一
県庁のあるS市へやって来た人が、どうも退屈だとか単調だとかいってこぼすと、土地の人たちはまるで言いわけでもするような調子で、いやいやSはとてもいいところだ、Sには図書館から劇場、それからクラブまで一通りそろっているし、舞踏会もちょいちょいあるし、おまけに頭の進んだ、面白くって感じのいい家庭が幾軒もあって、それとも交際ができるというのが常だった。そしてトゥールキンの一家を、最も教養あり才能ある家庭として挙げるのであった。
この一家は大通りの知事の邸やしきのすぐそばに、自分の持家を構えて住んでいた。主人のトゥールキンは、名をイヴァン・ペトローヴィチといって、でっぷりした色の浅黒い美丈夫で、頬ほお髯ひげを生やしている。よく慈善の目的で素しろ人うと芝居を催して、自身は老将軍の役を買って出るのだったが、その際の咳せきのしっぷりがすこぶるもって滑稽だった。彼は一口噺ばなしや謎々や諺ことわざのたぐいをどっさり知っていて、冗談や洒しゃ落れを飛ばすのが好きだったが、しかもいつ見ても、いったい当人がふざけているのやら真ま面じ目めに言っているのやら、さっぱり見当のつきかねるような顔つきをしていた。その妻のヴェーラ・イオーシフォヴナは、瘠やせぎすな愛くるしい奥さんで、鼻眼鏡をかけ、手ずから中篇や長篇の小説をものしては、それをお客の前で朗読して聴かせるのが大好きだった。娘のエカテリーナ・イヴァーノヴナは妙齢のお嬢さんで、これはピアノに御ごた堪んの能うだった。要するにこの一家の人たちは、みんなそれぞれに一技一芸の持主だったわけである。トゥールキン家の人々はお客を歓迎して、朗らかな、心しんから気置きのない態度で、めいめいの持芸を披露に及ぶのだった。彼らの大きな石造りの邸はひろびろしていて、夏分は涼しく、数ある窓の半分は年をへて鬱うっ蒼そうたる庭園に面していて、春になるとそこで小うぐ夜い鶯すが啼ないた。お客が家の中に坐っていると、台所の方では庖ほう丁ちょうの音が盛んにして、玉ねぎを揚げる臭においが中庭までぷんぷんして――とこれがいつもきまって、皿数のふんだんな美おい味しい夜食の前触れをするのだった。
さて医師のスタールツェフ、その名はドミートリイ・イオーヌィチが、郡会医になりたてのほやほやで、S市から二里あまりのヂャリージへ移って来ると、やはり御多分に漏れず、いやしくも有識の士たる以上はぜひともトゥールキン一家と交際を結ばなくてはいかん、と人から聞かされた。冬のある日のこと、彼は往来でイヴァン・ペトローヴィチに紹介され、お天気の話、芝居の話、コレラの話とひとわたりあった後、やはり招待をかたじけのうすることになった。春になって、ある祭日のこと――それは昇天節の日だった――患者の診察を済ませるとスタールツェフは、ちょいと気散じがてら二つ三つ買物もあって、町へ出掛けた。彼はぶらぶら歩いて行ったが︵実はまだ自分の馬車がなかったので︶、のべつこんな歌を口ずさんでいた。――
浮世の杯つきの涙をば、まだ味わわぬその頃は……
町で食事をしてから、彼は公園をちょっとぶらついた。やがてそのうちにイヴァン・ペトローヴィチの招待のことが自おのずと思い出されたので、ひとつトゥールキン家へ乗り込んで、どんな連中なのか見てやろうと肚はらを決めた。
﹁ようこそどうぞ﹂とイヴァン・ペトローヴィチは、昇り口で彼を出迎えながら言った。﹁これはどうも御珍客で、いやはや実に喜ばしい次第です。さあさこちらへ、ひとつ最愛の妻にお引き合わせ致しましょう。私はこの方かたにこう申し上げているんだよ、ねえヴェーロチカ﹂と彼は、医師を妻に紹介しながら言葉をつづけた。﹁こう申し上げているんだよ、この方としたものが御自分の病院にばかり引っこもっておられるなんて、そんなローマ法があるものじゃない、すべからくその余暇を社交にお割さきになるべきだってね。そうじゃないかい、ねえお前?﹂
﹁こちらへお掛け遊ばせな﹂とヴェーラ・イオーシフォヴナは、お客を自分の傍へ坐らせながら言った。﹁あなたこの私に慇いん懃ぎんをお寄せ下さいますでしょうねえ。宅は焼やき餅もちやきですの、あのオセロなんですのよ。でも私たち、宅に何一つ気けどられないようにうまく立ちまわりましょうねえ﹂
﹁ええ、この甘ったれの雛ひよっ子さん……﹂イヴァン・ペトローヴィチは優しくつぶやいて、妻の額ひたいに接せっ吻ぷんをして、﹁あなたは実によい時においでになったんですよ﹂とまた客の方へ話しかけた。﹁わが最愛の妻が一大長編を書き上げましてね、今日それを朗読することになっていますので﹂
﹁ちょいとジャン﹂とヴェーラ・イオーシフォヴナが良おっ人とに言った。﹁dおiちtゃeをsそ うqいuっeてくlだ'さoいnま しnなous donne du th.﹂
スタールツェフはエカテリーナ・イヴァーノヴナにも引き合わされた。これは十八になる娘さんで、すこぶるお母さん似の、やっぱり瘠せぎすな愛くるしい人だった。その表情はまだ子ども子どもしていて、腰つきも細っそりと華きゃ奢しゃだったが、いかにも処おと女めらしいすでにふっくらと発達した胸は、美しく健康そうで、青春を、まぎれもない青春を物語っていた。さてそれからみんなでお茶を飲んで、ジャムだの蜂蜜だのボンボンだの、口へ入れるとたんに溶けてしまうすこぶるおいしいお菓子だのを風味した。夕暮が迫るにつれてだんだんとお客が集まって来たが、その一人一人にイヴァン・ペトローヴィチは例の笑えみこぼれるような眼を向けて、こう挨拶するのであった。――
﹁ようこそどうぞ﹂
やがて一同そろって客間へ通って、すこぶる真面目くさった顔つきで席におさまると、いよいよヴェーラ・イオーシフォヴナが自作の小説を朗読するのだった。彼女はこんなふうに始めた。――﹃凍いてはますますきびしくなって……﹄窓がみんな一杯に開け放してあるので、台所で庖丁をとんとんいわせる音が聞こえ、玉ねぎを揚げるにおいが漂って来た。……深々とやわらかなソファはいい坐り心地だったし、客間の夕闇のなかには灯あかりがいかにも優しげに瞬またたいていた。そして今この夏の夕ぐれに、往来からは人声や笑いごえが伝わって来るし、庭からは紫は丁し香ど花いの匂いの流れて来るなかで、凍てがますますきびしくなって、沈みゆく太陽がその寒さむ々ざむとした光線で雪の平原を照らしたり、ひとり淋さびしく道をゆく旅人を照らしたりしている光景をしみじみ味わい知れというのは、無理な注文というものであった。ヴェーラ・イオーシフォヴナの朗読は進んで、うら若い美びぼ貌うの伯爵夫人がその持村に小学校や病院や図書館を建てる、それから彼女は漂泊の画家に恋してしまう――といったふうな、ついぞこの人生にありようもない絵そら事を読み上げて行くのだったが、それでもやっぱり聴いているのは楽しくいい気持で、脳のう裡りには絶え間なくいかにも立派な安らかな想いが浮かんで来て、――所しょ詮せんたちあがる気にはなれなかった。
﹁悪あしくもないて……﹂とイヴァン・ペトローヴィチが小声で感想を漏らした。
すると客の一人が、拝聴しながら想いをどこやら千里の外に飛ばしていたと見え、やっと聞きとれるほどの声でとんちんかんな相づちをうった。――
﹁いや……実にさようで……﹂
一時間たち、二時間たった。すぐ近所の市立公園ではオーケストラが音楽を奏かなで、合唱団が歌をうたっていた。やがてヴェーラ・イオーシフォヴナがその手帳を閉じたとき、一同はものの五分ほど沈黙のままで、合唱団のうたっている﹃*榾ほだあかり﹄の唄に耳を傾けていた。この唄は、いまの小説の中にこそなかったけれど人生にはよくあることを伝えているのだった。
﹁御作品は雑誌などに発表なさるのですか?﹂と、スタールツェフはヴェーラ・イオーシフォヴナに聞いた。
﹁いいえ﹂と彼女は答えた。﹁どちらへも発表はいたしませんわ。書いては戸棚の中にしまっておきますの。発表して何に致しましょう?﹂とその理由を説明して、﹁だって私どもには財産がございますもの﹂
すると一同はなぜかしら溜ため息いきをついた。
﹁さあ今度はお前さんの番だよ、猫ちゃん、何か一つ弾ひいてごらん﹂とイヴァン・ペトローヴィチが娘に向かって言った。
召使たちがグランド・ピアノの蓋ふたをもち上げ、もうちゃんと用意のしてあった譜本を押しひらいた。エカテリーナ・イヴァーノヴナは席について、両手でもってキーをがんと叩いた。かと思う間もなく、またもや力任せに叩きつけた。それがもう一ぺん、また一ぺん。彼女の肩も胸もともぴりぴりと打ち顫ふるえ、しかも執念ぶかくのべつ同じ場所ばかり叩きつけている有様は、そのキーをピアノの胴中へ叩き込んでしまわぬうちはとても止やめまいと思われるばかりだった。客間は雷鳴でいっぱいになってしまった。何もかもが一つ残らずどよめき渡った――床も、天井も、家具調度も……。エカテリーナ・イヴァーノヴナの弾いているのは難しい経パサ過ージ句ュで、まさにその難しさのゆえにこそ面白いといった、長ったらしく単調なところだったが、スタールツェフは耳を傾けながら、心の中では高い山のうえから石が降って来る、ばらばらとひっきりなしに降ってくる有様を思い描いて、ああ一刻も早く降りやんでくれればいいと念じるのだった。と同時にまた、エカテリーナ・イヴァーノヴナの姿が――額に落ちかかる髪の房を振り払いもせず、緊張のあまり薔ばら薇い色ろに上気して、いかにもがっしりと精力的なその姿が、ひどく好もしいものに思えるのだった。ひと冬をヂャリージで、病人と百姓の中に埋まって暮したあとで、この客間に坐って、この若くって優美な、おまけに恐らくは純潔な生き物をながめ、この騒々しくて退屈きわまる、とはいえ文化的には違いない物の音ねを聴いているのは、――なんといっても実に愉たのしい、実にもの新しい気分だった。……
﹁よおし、猫ちゃんや、今日はまた何い時つにない上出来だったぞ﹂とイヴァン・ペトローヴィチは両眼に涙をうかべて言った。娘が演奏を終えて起たちあがった時にである。﹁*死ね、デニース、これ以上のものはもはや書けまい﹂
一同が彼女をとり巻いて、おめでとうを言ったり、驚嘆してみせたり、あれほどの音楽は絶えて久しく耳にしたことがないと断言したりするのを、彼女は無言のまま微かすかな笑みを浮かべて聴いていたが、その姿いっぱいに大きく﹃勝利﹄と書いてあった。
﹁素敵ですな! 素晴らしいものです!﹂
﹁素敵ですな!﹂スタールツェフも、満座の熱中にばつを合わせて言った。﹁どちらで音楽をお習いになったんですか?﹂と彼はエカテリーナ・イヴァーノヴナに聞いた。﹁音楽学校ですか?﹂
﹁いいえ、音楽学校へはまだこれからはいるところですの。只今のところはここのマダム・ザヴローフスカヤに習っておりますの﹂
﹁あなたはここの女学校をお出になったのですか?﹂
﹁まあ、とんでもない!﹂と彼女に代ってヴェーラ・イオーシフォヴナが答えた。﹁私どもでは先生がたに宅までお出いでを願いましたの。なにせ女学校と申すところは、通わせましても寄宿いたさせましても、御案内の通り、悪い感化を受ける心配がございますものねえ。女の子というものは、育ちます間はやはり母親だけの感化を受けるように致しませんでは﹂
﹁でも音楽学校へはあたし行きますわよ﹂とエカテリーナ・イヴァーノヴナが言った。
﹁いいえ、猫ちゃんはママを愛しておいでだわね。猫ちゃんはパパやママを悲しい目に逢わせはしないことね﹂
﹁いや、行きますわ! あたし行きますわ!﹂エカテリーナ・イヴァーノヴナはふざけて駄々をこねながらそう言って、小さな足をトンと鳴らした。
さて夜食になると、今度はイヴァン・ペトローヴィチが持芸を披露におよぶ番だった。彼は眼だけで笑いながら、一口噺をやったり洒落を飛ばしたり、滑稽な謎々を出して手ずから解いて見せたりした。しかものべつに彼一流の奇妙な言葉を使うのだったが、それは永年の頓とん智ち修行によって編み出されたもので、明らかにもう久しい前から習慣になりきっているらしかった。例えば﹁大々的な﹂とか、﹁悪あしくはない﹂とか、﹁いやいやしく御礼を﹂とか。……
ところがまだそれで種たねぎれではなかった。満腹もし満足もした客たちが玄関にどやどやと集まって、自分の外套やステッキをさがしていると、その周りを下男のパヴルーシャが世話を焼いてまわるのだった。これはパーヴァとこの家で呼びならしている年の頃十四ほどの少年で、いが栗頭で、まるまるした頬ほっぺたをしていた。
﹁さあさ、パーヴァ、一つ演やってごらん!﹂とイヴァン・ペトローヴィチが彼に言った。
パーヴァは見得を切って、片手を高く差しあげると、悲劇口調でいきなりこう叫んだ。――
﹁ても不運な女やつ、死ぬがよい!﹂
で、一同わっとばかり笑い出してしまった。
﹃面白い﹄とスタールツェフは表おもてへ出ながら考えた。
彼はまだ一軒レストランへ寄ってビールを飲み、さてそれから徒て歩くでヂャリージの家をめざした。みちみちのべつに唄を口ずさみながら。――
そなたの声がわが耳に、優しくもまた悩ましく……
二里あまりの道を歩きとおして、やがて寝床にはいってからも、彼はこれっぱかりの疲労も感ぜず、それどころかまだ五里ぐらいは平気で歩けそうな気がした。
﹃悪しくはないて……﹄うとうとしながら彼はふと思い出して、声に出して笑った。
二
スタールツェフはトゥールキン家へ行こう行こうと思い暮しながら、病院の仕事がひどく多忙で、いっかな手すきの時間が得られなかった。そんなふうで一年あまりの時が勤労と孤独のうちに過ぎた。ところが図らずもある日、町から水いろの封筒にはいった手紙がとどいた。
ヴェーラ・イオーシフォヴナはもう久しい以前から偏頭痛に悩まされていたが、それが最近、猫ちゃんが毎日のように音楽学校へ行く行くと威おどかすようになってからは、発作がますます頻繁になって来た。トゥールキン家へは町の医者が入れ代り立ち代り残らずやって来たが、とうとうしまいに郡会医の呼び出される番になったのである。ヴェーラ・イオーシフォヴナの手紙は思わずほろりとさせるような調子で、どうぞ御ごら来い駕がのうえわたくしの苦しみを和らげて下さいましと頼んでいた。スタールツェフはやって来たが、それ以来というもの彼は繁しげ々しげと、すこぶる繁々とトゥールキン家の閾しきいをまたぐようになった。……彼は実のところ少しはヴェーラ・イオーシフォヴナの助けになったので、彼女はもう来る客来る客をつかまえて、これこそ並々ならぬ素晴らしいお医者様だと吹ふい聴ちょうするのだった。ところが彼がトゥールキン家へやって来るのは、もはや彼女の偏頭痛なんぞのためではなかった。……
ある祭日だった。エカテリーナ・イヴァーノヴナは例の長ったらしい、うんざりさせるピアノの稽古を終わった。それからみんなは長いこと食堂に陣どってお茶を飲んで、イヴァン・ペトローヴィチが何やら滑稽な話をしていた。と、その時ベルが鳴った。誰かお客様だから、玄関まで出迎えに立って行かなければならない。スタールツェフはこのひとしきりの混乱に乗じて、エカテリーナ・イヴァーノヴナに向かってひそひそ声で、ひどくどぎまぎしながらこう言った。――
﹁後生です、お願いです、私を苦しめないで下さい、お庭へ出ましょう!﹂
彼女はちょっと肩をすくめて、さも当惑したような、相手が自分に何の用があるのやら腑ふに落ちかねるといった様子だったが、でも起ちあがって歩きだした。
﹁あなたは三時間も四時間もぶっとおしにピアノをお弾きになる﹂と彼はその後からついて行きながら言うのだった。﹁それが済むとママの傍に坐っていらっしゃる。これじゃまるっきりお話をする暇がないじゃありませんか。十五分でも結構ですから私に下さい、お願いです﹂
もうそろそろ秋で、古い庭の中はひっそりとわびしく、並木の道には黒ずんだ落葉が散り敷いていた。もはや黄たそ昏がれるのも早かった。
﹁まる一週間というものお目にかかりませんでしたね﹂とスタールツェフは続けた。﹁それがどんなにつらいことだか、あなたが分かって下すったらなあ! まあ腰を掛けましょう。私の申し上げることをおしまいまで聴いて下さい﹂
二人とも庭の中にお気に入りの場所があった。枝をひろげた楓かえでの老樹の下にあるベンチがそれだった。今もそのベンチに坐ったのである。
﹁どんなお話ですの?﹂とエカテリーナ・イヴァーノヴナは、愛想も素気もない事務的な口調でたずねた。
﹁まる一週間もお目にかかりませんでした、あなたのお声を聞くのも実に久しぶりです。私はとてもあなたのお声が聞きたいんです、聞きたくって堪たまらないんです。何か話をして下さい﹂
彼女が彼の心を魅し去ったのは、その新鮮さ、眼や頬のあどけない表情によってであった。彼女のきものの着こなしまでが、その飾り気のなさや無邪気な雅趣によって、彼の眼には何かこう世の常ならぬ可かれ憐んなもの、いじらしいものに映るのだった。しかも同時に、そんなあどけない様子でいながら、彼には彼女が年に似合わず非常に聡そう明めいな、頭の進んだ女性に見えた。彼女となら彼は文学の話、美術の話、その他なんの話でもできたし、また生活や人間のことで愚ぐ痴ちをこぼすこともできた。尤もっとも真面目な話の最中に彼女がいきなり突拍子もなく笑い出したり、家へ駈かけ込んでしまったりするような場合もあったけれど。彼女はほとんどすべてのS市の娘たちと同様すこぶる読書家だった︵一体がS市の人々は至って読書をしない方だったので、ここの図書館では、若い娘とユダヤの青年がいなかったら、図書館なんぞ閉鎖してもいいくらいだとさえ言っていた︶。この読書好きな点もすこぶるもってスタールツェフの気に入って、彼は顔さえ見れば彼女に向かって、このごろは何を読んでおいでですかと胸躍らせながら尋ね、彼女がその話をしだすと、うっとりとなって聴きほれるのだった。
﹁お目にかからなかったこの一週間、あなたは何を読んでおいででした?﹂さて彼がこう尋ねた。﹁話して下さい、お願いですから﹂
﹁*ピーセムスキイを読んでいましたわ﹂
﹁と仰しゃると何を?﹂
﹁﹃千の魂﹄ですわ﹂と猫ちゃんは答えた。﹁でもピーセムスキイっていう人、随分おかしな名前だったのねえ、――アレクセイ・フェオフィラークトィチだなんて!﹂
﹁おや、どこへいらっしゃるんです?﹂とスタールツェフは、彼女がやにわに立ちあがって家の方へ行きかけたのを見て、ぎょっとして悲鳴をあげた。﹁僕にはぜひともお話ししなけりゃならん事があるんです、どうしても聴いていただきたい事が。……せめて五分間でも僕と一緒にいて下さい! 後生のお願いです!﹂
彼女はもの言いたげな様子でふと足をとめたが、やがて不器用な手つきで彼の掌に何やら書いたものを押しこむと、そのまま家の中へ駈け込んで、またもやピアノに向かってしまった。
﹃今晩十一時に﹄とスタールツェフは読みとった、﹃墓地のデメッティの記念碑の傍においでなさい﹄
﹃ふむ、こいつはどうもすこぶる賢明ならぬことだて﹄と彼は、われにかえってそう考えた。﹃何の因縁があって墓地なんぞを? どういう気だろう?﹄
明らかにこれは、猫ちゃんがからかっているのだ。逢あい引びきをするつもりなら、街なかでも市立公園でも簡単にできるものを、わざわざよる夜中に、それもはるか郊外にある墓地を指定するなんていうことを、じっさい誰が正気で思いつくものだろうか? それに、溜息をついたり、書きつけをもらったり、墓地をうろついたり、今どきじゃ中学生にさえ笑い飛ばされそうな馬鹿げた真ま似ねをするなんて、いやしくも郡会医であり、賢明にして押しも押されぬ名士である彼たるものに似合わしいことだろうか? このロマンスは一体どこまで人を引っ張って行くつもりなんだろう? 同僚に知れたら何と言われるだろう? とそんなことをスタールツェフは、クラブのテーブルのまわりをぐるぐるまわりながら考えていたが、十時半になると急にあたふたと墓地へ車を走らせた。
彼にはもう自家用の二頭立てもあったし、パンテレイモンという天びろ鵞う絨どのチョッキを着たお抱え馭ぎょ者しゃもいた。月夜だった。おだやかで暖かだったが、さすがに秋めいた暖かさであった。町はずれの屠殺場のあたりで犬の群が吠えていた。スタールツェフは町の尽きるところの、とある横町に馬車を残して、自分は歩いて墓地へ向かった。﹃誰にだって妙なところはあるものさ﹄と彼は考えるのだった、﹃猫ちゃんにしても一風変わった娘だからなあ、――なに分かるもんか――ひょっとしたらあれは冗談じゃなくって、本当にやって来るかも知れないさ﹄――そして彼は、この力ない虚うつろな希望に身も心もまかせ切って、そのおかげでうっとり酔い心地になってしまった。
ものの四、五町ほど彼は野道を歩いた。墓地ははるか彼方に黒々とした帯になって現われ、まるで森か、さもなくば大きな庭園を見るようだった。やがて白い石垣や門が見えてきた。……月の光をたよりに、その門の上の方に記された文字が読みとられた。﹃*……の時きたらん﹄というのである。スタールツェフは小くぐ門りからはいると、まず第一に目に触れたのは、ひろい並木路の両側にずらりと立ち並んだ白い十字架や石碑と、それやポプラの木がおとす黒い影とであった。ぐるりを見てもはるか遠方まで白と黒とに塗りつぶされて、眠たげな木々がその枝を白いものかげの上に垂れている。ここは野原の中よりも明るいような気がした。鳥や獣の足によく似た楓の葉が、並木路の黄色い砂の上や墓石の上にくっきりと影を描いて、石碑の文字も明らかに浮かび出ていた。初めのうちスタールツェフは、自分が生涯にいま初めて目にし、そして恐らくもう二度と再び目にする機会はあるまいと思われるこの光景に、すっかり心を打たれてしまった。それは他の何ものにも比べようのない世界、――まるでここが月光の揺ゆり籃かごででもあるかのように、月の光がいかにもめでたくいかにも柔やさしくまどろんでいる世界、そこには生の気配などいくら捜してもありはしないけれど、しかし黒々としたポプラの一本一本、墓の盛土の一つ一つに、静かな、すばらしい、永遠の生を約束してくれる神秘のこもっていることの感じられる、そのような世界であった。墓石からも凋しぼんだ花からも、秋の朽くち葉ばの匂いをまじえて、罪の赦ゆるし、悲哀、それから安息がいぶいて来るのだった。
あたりは沈黙だった。この深い和らぎの中に、大空からは星がみおろしていて、スタールツェフの足音がいかにも鋭く、心なく響きわたるのだった。やがてお寺で夜半の祈きと祷うの鐘が鳴りだすと、彼はふと自分が死んで、ここに永遠に埋められているもののように考えた。するとその時はじめて彼は誰かが自分をじっと見ているような気がして、いやいやこれは安息でも静寂でもないのだ、じつは無に帰したものの遣やる瀬せない憂ゆう愁しゅう、抑えに抑えつけられた絶望なのだと、ひとしきりそんなことを考えた。……
デメッティの記念碑は礼拝堂のような恰かっ好こうをして、天てっ辺ぺんには天使の像がついていた。いつぞやイタリヤの歌劇団が旅のついでにS市に立ち寄ったことがあるが、その歌姫の一人がみまかってここに葬られ、この記念碑が建こん立りゅうされたのであった。町ではもう誰一人その女のことを覚えている人はないが、入口の上のところについている燈明が月の光を照り返して、さながら燃えているようだった。
人影はなかった。まったく誰がこの真夜中にこんな所へやって来るだろう? しかしスタールツェフは待っていた。まるで月の光が彼の身うちの情熱を暖めでもしたように、燃えるような気持で待ちつづけながら、接吻や抱ほう擁ようをしきりに想像に描いていた。彼は記念碑のほとりにものの半時ほど腰かけていたが、やがて帽子を片手にわき径みちからわき径へとひとわたりぶらぶらして、依然こころ待ちに待ちながら、こんなことも考えていた――一体ここには、その辺の塚穴の中には、どれほどの婦人や少女たちが、かつては美しく蠱こわ惑くにみちて、恋いわたり、男の愛あい撫ぶに打ちまかせて夜ごとに情炎を燃やした身を、ひっそりと埋めていることだろう。まったく母なる自然というものは、何と意地わるく人間をからかうものなのだろう! それに想い到ると実に腹立たしい限りではないか! スタールツェフはそんなことを考えていたが、それと同時に彼は、いやいやそんなことは御免だ、是が非でもおれはこの恋を遂げて見せるぞと、大声で叫び出したかった。彼の眼の前にしろじろと見えているものは、もはや大理石の片きれはしではなくて、その一つ一つがみごと円満具足の肉体であった。彼はそれらの姿が羞はじらうように樹こかげに身をかくすのを目にし、その肌の温ぬくもりを身に感ずるのだった。そしてこの悩ましさは切ないほどに募って行った。……
とその時まるで幕が下りたように、月が雲間にかくれて、あたり一めん遽にわかに暗くなった。スタールツェフはやっとのことで門をたずね当て、――何しろ秋の夜の常として今ではもう真っ暗だったので、――それから半時間ほどうろうろしながら、さっき馬車を残してきた横町をさがしまわった。
﹁ああくたびれた、立ってるのもやっとなくらいだよ﹂と彼はパンテレイモンに言った。
そして、ほっとした気持で馬車の中に掛けながら、彼はふとこんなことを考えた。
﹃やれやれ、肥ふとりたくはないものだ!﹄
三
あくる日の夕方、彼は結婚の申し込みをしにトゥールキンへ行った。ところが生あい憎にくのことに、エカテリーナ・イヴァーノヴナは居間に引っ込んで、調髪師に髪を結わせていた。彼女はその晩クラブである舞踏会へ出掛けるところだったのである。
またしても長いこと食堂にすわり込んで、お茶をがぶがぶやっていなければならなかった。イヴァン・ペトローヴィチは、お客が沈み込んで退屈そうにしているのを見ると、チョッキのかくしから何やら書きつけをとり出して、御領地内の錠じょ前うまえ金具ことごとく破損仕り、塗ぬり壁かべも剥はく落らく仕り候云々という、ドイツ人の管理人がよこした滑稽な手紙を読み上げた。
﹃花嫁にはきっと相当な財も産のがつくだろうな﹄とスタールツェフは、ぼんやり耳を傾けながら考えていた。
ゆうべ一睡もしなかったので、彼はふらふらとめまいがして、まるで何か甘ったるい睡眠剤でも嚥のまされたような状態だった。気持はもやもやしていたが、それでいて妙にうれしいような温ぬく々ぬくとした気分で、しかもそのいっぽう頭の中では、何やら冷やかな重くるしい片きれはしが、こんな理屈をこねていた。――
﹃思いとまるんだね、手後れにならんうちにな! あれがお前の手に合う女かい? あれは甘やかされ放題のわがまま娘で、昼の二時までも寝る女なのに、お前と来たら番僧の倅せがれで、たかが田舎医者じゃないか……﹄
﹃ふん、それがどうした?﹄と彼は考えた。﹃いっこう平気じゃないか﹄
﹃それだけじゃない、お前があの娘をもらったら﹄とその片はしは続けた、﹃あれの親類一統はお前に田舎の勤めをやめて、町へ出て来いと言うだろう﹄
﹃ふん、それがどうした?﹄と彼は考えた。﹃町なら町でいいじゃないか。花嫁についた財も産のがないじゃなし、それで立派に門戸が張れようじゃないか……﹄
やっとのことでエカテリーナ・イヴァーノヴナが、舞踏会用のデコルテを着込んで可愛らしいすがすがしい姿になってはいって来たが、するとスタールツェフはすっかり見み惚とれてしまって、有頂天のあまり一言も口がきけず、ただもう眼をみはったままにやにやしているばかりだった。
彼女が行って参りますを言い始めると、彼も――こうなってはもうここに居残っている用もないので――立ちあがって、患者が待っているから家へ帰らなければと言い出した。
﹁致し方もありませんな﹂とイヴァン・ペトローヴィチは言った、﹁ではお出掛け下さいだが、ついでに猫ちゃんをクラブまで送りとどけていただきますかな﹂
そとは雨がぽつぽつ降っていて、ひどい暗さで、ただパンテレイモンの嗄しわがれた咳をたよりに、馬車のありかの見当がつくほどだった。そこで馬車に幌ほろをかけた。
﹁わしはお家うちでお留守番、そなたはべちゃくちゃお出掛けと﹂とイヴァン・ペトローヴィチは娘を馬車へ乗せてやりながら言うのだった、﹁こなたもべちゃくちゃお出掛けと。……さあ出せ! さようならどうぞ!﹂
馬車は動きだした。
﹁僕はきのう墓地へ行きましたよ﹂とスタールツェフは始めた。﹁あなたもずいぶん意地のわるい無慈悲な真似をなさる方かたですねえ。……﹂
﹁あなた墓地へいらしったの?﹂
﹁ええ、行きましたとも、おまけに二時ちかくまでも待っていました。えらい目に逢いましたよ……﹂
﹁たんとそんな目にお逢いなさるがいいわ、冗談の分からないような方は﹂
エカテリーナ・イヴァーノヴナは、自分に参っている男を見事に一番かついでやったし、それに人がこれほど熱心に自分に打ち込んで来るので御機嫌ななめならず、ほほほと笑い出したが、とたんにきゃっと悲鳴をあげた。というのは丁度そのとき馬がクラブの門を入ろうと急にカーヴを切ったので、馬車がぐいと傾かしいだからだった。スタールツェフはエカテリーナ・イヴァーノヴナの腰を抱きとめた。おびえ立った彼女が、ひたと彼に寄りすがって来ると、彼はつい我慢がならなくなって彼女の唇や頤おとがいに熱く熱く接吻して、なおもぎゅっと抱きしめた。
﹁もうたくさんだわ﹂と彼女は素気なく言い放った。
と思った次の瞬間、彼女の姿はもう馬車の中にはなくて、煌こう々こうと灯のともったクラブの車寄せ近くに立っていた巡警が、不愉快きわまる声でパンテレイモンをどなりつけた。――
﹁どうしたんだ、この薄のろ? さっさと出さんか!﹂
スタールツェフはいったん家へ帰ったが、じきにまた引き返して来た。借り物の燕えん尾びふ服くを一着に及び、どうした加減かやたらにばくついてカラーからはみ出そうとするこちこちの白ネクタイをくっつけて、彼は真夜中のクラブの客間に坐り込み、エカテリーナ・イヴァーノヴナを相手に夢中でこんなことをしゃべっていた。――
﹁いやはや、恋をしたことのない連中というものは、じつに物を知らんものですなあ! 僕は思うんですが、恋愛を忠実に描きえた人は未だかつてないですし、またこの優にやさしい、喜ばしい、悩ましくも切ない感情を描き出すなんて、まずまず出来ない相談でしょうねえ。だから一度でもこの感情を味わった人なら、それを言葉で伝えようなんて大それた真似はしないはずですよ。序文だとか描写だとか、そんなものが何になります? 余計な美辞麗句が何になります? 僕の恋は測り知れないほどに深いんです。……お願いです、後生ですから﹂と、とうとうスタールツェフは切り出した、﹁僕の妻になって下さい!﹂
﹁ドミートリイ・イオーヌィチ﹂とエカテリーナ・イヴァーノヴナはひどく真面目な顔をして、ちょっと考えてから言った。﹁ドミートリイ・イオーヌィチ、そう仰しゃって下さるのはあたし本当に有難いと思いますし、またあなたを御尊敬申し上げてもおりますわ。でも……﹂と彼女は立ちあがって、立ったまま後を続けた、﹁でも、堪忍して下さいましね、あなたの奥さんにはわたくしなれませんの。真面目にお話ししましょう。ねえドミートリイ・イオーヌィチ、あなたも御存じの通り、わたしは世の中で何よりも芸術を愛していますの。わたしは音楽を気ちがいのように愛して、いいえ崇拝していて、自分の一生をそれに捧げてしまいましたの。わたしは音楽家になりたいの、わたしは名声や成功や自由が欲しいんですの。それをあなたは、わたしにやっぱりこの町に住んで、このままずるずるとこの空虚で役にも立たない、もう私には我慢のできなくなっている生活を、続けろと仰しゃるんですわ。妻になるなんて――おおいやだ、まっぴらですわ! 人間というものは、高尚な輝かしい目的に向かって進んで行かなければならないのに、家庭生活はわたしを永久に縛りつけてしまうにきまってますわ。ドミートリイ・イオーヌィチ︵と呼びかけて彼女はちらっと微ほほ笑えんだが、それは﹃ドミートリイ・イオーヌィチ﹄と発音したとたんに例の﹃アレクセイ・フェオフィラークトィチ﹄を思い出したからだった︶、ねえドミートリイ・イオーヌィチ、あなたは親切な立派な聡明なかたですわ、あなた他のどなたより優れた方ですわ……﹂と言った彼女の眼には涙がにじみ出た、﹁わたくし心の底から御同情いたしますわ、けれど……けれどあなたも分かって下さいますわね……﹂
そして、泣きだすまいとして、彼女はくるりと身をひるがえすと、客間を出て行ってしまった。
スタールツェフは、今の今まで不安げに打っていた動悸がぱったり止やんでしまった。クラブを出て往来に立つと、彼はまず第一にこちこちのネクタイを襟えりもとから引んもぎって、胸いっぱいにふうっと息をついた。彼は少々恥ずかしくもあり、自尊心も傷つけられていたし、――まさか拒絶されようとは思いもかけなかったので、――おまけに自分があれほどに夢み、悩み、望んでいたことの一切が、まるで素人芝居のけちな脚本にでもあるようなこんな馬鹿げた結末を告げたなどとは、とても信じる気にはなれずにいた。そして自分の感情が、この自分の恋がいかにも不ふび憫んでならず、その不憫さのあまりいきなり手放しでおいおい泣き出すか、さもなければ蝙こう蝠もり傘がさでもってパンテレイモンの幅びろな肩を、力任せにどやしつけるかしたい気がするのだった。
それから三日ほどはてんで何事も手につかず、食事もしなければ眠りもしなかったが、やがてエカテリーナ・イヴァーノヴナが音楽学校にはいりにモスクヴァへ出発したという噂が耳にとどくと、彼はやっと落ち着きを取り戻して、また元の生活に返った。
そののち、自分があの晩、墓地をほっつき歩いたり、町じゅう駈けずりまわって燕尾服をさがしたりしたことを時たま思い出すと、彼はだるそうに伸びをして、こう言うのだった。――
﹁御苦労千万なことさ、何しろ!﹂
四
四年たった。今ではもうスタールツェフには町にもたくさん患家があった。毎あさ彼はヂャリージでの宅診を急いで済ませてから、町へ往診に出かけるのだったが、その馬車ももう二頭立てではなく、じゃらじゃら小鈴のついた三ト頭ロ立イてカで、いつも帰りは夜がふけた。彼はでっぷり肥って来て、おまけに喘ぜん息そくもちになったので、歩くのが億劫でならなかった。パンテレイモンもやはり肥って、ずんぐりと横へ拡がれば拡がるほどますます情けなそうな溜息をつきながら、わが身の悲運をかこつのだった。馭者稼業に骨の髄までやられたのだ!
スタールツェフは方々の家へ出入りして、ずいぶんいろんな人間にぶつかったが、その誰一人とも親しい交わりは結ばなかった。町の連中のおしゃべりを聞いたり、その人生観を聞かされたりすると、いやそれどころかその風ふう采さいを見ただけでさえ、彼はむしゃくしゃして来るのだった。経験を積むにつれて彼にもだんだん分かって来たことだが、こうした町の連中というものはカルタの相手にしたり、飲み食いの相手にしたりしているうちは温厚で、親切気があって、なかなかどうして馬鹿どころではないけれど、いったん彼らを相手に何か歯に合わぬ話、たとえば政治か学問の話をはじめたら最後、先方はたちまちぐいと詰まってしまうか、さもなければこっちが尻しっ尾ぽを巻いて逃げ出すほかはないような、頭の悪いひねくれた哲学を振りまわしはじめるのだった。それどころか、スタールツェフが試しにさる自リ由ベ主ラ義ル的な市民をつかまえて、有難いことに人類はだんだん進歩して行くから、いずれそのうちに旅券だの死刑だのといったものは無くて済むようになるでしょう、例えばそんな話をもちかけると、その相手でさえじろりと横眼でさも胡うさ散んくさそうに彼を眺めて、﹃と仰しゃるとつまり、その時はみんなが往来で相手かまわず斬きって捨ててもいいわけですね?﹄と聞き返すといった調子だった。またスタールツェフが誰かと一緒に夜食なりお茶なりをやりながら、人間は働くということが必要ですね、働かないではとても生きて行けませんねなどと話すと、相手はきまってそれを非難と取って、怒りだしながらねちねちと議論を吹っかけて来るのだった。そのくせこの連中は仕事といったら何一つ、断じて何一つしないし、また何かに興味を持つということもないのだから、それを相手になんの話をしたものやら、とんと思案がつかなかった。でスタールツェフは談話を避けて、飲み食いやカヴルィタン遊トびの方だけを専門にし、仮にひょっくりどこか往診先で、家庭のお祝いにぶつかって食事に招待されたような時でも、席について皿の中をみつめたまま、黙って口を動かすのであった。しかもこうした席で出る話と来たら、どれもこれも面白くもない、偏へん頗ぱで愚劣なことばかりなので、聞いているだけでむしゃくしゃと癇かん癪しゃくが起きて来るのだったが、それでも沈黙を守っていた。で彼がいつもむっつり黙り込んで皿の中ばかり睨にらんでいるもので、町では彼に﹃高慢ちきなポーランド人﹄という綽あだ名なを奉ってしまったが、彼としてはついぞポーランド人になった覚えはなかった。
芝居や音楽会などという娯楽からも彼は遠ざかっていたが、その代りカヴルィタン遊トびは毎晩かかさずに、三時間ぐらいずつも楽しく遊びふけるのだった。それから彼にはもう一つ別の楽しみがあって、いつとはなくだんだんそれが癖になってしまっていたが、それはつまり毎晩ポケットから診察でかせいだ紙幣を引っぱり出してみることで、日によると黄いろや緑いろのお札さつが、香水だの、酢だの、抹香だの、肝油だのとりどりの匂いを発散させながら、方々のポケットに七十ルーブルから詰まっていることがあった。それが積もって何百かになると、彼は﹃相互信用組合﹄へ持って行って当座預金へ振り込むのだった。
エカテリーナ・イヴァーノヴナが立って行ってからまる四年の間に、彼がトゥールキン家を訪れたのは後にも先にもたった二度で、それも相変らず偏頭痛の療治をしているヴェーラ・イオーシフォヴナの招きがあったからであった。毎とし夏になるとエカテリーナ・イヴァーノヴナは両親のところへ帰省したけれど、彼は一度も会わずにしまった。なんとはなしに機会がなかったのである。
ところがそうして四年たってからだった。ある静かな暖かな朝のこと、病院へ一通の手紙がとどけられた。ヴェーラ・イオーシフォヴナからドミートリイ・イオーヌィチに宛てたもので、近頃はさっぱりお見えにならないので淋しくてならない、ぜひお越しくだすってわたくしの悩みを和らげて下さいまし、なおちょうど今日はわたくしの誕生日にも当たりますので、という文面だった。その下の方には追って書きとして、﹃ママのお願いにわたくしも加勢をいたします。ネの字﹄とあった。
スタールツェフはちょっと考えたが、その夕方になるとトゥールキン家へ馬車を走らせた。
﹁やあ、ようこそどうぞ!﹂とイヴァン・ペトローヴィチが眼だけで笑いながら彼を出迎えた。
﹁ボこンんジちュわール﹂
ヴェーラ・イオーシフォヴナは、めっきりもう年をとって髪も白くなっていたが、スタールツェフの手を握ると、とってつけたように溜息をついて、こう言った。――
﹁ねえ先生、あなたはわたくしに慇いん懃ぎんをお寄せくださる思召しがおありなさらないのね、さっぱりわたくしどもへお見えにならないじゃありませんの、どうせあなたには私なんぞもうお婆さんですものね。でもそら、若いのが参っておりましてよ。この人の方はわたくしより持てそうですわねえ﹂
さてその猫ちゃんは? 彼女は前よりも瘠せて、顔の色つやが落ち、それと同時に器量もあがれば姿もよくなっていた。しかしこれはもうエカテリーナ・イヴァーノヴナで、猫ちゃんではなかった。もはや以前の新鮮さも、子ども子どもした罪のない表情もなかった。その眼ざしにも身のこなしにも、何かこう今まではなかったもの――遠慮がちなおどおどした様子があって、現にこのトゥールキンの家にいながら、まるで今ではもうわが家にいる心地がしないといったふうだった。
﹁ほんとに幾夏、幾冬ぶりでしょう!﹂と彼女はスタールツェフに手をさし伸べながら言ったが、胸の動悸がはげしく打っていることはありありと見てとられた。そしてじいっと、さも物珍しげに彼の顔にみいりながら、彼女は言葉をつづけた。﹁まあなんてお肥りになって! 日に焼けて、大人っぽくおなりになったけれど、でも全体にはあまりお変わりになりませんのね﹂
いま見ても彼はこの人が好きになれた。それどころか大いに好きになれたが、しかし今ではこの人に何か足りないもの、さもなければ何か余計なものがあって――もっとも彼自身にも明らかにこれと名指すことはできなかったが、とにかく何かしらが、もはや彼に以前のような感情を抱くことを妨げるのだった。彼の気に入らなかったのは彼女の蒼白さ、むかしはなかった表情、弱々しい微笑、それから声だったが、しばらくすると今度はもうその衣裳も、彼女のかけている肱ひじ掛かけ椅い子すも気にくわなくなり、すんでのことで彼女をもらうところだった過去の記憶にも何やら気にくわぬものが出来てきた。彼はかつて四年まえにわが胸をかき乱していた自分の思慕や夢想や望みを思いだして、変にくすぐったい気持になった。
甘いドーナッツでお茶を飲んだ。それからヴェーラ・イオーシフォヴナが小説の朗読にかかって、ついぞこの人生にありようもない絵そら事を読み上げて行ったが、スタールツェフはそれに耳を傾けたり、彼女の美しい白髪あたまを眺めたりしながら、お仕舞いになるのを待っていた。
﹃無能だというのは﹄と彼は考えるのだった、﹃小説の書けない人のことではない、書いてもそのことが隠せない人のことなのだ﹄
﹁悪あしくもないて﹂とイヴァン・ペトローヴィチが言った。
それからエカテリーナ・イヴァーノヴナがピアノを騒々しく長々と弾いて、それがやっと済むと、みんなで長いことお礼を言ったり感心したりした。
﹃よかったなあ、この人をもらわないで﹄とスタールツェフは思った。
彼女は彼の方を見つめていて、その様子はどうやら彼がお庭へ参りましょうと言い出すのを待っているらしかったが、彼は黙っていた。
﹁ねえ、すこしお話しを致しましょうよ﹂と彼女は歩み寄って来てそう言った。﹁いかがお暮しですの? 何をしていらして? どうですの? わたくしこの頃はずっとあなたのことばかり考えておりましたのよ﹂と彼女は神経質な調子でつづけた。﹁お手紙を差しあげようかしら、自分でヂャリージへお訪ねしてみようかしらと思って、とうとうお訪ねすることに決めたんですけど、またあとで思い返しましたの――だって現在あなたがわたくしのことをどう思っていて下さるのか分からないんですもの。わたくし本当にわくわくしながら今日のおいでをお待ちしておりましたのよ。後生ですわ、お庭へ参りましょうよ﹂
二人は庭へおりて、四年前と同じように、あの楓かえでの老樹の下にあるベンチに腰をかけた。暗い晩だった。
﹁ねえ、いかがお暮しですの?﹂とエカテリーナ・イヴァーノヴナがきいた。
﹁相変らずですな、まあどうにかやっていますよ﹂とスタールツェフは答えた。
それ以上のことは何一つ考え出せなかった。二人はしばらく無言だった。
﹁わたくし何だか落ち着かないで﹂とエカテリーナ・イヴァーノヴナは言って、両手で顔をかくした。﹁でもどうぞお気になさらないでね。家に帰ってみると本当によくって、みなさまにお会いできるのが本当にうれしくって、まだしっくり慣れきれませんの。いろんな思い出がありますわねえ! わたくしこんな気がしていましたの、あなたと二人でさぞのべつ幕なしに、夜が明けるまでおしゃべりをすることでしょうって﹂
いま彼にはちかぢかと彼女の顔やきららかな眼が見えるのだったが、こうして暗がりの中にいると、彼女は部屋の中にいるときよりも若々しく見え、それのみか以前の子ども子どもした表情がもとに戻って来たようにさえ思われた。実際また、彼女はあどけのない好奇の眼をみはって彼の顔をみつめていたのだ。それはさながら、いつぞや自分にあれほど熱烈な、あんなに濃こまやかな、しかもあんなにも報いられぬ愛情を寄せてくれた男を、もっと近く寄ってつくづく眺め、その人柄を呑み込もうとするかのようで、彼女の瞳は男のかつての思慕に対する感謝の色をたたえていた。それを見ると彼には、あの頃あったことの一切が、墓地をさまよい歩いたことから、やがて夜明け近くになってくたくたの体ていでうちへ帰ったことまで細大もらさず思い出されて、急にもの悲しくなり、過ぎし日が惜しまれるのだった。胸の中で小さな火がちょろちょろ燃えはじめた。
﹁あの覚えておいでですか、舞踏会の晩あなたをクラブまでお送りした時のことを?﹂と彼は言った。﹁あのときは雨が降っていて、真っ暗で……﹂
小さな火はいよいよ燃えあがって、とうとう無性にしゃべりたくなった、生活の愚痴がこぼしたくなった……。
﹁いやはや!﹂と彼は溜息まじりに言った。﹁あなたはいま、私がどう暮しているかとお尋ねでしたっけねえ。こんなところでどう暮すも何もあるもんですか? ええありゃしませんとも。年をとる、肥る、焼きがまわる。昼、そして夜、――あっという間に一昼夜、人生はただもやもやと、なんの感銘もなく、なんの想念もなく過ぎてゆく。……昼のうちは儲け仕事、晩になるとクラブがよい、おつきあいの相手と来たらカルタ気ちがいか、アルコール中毒か、ぜいぜい声の痰たんもち先生か、とにかく鼻もちのならぬ連中ばかり。何のいいことがあるもんですか﹂
﹁でもあなたにはお仕事が、生活の高尚な目的がおありですわ。あなたは御自分の病院の話をなさるのがあんなにお好きでいらしたじゃありませんか? わたしあの頃はとてもおかしな娘で、一人で大ピアニストのつもりになっていましたの。今ではどこのお嬢さんでもピアノぐらいお弾きになりますけど、わたしもつまりは皆さんと同じように弾いただけの話で、べつにこの私にとり立ててこれというほどのものなんかありはしなかったんですわ。わたしのピアニストは、ママの小説家と同じことなんですわ。それにもちろん、あの時のわたしにはあなたという方が分かりませんでしたけれど、その後モスクヴァへ行ってからは、よくあなたのことを考えるようになりましたの。実はあなたのことばっかり考えておりましたの。本当になんという幸福でしょう、郡会のお医者さんになって、お気の毒な人たちを助けたり、民衆に奉仕したりするのは。まったく何という幸福でしょう!﹂とエカテリーナ・イヴァーノヴナは夢中になって繰り返した。﹁わたしモスクヴァであなたのことを考えるたびに、とてももう理想的な、けだかい方に思えて……﹂
スタールツェフはふと、自分が毎晩ポケットからほくほくもので引っぱり出す例のお札のことを思い出し、胸の小さな火が消えてしまった。
彼は母おも屋やの方へ行こうと立ちあがった。彼女はならんで彼と腕を組んだ。
﹁あなたはわたしがこれまでに存じ上げたかたの中で一ばんお立派なかたですわ﹂と彼女はつづけた。﹁これからもお会いしましょうね、そうしてお話しを致しましょうね、そうじゃなくって? 約束して下さいましな。わたしピアニストなんかじゃありませんし、もう自分のことであれこれ迷ったりなんぞもしませんわ。それからあなたの前ではピアノも弾きませんし音楽の話もしませんわ﹂
一緒に家の中へはいって、夜のあかりのもとで彼女の顔や、自分にそそがれている悲しげな、感謝にみちた、さぐるような﹇#﹁さぐるような﹂は底本では﹁さぐるやうな﹂﹈眼を見たとき、スタールツェフはふっと不安におそわれて、またしてもこう考えた。
﹃よかったなあ、あのときもらっちまわないで﹄
彼は別れの挨拶をしはじめた。
﹁夜食もあがらないでお帰りになるなんて、そんなローマ法がありましょうかな﹂とイヴァン・ペトローヴィチは彼を送って来ながら言うのだった。﹁それじゃあなた、何ぼ何でも垂直きわまるなさり方ですなあ。おいおい、一つ演やってごらん!﹂彼は玄関でパーヴァに向かってそう言った。
パーヴァはもはや子どもではなく、口くち髭ひげを生やした一人前の若者だったが、それが見得を切って片手をさし上げ、悲劇の声こわ色いろでこう言った。――
﹁ても不運な女やつ、死ぬがよい!﹂
こうしたことが一々みんなスタールツェフの癇かんに障るのだった。馬車の中に腰をおろしながら、かつては自分にとってあれほど懐かしく大切なものだった、黒々とした家や庭を眺めやって、彼は何から何まで――ヴェーラ・イオーシフォヴナの小説のことから、猫ちゃんの騒がしい演奏のこと、イヴァン・ペトローヴィチの駄だじ洒ゃ落れのこと、パーヴァの悲劇の見得のことまで一ぺんに思い出して、町じゅう切っての才子才媛がこんなに無能だとすると、この町というのは一体どんな代しろ物ものなんだろうと考えた。
それから三日するとパーヴァがエカテリーナ・イヴァーノヴナの手紙を持ってきた。
﹃あなたはちっともお見えになりませんのね。なぜですの?﹄と彼女は書いていた。﹃もうわたくしどもをお見かぎりではないのかと案じております。本当に心配で、それを考えただけでもこわくなります。どうぞわたくしを安心させて下さいまし。おいでになって、一ひと言ことそんなことがあるものかと仰しゃってくださいまし。
ぜひちょっとお話し申し上げたいことがありますの。あなたのE・T・﹄
彼はこの手紙を読みおえると、ちょっと考えてからパーヴァに言った。――
﹁なあ君、今日は伺えませんと申し上げてくれ、とても忙しいからって。伺うにしても、そうさな、三日ほどあとになりましょうってな﹂
しかし三日たち一週間たったが、彼は依然として行かなかった。ある日などはちょうどトゥールキン家の前を通りかかって、せめて一分間でも寄らなくちゃ悪いなと思い浮かんだが、ちょっと小首をひねって……寄らないでしまった。
でそれ以来というもの、彼はもう二度とトゥールキン家の閾しきいをまたがなかった。
五
それからまた何年かが過ぎた。スタールツェフはますますふとって脂あぶらぎって来たので、ふうふう息をつきながら、今では頭をぐいとうしろへ反そらして歩いている。ぶくぶくに肥った赭あから顔の彼がじゃらじゃら小鈴のついた三ト頭ロ立イてカに乗って、これもぶくぶくに肥って赤ら顔のパンテレイモンが肉ひだのついた頸くび根っこを見せて馭者台に坐り込み、両の腕をまるで木で作りつけたようにまっすぐ前へ突き出して、行き会う通行人に﹃右へ寄れよお!﹄とどなりながら行くところは、まことにすさまじい限りの光景で、乗って行くのは人間ではなく、邪教の神かなんぞのように思われる。彼が町にもっている患家先の数は大変なもので、ほっと息をつく暇もない有様だし、今ではちゃんと領地もあれば、町には持家が二軒もあるという豪勢ぶりだが、その上にまだ彼はもう一軒、も少し収みい入りのよさそうな家を物色している。で例の﹃相互信用組合﹄で、どこそこの家が競売に出ているという話を聞くと、彼は遠慮会釈もなくその家へ押しかけて、ありったけの部屋を端から通り抜けながら、着るや着ずの姿で彼の方を驚き怖れつつ眺めている女子どもには目もくれずに、扉とぐ口ちへ一々ステッキを突っ込んではこう言うのである。――
﹁これが書斎か? これは寝室だな? そっちは何だ?﹂
そう言いながらふうふう息をついて、額の汗をぬぐうのである。
彼は用事が山ほどあるくせに、それでも郡会医の椅子は投げ出さない。欲の一念にとっつかれてしまって、そっちもこっちも間に合わせたいのである。ヂャリージでも町でも彼のことを簡単にイオーヌィチと呼んでいる。――﹃イオーヌィチはどこへお出掛けかな?﹄とか、﹃イオーヌィチを立会いに頼むとしようか?﹄とかいったぐあいに。
咽の喉どが脂肪ぶくれに腫はれふさがったせいだろうが、彼は声変りがして、ほそい甲高い声になった。性格も一変して、気むずかしい癇癪もちになった。患者を診察する時も、まず大抵はぷりぷりしていて、もどかしげにステッキの先で床をこつこつやりながら、例の感じのわるい声でどなり立てるのである。――
﹁お訊たずねすることだけにお答えなさい! おしゃべりはしないで!﹂
彼は孤独である。来る日も来る日も退屈で、彼の興味をひくものは何一つない。
彼がヂャリージに住むようになってから今日までを通じて、猫ちゃんに恋したことが後にも先にもたった一つの、そして恐らくはこれを最後の悦よろこびごとであった。毎ばん彼はクラブへ行ってカヴルィタン遊トびをやり、それから一人っきりで大きな食卓へ向かって夜食をとる。彼の給仕をするのはイヴァンという一番年のいった長老株のボーイで、十七番の*ラフィットを出すのがおきまりだが、今ではもうクラブの世話人からコックやボーイに至るまで、一人のこらず彼の好き嫌いを呑み込んでいて、ひたすらお気に召すようにと精根を傾けている。やりそこなったら最後、まず碌ろくなことはなく、やにわに怫ふつ然ぜんと色をなして、ステッキで床をこつこつやりだすのが落ちである。
夜食をやりながら、彼は時によると振り返って、何かの話に割り込んで来ることもある。――
﹁それはあなた何のお話ですかな? はあ? 誰の?﹂
またどこか近所の食卓で、談たまたまトゥールキン家のことに及んだりすると、彼はこんなふうにたずねる。――
﹁それはあなた、どこのトゥールキンのお話ですかな? あの、娘さんがピアノを弾きなさるうちのことですかな?﹂
彼の方のお話はこれでおしまいである。
さてトゥールキン家の方は? イヴァン・ペトローヴィチは年もとらず、ちっとも変わらないで、例によって例の如くのべつ洒落のめしたり一口噺をやったりしている。ヴェーラ・イオーシフォヴナはお客の前で自作の小説を、例の心しんから気置きのない態度で、相変らずいそいそと読んできかせる。さて猫ちゃんは、ピアノを毎日毎日四時間ずつも弾いている。彼女は目だって年をとって、ちょいちょい病気をするようになって、秋になるときまってクリミヤへ母親と一緒に出掛けてゆく。イヴァン・ペトローヴィチはふたりを停車場まで送って行き、汽車が動きだすと、涙をぬぐってこう叫ぶ。――
﹁さようならどうぞ!﹂
そしてハンカチを振る。
訳注
﹃榾あかり﹄の唄――ロシヤ農家の宵の情景をうたった哀調ゆたかな民謡。ただし榾とは言っても囲い炉ろ裏りにくべるのではなくて、白しら樺かばなど脂あぶらの多い木の榾を暖炉の上に立てて蝋ろう燭そく代りにともすのがロシヤの貧しい農家のならいであった。
﹁死ね、デニース……﹂云々――この文句は、ロシヤ十八世紀の諷刺劇の大家デニース・フォンヴィージン一代の傑作﹃わか様﹄Nedoroslj が初演︵一七八二年︶された際、時の権臣ポチョームキンが感嘆のあまり発した言葉。﹁死ね、デニース、それとももはやいっさい書くな﹂の形でも伝えられている。
ピーセムスキイ――十九世紀中葉に活躍したロシヤ作家。長篇小説﹃千の魂﹄はその代表作の一つ。
﹃……の時きたらん﹄――墓地の門の上に弓なりに渡したアーチに、﹁墓にある者みな神の子の声をききて出いづる時きたらん﹂︵﹃ヨハネ伝﹄第五章二十八節︶の章句が記してあったのであろう。
ラフィット――ボルドー産赤ぶどう酒の一種。