桔梗の別れ

岸田國士





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酒巻  明日はかたきを打ちませうね。笛子ふえこさん。
笛子  明日は組を変へるんだわ。
杉江  母さんと組まなくつちや駄目だよ。
金津  小母さんに睨まれてると、うつかりしたことはできないからなあ。
杉江  また雷が来さうね。昨夜はなんてひどかつたんでせう。
酒巻  でいよいよ、明後日お帰りですか。
  
笛子  パパが――こつちへいらつしやればいゝんだわ。
杉江  それがおできになれないんだから仕方がないさ。
酒巻  鎌倉にだつてコートはあるでせう。
笛子  どうせホテルなんだから、あつてよ。
杉江  あなた方もあつちへおいでなさいな。
金津  ひとつ、おやぢに談判してやらう。

酒巻  僕んとこは、お袋が海は嫌ひなんだから、駄目だ。




その避暑地を通つてゐる軽便鉄道の停車場。プラツトフオームのベンチ。

杉江  こんな不便なところでも、慣れちまふと、もつとゐたいやうな気がするね。
笛子  えゝ。それにひとつはお友達ができたからよ。
  
  
杉江  パパがさういふことをなんておつしやるか……。
笛子  避暑地なんかで、若い男と親しくなつちやいけないつておつしやつたわね、あたしたち、もう、親しくなつちやつたか知ら……?
杉江  それやまた意味が違ふさ。あの人たちは、別にお前にどうかうつていふわけぢやないんだから……。
笛子  さう? でも、わからないわよ。
杉江  母さんにはわかつてるんですよ。お前はまだ、そんなこと考へなくつたつていゝんです。
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杉江  何時さ。
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杉江  馬鹿だねえ、あの人は……。


そこへ、金津と酒巻が現はれる。

金津  遅れたかと思つた。
酒巻  この先生が髭なんか剃つてるからですよ。
杉江  わざわざ見送りに来て下すつたの、もう昨夜、「さよなら」をしたんぢやありませんか。
  
杉江  まあ……。
笛子  そんなことなすつたら、きりがないわ。
  

金津  おい汽車が来てからで大丈夫だよ。




軽便鉄道二等車の中。客は四人きりである。沿道にはもう秋草が乱れ咲き、晴れた八月の朝日が、谷間の靄を吸ひ上げてゐる。

金津  おい酒巻、眠るのはよせ。
酒巻  眠つてやしない。いゝ気持なんだ。
笛子  ほんとに、のろいね、この汽車は……。
杉江  浅間があんなところへ顔を出したよ。ねえ、笛子……。
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酒巻  追分で、僕が取つて来てあげますよ。

金津  なんだ、眠つてたんぢやないのか。




谿
便

杉江  十分間ぢや、滝を見に行くこともできませんね。
  
酒巻  (もう谷を下りはじめながら)この辺にはないやうだぞ。
金津  (酒巻の後を追ひ)ない筈はないな。それぢや、僕は右の方へ行くから、君は左の方を探せ。

   

二人の姿が見えなくなる。

笛子  なんでも競争よ。あの人たちは……。
杉江  男つていふものは、昔からさうさ。
  
杉江  あたしが頭痛がするつてやすんでた日かい。
  
杉江  そんな事つて、ないね。
笛子  えゝないわ。
杉江  おや、あれ、金津さんの声ぢやないかい。行つて見て御覧。
笛子  (谷の降り口へ行く)どこよ。金津さん。
金津の声  こゝですよオ……。見えませんか。
笛子  見えないわ。
金津の声  これ、これ……四本みつけましたよ。
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酒巻の声  笛子さん……。
笛子  なあに……(起つて行つて、声のする方を見る)
酒巻の声  見えますか。こゝ、こゝ……。
笛子  見えないわ。
酒巻の声  素敵なやつを三本取りましたよオ。
笛子  たつた三本……?
酒巻の声  三本ぢや駄目ですかア……。

笛子  駄目よオ……三本ぽつち……。


長い沈黙

杉江  いゝ加減に赦しておあげよ。可哀さうに……。
笛子  だつて、三本ぢや、酒巻さんの方が負けよ。
杉江  どつちが負けたつて、お前のせゐぢやないよ。
笛子  だつて負ければ口惜しがるわ。
杉江  そんなことしてるうちに、もう汽車が来やしないかい。
  
杉江  どうせ途中でしをれちまふよ。
笛子  いゝわ。途中だけでも……。一時間でも長く山の気分を味つた方が……
杉江  そんなに山が気に入つたの。
笛子  萎れたら、そのまゝ持つて帰つて押花にするわ。
杉江  珍らしいことをいふね。
笛子  どうして……。二人で下すつたのを一輪づつおんなじ本に挿んどいてあげるわ。
杉江  やれやれ。そんなことを誰の前でも云ふもんぢやありませんよ。
金津の声  笛子さん……。
笛子  (またそつちに行き)え?
金津の声  うんとあるとこを見つけましたよ。やあ、大変、大変……。
酒巻の声  笛子さん……。
笛子  なによオ……。
酒巻の声  もう六本になりましたよ。
笛子  六本ぢや駄目よ。
酒巻の声  そんなこと云つたつて弱るなあ。崖がとても急なんだから……。
笛子  おつこちないやうになさいね。

酒巻の声  金津は何所にゐます。おオい、金津……。



便

  
笛子  酒巻さん……。汽車が来たわよ。
杉江  さ、早くお乗り……。
笛子  金津さん……。もう、よくつてよ。

  


姿
便

便

金津  (プラツトフオームに立ち、花束を高く差し上げて、声をかぎりに)笛子さアん……。


彼は軽便がトンネルの中に隠れるのを待つて両手をぐつたりとおろす。
それと同時に、清々すが/\しい紫の束が、プラツトフオームの小砂利の上に崩れ落ちた。
酒巻は、何時までたつても上つて来ない。




便

便

杉江  ほかのものと違つて、桔梗の花ばかりは送つて貰ふわけにも行かないしね。
  
杉江  首を出すと危いよ。
笛子  綺麗な水ね。おや、あれ、桔梗の花よ……誰か取つて捨てたんだわ。五六本ひと塊りになつて流れて来るわ……
 勿体ないわね……。
杉江  (ギヨツとして)笛子、さ、そんなものを見ないで、ここへおいで……。

笛子  母さま、どうなすつたの? そんな恐い顔をして……


――(幕)






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kompass

2012220

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