先日、仁寿講堂で観たこの新劇団の仕事は、予て聞いてゐた通り、八分賛成でき、二分危険を感じさせるものだ。 賛成ができる点といへば、みな熱心で、素質の優れた人が少くなく、芝居を﹁面白く﹂しようと努めてゐることがわかり、翻訳の吟味も相当に行届き、言葉のニュアンスを尊重する風が見え、ファンテジイを愛し、深刻癖に陥らず、上品な朗らかさを楽しんでゐることなどである。 ところで、危険がもう既にそのなかにあるのだ。 第一に、﹁アメデと靴磨台上の諸君﹂は、諸君のおやりになるものではない。これは、若い俳優のみが、若い見物に見せる芝居ではないのだ。これは、芝居を﹁面白く﹂見せようとするこの劇団の精神に反するので、さういふ点に、賢明な諸君は気づかれてもいい筈だ。諸君が戯曲を読んで直接感じられる﹁面白さ﹂と、諸君が舞台の上でみせ得る﹁面白さ﹂との間には、まだ時とすると大きな距りがあること、その距りをなるべくはつきりつかんで、無駄をしないといふことは、諸君の演技熟達に欠くべからざる注意である。 第二に、﹁英語の先生﹂だが、この脚本を選択した理由は、実際どこにあるかしらぬが、この劇団のレペルトワルからいつて、必ずしも想像できなくはない。元来、この種の喜劇は、仏蘭西でなら、商業劇場の出し物として通用する程度のものだけれど、日本の現状から見れば、これを﹁新劇﹂の劇団が上演して一向差支ないと思ふ。つまり、俳優はそこから多くのものを学び、観客はそこから﹁新しい﹂魅力を味ひ得るからである。そればかりではない。日本の劇団は、今まで西洋劇の影響を可なり受けたとはいへ、それは畢竟﹁文学的﹂な影響に止り、﹁舞台的﹂殊に﹁演技的﹂影響は、殆んど受けてゐないのだ。その原因は、かういふ﹁芝居らしい芝居﹂の移植が、全然顧みられなかつたせゐと、それを演じてみようといふ俳優がゐなかつたからである。その点、この劇団は、さすがに屈托のない元気さで、この﹁通俗喜劇﹂を上演し、しかも立派に﹁新劇的効果﹂を挙げ得たことは、私はじめ、大に意を強くする次第だが、さて、これを演じる俳優諸君が、以上の見地から離れ、多少、﹁いい気になつて﹂この脚本の調子に曳きずられて行つたら、将来、大事を成すことは覚束ないと思ふ。そして、その心配が全然なくもなかつたことを、私は敢て、直言するのである。︵一九三二・三︶