聊か抽象的になる恐れはあるが、無趣味な数字的表記を避けて、略年代順に各作家の寸評を試みることにする。
便宜上、時代的特色を基礎として、所謂現代劇作家の擡頭を四つの
一、自由劇場時代(一八八七―九四)
二、自由劇場没落後
三、一九一〇年前後
四、欧洲大戦後
二、自由劇場没落後
三、一九一〇年前後
四、欧洲大戦後
此の順序を以て、直ちに各作家の年齢を推断することはできない。また、現存作家よりも晩く出て早く没した作家もある。然しこれらは、仏国現代作家として一様に見らるべきものであらうと思ふ。
一、自由劇場時代
十九世紀中葉を風靡した浪漫主義運動の後を継いで、不完全ながら写実主義的傾向をその戯曲に盛つたのはデュマ・フィス、オージエ、フウイエ、サルドゥウ等であつたが、徹頭徹尾、写実の色を以て舞台を塗り上げた劇的天才は、云ふまでもなくアンリ・ベックである。
﹃烏の群﹄﹃巴里の女﹄の二篇は、﹃戯れに恋はすまじ﹄の作者、浪漫派劇詩人アルフレット・ド・ミュッセと共に、彼を十九世紀に於ける仏国最大の劇作家とした。
自由劇場は、畢竟彼の作品に、文学的ヒントを与へられたと云つてもいゝ。
﹁舞台は人生の断片なり﹂と称へ、﹃セレナアド﹄﹃海﹄﹃主人﹄等の諸作を以て﹁活きた芝居﹂の標本をしめさうとしたジャン・ジュリヤンは、明かにベック門下の駿足であり、自由劇場と生死を倶にした唯一の闘士であつたが、一篇の田園悲劇﹃アルルの女﹄によつて、当時のメロドラマを一蹴し去つたアルフォンス・ドオデの純真な魅力に敵することは出来なかつた。
ウージェエヌ・ブリュウは、ジュリヤンと並んでアントワアヌの事業に参与した劇作家である。彼の所謂﹁社会劇﹂は真摯な正義感に満ちてはゐるが、全然心理的のデリカシイを欠き、テエマの露出と冗長な論議とを以て安価な感激をそゝるに過ぎない。その数多き作品中、﹃揺籃﹄﹃法服﹄﹃弁護士﹄などは相当の世評を博しはしたが、処女作﹃ブランシェット﹄の素朴な悲劇味が、彼の芸術の、最も好ましい代弁を務めてゐる。
自由劇場から生れて、独り新しい道を開拓した森林の哲学者、フランスワ・ド・キュレルは、﹃新しき偶像﹄﹃鏡の前の舞踏﹄﹃獅子の食膳﹄﹃聖女の半面﹄等の思想劇を提げて、先づ、仏国に於けるイプセンの影響を示し、文化と獣性の争闘を描く近来の諸作﹃狂へる魂﹄﹃修羅の巷﹄﹃天才の喜劇﹄等は、深い瞑想と明るき理智とを以て、動もすればヴォードヴィルに堕しようとする題材に溌剌たるファンテジイと鷹揚な気品とを与へてゐる。
文学の本質を思想に置き、一作家の価値をその哲学的根柢によつて定めるものとしたならば、現代仏国の劇作家中、彼こそは、小説壇に於けるブウルジェ、詩壇に於けるヴァレリイの地位を占むべき作家であらう。
彼は何よりも先づ﹁文明人の裡に巣食ふ野性﹂の記録者である。彼自ら、モンテエニュの思索的好奇心と、ミュッセの理智的想像の遊戯とを、自己の作品中に併せ盛らうとする企図を仄めかしてゐる。この宣言は、一面より見れば、可なり意外の感がないでもないが、彼が小説といふ表現形式を棄てゝ、一図に戯曲に頼らうとする意嚮を語るものであらうと思はれる。
実際彼は驚嘆すべきファンテジストである。然し、そのファンテジイは、ミュッセの戯曲に盛られてあるそれらの如く、劇的本質と結びついてゐない憾みがある。言ひ換へれば、作者自身の感興が、作中の人物を完全に実在化させることを妨げてゐるやうに思はれる。
これはキュレルが、思想家としての偉大さに反して、劇作家としては、屡々好意ある批評家を悩ます原因を作り出すのである。たゞ彼が、たまたま純然たる思索の夢より醒めて、その描かうとする抽象の人物に、心理解剖家としての鋭い体験の所産を盛る時、彼の戯曲には、めまぐるしい生命の躍動を見るのである。彼が最も優れた劇作家であり得るのはこの場合だけである。
アントワアヌは、彼の処女作﹃身投げをして救はれた男﹄を読んで、感激の余り﹁傑作現はれたり﹂と叫びつゝ室内を歩き廻つたといふ事実から推しても、彼の作品が如何に時流を擢んでゝゐたかを知り得ると思ふが、三十年後の今日、なほ、仏蘭西劇壇の有する大劇作家として、彼の芸術が暗示する未来の路は、常に一道の光明によつて照らされてゐる。
同じく自由劇場に於てその処女作﹃フランスワアズの運﹄を上演しながら、自由劇場とその運命を倶にしないで、今日の仏国劇壇に重要な地位を占め、且つその作品は、決して時代の推移と共に価値を減ずることがあるまいと思はれる作家に、ジョルジュ・ド・ポルト・リシュがある。
彼はキュレルに比して、理想主義的傾向は薄いにも拘はらず、その作品の劇的生命は、むしろより豊富で、且つより力強いものがある。彼が写実主義者である点、その流れをアンリ・ベックに汲んでゐると云へば云へるが、彼の特質は、全然優れた心理解剖家であることである。彼は、然しながら、ベックの如く冷やかな眼で人生を視ることは出来なかつた。一面、情熱の詩人である彼は、その解剖のメスを彼自身の心臓の上に加へた。彼は作中の人物それぞれの中に、己れの希望、不安、懊悩、怨嗟、諦めを与へ、自らその人物と倶に微笑み、戦き、身を投げ出し、泣き叫び、息づまるのである。彼の感受性には多分の﹁女性らしさ﹂があり、その表現には極めて虔ましいコケットリイと、やゝ捨鉢な露骨さが入り混つてゐる。
彼は自作全体に﹁恋愛劇﹂の名を与へてゐる如く、彼の作品はことごとく赤裸々な恋愛史である。華やかにも痛ましい性的争闘の活写である。彼が描くところの男女は、ことごとく﹁性の犠牲﹂であり﹁愛の勝者被勝者﹂である。
固より、彼の恋愛観は、十九世紀末的近代主義の洗礼を受けてゐるといふ点で、一概に過去の作家とその傾向を結びつけることは許されないが、仏蘭西劇の本流を形造る心理劇、殊にラシイヌよりマリヴォオを経てミュッセに至る偉大にして光輝ある仏蘭西戯曲の伝統が、十九世紀末より二十世紀の初頭にかけて、﹃過去﹄﹃ふかなさけ﹄﹃老年の男﹄の作者、ポルト・リシュを生んだことは決して偶然ではない。
キュレルが、近代の思想劇に一つの出発点を与へたとすれば、ポルト・リシュは近代人の感受性に根ざす恋愛心理を透して、仏国劇の伝統を継承し、これを次の時代に伝へる最も眼ざましい頂点を占めてゐることになる。
殊に見逃してはならないことは、近代劇の重要な進化の一点が、劇的文体の完成、言ひ換へれば人物の心理的飛躍に伴ふ対話の暗示的表現が、ベックよりポルト・リシュに至つて殆ど写実の極致に達し得たことである。
仏蘭西の近代劇が、なるほど広大な視野、幽遠な幻覚の上に築かれなかつたことは、これを認めなければならないが、生命ある現実の正しい舞台表現が、統一の持続性と論理との極めて微妙な融合によつて、一大進化の実を挙げ得たことを否むわけには行かない。
ラシイヌによつて始められた心理解剖劇の伝統が、ポルト・リシュに至つて近代的色彩を与へられたとすれば、モリエールが開拓した伝統の一面、ヂナミスム︵動性︶を基調とする諷刺的喜劇の流れは、ジョルジュ・クウルトリイヌによつて、近代的ファルスの典型を示した。
クウルトリイヌも亦、自由劇場に於て、その傑作﹃ブウブウロシュ﹄を発表した作家である。
彼の作品は、多くは所謂﹁劇的スケッチ﹂とも称すべきもので、深刻な人生批評とまでは行かないが、犀利にして、軽妙な、性格描写の筆によつて、社会の戯画的諷刺に成功してゐる。
彼はモリエールの如く、性格的﹁型タイプ﹂を創造することはできなかつたが、現代社会を形造る階級的乃至職業的﹁型タイプ﹂を捉へて、微細な観察を下し、これを特殊な﹁境シチ遇ュエション﹂の中に投げ込んで、一種のグロテスクな、同時に涙ぐましい笑ひを引き出す手腕をもつてゐる。
彼は、仏蘭西人特有の凡ゆる感情のニュアンス、巴里生活の凡ゆる機微な問題を、そのゴオル人らしき機エス智プリと寛ジエ大ネロさジテを以て傍観し、いくらかのペシミスムと、あり余る皮肉とを、軽妙な理智の遊戯に託して、冷たい花びらの如く人の頭上に振りまくのである。
彼の作には相当﹁一夜漬け﹂が多いやうにも思はれるが、何時読んでも、何時観ても面白いものに、例の﹃ブウブウロシュ﹄それから﹃署長さんはお人好し﹄﹃我家の平和﹄﹃真面目なお華客﹄等がある。︵上記の諸作は最近に翻訳を発表する予定である︶
二、自由劇場没落後
自由劇場の運動は、たまたま自然主義的傾向の露骨さによつて、次第に人心を離反させた。
而も一方、既に、ヴェルレエヌ、ボオドレエルの名が詩壇を風靡し、象徴派の運動が漸次活気を呈し、ワグネルの演劇論が、舞台革命家の興味を惹き始めてゐた。
やがて、同語国たる隣邦白耳義に、神秘主義の大旆をかゝげて、﹃闖入者﹄の作者モオリス・マアテルランクがあらはれる。
ポオル・フォールは自由劇場に対抗して芸術座を起し、詩劇の復興を宣言して、大いにリリスムのために気を吐かうとする。︵制メエ作ゾン劇・ド場・ルウヴルの前身︶
此の機運に乗じて、一躍、劇壇の視聴を集めた作家にエドモン・ロスタンとポオル・エルヴィユウとがある。
十九世紀の黄昏より二十世紀の払暁にかけて、仏国劇壇は将に一大転機を示さうとした。
然しながら、ロスタンと云ひエルヴィユウと云ひ、実は単なる彗星的作家に過ぎなかつた。
一八九五年︵自由劇場没落の翌年︶﹃鋏やつとこ﹄を発表して、﹁問題劇﹂の復活を前提し、次で﹃炬火おくり﹄の舞台的成功によつて忽ち大劇作家の名を擅にしたエルヴィユウは、云ふまでもなくデュマ・フィスの思想的後継者であり、写実的手法より理想主義的傾向への飛躍に於て、やゝ古典悲劇作家の面影を伝へるものと云ひ得よう。
彼の取扱ふ主題は常に﹁或る問題の解決﹂である。彼の描く人物は常に﹁或る原則の傀儡﹂である。その人物の性格は飽くまでも類型的で、事件の推移は余りに機械的である。彼は法律の欠陥、道徳の矛盾、因襲の誤り、制度の不合理、人情の破綻を攻撃指摘するために、一切の要件を具備した人物と、その関係と、順序正しき事件とを想像する。舞台の上には﹁生命の連鎖﹂が無い代りに﹁論理の脅威﹂による絶え間なき感動がある。
対話は極めてぎごちない文語体で、含蓄に乏しく、しかしながら時に、単素にして厳粛な場面のトーンを作り出すことによつて、人生の瞬間的危機を、まざまざと観客の心に投映する。
彼は冷やかな弁証家であると同時に、優しい道徳家でもある。此の冷やかさによつて人を撃ち、この優しさによつて人を動かす、これが彼の戯曲の魅力と云へば云へよう。
時の右傾的批評家は声をそろへて彼の出現を謳歌した。自然主義末期の﹁卑猥劇﹂に眉を顰めつつあつた﹁真面目な観客﹂がこれに和した。︵春陽堂版拙訳﹃炬火おくり﹄参照︶
エルヴィユウは南米の領事などもした外交官である。
エルヴィユウの戯曲は、世評の高きに拘はらず、当時の文学的欲求を、殊に、﹁舞台の詩﹂を夢みつゝある一群の観客を満足せしめることはできなかつた。
一八九七年﹃炬火おくり﹄に先んずること四年、ロスタンの﹃シラノ・ド・ベルジュラック﹄が、ポルト・サン・マルタン座の舞台で、観客の熱狂的歓声裡に、空前絶後の成功を収めたことを忘れてはならない。
象徴劇の前途は、暗澹としてゐた。
パリジャニスムを背景とする軽浮な世相喜劇は、将来、二三の才能ある作家によつて、やうやく芸術的存在となり得るのであるが、一方エルヴィユウの、動もすれば道学者的な固苦しさに、何んでもいゝ、一つの息抜きを求めてゐた時代は、悲壮喜劇﹃シラノ・ド・ベルジュラック﹄の奔放自由な浪漫的舞台に眼と魂とを奪はれたのである。
所謂自然主義も、所謂象徴主義も、その本質に於て生命ある演劇の要素となり得ないといふ事実は、たまたまロスタンの戯曲に含まれる戯曲的魅力を、彼の有する浪漫主義と結びつけさせる十分の理由となつた。
彼が好んで選ぶ処の歴史的乃至夢幻的主題は、雄大にして而も破綻を示さない結コン構ポジションと、典雅にして機智に富む文体と相俟つて、殆ど常に統一と調和の美を示しつゝ、華やかに哀れ深き劇的感動を惹き起す。
彼は云ふ。﹁リリスムによつて、感激を与へ、美しさによつて、道義心を高め、魅力によつて、心を慰める演劇があつてもいい。詩人は企まずして霊の教訓を与へなければならない﹂と。
彼の戯曲が、その真価と並行して一代の成功を贏ち得た所以は、実に疲れ、倦み、悶えつゝある時代の人心に、一つの鞭撻と、慰藉と、歓喜の空想を与へ得たことである。正視するに忍びない人生の暗黒面から、眼を希望と夢の世界に転じさせたことである。
殊に、彼の傑作たる﹃シラノ・ド・ベルジュラック﹄は同時に一時代を劃する作品として、特別の注意を払ふ価値がある。
ロスタンは、此の一篇によつて、彼の芸術的天分を遺憾なく発揮したのみならず、前に述べた如く、時代人の芸術的欲求並びに国民的憧憬を十分に満足せしめた。これは、芸術上理想主義の勝利を物語り、一方演劇に対する民衆の浪漫的趣味を証するものであると云へよう。殊に彼の理想主義は人生の真理に即する古典的理想主義であり、その人物はそれぞれ特色ある﹁性格﹂によつて対立し、劇の推移は、作者の詩人的感受性によつて必然的に整理されてゐる。彼の浪漫主義は決して単なる感傷と誇張に終始してゐない。彼は千八百三十年代の浪漫主義に、千六百四十年代の浪漫主義を結びつけてゐる。ユウゴオの浪漫主義に、スカロンの道ビュ化ルレ味スクとコルネイユの英エロ雄イ主ス義ムとを結びつけてゐる。そこから仏蘭西人の伝統的な生活の色彩が反映する。勇壮にして傷み易き心、快活恬淡にして而も世を拗ね人を嘲る性格、才気と詩想に富みながら稀代の醜貌と﹁岬﹂の如き鼻――これが銃ムス士クテエルシラノ・ド・ベルジュラックの全幅である。︵春陽堂版辰野鈴木両君訳﹃シラノ・ド・ベルジュラック﹄参照︶。
ロスタンはなほ劇詩﹃シャントクレエル﹄を残して早逝したが、その模倣者らは遂に﹁明日の演劇﹂を指向する力を恵まれてゐなかつた。
此の間に、黙々として、極めてつゝましき小喜劇﹃人参色の毛﹄を書き上げ、﹁これで、芝居になつてゐるだらうか﹂とアントワアヌをその事務室に訪れた中年の作家がある。それはゴンクウル、ドオデなどを友とする、時の名小説家ジュウル・ルナアルであつた。
此の傑作は、可なりの注目を惹いた。が、誰も大きな声をして叫ばなかつた。
﹃人参色の毛﹄は、他の二作﹃別れも愉し﹄﹃日々の麺麭﹄の上演後、はじめて舞台にかけられた。彼はなほ、﹃ヴェルネ氏﹄﹃田舎の一週間﹄﹃偏屈な女﹄の諸作を残して劇作家としての仕事を終つてゐる。
彼の劇作だけを通して、芸術家としての彼を知り尽すことはできないかも知れない。
彼は、聡明な厭世家である。そして、沈黙の詩人である。その写実的手法は、古典的の単素さと、主智的浪漫主義の洒脱さとでほどよく着色され、簡潔な暗示によつて、繊細な心理的陰ニュ影アンスを捉へながら、自然に流露する微笑ましい機智を透して、しめやかな詩的感動を与へるのである。
彼の対話には特殊な韻律がある。その韻律は、戯曲の本質としてユニックな魅力を具へてゐるのみならず、含蓄と余韻に富む言葉言葉は、現実のイメージを無限に拡大して、幽玄なリリスムの香りを伝へ、語らざる人生の相を凝視する作者の眼から、その禁慾主義的な吐息の陰に、深く沈んだ光を投げかけさせてゐる。︵春陽堂版拙訳﹃別れも愉し﹄﹃日々の麺麭﹄とその序参照︶
ルナアルの歿後十五年、今日の若き劇作家、その多くは一度、此の寡黙な先輩に耳を傾けたやうに思はれる。
彼の声は、殆ど聴き取り難いまでに低い。しかし、彼の静かに視開かれた眼は、遥かに何ものかを見定めてゐることがわかる。
此の時代に輩出した一群の劇作家中、今日までその名声を保ち続け、現代仏国劇壇の中堅作家――或は大家の列に加へられてゐるものは可なり多い。
パリジャニスムとは即ち巴里人気質である。サロンとキャバレ︵酒場︶の空気である。機智と感傷と、気まぐれと婉曲さとは、雑誌﹃巴里生活﹄の主調である。
所謂自然主義運動に走らず、所謂象徴主義の迷路に踏み入る勇気を持ち合せない一種の芸術的ボヘミヤンは、当時巴里の中心に発生しつゝあつた﹁芸術的酒場﹂︵キャバレ・アルチスチック︶の一に集つて、盛んに芸術を論じ、杯を傾け、盛んに唄ひ盛んに感激した。その集団の一つに文学者、美術家、音楽家よりなる﹁影絵の会﹂があり、彼等はこれを﹁黒猫座﹂と命名したのである。
此の黒猫座と雑誌﹃巴里生活﹄の合体から生れた一つの芸術上乃至生活上の虚無主義、楽天的虚無主義、これが文学の方面に於て次第に趣味的の洗煉を経、極めて都会的な、通人的な内容と表現様式を生み出し、そこから、戯曲の方では二十世紀初葉より今日まで、兎も角も世俗的勢力を保持しつゝある世相喜劇の、屈託なき、時としては安価な人生観を作り出すのである。
劇作家としてのモオリス・ドネエは﹃情人﹄一篇によつて早くもパリジャニスムを代表する作家となつた。彼の才気はその美貌と相俟つて、巴里社交界の人気を一身に集めてゐると云へば足りる。
﹃プリオラ侯爵﹄﹃決闘﹄等の作者、アンリ・ラヴダンは、ドネエほどのすつきりした才気はないが、一種の﹁道楽者﹂を描くに非凡な筆を持つてゐる。たまたま社会問題に触れても、﹁お芝居﹂の面白さ以上のものを与へ得ない。
が、此の二作家は、単独に批評される場合には、もう少し褒められてもいゝ作家であらう。
ジャン・リシュパンは、比較的早く世に出で、而も﹃無頼漢の群﹄を公にするまで、単なる﹁韻文劇の継続者﹂と見做されてゐた。此の代表作を以て、彼は始めて、近代生活の詩的表現に成功したが、そこには、心理的興味も思想的魅力もなく、たゞ、美しき詩句に彩られた絵画的場面があるばかりである。
新浪漫派人情劇の作者として、一時、ブウルジュワ階級の甘美趣味に投じたアンリ・バタイユは﹃ママン・コリブリ﹄の一作を以て、当時世論を沸かしつゝあつた自由恋愛の悲劇的顛末を物語らうとした。
彼は前に云つた如く、飽くまでも人情劇作家である。客間の心理解剖家であると同時に寝室の詩人である。ポルト・リシュの鋭利さはないが、その観察には常に﹁青春の焔﹂が燃えてゐる。そして﹁恋の闇路を踏み迷ふ……﹂と云つた調子の狂乱の場や、﹁散り失せしこそ哀れなれ﹂式の愁嘆場を通じて、勿論、これほどまでゝはないが、可なりの通俗味がある。然し面白い。彼は凡庸作家ではない。それどころか、稀に見る劇的才能の所有者である。
彼は、その他﹃結婚の曲﹄﹃裸体の女﹄﹃狂へる処女﹄などを残して早く世を去つた。
﹁動き﹂と﹁力﹂一点張りの悲劇作者アンリ・ベルンスタインはバタイユと対立して、ブウルヴァアルの舞台に活動してゐた人気作者である。猶太人特有の粘り強さが劇の構成に不可思議な牽引力を与へ、詩と感ファ興ンテジイとを離れて、急転する事件そのものゝ渦中に観客の魂を引き摺り込む。ヂレンマよりヂレンマへ、彼の戯曲は忠実な獄吏の如く、一時も心の声に耳を傾けない。そこに運命の暗示がある。希臘悲劇の美が潜んでゐると云へば云へよう。﹃突風﹄﹃盗人﹄﹃イスラエル﹄等の外、彼は最近、﹃氷宮﹄なる象徴的作品によつて新方面を開拓したと伝へられる。
写実主義の手堅さに一脈の情味を湛へて、バルザック流の人物描写に成功したオクタアヴ・ミルボオは、﹃事業は事業﹄の一作によつて劇作家としての名を成した。
劇評家として独自の地歩を占め、印象批評の輝やかしき筆を揮ひつゝあつたジュウル・ルメエトルは、﹃女弟子﹄﹃赦免﹄等の心理喜劇に、繊細な観察と潤ひある機智を盛り、﹁劇作にかけても人後に落ちない﹂器量を示したが、﹁あまりに洗練された趣味﹂が災ひをなして、﹁力﹂ある作品を創造することができなかった。
まだ名を挙げられる作家は相当にあるが、この時代を代表するものとしては、先づこれくらゐにして置かう。たゞヴォードヴィルではあるが、﹃自由の重荷﹄﹃村で一人の盗賊﹄﹃英語を話せばこれくらゐ﹄などのユウモアに富む作品によつて、殊にその小説の極めて洒脱滑稽なる諷刺によつて、現代仏国文壇に於ける特殊な地位を占めてゐるトリスタン・ベルナアルの名を附け加へてもよからう。
三、一九一〇年前後
一九〇六年にポオル・クロオデルの﹃正午の分配﹄が発表せられ、同一〇年にはサン・ジョルジュ・ド・ブウエリエの﹃子供の謝肉祭﹄が上演され、一三年にはジュウル・ロマンの﹃都市占領軍﹄が舞台にかけられた。
此の期間に於て、仏国劇の先駆的傾向は、正に著しい特色を示すに至つた。
勿論、劇壇の本流は、なほ写実的心理劇の注目すべき作品を生みつゝあつた。たゞ当時の新進作家らは、多く、分析より綜合へ、客観より主観へ、局部より全体へ、外部から内部へ、故意より無意識へと表現の対象を求め、﹁物語る﹂かはりに、﹁指し示す﹂こと、﹁暴露する﹂かはりに、﹁感じさせる﹂ことを、最も好ましき表現手段として選ぶやうになつた。
ポオル・クロオデルは、必ずしも、此の傾向を代表する作家ではない。彼は何よりも宗教的詩人である。彼の作品には﹁諷刺的神秘劇﹂の名が冠せられると同時に、また﹁象徴的社会劇﹂の名でこれを呼ぶことも許されるであらう。彼の魂は、加特力的信仰から生れる特殊的な理想に燃え、その体験には常人の窺ひうることが出来ない半面があるやうに思はれるが、最も傑れた詩人に賦与される調和と生気に満ちた想像力が、企まずして香り高き文体と相俟つて彼の作品に﹁偉大なる真理の閃き﹂を与へてゐる。
反ブウルジュワジイの思想、正義と寛大の信念が、その作の根柢を成してゐるところに、社会劇的の主張が潜んでゐるにはゐるが、その人物の飽くまでも﹁人間らしき生き方﹂に於て、彼の戯曲は、驚くべき熱と力とを感じさせる。
彼の劇作は、舞台的には、未だ満足な成功を示してはゐないが、彼が劇作家として本質的な天分を持つてゐることを疑ひ得ない以上、その作品の完全な演出は、未来の俳優を以てする未来の舞台を俟つより外はあるまい。彼は、今日まで既に前掲﹃正午の分配﹄の外、﹃マリイへの御告﹄﹃固き麺麭﹄﹃人質﹄等の名作を発表してゐる。﹃人質﹄の如きは、一九一三年オデオン座で上演された時、一般観衆にさへ大きな感動を与へ、連日満員の盛況を呈し、批評家をして意外の眼を見張らしめたと伝へられる。が、クロオデルは、自作の上演が、如何なる結果を生むかを知つてゐる。﹃正午の分配﹄は、まだ何処の舞台でも公演を許可しないことにしてゐる。
クロオデルが、或る意味に於て、﹁明日の戯曲﹂を導く作家であるとすれば、エドモン・セエは、この時代に於ける最も聡明にして魅力に富む仏蘭西劇伝統の継承者であらう。
エドモン・セエには、ポルト・リシュ程の鋭さはないが、ルメエトルの繊細さがあり、加ふるにルナアルの確かさがある。
彼は﹃羊﹄﹃麺麭のかけら﹄﹃若き日の友﹄等を発表して、近代人の心理を描くことに成功した。そして、その自然主義的手法は、洗練された趣味と気品に富む文体によつて、古典的な完成味を示した。殊に、その傑作たる性格喜劇﹃うつけ者﹄に於て、最も自由にその才能を発揮した。彼は、早くも劇作の筆を絶つて、専ら劇評に力を注いだが、最近また﹃秘密を託された女﹄を発表し、作家としての復活を企図した。然し、そこには、もう昔日の魅力を偲ばせる何ものもないやうである。
一九一〇年、第三次美術座を起して、舞台装飾に新機軸を示さうとしたルウシェは、先づサン・ジョルジュ・ド・ブウエリエの﹃子供の謝肉祭﹄を選んで、その装飾を画家ドトオマに委託した。
此の演出は、実際、劃時代的成功を収めた。ブウエリエは自然主義の病根を﹁自然の模倣﹂に在りとして、ナチュラリスムに対して自らナチュリスムを唱道し、﹁自然の魂﹂を捉へる暗示的手法を採用した。それは、今日の﹁超写実主義﹂の先駆をなしたものと認められてゐるが、﹃子供の謝肉祭﹄には、まだ自然主義そのものから区別される著しい特色は見えないやうである。たゞ、狂燥と愁訴の雰囲気につゝまれた愛慾の世界、道化た仮面の下を流れるほろ苦がい涙の味が、独特なリリスムとなつて一つの傑れた近代悲劇を形造る。そこに、在来の写実劇には見られない﹁感情の昂揚﹂がある。彼の思想には、往々かの単純主義者に見るぎごちなさがあり、その技巧には、直接ソフォクレス乃至シェクスピイヤを模倣した点があるやうに思はれるが、彼の作品は、上記﹃子供の謝肉祭﹄以後、﹃女の一生﹄﹃奴隷﹄﹃テエブ王エヂポス﹄﹃トリスタン・イゾルド物語﹄に至るまで、全体として、直截な心理描写と、超自然に対する一種信仰に似た力の肉迫によつて、極めて感動に満ちた劇的効果を挙げてゐる。
科学者にして哲学者を兼ね、﹁網膜に依らざる視覚﹂の生理的発見によつて学界を驚かした詩人ジュウル・ロマンは所謂﹁ユナニスム﹂の唱道者である。大戦前、戯曲﹁都市占領軍﹂を発表して劇作家としての第一歩を踏み出した。﹁ユナニスム﹂に関する詳論は此処でする暇はないが、要するに、群集の心理活動、共同意志の世界を対象とする一種の芸術的立場を指すので、処女作﹃都市占領軍﹄は戯曲として欠点の多いものであるが、戦後ヴィユウ・コロンビエ座で上演した﹃クロムデイル・ヴィエイユ村﹄は、多くの批評家によつて殆ど黙殺されたにも拘はらず、演出者ジャック・コポオは、これを以て偉大な劃期的作品が屡々遭遇する運命なりとした。その後﹃放蕩の虜になつたツルアデック氏﹄及び﹃クノック﹄﹃ツルアデック氏の結婚﹄の三作は、軽妙なファンテジイと辛辣な諷刺によつて、作者の多面な才能を示すものとして劇壇の注目を惹いた。
彼は、ヴィユウ・コロンビエ座附属演劇学校長として、詩学の講座を担任し、なほ演劇に関する公開講演を行つてゐる。
驚嘆すべき幻想の詩人、透徹した人生の批判者ジョルジュ・デュアメルは、﹃戦ひ﹄﹃彫像の影に﹄の二作を以て、クロオデル流の象徴的社会劇を試み、光輝ある未来を期待させ、大戦後﹃闘士社﹄﹃ラポアントとロピトオ﹄の二作を発表したが、予期の進境を示さないのみか、却つて前二作、殊にその小説に見るが如き思想の清澄さを欠き、僅かに天才的感性がその片影を留めてゐるに過ぎない。
かゝる時、直接イプセンの影響を受けた﹁論議する芝居﹂の輝やかしい幕が、マリイ・ルネルウなる一女性作家の手によつて閉ぢられたことを特筆しなければならない。﹃解放されたもの﹄はブリュウの社会劇を足下に見下してゐる。
欧洲大戦直前の仏国劇壇は、前に述べた如く、兎も角も、或る方向に大きく動いて行くやうに思へた。然し、如何なる時代に於ても﹁新しきもの﹂が生れ出ようとする時には、常に大きな障碍が控へてゐる。それは既成の地盤である。
第二の自由劇場、第二のアントワアヌが現はれて来なければならない。
﹃仏蘭西新評論﹄社同人中に、演劇学者として、また評論家として、当時さゝやかな存在を認められてゐたジャック・コポオが、同人等の後援を得て、ヴィユウ・コロンビエ座を創立したのが一九一四年である。演劇の本質は、古来の劇的天才が、その不朽の作品中に遺憾なくこれを盛つてゐる。吾々は、その本質を探究吟味して、これを完全に舞台の上に活かし、凡ゆる不純な分子を斥けて、演劇の光輝と偉大さとを真に発揮せしめようといふのが、コポオの主旨である。新奇を衒ふ似而非芸術家と、因襲を墨守する官学的芸術家への挑戦である。
ヴィユウ・コロンビエ座は、そこから﹁無名作家を世に出す﹂ことを誇る前に、明日の作家をして、演劇の本質を体得せしめ、彼等をして、﹁永遠に新なる﹂作品を創造せしめようとする。
此の運動は、欧洲大戦のために、一時阻止されてゐた。
四、欧洲大戦後
欧洲大戦は、あらゆるものを覆へした。死の影が仏蘭西全土を包んだ。奪ひ取つたものゝ狂喜と取り残されたものゝ悲嘆が巴里の街頭に交錯した。婦人が経済的に独立し始めた。中産階級が姿を消した。神を信じてゐたものが神を呪つた。神を嘲つてゐたものが神の前に拝跪した。眼を﹁自己﹂の上から﹁民族﹂の上に転じた。その眼を、更に、﹁自己﹂の上に投げた。
その渦中から、小説では、バルビュスの﹃砲火﹄デュアメルの﹃殉教者の生涯﹄が生れたに拘はらず、劇作の方面では、殆ど見るべきものがない。
たゞ一九一六年、史詩的象徴劇﹃鷺の群とフィネット﹄によつて民族的感情の渦巻を高雅な韻律に託し、﹃王女﹄﹃薔薇色の頬をもてる少女﹄﹃慈愛の聖母﹄等の諸作によつて、愛国的熱情を歌つた詩人フランスワ・ポルシェは、保守的な国立劇場の観客を魅し去ることに成功した。戦後の巴里、国家主義の残骸と超国境主義の萌芽、酔ひつぶれたスモオキングと厚化粧の喪服、ヂャヅバンドとラヂオコンセエル、この生活の色調を写して、﹁泣くな、笑へ﹂と教へるアルフレッド・サヴワアルの虚無的デカダニスムは、やゝ時代的特色を伝へたものと云へやう。
﹃パストゥール﹄の一作によつて、﹁真面目な劇﹂を試みはしたが、そして、名優を父に有つ果報を実証はしたが、生来の駄々ツ子サシャ・ギイトリイは、やはり﹁きはどい洒落﹂と﹁おどけた感傷﹂の作家である。
﹃ナポレオン式の男﹄や﹃ジャックリイヌ﹄や、これらの世相喜劇は、正に﹁愛すべき欠点﹂をもつ現代巴里人の、涙と笑ひの一幕である。
ポオル・ジェラルヂイも亦、戦後仏蘭西が生んだ有数の劇作家であるが、今日まで発表せられた諸作﹃銀婚式﹄﹃愛すること﹄及び﹃大きな息子﹄を通じては、戦争が彼に何ものを与へたかは、明かにこれを知ることが出来ない。
彼はポルト・リシュ乃至エドモン・セエの流れを汲む写実的心理劇作者であるが、朗らかなセンチメンタリズムに純真な詩的情味を湛へ、社交的趣味に投ずる優雅さによつて、機智の鋭鋒を包む術を心得てゐる。モオリス・ドネエの後継者として、サロンの人気を集めてゐる所以である。
一九〇九年﹃憑かれたもの﹄を公にしながら殆ど世人の注目を惹かなかつたアンリ・ルネ・ルノルマンは、﹃灼土﹄﹃砂塵﹄の二作によつて一部の批評家から認められだした。然し彼が先駆劇壇の陣頭に勇ましく乗り出したのは、戦後名舞台監督ジョルジュ・ピトエフの手によつて、﹃時は夢なり﹄及び﹃落伍者の群﹄が上演されて以来である。
その後、相次いで﹃熱風﹄﹃夢を啖ふもの﹄﹃赤牙山﹄﹃男とその幻﹄﹃悪の影﹄を公にして、一歩一歩、潜在意識の神秘境に分け入つた。
彼の新科学に対する好奇心は、異国情調の趣味と並んで、その作品を特色づけてはゐるが、何よりも彼を優れた劇作家としてゐるものは、病的とも思はれるほど鋭い感受性の気まぐれな微動が、瞑想の暗い影を伝つて、底力のある心理的旋律を奏してゐることである。
作劇のテクニックから云へば、目まぐるしい新旧の交錯である。思索と空想、解剖と暗示、ファンテジイとリリスム、苦悶の告白と理智の裁断、そこにはシェクスピイヤとミュッセとマアテルランクとドストイエフスキイとベルグソンとが入り乱れ、融け合つてゐる。
彼の取扱ふ主題は、前に述べた如く、主として潜在意識の問題である。﹁第二の魂の盲動﹂である。時にはアインシュタインの﹁相対性原理﹂が基礎となり、時にはフロイドの﹁精神分析﹂が根柢となつてゐる。
但し彼は多くの場合、その作中の人物を単に思想の傀儡にして了はない手腕を有つてゐる。それどころか、彼の芸術の力強さは、寧ろそれぞれの人物が、考へる以上に感じてゐることである。思想劇の到達すべき頂点であらう。︵春陽堂版拙訳ルノルマン作﹃時は夢なり﹄及び﹃落伍者の群﹄参照︶
フェルナン・クロムランクの名は、制作劇場が始めて﹃堂々と妻を寝取られる男﹄を上演して以来、頓に戦後の劇壇を賑はせた。
此のファルスは、恐らく、現代仏蘭西が生んだ最も独創と魅力に富む作品の一つであらう。若く美しく、従順にして快活な妻、傲慢で粗野でお人好しの夫、此の二つの性格が、世にも稀なるシチュエーションを生み、大胆極まる事件の推移と、興味深き心理の回転が、嫉妬の焔を戯画化して抱腹絶倒の場面を現出するのである。しかも、作全体を流れる詩は、憂鬱にして神秘、フラマンの海と森とを包む、たそがれの唄である。
彼は、その前に﹃面師﹄及び﹃初々しき恋人﹄の二作を発表してゐる。﹃初々しき恋人﹄は、ミュッセの浪漫主義とマアテルランクの神秘感とを織り交ぜたドラマであるが、その瞑想には、やゝ病的な主観が附き纏ひ、仏蘭西人の趣味には容れられないものがあるらしい。
﹃張子の王冠﹄及び﹃影を釣るもの﹄によつて、若く名を成したジャン・サルマンは、制作劇場の俳優として舞台に立つ傍ら、劇作の筆を執りはじめたのである。彼も亦、シェクスピイヤ、ミュッセ、マアテルランクの影響を多分に受けてゐる作家である。殊に、何よりも先づ浪漫主義者である彼は、近代青年の懐疑思想を、バイロンの詩に託さうとした。それはハムレットの捨白、ファンタジオの独白に似て、しかもなほ一層虚無的な心境の告白である。眼まぐるしき感情の飛躍と、未知の世界を凝視する静かな理智の閃きと、そこから、或る独特な心理的リズムを醸し出すところに彼の劇的天分がある。
彼はその後、制作劇場を脱退して、自作﹃ハムレットの結婚﹄をオデオン座で上演した。間もなく﹃予のために予は余りに偉大なり﹄は、コメディー・フランセエズの舞台にかけられ、新進作家として稀有の待遇を受けた。一作ごとに露はになりつゝある作者の驕慢な主観が、芸術家としての、彼の前途を気遣はせはするが、それが若し、若き天才の自己陶酔であるとすれば、むしろ、将来の成熟を刮目して待つべきであらう。
ヴィユウ・コロンビエ座は、戦後事業の基礎を確立して、着々、理想の実現に向つて進んだが、その間に、幾人かの新作家を紹介した。そのうちで、特に注目すべきはシャルル・ヴィルドラックであらう。彼は中年を越えた詩人である。そして、その劇作は、最も正しき意味に於ける自然主義的作品である。﹃郵船テナシチイ号﹄﹃巡礼﹄﹃欠けた人間﹄﹃ミシェル・オークレエル﹄これらの作を通じて見たるヴィルドラックは、その厳密な写実的手法を裏附けるに、かの詩人のみが善く為し得るところの﹁魂の直感﹂を以てした。かすかにその片鱗を見せてゐる左傾的な批評精神は、つゝましい愛によつて潤ひ、何人の心をも和げずには措かない。彼は、最も真面目な意味に於ける最も真面目な作家である。その真面目さは、﹁学校に行くことの好きな模範学生﹂のそれではなく、﹁学校に行くことは嫌ひであるが、学校から帰つて来て母親の笑顔を見るのがうれしくてたまらない小学生﹂の真面目さであると、或る批評家は云つてゐる。彼は写実主義が生んだ唯一の理想主義者であり、その作品は、自然主義の筆を以て描かれた人生の最初の﹁美しき半面﹂であらう。
同じくヴィユウ・コロンビエ座で二三の作品を上演し、辛辣な喜劇作者として名を知られるに至つたルネ・バンジャマンは徹頭徹尾、容赦なき皮肉と端倪すべからざるファンテジイの両刀使ひである。その機智には﹁うま味﹂がない代りに﹁ひがらさ﹂がある。﹃片眼の鵲﹄が傑作であらう。
大戦後、ヴィユウ・コロンビエ座の復活に次いで、巴里には新劇団が続出した。デュランの率ゐるアトリエ座、バチイの率ゐるラ・シメエル座、此の二つはピトエフ一座と共に、戦後の巴里を彩る先駆劇団の代表的なものである。
デュランはヴィユウ・コロンビエ座にゐたことのある俳優である。コポオが、動もすれば、仏蘭西趣味に執し過ぎるに反し、デュランは却つて伊太利、殊に西班牙的色彩に傾かうとしてゐる。カルデロン、グラウ、ピランデルロなどを好んで上演する所以である。此の一座から、最近、仏国作家として、マルセル・アシャアルを生んだ。﹃あたいと一緒に遊ばない﹄の一作は、此の少壮作家の卓抜なる喜劇的才能を認めさせた。
バチイは、仏国では他に類のない純粋の舞台監督である。それだけ、彼の演劇論には、北欧演劇学者の影響があるが、彼は何よりも、無名作家の発見に努力し、新作の上演を唯一の看板としてゐるだけに、どこか新劇運動者らしい溌溂味がある。此の一座から世に出で、大なる未来を嘱望されてゐる作家に、ジャン・ジャック・ベルナアルがある。父トリスタンの血を享けてゐるにも拘はらず、彼は、グロテスクな喜劇に向はずして、静かな情緒劇に筆を染めた。﹃マルチイヌ﹄﹃二度燃え上らない火﹄﹃旅の誘ひ﹄等に於て、あくまでも、蕭やかな魂の囁きに耳を傾けた。﹁音もなく咲いて音もなく凋む一輪の花の命を、或る限られた時間に観察することが出来るとしたら、それは恐らく、彼の戯曲を観ることになるであらう﹂といふ批評は、蓋し、繊細な暗示に富む心理描写の清澄な詩的表現を云ひ尽してゐるやうに思はれる。
その他、戦後の巴里劇壇が生んだ新進作家中、ドゥニ・アミエルとオベイ︵﹃にこにこしたブウテ夫人﹄︶、ブウサック・ド・サン・マルク︵﹃ギュビオの狼﹄︶、フォーレ・フレミエ︵﹃混乱の吐息﹄︶、マルシアル・ピエショオ︵﹃パスカル嬢﹄︶、レイナアル︵﹃心の主﹄﹃凱旋門下の墳墓﹄︶、クロオド・アネ︵﹃ブウラ嬢﹄︶、アンリ・ゲオン︵﹃階下の貧者﹄︶、アンドレ・ジイド︵﹃サユル王﹄︶等は、それぞれ興味ある作品を発表して新しい問題を提供した。
度々引合ひに出たヴィユウ・コロンビエ座の首脳ジャック・コポオも、最近、﹃生れ家﹄といふ処女劇作を発表して、批評家をアツと云はせた。それは、スカンヂナヴィヤの肉に仏蘭西のソオスを掛け、フラマンの胡椒を振つたやうなものである。イプセンドベリイコポオランクである。しかし、流石に一世の舞台芸術家である。家族制度の悲劇を主題として陳套に陥らず、各人物の性格的対立も、極めて鮮やかな表現に達し、その結構の手堅さ、わけても彼独特とも思はれる微妙な対話のリズムが、此の戯曲をして、傑作の名を擅にさせる所以であらう。兎も角も、此の一作は最近の仏国劇壇に大なるセンセエションを起したのみならず、コポオの名をして、益々光輝あるものとした。
ダダの詩人ジャン・コクトオが﹃エッフェル塔上の結婚﹄を発表し、未来派の作家ジイル・ガリイヌが﹃春の日のどよめき﹄を、ララ夫人の組織する﹃芸術と活動﹄社の試演舞台に上せたことも附記して置かう。ララ夫人の主張に関しては、本講話﹃演劇論﹄中で略説して置いた。
勿論、まだ名を挙げれば挙げられる作家が可なりある。アカデミイ会員になつて、劇壇に重きをなしてゐる老大家の名さへ、わざわざ挙げなかつたのもある。︵エミイル・ファーブル、ロベエル・ド・フレエル等︶新進作家のうちでも、その才能に於て上述諸作家と比肩し得るものが、随分あるにはある。が、かういふ紹介の常として、幾分傾向批評が主になるのであるから、例へば、小説家として名声ある作家が、偶々脚本を書き、それが、戯曲としてさしたる特色もなく、その作家の芸術的才能に新しい一面を附加するといふやうなものでない時には、その作家は、こゝで問題にする必要はないと思つたのである。例へば、ロマン・ロオランやブウルジェの戯曲は、共に、われわれに取つて興味はないものである。それよりもアナトオル・フランスの小喜劇﹃クランクビル﹄には、まだ独創的な魅力がある。
劇作家としてならば、アンドレ・シュワレスよりもまだしもエミイル・マゾオを挙げ、モオリス・バレスよりもマルタン・デュ・ガアルを挙げるのが至当であらう。
扨て、仏蘭西の現代劇を通じて、﹁昨日の演劇﹂の余映と、﹁明日の演劇﹂の曙光とを、はつきり見分けることが出来るとすれば、前者は、観察と解剖の上に立つ写実的心理劇、並びに論議と思索とを基調とする問題劇であり、後者は、直感と感情昂揚、綜合と暗示に根ざす象徴的心理劇乃至諷刺劇であらう。
此の二つの流れは、それぞれ出発点を異にしてゐることは云ふまでもないが、前者が後者の上に、何等、好ましい影響を与へてゐないといふ見方は誤りである。いろいろの意味に於て、今日の演劇は、写実よりの離脱に向ひつゝあると同時に、新しき象徴手法の舞台的完成時代であると云へるが、演劇に於ける写実主義の根柢は、それほど、薄弱なものではない。実人生の相すがたが一つの舞台的表現によつて、美しい真理の光を放つ時、そこには、現実の正視による活きた観察が動いてゐなければならない。想像も誇張も、それから上のことである。
現代の仏蘭西劇は、ベックによつて先づ正しい現実の視方を教へられた。所謂、写実の境界に慊らない作家は、なるほど、シェクスピイヤに走り、ミュッセに走りマアテルランクに走り、希臘に走り、中世に走り、更に様々な近代主義に走りはしたが、そして、仏蘭西現代劇は、文学的流派を超越して、殆ど無政府状態を現出しはしたが、なほ且つ、今日の仏蘭西劇、その本流を形造るものは、その手法の如何に拘はらず、﹁人間の魂の一層深き探究﹂である。
クロオデルとルノルマンとヴィルドラックとが、倶に先駆劇壇の舞台を闊歩する所以である。
こゝまで書いて来て、何んだか物足らない気がする。いろんなことを云はうとして、どれも満足に云へなかつたやうな気がする。こんなことなら、始めから作品本位の紹介に留めて置いた方がよかつたかも知れない。が、一体、文学史的に見れば、現代はまだ未知数なのである。世評や独断に従つて論議を立てることは慎みたい。
と云つて、公平な観方は、今から三十年、五十年後でなければ出来るものではない。
ついては、読者諸君は、此の紹介を読まれるに先立つて、前掲の﹃演劇一般講話﹄を一読された上、紹介者の立場を明かにして置いて、本文中の各作家に対する批評を味はつて頂きたい。さうしてからこんどは、更に詳しい研究にはひつて頂きたい。
﹃現代仏蘭西の劇作家﹄――この標題は、寧ろ、﹃現代仏蘭西戯曲壇の瞥見﹄とでもした方が適当であつたらう。