日本人のすべてが、いま無意識にもとめてゐるものがある。いろいろな方面にそれがある。例へば小説にしても、今までのどんなものよりも身近な、それでゐて、おほらかなものを、それとははつきり言へないけれども、みんな心のなかで探してゐるやうに思ふ。 作家はむろんそれに気づいてゐる。しかし、書くといふことはひとつの習慣であるから、思ひきつて自分の殻を破らなければ、新しい方向に進むことはできない。準備はもうできてゐる。機会が与へられゝばいゝのである。 たまたま、私が翼賛会文化部の仕事をしてゐる関係で、今度陣容を建て直した翼賛出版協会から﹁健全で面白い小説﹂の出版について企画の相談をうけた。 私の頭には、すぐ数名の中堅作家の名が浮び、その才能、思想、気魄の点で、私の考へてゐる﹁日本人全体を対象とするやうな小説﹂の執筆の依頼をしたらといふ事が即座に決定したのである。 同僚の上泉君とも人選について慎重に打合せをした。 みんな快く引受けてくださつた。 国民文学といふやうな名称をわざわざつけなくてもいゝ。つまり、ある一定の読者――知識層とか大衆とか、或はまた文学に縁のあるものとか、忙しくて時間がないものとか、婦人とか子供とか――とにかく、特別な条件のついた読者の範囲を頭において、これまでの小説は書かれてゐたのである。さういふものもあつていゝけれど、さうでないものがなければならぬ。これこそ、私たちが、いま、文学にもとめてゐるものではないかと思ふ。そして、これは作家にとつて最も困難な、しかし命をかけても惜しくない道である。 出版者側のかなり非打算的な協力に信頼し、作家諸氏の熱意と努力とを私は感謝をもつて見まもつてゐる。 福田清人氏の﹁桜樹﹂は、かくしてこゝに脱稿をみたわけである。 これ以上、私はなにも云ふ必要はない。ひろく読まれることを希ふばかりである。 昭和十七年九月一日