秘密の代償

岸田國士




人物

生田 是則  四十九
妻  数子  四十六
息子 是守  二十五
小間使てる  二十一


使使
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退
便

使

てる  若旦那様のお襦袢に、なんですか、血のやうなものがついてをりましたんですが、よく取れませんのです。
  
てる  それから、この海水着、どちらが旦那様のでございましたか知ら……。
  
てる  さあ、こちらでございませうか。
  

てる  それや、あたくしでも……。


二人は笑ひながら、数子は、手紙の返事を書き、てるは、洗濯物を箪笥に入れようとする。この時、抽斗ひきだしを間違へたふりをして、一つの抽斗から、袱紗に包んだ紙幣束さつたばを取り出し、素早く帯の間に挟む。やがて、てるは、部屋を出ようとして、一つ時躊躇するが、思ひ切つて、そこへ膝をつく。

てる  あの、奥様……。あたくし、お願ひがあるんでございます……。
数子  なにさ、改まつて……。
てる  (云ひにくさうに)こんなこと申し上げてすまないんでございますけれど、今日限り、おひまをいたゞきたうございます。
数子  どうしたの、急に……。
てる  いゝえ、別に、どうつていふわけはございません。たゞ……あたくしなんか、こちらさまのやうなおやしきには向かないやうな気がいたしますんです。
  
てる  はい、それはもう、いろいろ……ほんとに勿体ないくらゐでございます。
数子  それとも、何かあたしの気のつかないことで、この家に不満があるなら云つて御覧。大概のことなら聴いてあげるから……。
てる  ……。
数子  お給金をもう少しつていふんぢやないのかい。
てる  とんでもない……。そんな贅沢は夢にも考へてをりません。
数子  ぢや、朋輩との折合かい。それなら、こつちへ来てしまへばなんでもないだらう。
てる  はあ、そんなことは、ちつとも……。
  
てる  いゝえ、淋しいぐらゐなんでもございません。
数子  無論、親許おやもとの事情つていふわけはないね。両親はないんだし……。
てる  はい、そんなことぢやございません。
   ()
てる  ……。
  
  
  
てる  いゝえ。実は、ほかにもまだ、申し上げられないわけがございますんです。
数子  あたしに云へないわけ……? なんだらう。そんな秘密があるの、お前には……?
てる  ……。
数子  あたしぢや、相談相手になれないかい。
てる  この上、奥様に御心配をかけては相すみません。
   
てる  なるべくなら、今夜にでも、帰らしていたゞきたうございます。
  
  
   
  
  

てる  ほんとに、相すみません……。


てるは、丁寧にお辞儀をして座を起たうとする。

  ()()()()
てる  ……。
数子  それも云へないかい?
てる  もう、どうぞ、なんにもお訊き下さいますな。お願ひでございます。
数子  するとやつぱり、さうなんだね。何か、無理なことでもおつしやつたのかい。
てる  ……。
  
てる  ……。
数子  黙つてちやわからないよ。何時、どういふことがあつたのさ。
てる  ……。
数子  取返しのつかないやうなことぢやないんだらうね。
てる  いゝえ、そんな……そんな、奥さまがお心配遊ばすほどのことぢやないんでございます。
  
  退
数子  いゝえ、それを早く云つてくれさへすれば、あたしは、決して、お前の申し出を兎や角云ひはしなかつたんだ。それどころか、精いつぱい、お礼を云ふよ、あたしは……。ほんとにお前が、しつかりしてゐてくれて、あたしたちは、みんな助かつたんだ。それなら、それで、あたしにも、考へがあるから、まあ、さうかずに、先々のことも相談しようぢやないか。この家からは出るとしても、相当のことはしてあげたいからね……。
  
数子  みな様つて……。あゝ、是守の顔を見るのがいやだつていふのかい。
てる  ……。
数子  旦那様は、なんにも御存じないんぢやないか。
てる  (一度、数子の方を見上げ、意味ありげに、また下を向く)
数子  (それを、眼敏く追ひながら)旦那様は、さうだらう、なんにも……御存じない筈だらう……。
てる  ……。
  鹿
  
  鹿
てる  (かすかに首を振る)
数子  すると、旦那さまかい?
てる  (そつと数子の顔を見る)
数子  さうなんだね。
  
数子  さういふ意味は、つまり、どつちでもない……両方だ……二人ともだ……さういふことかい……。
てる  ……。
  
  
  ()
  
  便
てる  ……。
数子  (恐る恐る)ぢや、なにかい、二人ともつていふわけぢやなかつたんだね。

てる  (うなづく)


長い沈黙。

数子  どつちつていふことは、お前からは云へないんだね。

てる  はい、それだけは、御勘弁を願ひます。


長い沈黙。

数子  ぢや、これ以上、なんにも訊くまい。たゞ、最後に、あたしの、たつた一つの頼みを聴いておくれ。なんでもないことだ。お前には、決して迷惑をかけないから……。


数子は、二枚の紙ぎれと、鉛筆をてるの前に差し出す。

数子  それへ、どんな字でもいゝから、かういふ文句を書いておくれ。一枚づつ別々にね……。
てる  あたくし、字は駄目なんでございますけど……。

数子  駄目だつてなんだつていゝよ。さ、かう書くんだよ。――『今晩、九時に、あづまやでお目にかゝりたうございます』


()()

  ()
てる  でも、さういふこと、あたくしには……。
  
てる  それで、お暇は何時いたゞけるんでございませう。
  
てる  あのう……それでは、若しか、どなたもおいでにならなかつたら、どうなるんでございませう。

数子  心配しなくつてもいゝよ。行かなければ行かないで、あたしには、ちやんと見当がつくやうになつてる。





穿



是守  (人影をすかしてみて)お父さんですか。
是則  (やゝ驚いて)なんだ、お前か。
是守  (歩み寄り)今時分御散歩ですか。
是則  お前こそ、こんなところで、何してるんだ。
  
是則  さうでもないさ。浴衣一枚ぢや、寒いくらゐだ。
是守  風邪をお引きになるといけませんよ。
  
  
  
  
是則  なんだ、今、頭がぼんやりしてるなんて云つたくせに……。
  ()
  
  
  
是守  まだ、九時になるかならないかですよ。半分は聴けるでせう。

是則  いゝ、いゝ。どうせ、知つとる話だ……。


長い沈黙。

是則は、だしぬけに、妙な声でうたひをうたひ出す。

是守  いやだなあ……。
  
是守  やりますよ。おやすみなさい。

是則  あゝ、おやすみ。


是則は、ステツキを振りながら、渋々右手へ去る。
何処かの別荘で、ピヤノの音が聞える。やがて、左手から、てるの姿が現はれ、一つ時、亭の方をみつめてゐる。が、是守がそこにゐるのをたしかめると、今度は、急に、素知らぬ振りをして、その前を通り過ぎようとする。

是守  (低く)おい、何か用か。
てる  (静かに、しかし、十分の技巧をもつて、彼の方に向き直る)
是守  どういふ話だい。
てる  (うつむいてゐる)
  
てる  ……。
  
てる  ……。
  ()()
  
   
てる  いゝえ、ですから、あたくし、今日限りお暇をいたゞかうと思つてをりますの……。
  
てる  ……。
是守  それとも、僕がおんなじ気持でゐるかどうかを知りたいつていふのかい。
  ()
  
てる  (泣きじやくりながら)いゝえ、そんなこと……あたくし……そんなつもりで……。どうしていゝんだか……わからなくなりましたわ……。
  
てる  いゝえ、それより……そんな先のことは……そんな夢のやうなことは……ちつとも考へてをりません……たゞ、たゞ……。
是守  たゞ、なんだい。
てる  たゞ……一度だけ……しみじみと……若……若旦那様のお顔を……かうして……。
  ()()()
てる  (眼をあげて、是守の顔を見つめ、何かを訴へるやうに、両手を胸の上に組み合せる)若旦那さま……。

  








数子  何か甘いものでも召上りませんか。
是則  うむ、別に欲しくもない。
  
是則  う? うん……。是守がどうしたんだ。
数子  いゝえ、ね、あたくし、てるに暇を出さうと思ひますの。
是則  それもよからう。だが、代りはあるのかい。
数子  代りなんて云つてる場合ぢやございませんもの。
是則  どういふことになつてるんだ。
  
是則  是守が亭にゐることは知つてゐたが、てるがまた、何の用があつてそんなところへ行くんだ?
数子  ですからさ、さう申上げてるぢやございませんか。前から打合せでもしてあつたんぢやないかと思ひますの。
是則  それや、変だね。あそこは、誰でも行くところだし、秘密の談合に適してゐるとは云へまい。おれも、ついさつき、あの辺を通つたんだ。たゞ、それについては、おれにも少し、腑に落ちんこともあるし、いづれ、あとから、それとなく調べてみようと思つてゐたんだ。
数子  どちらをですの?
  
  
  
数子  どういふんでございます。
  
数子  てるの字ですわ、たしかに……。
是則  さうだらう。無論、それはわかつてる。
数子  (やゝ険しい眼付をして)で、あなたも、九時にあそこへいらつしやいましたの?
是則  う? おれか? いや、わざわざ行つたわけぢやない。散歩のついでに通つてみたまでだ。
数子  その時は、この意味がおわかりにならなかつたでせう。
是則  う? この意味? 意味なんか考へやせんよ。
    
是則  それが、現にさういふ意味ぢやなかつたぢやないか。
数子  いゝえ、今だからさうおつしやるんです。いきなりこんなものを御覧になつて、けがらはしいとお思ひになりませんでしたの。たとへ、どんな話があらうと、あなたを一人、あの亭へおびき出すなんて、小間使としては、ちつとだいそれたことだとはお思ひになりません?
  
数子  そんなら、どうして、是守が頑張つてゐたぐらゐで、すごすご引返していらつしつたんですか?
是則  すごすごとはなんだ。お前は、おれを疑つてるのか。
数子  疑つてるつていふわけぢやございませんけど、なんですか、もつと公明正大ななさり方があつたんぢやないかと思ひますわ。
  ()使
  
  便
  使
  
数子  大抵察しるでせうけれど……。
  
数子  あなたからも、なんにもおつしやらない方がよろしうございますわ。
  
数子  では、もう外に御用はございませんね。
是則  是守は、部屋にゐるか。
  

是則  馬鹿な奴だ。どいつも、こいつも……。折角の休暇が、これで台なしだ。


数子が出て行く。やがて、てるが、現はれる。

てる  おとこをおのべいたします。
是則  (その方を見ずに)暑いから、上は毛布だけでいゝ。

てる  はい。





是則  お前には、許婚いひなづけかなにかあるのか。
てる  (驚いて顔をあげ、羞ぢらふやうに微笑んで、急に眼を反らす)いゝえ。

是則  よし、よし、早くしろ。


てるは、敷布の皺をゆつくりのばしてゐる。

是則  何処かゝら、お嫁に来てくれなんて云はれたこともないのかい。
てる  (うつむいたまゝ、かすかに)いゝえ、そんなこと……。

是則  おい、早くしろつたら……。


てるは、毛布を手早くその上にのせて、蚊帳かやを吊りはじめる。

是則  若しお嫁に行くとしたら、どんなところへ行きたい?
てる  (初々しくからだをくねらせて)あら、あたくしなんか……。
是則  馬鹿云へ。女がお嫁に行けなくつてどうする。
てる  (蚊帳を吊り終り、机の上を片づけかける)お煙草は、これだけでよろしうございますかしら……。
  ()
てる  (そのまゝ、そこにぢつとしてゐる)
是則  まあ、こつちへ来い。声が大きくなるから、もつとそばへ寄れ。
てる  (是則の云ふ通りにする)
是則  おれがあそこへ行つてた方が、やつぱりよかつたか。
てる  ……。
  
  
  
てる  あたくし……まるつきり、身寄りつていふものがございませんので……それを思ふと、変に悲しくなるんでございます……。(袖で顔をおさへる)

是則  さうだつてね。なに、自分さへしつかりしてれや、身寄りなんか、却つて邪魔になるくらゐのもんだ。さ、こゝぢやなんだから、いづれまた、ゆつくり話を聴かう。雨戸を締めてつてくれ。



姿

てる  (殆んど誘惑的な眼で相手を見つめ)では、おやすみ遊ばしませ。
是則  (椅子の上にふん反りかへり)おい、ちよつと、こゝへ来て御覧。
てる  (一度、男の視線を避けるやうに首を垂れて、それから、何かを待ち設ける如く、一歩一歩、彼の方に近づく)

  













数子  婆やが御飯を焚いてしまつても、まだ起きて来ないので、起しに行くと、もうゐないんださうでございます。
是則  昨夜ゆうべ、あれから、何か話したのか。
数子  (ちらと是守の方をみて)いゝえ、別にこれといふ話もいたしませんけれど、妙にそわそわしてたことはしてたやうでございます。
是守  僕には、わかつてますがね、逃げ出した理由は……。
数子  へえ、あんたに……。(是則と顔を見合せ、眼くばせをする)
是則  たかゞ女中一人、なんだ。さうみんなで大騒ぎをする必要はないぢやないか。
  
是守  これから小間使を傭ふなら、あんまりシヤンでないやつにして下さい。
数子  どうして……。(また是則と顔を見合せる)
  
是則  (緊張して)そんな生意地いくぢのないこつてどうする。
  
是則  持つて来いてやつもないだらう。
  
  
是則  よく聴いとけ、うん……。
  
数子  なんのこつたい、それや……。もう一度、云つておくれ。
  
数子  あるね。
是守  それから、しなくつてもいゝが、する方がなほいゝつていふこともありますね。
数子  それやあるさ。
是守  してはならないこと、これはむろん、あるわけですね。
数子  あるとも……。
是寺  同様に、しなければならないこと、これがあります。この四つをちやんとわきまへてゐれば、大概の場合、間違ひつこありませんよ。
数子  ぢや、しない方がいゝことは、どれにはひるの。
是守  してもいゝことにはひりますよ。
数子  そんなことつて、あるか知ら……。しない方がいゝことなら、しない方がいゝぢやないの。
是守  えゝ、たゞ、世の中がつまらなくなるだけです。人間が型にはまるだけです。
是則  面白いことを云ひよるぞ。近頃は、学校で、さういふことを教へるのかい。
   
是則  あゝ、やるとも……。

是守  僕、先へ行つてますよ。


是守が座を起つて行つた後で、老夫婦は、互に、笑ひたいのをこらへたまゝ、顔を見合つてゐる。

是則  やれやれ、大きな息子をもつと、余計な苦労があるわい。
  
  

数子  ほんとに、あれで、器量がもう少し悪けれや、申し分ございませんわ。


この時、電話がかゝつて来る。

  ()()    調
是則  どうしたんだ。
  ()
    
数子  なんて好い加減なことを云ふんでせう……。
   
数子  あなた、なにおつしやるんです。
  
数子  でも、あなた、あの五百円は昨日のうちにどうかしたもんでせうか。夜ちやんと鍵をかけてやすみましたんですもの。
是則  (意味ありげに)だからさ、すべて、辻褄が合ふぢやないか。
数子  (これも意味ありげに)辻褄だけ合つたつて、勘定は合ひませんわ。
是則  それや、合はん。勘定にかけちや、向うが上手うはてといふだけだ。ちやんと、先が見えるのさ。五百円のかたに、あいつは、まんまと秘密を残して行きをつた。
  
  
  鹿

  ()




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使






底本:「岸田國士全集6」岩波書店
   1991(平成3)年5月10日発行
底本の親本:「現代 第十四巻第三号」
   1933(昭和8)年3月1日号発行
初出:「現代 第十四巻第三号」
   1933(昭和8)年3月1日号発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2011年5月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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