留守(一幕)

岸田國士










  
  
お八重さん  一寸、見て頂戴……だらしのないことを……。
おしまさん  あんた?
お八重さん  いいえ、奥さんよ。
  
お八重さん  こら、こら、なにをする。
おしまさん  (流石に、恥ぢて、抽斗を閉める)
お八重さん  さ、ここへお坐んなさい。(座蒲団をすすめる)
おしまさん  (坐つて長火鉢の縁をなで)しやれた火鉢だね。うちのより上等だ。
お八重さん  手入をしないから駄目だよ、お金ばかりかけたつて……(茶器を取り出し、茶をついで出す)何をうろうろ見てるのさ。
おしまさん  ううん、何か珍しいものはないかと思つて……。
  
  
  
おしまさん  知らないよ、そんな人……。
お八重さん  知らないことがあるもんですか。よく、大きな声で笑つてるぢやないか。
おしまさん  お前さんとこは、みんな大きな声で笑ふから、誰が誰だかわかりやしない。
お八重さん  さう云へば、あんたんとこは笑はないね。
おしまさん  可笑しいことがないんだもの。
  
おしまさん  かまはないで頂戴。
お八重さん  今月から、また一円上げて貰つたわよ。
  
  
おしまさん  (一寸手に取つて見るが、さほど興味を惹かれぬらしく)寒いだらう、あんたの部屋……。
お八重さん  寒いとも……。あんたの部屋は……。
  
お八重さん  あんたは、さうしてくれるうちがあるからいいわね。どうなつたの、あの話……。
おしまさん  ……?
  
おしまさん  さうだつたかね。
お八重さん  自分のことを忘れてれや、世話はないや。いくらもあるからわすれるんだらう。
おしまさん  さうかも知れない。どんな話だつけね。
  
  
お八重さん  あんまり択るのはおよしよ。かすをつかむよ。
おしまさん  それはね、在郷軍人なんだけれどね、一寸、男前がいいんだよ。
お八重さん  それ、いいぢやないの。
  
お八重さん  ああ、いいとも……。今日は、ゆつくり結へるから……。
おしまさん  (奥さんの鏡台の前にすわり)此処でいいのかい。
お八重さん  かまやしないよ。
おしまさん  奥さんみたいに、鏝をあてようかしら……。
お八重さん  (おしまさんのうしろに廻り、髪を解きはじめる)
おしまさん  この家の半分ぐらゐでいいから、早く、自分の家を持ちたいね。
お八重さん  かういふ鏡台を置いてかい。
おしまさん  あんた、どんな亭主を持つてみたい。
お八重さん  知らないわよ。そんなこと……。
おしまさん  知らないことがあるものか。百姓はいやだらう。
お八重さん  百姓だつて、字の読める百姓ならいいよ。
おしまさん  字を読んでどうするのさ。
お八重さん  一緒に、本を読むんだよ。
おしまさん  どんな本……?
お八重さん  面白い本があるよ。
おしまさん  自分独りで読めばいいぢやないか。
お八重さん  それぢや面白くないよ。読んだことを、また話し合はなくつちや……。
  
お八重さん  一緒に歌ふの。
おしまさん  歌ふのを聞いてるのさ。あたしや、男のどこに惚れるかつて云へば、声に惚れるね。
  
  
お八重さん  痛かない? よく抜ける毛だこと……。
おしまさん  かまはずにやつておくれ。
お八重さん  随分汚れてるわね。
おしまさん  洗ふひまがないんだもの。
お八重さん  あたしも、これで、二月目よ。
おしまさん  女中は、頭なんか洗はないものだと思つてるんだから……。
お八重さん  うちの奥さんの毛は、いい毛だよ。
おしまさん  うちの奥さんは、真中が禿げてる……。
お八重さん  (おしまさんが、なに気なく化粧水の瓶を取り上げたので)それいくらだか知つてる?
  
お八重さん  ヘチマコロンが八本も買へるんだから……。
おしまさん  あたし、近頃、顔へ変なものが出来てしやうがないんだけれど、これをつけたらなほるかしら……。
お八重さん  およしよ、減るとわかるよ。
おしまさん  (鏡台の抽斗をかきまはし)こんな処に、慰斗がはひつてら……。
お八重さん  そんなにうつむいちや、駄目だよ。
おしまさん  あんた、ひびが切れたところへ何つけてる。
お八重さん  なんにもつけてない。
おしまさん  一と通り所帯道具を揃へるにや、いくらぐらゐかかるかね。
お八重さん  そん時になつて考へても遅かないよ。
おしまさん  あんたんとこの旦那さんは、女中にはどんな風だい。
お八重さん  どんな風つて……。
おしまさん  やかましいかい。
お八重さん  そんなにやかましかないよ。
おしまさん  黙つてる方かい。
お八重さん  黙つてる方だね。
おしまさん  お酒は飲むんだらう。
お八重さん  どうしてそんなことを聞くのさ。
おしまさん  よく、女中にからかふ旦那さんがあるんだつてね。
お八重さん  ……。
  
お八重さん  どんなこと?
  
お八重さん  いつさ、それは……。
  
お八重さん  誰が、さう云つた。
  
お八重さん  だつて、そんなこと、ありやしないもの……。好い加減なことばかり……。
おしまさん  痛い。そこに、カサブタがあるんだよ。
お八重さん  どこ……ここ? 御免なさい。
おしまさん  でも、旦那さんは、ちやんと、するだけのことはしてくれるんだらう。
  
  
お八重さん  だつてそんなことないんだからいいわ。
おしまさん  奥さんは、幾月入院してたんだつけね。
お八重さん  初め一月半、それから二度目には二月……。
おしまさん  それごらん……大ていわかるよ、誰が見たつて……。
お八重さん  みんながさう云つてるつて、それやほんとなの。
  
お八重さん  まあ……。
   鹿
お八重さん  ……。
  ()
お八重さん  誰が云ひふらしたんだらう、そんなこと……。
おしまさん  誰も云ひふらしやしないさ。ひとりでに知れて行くのさ。
お八重さん  (途方に暮れて)困つちまふわ、あたし……。
おしまさん  奥さんは、まだ知らないんだらう。
お八重さん  うすうす感づいてるらしいの。
おしまさん  それや、大変だ。感づいてるつて、どういふ風に……。
お八重さん  旦那さまの御用を、わざとあたしに云ひつけたりなにかなさるの。
おしまさん  さういふことがあつてからかい。
お八重さん  それや、つい、近頃のことだけれど……。少し根が固かない?
  
お八重さん  あたしが、あとで片づけるからいいわ。
おしまさん  (長火鉢のところに戻り)そいで、何か、あてつこすりのやうなことを云ふんぢやないの。
お八重さん  そんなことは別におつしやらないけれど……この間、変なことがあつたの。
おしまさん  どんなこと?
お八重さん  旦那さまのお留守に、今まで、来たこともない若い学生さんみたいな人が来たのよ。
おしまさん  男の?
お八重さん  ええ、男の……。
おしまさん  上つたの。
  
おしまさん  (感心して)さうかい。さういふことがあつたかい。
お八重さん  どう、もう一つ、おせんべ……。
おしまさん  ああ、おくれ。
お八重さん  (せんべを与へながら)あんまり減つてるとわかるから、もうこれだけよ。
おしまさん  わからないもんだね。内幕つてものは……。
お八重さん  それからつていふもの、奥さんはそれやあたしをよくするの。
おしまさん  あひみ互つてことがあるからね。
  
おしまさん  旦那さんに、さう云つてみたらいいぢやないの。
お八重さん  なんてさ。
おしまさん  なんてさつて、あたしの知つたことかね。
お八重さん  だつて、あたし、旦那さまの顔を見ると口が利けなくなるんだもの。
おしまさん  どうして?
お八重さん  どうしてだか……。
  
お八重さん  あたし、奥さまに悪いから、お暇を頂かうと思ふの。
おしまさん  奥さんに悪いよりなにより、あんたが、それぢや、可哀さうだよ。
お八重さん  さうかしら……。
  ()()
お八重さん  あたし、お妾なんかになるのはいやだわ。
おしまさん  ぢや、奥さんを逐ひ出して、その後釜に据わるといい、お前さんにその腕があるかい。
お八重さん  そんなことはできないけれど、このままならこのままで、人からいろんなことを云はれたくないんだよ。なんでもないのに変なことを思はれてちやつまらないからね。
おしまさん  ……。
お八重さん  しかし、これから先、どうなるかわからないよ、こんな調子ぢや……。
おしまさん  おどかすねえ。そいぢや、今までは、そんなことはなかつたんだね。
  
おしまさん  (壁にかけた三味線を見てゐる)
お八重さん  あんた三味線弾けるんだらう。
おしまさん  ああ、でも、しばらく弾かないから……。
お八重さん  弾いてごらんよ。(起たうとする)
おしまさん  いいよ、そんなこと……。およしよ、見つともないから……。
  
おしまさん  ああ、して来たよ。何処かへ行かうか。
お八重さん  そんなことしてる暇はないわ。
声  (台所で)こんちはあす……。
お八重さん  (驚いて起ち上り)どなた……。
声  毎度ありがたうす。
お八重さん  あ、八百屋さん?
声  玉葱を持つてまゐりあした。
お八重さん  お苦労さま、そこい置いといて頂戴……。
おしまさん  うちのはどうしたの、八百屋さん……。
  
  
声  いいえ、今日は、あんたのとこでおしまひ……。
おしまさん  ぢや、上つて、遊んで行かない。
声  だつて、悪いや……。
おしまさん  いま、二人で、あんたの噂をしてたんさ……。
声  常談云つてらあ……。
おしまさん  常談なもんかい、ねえ、お八重さん。
お八重さん  まあ、お茶でも飲んでらつしやいよ。
声  足がよごれてらあ。
お八重さん  そこに雑巾があるでせう。(起つて行く)
声  ほんとに、いいのかい。
おしまさん  いいんだよ。晩にならなきや帰つて来ないんだから……。
お八重さん  (座にかへり)こんなに散らかつてるけれど……。
おしまさん  座蒲団をお出しよ。お客さんのがあるだらう。
お八重さん  (一寸躊躇するが、思ひきつて、座敷から立派な座蒲団を持つて来る)
おしまさん  さあ、どうぞ、こちらへ……。
八百屋さん  (頭へ手をのせ)変だなあ。大丈夫かい。
おしまさん  もつと、こちらへおいでよ……二人の間へ……。
八百屋さん  (恐縮して)この上へかい、ええい、かまふこたねえや。(坐る)
  
八百屋さん  煙草なら、持つてるよ。
おしまさん  持つてたつていいから、こつちをお喫ひよ。二ほんや三ぼん、わかりやしないよ。
お八重さん  (茶を酌んで出す)
八百屋さん  おほきに……(あたりを見まはす)
おしまさん  おせんべでも出したら……。
八百屋さん  かまはないでおくれよ。
お八重さん  (しかたがなしに、缶をあけ、せんべを八百屋さんの方へ出す)
おしまさん  (二三枚つまみ出し、八百屋さんに)さ、一つ……。
八百屋さん  ありがたう。そんなことしていいのかい。
  
お八重さん  何処へ行くの。
おしまさん  いいから待つてらつしやい。すぐ帰つて来るから……。
八百屋さん  おれも、ゆつくりしちやをれないんだよ。
おしまさん  なに云つてるんだい。勝手な時ばかり油を売つてるくせに……(起つて出て行く)
八百屋さん  (独言のやうに)いつたい全体、これや、何事だい。
  
八百屋さん  どんなこと?
お八重さん  どんなことつて、ありもしないことをさ。
八百屋さん  ありもしねえことつて、どんなこと?
お八重さん  知らなきや、知らないでいいんだよ。
八百屋さん  知らないよ。
お八重さん  おしまさんが、何か云やしない、あたしのことで……。
八百屋さん  いつ?
  

八百屋さん  云はないよ。


長い沈黙。

お八重さん  世間つて、うるさいものね。
八百屋さん  (もぢもぢしながら)おれに関係のあることかい。
お八重さん  (意外らしく)お前さんに関係のあることつて、何さ。
八百屋さん  ううん、あんたと、おれと、どうかうつていふやうなことぢやねえのかい。
お八重さん  あんたと……?(吐き出すやうに)そんなことぢやないよ。

八百屋さん  (身の置き処に困り)さうか、そいぢやいいや。


長い沈黙。

お八重さん  おしまさんてば、うそばつかし。
八百屋さん  おら、もう、帰るよ。
お八重さん  待つといでよ。今、おしまさんが帰つて来たら云ふことがあるから……。
八百屋さん  おれがゐなくちやいけねえのかい。
お八重さん  ああ、あんたがゐてくれた方がいいの。(間)そんならさうで、あたしも考へがあるから……。
  
お八重さん  ……。
八百屋さん  おれや、そんなことを、云はれるやうなことをした覚えはねえんだがなあ。
お八重さん  お前さんに関係はないんだから心配しなくつてもいいんだよ。
八百屋さん  やつぱり、どつかしら、さう見えるんだね。
お八重さん  さう見えるつて?
八百屋さん  此処の家へ来る時の様子が違ふんだね、いくらかくしてても……。
お八重さん  何をかくしてるのさ。
八百屋さん  (極めて云ひにくさうに)さう問ひつめなくつたつていいぢやないか。
お八重さん  ……?
  
お八重さん  ……(あつけに取られて八百屋さんの顔を見戍る)
  
お八重さん  ……。

八百屋さん  おしまさんが帰つてくれやわかるこつた。




  ()()
八百屋さん ┐
      ├(同時に)おしまさん。
お八重さん ┘

おしまさん  なにさ、改まつて……。


長い沈黙。

お八重さん  あんたは嘘つきね。
八百屋さん  つまらねえこたあ云つこなしにしようぢやねえか。お互に迷惑だぜ。
おしまさん  どうしたつて云ふのさ、あたしが何を云つたつて云ふの。
お八重さん  もう忘れたの。
   
お八重さん  ぢや、誰が云つたの。
  
八百屋さん  常公がかい。あいつがなんだつて、おれのことを……。
おしまさん  お前さんのことなんかぢやないよ。
八百屋さん  ぢや、何かい、あいつも、お八重さんに……。
お八重さん  (あわてて)あんたは、黙つといでよ。話が違ふんだから……。
八百屋さん  ……。
お八重さん  そんなら、魚屋さんに聞いてみるわよ。
  
  
  
八百屋さん  まあ、まあ。……。
お八重さん  あんたは、そんな人とは思はなかつたよ。
  
お八重さん  お前さんは黙つておいでつたら……。
  調
八百屋さん  (てれて)なあに、おれや、そんなこと……。
おしまさん  だけど、あんたを悪者にしちやつてさ。
八百屋さん  (お八重さんの方を盗み見ながら)そんなこたねえ。
おしまさん  お八重さんは正直だからね。
八百屋さん  (またお八重さんの方を盗み見る)
お八重さん  八百屋さんはいくつ?
八百屋さん  おれかい。あんたより一つ上だよ。
お八重さん  あら、あたしの年をどうして知つてるの。
八百屋さん  (おしまさんの方を見る)
おしまさん  あたしが云つたのさ。なんの話からだつけね。

お八重さん  (機嫌をなほして)あんたは、ほんとにお喋べりね。


長い沈黙。

おしまさん  八百屋さん、あんたにお嫁さんを世話しようか。
八百屋さん  もうよしてくれつたら、その話は……。
おしまさん  だつて、これが初めてだよ。
八百屋さん  (お八重さんに気兼ねしながら)また怒られようと思つて……。
おしまさん  そんなことで怒るものがあるものか。いやならいやつてお云ひよ。
八百屋さん  (空元気をつけて)いやだよ。
お八重さん  (寂しく笑ひながら)さうさう、おしまさんなんかに頼むと、ろくなことはないよ。
おしまさん  そいぢや。誰だか云はうか。
八百屋さん  (ゐたたまらず)おら、もう帰る……(起ち上らうとする)
お八重さん  (声を立てて笑ふ)
おしまさん  うそだよ、うそだよ。(八百屋さんの手を引張り)あんたも若いね。

お八重さん  もう、からかふのはおよしよ。


台所で「お待遠さま、毎度ありがたう……」といふ声。

おしまさん  (起ち上り)御苦労さま。(出て行く、やがて、すしを盛つた皿を持つてはひつて来る)
お八重さん  まあ……そんなに沢山……?
おしまさん  たまにこれくらゐのことをしなくつちや……。
八百屋さん  あんたがおごるのかい。
おしまさん  遠慮しないでおあがり。
お八重さん  おしたぢを持つてくるわ。(台所に行つて、小皿醤油注ぎなどを持つて来る)

おしまさん  ここのうちは、海苔巻が一番うまいんだつて……。さ、お取りよ。


三人思ひ思ひにおすしを頬張る。


  












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   1990258

   19283525
 
   1927241

kompass

2012220

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●表記について


●図書カード