文ぶん明めい元年の二月なかばである。朝がたからちらつきだした粉雪は、いつの間にか水気の多い牡ぼた丹ん雪に変つて、午ひるをまはる頃には奈良の町を、ふかぶかとうづめつくした。興福寺の七しち堂どう伽がら藍んも、東大寺の仏殿楼塔も、早くからものの音をひそめて、しんしんと眠り入つてゐるやうである。人ひと気けはない。さういへば鐘の音さへも、今朝からずつととだえてゐるやうな気がする。この中を、仮に南都の衆徒三千が物の具に身をかためて、町なかを奈良坂へ押し出したとしても、その足音に気のつく者はおそらくあるまい。
申さるの刻になつても一向に衰へを見せぬ雪は、まんべんなく緩やかな渦を描いてあとからあとから舞ひ下りるが、中ぞらには西風が吹いてゐるらしい。塔といふ塔の綿帽子が、言ひ合はせたやうに西へかしいでゐるのでそれが分る。西向きの飛ひえ簷んた垂る木きは、まるで伎ぎが楽くの面のやうなおどけた丸い鼻さきを、ぶらりと宙に垂れてゐる。
うつかり転てが害い門を見過ごしさうになつて、連れん歌が師し貞てい阿あははたと足をとめた。別にほかのことを考へてゐたのでもない。ただ、たそがれかけた空までも一面の雪に罩こめられてゐるので、ちよつとこの門の見わけがつかなかつたのである。入いり込こんだ妻つま飾かざりのあたりが黒々と残つてゐるだけである。少しでも早い道をと歌姫越えをして、思はぬ深い雪に却かえつて手間どつた貞阿は、単調な長い佐さ保ほ路じをいそぎながら、この門をくぐらうか、くぐらずに右へ折れようかと、道々決し兼ねてゐたのである。
ここまで来れば興福寺の宿坊はつい鼻の先だが、応仁の乱れに近ごろの山さん内ないは、まるで京を縮めて移して来たやうな有様で、連歌師風ふぜ情いにはゆるゆる腰をのばす片隅もない。いや矢張り、このまま真すぐ東大寺へはいつて、連歌友達の玄浴よく主すのところで一夜の宿を頼まうと、この門の形を雪のなかに見わけた途端に貞阿は心をきめた。
玄浴主は深じん井じ坊といふ塔たっ頭ちゅうに住んでゐる。いはゆる堂衆の一人である。堂衆といへば南都では学匠のことだが、それを浴主などといふのは可お笑かしい。浴主は特に禅ぜん刹さつで入浴のことを掌つかさどる役目だからである。しかし由玄はこの通り名で、大華けご厳んじ寺はっ八しゅ宗うけ兼んが学くの学侶のあひだに親しまれてゐる。それほどにこの人は風呂好きである。したがつて寝酒も嫌ひな方ではない。貞阿のひそかに期するところも、実はこの二つにあつたのである。
その夜、客あしらひのよい由玄の介抱で、久方ぶりの風呂にも漬つかり、固かた粥かゆの振舞ひにまで預つたところで、実は貞阿として目もく算さんに入れてなかつた事が持上つた。雪はまだ止やむ様子もない。風さへ加はつて、庫く裡りの杉戸の隙すき間まから時折り雪を舞ひ入らせる。そのたびに灯の穂が低くなびく。板敷の間の囲い炉ろ裏りをかこんで、問はず語りの雑談が暫しばらく続いた。
貞阿は主人の使で、このあひだ兵庫の福原へ行つて来た。主人といふのは関白一条兼かね良らで、去年の十一月に本領安あん堵どがてら落してやつた孫房ふさ家いえの安否を尋ねに、貞阿を使に出したのである。兵庫のあたりはまだ安穏な時分なので、須磨の浦もその足で一見して来た。貞阿はそこの話をした。それから話は自然、いま家族を挙げて興福寺の成就院に難を避けて来てゐる関白のことに移つて、太たい閤こうもめつきり老ふけられましたな、などと玄浴主が言ふ。とつて六十八にもなる兼良のことを、今さら老けたとは妙な言いい艸ぐさだが、事実この矍かく鑠しゃくたる老人は、近年めだつて年をとつた。それは五年ほど前に腹ちがひの兄、東福寺の雲章一慶が入寂し、引続いて同じ年に、やはり腹ちがひの弟の東岳徴ちょ﹇#ルビの﹁ちょうきん﹂は底本では﹁ちょうき﹂﹈が遷せん化げして以来のことである。肉親の兄弟でもあり、学問の上の知己でもあつたこの二人の禅僧を喪うしなつて、兼良生来の勝気な性分もめつきり折れて来た。あの勧かん修じゅ念ねん仏ぶつ記きを著したのはその年の秋のことである。そこへ今度の大乱である。貞阿はそんな話をして、序ついでに一慶和尚の自若たる大だい往おう生じょうぶりを披露した。示寂の前夜、侍僧に紙を求めて、筆を持ち添へさせながら、﹁即心即仏、非心非仏、不渉一途、阿弥陀仏﹂と大たい書しょしたと云ふのである。玄浴主は、いかさま禅浄一如の至極境、と合あい槌づちを打つ。
客は湯冷めのせぬうちに、せめてもう一いっ献こんの振舞ひに預あずかつて、ゆるゆる寝床に手足を伸ばしたいのだが、主人の意は案外の遠いところにあるらしい。それがこの辺から段々に分つて来た。尤もっとも最初からそれに気が附かなかつたのは、貞阿の方にも見落しがある。第一殆ほとんど二年近くも彼は玄浴主に顔を見せずにゐた。応仁の乱れが始まつて以来の東奔西走で、古い馴なじ染みを訪ねる暇もなかつたのである。自分としては戦乱にはもう厭あき々あきしてゐる。しかし主人の身になつてみれば、紛々たる巷こう説せつの入りみだれる中で、つい最近まで戦火の渦中に身を曝さらしてゐたこの連れん歌が師しの口から、その眼で見て来た確かな京の有様を聞きたいのは、無理もない次第に違ひない。しかも戦乱の時代に連歌師の役目は繁忙を極めてゐる。差さし当あたつては明日にも、恐らく斎藤妙みょ椿うちんのところへであらう、主命で美み濃のへ立たなければならぬと云ふではないか。今宵をのがして又いつ再会が期し得られよう。……そんな気構へがありありと玄浴主の眼の色に読みとられる。
それにもう一つ、貞阿にとつて全くの闇中の飛ひれ礫きであつたのは、去年の夏この土地の法ほっ華け寺じに尼公として入られた鶴姫のことが、いたく主人の好奇心を惹ひいてゐるらしいことであつた。世の取とり沙ざ汰たほどに早いものはない。貞阿もこの冬はじめて奈良に暫しばらく腰を落着けて、鶴姫の噂うわさが色々とあらぬ尾おひ鰭れをつけて人の口の端はに上のぼつてゐるのに一驚を喫したが、工ぐあ合いの悪いことには今夜の話相手は、自分が一条家に仕へるやうになつたのは、そもそも母親が鶴姫誕生の折り乳う母ばに上あがつて以来のことであるぐらゐの経歴なら、とうの昔に知り抜いてゐる。……
主人の口くち占うらから、あらまし以上のやうな推察がついた今となつては、客も無む下げに情じょうを強こわくしてゐる訳にも行かない。実際このやうな慌あわただしい乱世に、しかも諸国を渉わたり歩かねばならぬ連歌師の身であつてみれば、今宵の話が明日は遺言とならぬものでもあるまい。それに自分としても、語り伝へて置きたい人の上のないこともない。……さう肚はらを据すゑると、銅ひさ提げが新たに榾ほた火びから取下ろされて、赤あか膚はだ焼やきの大湯ゆの呑みにとろりとした液体が満たされたのを片手に扣ひかへて、折からどうと杉戸をゆるがせた吹ふぶ雪きの音を虚こく空うに聴き澄ましながら、客はおもむろに次のやうな物語の口を切つた。
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御承知のとほり、わたくしは幼少の頃より、十六の歳でお屋敷に上あがりますまで、東福寺の喝かっ食しきを致してをりました。ちやうどその時分、やはり俗体のままのお稚ち児ごで、奥向きのお給仕を勤めてをられた衆のなかに、松まつ王おう丸といふ方がございました。わたくしより六つほどもお年下でございましたらうか、御利発なお人なつこい稚児様で、ついお懐なつきくださるままに、わたくしも及ばずながら色々とお世話を申上げたことでございました。これが思へば不思議な御縁のはじまりで、松王様とはつい昨年の八月に猛みょ火うかのなかで遽あわただしいお別れを致すまで、ものの十八年ほどの長い年月を、陰になり日ひな向たになり断えずお看みとり申上げるやうな廻めぐり合せになつたのでございます。あの方のお声やお姿が、今なほこの眼の底に焼きついてをります。わたくしが今宵の物語をいたす気になりましたのも、余事はともあれ実を申せば、この松王様のおん身の上を、あなた様に聞いて頂きたいからなのでございます。
その頃は、先刻もお話の出ました雲章一慶さまも、お歳としこそ七十ぢかいとは申せまだまだお壮さかんな頃で、かねがね五山の学衆の、或ひは風流韻事にながれ或ひは俗事政せい柄へいにはしつて、学道をおろそかにする風のあるのを痛くお嘆き遊ばされて、日ごろ百ひゃ丈くじ清ょう規しんぎを衆徒に御講釈になつてをられました。その厳しいお躾しつけを学衆の中には迷惑がる者もをりまして、今いま義堂などと嘲ちょ弄うろうまじりに端はしたない陰口を利く衆もありましたが、御自身を律せられますことも洵まことにお厳しく、十七年のあひだ嘗かつてお脇を席むしろにおつけ遊ばした事がなかつたと申します。この御警策の賜たま物ものでございませう、わたくし風ふぜ情いの眼にも、東福寺の学風は京の中でも一段と立たち勝まさつて見えたのでございます。されば他の諸山からも、心ある学僧の一慶様の講こう莚えんに列つらなるものが多々ございました。その中には相しょ国うこ寺くじのあの桃源瑞ずい仙せんさまの、まだお若い姿も見えましたが、この方は程てい朱しゅの学問とやらの方では、一慶さま一のお弟子であつたと伺つてをります。
このお二方はよく御同道で、一条室町の桃花坊︵兼良邸︶へ参られました。そのお伴にはかならず松王様をお連れ遊ばすのが例で、御利発な上に学問御熱心なこのお稚ち児ごを、お二方ともよくよくの御ごし鍾ょう愛あいのやうにお見受け致しました。わたくしが桃花坊へ上りました後々も、一慶さまや瑞仙さまが奥書院に通られて、太たい閤こう殿と何やら高声で論判をされるのが、表の方までもよく響いて参つたものでございます。さういふお席で、お伴について来られた松王様が、傍かたわらにきちんと膝ひざを正されて、易だの朱子だのと申すむづかしいお話に耳を澄ましてをられるお姿を、わたくしどももよく垣かい間ま見みにお見かけしたものでございました。
この松王様のことは、くだくだしく申上げるまでもなく、かねてお聞及びもございませう。右うひ兵ょう衛えの佐すけ殿︵斯しば波よし義と敏し︶の御おん曹ぞう子しで、そののち長禄の三年に、義政公の御輔導役伊い勢せ殿︵貞さだ親ちか︶の、奥方の縁故に惹ひかされての邪よこ曲しまなお計らひが因もとで父君が廃はい黜ちゅつ﹇#ルビの﹁はいちゅつ﹂は底本では﹁はいちゅう﹂﹈の憂うき目にお遇ひなされた折り、一時は武ぶえ衛い家の家督を嗣つがれた方でございます。それも長くは続きませず、二年あまりにて同じ伊勢殿のお指さし金がねでむざんにも家督を追はれ、つむりを円まるめられて、人もあらうにあの蔭おん凉りょ軒うけんの真しん蘂ずい西せい堂どうのもとに、お弟子に入られたのでございました。このお痛はしいお弟子入りについては、色々とこみ入つた事情もございますが、掻かい撮つまんで申せばこれは、父君右兵衛佐殿の調略の牲にえになられたのでございました。松王様が家督をおすべり遊ばした後は、やはり伊勢殿のお差さし図ずで、いま西の陣一方の旗がしら、左さひ兵ょう衛えの佐すけ殿︵斯波義よし廉かど︶が渋川家より入つて嗣がれましたが、右兵衛さまとしてみれば御家督に未練もあり意地もおありのことは理の当然、幸ひお妾てかけの妹君が、そのころ新造さまと申して伊勢殿の寵ちょ愛うあ無いむ双そうのお妾であられたのを頼つて、御家督におん直りのこと様々に伊勢殿へ懇望せられました事の序ついでで、これまた黒衣の宰相などと囃はやされて悪名天下にかくれない真蘂西堂にも取入つて、そのお口添へを以て公くぼ方う様をも動かさんものとの御たくらみから、松王様を蔭凉軒に附けられたものでございます。いやはや何と申してよいやら、浅ましいのは人の世の名みょ利うり争ひではございますまいか。これが畠はた山けやま殿の御相続争ひと一つになつて、この応仁の乱れの口火となりましたのを思へば、その陰にしひたげられて、うしろ暗い企らみ事の只ただのお道具に使はれておいでの松王様のお身の上は、なかなかお痛はしいの何のと申す段のことではございません。
このたびの大乱の起るに先だちましては、まだそのほかに瑞ずい祥しょうと申しますか妖兆と申しますか、色々と厭いやらしい不思議がございました。まづ寛かん正しょうの六年秋には、忘れも致しません九月十三日の夜亥いの刻ごろ、その大いさ七八尺しゃくもあらうかと見える赤い光り物が、坤ひつ方じさるより艮うし方とらへ、風雷のやうに飛び渡つて、虚こく空うは鳴動、地軸も揺るがんばかりの凄すさまじさでございました。忽たちまちにして消え去つた後は白雲に化したと申します。そのとき安部殿︵在貞︶などの奉たてまつられた勘かん文もんでは、これは飢荒、疾疫群死、兵火起、あるひは人民流散、流血積骨の凶兆であつた趣でございます。当時、何なんぴとの構へた戯ざ﹇#ルビの﹁ざ﹂は底本では﹁ぎ﹂﹈れ事でございませうか、天てん狗ぐの落おと文しぶみなどいふ札を持歩く者もありまして、その中には﹁徹てっ書しょ記き、宗そう砌ぜい、音阿弥、禅竺、近日此こち方らヘ来きたル可べシ﹂など記してあつたと申します。前さきのお二人はわたくしの思ひ違へでなくば、これより先に亡くなつてをられますが、観かん世ぜ殿が一昨年、金こん春ぱる殿が昨年と続いて身みま罷かられましたのも不思議でございます。それにしましても世の乱れにとつて、歌よみ、連れん歌が師し、猿さる楽がく師しなど申すものに何の罪科がございませう。思へばひよんな風狂人もあつたものでございます。
わたくし風ふぜ情いが今更めいて天下の御政道をかれこれ申す筋ではございません。それは心得てをりますが、何としてもこの近年の御公儀のなされ方は、わたくし共の目に余ることのみでございました。天てん狗ぐせ星いの流れます年の春には花頂若にゃ王くお子うじのお花御覧、この時の御ごぜ前んし相ょう伴ばん衆しゅうの箸はしは黄金をもつて展のべ、御おと供もし衆ゅうのは沈じん香こうを削つて同じく黄金の鍔つば口ぐちをかけたものと申します。その前の年は観世の河原猿楽御覧、更には、これは貴あな方たさまよく御存じの公くぼ方うさま春日社御参詣、また文ぶん正しょうの初めには花の御幸。……いやいやそんな段ではございません、その公方さま花の御所の御造営には甍いらかに珠玉を飾り金銀をちりばめ、その費ついえ六十万緡さしと申し伝へてをりますし、また義政公御母君御みだ台いど所ころの住まひなされる高倉の御所の腰こし障しょ子うじは、一間の値ひ二万銭せんとやら申します。上かみこのやうななされ方ゆゑ、したがつては公く家げ武家の末々までひたすらに驕きょ侈うしにふけり、天下は破れば破れよ、世間は滅びば滅びよ、人はともあれ我身さへ富ふう貴きならば、他より一段栄えよ耀うに振舞はんと、このやうな気風になりましたのも物の勢ひと申しませうか。
その一方に民の艱かん難なんは申すまでもございません。例の流れ星騒動の年には、大だい甞じょ会うえのありました十一月に九ヶ度、十二月には八ヶ度の土どそ倉うや役くがかかります。徳政とやら申すいまはしい沙さ汰たも義政公御治世に十三度まで行はれて、倉方も地じ下げ方も悉ことごとく絶え果てるばかりでございます。かてて加へて寛正はじめの年は未聞の大凶作、翌あくる年には疫えや病みさへもはやり、京の人ひと死じには日に幾百と数しれず、四条五条の橋の下に穴をうがつて屍しかばねを埋める始末となりました。一穴ごとに千人二千人と投げ入れますので、橋の上に立つて見わたしますと流れ出す屍も数しれず、石ころのやうにごろごろと転まろんで参ります。そのため賀か茂もの流れも塞ふさがらんばかり、いやその異様な臭気と申したら、お話にも何にもなるものではございません。いま思ひだしても、ついこの頬ほおのあたりに漂つて参ります。人の噂うわさではこの冬の京の人死は締めて八万二千とやら申します。
願がん阿あみ弥だ陀ぶ仏つと申されるお聖ひじりは、この浅ましさを見るに見兼ねられて、義政公にお許しを願つて六角堂の前に仮屋を立て、施せぎ行ょうをおこなはれましたが、このとき公くぼ方う様より下された御喜捨はなんと只ただの百貫文もんと申すではございませんか。また、五山の衆徒に申し下されて、四条五条の橋の上にて大施せ餓が鬼きを執しゅ行ぎょうせしめられましたところ、公儀よりは一紙半銭の御喜捨もなく、費ついえは悉ことごとく僧徒衆の肩にかかり、相国寺のみにても二百貫文を背負ひ込んだとやら。花の御所の御ごえ栄よ耀うに引きくらべて、わたくし風ふぜ情いの胸の中までも煮えたつ思ひが致したことでございます。
このやうな天災地妖がたび重なつては、御政道は暗し、何ごとか起らずにゐるものではございません。応仁元年正月の初めより、京の人ごころは何かしら異様な物を待つ心地で、あやしい胸さわぎを覚えてをりましたところ、果せるかなその月の十八日の夜、洛らく北ほくの御ごり霊ょう林ばやしに火の手は上つたのでございます。
尤もっともわたくしは二三日前より御用で近おう江みへ参つてをりまして、その夜のことは何も存じません。御用もそこそこに飛ぶやうに帰つて参りますと、騒ぎは既に収まつて、案外に京の町は落着いてをります。とは申せその底には容易ならぬ気配も動いてをりますし、桃花坊はその夜の合戦の場より隔たつてをりませんので、すぐさま御家財御ごい衣しょ裳うの御引移しが始まります。太平記と申す御本を拝見いたしますと、去さんぬる正しょ平うへいの昔、武むさ蔵しの守かみ殿︵高こう師のも直ろなお︶が雲うん霞かの兵を引ひき具ぐして将軍︵尊たか氏うじ︶御所を打囲まれた折節、兵火の余よえ烟んを遁のがれんものとその近辺の卿けい相しょ雲うう客んかく、或ひは六条の長講堂、或ひは土つち御みか門どの三さん宝ぽう院いんへ資財を持運ばれた由よしが、載せてございますが、いざそれが吾わが身みのことになつて見ますれば、そぞろに昔のことも思ひ出いでられて洵まことに感無量でございます。この度の戦乱の模様では、京の町なかは危いとのことで、どこのお公く卿げ様も主に愛あた宕ごの南禅寺へお運びになります。一条家でも、御縁ゆか由りの殊こと更さらに深い東山の光こう明みょ峰うぶ寺じをはじめとし、東福、南禅などにそれぞれ分けてお納めになりました。京ぢゆうの土倉、酒屋など物持ちは言はずもがな、四しじ条ょう坊門、五条油小こう路じあたりの町屋の末々に至るまで、それぞれに目ざす縁故をたどつて運び出すのでございませう、その三四ヶ月と申すものは、京の大路小路は東へ西への手車小車に埋めつくされ、足の踏ふんどころもない有様。中にはいたいけな童児が手押車を押し悩んでゐるのもございます。わたくしも、その絡らく繹えきたる車の流れをかいくぐるやうに、御家財を積んだ牛ぎっ車しゃを宰領して、幾たび賀茂の流れを渡りましたやら。その都度、六年前の丁ちょ度うどこの時節に、この河原に充みち満ちてをりました数万の屍しかばねのことも自おのづと思ひ出でられ、ああこれが乱世のすがたなのだ、これが戦乱の実相なのだと、覚えず暗い涙に咽むせんだことでございました。
室町のお屋敷には、桃華文庫と申す大切なお文ふみ倉ぐらがございます。これも文ぶん和なの昔、後ご芬ふ陀だ利ら花く院さま︵一条経つね通みち︶御在世の砌みぎり、折からの西風に煽あおられてお屋敷の寝しん殿でん二ふた棟むねが炎上の折にも、幸ひこの御秘蔵の文庫のみは恙つつがなく残りました。瓦かわらを葺ふき土を塗り固めたお倉でございますので、まあ此この度たびも大だい事じはあるまいと、太たい閤こうさまもこれには一さい手をお触れにならず、わざわざこのわたくしを召出されて、文庫のことは呉くれ々ぐれも頼むと仰せがございました。お屋敷に仕へる青あお侍さぶらいの数も少いことではございませんが、殊こと更さらわたくしにお申含めになつたについては、少々訳がらもございます。それは太閤さまが心血をそそがれました新しん玉ぎょ集くしゅうと申す連れん歌がの撰せん集しゅう二十巻が、このお文倉に納めてありまして、わたくしもその御ごさ纂んし輯ゅうの折ふしには、お紙折りの手伝ひなどさせて頂いたものでございます。ゆくゆくは奏覧にも供へ、また二条摂政さま︵良よし基もと︶の莵つ玖く波ば集の後を承うけて勅ちょ撰くせんの御ご沙さ汰たも拝したいものと私ひそかに思おも定いさだめておいでの模様で、いたくこの集のことをお心に掛けてございました。尤もっともこれは、なまじえせ連歌など弄もてあそぶわたくしの思ひ過しもございませう。お文倉には和漢の稀籍群書およそ七百余合、巻かずにして三万五千余巻が納めてありましたとのことで、中には月つき輪のわ殿︵九条兼かね実ざね︶の玉ぎょ葉くよう八合、光明峯寺殿︵同道みち家いえ︶の玉ぎょ蘂くずい七合などをはじめ、お家累るい代だいの御記録の類も数少いことではございませんでした。
さうかう致すうち一月の末には、太閤は宇治の随心院へ奥方様とお二人で御座を移されました。御老体のほどを気づかはれたお子様がたのお勧めに従はれたものでございませう。さあさうなりますと、身に余る大役をお請けした上に、大樹とも頼む太閤はおいでにならず、東の御方様はじめお若い方々のみ残られました桃花坊で、わたくしは茫ぼう然ぜんと致してしまひました。見渡すところ青侍の中には腕の立ちさうな者はをりませず、夜ふけて風の吹き募ります折りなどは、今にも兵つわものどもの矢たけびが聞えて来はしまいか、どこぞの空が兵火に焼けてゐはしまいかと落おち々おち瞼まぶたを合はす暇さへなく、蔀しとみをもたげては闇夜の空をふり仰ぎふり仰ぎ夜を明かしたものでございました。
さいはひ五月の末ごろまでは何事もなく過ぎました。とは申せ安からぬ物の気配は日一日と濃くなるばかり。東西両陣の合戦の用意が日ごとに進んで参る有様が手にとるやうに窺うかがはれます。その中を、わたくしにとつて只ただ一つの心頼みは、あの松王丸様なのでございました。いやさうではございません。すでに御家督をおすべりになつて、蔭凉軒にて御祝髪ののちの、見違へるやうな素そえ円んさまなのでございます。お歳ははや二十四、ああ世が世ならばと、御立派に御成人のお姿を見るたびに、わたくしは覚えず愚痴の涙も出るのでございました。……実は先刻から申しそびれてをりましたが、この松王さまが︵やはり呼び慣れたお名で呼ばせて頂きませう――︶、いつの間にやら鶴姫さまと、深いおん言交しの御仲であつたのでございます。母親にたづねてみますれば色々その間のいきさつも分ぶん明めいいたしませうが、そのやうな物好き心が何の役にたちませう。ただ、武衛家の御家督に立たれました頃ほひ、太閤様にぢきぢきの御申入れがあつたとやら無かつたとやら、素もとより陪ばい臣しんのお家柄であつてみれば、そのやうな望みの叶かなへられよう道理もございません。それ以来松王さまのお足も自然表むきには遠のいたのでございます。
わたくしとしましては只ただそのお心根がいぢらしく、おん痛はしく、お頼みにまかせて文ふみ使ひの役目を勤めてをつたのでございます。お目にかかる折々には、打うち融とけられた磊らい落らくなお口つきで、﹁室町が火になつたら、俺が真すぐ駈かけつけてやるぞ。屈強な学僧づれを頼んで、文庫も燃させることではないぞ﹂などと、仰おおせになつたものでございます。この御言葉だけでも、わたくしにはどれほど心づよく思はれましたことか。のみならず夕暮どきなど、裏庭の築つき山やまのあたりからこつそり忍んで参られることもございました。そのやうな折節には、母親のひそかな計らひで、片時の御対面もあつたやうでございました。また時によつては、﹁文庫を燃させなんだらその褒ほう美びに、姫をさらつて行くからさう思へ﹂などと御冗談もございました。実を申せばわたくしは内心に、どれほどさうなれかしと望んだことで御座いませう。渦を巻く猛みょ火うかのなかを、白い被かつ衣ぎをかづかれた姫君が、鼠ねずみ色の僧衣の逞たくましいお肩に乗せられて、御泉水のめぐりをめぐつて彼かな方たの闇にみるみるうちに消えてゆく、そのやうな夢ともつかぬ絵姿を心に描いては、風の吹き荒れる晩など樹こだ立ちのざわめくお庭先の暗がりに、よく眺め入つたものでございました。悲しいことに、それもこれも現うつつとはなりませんでした。尤もっともわたくしの眼まなこの中にゑがいた火の色と白と鼠の取り合はせは、後日まつたく思ひもかけぬ相すがたで現はれるには現はれましたが、それはまだ先の話でございます。
忘れも致しません、五月二十六日の朝まだき、おつつけ寅とらの刻でもありましたらうか、北の方角に当つて時ならぬ太たい鼓この磨り打ちの音が起りました。つづいてそれがどつと雪なだ崩れを打つ鬨ときの声に変ります。わたくしは殆ほとんどもう寝間着姿で、寝しん殿でんのお屋敷に攀よぢ登つたのでございます。暫しばらくは何の見分けもつきませんでしたが、やがて乾いぬ方いに当つて火の手が上ります。その火が次第に西へ西へと移ると見るまに、夜もほのぼのと明けて参りました。見れば前さきの関白様︵兼良男教のり房ふさ︶をはじめ、御一統には悉しっ皆かいお身仕度を調へて、お廂ひさしの間にお出ましになつてをられます。東の御方︵兼良側室︶はじめ姫君、侍女がたは、いづれも甲か斐い々が々いしいお壺つぼ装そう束ぞく。わたくしも、かう成りましては腹巻の一つも巻かなくてはと考へましたが、万が一にも雑ぞう兵ひょう乱入の砌みぎりなどには却かえつて僧そう形ぎょうの方が御一統がたの介抱を申上げるにも好都合かと思ひ返し、慣れぬ手に薙なぎ刀なたをとるだけのことに致しました。何せこの歳まで、本物の戦さと申すものは人の話に聞くばかり、今になつて顧みますと可お笑かしくなりますが、小半時ほどは胴の顫ふるへがとまりません。いやはやとんだ初うい陣じんぶりでございました。
そのうちに物見に出ました青あお侍さぶらいもぼつぼつ戻つて参ります。その注進によりますと、今日の戦さの中心は洛らく北ほくとのことで、それも次第に西へ向つて、南一条大宮のあたりに集まつてゆくらしいと申すのでございましたが、時刻が移りますにつれどうしてそんな事ではなく、やがて東のかた百ひゃ万くま遍んべん、革こう堂とう︵行願寺︶のあたりにも火の手が上ります。これは稍や艮うし方とらへ寄つてをりますので、折からの東風に黒々とした火煙は西へ西へと流れるばかり、幸ひ桃花坊のあたりは火の粉こもかぶらずにをりますが、もし風の向きでも変つたなら、炎の中をどうして御一統をお落し申さうかと、只ただもう胸を衝つかれるばかりでございます。頼みの綱は兼かね々がねお約束の松王さまばかり、それも室町のあたりは火にはかからぬと思おぼ召しめしてか、或ひはまた相国寺の西にも東にも火の手の上つてをります有様では、無む下げにその中を抜け出しておいで遊ばすわけにも参らぬものか、一向に姿をお見せになりません。やがてその日も暮れました。夜に入つて風は南に変つたとみえ、百万遍、雲文寺のかたの火かえ焔んも廬ろざ山ん寺じあたりの猛みょ火うかも、次第に南へ延びて参ります。渦巻きあがる炎の末は悉ことごとく白い煙と化して棚びき、その白雲の照てり返かえしでお庭先は、夜どほしさながら明方のやうな妙に蒼あおざめた明るさでございます。殊ことに凄すさまじいのは真夜中ごろの西のかたの火勢で、北は船ふな岡おか山やまから南は二条のあたりまで、一面の火の海となつてをりました。
やうやうにその夜も無事にすぎて、翌あくる二十七日には、朝の間のどうやら鬨ときの声も小お止やみになつたらしい隙すきを見計らひ、東の御方は鶴姫さまと御一緒に中なか御みか門どへ、若君姫君は九条へと、青あお侍さぶらいの御警固で早々にお落し申上げました。やれ一安心と思つたが最後、気疲れが一ときに出まして、合戦の勢いきおいがまた盛もり返かえしたとの注進も洞うつろ心に聞きながし、わたくしは薙なぎ刀なたを杖つえに北の御みは階しにどうと腰を据すゑたなり、夕刻まではそのまま動けずにをりました。この日の戦いくさも酉とりの終までには片づきまして、その夜は打つて変つてさながら狐きつねにつままれたやうな静けさ。物見の者の持寄りました注進を編み合はせてみますと、この両日に炎上の仏ぶっ刹さつ邸宅は、革堂、百万遍、雲文寺をはじめ、浄菩提寺、仏心寺、窪の寺、水落の寺、安居院の花の坊、あるひは洞とう院いん殿、冷れい泉ぜい中納言、猪いの熊くま殿など、夥おびただしいことでございましたが、民の迷惑も一方ならず、一条大宮裏向ひの酒屋、土倉、小家、民屋はあまさず焼亡いたし、また村雲の橋の北と西とが悉しっ皆かい焼け滅んだとのことでございます。
さりながらこれはほんの序の口でございました。住むに家なく、口に糊こする糧かてもない難民は大路小路に溢あふれてをります。物とり強盗は日ましに繁しげくなつて参ります。かてて加へて諸国より続々と上つてまゐる東西両陣の足あし軽がると申せば、昼は合戦、夜は押込みを習ひとする輩やからばかり、その荒々しい人相といひ下げせ賤んな言葉つきと云ひ、目にし耳にするだに身の毛がよだつ思ひでございました。さうなりますと最早や戦さなどと申すきれい事ではございません。昼日なかの大路を、大た刀ちを振りかざし掛かけ声ごえも猛に、どこやらの邸やしきから持ち出したものでございませう、重たげな長なが櫃びつを四五人連れで舁かいて渡る足軽の姿などは、一々目にとめてゐる暇いとまもなくなります。築つい地じの崩れの陰などでは、抜ぬき身みを片手に女どもをなぐさんでをります浅ましい有様が、ちよつと使に出ましても二つや三つは目につきます。夜は夜で近辺のお屋敷の戸蔀しとみを蹴けや破ぶる物音の、けたたましい叫びと入りまじつて聞えて参ることも、室町あたりでさへ珍らしくはございません。まことにこの世ながらの畜ちく生しょ道うどう、阿あ鼻び大城とはこの事でございませう。
そのやうな怖ろしいことが来る日も来る夜も打続いてをりますうち、六月八日には、遂ついに一大事となつてしまひました。その午うまの刻ばかりに、中御門猪熊の一いっ色しき殿のお館に、乱妨人が火をかけたのでございます。それのみではございません。近この衛えの町の吉田神主の宅にも物取りどもが火を放つたとやら、忽たちまちに九ヶ所より火の手をあげ、折からの南の大風に煽あおられて、上かみ京ぎょうの半ばが程はみるみる紅ぐれ蓮ん地獄となり果てました。火かえ焔んの近いことは五月の折りの段ではなく、吹きまく風に一時は桃花坊のあたりも煙をかぶる仕儀となりまして、わたくしは最早やお庭を去らず、お文庫の瓦かわら屋根にじつと見入りながら、最後の覚悟をきめたほどでございました。屋根をみつめてをりますと、その上を這はふ薄い黒煙のなかに太たい閤こう様のお顔が自然かさなつて見えて参ります。あの名高い江ごう家け文庫が、仁にん平ぺいの昔に焼亡して、闔とびらを開く暇いとまもなく万巻の群書片時に灰となつたと申すのも、やはり午うまの刻の火であつたことまでが思ひ合はされ、不吉な予感に生きた心地もございませんでした。幸ひこの火も室町小こう路じにて止まりました。さうさう、松王様はその夕刻、おつつけ戌いぬの刻ほどにひよつくりお見えになり、わたくしがお怨うらみを申すと、
﹁なに、ついそこの武者の小路で見張つてをつたよ﹂と、事もなげに仰おおせられました。
その日の焼亡はまことに前代未聞の沙さ汰たで、下しもは二条より上かみは御ごり霊ょうの辻つじまで、西は大おお舎とね人りより東は室町小路を界さかいにおほよそ百町あまり、公く家げ武家の邸やしきをはじめ合せて三万余宇が、小半日の間まに灰となり果てたのでございます。さうなりますと町なかで焼け残つてゐる場所とては数へるほどしかございません。お次はそこが火の海と決まつてをりますので、桃花坊も中御門のお宿も最早これまでと思ひ切りその翌あくる日には前さきの関白様は随心院へ、また東の御方様は鶴姫様ともども光明峰寺へ、それぞれお移し申し上げました。
越えて八月の半ばには等持、誓願の両寺も炎上、いづれも夜火でございます。その十八日には洛らく中ちゅうの盗賊どもこぞつて終ついに南禅寺に火をかけて、かねてより月げっ卿けい雲うん客かくの移し納めて置かれました七珍財宝を悉ことごとく掠かすめ取つてしまひます。これも夜火でございましたが、粟あわ田た口の花頂青しょ蓮うれ院んいん、北は岡崎の元応寺までも延焼いたし、丈余の火柱が赤々と東ひが山しやまの空を焦がす有様は凄すさまじくも美麗な眺めでございました。
……ああ、由玄どの、今あなたは眉まゆをお顰ひそめなされましたな。いえ、よく分つてをります、美麗だなどと大それた物の言ひやう、さぞやお耳に障さわりませう。神罰もくだりませう、仏ぶつ罰ばちも当りませう、それもよく心得てをります。けれどこの貞阿は実じつに感じたままをお話しするまででございます。まことに人間の心ほど不思議なものはありませぬ。火をくぐり、血しぶきを見、腐れた屍しかばねに胆きもを冷やし、人間のする鬼きち畜くの業ごうを眼まなこにするうち、度胸もついて参ります、捨すて鉢ばちな荒すさびごころも出て参ります、それとともに、今日は人の身、明日はわが上と、日ごと夜ごとに一身の行ゆく末すえを思ひわび、或ひは儚はかない夢を空だのみにし、或ひは善きにつけ悪あしきにつけ瑞ずい祥しょうに胸とどろかせるやうな、片時の落らっ居きょのいとまとてない怪しい心のみだれが、いつしかに太い筋綱に縒より合はさつて、いやいや吾わが身ひとの身なんどは夢幻の池の面もにうかぶ束つかのまの泡うた沫かたにしか過ぎぬ、この怖ろしい乱らん壊えて転んぺ変んの相すがたこそ何かしら新しいものの息い吹ぶき、すがすがしい朝を前触れる浄きよめの嵐なのではあるまいかと、わたくしごとの境涯を離れて広々と世を見はるかす健けな気げな覚悟も湧わいて参ります。旧ふるき代の富ふう貴き、栄えよ耀うの日ごとに毀こぼたれ焼かれて参るのを見るにつけ、一いっ掬きく哀惜の涙を禁とどめえぬそのひまには、おのづからこの無むざ慚んな乱れを統すべる底の力が見きはめたい、せめて命のある間にその見知らぬ力の実相をこの眼で見たい、その力のはたらきから新しい美のいのちを汲くみとりたい……このやうな大それた身の程しらずの野心も、むくむくと頭をもたげて参ります。一身の浮き沈みを放ほう下かして、そのやうな眼まなこであらためて世の様を眺めわたしますと、何かかう暗い塗ぬり籠ごめから表へ出た時のやうに眼まなこが冴さえ冴ざえとして、あの建けん武むの昔二条河原の落らく書しょとやらに申す下げこ尅くじ上ょうする成なり出でも者のの姿も、その心根の賤いやしさをもつて一概に見どころなき者と貶おとしめなみする心持にもなれなくなります。今までは只ただおぞましい怖おそろしいとのみ思つてをりました足あし軽がる衆の乱らっ波ぱも、土つち一いっ揆き衆の乱妨も檀だん林りん巨きょ刹さつの炎上も、おのづと別の眼まなこで眺めるやうになつて参ります。まことに吾われながら呆あきれるやうな心の移り変りでございました。……
その間にも戦さの成行きは日に細川方が振はず、勢いきおいを得た山やま名な方は九月朔つい日たちつひに土つち御みか門ど万ま里での小路の三宝院に火をかけて、ここの陣所を奪ひとり、愈いよ戦火は内だい裏りにも室町殿にも及ばう勢となりました。その十三日には浄華院の戦さ、守る京きょ極うごく勢は一たまりもなく責め落され、この日の兵火に三宝院の西は近この衛え殿より鷹たか司つかさ殿、浄華院、日野殿、東は花山院殿、広橋殿、西さい園おん寺じ殿、転てん法ぽう輪りん、三条殿をはじめ、公く家げのお屋敷三十七、武家には奉ぶぎ行ょう衆のお舎やど八十ヶ所が一片の烟けむりと焼けのぼりました。最早やかうなりましては、次の火に桃花坊の炎上は逃れぬところでございます。お屋敷の方はともあれかし、この世の乱れの収まつたのち、たとへ天下はどのやうに変らうとも、かならず学問の飢かつゑが来る、古いにしへの鏡をたづねる時がかならず来る。あのお文ふみ倉ぐらだけは、この身は八つ裂きにならうとも守り通さずには措おかぬと、わたくしは愈覚悟をさだめ、水を打つたやうなしいんとした諦あきらめのなかで、深く思ひきつたことでございました。さりながら、思へば人間の心当てほど儚はかないものもございません。わたくしがそのやうに念じ抜きました桃華文庫も、まつたく思ひもかけぬ事こと故ゆえから烏うゆ有うに帰したのでございます。……
貞阿はほつと口をつぐんだ。流さす石がに疲れが出たのであらう、傍かたわらの冷えた大湯ゆの呑みをとり上げると、その七八分目まで一思ひに煽あおつて、そのまま座を立つた。風はいつの間にかやんでゐる。厠かわやの縁に立つて眺めると、雪もやがて霽はれるとみえ、中空には仄ほのかな光さへ射してゐる。ああ静かだと貞阿は思ふ。今しがたまで自分の語り耽ふけつてゐた修しゅ羅らこ黒くじ縄ょうの世界と、この薄ら氷ひのやうにすき透つた光の世界との間には、どういふ関はりがあるのかと思つてみる。これは修羅の世を抜けいでて寂光の土にいたるといふ何ものかの秘ひそやかな啓あかしなのでもあらうか。それでは自分も一応は浄火の界さかいを過ぎて、いま凉道蓮台の門かどさきまで辿たどりついたとでも云ふのか。いや何のそのやうな生なま易やさしいことが、と貞阿はわれとわが心を叱しかる。京の滅びなど此この眼で見て来たことは、恐らくはこの度の大転変の現はれの九きゅ牛うぎゅうの一毛にしか過ぎまい。兵乱はやうやく京を離れて、分国諸領に波及しようとする兆きざしが見える。この先十年あるひは二十年百年、旧ふるいものの崩れきるまで新しいものの生れきるまでは、この動乱は瞬時もやまずに続くであらう。人間のたかが一世や二世で見きはめのつくやうな事ではあるまい。してみればいま眼前のこの静寂は、仮の宿りにほかならぬ。今こよ宵いの雪の宿りもまた、所しょ詮せんはわが一生の間にたまさかに恵まれる仮の宿りに過ぎないのだ。……貞阿はさう思ひ定めると、暫しばらくじつと瞑めい目もくした。雪が早くも解けるのであらう、どこかで樋ひをつたふ水の音がする。……
やがて座に戻つた連れん歌が師しは、玄浴よく主すの新たに温めてすすめる心づくしの酒に唇をうるほしながら、物語の先をつづけた。
それは九月の十九日でございました。明け方から凄すさまじい南の風が吹き荒れてをりましたが、その朝の巳みの刻なかばに、お屋敷のすぐ南、武者の小路の上かみの方に火の手があがつたのでございます。つづいてその下しもにも上かみにも二つ三つと炎があがります。火の手は忽たちまちに土御門の大路を越えて、あつと申す間もなく正おお親ぎま町ちを甞なめつくし、桃花坊は寝しん殿でんといはずお庭先といはず、黒煙りに包まれてしまひました。折からの強風にかてて加へて、火勢の呼び起すつむじ風もすさまじいことで、御泉水あたりの巨樹大木も一様にさながら箒ほうきを振るやうに鳴りざわめき、その中を燃えさかつたままの棟むな木ぎの端や生なま木きの大枝が、雨あられと落ちかかつて参ります。やがて寝殿の檜ひわ皮だ葺ぶきのお屋根が、赤黒い火かえ焔んをあげはじめます。お軒のき先さきをめぐつて火の蛇へびがのたうち廻ると見るひまに、囂ごうと音をたてて蔀しとみが五六間ばかりも一ときに吹き上げられ、御殿の中からは猛みょ火うかの大柱が横ざまに吐き出されます。それでもう最後でございます。わたくしは、居残つてをります十人ほどの青あお侍さぶらいや仕丁の者らと、兼ねてより打合せてありました御泉水の北ほとりに集まり、その北に離れてをりますお文ふみ倉ぐらをそびらに庇かばふやうに身構へながら、程なく寝殿やお対たい屋のやの崩れ落ちる有様を、あれよあれよとただ打ち守るばかり。さあ、寝殿の焼け落ちましたのは、やがて午うまの一つ頃でもございましたらうか、もうその時分には火の手は一条大路を北へ越して、今出川の方かたもまた西の方かた小こか川わのあたりも、一面の火の海になつてをりました。
その中を、どこをどう廻つて来られたものか、松王さまは学僧衆三四人と連れ立たれて走せつけて下さいました。わたくしは忝かたじけなさと心づよさに、お手をじつと握りしめた儘まま、しばしは物も申せなかつたことでございました。お文倉にも火の粉こや余もえ燼さしが落下いたしましたが、それは難なく消しとめ、やがて薄らぎそめた余煙の中で、松王さまもわたくしどもも御文庫の無事を喜び合つたことでございます。松王さまは小半時ほど、焼跡の検分などをお手伝ひ下さいましたが、もはや大だい事じもあるまいとの事で、間もなく引揚げておいでになりました。
その未ひつじの刻もおつつけ終る頃でございましたらうか。わたくしどもは、兼ねて用意の糒ほしひなどで腹をこしらへ、お文庫の残つた上はその壁にせめて小屋なりと差掛け、警固いたさねばなりませんので、寄り寄りその手ては筈ずを調へてをりました所、表の御門から雑ぞう兵ひょうおよそ三四十人ばかり、どつとばかり押し入つて参つたのでございます。その暫しばらく前に二三人の足あし軽がるらしい者が、お庭先へ入つては参りましたが、青あお侍さぶらいの制止におとなしく引き退さがりましたので、そのまま気にも留めずにゐたのでございます。その同勢三四十人の形なりの凄すさまじさと申したら、悪あっ鬼きら羅せ刹つとはこのことでございませうか、裸身の上に申訳ばかりの胴どう丸まる、臑すね当あてを着けた者は半数もありますことか、その余の者は思ひ思ひの半裸のすがた、抜ぬき身みの大た刀ちを肩にした数人の者を先登に、あとは一抱へもあらうかと思はれるばかりの檜ひのきの丸太を四五人して舁かついで参る者もあり、空から手てで踊りつつ来る者もあり、あつと申す暇もなくわたくしどもは、お文ふみ倉ぐらとの間を隔てられてしまつたのでございます。刀の鞘さやを払つて走せ向つた血気の青侍二三名は、忽たちまちその大丸太の一ひと薙なぎに遇ひ、脳のう漿しょう散乱して仆たおれ伏します。その間にもはや別の丸太を引つ背負つて、南面の大扉にえいおうの掛かけ声ごえも猛に打ち当つてをる者もございます。これは到底ちからで歯向つても甲か斐いはあるまい、この倉の中味を説き聴かせ、宥なだめて帰すほかはあるまいとわたくしは心づきまして、一手の者の背後に離れてお築つき山やまのほとりにをりました大将株とも見える髯ひげ男の傍へ歩み寄りますと、口を開く間もあらばこそ忽たちまちばらばらと駈かけ寄つた数人の者に軽々と担ぎ上げられ、そのまま築山の谷へ投げ込まれたなり、気を失つてしまつたのでございます。足が地を離れます瞬間に、何者かが顔をすり寄せたのでございませう、むかつくやうな酒気が鼻をついたのを覚えてゐるだけでございます。……
やがて夕暮の涼気にふと気がつきますと、はやあたりは薄暗くなつてをります。風は先刻よりは余程ないで来た様子ながら、まだひようひようと中空に鳴つてをります。倒れるときお庭石にでも打ちつけたものか、脳天がづきりづきりと痛やんでをります。わたくしはその谷間をやうやう這はひ上りますと、ああ今おもひ出しても総そう身みが粟あわだつことでございます。あの宏大もないお庭先一めんに、書籍冊巻の或ひは引きちぎれ、或ひは綴つづりをはなれた大小の白い紙片が、折りからの薄闇のなかに数しれず怪しげに立ち迷つてゐるではございませんか。そこここに散乱したお文ふみ櫃びつの中から、白蛇のやうにうねり出てゐる経きょ巻うかんの類たぐひも見えます。それもやがて吹き巻く風にちぎられて、行方も知らず鼠ねずみ色の中空へ立ち昇つて参ります。寝しん殿でんのお焼跡のそこここにまだめらめらと炎の舌を上げてゐるのは、そのあたりへ飛び散つた書冊が新たな薪たきぎとなつたものでもございませう。燃えながらに宙へ吹き上げられて、お築つい地じの彼かな方たへ舞つてゆく紙帖もございます。わたくしはもうそのまま身動きもできず、この世の人の心地もいたさず、その炎と白と鼠いろの妖あやしい地獄絵巻から、いつまでもじいつと瞳を放てずにゐたのでございます。口をしいことながら今かうしてお話し申しても、口不ぶち調ょう法ほうのわたくしには、あの怖ろしさ、あの不気味さの万分の一もお伝へすることが出来ませぬ。あの有様は未だにこの眼の底に焼きついてをります。いいえ、一生涯この眼から消え失せる期ごのあらうことではございますまい。
やうやくに気をとり直してお文ふみ倉ぐらに入つてみますと、さしもうづ高く積まれてありましたお文ふみ櫃びつは、いづくへ持ち去つたものやら、そこの隅かしこの隅に少しづつ小さな山を黒ずませてゐるだけでございます。青あお侍さぶらいどもはみな逃亡いたして姿を見せません。顫ふるへながらも居残つてをりました仕丁両三名を励ましつつ、お倉の中を検分にかかりますと、そこの山の隈くまかしこの山の陰から、ちよろちよろと小こね鼠ずみのやうに逃げ走る人影がちらつきます。難民の小こせ倅がれどもがまだ諦あきらめきれずに金きん帛ぱくの類を求めてゐるのでございませう。……かうしてさしもの桃華文庫もあはれ儚はかなく滅尽いたしたのでございます。残りましたお文櫃はそれでも百余合ほどございましたが、これは光明峰寺へ移し納め、わたくしもそれに附いてそちらへ引き移りました。わたくしは取るものも取とり敢あへずその夜のうちに随心院へ参り、雑ぞう兵ひょ劫うき掠うょりゃくの顛てん末まつを深夜のことゆゑお取次を以て言ごん上じょういたしましたところ、太たい閤こうにはお声をあげて御痛つう哭こくあそばしました由よし、それを伺つてわたくしはしんから身を切られる思ひを致したことでございました。光明峰寺へ移されましたお櫃の中には新玉集の御稿本は終ついに一帖も見当らなかつたのでございます。
いやもう一つ、わたくしが気を失つて倒れてをりました間に、つい近所の町筋では無むざ慚んな出来事が起つたのでございました。翌日になつて人から聞かされました事ゆゑ、くはしいお話は致し兼ねますが、兼ねて下しも京ぎょうを追出されてをりました細川方の郎党衆、一条小こか川わより東は今出川まで一条の大路に小屋を掛けて住居してをりましたのが、この桃花坊の火、また小笠原殿の余炎に懸かかつて片端より焼け上り、妻子の手を引き財物を背に負うて、行方も知らず右往左往いたした有様、哀れと言ふも愚かであつたと人の語つたことでございました。かやうにして内だい裏りの東西とも一望の焼野原となりました上は、細川方は最早や相国寺を最後の陣所と頼んで、立たて籠こもるばかりでございます。
けれども程なく十月の三日には、その相国寺の大だい伽がら藍んも夥おびただしい塔たっ頭ちゅう諸院ともども、一日にして悉しっ皆かい炎上いたしたのでございます。山名方の悪僧が敵に語らはれて懸けた火だと申します。この日の戦さの凄すさまじさは後日人の口より色々と聞き及びましたが、ともあれ黄たそ昏がれに至つて両軍相引きに引く中を、山名方は打うち首くびを車八輛りょうに積んで西陣へ引上げたとも申し、白雲の門より東今出川までの堀を埋うずむる屍しかばね幾千と数知れなかつたとも申してをります。
さあこの報せが光明峰寺にとどきますと、鶴姫様の御心配は筆ひつ舌ぜつの及ぶところではございません。早々にお見舞ひの御消息がわたくしに托たくせられます。それを懐ふところにわたくしが相国寺の焼跡に立つたのは、翌あくる日のかれこれ巽たつみの刻でもございましたらうか。さしも京きょ洛うらく第一の輪りん奐かんの美を謳うたはれました万年山相国の巨きょ刹さつも悉ことごとく焼け落ち、残るは七重の塔が一基さびしく焼野原に聳そびえ立つてゐるのみでございます。そこここに死しが骸いを収める西方らしい雑兵どもが急しげに往来するばかり、功くど徳くい池けと申す蓮はす池いけには敵味方の屍がまだ累るい々るいと浮いてをりますし、鹿ろく苑おん院いん、蔭凉軒の跡と思おぼしきあたりも激しい戦いくさの跡を偲しのばせて、焼け焦げた兵どもの屍が十歩に三つ四つは転まろんでゐる始末でございます。物を問はうにも学僧衆はおろか、承じょ仕うじ法ほう師しの姿さへ一人として見当りません。もしや何か目じるしの札でもと存じ灰かい塵じん瓦がれ礫きの中を掘るやうにして探ねましたが、思へば剣けん戟げき猛火のあひだ、そのやうなものの残つてゐよう道理もございません。わたくしは途方に暮れて佇たたずんでしまひました。
その日は空しく立戻り、次の日もまた次の日も、わたくしは御文を懐ふところにしつつ或あるは功徳池のほとりに立ち暮らし、或は心当てもなく焼け残つた巷ちまた々を探ね廻りましたが、松王様に似たお姿だに見掛けることではございません。そのうちに日数はたつて参ります。相国寺合戦の日の色々と哀れな物語も自然と耳にはいつて参ります。中でも一ひと入しおの涙を誘はれましたのは、細川殿の御おん曹ぞう子し、六郎殿のおん痛はしい御最後でございました。当年十六歳の六郎殿は、この日東の総大将として馬廻りの者わづか五百騎ばかりを以て、天てん界がい橋ばしより攻め入る大敵を引受け、さんざんに戦はれましたのち、大将はじめ一騎のこらず討うち死じにせられたのでございますが、戦さ果てても御遺いが骸いを収める人もなく、犬いぬ狗えのこのやうに草くさ叢むらに打うち棄すててありましたのを、やうやく御生前に懇意になされた禅僧のゆくりなくも通りすがつた者がありまして、泣く泣くおん亡なき骸がらを取収め、陣屋の傍に卓つくえを立て、形ばかりの中ちゅ陰ういんの儀式をしつらへたのでございます。ところが或る日のこと、ふとその禅僧が心づきますと硯すず箱りばこの蓋ふたに上うわ絵えの短冊が入れてありまして、それには、
さめやらぬ夢とぞ思ふ憂 きひとの烟 となりしその夕べより
と、哀れな歌がしたためてあつたと申すことでございます。人の噂うわさでは、これはさる公くぎ卿ょうの御息女とこの六郎殿と御契りがありまして、常々文ふみを通はせられてをられましたが、その方の御歌とか申しました。この物語を耳にしましたとき、あまりの事の似通ひにわたくしは胸をつかれ、こればかりは姫のお耳に入れることではない、この心一つに収めて置かうと思ひ定めましたが、なほも日数を経て何ひとつお土みや産げ話もない申訳なさに、ある夕まぐれついこのお話を申上げましたところ、もはや夕闇にまぎれて御几きち帳ょうのあたりは朧おぼろに沈んでをりますなかで、忍び音ねに泣き折れられました御様子に、わたくしも母親も共々に覚えず衣の袖そでを絞つたことでございました。
そのやうな不吉な兆きざしに心を暗くしながらも、なほもお跡を尋ねてその日その日を過ごしてをりますうち、やがて十一月の声を聞いて二三日がほどを経ました頃でございます。わたくしは今出川の大路を東へ、橋を越して尚なおもさ迷つて参りますうち、地獄谷への坂道にやがて掛らうといふあたりで、のそりのそりと前を歩んで参る僧そう形ぎょうの肩つきが、なんと松王様に生き写しではございませんか。もしやとお声をかけてみますと、振向かれたお顔にやはり間違ひはございませんでした。やれ嬉うれしやとわたくしは走せ寄りまして、お怨うらみも御ごし祝ゅう著ちゃくも涙のうちでございます。﹁いや許せ許せ。俺おれが悪かつたよ﹂と相変らずの御豁かっ達たつなお口振りで、﹁俺はあれからこつち、この谷奥の庵いおりに住んでゐる。真しん蘂ずい和尚と一緒だよ。地獄谷に真蘂とは、これは差向き落らく首しゅの種になりさうな。あの狸たぬき和尚、一思ひに火の中へとは考へたが、やつぱり肩に背負つて逃げだして、あとから瑞ずい仙せん殿に散々に笑はれたわい。まあこの辺が俺のよい所かも知れん﹂などと早速の御冗談が出ます。まあ少し歩きながら話さうとの仰おおせで、わたくしの差上げました御消息ぶみ七八通を、片はしより披ひらかれてお眼を走らせながら、坂を足早に登つて行かれます。池田のあたりから右へ切れて、小高い丘に出たところで、さつさとその辺の石に腰をおかけになります。﹁まあそなたも坐すわれ。ここからは京の焼跡がよう見えるぞ﹂とのお言葉に、わたくしも有合ふ石に腰をおろしました。
わたくしは更あらためて一望の焼野原をつくづくと眺めました。本式の戦さが始まつてより、まだ半年にもならぬ間に、まつたくよくも焼けたものでございます。ちやうど真向ひに見えてをります辺りには、内だい裏り、室町殿、それに相国寺の塔が一基のこつてをりますだけ、その余は上かみ京ぎょう下しも京ぎょうをおしなべて、そこここに黒々と民家の塊かたまりがちらほらしてをりますばかり、甍いらかを上げる大屋高楼は一つとして見当りません。眺めてをりますうちに、くさぐさの思ひが胸に迫り、覚えずほろほろと涙があふれさうになつて参ります。松王様も押黙られたまま、姫の御消息を打ち返し打ち返し読んでをられます。沈しじ黙まのうちに小半時もたちましたでせうか。……
と、松王様はゆきなりお文を一くるみに荒々しく押し揉もまれて、そのまま懐ふところふかく押し込まれると、つとこちらを振り向かれて、﹁どうだ、よう焼けをつたなあ。相て国らも焼けた、桃ふ花み文ぐ庫らも滅んだ、姫もさらひそこねた、はははは﹂と激しい息使ひで吐きだすやうにお話しかけになりました。例になく上ずつたお声こわ音ねに、わたくしは初めのうちわが耳を疑つたほどでございます。わたくしが何と申上げる言葉もないままでをりますと、松王様は尚なおもつづけて、お口くち疾どにあとからあとから溢あふれるやうに、さながら憑つき物もののついた人のやうにお話しかけになります。それが後では、もうわたくしなどのゐることなどてんでお忘れの模様で、まるで吾われとわが心に高声で言ひ聴かすといつた御様子でございました。わたくしは何か不気味な胸さわぎを覚えながら、じつと耳を澄まして伺つてをりました。いろいろと難しい言葉も出て参りますので一々はつきりとは覚えませんけれど、大よそはまづ次のやうなお話なのでございました。
﹁この焼野原を眺めて、そなたはさぞや感無量であらうな。俺も感無量と言ひたいところだが、実を云へば頭の中は空つぱうになりをつた。今日は珍しく京のどこにも兵火の見えぬのが却かえつて物足らぬぐらゐだ。俺は事に餓うゑてをる。事がなくては一日半時も生きてはゆけぬと思ふほどだ。それを紛らはさうと、そなたはよもや知るまいが、俺は夜闇にまぎれて毘びし沙ゃも門ん谷のあたりを両三度も徘はい徊かいしてみたぞ。姫があの寺へ移られたことは直きに耳に入つたからな。そしてあの小こみ径ちこの谷陰と、姫をさらふ手立をさまざまに考へた。どういふ積りかは知らぬが、仰ぎょ山うさんに薙なぎ刀なたまでも抱へてをつた。いや飛んだ僧兵だわい。その三晩目に、姫を寝所から引つさらふことは、案外に赤子の首をひねるよりた易やすいことが分つた。手順は立派に調つた。そなたなんどは高たか鼾いびきのうちに手際よくやつてのけられる。そこで俺は馬ば鹿か々々しくなつてやめてしまつた。よくよく考へてみたところ、俺の欲しいのは姫ではなくして事であつた。それが生あい憎にく﹃事﹄ほどの事で無いのが分つたまでだ。姫のうへは気の毒に思ふ。だが所しょ詮せん、俺が引つさらつて見たところであの姫の救ひにはならぬ、この俺の救にもならぬ。……
﹁それ以来、俺は毎日この丘へ登つて、焼跡を見て暮した。何か事を見附けださうとしてだ。どこぞで火煙の立つ日は心が紛れた。それのない日は屈くっ托たくした。さて、恋が事でなかつたとすればお次は何だ。俺はまづ政治といふものを考へてみた。今度の大乱の禍因をなしたのは誰だ、それを考へてみようとした。それで少しは心が慰さまうかと思つたのだ。世間では伊勢殿が悪いといふ。成なる程ほどあの男は奸かん物ぶつだ、淫乱だ、私心もある、猿さる智ぢ慧えもある。それに俺としても家督を追はれた怨うらみがある、親の仇かたきなどと旧弊な言いい掛がかりも附けようと思へば附けられよう。だがこの男も結局は俺の心を掻かき立てては呉くれぬ。小さいのだ、下らぬのだ。あれほどの野心家なら、どこの城どこの寺の隅にも一人や二人は巣喰つてをる。それでは蔭凉軒はどうだ。世間ではあの老人が義政公を風流讌えん楽らくに唆そそのかし、その隙すきにまぎれて甘い毒汁を公の耳へ注ぎ込んだ張本人のやうに言ふ。赤入道︵山名宗そう全ぜん︶なんぞは、とり分けて蔭凉の生涯失はるべしなどと、わざわざ公くぼ方うに念を押しをる。それほどに憎らしいか、それほどに怖ろしいか。俺はあの老人とこれで丸六年のあひだ一緒に暮して来たが、唯ただの詩の好きな小心翼々たる坊主だ。もそつと詩の上手なあの手合は五山の間にごろごろしてをる。あれを奸かん悪あくだなど言ふのは、奸悪の牙きばを磨く機縁に恵まれぬ輩やからの所しょ詮せんは繰り言にしか過ぎん。ではそんな詰らん老人をなぜ背負つて火の中を逃げた。孟もう子しは何とやらの情じょうと言つたではないか。俺の知つた事ではない。……
﹁とするとこの両名の言ふなりになつた公方が悪いといふことになる。成程あまり感服のできる将軍ではない。畏かしこくも主しゅ上じょうは満城紅緑為誰肥と諷ふう諫かんせられた。それも三日坊主で聞き流した。横おう川せん景けい三さん﹇#ルビの﹁おうせんけいさん﹂は底本では﹁おうせいけいさん﹂﹈殿の弟子分ぶんの細川殿も早く享きょ徳うとくの頃から﹃君慎﹄とかいふ書を公方に上たてまつつて、﹃君行跡悪あしければ民順したがはず﹄などと口を酸くした。それもどこ吹く風と聞き流した。俺は相国寺の焼ける時ちよつと驚いたのだが、あの乱戦と猛みょ火うかが塀一つ向ふで熾おこつてゐる中を、折せっ角かくはじめた酒宴を邪魔するなと云つて遂ついに杯を離さず坐すわり通したさうだ。あれは生なま易やさしいことで救へる男ではない。政治なんぞで成じょ仏うぶつできる男ではない。まだまだ命のある限り馬ば鹿かの限りを尽すだらうが、ひよつとするとこの世で一番長もちのするものが、あの男の乱行沙ざ汰たの中から生れ出るかも知れん。……
﹁そこで近頃はやりの下げこ尅くじ上ょうはどうだ。これこそ腐れた政治を清める大妙薬だ。俺もしんからさう思ふ。自由だ、元気だ、溌はつ剌らつとしてをる。障しょ子うじを明け放して風を入れるやうな爽さわやかさだ。俺は近ごろ足あし軽がるといふものの髯ひげづらを眺めてゐて恍こう惚こつとすることがある。あの無智な力の美しさはどうだ。宗そう湛たんもよい蛇じゃ足そくもよい。だが足軽の顔を御所の襖ふす絵まえに描く絵師の一人や二人は出てもよからう。まあこれはよい方の面だ。けれど悪い面もある。人心の荒廃がある。世道の乱壊がある。第一、力は果して無智を必須の条件とするか、それが大いに疑問だ。一時は俺も髪の毛をのばして、箒ほうきを槍やりに持ち替へようかと本気で考へてみたが、それを思つてやめてしまつた。……
﹁ではその荒廃乱壊を救ふものは何か。差さし当あたつては坊主だ。俺は東福で育つて管領に成り損ねて相国に逆戻りした男だ。五山の仏法はよい加減厭あきの来るほど眺めて来た。そこで俺の見たものは何か。驚くべき頽たい廃はい堕落だ。でなければ見事きはまる賢哲保身だ。それを粉飾せんが為の高踏廻避と、それを糊こ塗とせんが為の詩禅一致だ。済さい世せいの気きは魄くなど薬にしたくもない。俺は夢厳和尚の痛つう罵ばを思ひだす。﹃五山ノ称ハ古いにしえニ無クシテ今ニアリ。今ニアルハ何ゾ、寺ヲ貴とうとンデ人ヲ貴バザルナリ。古ニ無キハ何ゾ、人ヲ貴ンデ寺ヲ貴バザルナリ。﹄またかうも言はれた。﹃法隆将まさニ季ナラントシ、妄庸ノ徒声利ニ垂すい涎ぜんシ、粉焉沓然、風ヲ成シ俗ヲ成ス。﹄人は惜しむらくは罵ば詈りにすぎぬといふ。しかし克よく罵言をなす者すら五山八千の衆徒の中に一人もないではないか。いや一人はゐる。宗そう純じゅん和尚︵一休︶がそれだ。あの人の風狂には、何か胸にわだかまつてゐるものが迸ほう出しゅつを求めて身みも悶だえしてゐるといつた趣おもむきがある。気の毒な老人だ。だがその一面、狂詩にしろ奇行にしろ、どうもその陰に韜とう晦かいする傾きのあるのは見逃せない。俺にはとてもついて行けない。……
﹁そこで山外の仏法はどうか。これは俺の知らぬ世界だから余り当てにはならぬが、どうやら人物がゐるらしい。﹃祖師の言句をなみし経きょ教うぎょうをなみする破木杓、脱底桶つうのともがら﹄を言葉するどく破せられた道元和尚の法ほう燈とうは、今なほ永平寺に消えずにゐるといふ。それも俺は見たい。応永のころ一条戻もど橋りばしに立つて迅じん烈れつな折しゃ伏くぶくを事とせられたあの日親といふ御僧――、義よし教のり公の怒いかりにふれて、舌を切られ火ひな鍋べを冠かぶらされながら遂ついに称しょ名うみょう念仏を口にせなんだあの無双の悪あく比び丘くは、今どこにどうしてをられる。それも知りたい。叡えい山ざんの徒に虐しいたげられて田いな舎か廻りをしてゐる一向の蓮れん如にょ、あの人の消息も知りたい。新しい世の救ひは案外その辺から来るのかも知れん。だがこれも今のところ俺には少しばかり遠い世界だ。……
﹁方々見廻しては見たが、まあ現在の俺には、諦あきらめて元の古巣へ帰るほかに途みちはなささうだ。それそれそなたの主人、一条のおやぢ様の書かれた本にもあるではないか。﹃理ハ寂じゃ然くねん不動、即すなわチ心ノ体たい、気ハ感ジテ遂ついニ通ズ、即チ心ノ用﹄……あの世界だ。あのおやぢ様は道理にも明るく経けい綸りんもあるよい人だ。只ただ惜しいかな名利が棄すてられぬ。信のぶ頼よりや信しん西ぜいほどの実行の力も気概もない。そして関白争ひなどと云ふをかしな真ま似ねをしでかしては風流学問に身をかはす。惜しい人物だ。それにつけても兄あに様の一慶和尚は立派なお人であつたぞ。いまだに覚えてゐる、﹃儒教デモ善ト云フモ悪ニ対スルホドニ善ト悪トナイゾ、中庸ノ性ト云フタゾ﹄などと、幼な心に何の事とも分らず聞いてをつたあの咄とつ々とつとした御ごお音んじ声ょうが、いまだに耳の中で聞えてゐる。そもそも俺のやうな下げぼ品んげ下しょ生うの男が、実理を覚さとる手数を厭いとうて空理を会えさうなどともがき廻るから間違ひが起る。さうだ、帰るのだ、やつと分つたよ。虎関、夢窓、中巌、義堂、そして一慶さま……あの懐しい師匠たちの棲すまふ伝統へ、宋そうの学問へ、俺は帰るのだ。﹂
そこでやうやく言葉を切られますと、そのまま石からお腰を上げて、こちらは見向きもなさらず丘を下りて行かれます。わたくしは呆あきれて追ひすがり、﹁ではこの先どこへおいで遊ばす﹂と伺ひますと、﹁明日にも近江へ往く、あの瑞仙和尚がをられるのだ。何か言こと伝づてでもあるかな﹂とのお答へ。﹁姫君へお返りごとは﹂と重ねて伺ひますと、﹁いま喋しゃべつたことが返事だ。覚えてゐるだけお伝へするがいい。﹂さうお言ひ棄すてになるなり、風のやうに丘を下りて行かれたのでございます。
近江へ往くとは仰おっしやいましたが、わたくしには実まこととは思はれませんでした。なぜかしらそんな気が致したのでございます。ひよつとしたらあのまま東の陣にでもお入りになつて、斬きり死になさるお積りではあるまいかとも疑つてみました。これもそのやうな気がふと致しただけでございます。いづれに致せ、その日以来と申すもの、松王様の御消息は皆かい目もくわからずなつてしまひました。地獄谷の庵あん室しつと仰しやつたのを心当てに尋ねてみましたが、これはどうやら例のお人の悪い御嘲ちょ弄うろうであつたらしく、真しん蘂ずい西せい堂どうは前の年の九月に伊勢殿と御一緒にあさましい姿で都落ちをされたなりであつたのでございます。ちよつと潜ひそかに上じょ洛うらくされたやうな噂うわさもありましたので、それを種に人をお担ぎになつたのでございませう。鶴姫様の御悲ひた歎んは申すまでもございません。南禅相国両大寺の炎上ののちは、数千人の五山の僧衆、長老以下東堂西堂あるひは老ろう若にゃくの沙しゃ弥みか喝っし食きの末々まで、多くは坂さか下もと、山やま上のうえの有うえ縁んを辿たどつて難を避けてをられる模様でございましたので、その御在所御在所も随分と探ねてまはりました。瑞仙様が景三、周しゅ鱗うりんの両和尚と御一緒に往つてをられます近江の永源寺、あるひは集九様のをられる近江の草野、または近いところでは北岩倉の周しゅ鳳うほう様のお宿、それに念のため薪たきぎの酬恩庵あんにお籠こもりの一休様のところまでも探ねてみましたが、お行方は遂ついに分らず、その年も暮れ、やがて応仁二年の春も過ぎてしまひました。
そのうち毘びし沙ゃも門んの谷には、お移りになりまして二度目の青葉が濃くなつて参ります。明けても暮れても谷の中は喧かしましい蝉せみ時しぐ雨ればかり。その頃になりますと、この半年ほど櫓やぐらを築いたり塹ほりを掘つたりして睨にらみ合ひの態ていでをりました東西両陣は、京のぐるりでそろそろ動き出す気配を見せはじめます。七月の初はじめには山名方が吉田に攻め寄せ、月ずゑには細川方は山やま科しなに陣をとります。八月になりますと漸ようやく藤ノ森や深ふか草くさのあたりに戦いくさの気配が熟してまゐり、さてこそ愈いよ東山にも嵯さ峨がにも火のかかる時がめぐつて来たと、わたくしどもも私ひそかに心の用意を致してをりますうち、その十三日のまだ宵の口でございました。遽にわかに裏山のあたりで只ただならず喚わめき罵ののしる声が起つたかと思ふうち、忽たちまち庫く裡りのあたりから火があがりました。かねて覚悟の前でもあり、幸ひ御方様も姫君も山門のほとりの寿光院にお宿をとつておいででしたから、東福寺の方角にはまだ何事もないらしい様子を見澄まし、折からの闇にまぎれて、すばやく偃えん月げつ橋きょうよりお二方ともお落し申上げました。
残りました手の者たちとわたくしは、百余合のお文ふみ櫃びつの納めてあります北の山ぎはの経蔵のほとりに佇たたずんで、成行きをじつと窺うかがつてをります。当夜は風もなく、更にはまた谷間のことでもあり、火の廻りはもどかしい程に遅く感ぜられます。そのうちに食じき堂どう、つづいて講堂も焼け落ちたらしく、火の手が次第に仏殿に迫つて参ります頃には、そこらにちらほら雑ぞう兵ひょうどもの姿も赤黒く照らし出されて参ります。どうやら西方の大おお内うち勢らしく、聞き馴なれぬ言葉訛なまりが耳につきます。そのやうな細かしい事にまで気がつくやうになりましたのも、度重なる兵火をくぐつて参りました功くど徳くでもございませうか。やがて仏殿にも廻廊づたひにたうとう燃え移ります。それとともに、大して広からぬ境けい内だいのことゆゑ、鐘しゅ楼ろうも浴室も、南麓ろくの寿光院も、一ときに明るく照らし出されます。こちら側の経蔵もやはり同じことであつたのでございませう、松たい明まつを振りかざした四五人の雑ぞう兵ひょうが一散に馳はせ寄つて参りました。その出会ひがしらに、思ひもかけぬ経蔵の裏の闇から、僧そう形ぎょうの人の姿が現はれて、妙に鷹おう揚ような太た刀ちづかひで先登の者を斬きつて棄すてました。その横顔を、ああ松王様だとわたくしが見てとりましたとき、こちらを向いてにつこりお笑ひになりました。残兵どもは一たん引きました。その隙すきに﹁姫は﹂とお尋ねになります。﹁お落し申しました。﹂﹁やあ、また仕損じたか﹂と、まるで人ごとのやうな平気な仰おっしやりやうをなさいます。つづけて、﹁細川の手の者が隣の羅らせ刹つ谷に忍んでゐる。ここは間もなく戦場になるぞ。そなたも早く落ちたがよい。俺も今度こそは安心して近江へ往く。これを取つて置け﹂と小こづ柄かをわたくしの掌てのひらに押しつけられたなり、そこへ迫つて参りました新あら手ての雑兵数人には眼もくれず、のそりと経蔵のかげへ消えてゆかれました。それなりわたくしはあの方にはお目にかからないのでございます。いいえ、今度こそは近江へ行かれたに違ひございません。これもわたくしのほんの虫の知らせではありますけれど、これがまた奇妙に当るのでございますよ。
そののちのことは最早や申上げるほどの事もございますまい。その月の十九日には、関白さまは東の御方、鶴姫さまともども、奈良にお下りになりました。そして月の変りますと早々、これもあなた様よく御存じのとほり、姫君はおん齢とし十七を以て御落飾、法華寺の尼公にお直り遊ばしたのでございます。……ああ、あの文庫のことをお尋ねでございますか。あの夜ほどなく経蔵にも火はかかつたのでございますが、幸ひ兵どもが早く引上げて行つて呉くれましたため、百余合のうち六十二合は無事に助け出すことが叶かなひました。それは只ただ今いま当地の大乗院にお移ししてございます。先日もそのお目録のお手伝ひを致したところでございますが、もとの七百余合のうち残りましたのは十の一にも満ちませぬとは申せ、前に申上げました玉葉、玉蘂をはじめ、お家累るい代だいの御記録としましては、後光明峰寺殿︵一条家いえ経つね︶の愚ぐれ暦き五合、後芬ふ陀だ利ら花く院の玉英一合、成じょ恩うお寺んじ殿︵同経つね嗣つぐ︶の荒こう暦りゃく六合、そのほか江ごう次しだ第い二合、延えん喜ぎし式き、日本紀、文徳実録、寛かん平ぴょ御うぎ記ょき各一合、小しょ右うゆ記うき六合などの恙つつがなかつたことは、不幸中の幸ひとも申せるでございませう。それに致しましても此この度たびの兵乱にて、洛らく中ちゅ洛うら外くがいの諸家諸院の御文書御群書の類たぐひの焼亡いたしましたことは、夥おびただしいことでございましたらう。それを思ひますと、あらためてまた桃花坊のあの口くち惜おしい日のことも思ひいでられ、この胸はただもう張りさけるばかりでございます。人ひと伝づてに聞及びました所では、昨年の暮ちかく上皇様には、太だい政じょ官うかんの図籍の類を諸寺に移させられました由よしでございますが、これも今では少々後の祭のやうな気もいたすことでございます。
ああ、どうぞして一日も早く、このやうな戦乱はやんで貰もらひたいものでございます。さりながら京の様子を窺うかがひますと、わたくしのまだ居残つてをりました九月の初はじめには嵯峨の仁にん和な、天てん竜りゅうの両巨きょ刹さつも兵火に滅びましたし、船岡山では大合戦があつたと申します。十月には伊勢殿の御勘気も解けて、上じょ洛うらく御免のお沙さ汰たがありましたとやら、またそのうち嘸さぞかし色々と怪しげな物ごとが出しゅ来ったいいたすことでございませう。さう申せば早速にも今出川殿︵足利義よし視み︶は、霜しも月つきの夜さむざむと降りしきる雨のなかを、比叡へお上りになされたとの事、いやそれのみか、遂ついには西の陣へお奔はしりになつたとやら。この師しわ走すの初め頃、今出川殿討滅御祈きと祷うの勅ちょ命くめいが興福寺に下りました折ふしは、いや賑にぎやかなことでございましたな。さてもこの世の嵐はいつ収まることやら目当てもつきませぬ。お互ひにあまりくよくよするのは身の毒でございませう。はや夜もだいぶん更けました様子。どれお名な残ごりにこれだけ頂ちょ戴うだいいたして、あす知らぬわが身の旅の仮の宿、お障しょ子うじにうつる月かげなど賞しながら、お隣でゆるりと腰をのさせていただきませう。……