写実主義者たるべく余りに詩人であり、浪漫主義者たるべく余りに哲学者である芸術家――その一部は、彼らが若し自己の生活を肯定するならば、恐らくファンテジストたる路を撰ぶであらう。
ファンテジイは想像を緯とし観察を経とする芸術的手法の一である。
作者の感興を以て現実を程よく着色することである。
非論理的事相に感覚的実在性を与へることである。
必然を無視することによつて、新しき生命の躍動を感ぜしむることである。
ファンテジイは常に﹁明るき懐疑﹂の娘である。
﹁明るき懐疑﹂は﹁朗かな理知﹂を母とする。
﹁朗かな理知﹂は、オプチミストの涙よりもペスミストの微笑を愛したであらう。
ファンテジイは必ずしも詩と一致しない。
然しながら、多くの場合、作中人物の感情昂揚と相俟つて、作品に一脈の叙情味を与へる。
ファンテジイは必ずしも喜劇的ではない、然しながら、多くの場合、作中人物の性格的不具乃至心理的メカニスムと結びついて、作品に一味の滑稽感を与へる。
ファンテジイが単なる空想と異る所以は、作者の眼が常に﹁夢﹂から醒めてゐることである。
カリカチュウルは客観の主観化︵若し此の言葉が許されるならば︶である。カリカチュリストは﹁現実﹂を信じてゐる。少くとも﹁現実﹂の観察を主眼とする。その微笑は﹁信ずるものゝ微笑﹂である。
ファンテジイは、主観の客観化であり、ファンテジストは﹁現実﹂を疑つてゐる。少くとも﹁想像の遊戯﹂を忘れない。その微笑は、故に﹁信じないものゝ微笑﹂である。
年少にしてファンテジイを解するものは稀である。
多くの天才は、屡々初老に至つて最も優れたファンテジイの駆使者となつた。シェイクスピイヤ、モリエール、ゲエテ、ユゴオ、みな然りである。
ミュツセとイプセンとロスタンは、壮年にして既に鮮かなるファンテジストであつた。
ファンテジイは近代日本文学に最も欠けたるものゝ一つである。