今度明治大学の文科に文芸科といふのができ、一般文芸に関する教育、殊に、創作方面に於ける実際的指導をさへすることになり、私も亦、戯曲講座の一部を受持つことになつた。 自分の専門とはいひながら、﹁戯曲を書く﹂といふことについて、私自身、誰に習つた覚えもなく、従つて、その﹁コツ法﹂を人に伝へることなど、まつたく思ひもよらぬことなのだが、今仮に、﹁戯曲並に戯曲創作について、知り又は感ずることを述べよ﹂といふ註文なら、それはできなくはないと思ふ。 私は、この機会に、自分の戯曲論を整理し、系統づけ、なし得れば、予てはつきりさせてみたいと思つてゐた戯曲家のmtier と art 即ち、技術と芸術の区別、更に、戯曲制作の過程を習慣づける作家の稟質とその法則、戯曲の伝統的分類と新しいジャンルの決定など、触れてみたい問題は沢山あるのである。 そして、次に、劇芸術家の素質又は天分の成長に欠くべからざる﹁劇的感覚の訓練﹂を、あらゆる方面からの試みをやつてみたいのである。これは主として、感受性の発展に重心をおき、観察と想像の両面から、現実への興味のもち方と、舞台的幻イメ象エジの描き方を体得させるもので、戯曲の主題、結構、文体を通じて、この感覚の有無強弱が、決定的にその価値を支配するものだからである。 その試みは、具体案として、様々な方法が考へられるが、最も有効な一つは、いふまでもなく、名優の演技に接しるといふことである。これから新しい戯曲を書かうとする人々は、この意味で、日本に生れたことは不幸である。が、そんなことを云つてゐても仕方がないから、それに代る方法を選ばなくてはならない。私は、目下、それについて研究中である。 実際をいふと、人に戯曲の書き方を教へる暇に、自分でいいものを書く方がほんたうかもしれない。殊に、労多くして効すくなしといふ不安が、固よりなくはないが、今日の如く戯曲不振の時代に於て、一人でもそれに志すものがあれば、みんなでその芽を育てて行く義務があると思ふのである。︵一九三二・五︶