは原ら氏は去ったが、幸いにして私の真意は警察側に通じ、怨恨を残すどころか、これによって警察と中村屋は事件前よりかえって理解を進めた形となった。真剣に対立して見て初めて誠を感じ合ったというものであろう。 警察側がただ一人の盲人を連れ行くために、夜中三十二名の警官を動員したなどは全く常識の沙汰でないが、これはボース事件の記憶からこのたびも私がエロシェンコを匿しはせぬかとの疑念から出たものであったろう。しかしそれとこれとは全然問題の性質が異い、エロシェンコに対しては私は最初から国法に服従せしめる方針をとり、その態度は自ずから明白であったのである。ただ警察は疑心暗鬼にとらわれたのであって、思えば黒葛原氏も気の毒なことであった。 ボース事件も、この黒葛原氏が麻布署長の時代であったというが、同氏と中村屋とはよくよく因縁が深かったものだと思う。月餅の由来
月餅も支那饅頭もこの頃では世間に広く行き渡ったが、私は先年支那に旅して初めてこれを味わい、支那みやげとして売り出したものであった。 私が妻と支那見学に赴いたのは、昭和二年十月、ちょうど新宿に三越支店が乗り出して来た秋であった。当時支那は張作霖の全盛時代で、幣原外相の軟弱外交に足下を見透かされてか、日本人は至るところで馬鹿にされていた。私が奉天北京間の一等寝台券二枚を求めると、その一人分の室は満州兵のために横領され、我々両人はその一夜を寝ずに過ごさねばならなかった。もっともこんな目に遭ったのは我々ばかりでなく、白耳義公使が北京郊外の明の十三陵見物に行って、匪ひぞ賊くのために素裸にされた事件もこの当時であった。 そんなわけで、我々がぜひ見たいと思って行った大同の石仏も、そちらはことに危険だからと留められて、ついに見ずじまいで帰って来たが、北京では坂西閣下や多田中将︵当時中佐︶の斡旋で、宮殿も秘園も充分に見学し、僅かな日数ではあったけれど、とにかく老大国の支那というものの風貌に接することが出来たのは幸いであった。 この北京見物においても私の興味を惹いたのは、北京城内にある大市場であった。南北二十五町、東西十町ぐらい、その広大な地域に数千戸の商店が軒をならべ、市民の生活に必要なものはことごとく揃っており、各種の遊戯場、温泉、料理店、全くお好み次第の盛観で、しかもこの地域には雨も降らず、風も吹かず、煩わしい馬車の通行もないのであるから、これは全く平面的大百貨店であった。 当時この市場の近くに、近代的な高層建築の百貨店が出来ていたが、この方は至って淋しく、この大市場は殷いん賑しんを極めており、興味ある対照をなしていた。 聞けばこの市場の販売力は、北京住民の必需品の約四割を占めるということであったが、その偉観には私も思わず驚嘆の声を発した。当時私は小売店の死命を制する百貨店に対して真剣に研究を進め、百貨店視察のために欧州に行く前でもあったから、特にこの市場に注意を惹かれたのであった。 この旅中に日本人の一喇ラ嘛マ僧に会い、支那では古来八月十五夜に﹁月餅﹂と称する菓子を拵え、これを月前に供えるとともに、親しい間に盛んに贈答が行われるという話を聞き、何となく彼我風俗の相似するのを感じて、我々はこの新菓をばこの旅行記念として日本への土産にしようと決めた。日本の十五夜に支那の月餅を売る、これもいささか日支の間に融和を図るものではあるまいか。 ここに月餅の由来につき興味ある話があるから、少しこれを語ろう。 明の時代のこと、蒙古から支那に伝来した喇ラ嘛マ教が盛んになって、喇嘛僧の勢力が増大するにつれ、弊害百出し、社会を毒すること極度に達した。心ある人々これを憂い、饅頭の中に回章を秘めて同志の間に配布し、八月十五日の夜志士ら蹶けっ起きして喇嘛僧を鏖おう殺さつし、僅かに生き残った者は辛うじて蒙古に逃れ、支那には全く跡を絶った。しかし冠婚葬祭のすべてを喇嘛教の宗教的儀式によって行っていた長い間の習慣はなかなか消えるものでなく、秋至り十五夜を迎うるごとにいまさらの如く彼らをしのび、また回章を封じて配った饅頭の故事を記念して年々この菓子をつくり、贈答するに至ったもので、明月に因んでこれを月餅と称したのであるという。 中村屋でも初めはこれを八月の一ヶ月だけ売ることにしていたが、一方支那饅頭の好評とともに、月餅を愛好される人も年々増加するので、その希望に従い、今では年中製造して売ることに改めたのである。 ﹇#改丁﹈若き人々へ
借金繰りまわしの苦心
ここで私は少し中村屋創業時代の資金のことについて考えて見たい。﹃資金さえあればどんな仕事でも出来る﹄とは人のよくいうところであるが、幸いにどこからか資金が得られたにしても、金には利子がつく。また元金も漸次返却せねばならない。ところが利子も払い元金も返してなお利益のある仕事というものはきわめて少ない。何の仕事にしても、資本を借りてやっていくことはなかなか容易ではないのである。 前にも記せし通り私が、本郷で中村屋を譲り受けた際には、友人望月氏から七百円を借り受け、それに子供の貯金三百円を加えて、都合一千円を資金として商売を始めたのであるが、幸い成績が悪くなかったからそれ以上の金融を必要とせず、国元からはいささかの補助も受けずにやり通せたのである。 その後新宿に移って、今の土地を三千八百円の権利で譲り受け、そこへ今日中村屋の誇りとする欅柱の純日本家屋︵新宿足袋屋の店︶を譲り受けて追分から移し、裏手にパンと日本菓子の工場を建て、食堂、湯殿等も増築しておよそ三千円を費した。これがすべて借金になったことはいうまでもない。 いまその借金を一々説明する要もないが、とにかく営業の進展とともに流動資本なども大きくなり、やむを得ず家屋を担保として銀行から借りねばならなかった。 私は高利の金を使っては営業は立ち行かないと考えていたので、一割以上の利子は払わない方針であったのだが、保険金の内借りまでしてまだ足らず、ついに銀行から一割二分の利子で、ほかに借入れ手数料二分、期限の借換えの時に踊りと称して一ヶ月分の利子を取られたので、合計一割五分の高利を払って借金した。 この高利には閉口した。ほかに預り金と貸家の敷金と、併せて九千余円の借金になった。この時のことである、私は国元へ墓詣りに行くと、父が八分の利子で人に金を貸している。それまで私は一度も父に金の話をしたことはなく、父もまた我々にいっさい干渉しなかったのであるが、なにぶんこちらも苦しんでいる時なので、父が銀行の高利な借金でも融通してくれたらと思い、話をして見た。すると父は、借金が九千円もあると聞いて驚き、﹃田舎の貴い金を、危い東京などに融通することは出来ない。ただしお前たちが東京でやりきれなくなった時は、何時でも帰って来るがよい。私は両手を開いて迎えてやるから﹄ と、まことに父の言葉に無理はないのであった。私は親に対してよしないことを言ったものと後悔し、その後は金の話はいっさい耳に入れぬことにした。しかしその苦労はじつに一通りでなかったのである。幸い店の方は日に日に売上げを加えて行ったので、どうやらこの危機を脱することが出来たが、今思えばもしこの時田舎の父が、よしよしと言って金をまわしてくれたとしたら、おそらく気もゆるんで、かえって後に悔を残すことになっていたかも知れぬのである。︵私は順養子となりしゆえ兄を敬して父と称す︶ 私はこうして借金に苦心惨憺であったが、店はお蔭で繁昌していたから他人にはそれが判らず、余程の利益であろうと想像して、助力や借金を申し込む者が相当あって困った。内実この有様であるからやむを得ず拒絶すると、それらの人々の中には不人情だとか守銭奴だとか悪声を放つ者もあった。 もう一つ忘れることの出来ないのは、友人某氏が手許に遊んでいる二千円を一割の利子で融通してくれた。私はその好意を感謝して期限も定めずに借りた。すると僅か二ヶ月ほどで、彼はその金を二割で貸し付けるところが出来たから即刻返してくれという。あまりに突然のことで、それは出来ないとはねつけると、 ﹃俺は利子を普通二割取っている、それを君に半額に融通したのは、こちらで要る時にすぐ返してもらいたいと思ったからだ﹄ と言って、妻にまで返金を強要するので、私もせん方なく、八方金策して一千五百円を集めたが、残り五百円はどうしても出来なかったので、友人望月氏に一時の融通を乞うた。 しかしただちに私は望月氏に頼んだことを後悔した。望月氏は逼ひっ迫ぱくしていた。にもかかわらず氏はこの申し出を快諾して、ただちにその五百円を調達してくれたのである。お蔭で急場を救われたものの私は氏の都合が気になって後で訊くと、 ﹃いや、あの金は日歩十五銭︵年利五割五分︶の高利貸の金ですよ。あなたには毎度融通してもらっているから、たとえ日歩三十銭払っても日頃の好意に報いたいと思ったのですよ﹄ 望月氏は新聞配達業で金融にはずいぶん苦労していて、私もその窮状を見かね、氏には中村屋創業当時の恩義もあるので、およそ三ヶ年にわたって毎月末相談に応じて来たのであったが、私はいまこれを聞いて望月氏の誠意に涙をおぼえるとともに、よくよくの場合とはいえ、それほどまでにして金策をさせたかとじつに気の毒に堪えなかった。またこれによって、望月氏が常に日歩十五銭もの金を使って仕事していることを知り、ああ彼はこの高利のために生命を縮めるのではないかと歎息したが、果たして氏はついに病いに倒れた。私は若き人々に前者の轍を踏ませたくない。無理な金を使って仕事をすることは固く戒めなくてはならない。店舗の改造は考えもの
現在中村屋では毎日八、九千人のお客を迎え、販売部に製造部に喫茶部に二百七十人のものが懸命に働きつづけてなお手まわりかねる有様であって、わざわざお出向き下さったお客様を毎度お待たせし、御迷惑をかけることの多いのを見て私はひそかに恐縮している次第である。店員諸子がこれではならぬと思い、店を改造し、手をふやし、千客万来に備えて遺憾なきようにしたいと希望するのも、まことに道もっ理とものことであり、主人として諸子の熱心を深く感謝する次第である。 しかも私が諸子の熱望を制して、店舗改造拡張のことを実現するの道に出ないのは何故であるか、改めてここに思うところを述べ、諸君にも考えてもらいたいと思うのである。 我々はまず、今日世間で中村屋中村屋と推奨して下さって、日々こんなに大勢買いに来て下さることを、真実に有難く思わなくてはならない。もとより店の発展は一朝一夕に招来されたものでなく、そこには三十七年の歴史があるが、しかもその長き年月の間には、努力しながら衰微して行った店も少なくないであろう。それを思えば中村屋はまことにもったいない幸せである。こうして共存共栄を願望すべき小売店として、一軒があまり大を成すことは考慮すべき問題ではなかろうか。 我々のこの想いはすでに昨年末、ちん餅の価格を定める時にも問題となり、ようやくその一端を現したようなことであった。すなわち中村屋の餅は最上の新兵衛餅ひとすじであって、一般向きに備えているのではないから、御註文下さるのも自ずからきまった範囲のお得意である。これは餅に限ったことでなく、何品でも中村屋の製品はなるべく一つの分野に止め、他店の領分を侵さぬ方針なのである。しかもそれでも歳末のちん餅が比較的安く、そのため近所同業に迷惑を与えるというのでは、考えなくてはなるまい。そこで昨冬は、のし餅一枚につき一般の店より売価をおよそ十銭高くなるようにつけ、その代り目方で気を付けておいたようなことであった。 ちん餅一つにしてもこれだけの心配りを要するのである。ましてこれ以上に店を拡張したり支店を設けなどして、今日以上の客を集めることは考えてはならない。かつて自分は大百貨店の脅威に対して、小売店として同志に呼びかけ、対抗策を極力主張したものである。どこまでも一小売店としての分に止まり、同業小売店と繁栄のよろこびを共にしてこそ本懐である。 次に今日の繁昌は、ひとえにこれを社会一般の恩として感謝すべきであって、これをさらに明日においていっそうの期待を予想する不遜は許されるべきものではない。盈みつれば欠くるという。なおも店の拡張を計って天の冥護に離れ、人の同情を失えばどうなるか。思いをここに致せばなかなか現状の不自由等をかこつべきではないのである。 さらに経済の実際より見るも、店を改造するには少なくとも三十万円を必要とする。また販売部を拡張すれば製造場も同時に取り拡げざるを得ず、これがためにさらに二十万円くらいの資金を要し、合計五十万円にも及び、その金利と償却、新たに嵩かさむ照明費と税金、使用人の増加等を計算する時は、今日の売価をおよそ六、七分方引き上げねば収支償うことができないのである。それではお客様へ行きとどくようにと思うての改造が、かえって負担をおかけする結果となり、まずそこから中村屋の商売の合理化は崩壊し始める。売品が高価となるからはそれに伴うサーヴィスとして、百貨店などのように遠方まで無料で配達するなどのことも必要となり、経費はいたずらに嵩むばかりで、経営に無理があればそれは必ずお客様に映じ、わざわざお出向き下さるお客も次第に減ずるであろう。よく売れていた店が広く堂々と改造され、面目一新してしかもにわかにさびれる例は、世間にあまりに多いのである。 なおまたこれを店員全体の連絡の上からみても、好ましくない結果が想像されるのである。これまで中村屋では毎年二十名ないし三十名の新店員を迎えて来たが、これを十年二十年と続けて行ったならば、その多数の者の将来に対し、果たしてよく教育しまた遺憾なく指導することが出来るであろうか。現在だけの人数でさえ、その個々の人物性格を詳しく知ることは困難で、主人として欠くることの多いのを、その父兄に対し当人に対し申し訳なく思うているのに、さらに大勢となってはしらずしらず不行届き不親切となるのを免れまい。また多額の負債を負うて経営に無理が出来れば、その待遇を次第に改善していくことも難かしくなるわけではないか。 以上、自分が改造を望まぬ所ゆえ以んの大体を述べたが、なお細部にわたっては改めて語ることにしよう。売上げに対する家賃の程度
商売と家賃の関係について考えて見る。 商売をするには適当な場所を必要とし、その場所を得るためには相当の資金が要る。私のいう家賃とは、この場所を手に入れまたそれを維持するための費用であって、必ずしも家主に払う家賃に限るわけではない。例えば諸子が独立するとして、まず商売の発展しそうな場所を探し、そこに適当な借家をみつけて借り受ける。そうして月々家賃を払い店を経営して行くのであるが、借家によらないで最初から自分の家を持ち、いわゆる家賃というものを払わないで済む場合もあるであろう。しかしその場合も家賃を払わない代り、家屋の建築費およびその利子、地代、諸税、保険料を合算するとほぼ家賃と同額になる。いずれにしても家賃だけのものは要るのであるから、私は借家であると持家であるとによらず、商店経営の中のかなり重要な部分を占めるこの費目を等しく家賃として計上することにしている。 売上げの金高に比較して家賃が高いと商売がやりにくい。実際家賃は商品の売価にそれがかかって行くので、いかに勉強したくても高い家賃を払って安く売ることが出来ない。﹃あの店のものは高い﹄と言われるのはそこで、客足少なくついに店は維持出来なくなる。表通りの堂々たる店に案外客が少なく、裏通りや狭い路地に意外に繁昌する店があるのは、みなこの家賃の多少に原因するのである。 それゆえ商売をするには売上げに対して比較的家賃の安いことが大切で、家賃が安ければ安いだけ経営が楽なわけであるが、なかなかそう好都合にはいかない。ではどの程度の家賃なればやって行けるかということになるが、私はまず一日の売上高で、一ヶ月の家賃を支払えるくらいのところを適当と考える。すなわち売上げから言えば三分三厘を家賃に当てるのであって、この程度であれば売価に影響するほどのことなく、尋常に営業していくことが出来るのである。もっとも喫茶店などは少しく事情を異にし、売上金高が小額でしかも相当華麗な室を設備せねばならぬのであるから、その装飾費を含む家賃は売上げの三日分くらいを要することになるであろうし、これに反し売上金高が莫大で、しかも店に装飾の必要なき卸問屋などでは、売上げの百分の一以下の家賃で済むことになるであろう。しかしそういう商売は別として、普通の小売商で営業の成り立っている店なれば、その売上げ一日分と一ヶ月の家賃はほぼ同額、または売上げ以下で家賃が済んでいると見てよかろうと考えられるのである。 ﹃初めのうちは辛抱が大切だ、辛抱して勉強してさえいれば次第に信用がついて売れるようになる﹄とは誰でも開業当初に思うことであるが、仮りに百円の家賃を払うて営業し、売上げが一日僅か三十円くらいよりない場合には、家賃が売上げの一割一分につくこととなるから、とうてい将来の見込なきものとして覚悟せねばなるまい。しかし百円の家賃で一日百円に近い売上げがあれば店は充分に成り立ち、さらに同じ家賃で売上げが少しずつでも向上して行くようになれば大いに有望で、もしその売上げが二百円にも達するならば、家賃の負担は著しく軽減して、僅かに売上高の一分七厘にすぎなくなり、それだけ商品を勉強することが出来て、その店はますます発展することになるのである。 さて心得ねばならぬのは、店がどれほど繁昌するようになった後もこの原則は変らぬことである。繁昌するからといって店を壮大に拡張し、いわゆる家賃の負担が重くなれば、それはただちに商品に影響し、したがって店は下り坂となるであろう。すなわち改築の要迫るといわれる中村屋は、いまこの自戒すべき時に立っているのである。 顧みれば三十七年間、我が中村屋の過去いろいろの時代について、売上げと家賃の大略をあげてみると、本郷時代の中村屋は間口三間半で家賃十三円であった。それで売上げは店売およそ八円で、配達と卸売りで五円、合計十三円でちょうど家賃と同格、新宿移転時は間口四間で家賃二十八円、売上げは一日二十五円ないし三十円であった。 新宿移転後一年で現在の場所に移り、初めて自分の家を持ったが、間口五間、奥行二間半︵十二坪半︶、同時に日本菓子の製造を始めたので、売上げは一躍して七十円に上った。しかしこれまでの家賃に代るに地代十六円、建築費やその他の利子、家屋税、保険料を合算してやはり七十円ぐらいであった。 ここでは初め売上げに比して店が少々広すぎるぐらいであったが、その後売上げが漸次増加して甚だ手狭を感じるようになって、改めて奥行を三間半に拡張したが、店はいよいよ忙しくなって、拡げた所もじきに狭くなり、事情に応じて半間あるいは一間と奥行を延ばして行き、間口も五間を七間として、都合六、七回にわたって十二坪半から五十坪まで漸次建て増し、ある時は改造後ようやく六ヶ月でさらに改造の必要に迫られたことなどもあった。友人等は私のやり方があまりに姑こそ息くで、かえって失費の多いことを指摘し、どうせ拡げるものなら将来のことも考えて、一挙に大拡張してしまってはと忠告してくれたほどであったが、私はこれには従わなかった。店が急に広くなってお客様がさびれ、ガランとしてしまう例はいくらもある。後から後からお客様で満たされる店の賑わいを当然であるかのように思い、建築費を節減しようとしてはるかの先を見越しての改築は後悔を招く場合が多い。私はこう考えていたので、その後もやはりお客様の増加に応じて少しずつ拡げて行き、再々増築の手数と費用を我慢したことであった。 その後大正十二年、売上げ一ヶ年二十万円︵一日平均五百余円︶を見る頃になって、税務官との間に意見の相違を来たし、私個人の店を株式会社に改め、会社から家賃五百円を受け取ることにした。すなわち三分三厘に当る。 最近には売上げもさらに増加して一ヶ月十八万円に達したが、家賃は四千五百円であるから二分五厘となり、すなわち八厘方格安となった。それだけ得意に対し勉強し得ることとなったのである。店の格を守る
私は経済の点をしばらく離れて、店の﹁格﹂というものを考えて見る。人に人格のある如く、店にもいつとなくその店の﹁店格﹂というものが出来ている。この店格なるものについては、別に根本的に言って見るつもりであるが、とにかくここではその店の持前持味とでも解釈しようか、一つの商売を大切に護って相当年数を経て来た店というものは、長い間にその店独特の気分をつくり出しているものである。 店の格などというと、階級的な意味に聞えるかも知れぬが、私が言うのはそれではなく、繩のれんには繩のれんの味があり、名物店には名物店の趣きがあり、扱うところの製品を主として店主の気風も自ずからそこに現れ、長年愛顧のお得意の趣味好尚に一致する何物かが、その根底に血脈をなしていることは争われぬのである。すなわちその店特有の空気というか色というか、それはどこがどうと言いようのないものではあるが、天井にも柱にも看板にも、あるいは明りの具合一つにも、きわめて自然に感じられる一種の馴なじ染み深さである。 私はこの、古い店が持っている馴染深さ心安さを大切にせねばならぬと思う。もとより古い店の構造には今日から見て物足らなく思われるものがたくさんある。例えば現在三階を持つ中村屋にエレベーターのないことなども、あるいはその一つに数えられるかも知れない。このエレベーターのことも後でいうが、大勢おいで下さるお客様に店内が狭くて御迷惑をかけるということを第一として、我々はじつにその足らぬもの欠けているものを切々と感じ、それをも厭わずわざわざ中村屋に来て下さるお客様に対してこれではならぬと、改築の希望も出るのであるが、我々はここでもやはり分を忘れてはならぬのである。経費の点はしばらく措くとしても、大規模に改築すれば、この店が長い年月を重ねて徐々に恵まれたこの賑やかな雰囲気は失われてしまう。 むろん新しく出来るものは、古くからあるものよりどんなに進んでいるか知れない。例えば照明のこと、ショー・ウィンドーの設け、売場の作り方、ケースの高さ等々研究の至らぬ方もなきこの頃である。下手なものの出来る筈はなく、改築とともに店は必ず見違えるほどの立派さ晴れがましさになるであろう。現にあちらでもこちらでも古い店が次第に改築されて、明るいモダンな構えになり、混雑して狭かった店が拡張されて綺麗に片づき、店員の手もふえ、用意万端整うて立派になりつつあるのを見受けるのである。 けれどもその立派になった店構えが、妙によそよそしく感じられ、入口が何となく入りにくく思われたりするのは何故であろうか。むろん商売にもより、改築の効果大いにあらわれ整然として品格上がり、いっそうそれがお得意の好みに適するという場合もあるが、我々のような小売店で、しかも菓子屋のような商売は店頭の入り易いことが第一、たとえ雑然としていても、年中平均した賑わいを店内に持っていることが大切なのである。その点中村屋のような和風建築は、間口がことごとく開放されていて、たとえ手狭であっても全体としてはまだまだ寛濶な感じで、出入りし易いのではないかと思う。古い構えを長年守って来た老舗が入口の狭い洋風建築に改造して、売上げを半減したという話も耳にしたことである。 じつにこの店構えというものは、床の高低一つでも大きな影響を及ぼすものであって、店の床は道路面から少しく爪先下りくらいになっているのが入り易く、また内の商品も床の低い方が賑やかに見えるなど、いろいろ微妙な点があり、古い店ではこの消息が自然に体得されており、目立たぬところに完全な備えが出来ていて、一つのいわゆる福相となって潜在するのである。ところがそういう店でもいよいよ改造という段になると、当然近代の新様式を取り入れるため、長い間に調うていた呼吸が破れ、たとえば地下室を造る必要上、床が路面より高くなって入りにくい構えになるなど、その他種々思わしからぬ個所が出来て、外見は立派になりながら人好きのせぬ店になり、一つには店内あまりに整然として広さが目立ち、お客の姿が急にまばらに見えるなど、改造とともに一頓挫を来たした形になる例が多く、しかもいったん改造し拡張してしまったものは、もう取返しがつかぬのである。 さてこう述べてくると私の改築反対は著しく消極論のように聞え、諸君の盛んな意気に反する感があるかも知れぬが、私は決して消極的でも何でもなく、どこまでも内容の積極性を失わざらんがために、勢いにまかせて外形だおれに陥ることを避け、大いに自戒するのである。 再び例をもっていえば、繩のれんの一杯茶屋の繁昌はどこまでも繩のれんの格においてのみ保たれるのであって、長年労働者を得意として発展した店が、財力豊かになって来たからとて、急に上流向きの立派な店構えに改築して、それで得意を失わずに済むものではなく、またにわかにかわって上流の客が来るものでもない。外観の整うたのに引きかえて内実が衰微して行くのは、むしろ当然のことと言わなくてはならない。と同時に上流向きの店は上流向きとしての格相応な構えがなくてはならぬであろう。同業の中に見ても、宮内省御用の虎屋には虎屋の構えがあり、また虎屋なればこそあの堂々たる城廓のような建築になっても商売繁昌するのであって、一般民衆相手の菓子店がもしも虎屋を真似たならば、おそらく客は寄りつくまい。中村屋は中村屋相応の格を守り、決して調子に乗ってはならない。商品の配達に要する失費
店を改築して経費が嵩かさめば今のように安く売ることが出来ず、売価が上がればそれに伴うサーヴィスとして、百貨店などのように無料配達の必要も起って、いよいよ経営の合理化に遠ざかることをすでに述べた。そこでこの配達費というものは商店経費の中のどのくらいの割合を占めるものであるか、少しこれについて考えて見よう。
中村屋が無料配達を廃止したのは今から十年前のことであって、それまで開業以来ずっと無料配達のサーヴィスをしていたものであった。私の経験によると店頭売りの場合には店員一人で一日百円の商いをすることはさほど困難でないが、近まわりのお得意だけでもお届けすることになれば、その三分の一すなわち一人が三十円を売るだけのことも容易ではないのである。
また遠方までお届けすることになると、さらに三倍くらいの時間と労力とを要する。そこで小店員一人の日当を二円と見ると、店頭売りの場合はその人件費も売上げの百分の二にすぎないが、近隣配達には百分の六となり、遠方配達にはじつに百分の十八となって、ほとんど利益の全部を配達のために失うこととなるのである。
しかもこの百分の十八は、自転車や電車によった場合の計算であって、近頃のように配達の敏速を希望して自動車を用いることになると、さらに費用は倍加し、売上金高の三割以上を割さかれることになる。自動車はフォード級の普通車を使用してすら、その買入費の消却と、その金利と税金、運転士給料、車庫料、消耗品とガソリン代等を合算すれば、一日当り平均十二、三円となる。中村屋の経験では自動車の配達能力は一台一日六十三軒のレコードもあるが、一ヶ月を平均すれば二十四、五軒にすぎないから、これに十二円を割り当てると、一軒当りの配給費はまさに五十銭である。それゆえ御註文品の金高があまりに小さい時はお断りするほかないことになる。現在百貨店が配達網を八方に布ひき、また遠方には配給所を設けて、専らその合理化につとめていても、なおその費用の莫大なのに当惑しているときくが、まことにさようであろうと案ぜられる。
しかし一般個人店では、まだそれほど配達の必要少なく、したがって経費に悩まされた経験がないため、遠方からの註文に接すると店の光栄として、僅少の品でも喜んで配達するようであるが、もし詳細に計算したならば、利益以上の経費を負担して損失となっている場合が多いことと思う。
私が欧州を視察したのも早や十年の昔となったが、パリ、ロンドン、ベルリンなどの都市で、牛乳が我が一合当り邦貨三銭であった。当時日本では一合五銭ないし十銭、平均七銭というところであったから、物価の高い欧州に来てどうして牛乳だけがこう安いのかと不審に思うたことであった。しかし調べてみるとあちらでは牛乳はほとんど軒並みの需要で、しかも一戸当りだいたい一リットル︵五合五勺︶という好条件であって、各自近傍の得意を守り、遠方への配達をしない。少し離れたところに住むと、毎朝こちらから買いに出かけねばならぬのであった。私はこれを見てなるほどと思った。これだから配達費がごくいささかで済み、その安値で売って成り立つのであった。僅か一合の牛乳を遠方まで配達する日本の牛乳屋の不合理がいっそうこれで肯かれたのであった。数字にして比較して見ると、
欧州 日本
一人の配達およそ一石 一人の配達およそ一斗
(リットル入り百八十本) (一合入り百本)
(リットル入り百八十本) (一合入り百本)
円
原価 (一升二十銭) 二〇・〇〇 (一升二十銭) 二・〇〇
一人の給金 五・〇〇 二・五〇
計 二五・〇〇 四・五〇
売上げ(一合三銭) 三〇・〇〇 (一合七銭) 七・〇〇
差引収益 五・〇〇 二・五〇
牛乳のようなものでは、配達料は経営費の大部分を占めるのであるから、この費目の軽減を計ることが経営上最も必要なことであった。そこで中村屋も開業以来の無料配達を改め、現在のように規定したのである。原価 (一升二十銭) 二〇・〇〇 (一升二十銭) 二・〇〇
一人の給金 五・〇〇 二・五〇
計 二五・〇〇 四・五〇
売上げ(一合三銭) 三〇・〇〇 (一合七銭) 七・〇〇
差引収益 五・〇〇 二・五〇
一、近隣以外はことごとく配達料を申し受けること、但し牛乳は近隣といえども大瓶(二合五勺)三銭、小瓶(一合一勺)二銭の配達料を申し受ける。
二、旧市内は電車賃往復分十四銭を申し受ける。郊外電車も同様で、乗換接続の場合は、双方の合計を申し受ける。
三、金額五円以上の御註文はサーヴィスとして旧市内無料、但し郊外で電車賃十五銭以上の所は十四銭を差し引き、残額だけを申し受ける。
四、配達は午前午後と各々一回とし、午前の分は前九時までに、午後の分は正午までに御註文を受けること。
右の通り実行して今日に至ったが、お得意でもよく理解し賛成して下さって、無料配達廃止の当初からきわめて好成績に行われて来たのはまことに喜ばしいことであった。すなわち配達料を申し受けるようになって以来、配達を望まれる御註文の金高は、それ以前の御註文の四、五倍のものになったから、配達費の負担が著しく軽減し、手軽なものはお客様御自身で快くお持ち帰りになるようになり、正価は正価、配達料は配達料とはっきりして、店頭の売価において従来よりいっそうの勉強が出来るようになった次第である。もし一般商店と同様に遠距離まで無料配達を続けていたとすれば、その費用として商品の価におよそ一割くらいを加えなくてはとうてい立ち行かぬところであった。お客様に対してどちらが親切な仕方であるか、それは自ずから判るところであろう。
模倣を排す
私は店格ということをいい、これを店の持前持味というように解釈したが、ここではその店格なるものの根本について話してみたい。 人間はその面の異なる如く、その性質を異にし、神と崇められる者があれば悪魔と嫌われる者もあり、じつに千差万別、人生に複雑な妙味を現し、また尋常一様に見られる中にも個人個人で多少とも異なるところがあるものである。 ところがその各自異なる人間の仕事であるにもかかわらず、商店にはとかく雷同性が多く、個性の認められる店はきわめて少ない。そしてこの雷同性がいつも共倒れの原因となっているのは、じつに悲しむべき現象である。かつて日露戦争直後、東京で最初にロシヤパンを売り出し、珍しいので相当繁昌した店があった。ところがたちまち十数店の同業者が同じロシヤパンを売り出し、競争となって共に没落してしまった。 これなどほんの一例にすぎず、ある店が何か工夫して売行きよしと見ると、同業者は一斉にこれを模倣して、たちまちその特色を失わしめてしまうのが、ほとんど世間おきまりのようである。我が日本人は世界中で最も善良な性質の持主であるが、模倣に長じて独創に乏しいところはたしかに一大欠点といわねばならない。海外貿易に従事する人々の間でもこれが著しく、一人がある国の市場に適する商品を発見して商売に成功するのを見ると、他の貿易商たちも競うてこれを模し、たちまち市場を争うてついにはその貿易を破壊に導いた例が少なくない。また内地の都市あるいは地方にあっても、一般に独自性が乏しいため、どの店もおおかた似たりよったりで一向に特色がない。これでは存立の意義きわめて薄く、男子一生の仕事として生き甲斐あるものということは出来ない。 私が店格を云々とするのはここであって、他人の境地を侵さぬことはもとより、平常自己の人格の向上を念願すると同様に、店そのものの本質的向上を計り、人格を磨くが如く店格を磨き、店の個性を樹立することに精進努力せねばならない。店の品格を高めることの必要なのはいうまでもなく、はっきりした特色を持ち、常にその長所を発揮することが大切なのであって、それはちょうど人が人格の高潔とともに才能を練磨すべきであると全く同様である。 先頃も私は、日本全国から菓子の講習を受けに上京した人々に講話を望まれて話したことであったが、地方の菓子業者はたいてい東京の菓子を模倣することに全力を傾け、その地方特有の名物を軽視して顧みない風がある。むろん万人から見て東京は大いなる魅力であろうが、それはちょうど明治の初め西洋崇拝に駆られて、日本古来の美術工芸品を二束三文に外国に捨売りし、何でもかんでも舶来でなくては気が済まなかったのと同じことで、遠からず失うたものの価値が解り、必ず後悔する時が来るであろう。すなわち地方人はその地の特産を大切にし、保護するとともに一段の改善を加えて発達を図り、地方色を確保することが必要である。私は好んで各地を旅行するが、これはと思うような土地特有の名物に接することは至って少なく、たいがいは都会におけるありふれたものの模造であり、失望することが常である。先頃私の友人がギリシャに遊び、往昔文化の中心地であったアゼンの都において記念品を求めようとしたところ、眼につくものはたいてい日本製品か独逸品のみで、ギリシャ特有のものは何も見当らなかったということで、大いにその国土のために嘆かれたということである。 私はこれらの話をして地方人の不心得を指摘し、大いに注意を喚起したのであったが、これはひとり地方だけのことでなく、都下屈指の商店にしても模倣を事として目前の安易に慣れているものが多いのである。いわゆる百貨店等に押されて次第に影の薄くなって行くという店は、たいてい特色なきこれらの店である。 特色なき店はいかに大がかりな店構えをしても、そこに何の強味もない。独自の製品を持ち一個の店格を確立せる店は、小なりとも大いに発展し得る将来を持つというべきである。のみならずこうすることが真に商道に忠実なる者である。日本人の能率は欧米人に劣らず
中村屋は本郷における創業の時代、女中も合わせてようやく四、五人の人に働いてもらっていたが、その後発展に伴うて一人二人と増し、だんだんふえて、ことに昭和四年頃からは年々三月の卒業期に二十人以上の少年店員を迎えることになって、創業三十七年の今年は二百七十人の多勢となり、この大勢の店員諸君が常に緊張して忙しい店を維持し、店の進展に伴って各自その全能力を発揮せんとして努めているのであって、最年少の新入店者に至るまで私はこれを自分と同じく商業に志す同志として迎え、かく多くのよき同志を得たことを常に感謝している次第である。 さて諸君はことごとく我らのよき同志であるが、一面また﹁使う人と使われる人﹂の関係におかれているのであって、世上この﹁使う人と使われる人﹂の間ほど難かしいものはなく、ことにこの頃は時代の進歩につれて後から後からと新しい問題が提示されるのであって、主人としての責任は重く、我らは心を尽して諸君とともに万あやまりなきを期せねばならない。 それゆえ自分は平常他人の話にも注意し、良きにつけ悪しきにつけ参考とすることを怠らないのであるが、一昨年米国を視察して帰られた藤原銀次郎氏のお話には、一方ならず興味を惹かれた。氏は米国においていろいろの会社の執務振りなども見て来られたが、米国の諸会社では、同程度の我が日本の会社の三分の一くらいの小人数で仕事をしているというお話であった。 私はこれを聞いて考えた。日本の会社でアメリカの会社の三倍の人数を必要とするというのは、何に原因するのであるか。もし日本人の能率が米国人の能率の三分の一しかないのだとすれば、我ら日本人の将来はまことに憂うべきものである。しかし私はだんだんと調査して見たが、日本人の能率が米国人に比して劣っているとは思われない。劣っていないばかりか、彼より一段立ち勝っていると信じられるのである。それは彼の地における我が移民の活動に見ても、また人絹綿糸などで日本が英米を圧する勢いにあるのを見ても、すでに日本人の優秀さは充分立証されているのである。現にフォード会社の横浜における組立工場で、日本人の働きは、米国における同じ組立工場に比して、一割方も立ち勝ると聞いている。それが諸会社の使用人のみに逆の傾向を示すのは何故か。私はここに事業を行う者、またはそれに参加する者の大いに反省せねばならぬものを見るのである。 聞くところによれば米国の会社では、重役が他の会社の重役を兼ねることはきわめて少なく、専心一つの業に当り、自ら使用人の先に立って働くという。その他大学の総長さんなどでも、自ら第一線に立っていっさいの用事を仲介なしで裁決するということである。 これに反し日本の会社の重役なるものの中には、その資本力に任せて有利の事業と見れば八方に手を出し、一つの体で多くの会社の重役を兼ね、実際の働きにこれというものもなく、高級の自動車をあれからこれにと乗りまわして巨額の報酬を得ているものが多いのである。しかも使用人の俸給は著しく安いので彼らは内心不満なきを得ず、したがって責任を感ずることも薄く、仕事に対する態度も弛緩して人一人の持つ能力が発揮されていない。加うるに俸給が少ないため内職等に精力を消耗するので、これらが原因となって三倍もの人数を必要とすることになるのである。 我が中村屋は一人一業の主義に基づき、全員緊張して仕事に当り、不平不満なく業を楽しむの域に近づいた結果、その能率いささか誇るに足るものがある。従来の菓子職人、特に日本菓子の人々は徳川時代よりの一種の悪習慣に禍いされて、半ば遊び半ば働くというふうであるから、彼ら一人の製造能率は一日十五円内外、二十円に達することは稀れであるが、我が中村屋の職人は一人一日平均五十円に達し、歳末や四月の花見時の如き繁忙の際には七十五円にも及ぶことがある。また我が喫茶部の成績も一ヶ年を通じて一人当り一日二十一円と記録され、丸の内のある有名なレストランの一日の売上げ八百五十円を百二十人で働いているのに対比し、ちょうど三倍となっている。私はこの体験よりして我々日本人の能率は米国人のそれに劣るものでないことを自信し、甚だ愉快に感ずる。少年店員の採用とその待遇法
中村屋は毎年三月に少年店員を募集し、高等小学を卒業する少年を、直接親たちの手から引き受ける方針を取って来ている。むろん高等の教育を受けた青年の入店希望者もすこぶる多く、中等学校卒業者はもとより大学の商科その他の学府を出た人々もあり、ことにそれら高等教育を受けた人々の入店希望にはそれぞれ事情があって、特に頼み込まれる場合が多いのであるが、これまでの経験によると、だいたいとして長く学校生活をした人は店務には適せぬものが多い。もともとそれらの人々は官吏か大会社の社員になることを志望し、必死の努力で受験難を突破して学校に入り、ようやく卒業してみると意外の就職難でやむを得ず方針を変え、あるいは一時の腰掛けに商店に来るのであって、最初から商売に志すものとは自ずからその性質を異にする。また長い間勉強で神経を使い、試験で精力を消耗している上、二十五、六歳までペンより重いものを持ったことがなく、他人の命令で働いた習慣のない青年たちである。店に入って急に店の規律に服し、毎日同じような煩雑な、しかも相当筋肉労働にも従事せねばならぬのであるから、馴れた者にはさほどでないこともなかなかの負担で、我慢に我慢をしてようやく一日を終ることとなる。これでは店員として成績の上がる見込はないのである。それゆえせっかく入店しても結局中途で退店するものが多く、私どももまことに遺憾に思うことである。
これに反し、小学卒業生は年少活発で何をするにも興味があり、元気で愉快に働くので、比較的容易に仕事に関する知識を会得し、一、二年後には早くも一通り役に立つようになる。結局仕事の優劣の差は、勤労に対する覚悟の如いか何んと業務に対する熱意の深浅によるものとして、私はこの点から小学卒業者を採用し、年少のうちから養成することに決めたのである。実際世間の例に見ても、大工左官の如き手練を要する者は、ぜひともこの少年時代から修業に入るを必要とし、また碁、将棋の如きもこの年代から始めるのでなければ大家名人と成り難く、飛行士なども同様と聞くが、小売商として成功を納めている者や、実業界に名を成し、相当に成功している人々の中にも、小学校以上の学歴を持たぬものが甚だ多いのである。
しかしそれら小学校出身者は特に優秀なる人々を別として、一般には小成に安んずる傾向があり、高等教育を受けた人々に比し、志が低いと見られるのはこの人々の欠点とせねばなるまい。少年店員諸君はここに留意し、反省自重して理想を高く持ち、各々大を成すように心がけてもらいたいものである。
こうして中村屋はまず少年店員養成の一途に決したのであるが、これはあるいは商売には学問不要の宣言をなすもののように見られるかも知れぬが、そうではなく、絶対に中等学校以上の教養ある人々を入れないという立て前でないこともここに一言しておきたい。高等の学問を身につけてその上で真剣に商業に打ち込むという者があれば、それは我々も同感するところである。現に同業のうちにも帝大出身の虎屋主人黒川氏あり、出版界に傑出する岩波茂雄氏など、まことに他の追随を許さぬものがあり、新時代の商業の理想は大いに教養ある人々によって行われねばならないのである。したがって少年店員諸君も、商売の実地修業とともに、高尚な知識に対しても敏感に、絶えず自己の向上を計るべきは無論である。
さて入店後の給与および待遇については、諸君のすでに経験するところであるが、一通り順を追うて記して見ると、入店後徴兵検査までの約六年間を少年級として、少年寄宿舎に入れ、衣類医療等いっさいを主人持ちとして、小遣いは初め月に十四、五円︵給与いっさいにて︶、漸次増して三十円以上となる。この六年間は月々給与の約三分の一を本人に渡し、他の三分の二を主人が代って貯蓄銀行に預けておく。
二十二歳になれば少年寄宿舎を出て、青年寄宿舎に入る。同時に衣類は自弁することとなり、給与は四十四、五円から漸次七十円に至る。衣類を自弁するため、月々給与の約半額を本人に渡し、残り半分を主人が代って貯金しておく。賄まかないはいうまでもなく店持ちである。青年級は二十七歳で終る。
二十八歳からはそれぞれ妻帯を許し、寄宿舎を出て一家を構える。俸給は月々全部を渡し、主人はもう預からない。
家持店員の給与は七十五円ないし二百円であるが、一家を構えてみると今までの寄宿舎生活と違い、すべてが複雑になって来て、それぞれの事情により生活の難易が岐わかれて来る。もちろん中村屋で少年期から青年期を実直に働き、無用の散財をしなかった者はこの時分には相当の貯金が出来ているから、それを持って退店し、新たに自分の仕事を始めることが最も望ましいのであるが、引きつづき中村屋で働きたいと望む者には、なるべくその希望に添うことを方針としている。
自分はいろいろ経営の合理化を研究して、店員全体の生活を裕ゆたかにするようにと努めているが、これでよしと安心の出来るにはまだまだ前途遼遠である。だいたい私が諸君に対する待遇の根幹とするところを述べて見ると、
一、店員はことごとく我らと一家族にして、また各々立派な紳士として、事業に参加するものであるから、我らはこれに対する感謝とともに、店主としてまた一家の家長として、常に一同の幸福増進を計るべきこと。
二、店員並びにその家族全体に生活の不安を与えてはならないこと。
三、店員中には夫婦共に働いて余裕の持てる家庭もあるが、子供が多く、また老人を抱えて倍の費用のかかる家もある。かように事情の異なるものに同じ給与ではかえって不公平となるゆえ、子供のある者には子供手当を付けること。七十歳以上の老人のある場合は老人手当を出すこと。
四、店の利害と働く者の利害はすべて一致すべきもので、営業忙しく利益多き時は、その労苦に酬い、必ず利益を分配すること。
五、老後の心配を少なくするため、十年以上の勤続者には店費にて保険を付けること。
六、店は毎日同じような仕事の連続であるから、その慰安を図り娯楽を与え、またその機会に情操を養い、煩雑な日々の生活の中にも潤いのあるよう、観劇、旅行、会食等、すべて上品な趣味のものを選ぶこと。
七、常識を養い、教養を深めるため、修養勉学の機会をつくること。
八、主人および一族中いわゆる重役的存在として店務に参加するものの、店より受くる俸給は店の幹部級の者より薄給なるべきこと。
ここでは説明するためにこういう形になったが、我々の店に何もこんな箇条書が出来ているわけではない。規律はあっても店則がないのと同様、これは自ずと決定した我々の思想であり、また実行であるにすぎない。しかしまずこの条々についても少し実際的に言って見ると、
子供手当及び老人手当は現在のところ一人につき四円ずつを出すことにしている。
店の繁忙に伴う労苦に対する利益分配は、総売上げの三分と、一日七千二百円︵売上げの増減に従い上下す︶以上の売上げのあった日の二分、年度末の決算に当って純益の一割を全員に分配する。
老後の用意については、早大総長田中穂積博士が、私立学校の教授に恩給の制度のないのを遺憾に思い、数年前から十年以上教務に服した先生方に対し、校費で千円の保険を付け、二十年以上の先生には二千円の保険を付けることにしたとの話を聞き、私も店員に同様の方法を取り、すなわち十年勤続者には千円を、二十年勤続者には二千円の保険を付けることにし、早速この昭和十二年二月から実行した次第である。
店員の慰安の催しについては、以上の方法によってまず一通り生活に不安のない程度には達しているが、まだこの給与では娯楽を求め趣味を向上させることは難かしいのであるから、特にこちらでその機会をつくり、現在年二回以上の観劇と一回の角すも力う見物をそれぞれ一等席で招待し、また会食は一流料理店を選び、洋食の食べ方、食卓の作法など、少年店員たちもこの機会に自然に会得するよう心がけ、春秋の遠足、夏期の鎌倉における海水浴なども、不充分ながら心がけているところである。
なお遠く旅行して見聞をひろめ、地方地方の特産または商業の様子などを見ることは大いに必要で、我々も差支えのない限り春秋には旅行を試みることにしているので、諸君にも行ける限りは行かせたいと思い、遠くへの旅行は毎年春秋二回、古参者から順々に同行二人を一組として、十日の休暇と旅費を給し、九州あるいは北海道と、それぞれ好みの所に年々かわるがわる旅行をさせている次第である。
次に私および一族中の者の俸給が、店員の幹部級の者より薄給であるべしとの趣意は、改めて説明するまでもなく、前にも言った通り、いわゆる重役連の労せずして高級を﹇#﹁高級を﹂はママ﹈食はむ不合理を憎むからである。
かく説き来れば中村屋の給与は相当宜よろしいように見えるが、これでも製造部では製品売価の一割に足らず、販売部は売上げのおよそ六分七厘にしか当らない。これを米国百貨店の販売高の一割六分、独逸百貨店の同じく一割三分五厘に比すれば、その半額にも足らぬのである。私は店員への給与を世界の水準まで引き上ぐべきであると考える。重役だけが生活を向上して労務者の生活を改善し得ないならば、我々実業家の恥と言わねばなるまい。
実世間を対あい手てとする商業道場
愛児を中村屋に託さるる親たち、また当の少年店員諸君に対してはいうまでもなく、我々は深く責任を感じ、いかにしてその信頼に酬ゆべきかと常に種々苦心するところである。 昔は商家に奉公し、忠実に勤めて年期を明け、その後二、三年の礼奉公すれば、主人から店ののれんを分けてもらい、しかるべき場所において一店の主となることが出来たものである。それゆえ年期中は給与もなく、粗衣粗食、朝は早く起き夜は遅く寝て、いわゆる奉公人の分に甘んじ、じつにいじらしい勤め振りをしたものであった。 主人もまた、子飼いの者が実直に勤めて年頃になれば、店の勢力範囲以外の地を見立ててそこに支店を出してやることは、本店の信用を高むることにもなるのであったから、主人もよくこの面倒を見てくれたものであった。むろんその時分は世間の様子が今と全く異っていた。町に交通機関はなく、ちょっとした用事にもいちいち使いを出すほかないのであったから、得意の範囲は自ずから定まり、どの商店もその近傍を得意として、古い取引の上に安定していた。 ところが明治の末期になると電車が敷かれ電話がかかり、自転車は普及し、便利になったと思っていると今度は自動車、そのうちバスも行き渡って、その結果は今のように得意の範囲が拡がり、相当の店なれば市内一帯はもちろん郊外にも多くの客を持つ有様となり、また地方とは通信による商いもなかなか盛んになって来たのである。 さてこうなると店員のために主家ののれんを分けることは甚だ困難で、また分けて見ても分け甲斐のないものになった。昔は本店まで行けないから支店で買い、お互いにそれが便利であったのだが、今のように交通が発達し、その機関を利用しての外出は苦労ではなく、遠方の買物もかえって一つの興味となった。支店を出しても支店の前は通り越して、やはり直接本店に行って買う。これでは支店の立ち行く筈はないのである。 ことに昔は一軒の店を持つのも容易であった。店飾りなどもごく簡単で、もちろん借家に権利金もなかった。我々が本郷で中村屋を譲り受けた時なども、製造場その他いっさい付いている店が僅か七百円であった。それが今日はちょっと見込のある所は権利金だけでも数千円で、現に新宿目ぬきの場所は、間口一間当りの権利金が一万五千円から二万円という驚くべき高価に上がり、その他どこに行っても新たに店を持つことは昔よりはるかに困難となったのである。また一方には幾千万円の大資本を擁する百貨店が出現し、これが郊外遠くまでも配達網を布いての活躍で、小商店に一大脅威を与えており、これと戦って敗けずに行くには余程の覚悟を要するのである。 また昔は僅々数十円の小資本でも、機に乗じ才智によって成功した例もあったが、今より後はかかる僥倖は望むべきでなく、何事も合理的方法によるほかない。 それゆえ諸君は仮りにも夢を見てはならないのであって、奉公先を一生の親柱と頼み、すがってさえいれば何とかなるという時代ではないことをしっかり自覚し、そこに真剣な修業の覚悟が必要である。とにかく私として諸君に望むところは、諸君が我が中村屋を商業研究の道場と心得、仕入れ、製造、販売の研究はもちろん、朋輩に交じわる道、長上に対するの礼、人の上に立つ心得等に至るまで、充分に習得して真に一店の主人、一製造場の長たり得る資格を備え、いかなる苦境も自力で開いていくだけの人間修業をして欲しいのである。その上に事業に対する熱意があるならば、志は必ず酬いられねばならない。 以上私はのれん分けの困難な理由、今の商売の容易でないことのみを述べたが、一方また現代は多くの新しい仕事と働き場所をもって諸君の進出を待っているのである。徳川時代三百年間に、日本の人口はおよそ二千五百万人から三千万人に増加したのみであるという。それが維新以来今日まで僅か七十年の間に三千万人の人口は七千万人に上り、しかもこれは内地在住の者のみを数えたのであって、この他に海外に出て大いに発展している同胞のあることを思えば、我々は何という勢い盛んな時代に生れたものであろう。そうして新時代の文化の複雑さはどれほど我々を恵み、我々の仕事をふやしていてくれるか知れない。のれん分けの望みこそ失せても、独自の道は開けている。諸君はこの新時代の新人として世に立つべく、大いに勇往邁まい進しんすべきである。研究を怠り、また己を鍛えることを忘れて青春の時代を漫然と過ごした者は、やがて世間に出て落伍者とならねばならない。我々は諸君の大切な若き日に充分の自覚と正しき努力とを望み、中村屋が諸君の真によき道場とならんことを願うものである。店員のために学校設立
日々忙しい労務に従う店員諸君のために充分な休日を与えることと、修養勉学の機関をつくることとは、私の長年の願いであった。しかもこの二つは何でもなく出来そうに見えて、じつはなかなか難かしく、今も休みは不充分であり、ことに勉学の方は近年まで全く手をつけることが出来ないでいたのである。ただ夜分だけは早く休息させたいと思い、平日は午後七時閉店、日曜大祭日は特に忙しいことであるから五時閉店として、本郷から新宿に移転以来ずっとこれを実行して来たのであるが、その後新宿の盛り場としての発展と、別に述べたような百貨店の進出による事情などで、やむを得ず営業時間を九時までと改め、さらに十時まで延長、そこで三部制︵販売部︶を取ることになって、現在のように朝七時出は午後五時まで、九時出は七時まで、正午出は十時までの受持とし、各十時間勤務と改めたのであった。また月二回の全員定休日のほかに、交替でさらに月一回の休みをつくり、これでやや改善されたが、毎年四月、十二月などのとりわけ忙しい月はまだまだ過労の様子が見られ、さらに進んで一週一日の休みと勤務時間短縮の必要が考えられるのである。そうしてこれが実行されれば長年の我々の願いもようやく成就するのであって、今はその日の一日も早く至らんことを希望している。 少年諸君のための勉学の道はようやく昭和十二年五月着手、矢吹慶輝博士の御指導によって、文学士谷山恵林氏以下五人の良師を得、工場の一部にとりあえずごく小規模の教室を設け、研成学院と名づけ、とにかく開校することが出来たのはまことに同慶に堪えない。しかし研成学院はまだ全く未知数に属し、成功か不成功か予想は許されないが、先生方の熱心と諸君の倦うまざる努力によって、好結果をあげることが出来ればまことに幸いである。五月十八日開校式の際私が諸君に述べたところをここに再録して、この稿を結ぶことにする。 中村屋は諸君も御承知の通り、もう三十六年の歴史を有しております。初めのほどは、夜学をしたいという店員には通学の便利を与えておりました。そのため夜学に行く人も多くあり、現在計理士の新居氏や満鉄の図書館長勝家氏等も、その頃店で働きながら大学の夜学部に通うてあれだけの出世をしたのであります。しかしだんだん世の中が切迫して、学校の方も学課がむつかしくなり、また真剣に学ばなければ競争上やって行けないというようなことになり、我が中村屋も以前よりは幾倍忙しくなって、店に働きながら夜学に通うことはどうも無理だと考えているうちに、夜学に行く者はだいぶ健康を損じて、そのうちには死ぬ者さえも出たので、これではならぬ、二兎を追う者は一兎を獲ずという諺の通りで、学問もしよう、店の仕事もおぼえようというのでは双方とも駄目であると分ったので、学問をしたいものは他所に行き、商売に志すものは業務に専心すべしとして、十年ほど前から夜学に通うことを禁じてしまった。 その結果病人は少なくなり、健康状態は著しく良くなったけれども、最近中村屋も、以前の十二、三時間も働いたのを十時間制に改めて、少しく時間に余裕が出来たところから、ひそかに会話等を習いに行く者もあると聞いたので、若い者の学問をしたいというこの希望の若干を叶かなえてやりたい、健康を悪くしない程度で、と考え、ようやくその案が立ち、またきわめて適任な先生が見当ったので、仕事のかたわらその休み時間を利用して学問を少しさせようじゃないかと、今度この学院を建てることにしたわけである。それゆえ各自には一週間僅か四時間だけの授業をするのみである。それくらいなら体にも仕事にも差支えなくて、かえってそこに面白味も出るだろう。この僅かの時間の勉強でもこれを長年続けるならば、人生に必要なる知識を得る不足はないと信じている。自分が先年欧州に行った時、識者の間でだいぶ問題になっているデンマークの国を訪ねて見た。この国は諸君も地理で知っていることであろうが、じつに小さい国で、我が九州にも及ばぬくらいの大きさである。さように小さく甚だ貧弱で気の毒な国であった。ところがそこにグルンドウィヒという偉い教育家が生れ、デンマークをいつまでもこういう憐れな国にしていてはならない、何とかしなければならぬというところから、この人の発案で、国民高等学校というのを拵こしらえ、農家の子弟や商店の徒弟を冬の暇な時に集めて、少しばかりの学問を授ける。それも農家の子弟に農業のことを教えるのでなく、商店の者に商売のことを教えるのでもない。そういう職業には直接関係のない、国の歴史とか宗教とか、主として人間を高尚にする学問を教える。まあ大学の初歩のようなものである。 その学校の成績が非常に宜しかったので、同じものが全国にいくつも建てられ、デンマークは今日では世界の模範国と称されるほどになった。それが僅か三、四十年前のことである。この学院もその国民高等学校の趣旨を少しくお手本に取ったものである。ここで諸君が仕事のかたわらの勉強によって、デンマークの学校と同じような効果が現れることになれば、諸君にとって、また我が日本国にとって非常によいことである。ここがうまく行けば余よ所そでも真似るようにならぬものでもなかろう。それは諸君の勉強の如何によるのである。こういう趣意であるから、そのつもりで奮発して下さい。 ﹇#改丁﹈別記
研成学院と往年の思い出
私は自分の過去を語ることにはあまり興味がない。孫たちはだんだん大きくなるし、店には大勢の少年諸君が、希望に燃えて溌はつ剌らつとして働いている。もし私によい思い出があって折にふれて話してやれるようだったら、私にとってもそれは明らかに喜びであるのだが、不幸にして私の過去は一向に味がなく、むしろ慚愧すべきもののみ多い。 ところが今度中村屋は少年諸君のために学校を開いて、これに﹁研成学院﹂と命名した。私が幼年のころ学んだ小学校が﹁研成学校﹂であり、青年時代に同志と共に創立したのが﹁研成義塾﹂であって、私と研成という名には離れられない因縁があるらしい。そこでこの研成学校と研成義塾のことについて、一つは反省のため、また一つには研成学院のよき成長を祈るために、参考として書いておこうと思うのである。 研成学校は明治五年の頃、長野県で最初に設けられた小学校であった。私の生れたのは信州安曇郡穂高村の白金という所で、この研成学校は、家から十二、三丁のところにあった。 私の家は穂高村でもずいぶん古く、家で祀った産土神が現在村の氏神になっているほどで、祖父安兵衛までは代々庄屋を勤め、苗字帯刀御免、相馬という姓から見ても、また家伝の接骨術などあるのを見ても、ただの百姓ではないことは判っていたが、土蔵の梁から一巻の記録があらわれたのは、後に私たちが東京へ出てからのことで、それを発見したのは当時十歳で国くに許もとにいた安雄のいたずらの手柄ともいうべく、彼が土蔵の天井裏に這い上って、妙な包み物が梁にくくりつけてあるのを見つけ、それを取り下ろして調べて見ると、それが相馬家の系図であって、相馬は遠く平将門を祖とすることが判り、別に川中島の戦いにおける武田信玄の感状なども添うているところを見ると、私どもの祖先はその時代に武田の客将となって信州に入り、ついにそれが永住の地となったものであるらしい。 私はそういう家に生れたが、二歳にして父を失い、七歳で母にも死に別れ、長兄夫婦に育てられた。長兄は私より十五歳上、嫂は十歳上であったから、まだ本当の若夫婦で、子供の養育に経験のある筈はない。ただ早く父母に別れた幼弟を憐れがって我が子のように鍾愛し、私が親のないことを不幸だと思ったことは一度もないくらい、それは大切にしてくれたものであった。 私が十三歳になると、兄夫婦は私の教育を完全にしてやろうと考え、通学に不便なほどの道でもないのに、研成学校の寄宿舎に入れてくれた。費用もかかることであるのに、それを惜しまず兄がこの方法をとったことから見ても、当時の研成学校のいかに名高く、また地元の信頼を受けていたかが分るであろう。地元ばかりでなく、その名は信州全体に響いていたので、遠方から来て学ぶ者が少なくない。それゆえ校舎の二階に寄宿の設けが出来ていたのであった。 兄はためを思うて入れてくれたのだが、寄宿舎生活は兄が考えていたような理想的なものではなかった。同じ年頃の者が揃うているのならよいが、なにぶん他にこれという学習機関のないその時分のことである。寄宿舎にいるのは私より三、四歳ないし十歳も年長の、もう立派な青年であった。したがって彼らはすでにさまざまな悪習慣をその身に持っている。そして指導者は一向にそれに気付かないのであったから、先生の眼を離れた二階ではいろいろ思いのほかのことが行われた。 最年少者の私は家を出て最初のこの見聞に驚きながらも、しらずしらずこれが寄宿舎の風かと思うようにもなった。これはまことに不幸なことで、男ばかりの殺風景な寮舎の生活は決して健全なものではなかったのである。 やがて私は松本の中学校に入ったが、ここの寄宿舎生活も、年少の身にとって決して幸福とはいえるものではなかった。ここでは後に帝大教授となった加藤正治︵当時平林︶氏など同級で、また先輩としては木下尚江氏、大場又二郎氏などを知り、ことに木下氏とは交遊最も長く五十年に及び、ついに昨年その死を見送ったが、この中学校を私は三年で出てしまった。私は数学だけは校中第一といわれるほど出来たが、英語は全く駄目であった。三年級も終りに近づく頃考えて見ると、どうもこの英語では進級出来そうもない。現級に止まるのはいやだし、面倒くさい、この勉強は飛ばしてしまえという気になり、三月早々退校して上京してしまった。何でもその中学校での思い出の中に、嫂の縫ってくれた赤い裏の羽織を着ていて大いに笑われたことがある。これで見ても中学生である当時の私の幼稚さ加減が判るようだが、兄夫婦は私の願いを容れて早稲田に学ぶことを許し、私は家から二十余里の道を歩いて途中一泊し、碓氷峠の麓のたしか今の横川駅から、生れて初めて汽車に乗って上京した。汽車はまだあれまでしか来ていなかったのである。 早稲田大学はその時分東京専門学校といい、早稲田の土地も今とは大違いで、一面の田圃、ことに甚だしい低湿地で地盤がゆるく、田の畝を少し力を入れて踏むと四、五間先まで揺れたもので、稲田の間にはところどころ茗みょ荷うが畑があり、これが早稲田の名物であった。大隈伯の邸宅と相対して、小高い茶畑の丘の一部に建てられたのが専門学校であった。たしか明治十五年創立で、当時は至って入学者少なく、明治十七年第一回の卒業生を出した時は、僅か十二名であったが、私の卒業した二十三年の第七回卒業生は、百八十四名、漸次増加して学校の勢力もまた上がって来ていた。総長は大隈さんで、高田早苗、坪内雄蔵、天野為之、三宅恒徳の四先生が中堅となり、外部から十数名の講師の応援があった。 名高い坪内先生のシェークスピアの講演の人気は素晴しいもので、満堂立錐の地もなく、自分などは講義を聴くというよりは、シェークスピアの芝居を見せられているように思い、ただただ面白かった。高田先生の英国憲法、天野先生の経済学も呼び物であったが、三宅先生の法律はむずかしくて解りにくい。そこで生徒一同協議して三宅先生の講義を止めてもらいたいと、高田学長へ申し出たことがあった。 当時私立学校では、いくぶん生徒をお客扱いする傾向があったので、生徒の申し出に対し、先生方には明らかに狼狽の色があり、我々の希望は達せられるものと信じていたのであるが、結果は意外にも天野先生に呼びつけられて、﹃生徒が先生に対してかれこれいうは不都合である、不満ならば退校せよ﹄と頭から叱りつけられ、そのままになってしまった。 運動会に角力を取って五人を抜き、賞として鉛筆一打を貰ったなどの思い出もある。下宿では貸本屋が車を引いてまわって来るので、それをよく借りて読んだ。﹁佳人の奇遇﹂﹁雪中梅﹂﹁経国美談﹂等、おもに政治小説であった。 同時代に在学した人では、金子馬治、津田左右吉、塩沢昌貞の諸博士および木下尚江、田川大吉郎、坪谷善四郎、森弁次郎の諸氏がある。また宮崎湖處子、安江稲次郎、宮井章景、三原武人の四人は特に兄弟のように親しくしたが、惜しいかな今はことごとく故人となった。 しかし当時、私に最も大きな影響を与えたのは、学校よりも教会であった。私は早稲田に入ると、その十七歳の夏頃から友人に誘われて、牛込市ヶ谷の牛込教会へ行くようになった。十三歳の春に始まった私の寄宿舎ないし下宿屋生活はまことに殺風景で、いま思えば私はこの間にかなり人間としての自分を枯らしたように思うが、その反対に教会ではうるおいゆたかな雰囲気に浸ることが出来た。日曜日の午前十時から礼拝説教、それから教友らとパンの昼食を済まし、また午後の種々の集まりに出席するのであったが、ここでは年長者は父母の如く、あるいは兄姉の如く、若き者は弟妹の如くで、じつに和気靄あい々あいたるものがあった。私は宮崎湖處子、金子馬治、野々村戒三等の早稲田派は申すまでもないが、矢島楫子女史、大関和子、三谷民子女史とも相識り、また基キリ督スト教界の元老押川方義、植村正久、内村鑑三、松村介石、本田庸一、小崎弘道、服部綾雄等の諸先生にも教えを受ける機会を得た。その他島田三郎、巌本善治、津田仙、山室軍平、また島田三郎氏からの縁で田口卯吉氏に接することを得たのも、この教えに連なった幸いというべきであろう。しかしまた当然の結果として、財界政界の方面には一人の友人をも持つことが出来なかったのである。また当時目白にはかの有名な雲照律師がおられたが、目白と早稲田と目と鼻の間でいながら、私は基督教徒であるため、ついに一度も律師の教えを聴きに行かなかった。今思えばじつに惜しいことをしたものである。その時分の基督教徒は仏教を時代後れとして、全く顧みなかったのである。 早稲田を卒業すると私は一年ほど北海道に行った。この時分の北海道行きはまるで外国へでも行くようであった。まだ鉄道は青森まで通じていなかったので、横浜から船に乗り、函館を経て小樽に上陸、札幌に着いた。私は月給取りになるのがいやで、開墾最中の北海道なら何か面白い仕事があるだろうと、はるばる求めに行ったのであるが、実際私の目に映った当時の札幌は素晴しかった。内地ではいかに新しくといっても伝統があるから徐々に新様式を盛って行くが、北海道は全くの新天地、すべて米国式に思い切って目新しい。私はここへも教会の縁故で矢島楫子女史からそのお弟子の藤村頴子女史に紹介をもらって行ったのであった。女史は札幌の北星女学校に教鞭を取っておられたが、私はかねて津田仙氏、安藤太郎氏などの禁酒運動に共鳴して禁酒会員となっていたから、さらに女史とその夫君藤村信吉氏の紹介で、北海道における禁酒会長の伊藤一隆氏その他の人とも親しくすることが出来た。 さて滞留一周年の実地見学で、私はいよいよ北海道が将来有望の地であることを信じ、とりあえず相当の土地を札幌郊外に購入することを思い立って、出資を郷里に求むべく大いに望みを抱いて帰郷した。 しかしその話は郷里において長兄の賛成を得ることが出来ず、したがって私はそのまま郷里に止まるほかなかった。長兄夫婦には子供がなかったので、私を相続人に定めていたし、当時は北海道といっても田舎の者には想像もつかず、とにかくあまり遠方だからとて、ついに問題にならなかったのである。 私はこの一年の北海道滞留中に、雇われることの嫌いな人間が、妙なことで至って不面目な給金取りの経験をした。それは札幌市内の桑園という土地で、信州出身の金子氏の家に客となっているうち、北海炭鉱会社の社長が、大邸宅を営造するに際し、大木を他から移植するために、三十人の臨時雇いを金子氏が頼まれた。ところがその人夫は二十九人まで出来て、あともう一人が急のことで間に合わない。そこで金子氏が折入っての頼みで、私はそこへ顔だけ出すことになった。むろん何の役にも立ちはしない。大木の後に取りついて、大勢と一緒にヤーと掛け声をするだけで、日給三十銭也の分配に預ったのである。当時札幌では手不足のため、どんな無能の者でも顔さえ出せば三十銭から三十五銭の手当をもらえたもので、この臨時雇いを出面取りといっていた。すなわち面さえ出せばよかったのである。当時の三十銭は今日の二円くらいに当る。とにかく六十九歳の今日までに、私が人から給金をもらったのは、後にも前にもこの時の三十銭限りである。 郷里に帰って私は養蚕の研究をした。当時生糸の海外取引は非常な勢いで、年々増加するばかりであった。したがって養蚕は盛んで、これまで下々の下国といわれた信州も、養蚕でにわかに一王国を出現したかの観があった。しかし養蚕の方法に至っては、これに関する書もすでに百種くらい現れていたが、大同小異、特にこれはと敬服されるものもなかった。そして残念なことに私がこれらの書物によって教えられた養蚕は失敗が多く、期待していてくれる家人に対しても毎度面目ないことであった。私はこの不充分な研究書に愛想をつかしながらなおも良書を探していると、福島県の人半谷清寿氏著の﹁養蚕原論﹂があらわれ、私はこれを見て初めてここだなと肯くところがあったのである。 ﹁養蚕原論﹂にヒントを得た私は、改めて根本的に研究し直すことを思い立ち、それから西は遠く丹波まで、また北に東に名のある養蚕地を訪ねて見学し、福島県では菅野、丹治、群馬では深沢、田島等の諸氏を訪問して直接教えを受け、その他多くの古老に質し、他方実地の研究も進んで確信を得たので、これを著述し、﹁蚕種製造論﹂と題して、田口卯吉氏の経済雑誌社から出版したことは前に述べた通りだ。︵菊版百九十頁、定価五十銭、明治二十七年二月発行︶ ついで﹁秋蚕飼育法﹂︵四六版八十頁、定価十五銭︶を著し、友人竹沢章氏の蚕業新報社より発行したが、これは五万部も売れて、あれを読んでお蔭で好結果を得たといって礼状もたくさん来たし、わざわざ遠く九州辺りから私のところへ講習を受けに来た人も少なくなかった。私はその後養蚕から全く離れてしまったが、今でも養蚕の話を聞くと旧友に会ったようななつかしみを感ずるのである。 蚕種製造家として郷里に落着くとともに、私の周囲には自然近辺の青年たちが集って来るようになった。都会に憧れ、新しい知識を求めてやまぬ田舎の若者たちにしてみれば、私が東京の学校を卒業して帰ったというだけで充分興味があったのであろう。私はこれらの青年に基キリ督ストの話をし、禁酒をすすめた。若者たちはみなよく聴いてくれて、彼らはついに畑仕事の間にもふところに聖書を入れているまでになった。 信州は維新当時廃仏毀釈の行われた所であるだけに、外来の新宗教の入り易い点があった。近村にはすでにメソヂスト派の牧師がおり、土地で名の知られている青年三沢亀太郎氏もすでに信者になっていた。私はこの三沢氏とともに牧師を援けて伝道演説をするようになり、寒い夜でも彼方の村此方の村と集まりに出かけて、ずいぶん熱心に説きまわった。また禁酒会を起し、会員数十名に上り、自分がその会長になった。これには内村鑑三先生や山室軍平氏なども応援演説に来会され、心から共鳴する青年が続々とあらわれて、中でも第一に殉教的熱情を示したものに井口喜源治氏があった。 井口君は中学校での同級生で、当時穂高小学校の首席訓導であったが、彼の信仰はついにその教え子に及び、荻原守衛その他の生徒が信者になった。最初冷静に見て居った校長もこれに驚き、生徒が学校に来て基督教になるようでは父兄に対して相済まぬというわけで、井口氏を他校に転任させようとした。そこで井口氏の辞職となり、我々友人は井口氏を他村に送るに忍びず、また学校の態度にも憤慨したので、村の有力者臼井喜代氏や長兄安兵衛その他の有志と力を合わせ、新たに井口氏を推して研成義塾を設け、町村とは全く独立した高等科の単級教授を開始したのである。時は明治三十一年の秋、私も井口氏も同じ二十九歳であった。 さて井口君はこの研成義塾を守って、去る昭和七年の十月病いを得て退くまで、じつに三十五年間全く一日の如く奮闘した。村の子供の多くは穂高小学校の尋常科を終るとそのままそこの高等科に残り、特に理解のある家の子弟だけが研成義塾に入った。私の長女の俊子なども高等科の課程はここで受けたのであった。 そんなわけでむろん生徒の多かろうはずはなく、研成義塾の経営は初めから楽でなかったが、井口君は毅然として塾を守り、自分の理想とするところの教育を、信ずるままに行い来たった。井口君は厳粛な基督教徒であるとともに、一面また文学的で、かの正岡子規の流れを汲み、それが塾の教育にあらわれて、生徒の中には文芸美術を愛する者が多く、ついに芸術に身を捧げて世に知られたのは荻原守衛︵碌山︶であった。その他なお二、三その道に志した者があるが、現在評論家として聞える清沢洌﹇#﹁洌﹂は底本では﹁冽﹂﹈氏、朝日新聞の久保田栄吉氏も、少年時代は研成義塾に学ばれたことである。 井口氏は最初そういう事情で独立したのであったから、教育界からは一種の反逆児として見られ、世間一般からも甚だしく毛色が異って、円満に迎えられることが出来ず、社会的経済的に苦しめられたことは想像以上で、全く気の毒な有様であった。けれども一方、基督教界の人々には一個の英雄として尊敬され、内村先生なども氏を明治の中江藤樹、信濃聖人とまで賞讃されたものであった。 私は井口君がその一生を通じてこの信念に専らにして、少しも遅滞するところなかった勇猛心に対して、心から敬意を捧げるものであるが、君をしてかかる不遇の生涯を送らしめたその源はといえば、自分が基督教と禁酒主義を故郷に移し入れたに因よる。私はいまこれを思うてじつに感慨に堪えぬのである。 当時の基督教は全く亜米利加直輸入で、我が国情の異なるままを疑いもせず行おうとした。私は基督教が日本の文化に与えた功績を決して見落すものではないが、これを丸呑みにしてことごとく欧米の風習通りに遵したがわねばならぬとした宗教界の先輩や牧師等の不見識は、玉に疵の憾みなきを得ない。 前に、内村先生が中村屋の日曜休業を勧められたところでも述べたが、あれほどの先生ですらこの宗教の前にはやはりこの丸呑みをあえてして、選択の自由を失っているかの観があったのである。日本人としては根本的に首肯し難い、そして単に一つの風習にすぎないようなものでも、宗教の一要素である如く考えるところから、基督教に殉ずるためには信者はじつに世間を狭く、郷党や知友との反目も余儀なくさせられたものがあったのである。 井口氏を初めとして、この塾に学んだ生徒およびこれに接近した人々も、宗教に対する勇猛心よりとはいえ、しらずしらずこの弊に陥り、世間から疎外され、いよいよ塾の存立を困難にさせられたのはじつに悲しむべく、いたましい次第であった。塾の卒業生前後およそ四百人、その大多数に対して、自分はじつに気の毒なことをしたと思う。自分は早く故郷を去り、基督教のこれらの慣習に対してさほど執着するには至らなかったが、井口君が病んで倒れるまでその信ずる所を変えなかった。今や報わるるところ少なく、戦い疲れて病いに臥すこの老友に対し、私は特に責任の大なるを感ずるのである。 人のために善しと信じてしたことが、後になって意外の結果を来たす例は、私と井口君のことぱかりでなく、じつに世間に多いのである。いま私は中村屋に多数の若き人々を預り、これを思い出して責任を感ずることいっそう切である。中村屋が諸君の商業道場たることに万が一にも誤りあらば、諸君に対し、また父兄に対し、私は何と詫びることが出来るか。自分のかつての索莫たる寄宿舎生活をかえりみて、少年諸君の寮の生活を家庭的にあたたかに、また清浄にと願うはもとより、因縁尽きず、ここにまたささやかながら学舎を開いて、研成学院と名づけるにつけ、古を回顧して自ら警しむることかくの通りである。 ﹇#改丁﹈主婦の言葉︵相馬黒光︶
主婦の言葉
今年もまた春が来て、二十三人の少年がこの中村屋に入店しました。私から見ればみな孫のような愛らしい少年たち、あなた方は父母の膝下を離れて雄々しくもよくここに来ました。各々割り当てられた部屋に荷物を下ろすともうその日から、中村屋店員としての基礎的訓練を受け、寄宿舎では監督の先生の指導によって、あなたがた自身の、そうして大勢と共同のよい生活をそこにつくるのです。あなた方はいまどんなに忙しく、体も心も緊張し、またどんなに希望に燃えていることでしょう。 私は毎年新入店の人たちのために、雨天で店が少し閑散な時を選び、数回にわたって中村屋の歴史というような形式をもって、創業当時から現在までの経路を一通り話すことに決めていたのですが、私の健康が宜しくなかったために、昭和十二年度の新店員にはつい一回も話して上げることが出来ないで今日に至り、まことに申し訳ないことと思っています。この後にもまたこんなことがあるといけないと思い、主人のこの本が出来るにつけ、主婦としてあなた方に話して上げることを、ここに書き添えることに致しました。 いったい店の歴史などと改っていうと、たいそう大袈裟に聞えます。けれども国に歴史あり家に父母祖父母の思い出があるように、どんなに微々たる一商店にもそれ相当の、後々へ語り継ぐべき苦心の物語があるものです。 あなた方は学校で歴史を学び、一国の興亡、一族の栄枯盛衰、戦いの勝敗に、みなみなきっと多くの興味を感じたでしょう。その同じ興味をあなた方はやがて商業の世界、商店の栄枯の中に見出すようになるでしょう。平家にあらざれば人にあらずと全盛を誇った平家はどうしてあのような悲惨な最後を遂げましたか、それと同じ疑問がじきに商売の方にも見えて来ます。ある店は千客万来の大繁昌で、全店員一生懸命の働きをしても間に合わぬというのに、ある店では堂々たる店舗を構えながら門前雀じゃ羅くらを張るが如しという不景気、また一族相率いていわゆる上り身代となって富み栄えると見れば、次には眷けん属ぞくことごとく没落の一途を辿り四方に離散する。いったいこれはどういうわけであろうか。どうすれば栄え、どうすれば衰えるのであろうか。その興廃の原因と結果とがはっきりと判ることによって、初めて自分の心構えと経営方針が確立されるのです。目の前に現れた結果は誰でも見ますが、大切なのは結果とともにその過程を見ることです。すなわち歴史を尊重する所ゆえ以んです。歴史に暗く、方針の定まらない人は羅針盤を失った船のようなもので、前進どころかたちまち怒濤に押し流されて、ついに船体は転覆するほかありません。 さて歴史のお講釈は止めにして早速お話に移りましょう。一通り順序を立てて主人の話のあった後ですから、私は断片的にいろいろのエピソードを拾って、中村屋の今昔を偲ぶことにしましょう。四畳半と三畳
主人がこれまで機会のあるごとに話している中村屋創業時代の店員長なが束つか実みのるは、忠実で研究心が深く、その他なかなかよいところのある少年でした。その頃小店員を呼ぶのに名前に﹁どん﹂をつけたものです。どんは殿を略したもので、この呼びようには何となく家族的な親しみと、階級を超越した平等観念も含まれていて、それまでにそういう経験を持ったことのない私は、何どんと呼ぶ時にわかに自由な明るい感じと、一種のあたたかさ懐しさを覚えたものです。それゆえ今も私が思い出すのは実みのるではなく、みいどんなのです。 さてこの実みのるのみいどんは、どうしてか生れつきたいへんな煙草好きで、自分でもこれには全く困っていました。彼はクリスチャンの家庭に生れ、教会はもちろん、中村屋としても成年未満のうちは法度の煙草を、こればかりはどうもならずあの善良なみいどんが、人目を偸ぬすんでこっそりと喫っていたのは気の毒でした。 人にはなくて七癖、みいどんにはもう一つ朝寝坊の癖がありました。その頃店員の室というのはやっと四畳半一間で、その中に六、七人が寝るのでしたから、夏の夜などとても暑苦しくて床に入れません。一人残らず夜露がしっとりするまで往来に床几を出して腰をかけているか、どこを当てともなくぶらついて戸外で涼を入れる。その留守の間にみいどんは一人さきに戻って来て、疲れた四肢を思う存分伸ばして、ぐっすり寝こんでしまうのです。そのうち一人帰り二人帰りしていつか寝床がなくなると、最後に帰ったものはみいどんをそっと抱え出してブリキ屋根の上に移して寝かせ、そのあとに割り込んで寝ました。翌朝みいどんは朝風に顔を吹かれて眼がさめるか人に呼び起されて、初めて自分の寝ているところに気がつき、寝た間のことを知るというふうで、当人の寝坊にも呆れましたが、私はそれより大勢を四畳半に寝かせる辛さが身にしみました。 さて私たちはどうしていたかというと、昼なお暗い階下の三畳、そのまた一枚の畳は破れ箪笥と、先代から譲られた長火鉢が据っており、その前をすれすれに勝手兼工場と店との通路なので、正味のところ二畳だけが主人と安雄︵当時二歳︶と主婦の居間であり、寝室でもあれば食堂客間ともなってこの上なしの単純生活、いながらすべて弁じられて調法でもありましたが、その窮屈さはあなたがたにもよく想像してもらえるでしょう。 けれどもその狭いことを誰も格別不平を申しませんでした。昔火事は江戸の花といって、半鐘がじゃんと鳴るとすぐ飛び出して火事場を見に行く、その勇ましさ景気のよさは今の東京人にはもう想像も出来ますまい。ある夜半鐘が寝しずまった町の静寂を破って鳴り出しました。遠方は一つばん、隣りの区は二つばん、区内は三つばん、近火ならば摺りばんといって、けたたましくじゃんじゃんじゃん続けざまに鳴るのでした。その夜は三つばんでしたから区内ではありましたが、昼間疲れていることではあり、一ぺん頭はもたげて見たが、﹃何だ三つばんか﹄でまた寝てしまうものが多かったのです。中に一人至って気の早い愛四郎というパンの仲職人が﹃ソラ火事だ﹄と真っ先に飛び出しました。 間もなく鎮火して、愛四郎その他の者も戻ってもとの床に入りましたが、翌朝になって意外なことを発見しました。というのは、これも主人がよく話をする浅野民次郎の枕と敷蒲団が血でよごれていたのです。被害者の浅野さんは言いました。﹃昨晩火事があったことは知っているし、顔のところがひどく痛いと思ったがそのまま眠ってしまった。いったいどうしたのだろう﹄ もう包み切れない加害者の愛四郎は白状しました。﹃それは俺かも知れない。火事場に飛び出す時、暗闇の中でぐにゃりと生温いものを踏みつけたと思ったが、どうも浅野さんの顔を踏んだらしい。お気の毒をしました﹄と、浅野すかさず﹃鼻はだ迷惑いたしてござりす﹄ござりますを仙台の田舎言葉で浅野さんはござりすと言いました。しばらくはこの真面目な人の洒落で一同笑いが止らなかったが、これも笑いごとではありませんでした。主婦の指導者おはつさん
おはつさんは先代中村屋から店とともに受げ継いだ女中で、主婦の私より四つぐらい年上でしたから、その時分もう三十になっていました。生国は越後で眼に一丁字もない無学文盲でしたけれども、性来の利発もの、お世辞はないが実直でなかなかたのもしい女でした。私は女中を呼び捨てにしたことはなかったのです。必ず誰さんと呼び、今でも子供たちにもそうさせています。
私はこのおはつさんを師匠として、店に来て下さるお客様への接しようから水引の掛け方、パンの扱い方など、何から何まで教わりました。お客様の顔を見るとすぐ﹃いらっしゃい﹄と、元気よく一種のアクセントをつけて迎えるのですが、新米の者にはこれがなかなか出て来ないもので、私が困っていると陰からおはつさんが﹃いらっしゃあい﹄と早速助けてくれたものです。
おはつさんは馴れない主人を侮らずに大切にしてくれるとともに、職人や小僧︵その時分は小僧といいました︶たちにもちょうど弟か子供にするような態度で、それは親切に世話をしました。よくないと思うことは黙っていないで叱りました。朝二階を片付ける時、小僧が寝ている間に粗忽して蒲団を濡らしていることがあり、おはつさんはそれを見ると私に知れないよう、また朋輩に見られて顔をあかめないで済むよう、自分でそっと始末をし、目立たぬように干してやっていました。また忙しい中で手まめに綻びを縫ってやり、空模様があやしければ雨傘を忘れるなと気をつけてやる。万事この調子で、いろいろ心配りが多くて行きとどかぬ勝ちの私を扶たすけて、それはよくしてくれたものでした。
このおはつさんに一つ不思議なことがありました。それは自分だけいつもおじやかお粥を食べていることで、私は気にかかり、ある時何故かとおはつさんに訊ねてみました。すると傍から職人が﹃ナーニおかみさん、御心配には及びませんよ。おはつさんは釜や飯櫃にくっついた御飯粒や種たね子め飯し︵パンの発酵素をつくる︶の残りを集めて煮てたべているのですよ﹄と代って返答したので初めて謎が解け、年若とはいえあまりに認識の足らなかった自分を恥しく思うとともに、おはつさんの心がけにはほとほと感心いたしました。
仙台の生家にいる頃、お勝手の手伝いをさせられる時に私はたびたび母からお竹如来のはなしを聞かされ、物を粗末にしてはならないこと、水使いのあらい者は人使いもあらいものだから、井戸水でも一滴だって無駄にこぼしてはならないと言われたことを思い起し、我らのおはつさんもおはつ如来として祀まつってよい人だと思いました。
お竹如来のことはその後も忘れませんでしたが、芝増上寺の末寺飯倉赤羽橋の心光院に今なお祀まつられていることを最近に知り、それがまた故渡辺海旭先生と深い因縁のあることも分って、いまさらのように仏縁の尊さをしみじみと思うのであります。昔私が母から聞かされたように、あなた方もこの話をよく聞いておいて下さい。お竹如来の由来にはこう書いてあります。
お竹大日如来流し板
慶長年間、江戸伝馬町佐久間某の婢に竹といふ慈悲仏性の女あり。台所の流しもとに布を張り、流るる飯粒を防ぎて己が食となし、己の食を乞食に与ふ。遂に生身の大日如来と化生し、流し板より光明を発したりと。霊像並びに流し板は今東京市麻布飯倉町赤羽心光院にまつる。
末世まで光る後光のさした下女 (江戸時代川柳)
雀子やお竹如来の流しもと 一茶
雀子やお竹如来の流しもと 一茶
今でも何ともいえぬ温さをもって思い出されるのは、おはつさんが、私の使い古したものを喜んで受けてくれて、幾年でも大切に保存し、その季節になるとちゃんと取り出して身につけていたということです。そういう親身な情とともに、私は今でも深くおはつさんに感謝しています。