百三十二番地の貸家

岸田國士




人物
宍戸第三
毛谷啓
同京子
目羅冥
同宮子
甲斐加代子
婦人
[#改ページ]


第一場


東京近郊の住宅地――かの三間か四間ぐらゐの、棟の低い瓦家――「貸家」と肉太に書いた紙札が、形ばかりの門柱を隔てて、玄関の戸に麗々しく貼つてある。四月上旬の午後。

その門の前で、立ち止つた夫婦連れ、結婚一二年、今に今にと思ひながら、知らず識らず生活にひしがれて行く無産知識階級の男女である。


毛谷  このうちだらうね。
京子  さうでせう。
毛谷  番地が書いてないね。
京子  これですよ。大家おほやさんは何処か聞いてみませう。
毛谷  同番地としてあつたんだから、その隣がさうかも知れないね。表札を見て来てごらん。宍戸ししどだよ。
京子  (帰つて来て)ちがひますわ。そいぢや、向うかしら……。
京子  さうぢやなくつて? 若しかしたら、裏かも知れないわ。(裏へ廻らうとする)
  
京子  さうね。市中のことを思へばね。
  便
京子  それやもう……。あたし、お台所さへ気に入つたら、すぐにでも借りますわ。
毛谷  さうまあ急ぐなよ。しかし、今日は草臥くたびれた。
  
  
京子  停車場だつて、さう遠くはないでせう。今日はずゐぶん廻り路をしたからですけれど……。
毛谷  三十五円ていふところだらうな。少し辛いね。
京子  さあ、話次第では三十円にするでせう。
  
京子  奥さんも、おめかしをしないでせう。兎に角、大家さんに話してみませうよ。
毛谷  なんて話すんだい。
京子  その前に、中を見せて貰はなくちや、あなた……。

  





宍戸  あなた方、何か御用ですか。
毛谷  はあ、実は、この家を見たいんですが……。
宍戸  あなた方がお住ひになるんですか。(二人を見上げ見下しする)
毛谷  さうです。僕達夫婦です。
宍戸  お二人きりですか。
京子  二人きりですわ。女中をそのうち置かうと思つてますけど……。
宍戸  その外にあとから、どなたか外においでになるやうなことはありますまいな。
毛谷  今の処、ありません。
宍戸  お子さんは……?
毛谷  子供は、まだありません。だから、二人きりですよ。
宍戸  近々お出来になるやうなことはありませんか。
毛谷  さあ、それは保証出来ませんな。子供が出来ちやいけないんですか。
宍戸  お出来にならない方が結構ですな。
毛谷  僕達もその方が結構なんですが、あなたは、お子さんは……。
  
毛谷  会社へ勤めてゐます。(名刺を出す)かういふ者です。
宍戸  なるほど……失礼ですが、月給は幾らお取りですか。
毛谷  さういふことまでお話しなくちやならないんですか。
京子  あの、宅では、月給だけをあてにして暮してるんぢやございませんの。ですからお家賃の方も……。
  
毛谷  (京子に)申分ないぢやないか。
  
京子  四分の一つて申しますと……。
毛谷  百円の収入なら二十五円と云ふわけですな。
  
毛谷  いや、実は、僕達としましても……。
宍戸  二百円なら五十円、五百円なら百二十五円……。
京子  まあ……。
  
毛谷  それやまあ、さうです。
  
毛谷  (念を押すやうに)こゝは、百三十二番地ですね。
  ()()()()()
毛谷  さあ。
  
京子  ほんとに、まあ、お上手ですわ。
毛谷  しかし、ちつと流行遅れですね。
  ()
毛谷  お話中ですが、家の中を一寸見せて頂けますまいか。
  退()
京子  あたくしたち、少し急ぐんですけれど……。

  





毛谷  この家は、何時から空いてゐるんですか。
宍戸  つい、先達、空いたばかりです。
毛谷  先達といひますと……。
宍戸  つい、この間です。
毛谷  しますと……。
宍戸  十日ばかりにもなりますか……。
毛谷  それにしちや、なんだか、埃つぽいですね。
宍戸  この辺は、埃がなかなかひどいですからな……。なに、すぐに掃除はできますよ。(縁側の雨戸を繰る)
毛谷  (天井を見ながら)十日ぐらゐぢやありますまい。
宍戸  さあ、それとも一月にもなりますかな。なにしろ、今年になつてからですから……。
毛谷  大分住み荒してありますね。
  ()()
毛谷  襖なんか、ひどく破れてますね。
  使
京子  夏は涼しいでせうかね。
  
京子  以前のかたは、夏、窓を明けておやすみになつたんですか。
  
毛谷  ぢや、僕達は及第したわけですか。
宍戸  まあ、かう云つちやなんですが、お二人とも、お人柄のやうだし……。
京子  なかなか、お口がうまくつていらつしやるわ。
宍戸  なにしろ、こればかりは運でしてね。こつちがいくらいゝと思つても……。
毛谷  向うで気に入らなければね。
宍戸  さやう。向うでいゝと思つても、こちらで真平まつぴらといふのがあつたりして……。
毛谷  この家は、これで、建坪はいくらです。
宍戸  二十坪半です。便所が寝られるくらゐ広いんです。
京子  この三畳は何に使はうかしら……。女中はまだ見つからないし……。
  ()()
京子  いやですわねえ。
毛谷  どうしよう。
京子  さあ。
  
京子  でも……。
  
毛谷  駄目ですよ。もう、僕たちぢや……。
宍戸  そんなことはありません。失礼ですが、おいくつです。
毛谷  (笑つてゐて答へない)
宍戸  奥さんは……?
京子  そんなことをお聞きになつて、どうなさるんですの。
  
毛谷  それでは、よく考へてお返事をすることにしませう。
宍戸  はあ。
毛谷  どうもお邪魔しました。
宍戸  ぢや、どうか一つ、よくお考へになつて……。

京子  御免下さい。


両人、外に出で、門のところから、それぞれ家を振りかへる。宍戸は、戸締りをし始める。


毛谷  うるさい大家もあつたもんだなあ。
京子  寂しいのね。
毛谷  前にゐた奴つていふのは、よつぽど、だらしがない奴と見えるね。
  
毛谷  家賃をいくらにするのか知らないけれど、あの調子ぢや、二十五円ぐらゐにしさうぢやないか。
京子  さうよ、さうなら、随分、安いわ。
毛谷  安いさ。惜しいやうな気もするな。
京子  ね、さうでせう。いくらか、聞いてみるだけ聞いてみといたら?
  
  
  
  
毛谷  今までは、これより少し狭くつて、二十五円出してゐたんですが……。
宍戸  どちらですか。
毛谷  市内です。
宍戸  市内は、どちら……?
毛谷  あの……本郷です。
   
毛谷  ですけれど……。
  
毛谷  ですから……。
宍戸  まあ、まあ、さうして置いて、畳ぐらゐをそちらで持つていただけば……。
毛谷  いえ、さうぢやないんです。こつちもまだ薄給の身ですし……。
宍戸  いくらお取りですか。
毛谷  九十円ばかりしか取つてゐません。
宍戸  それに、一方の御収入が……。
  
  
毛谷  いや、さういふわけでもありませんが、家賃さへ安くしていただければ、と云ふんで……。
宍戸  二十五円は安いでせう。
京子  (近づき)どういふお話なんですの。
宍戸  二十五円でも高いとおつしやるんです、旦那さんは……。
京子  それで、敷金の方はどうしたら、よろしいんでせう。
宍戸  あなたの方は、どういふ御都合ですか。
京子  あの、でも、おつしやつていたゞいた方がよろしいんですの。
宍戸  ぢや、敷金なしとしませう。
京子  あら。
毛谷  さうですか。
宍戸  今晩からでもいらつしやい。わたしは、今から掃除にかゝります。
京子  一寸、それぢや、もう一度、よく見せて頂きますわ。
毛谷  なあんだ。
宍戸  どうぞ、どうぞ……。(また鍵を外す)
京子  (はひりながら)お台所がどういふ風になつてましたかしら……。
  
毛谷  僕達は、もう新婚ぢやありませんよ。
宍戸  いや、それにしても、まだ世の中の苦労にはそれほど揉まれておいでにならんでせう。
毛谷  どうして、どうして……。
  ()
毛谷  (出て来た妻に)どうだい。兎に角、一度帰つて相談することにしよう。
京子  さうね、でも……。
宍戸  お決め下さるなら、早い方が結構です。手附もなにもいりませんから、お約束だけなすつて置いて下さい。
京子  ぢや、折角あゝおつしやつて下さるんですから、さうしたら、どう?
  
  
毛谷  そんなら……。(紙幣を蔵ひ)明日、間違ひなく……。
宍戸  (きつきの名刺を更めて見たる後)毛谷啓さんですな。よろしうございます。(戸の鍵をかけかける)
毛谷  どうも、御邪魔しました。
京子  御免下さい。
  
毛谷  どうも少し、変だね、あの大家は……。
京子  今時珍しいわ。でも、敷金なしだとすると、百五十円浮いて来るわね。
毛谷  あれは無いものとしとかなくちや駄目だよ。
京子  無いものと思つて、洋服をお作りになつたら……、今度こそ。
毛谷  それはさうと、鶏を飼はう、鶏を……。

  


姿















目羅  この家は、もうふさがつたんですか。
  
  
宍戸  お住ひになるのは、あなた方ですか。
目羅  えゝ。
宍戸  お二人きりですか。
目羅  実は、家内の妹を国から呼び寄せましたので、少し広い家を借りたいと思ひまして……。
  
目羅  家内と八つ違ひです。
宍戸 なるほど……。学校をお出になつて、嫁入口を探しにおいでになるわけですな。
宮子  いゝえ、上の学校へはひりますんですの、女子大学へ……。
  
目羅  どうしてですか。
  
宮子  まあ、そんなことを心配してらつしやるんですか。宅に限つて……。
  
目羅  ぢや、どうしても駄目なんですか。
宍戸  お名前は……。
目羅  目羅冥めらめいです。
宍戸  は……? メラメエさん……。
宮子  目羅が姓で、冥が名ですの。
宍戸  へえ。御商売は……。
目羅  役所に勤めてゐます。
宍戸  お役所は……。
目羅  鉄道の方です。
   便
目羅  本省にゐます。(上る)
宮子  (続いて)まあ、この襖は、どうしたんでせう。

  


姿


加代子  姉さま、姉さま。
宮子  まあ、早かつたのね。どうしたの。
  
宮子  いゝわよ。どうせお世辞にさう云つてるんだから……あたし、そんな女中が三人も居る家へ行くのは、いやよ。
  
  
加代子  あら、三畳なの。女中部屋ね。
宮子  沢山よ、それで……。生意気云ふと、承知しなくつてよ。
加代子  ぢや、姉さまのお部屋は?
宮子  姉さんの部屋つて、別にないわ。お茶の間があるつきりよ。
加代子  つまらないわ。めいめいのお部屋がなくつちや……。
宮子  そんな贅沢云つて、あなた……。これでいくらだと思ふ、家賃……。
加代子  知らない。二十五円……。
  
加代子  まあ……。そいで決めたの。
  
  
宮子  それや、かまはないわ。お掃除は加代ちやんの受持よ。
  
宮子  何処へでも好きなところへお掛けなさい。あたしは、昼寝さへ出来ればいゝんだから……。
  
宮子  うるさいわよ。そんなことばかり云つてないで、あなたのお部屋を見て来たら……?

加代子  それよりこの襖は取り替へるんでせう。どういふ模様にするの。あたしにらして下さらないかしら……。


この時、奥より、目羅、続いて宍戸が現れる。


  
  
宍戸  何処がお気に入らないんですか。
目羅  それを云つても仕方がありますまい。おい、行かう。
宮子  やつぱり、いけないんですの。
目羅  いけない。(歩く)
加代子  あらどうして?
宍戸  家賃の点なら、もう少し引いて差し上げてもよろしいですよ。
目羅  いや、それには及びません。どうもお手間を取らせました。(外へ出る)
宍戸  ポンプを取りつけるのはわけありませんよ。
目羅  (どんどん出て行く。宮子と加代子は下駄を穿いて後を追はうとする)
  
宮子  (夫の方に)ねえ、あなた……。(妹に)一寸、兄さまを呼んで来て頂戴。
  ()
宮子  (夫が戻つて来ないので、その後を追ひながら)ねえ、あなた……。あゝまでおつしやるんだから……。
目羅  おい、あいつの目を見ろ、目を……。

  






  鹿





婦人  一寸、お尋ねいたしますが、百三十二番地の宍戸さんつておつしやるお宅はどの辺でございませう。
宍戸  わたしが宍戸です。家を見においでになつたんですか。
婦人  はい、御手数ですけれども……。
  
婦人  はい。わたくしなんでございます。
宍戸  御家族は?
婦人  わたくしと下女一人、それきりでございます。
  
  
宍戸  いや、御事情は※(二の字点、1-2-22)ほゞお察しします。で、失礼ですが、お連れ合ひは……。
婦人  それが、ある事情から、別になつてゐるんでございますが……。
宍戸  はゝあ、すると、なんですか。やはり時々……。

  






婦人  お差支へございませんければ、一寸、中を見せて頂きたいんですが……。
宍戸  えゝ、それやもう……。(先に立つて歩き出す。相変らず考へ込んでゐる)
婦人  お家賃は……。
  
婦人  まあ、さやうですか。お子さまもおありにならないんでございますか。
宍戸  家内がをります頃は、この家に住んでゐましたんですが……。どうか、お上り下さい。(上る)
  
宍戸  今までをられた方は、若い御夫婦でしたが、それや、実によく出来た方でしてね。
婦人  さういふ方は少うございますわね。
宍戸  全くです。
婦人  ――、失礼でございますが、お家賃の方は……。
  
婦人  この辺は物騒ぢやございませんかしら……女ばかりで……。
宍戸  いや、その御心配は御無用です。(窓を開け、外を指し)あそこが、わたしの住ひです。すまひと云ふほどのもんぢやありませんが、雨風をしのぐだけにはしてあるんです。あそこにゐれば、この家のなかの物音は手に取るやうにきこえます。いざと云へば、この窓から……なに、そんなことはめつたにありやしませんよ。ですが、まあ、安心しておやすみになれるわけです。こゝへおやすみになりますか。それとも、六畳になさいますか。
婦人  さあ……その辺のことは、またいづれ……。
宍戸  なにね、そんなこともうかゞつて置けば、またなにかの役に立つと思ひましてね。道具類はたくさんおありでせうな。
婦人  いゝえ、大して……。
宍戸  それぢや、この押入は夜具だけになすつて、細いものは、六畳と三畳に半間づつ押入がありますから……。
婦人  なんですか、すこし広すぎるやうな気もいたしますけれど……。
宍戸  ひろいのはせまく使へます。せまいのはひろくは使へません。
婦人  なにしろ、女ばかりなものですから。
  
婦人  一度帰つて、相談いたしませんと……。
  
婦人  (あつけに取られて、下駄を履く)
  

  






  








底本:「岸田國士全集2」岩波書店
   1990(平成2)年2月8日発行
底本の親本:「昨今横浜異聞」四六書院
   1931(昭和6)年2月10日発行
初出:「婦人公論 第十二年第三号」
   1927(昭和2)年3月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード