一
山形屋の若主人宇部東吉は東京へ商品の買ひ出しに出たきり、もう二週間も帰つて来ない。そのうへ、消息がふつつり絶えたきりになつてゐる。こんなことは今までに例のないことだから、留守居の細君みよ子はもう眼を泣きはらし、父親の紋七はコタツの中でぷりぷり言ひ、近所近辺はその噂でもちきりであつた。 上州三原からバスで鳥居峠を越える県道が、最近の大水で流されたあとへやつとかゝつた吾妻川の仮橋を渡ると、浅間の裾の鬼の押出しと呼ばれる熔岩地帯へ通じる鎌原の里である。登山口としてはわりに世間に知られてはゐないが、附近には鹿沢温泉とか、田代湖とかを含むいはゆる観光地もあつて、季節々々にはハイキングの客が相当乗り降りをする場所になつてゐる。山形屋は、そのバスの停留所の前にある雑貨店を兼ねた飲食店である。 もともと行商としてこの土地へ流れこんで来た宇部紋七が、二十年がかりでこれまでにしたといふだけで、なにひとつ取柄のある店ではなかつた。山奥の不自由さに慣れた人々を相手に、小ずるく立廻つた結果が、今ではいくらか、土地で口の利ける身分になつたことを彼は自慢にし、まだ五十になるかならぬかの年で、店を貰ひ子の東吉に委せ、自分は無鑑札で古物の売り買ひなどをし、東吉に嫁を持たせてからは、独り身の気楽さで、外を泊り歩いてばかりゐるのである。 さて、息子の東吉は、ある女旅芸人の腹に出来た父なし児で、五つの時に、縁あつて宇部紋七夫婦の手に引きとられ、その義理の母にも早く死に別れて、それ以来、文字どほり男親の手ひとつで育てられたのである。 そのためばかりではあるまいが、彼は、評判の孝行息子であり、律義で勤勉な若者であつた。色が白く、眉が濃く、口元に不思議な愛嬌があり、小柄なわりに腕つぷしが強かつた。 学校の成績はあまりよくはなかつたが、誰にでも好感をもたれ、餓鬼大将になる代りに、いつも賓客のやうな待遇を受けた。もちろん、青年期にはいると、異性の人望は圧倒的であつたが、彼は、それに対してほとんど無感覚といひたいほどの恬淡さを示した。 このことがまた彼に一層箔をつけた。 もつとも、なかには、意地づくで彼に挑戦し、蔭にまはつて、聞きずてならぬみだらなデマを飛ばす蓮つ葉娘もあつたが、彼は一向、気にとめる風もなかつた。 食堂が忙がしくなると、父の紋七は、近所の娘を一人二人、月極めで手伝ひに頼んだ。それも、おなじ娘を二度頼むことはなく、入れ替り立ち替り、違つた娘が来た。 東吉は、それらの娘たちといづれも顔なじみであるといふだけで、べつだん、区別をつけてみようとはしなかつた。どれもこれも、おなじやうにみえた。話しかけられゝば、返事ぐらゐするが、こつちからわざわざ喋りだすやうなことはなかつた。娘たちは、一様に、彼を極度のはにかみやと信じこんでゐた。 ところが、今年の春、父親の紋七は、突然、東吉に向つて、かう言つた。 ﹁やい、東吉、お前もそろそろ女房をもて﹂ ﹁いらねえ、そんなもの﹂ ﹁いらねえつたつて、さうはいかねえ。おれはもう店をお前に譲りたくなつた。女房をもらつてやるから、二人でいゝやうにしろ﹂ 東吉は、顔を真つ赤にし、口を尖らせるだけ尖らし、視線をあらぬ方へ向けて、胸の動悸をぢつとおさへた。 ﹁ところで、どうだ、さう話がきまつたら、早い方がよからう。気に入つた娘ツ子があるなら言つてみな﹂ ﹁ねえよ、そんなもの﹂ ﹁あつたつてかまはねえぞ﹂ ﹁ねえつたら、ねえ﹂ ﹁ねえか。そんなら、おれの眼鏡で、これと思ふのをあてがふが、それでいゝか﹂ ﹁お父つつあんのいゝやうにするよ﹂ ﹁さうか。そんならなんでもねえ。内藤の姉娘をもらふべえ﹂ ﹁肉屋のか?﹂ ﹁あれや気だてのいゝ娘だ。見かけはとにかく、女房には、あゝいふ女が理想的つていふもんだ﹂ 理想的といふ言葉がこの親父の口から出たので、東吉は、ちよつと気もちがほぐれ、思はず、ニヤリとした。 ﹁それみろ、お前だつて、嫌ひぢやあるめえ﹂ が、実のところ、肉屋のみよちやんは、彼にも意外千万であつた。もちろん、誰がみても美人ではなく、それどころか、村ぢゆうで最も無愛想な顔だちの娘の一人である。 いつたい、彼女が笑つたことがあるだらうか? 彼は、それも思ひ出せないほどである。目立たないといへばこれほど目立たない娘はめつたになく、いつか店に手伝ひに来たとき、やつとその存在をたしかめ得たといつていゝくらゐである。親父は、この娘のどこが気に入つたのか? 強ひて想像すれば、いかにも辛抱強さうなところであらうか。 話はとんとん拍子に進んだ。 新婦みよ子の装ひは、バクロ内藤の度胸をみせて、戦後、この山村の一偉観であつた。披露はとくに部落の公会堂を借り受け、両家持ち寄りの大振舞ひで人々を驚かした。酒は地酒ながら紋七が顔を利かせて一斗樽を三本担ぎ込ませた。肴には厚切りのビフテキが出たことは言ふまでもない。 かくて、山形屋の店は、表面、若夫婦の天下となり、父親紋七は、どこからか、時折顔を出して、後見の責任を果してゐた。 なにひとつ波瀾を予想させるやうな徴候はなかつた。 山形屋の若主人、宇部東吉が、東京へ出たまゝ、杳として行衛知れずになつたのは、それからやつと半年しかたつてゐないのである。二
父親の紋七は、息子の消息を案じながら、このところ、ずつと店に泊り込んでゐる。 ﹁おい、みよ子、泣いてばかりゐないで、ちつたあ、心当りへ電報でも打つてみちやどうだ﹂ ﹁心当りつて、わたしにや、まるでわからんもん﹂ ﹁飴玉の仕入先で、神田に時々泊めてもらふ家があつたつけが……﹂ ﹁また、米を背負つて、見つかつたんぢやあるまいか﹂ ﹁そんなら、二度三度は始末書ですむ筈だ。こんなに長く引つ張られるもんか﹂ ﹁東京が面白うなつたのかも知れん﹂ ﹁なにが面白い、あんなとこ……。第一、遊び廻る金なんぞあるかい﹂ ﹁仕入れのお金を持つてつとるでな﹂ ﹁バカこけ。あの男にそんなことができるか﹂ ﹁ひよつとして、怪我でもしとるんぢやなからうか﹂ ﹁心配するな。それこそ、身元を調べて、すぐ知らせてよこすで……﹂ 二人は、こんなことを繰り返し言ひ合ふ以外、手の下しやうがなかつた。 ところが、そこへ行くと、他人の方がいろいろの臆測を逞しくした。 駐在の警官と公安委員の一人が立ち話をしてゐる。 ﹁わしの勘ぢや、奴さん、どこかで金を落しただ。帰るには帰れずさ、気が小さいでな、あちこちうろうろして、金の工面をしとるでねえかと、にらんどるんだ﹂ ﹁金はいくらぐらゐ持つてつとるだらう﹂ ﹁まあ、二、三万といふところかな﹂ ﹁親父に内証ちうわけにいかんでな﹂ ﹁あの年で、親父に頭があがらんちうのは、をかしいよ。馬鹿ぢやねえだからなあ﹂ さうかと思ふと、野菜の集荷場になつてゐる協同組合の倉庫の前で、同じ年恰好の若い衆が四五人で、こんな話をしてゐる。 ﹁大将、近頃、気がすこし変になつとりやせんか? ほれ、いつか熊に出会つたつていふ、あの頃からよ﹂ ﹁なるほど、あの話をした時の眼つきは、たしかに、普通ぢやなかつたなあ﹂ 宇部東吉が熊に出会つたといふ話はかうである。 この夏、新婚早々のこと、彼は消防団の用事で、夜おそく三原から歩いて帰つて来た。近道をするつもりで、何気なく、山沿ひの新道を登つて行くと、向うから、薄闇の中に、ぼんやり、牛のすがたらしい黒い輪郭が浮んでみえた。この先の開拓団から、誰かゞ遅く獣医のところへでも牛を牽いていくのだらうぐらゐに思つて、のこのこ近づいて行くと、いつかう人影は見えない。変だな、と思つたとたん、その牛が、後ろ脚で、ぬつくと起ちあがつた。いけねえ、熊だ、と気がついた時、彼は一瞬、瞳をこらして、その足許を見た。人の話に、熊は人間を見ても、決して向うから飛びかゝつて来るやうなことはなく、必ず踵を返して退散するものだ。但し、子引き熊といつて、仔熊を連れてゐる母熊は、こいつは油断がならぬ。不意に出くはして、仔熊が動かぬ限り、親熊は、必死になつて向つて来ると聞かされてゐたからである。果して、その大熊のうしろに丸々と肥つた仔熊が二頭、首を前に突き出して、ぢつとしてゐた。 三間とは離れてゐなかつた。彼は、来た道を一目散に走り出した。しかし、後ろから風を切つて追ひかけて来る巨大な足音が耳にはいつた。もう駄目かと思つた。が、ふと、眼にとまつたのは、開拓農場へ水道を引くための太いヒューム管が、工事半ばで、道ばたにいくつも転がしてある、その一つであつた。長さは一間半ほどもあらうか、彼のからだは、その中へすつぽりはいるくらゐである。 占めた、と、彼は、矢庭に、そのなかへ頭を突つ込み、手足をできるだけ縮めて、息を殺した。 しかし、それだけで事はすまなかつた。けもののすさまじい鼻息が、頭の上で、火を吹くやうに聞え、ヒューム管がガリガリと鳴り、大きく揺れたと思ふと、あつといふ間もなく、脚の方が上へ釣り上げられた。なんのことはない。彼は、ヒューム管のなかで逆立ちをさせられたのである。どうなることかと思つた。その時、彼の頭に、妙な連想が浮んだ。人間がカニの脚から肉をほじくり出す、あの仕草である。熊が、今、それをやらうとしてゐるのだ、と思つた。 しかし、熊にその智恵はなかつた。えゝい、面倒くさい、といはんばかりに、ヒューム管をそのまゝ、突き倒したらしい。道の一方は、急な斜面で、谷底まで桑の段々畑である。ヒューム管は、もんどり打つていくつかの桑の株にぶつかり、そのまゝ、闇の中へ消えた。 宇部東吉は、それから二時間もたつて、家へ辿りついた。そこでやつと命拾ひをしたことに気がつき、その話を、まづ妻のみよ子にした。 噂はすぐに部落ぢゆうにひろまり、詳しい物語りを聞きに、人々は彼の家に集つた。 自慢になるほどの武勇伝ではなかつたが、彼の平生を知るものにとつて、これは一種の珍談に相違なかつた。 ある友人は、この行動を、彼の平和的無抵抗主義に結びつけた。 が、また、ある常識家の中年男は、この話をすこし眉唾ものだと、鼻で嗤つた。 宇部東吉は、作り話をまことしやかにするやうな男ではない。それだけに、この物語を直接聞かされた誰かれのうちには、宇部東吉の眼附や声音のうちに、いくぶん異常な興奮のあとを見逃がさなかつたものもゐる筈である。三
それはそれとして、小学校の分教場でも、教員の数人が、やはり、宇部東吉の行衛不明について、いろいろ論議をし、それぞれの意見を交換してゐた。 なんとしても結論を得るにはならなかつたが、宇部東吉と子供の頃からの仲善しで、小学校しか出てゐない彼にとつて、唯一の知的指導者、思想の先達ともいふべき師範出の一教員は、深刻な表情で、こんな疑問を提出した。 ﹁どうもわしは、腑に落ちんことがあるんだ。ついこなひだのことだが、二人で話をしとると、急に、彼は、こんなことを言ひ出すんだ。君は、共産党をどう思ふ? つて……。わしは自分の考へを率直に述べた。わしは、知つての通り社会主義者だ。その立場で、一席、共産主義批判の演説をぶつたよ。すると、奴さんは、かう言ふんだ。――わしの知りたいのは、主義のことぢやない。党のことだ、つてね。なんでも、長野県あたりの地区細胞から、奴さんのところへ入党の勧告が来たらしいんだ。誰が来たか、わしには、だいたい見当がついとる。うまいことを言つたとみえるね。奴さん、少々、感激してござるんだよ。はじめて政治ちうもんに興味をもつた、とね。純真だからなあ。わしは、べつに、奴さんの入党に反対するつもりはないがね。たゞ、念のために、暴力革命を認めるか、どうか、その点を突いてみたんだ。彼らしい返事をしたよ。わしは暴力は絶対にきらひだ。だから、そんなことをせんでもいゝやうに、党員を一人でも多く議会へ送り込むならよからう、と、かうさ。わしは、あゝ、君の力でそれができるなら、やつてみな、と、笑つて答へてやつたよ。だが、諸君、この問題を除外して、今度の宇部東吉の行動をセンサクするのは無駄だと思ふが、どうだ﹂ 一同は、事の意外に驚いた風で、誰ひとり、口を挟むものはなかつた。 ﹁しかし、このことは、諸君、こゝだけの話にしといてくれよ。わしは、ちつとばかり責任を感じとるんだ﹂ と、その教員は、また、額に皺を寄せて考へ込んだ。 さういふ間にも、駐在の警官は、気を利かせて、山形屋に再三姿を現はし、父親の紋七に、いつそ、捜索願を出してみてはどうかと勧めてみたが、紋七は、いや、それも外聞がわるいといつて聴きいれず、たうとう、自分で東京へ行つて探して来ると言ひ出し、長くしまひ込んであつた洋服を取り出し、虫喰ひのあとを気にしながら、三原行のバスに乗つた。悲壮な面持ちであつた。 妻のみよ子は、ひとりになると、店先で、ゆつくり物思ひにふけることができた。 秋も終り、浅間の頂には薄雪が積つてゐた。旅の客もまばらになつた。今年は例年よりも霜が早く降り、風の吹く日が多かつた。 夫の東吉は、世にも優しい夫であるやうに思はれた。 どんな場合にも荒い言葉をかけられたことなどはついぞなく、なにをいつても、うんうんと、よくいふことをきいてくれた。それでゐて、どことなく骨太い感じのするところがあり、頼みになるとは、かういふ男であらうと、しんから甘えてみたいと思ふことがあるくらゐである。たゞ、彼女には、どの程度に親しみの感情をあらはし、なれなれしく振舞つていゝか、ちよつと見当のつかぬもどかしさはあつた。それを、こつちからでなく、むかうからはつきりみせてほしいと云ふのが、不満といへば不満である。しかし、それは贅沢といふものだと、彼女の実家での見聞がちやんと教へるのである。 さういへば、舅しうとの紋七は、夫ではないけれども、彼女に対して、まつたく、注文が多かつた。嫁として舅に仕へるひと通りの心得はあるつもりなのだが、かたづいて来て、まだひと月もたゝぬうちから、もう、いつぱしの主婦の資格を要求した。 毎日顔を合はすわけでないのがせめてもの救ひであつた。しかし、三日にあげず、ひよつこりやつてきては、早速、小言の連発である。ふたこと目には、――それで嫁の役がつとまるか、である。けつかう勤まります、と言つてやりたいくらゐである。 細かいことでは、掃除のこと、物の置き場所、飯のたき方、野菜のきざみ方、汁の加減、それから、気まぐれに、口紅でもつけてゐるのを見ると、もう、それについて、かれこれ言ふ。店の客の応待がことにやかましく、もつと愛嬌のある返事をしろとか、有難うございますを言ひ忘れたとか、いちいち難癖をつける。ことに、夫に対する気の遣ひ方が足りないといふ、余計なお節介には、まつたく腹がたつくらゐで、あとでこつそりそのことを夫に告げて、ほんとにさう思ふかとたづねると、あれは親爺のくせだから気にすることはないと言はれ、やつと安心はしたものの、夫の前でも、ずけずけそれを言はれる時の切なさは、誰に訴へやうもないのである。 そんな時、夫がすこし不機嫌な顔をみせでもすると、舅は、けろりとして、――こんな憎まれ口を利くのも、お前たち二人のためだ。夫婦の間で、お互に不平を並べ合つたら、もうおしまひだ。親つていふものは、息子が嫁をもらへば、二人分の世話を焼かにやならんのだ。自分の経験で、二人がどうすれば一番うまくいくか、それがわかつてゐればこそ、間に立つて、誰よりも気を揉むのだ。それがお前たちには、まだわかる筈はない。かう言つて、うまくはぐらかしてしまふ。 なるほど、舅の言ふこともわからぬではないが、妻としては、それを誰からも言はれずに、自分で発見し、自分で工夫し、自分で成長していきたいのだ。夫だけが、その努力を、そばから助けてくれるひとではないか。 彼女はかう思ふ。それに第一、舅の小言は、自分で言ふほどおほらかな気持からではなく、へんに感情的になつたり、不必要にひとを侮辱したりするのをみても、決して、それを恩に着るべき性質のものではない。なによりも情けないのは、その小言が度重なるにつれて、だんだん、こつちが自信を失ひさうになることである。おそろしいことだけれども、こればかりは、どうしてもしかたがない。四
山形屋の若主人宇部東吉は、四万五千円の持ち金を、この二週間のうちにすつかり使ひ果して、しよんぼり、上野動物園の熊の檻の前に立つてゐた。 今日の午後、カフエー白百合の女給薫子のところへ、どうしても五千円都合して行かねばならぬ。御徒町はすぐ眼と鼻の先である。こゝからそこへ行くまでに、五千円が湧いて出る道理はない。この熊の皮でも、はがせるものならはがしたいほどである。せめて、パチンコですつた金が、いまこゝにあれば、と、あの心ををどらせる流行競技が恨めしくなつた。 熊の皮はあきらめるとして、なんとか、この懐しいけものの顔を眺めてゐるうちに、いゝ智恵が浮かばぬものか。あのねんごろをきわめた、いぢらしい薫子の風姿と、あのむせるやうな肌の匂ひを想ふと、自分の幸福は、あの山奥の街道の上にはなく、この東京といふ大都会のまんなかにあつたのだと、つくづくそれに気のつくのが遅かつたのを悔むばかりである。 この前、十月に東京へ出たとき、仕入先の青年に誘はれて、何気なくはいつたカフエーに、彼は、その次の機会に、今度はひとりで、ふらりと寄つてみる気になつた。むろん、最初にビールを運んで来て、しばらくそばに坐つてゐた女給の顔が妙に頭にこびりついてゐたからである。そこで、二度目に、彼は、その女給の名を覚え、すこしばかり自分のことを話し、おそるおそる彼女の郷里はどこかとたづねた。ところが、それは偶然、山形であつた。彼は、小をどりせんばかりに悦び、実は、自分の店も山形屋といふので、両親は山形の出身であると、つい、知りもせぬことを言つてしまつた。 ﹁あら、さう……そんなら、あたしとお兄さん、同郷つてわけね。なんだか、うれしいわ﹂ ﹁まあ、さうだ﹂ といふあんばいで、彼は、同郷の美女のために盃をあげ、再会を約して別れた。 家へ帰つて、彼は、妻みよ子の顔をまともに見ることができなかつた。既に、彼には、後暗い悩みのやうなものがあり、妻の姿態は、ひからびて、味もそつ気もなかつた。 こんなことではいけない、と、彼は思つた。しかし、自分の変化は、妻の変化でもあつた。なぜ、こんなことになつたのか、自分でもわからなかつた。今さら、妻のみよ子と、あの薫子とをくらべてみるまでもない。こつちが唇を刺すヒラクチの実なら、あつちは舌の上で融とける水蜜桃である。 これが世に言ふ都会の誘惑であるなら、それはそれでかまはぬ。一度はその誘惑におぼれてみようではないか。おそれることは何もない。破滅が予想できないやうに忍び寄るものとは思はれない。一歩手前で踏み止るくらゐの克己心はあるつもりである。 十一月の半ばすぎに、彼は、商用を名として、いつものやうに家を出た。あり金を残らず懐に入れることを忘れなかつた。 東京へ着くと、その足で、カフエー白百合のドアを開け、中をひとわたり見廻した。薫子は瞳をかゞやかして彼を迎へ入れた。幸福は彼を待つてゐた。どんな種類の幸福であつたか? 二人が二人だけの場所と時とを作り得たとき、それがはじめてわかつた。頭のしびれるやうな、脚が宙に浮くやうな幸福であつた。彼女に何を買ひ与へ、彼女と何を一緒に観、どこを手をつないで歩いたか、彼はもう覚えてゐない。ただ、覚えてゐるのは、今日午後五時までに、どうしても五千円の金がいるといふ、彼女のしみじみとした訴へだけであつた。 なんとかできると、彼は思つた。長い商売づき合ひが、仕入先のなかにあつた。五千や一万は、すぐに都合がつくものと信じてゐた。ところが、今朝、それを試みて、いづれも不成功に終つたのである。ひどい金づまりが理由であつた。問屋にもあるまじき泣きごとのやうにも思はれたが、貸さぬといふものを借りるわけにはいかぬ。腕時計を売らうかと思つた。生あい憎にくネヂが切れてゐて、相手は足許をみた。千円に替へてみたところで、どうにもなるわけのものではない。途方に暮れて、彼は、動物園にはいつた。これも、どうするあてがあるわけではない。人間の顔をみてゐるよりも、まだましだと、無意識に感じたためかも知れぬ。 もう、泥棒以外に方法はないと観念すると、いくぶん気が楽になつた。 いかに自分を信頼し、自分に期待してゐる彼女といつても、まさか泥棒までしろとはいふまい。すべての事情をはつきり彼女に告げよう。そして、二三日待つやうに言はう。家へ帰つて、親爺に相談してみよう――仕入先へ五千円ばかり借りをこしらへて来た、と。 彼は、重い足を引ずるやうにして、カフエー白百合の店へはいつていつた。 ﹁すまないが、どうしても、今日はダメなんだ。二三日待てないかい? 家へ帰つて、すぐ電報為替で送るよ﹂ と、彼は、あやまるやうに言つた。 ﹁あら、たつた、五千円よ。どうかしてるわねえ﹂ 今までの彼女とは似てもつかぬ調子であつた。彼は、魔物の正体をみたやうに、ギクリとした。 ﹁たつた五千円といふが、なにしろ旅先で、……﹂ ﹁いゝわ、いゝわ……﹂ 彼は、その権幕に、唖然として、口を開けたまゝ、彼女の顔をみた。 ﹁お蔭で、恥かいちやふわ。今日は、それぢやもう、こゝで使ふお金もないんでせう。またある時、出直してらつしやいね﹂ さう言ひすてゝ、彼女は、ぷいと席を起つていつた。五
やつと帰りの旅費だけを工面して、宇部東吉は、上州の家へ帰つた。
この突然の帰宅は、妻のみよ子を嬉し泣きに泣かせ、部落の衆を面喰はせた。
誰がなんと訳をたづねても、彼は、笑つて、まともな返事をしなかつた。たゞ、妻のみよ子に向つては、
﹁わるかつた、なあ、堪忍してくれ。東京でつい遊んぢまつたんだ。あぶなく女にひつかゝるところだつた﹂
と、白状した。
﹁さうぢやないかと思つた。でも、よく家へ帰る気になつたわねえ﹂
妻のみよ子は、いや味でなく、おろおろ声で、感謝をこめた調子で言つた。
﹁それや、なるさ。お前がゐるもの﹂
これも、嘘ではなかつた。宇部末吉は、汽車の中で、悪夢の名残に唾を吐きかけたい気持になつてゐた。そして、新婚の日の、夜の妻のすがすがしい印象を想ひ起し、言葉すくなに、絶えいるやうな羞はにかみをふくんだ愛のしるしをみせてくれた、あの感動を、なぜ忘れてゐたのか、自分でも不思議なくらゐであつた。
夫として、おそらく最初の、狂ほしい抱擁が、その日、妻のみよ子に与へられた。
﹁お父つつあんがなあ、東京へあんたを探しに行つとりなさるんだけど……﹂
﹁へえ、どこを探すつもりだ﹂
と、彼は、妻のふるへる睫毛に眼をおとしながら、独言のやうに呟いた。
そして、それから三日目に、父の紋七が、気ぜはしさうに、店の閾しきゐをまたいではいつて来た時、宇部東吉は、奥の帳場から、穏かに声をかけた。
﹁入れ違ひになつたなあ。もうとつくに帰つとるぜ﹂
父親は、キヨトンとした顔つきで、奥をのぞき込んだ。そして、そこに息子が泰然と胡あぐ坐らをかいてゐるのをみると、
﹁このバカ野郎、どこをいつまでもほつき歩いてたんだ!﹂
﹁心配したかい?﹂
﹁なに? 心配したか? この薄ノロ! 十日も二十日も黙つて家をあけやがつて、なんていふ口の利き方だ。親には親らしく、挨拶をしろ!﹂
父親の紋七は、荒々しく上りかまちに腰をかけ、息子の顔を、ヂロリとにらみつけた。
﹁あゝ、望みとあれば、挨拶をしよう。今日限り、親子の縁を切つてもらはうよ﹂
﹁な、な、な、なんだと?﹂
すこしうろたへて、父親の紋七は、舌がもつれた。
﹁なんでもねえ、今日限り、わしや、お前さんの息子ぢやねえ﹂
東吉の冷やかに突つ放した物の言ひ方に気をのまれて、父親の紋七は、いくぶん改まり、
﹁そりや、また、なぜね? わけを言ひな、わけを……﹂
﹁おれや、お前さんのおかげで、えれえことしでかすところだつた。すんでのことに、この女房を……罪もねえ女房を捨てちまふところだつた﹂
﹁それが、わからねえ、おれにや……﹂
﹁わからねえか? いゝか、みよ子のあらばかり言ひたてゝ、おれにいや気を起させたなあ、誰だい? おれも、バカにや、バカだつた。とにかく、おれは、みよ子つてやつを、申し分のない女房だと気がついた。小言なんぞ、ひと言だつて言ふこたあねえ。それだけだ﹂
﹁ふん、さう来なくつちや……。めでてえ話ぢやねえか。たうとう、おれの望みどほりになつたわけだ﹂
﹁おちやらかすのはよしてくれ。おれや、真面目なんだ﹂
﹁おれだつて、真面目だ。それを見とゞけたら、おれはもう、この家に思ひのこすこたあねえんだ。まあ、末永く、女房を可愛がつてやりなよ。お前も、ちよつとの間に、いゝ苦労をしたなあ﹂
さう言ひながら、父親の紋七は、すべてを呑みこんだやうに、ひとわたり店の中を見廻したのち、ゆつくり、そして、しよんぼり、霜どけの街道へ出ていつた。