かもめ

ЧАЙКА

――喜劇 四幕――

アントン・チェーホフ Anton Chekhov

神西清訳




人物
アルカージナ(イリーナ・ニコラーエヴナ) とつぎ先の姓はトレープレヴァ、女優
トレープレフ(コンスタンチン・ガヴリーロヴィチ) その息子、青年
ソーリン(ピョートル・ニコラーエヴィチ) アルカージナの兄
ニーナ(ミハイロヴナ・ザレーチナヤ) 若い処女、裕福な地主の娘
シャムラーエフ(イリヤー・アファナーシエヴィチ) 退職中尉ちゅうい、ソーリン家の支配人
ポリーナ(アンドレーエヴナ) その妻
マーシャ その娘
トリゴーリン(ボリース・アレクセーエヴィチ) 文士
ドールン(エヴゲーニイ・セルゲーエヴィチ) 医師
メドヴェージェンコ(セミョーン・セミョーノヴィチ) 教員
ヤーコフ 下男
料理人
小間使

ソーリン家の田舎屋敷でのこと。――三幕と四幕のあいだに二年間が経過
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第一幕


()()()()

()()

メドヴェージェンコ あなたは、いつ見ても黒い服ですね。どういうわけです?
マーシャ わが人生の喪服なの。あたし、不仕合せな女ですもの。
  ()()退
マーシャ お金のことじゃないの。貧乏人だって、仕合せにはなれるわ。
 
マーシャ (仮舞台のほうを振向いて)もうじき幕があくのね。
 ()()
 ()
メドヴェージェンコ 欲しくないです。(間)

 ()()()

右手から、ソーリンとトレープレフ登場。

 ()()()()()()()
トレープレフ そりゃもちろん、伯父さんは都会に住む人ですよ。(マーシャとメドヴェージェンコを見て)皆さん、始まる時には呼びますよ。今ここにいられちゃ困るな。暫時ざんじご退場を願います。
 ()
 

メドヴェージェンコ (トレープレフに)じゃ、始まる前に、知らせによこしてください。


ふたり退場。

 ()退()()
ヤーコフ (トレープレフに)若旦那わかだんな、〔わっしら〕ちょいと一浴びしてきます。
 
ヤーコフ 承知しやした。(退場)
 ()
ソーリン 結構だな。
 ()()()
 ()()()
  ()()()()()
ソーリン (笑う)まさか、そう気を回さんでも……
 ()()()()()() 椿()() ()()()()()() 
 
 () ()()調()() 
ソーリン 劇場がないじゃ、話になるまい。
 ()()()()()   使()()()()
  
 () 
 
トレープレフ (耳をすます)足音が聞える。……(伯父を抱いて)僕は、あの人なしじゃ生きられない。……あの足音までがすばらしい。……僕は、めちゃめちゃに幸福だ! (足早に、ニーナを迎えに行く。彼女登場)さあ、可愛かわいい魔女が来た、僕の夢が……
ニーナ (興奮のていで)あたし、遅れなかったわね。……ね、遅れやしないでしょう。……
トレープレフ (女の両手にキスしながら)ええ、大丈夫、大丈夫……
  ()()()
ソーリン (笑って)どうやらおめめを、泣きはらしてござる。……ほらほら! 悪い子だ!
 
トレープレフ ほんとに、もう始める時刻だ。みんなを呼んでこなくちゃ。
  ()()退
ハイネ詩、シューマン曲『二人の擲弾兵』の楽譜
 ()()()()()
トレープレフ 僕たちきりですよ。
ニーナ 誰かいるみたいだわ……
トレープレフ いやしない。(接吻せっぷん
ニーナ これ、なんの木?
トレープレフ にれの木。
ニーナ どうして、あんなに黒いのかしら?
トレープレフ もう晩だから、物がみんな黒く見えるのです。そう急いで帰らないでください、後生だから。
ニーナ だめよ。
  
 ()()()()()()()
トレープレフ 僕は君が好きだ。
ニーナ シーッ。
トレープレフ (足音を耳にして)誰だ? ヤーコフ、お前か?
ヤーコフ (仮舞台のかげで)へえ、さようで。
トレープレフ みんな持ち場についてくれ。時刻だ。月は出たかい?
ヤーコフ へえ、さようで。
  ()() ()()()
 
トレープレフ ええ。
ニーナ あの人の小説、すばらしいわ!
トレープレフ (冷やかに)知らないな、読んでないから。
ニーナ あなたの戯曲、なんだかりにくいわ。生きた人間がいないんだもの。
  姿

 

ポリーナとドールン登場。

ポリーナ しめっぽくなってきたわ。引返して、オーバーシューズをはいてらしたら?
ドールン 僕は暑いんです。
 ()()
ドールン (口ずさむ)「言うなかれ、君、青春を失いしと」(訳注 ネクラーソフの詩の一節
ポリーナ あなたは、アルカージナさんと話に身が入りすぎて……つい寒いのも忘れてらしたのね。白状なさい、あのひと、お好きなのね……
ドールン 僕は五十五ですよ。
 
ドールン そこで、どうしろとおっしゃる?
ポリーナ 相手が女優さんだと、いつだって平蜘蛛ぐもみたい。いつだってね!
 ()() 
 
  
ポリーナ (男の手をとらえる)ねえ、あなた!

ドールン シッ、ひとが来ます。


アルカージナがソーリンと腕を組んで、つづいてトリゴーリン、シャムラーエフ、メドヴェージェンコ、マーシャが登場。

 ()()  ()()  () 
アルカージナ あなたはいつも、大昔の人のことばかりおきになるのね。わたしが知るもんですか! (腰をおろす)
   ()()
 

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トレープレフ、仮舞台のかげから登場。

アルカージナ (息子に)ねえ、うちの坊っちゃん、一体いつ幕があくの?
トレープレフ もうすぐです。ざんじご猶予ゆうよ
アルカージナ (『ハムレット』のセリフで)おお、ハムレット、もう何も言うてたもるな! そなたのことばで初めて見たこの魂のむさくろしさ。なんぼうしても落ちぬほどに、黒々と沁込しみこんだ心のけがれ! (訳注 第三幕第四場逍遥の訳による

 ()()()()()()()()() 

仮舞台のかげで角笛の音。

 ()()()
ソーリン 二十万年したら、なんにもないさ。
トレープレフ だから、そのないところを見させるんですよ。

アルカージナ どうともご随意に。わたしたちは寝るから。


()


 ()()鹿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

鬼火があらわれる。

アルカージナ (小声で)なんだかデカダンじみてるね。
トレープレフ (哀願に非難をまじえて)お母さん!
 ()()()()()調()()()()()
アルカージナ 硫黄のにおいがするわね。こんな必要があるの?
トレープレフ ええ。
アルカージナ (笑って)なるほど、効果だね。
トレープレフ お母さん!
ニーナ 人間がいないので、退屈なのだ……
  ()()
アルカージナ それはね、ドクトルが、永遠の物質の父なる悪魔に、脱帽なすったのさ。
トレープレフ (カッとなって、大声で)芝居はやめだ! 沢山だ! 幕をおろせ!
アルカージナ お前、何を怒るのさ?
トレープレフ 沢山です! 幕だ! 幕をおろせったら! (とんと足ぶみして)幕だ! (幕おりる)失礼しました! 芝居を書いたり、上演したりするのは、少数の選ばれた人たちのすることだということを、つい忘れていたもんで。僕はひとのはたけを荒したんだ! 僕が……いや、僕なんか……(まだ何か言いたいが、片手を振って、左手へ退場)
アルカージナ どうしたんだろう、あの子は?
 
アルカージナ わたし、あの子に何を言ったかしら?
ソーリン だって、恥をかかしたじゃないか。
 
ソーリン まあさ、それにしたって……
 ()  () ()()
ソーリン あの子は、お前のつれづれを慰めようと思ったんだよ。
  ()()
トリゴーリン 人間誰しも、書きたいことを、書けるように書く。
 
 () 
 ()退
メドヴェージェンコ 何がなんでも、霊魂と物質を区別する根拠はないです。そもそも霊魂にしてからが、物質の原子の集合なのかも知れんですからね。(語気をつよめて、トリゴーリンに)で一つ、どうでしょう、われわれ教員仲間がどんな暮しをしているか――それをひとつ戯曲に書いて、舞台で演じてみたら。つらいです、じつに辛い生活です!
 ()  
ポリーナ 向う岸ですわ。(間)
 ()()()()()   
マーシャ あたし行って、捜してみましょう。
アルカージナ ええ、お願い。
マーシャ (左手へ行く)ほおい! トレープレフさん!……ほおい! (退場)
ニーナ (仮舞台のかげから出てきながら)もう続きはないらしいから、あたし出て行ってもいいのね。今晩は! (アルカージナおよびポリーナとキスを交す)
ソーリン ブラボー! ブラボー!
    
ニーナ まあ、あたしの夢もそうなの! (ため息をついて)でも、実現しっこありませんわ。
アルカージナ そんなことあるもんですか。さ、ご紹介しましょう――こちらはトリゴーリンさん、ボリース・アレクセーエヴィチ。
ニーナ まあ、うれしい……(どぎまぎして)いつもお作は……
 ()
ドールン もう幕をあげてもいいでしょうな、どうも気づまりでいかん。
シャムラーエフ (大声で)ヤーコフ、ちょっくら一つ、幕をあげてくれんか! (幕あがる)
ニーナ (トリゴーリンに)ね、いかが、妙な芝居でしょう?
 
ニーナ ええ。
トリゴーリン 僕は釣りが好きでしてね。夕方、岸に坐りこんで、じっと浮子うきを見てるほど楽しいことは、ほかにありませんね。
ニーナ でも、いったん創作の楽しみを味わった方には、ほかの楽しみなんか無くなるんじゃないかしら。
アルカージナ (笑い声を立てて)そんなこと言わないほうがいいわ。このかた、ひとから持ちあげられると、しりもちをつく癖がおありなの。
  ()()()
ドールン 静寂しじまの天使とびすぎぬ。(訳注 一座が急にシーンとしたときに言うことば
ニーナ わたし、行かなくちゃ。さようなら。
アルカージナ どこへいらっしゃるの? こんなに早くから? 放しちゃあげませんよ。
ニーナ パパが待ってますから。
 
ニーナ わたしだって、おいとまするの、どんなに辛いかわかりませんわ!
アルカージナ 誰かお送りするといいんだけれど、心配よ。
ニーナ (おどおどして)まあそんな、いいんですの!
ソーリン (哀願するように彼女に)もっと、いてくださいよ!
ニーナ 駄目だめなんですの、ソーリンさん。
ソーリン せめて一時間――とまあいった次第でね。いいじゃありませんか、ほんとに……
ニーナ (ちょっと考えて、涙声で)いけませんわ! (握手して、足早に退場)
 ()()()
ドールン さよう、あの子の親父おやじさんは相当な人でなしでね、一言の弁解の余地もありませんや。
 ()
 ()
シャムラーエフ (妻に片手をさしのべて)マダーム?
 ()
 

メドヴェージェンコ 給料はどれくらいでしょうかね、クレムリンあたりの歌うたいだと?


ドールンのほか一同退場。

 ()
トレープレフ (登場)もう誰もいない。
ドールン 僕がいます。
トレープレフ 僕を庭じゅう捜しまわってるんだ、あのマーシャのやつ。やりきれない女だ。

ドールン ねえトレープレフ君、僕は君の芝居が、すっかり気に入っちまった。ちょいとこう風変りで、しかも終りのほうは聞かなかったけれど、とにかく印象は強烈ですね。君は天分のある人だ、ずっと続けてやるんですね。


トレープレフはぎゅっと相手の手を握り、いきなり抱きつく。

 ()()
トレープレフ じゃあなたは――続けろと言うんですね?
 ()()()()()()()()
トレープレフ お話中ですが、ニーナさんはどこでしょう?
 ()()
トレープレフ (じれったそうに)どこにいるんです。ニーナさんは?
ドールン うちへ帰ったですよ。

トレープレフ (絶望的に)ああ、どうしよう? 僕はあの人に会いたいんだ。……ぜひ会わなくちゃ。これから行ってこよう……


マーシャ登場。

ドールン (トレープレフに)まあ落着きたまえ、君。
トレープレフ とにかく行ってきます。行かなくちゃならんのです。
 
   
ドールン まあまあまあ、君……そんな滅茶めちゃな。……いけないなあ。
トレープレフ (涙声で)さようなら、ドクトル。感謝します……(退場)
ドールン (ため息をついて)若い、若いなあ!
マーシャ ほかに言いようがなくなると、みなさんおっしゃるのね――若い、若いって……(かぎタバコをかぐ)
  
マーシャ ちょっと待って。
ドールン なんです?
 ()()
ドールン どうしたんです? 何を助けろと言うんです?
 () 
      
――幕――
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第二幕


()()()()

 
ドールン あなたです、もちろん。
  使()
マーシャ わたしは、こんな気がしますの――まるで自分が、もうずっと昔から生れているみたいな。お儀式用のあの長ったらしいスカートよろしく、自分の生活をずるずる引きずってるみたいな気がね。……生きようなんて気持が、てんでなくなることだってよくありますわ。(腰をおろす)でも、くだらないわね、そんなこと。奮起一番、こんな妄念もうねんたたきださなくちゃいけないわ。
ドールン (小声で口ずさむ)「ことづてよ、おお、花々」……(訳注 グーノーの歌劇『ファウスト』第三幕、ジーベルの詠唱より
グーノー作『ファウスト』の楽譜
  C()o()m()m()e()()il faut ()()()() ()()()
 ()

 ()()()()()()()()

ソーリンがつえにたよりながら登場。ならんでニーナ。そのあとからメドヴェージェンコが、空っぽのひじかけ椅子いす訳注 車のついた)を押してくる。

 調 ()()   ()
ニーナ (アルカージナの隣に腰かけ、彼女に抱きつく)わたしほんとに幸福! これでもうわたし、あなた方のものですわ。
ソーリン (自分の肘かけ椅子にかける)今日はこの人、じつにきれいだなあ。
 ()()
ニーナ 水浴び場で、釣りをしてらっしゃるの。
アルカージナ よく飽きないものねえ! (つづけて読もうとする)
ニーナ それ、なんですの?
 ()  
 
ニーナ (肩をすくめて)あら、あれを? とてもつまんないのよ!

 ()()

ソーリンのいびきが聞える。

ドールン ごゆるりと!
アルカージナ ねえ、ペトルーシャ!
ソーリン ああ?
アルカージナ 寝てらっしゃるの?

ソーリン いいや、どうして。


間。

アルカージナ あなたは療治をなさらない、いけないわ、兄さん。
ソーリン 療治したいのは山々だが、このドクトルが、してやろうとおっしゃらん。
ドールン 六十の療治ですか!
ソーリン 六十になったって、生きたいさ。
ドールン (吐き出すように)ええ! じゃ、カノコそうの水薬(訳注 カノコ草の根から製した鎮静剤)でもやるですな。
アルカージナ どこか、温泉にでも行ったらいいんじゃないかしら。
ドールン ほほう? 行くのもよし、行かないのもまたよしですな。
アルカージナ ややこしいわね。

ドールン ややこしいも何もない。はっきりしてますよ。


間。

メドヴェージェンコ ソーリンさんは、タバコをやめるべきでしょうな。
ソーリン くだらん。
 
  
 
マーシャ (立ちあがる)もう午食おひるの時間よ、きっと。(だらけた気力のない歩き方をする)足がしびれたわ。……(退場)
ドールン ああして行って、午食の前に〔ウオトカを〕二杯ひっかけるんだ。
ソーリン わが身に仕合せのないだからね、可哀かわいそうに。
ドールン つまらんことを、ええ閣下。
ソーリン そらそれが、腹いっぱい食った人の理屈さ。
 退()()退 
ニーナ (感激して)すばらしいわ! わたし、わかりますわ。
 ()

ドールン (口ずさむ)「ことづてよ、おお、花々」……


シャムラーエフ登場。つづいて、ポリーナ。

 () ()()()
アルカージナ ええ、そのつもりなの。
  使
アルカージナ どんな馬? 知るもんですか――そんなこと!
ソーリン うちには、よそ行きのやつがあるはずだが。
シャムラーエフ (興奮して)よそ行きの? では、頸輪くびわはどうすればいいのです? どこから持ってくればよろしいんです? こりゃ驚いた! さっぱりわからん! ねえ奥さん! 失礼ながら、わたしはあなたの才能を崇拝して、あなたのためなら、十年の命を投げだすのもいといませんが、しかし馬は絶対ご用だてできません!
アルカージナ でも、わたしがどうしても出かけなけりゃならないとしたらどう? 妙な話だこと!
シャムラーエフ 奥さん! あなたはわかっておいでなさらん、農家の経営というものが!
 ()() 
シャムラーエフ (カッとして)そういうことなら、わたしは辞職します! べつの支配人をおさがしなさい! (退場)
 ()  退()竿()()()
   
ニーナ (ポリーナに)アルカージナさんのような、有名な女優さんにさからうなんて! そのお望みとあれば、たとえ気まぐれにしたって、お宅の経営よりか大切じゃありませんの? あきれて物も言えないわ!
ポリーナ (身も世もあらず)どうしろとおっしゃるの? わたしの身にもなってちょうだい、どうすればいいと仰しゃるの?
 ()  
 ()()
 退
 ()()()()
 ()() ()()
ドールン 僕は五十五ですよ、今さら生活を変えようたってもう遅い。

 

ニーナが家のほとりに現われる。彼女は花を摘む。

ドールン そんなばかなことが。
 ()()
ドールン (近づいて来たニーナに)どうです。あちらの様子は?
ニーナ アルカージナさんは泣いてらっしゃるし、ソーリンさんはまた喘息ぜんそくよ。
ドールン (立ちあがる)どれ行って、カノコ草の水薬でも、ふたりに飲ませるか。……
ニーナ (彼に花をわたして)どうぞ!
ドールン こりゃどうもメルシ・ビエン。(家のほうへ行く)
 ()()   
  ()()
トレープレフ (無帽で登場。猟銃と、かもめ死骸しがいを持つ)一人っきりなの?

ニーナ ええ、そう。


トレープレフ、鴎を彼女の足もとに置く。

ニーナ どういうこと、これ?
トレープレフ 今日ぼくは、この鴎を殺すような下劣な真似まねをした。あなたの足もとにささげます。
ニーナ どうかなすったの? (鴎を持ちあげて、じっと見つめる)
トレープレフ (間をおいて)おっつけ僕も、こんなふうに僕自身を殺すんです。
ニーナ すっかり人が違ったみたい。
 
 使
 () ()※(疑問符感嘆符、1-8-77) () ()()()()()調退
トリゴーリン (手帳に書きこみながら)かぎタバコを用い、ウオトカを飲む。……いつも黒服と。教師が恋する……
ニーナ ご機嫌よう、トリゴーリンさん!
 ()
ニーナ わたしは、ちょいちょいあなたと入れ代りになってみたいわ。
トリゴーリン なぜね?
  
  
ニーナ でも、自分のことが新聞に出ているのをご覧になったら?
トリゴーリン められればいい気持だし、やっつけられると、それから二日は不機嫌を感じますね。
  () 退()
  
ニーナ あなたの生活は、すてきな生活ですわ!
 ()()() ()() ()()()使()()()使()使 ()()()()   ()() ()()()() 
 ()
 ()()()()
 
  ()()()
  ()
トリゴーリン ほう、祭礼の馬車か。……アガメンノンですかね、このわたしが! (ふたり微笑する)
 
アルカージナの声 (家の中から)トリゴーリンさん!
トリゴーリン わたしを呼んでいる。きっと荷づくりでしょう。だが、ちたくないなあ。(湖の方を振返って)なんという自然の恩恵だ!……すばらしい!
ニーナ 向う岸に、家と庭が見えるでしょう?
トリゴーリン ええ。
 ()
トリゴーリン ここはまったくすばらしい! (かもめを見とめて)なんです、これは?
ニーナ かもめよ。トレープレフさんがったの。
 
ニーナ なに書いてらっしゃるの?

トリゴーリン ちょっと書きとめとくんです。……題材が浮んだものでね。……(手帳をしまいながら)ほんの短編ですがね、湖のほとりに、ちょうどあなたみたいな若い娘が、子供の時から住んでいる。鴎のように湖が好きで、鴎のように幸福で自由だ。ところが、ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまう――ほら、この鴎のようにね。


間。――やがて窓にアルカージナが現われる。

アルカージナ トリゴーリンさん、どこにいらっしゃるの?
トリゴーリン 今すぐ! (行きかけて、ニーナを振返る。窓のそばでアルカージナに)なんです?

アルカージナ わたしたち、このままいることにしますわ。


トリゴーリン、家へはいる。

ニーナ (脚光ちかく歩みよる。やや沈思ののちに)夢だわ!
――幕――
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第三幕


()()() 

 使()
トリゴーリン どんな具合にね?
マーシャ 嫁に行くんです。メドヴェージェンコのところへ。
トリゴーリン あの教師せんせいのところへね?
マーシャ ええ。
トリゴーリン わからんな。なんの必要があって。
 
トリゴーリン 過ぎやしないかな?
   
トリゴーリン わたしだって、ちたくはないんだが。
マーシャ だからあの人に、もっといるようにお頼みになったら。
 ()() 

マーシャ それに嫉妬しっとも手伝ってね。でも、わたしの知った事じゃないわ。


間。ヤーコフが左手から右手へ、トランクをさげて通る。ニーナが登場して、窓ぎわに立ちどまる。

 ()()()() 退
ニーナ (握りこぶしにした片手を、トリゴーリンのほうへさしのべながら)偶数? 奇数?
トリゴーリン 偶数。
 
トリゴーリン そんなこと、言える人があるものですか。(間)
ニーナ お別れですわね……多分もう二度とお目にかかる時はないでしょう。どうぞ記念に、この小さなロケットをお受けになって。あなたの頭文字かしらもじを彫らせましたの……こちら側には『昼と夜』と、あなたのご本の題をね。
トリゴーリン じつに優美だ! (ロケットに接吻せっぷんする)何よりの贈物です!
ニーナ 時にはわたしのことも思い出してね。
トリゴーリン 思い出しますとも。その思い出すのは、あの晴れた日のあなたの姿でしょうよ――覚えてますか?――一週間まえ、あなたが薄色の服を着てらした時のことを……いろんな話をしましたっけね……それにあの時、ベンチに白いかもめがのせてあった。
 退()()()()()
   
トリゴーリン ええ。
アルカージナ 失礼パルドン、お邪魔しましたわね……(腰をおろす)さあ、どうにかすっかり片づいた。へとへとよ。
トリゴーリン (ロケットの字を読む)『昼と夜』、百二十一ページ、十一と二行。
ヤーコフ (テーブルの上を片づけながら)釣竿つりざおもやはり入れますんで?
トリゴーリン そう、あれはまだるからね。本はみな誰かにやってくれ。
ヤーコフ かしこまりました。
  
アルカージナ 兄の書斎の、すみっこの棚にありますよ。
トリゴーリン 百二十一ページと……(退場)
アルカージナ ね、ほんとにペトルーシャ、ここにじっとしていらっしゃいよ……
ソーリン お前たちがって行くと、あとにぽつねんとしてるのはつらくてな。
アルカージナ じゃ、町へ行けばどうなの?
  ()
 退()()()()
  ()()()()()()()
アルカージナ あの子には、ほんとに泣かされるわ! (考えこんで)勤めに出てみたらどうかしら……
 ()()()

 

ソーリン笑う。

アルカージナ ないのよ!
 ()()()()
アルカージナ (涙ぐんで)わたし、お金がありません!
 ()()使
アルカージナ それはわたしだって、お金のないことはないけれど、なにせ女優ですものね。衣裳いしょう代だけでも身代かぎりしちまうわ。
 

アルカージナ (仰天して)ペトルーシャ! (懸命に彼をささえながら)ペトルーシャ、しっかりして……(叫ぶ)誰か来て。誰か早く!……


頭に包帯したトレープレフと、メドヴェージェンコ登場。

アルカージナ 気持が悪くなったのよ!
ソーリン いやなに、なんでもない……(ほほえんで、水を飲む)もう直った……とまあいった次第でな。……
 
ソーリン うん、ちょっぴりな。……だが、とにかく町へは行くよ。……ひと休みして出かける……論より証拠だ……(つえにすがりながら歩く)
メドヴェージェンコ (腕を支えてやりながら)こんな謎々なぞなぞがありますよ。朝は四つ足、昼は二本足、夕方は三本足……
ソーリン (笑う)そのとおり。そして、夜にゃ仰向けか。いやありがとう、もう一人で行けますよ……
メドヴェージェンコ ほらまた、そんな遠慮を!……(彼とソーリン退場)
アルカージナ ああ、びっくりした!
 

アルカージナ わたしにお金があるもんですか。わたしは女優で、銀行家じゃないもの。


間。

トレープレフ ママ、包帯を換えてくれませんか。あなたは上手じょうずだから。
アルカージナ (薬品戸棚からヨードホルムと包帯箱を取り出す)ドクトルは遅いこと。
トレープレフ 十時ごろって言ってたのに、もうおひるだ。
 ()()()()()
 ()() ()使
アルカージナ 忘れたわ。(新しい包帯を巻いてやる)
トレープレフ うちと同じアパートに、あのころバレリーナが二人住んでいて……よくお母さんのところへ、コーヒーを飲みに来たっけ……
アルカージナ それは、おぼえていますよ。
 
アルカージナ お前は、あの人がわからないんだよ。えコンスタンチン。あの人は、人格の高いりっぱな人ですよ……
トレープレフ ところが、僕が決闘を申しこもうとしていると人から聞くと、人格者たちまち変じて卑怯者ひきょうものになっちまったってね。いよいよつんでしょう。見ぐるしい脱走だ!
アルカージナ ばかをお言い! ここを発つように頼んだのは、このわたしですよ。
  ()()()
アルカージナ お前は、わたしにいやがらせを言うのが楽しみなんだね。わたしはあの人を尊敬しているのだから、わたしの前じゃあの人のことを悪く言わないでもらいたいね。
トレープレフ ところが僕は尊敬していない。お母さんは、僕にまであの男を天才だと思わせたいんでしょうが、僕はうそがつけないもんで失礼――あいつの作品にゃ虫酸むしずが走りますよ。
アルカージナ それがねたみというものよ。才能のないくせに野心ばかりある人にゃ、ほんものの天才をこきおろすほかに道はないからね。結構なお慰みですよ!
トレープレフ (皮肉に)ほんものの天才か! (憤然として)こうなったらもう言っちまうが、僕の才能は、あんたがたの誰よりも上なんだ! (頭の包帯をむしりとる)あんたがた古いからをかぶった連中が、芸術の王座にのしあがって、自分たちのすることだけが正しい、本物だとめこんで、あとのものを迫害し窒息させるんだ! そんなもの、誰が認めてやるもんか! 断じて認めないぞ、あんたも、あいつも!
アルカージナ デカダン……!
トレープレフ さっさと古巣の劇場こやへ行って、気の抜けたやくざ芝居にでも出るがいいや!
 () ()() ()()
トレープレフ けちんぼ!

アルカージナ 宿なし!


トレープレフ腰をおろして、静かに泣く。

  ()()()()()
トレープレフ (母親を抱いて)僕の気持がお母さんにわかったらなあ! 僕は何もかも、すっかりくしてしまった。あの人は僕を愛していない、僕はもう書く気がしない……希望がみんな消えちまったんだ……
 ()
トレープレフ (母親の手にキスして)ええ、ママ。
 
 

トリゴーリン (本のページをさがしながら)百二十一ページ……十一と二行。……これだ。……(読む)「もしいつか、わたしの命がお入り用になったら、いらして、お取りになってね」


トレープレフ、床の包帯をひろって退場。

アルカージナ (時計をちらと見て)そろそろ馬車が来ますよ。
トリゴーリン (ひとりごと)もしいつか、わたしの命がお入り用になったら、いらして、お取りになってね。
アルカージナ あなたの荷づくりは、もうできたでしょうね?

 ()

アルカージナ、かぶりを振る。

トリゴーリン ね、いようじゃないか!
 
 ()()
アルカージナ (すっかり興奮して)そんなに夢中なの?
トリゴーリン どうしてもきつけられるんだ! ひょっとすると、これこそ僕の求めていたものかも知れない。
アルカージナ たかが田舎娘の愛がね? あなたはなんて自分を知らないんでしょうね!
 
 ()()
  
アルカージナ (憤然と)気がちがったのね!
トリゴーリン それでもかまわん。
アルカージナ あんたがたは今日、言い合せたように、寄ってたかってわたしをいじめるのね! (泣く)
トリゴーリン (自分の頭をかかえて)わかってくれない! てんでわかろうとしないんだ!
 ()    ()()()
トリゴーリン 人が来ますよ。(女をたすけ起す)
 ()()()()   () ()()()  
 () 
 調
トリゴーリン いや、こうなったらいっしょに発とう。

アルカージナ お好きなように。いっしょならいっしょでいいわ。……(間)


トリゴーリン、手帳に書きこむ。

アルカージナ なんですの、それ?
 使 

 調  便 ()()()()()()()()

彼がしゃべっている間に、ヤーコフは旅行カバンの世話をやき、小間使は帽子やマントやコウモリや手袋を、アルカージナに持ってくる。皆々アルカージナの身支度を手伝う。左手のドアから料理人がのぞきこみ、しばらくためらった後、おずおずとはいってくる。ポリーナ、やがてソーリン、メドヴェージェンコ登場。

ポリーナ (手かごを持って)このスモモを、どうぞ道中めしあがって……。大そう甘うございますよ。何か変ったものも、欲しくおなりかも知れませんから……
アルカージナ まあ親切にね。ポリーナさん。
ポリーナ ご機嫌よろしゅう、奥さま! 不行届きのことがありましたら、お赦しくださいまし。(泣く)
アルカージナ (彼女を抱いて)みんな結構でしたよ、結構でしたよ。ただその、泣くのがいけないわ。
ポリーナ わたくしたちの時は過ぎて行きますもの!
アルカージナ 仕方のないことよ!
 退
メドヴェージェンコ 僕は停車場まで歩いて行きます……お見送りにね。ひとつ急いで……(退場)
 使
料理人 どうもありがとうございます、奥さま。道中ごぶじで! 何かとよくして頂きまして!
ヤーコフ どうぞ、ご息災で!
シャムラーエフ ちょいと一筆お手紙を頂きたいもので! ご機嫌よう、トリゴーリンさん!

  ()

退使()退

  
 ()
トリゴーリン (ちらと後ろを振返って)宿は、「スラヴャンスキイ・バザール」(訳注 モスクワの有名なホテル)になさい。……そしてすぐ僕に知らせて……モルチャーノフカ、グロホーリスキイ館。……いまは急ぐから……(間)
ニーナ もう一分だけ……
  使

――幕――


◯第三幕と第四幕のあいだに二年経過。
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第四幕


使調()()()()()()()()()

   ()
メドヴェージェンコ 孤独がこわいんだ。(耳をすます)なんてすごい天気だ! これでもう二昼夜だからな。
マーシャ (ランプの火を大きくして)湖には波が立ってるわ。大きな波が。
 ()()()
マーシャ また、あんなことを……(間)
メドヴェージェンコ うちへ帰ろう、マーシャ!
マーシャ (かぶりを振る)わたし、ここに泊るの。
メドヴェージェンコ (哀願するように)マーシャ、帰ろうよ! 赤んぼがきっと、腹をすかしてるよ。
マーシャ 平気よ。マトリョーナが飲ませてくれるわ。(間)
メドヴェージェンコ 可哀かわいそうだ。もうこれで三晩、おっさんの顔を見ないんだからな。
 退
メドヴェージェンコ 帰ろうよ、マーシャ!
マーシャ ひとりで帰ったらいいわ。
メドヴェージェンコ お前のお父さん、僕にゃ馬を出してくれないよ。
マーシャ 出してくれてよ。願いますと言や、出してくれるわ。
メドヴェージェンコ まあ、頼んでみよう。じゃあすは帰るだろうね?

マーシャ (かぎタバコをかぐ)ええ、あしたはね。うるさいわねえ……


トレープレフとポリーナ登場。トレープレフはまくらと毛布を、ポリーナはシーツを持ちこみ、トルコ風の長椅子の上に置く。それからトレープレフは自分のデスクに行って、腰をおろす。

マーシャ それ、どうするの、ママ?
ポリーナ ソーリンさんが、コースチャの部屋にとこをとってくれとおっしゃるんだよ。
マーシャ わたしがするわ……(寝床をつくる)
ポリーナ (ため息をついて)年をとると、子供も同じだねえ……(デスクに近寄り、ひじをついて原稿をながめる。間)
 
ポリーナ (腹だたしげに)いいからさ! さっさとお帰り。

メドヴェージェンコ おやすみ、トレープレフさん。


トレープレフ黙って手を出す。メドヴェージェンコ退場。

 稿()()()
マーシャ (床をのべながら)そっとしておいたげてよ、ママ。

ポリーナ (トレープレフに)これで、なかなか好い子さんですよ。(間)女というものはね、コースチャ、優しい目で見てもらいさえすりゃ、ほかになんにもらないものよ。わたしも身に覚えがあるけど。


トレープレフ、デスクから立ちあがり、黙って退場。

マーシャ ほら、怒らしちまった。うるさくするからよ!
ポリーナ わたしはお前が不憫ふびんなんだよ、マーシェンカ。
マーシャ ありがたい仕合せだわ!
ポリーナ お前のことで、わたしは胸を痛めつづけてきたよ。すっかり見てるんだものね、みんなわかってるんだものね。

 ()()

ふた部屋ほど向うで、メランコリックなワルツが聞える。

ポリーナ コースチャが弾いている。気がふさぐんだね。

 

左手のドアがあいて、ドールンとメドヴェージェンコが、車椅子のソーリンを押しながら登場。

メドヴェージェンコ 僕のところは、今じゃ六人家族でしてね。ところが粉は一プード(訳注 十六キロ余)七十コペイカもするんで。
ドールン そこでキリキリ舞いになる。
メドヴェージェンコ あなたは笑っていればいいでしょう。お金のうなってる人はね。
  ()()使
マーシャ (夫に)まだ帰らなかったの?
メドヴェージェンコ (済まなそうに)どうしたらいいのさ? 馬を出してくれないもの!

マーシャ (さも忌々いまいましそうに、小声で)あんたみたいな人、見たくもないわ!


()()

ドールン しかし、ここも変ったものですなあ! 客間が書斎になってしまった。

マーシャ トレープレフさんには、ここのほうがお仕事には都合がいいの。好きな時に庭へ出て、ものが考えられますものね。


夜番の拍子木の音。

ソーリン 妹はどこかな?
ドールン トリゴーリンを迎えに、停車場へね。もうじきお帰りでしょう。
 
ドールン じゃ、何がお望みなんです? カノコ草の水薬ですか? ソーダですか! キニーネですか?
  
ポリーナ あなたのですわ、ソーリンさま。
ソーリン それはかたじけない。
ドールン (口ずさむ)「月は夜ぞらを渡りゆく」……
 ()()()()
ドールン 四等官になりたかった――それは、なれた。
ソーリン (笑う)それは別に望んだわけじゃないが、ひとりでにそうなった。
ドールン 六十二にもなって人生に文句をつけるなんて、失礼ながら、――めた話じゃないですよ。
ソーリン なんという、わからず屋だ。生きたいと言っているのに!
ドールン それが浅はかというものです。自然律によって、一切の生は終りなからざるべからずですからね。
 ()
 ()() 

ソーリン (笑う)二十八年……


トレープレフ登場して、ソーリンの足もとの小さな腰掛にかける。マーシャは終始彼から眼をはなさない。

ドールン われわれがこうしていちゃ、トレープレフ君の仕事の邪魔ですな。

トレープレフ いや、かまいません。


間。

メドヴェージェンコ ちょっとお尋ねしますが、ドクトル、外国の町のうち、どこが一等お気に入りました?
ドールン ジェノアですね。
トレープレフ なぜジェノアなんです?
 () 
トレープレフ たぶん健在でしょう。
ドールン 僕の聞いたところでは、あの人は何かいわくのある生活をしたそうだが、どういうことなのかな?
トレープレフ それは、ドクトル、長い話ですよ。
ドールン それを君、てみじかにさ。(間)
トレープレフ あの人は家出をして、トリゴーリンといっしょになりました。これはご存じですね?
ドールン 知っています。
 ()()
ドールン 舞台のほうは?
 ()()()調()
ドールン すると、とにかく才能はあるんだな?
 宿 ()()()() ()()
ドールン 来てるって、そりゃまたどうして?
 
 ()()
 ()()()()
ソーリン チャーミングな娘だったがな。
ドールン え、なんです?
ソーリン チャーミングな子だった、と言うのさ。四等官ソーリン閣下までが、ひところあの子にれていたものな。

ドールン 老いたる女たらしロヴレス訳注 リチャードソンの小説『クラリッサ・ハーロウ』の人物の名から)か。


シャムラーエフの笑い声が聞える。

ポリーナ 皆さん停車場からお帰りのようですよ……

トレープレフ そう、ママの声もする。


アルカージナ、トリゴーリン、つづいてシャムラーエフ登場。

 ()()()()
アルカージナ ほらまた褒め立てて、鬼にかせようとなさる、相変らずねえ!
トリゴーリン (ソーリンに)ご機嫌よう、ソーリンさん! また何かご病気ですか? いけませんなあ! (マーシャを見て、うれしそうに)やあ、マーシャさん!
マーシャ おわかりになって? (彼の手を握る)
トリゴーリン 結婚しましたか?
マーシャ もうとっくに。

トリゴーリン 幸福ですか? (ドールンやメドヴェージェンコと会釈えしゃくをかわしたのち、ためらいがちにトレープレフのほうへ歩み寄る)アルカージナさんのお話だと、あなたはもう昔のことは水に流して、ご立腹もとけたそうですが。


トレープレフ、彼に手をさし出す。

アルカージナ (息子に)ほら、トリゴーリンさんは、お前の新作の載っている雑誌を持ってきてくだすったんだよ。
トレープレフ (雑誌を受けながら、トリゴーリンに)おそれいります、ご親切に。(腰をおろす)
 ()() 
トレープレフ ずっとご逗留とうりゅうですか?

 ()

()()() ()() Loto 

 
マーシャ (父親に)パパ、うちの人に馬を出してやってちょうだい! うちへ帰らなくちゃならないんだから。
シャムラーエフ (口まねをして)馬を……帰らなくちゃ……(厳格に)その眼で見たろう――今しがた停車場へ行って来たばかりだ。そうそうこき使うわけにはいかん。
マーシャ ほかの馬だってあるじゃないの。(父親が黙っているのを見て、片手を振る)またけんかのたねね……
メドヴェージェンコ マーシャ、ぼく歩いて帰るよ。いいからさ……
ポリーナ (ため息をついて)歩いて、こんな天気に……(カルタ机に向って腰をおろす)さ、どうぞ、皆さん。
 退
シャムラーエフ なんとか帰れるさ。将軍じゃあるまいし。

 

シャムラーエフ、マーシャ、ドールン、カルタ机につく。

アルカージナ (トリゴーリンに)秋の夜ながになると、ここではロトーをして遊ぶんですよ。ほらね、ずいぶん古いロトーでしょう。なにしろわたしたちが子供だったころ、亡くなった母がいっしょに遊んでくれた道具ですものねえ。お夜食まで、いっしょに一勝負なさらない? (トリゴーリンとともに席につく)つまらない遊びだけど、れるとこれで、悪くないものよ。(一同に三枚ずつ紙の盤をくばる)
 
アルカージナ どう、お前も、コースチャ?
トレープレフ ご免なさい、なんだかしたくないんです。……ちょっと歩いてきます。(退場)
アルカージナ け金は十コペイカよ。ドクトル、わたしの分、たて替えておいてちょうだい。
ドールン 承知しました。
マーシャ みなさん、お賭けになった? じゃ始め。……二十二!
アルカージナ はい。
マーシャ 三!
ドールン はあい。
マーシャ 三をお置きになって? 八! 八十一! 十!
シャムラーエフ まあそう急ぐな。
アルカージナ わたし、ハリコフで受けた歓迎ぶりを思い出すと、今でも頭がくらくらするわ、皆さん!

マーシャ 三十四!


舞台うらで、メランコリックなワルツのひびき。

アルカージナ 大学生が、お祭さわぎをしてくれてね……花籠はなかごが三つ、花束が二つ、それからほら……(胸からブローチをはずして、机上に投げだす)
シャムラーエフ なるほど、こりゃ大したものだ……
マーシャ 五十!……
ドールン 五十きっかり?
 ()()
 ()()()
シャムラーエフ 新聞でひどくたたかれてるね。
マーシャ 七十七!
アルカージナ 気にしないでもいいのに。
 ()調
マーシャ 十一。
アルカージナ (ソーリンをふり返って)ペトルーシャ、あなた退屈? (間)寝てるわ。
ドールン 四等官殿はおねんねだ。
マーシャ 七! 九十!
 
マーシャ 二十八!
トリゴーリン ボラやマスを釣りあげるのは――なんとも言えんいい気持だ!
   
アルカージナ それがね、あなた、まだ読んだことがないの。ひまがなくてね。

マーシャ 二十六!


トレープレフ静かに登場。自分のデスクへ行く。

シャムラーエフ (トリゴーリンに)そうそう、トリゴーリンさん、あなたの物が残っていましたっけ。
トリゴーリン はてな?
シャムラーエフ いつぞやトレープレフさんが射落したかもめね。あれを剥製はくせいにしてくれって、ご注文でしたが。
トリゴーリン 覚えがない。(しきりに考えながら)覚えがないなあ!
マーシャ 六十六! 一!
トレープレフ (窓をパッとあけて、耳をすます)なんて暗いんだ! なぜこう胸さわぎがするのか、どうもわからん。

アルカージナ コースチャ、窓をおしめ、吹きこむじゃないの。


トレープレフ、窓をしめる。

マーシャ 八十八!
トリゴーリン はい、そろいました。
アルカージナ (うきうきして)うまい、うまい!
シャムラーエフ ブラボー!
 稿
トレープレフ 欲しくないよ、ママ、おなかがいっぱいだから。

アルカージナ ご勝手に。(ソーリンをおこす)ペトルーシャ、お夜食ですよ! (シャムラーエフと腕を組む)話してあげるわね、ハリコフでどんなに歓迎されたか……


ポリーナ、カルタ机の上の蝋燭を消してから、ドールンといっしょに椅子を押して行く。一同左手のドアから退場。舞台には、デスクに向ったトレープレフだけ残る。


 ()()()()()()()()()() ()  

ニーナは頭を彼の胸におし当て、忍び音にむせび泣く。

   ()()()() 
ニーナ 誰かいるわ。
トレープレフ 誰もいやしない。
ニーナ ドアの錠をおろして。はいってくると困るわ。
トレープレフ 誰も来やしない。
ニーナ 知ってるわ、アルカージナさんが来てること。だから閉めて……
 ()()()()
 
 ()  宿()()
 () () ()() ()()()()()
トレープレフ ニーナ、君はまた……ニーナ!
 ()() 
トレープレフ なんだってエレーツへなんか?
ニーナ この一冬、契約をしたの。もう帰らなければ。
 ()()()()
ニーナ (当惑して)なぜあんなことを言いだすのかしら。なぜあんなことを?

トレープレフ 僕はひとりぽっちだ。暖めてくれる誰の愛情もなく、まるで穴倉のなかのように寒いんです。だから何を書いても、みんなカサカサで、コチコチで、陰気くさい。ニーナ、お願いだ、このままいてください。でなけりゃ、僕もいっしょに行かせてください!


ニーナは手早く帽子と長外套を着ける。

トレープレフ どうして君は、ええニーナ? 後生だ、ニーナ……(彼女が身じたくするのを眺める。間)
ニーナ 馬車が裏木戸のところに待たせてあるの。送ってこないで、わたし一人で行けるから……(涙声で)水をちょうだいな……
トレープレフ (コップの水を与える)今からどこへ行くの?
ニーナ 町へ。(間)アルカージナさん、来てらっしゃるの?
トレープレフ そう。……この木曜、伯父さんの工合が変だったので、僕たちが電報で呼び寄せたんです。
     ()()()()()()()() 退()使
 ()()()()使
  
トレープレフ ゆっくりして行って、夜食ぐらい出すから……
   ()()()()鹿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

トレープレフ (間をおいて)まずいな、誰かが庭でぶつかって、あとでママに言いつけると。ママは辛いだろうからな。……


二分間ほど、無言のまま原稿を全部やぶいて、デスクの下へほうりこむ。それから右手のドアをあけて退場。

ドールン (左手のドアを、うんうん押しあけながら)おかしいぞ。錠がおりてるのかな……(はいって、肘かけ椅子を元の場所におく)障碍物しょうがいぶつ競走だ。


アルカージナ、ポリーナ、つづいてヤーコフは酒瓶さかびん訳注 複数)をもち、それにマーシャ、あとからシャムラーエフ、トリゴーリン、それぞれ登場。

 
ポリーナ (ヤーコフに)すぐお茶を出しておくれ。(蝋燭ろうそく訳注 複数)をともし、カルタ机に着席する)
シャムラーエフ (トリゴーリンを戸棚のほうへひっぱって行く)そらこれが、さっきお話しした品ですよ……(戸棚から鴎の剥製はくせいをとり出す)あなたのご注文で。

トリゴーリン (鴎を眺めながら)覚えがない! (小首をかしげて)覚えがないなあ!


右手の舞台うらで銃声。一同どきりとなる。

アルカージナ (おびえて)なんだろう?
 退()()()
アルカージナ (テーブルに向ってかけながら)ふっ、びっくりした。あの時のことを、つい思い出して……(両手で顔をおおう)眼のなかが、暗くなっちゃった……
 調

――幕――







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