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やや重い感じのする回転音、……フィルムは三フィート、五フィートと記録していく。胸につきあげてくるような緊まった感じ、ちょうど運転手が瞬時もまじろぐことのできないような瞬間に経験する、張った注意と果断、一コマ一コマの構図に眼は繰り入れられてはいるけれども、こころはより多くの関心をレンズのシボリと光線にくばっている。そして、そのなまのフィルムの一々の性格に向ってある親しみ、軽い実験的興味をすらもっている。現像液の中に自分もなかば涵ひたっているといってもよい。 そして、しかも、今の三フィートは、あのプランのどこに位置づけらるべきかが、閃めきのごときキレタ感情を喚起する。いわば、今もぎとられたる現実の一片は、かの描かれたる、換言すれば未来の断片、構成の一要素である。まだ実現せざる組織の見えざる一エレメントであり、その見えざる網の一紐結として、その一コマは喜びを運んでいる。 かつての画家は、その一コマの完成に一人格を投げつけた。今は、その一コマをレンズに託して、そこより出発し、人格が組織の構成体、一つのオルガンとなったように、一コマそれ自身が組織全体の一要素となっている。キノキイのもつ喜悦は、このオルガナイズの情趣の上にある。映画が絵画を引きはなすのはこの一点にある。一つは個性とカンヴァスであるのに反して、他は性格と組織である。 映画の製作の過程が集団的であるのみならず、その形式そのものがすでに集団的である。その過程とはその社会的集団的性格を意味する。そして、形式とは、その機械性とそれに加わる人間性との複合を意味する。換言すればいわばそれは物理的集団的性格である。 レンズとフィルムと現像液ならびにそれを涵す光、それらのものの前に人の見る意味はかぎりない急転回と、躍進と、はかりしれざる未来をもっている。それこそ、物理的集団的性格の刺すような、時のかなたへの遠き視線を意味する。 われわれが回転するフィルムのふるえを頬に感じながら、ファインダーを覗く時、胸をうつ一種の吸引は、その新しき視線への崩るるごとき没入としも思われる。2
私はここでベンノ・ライフェンベルグがエドワルド・ムンクの展覧会に際してのべた言葉を回想しよう。
﹁……もの醒めた、しかし休みのないテンポをもって渦巻く生活、おし黙って、しかもジット動かない執拗な機械の力、そういうものがムンクの時代を震えあがらせる恐怖である。そうして彼はそれに逆らってこそ働いたが、そのためには働かなかった。しかし幾千も幾千もの人間は確かに、こともなく、何も知らずにこの鉄のような時代に住んでいる。新しき思想は火花の閃きのように人の中に消えていく。またわれわれは現にそれを当然のこととして、一九〇〇年時代の建物の中に住んで平気である。……絵を描く喜び、色や太陽についての楽しみ、そういうものは一九〇〇年ごろを境として過ぎ去ってしまった。それと同じように、かつては――はるか昔のことであるが――その白壁が地の中から生えたと思われる、静かな家々も過ぎ去ってしまった。……今世紀の新しい壁は、ベトンを敷いた平面の上に、見知らぬ固い表情をもって立っている。何ものが豊饒な大地にふれることを妨げたのか、何ものが生命の源をふさいだのか、何びとも答えることはできない。何ものかが失われてしまった。それに気がついたものは人間のこころだけである。こころの不安に堪えずして目地を検しらべ、床を叩き、よろめきながら地下室に踏み込む。彼女は寒さに身を凍らし敷石の上にうずくまる。いつになったら意識が戻るのか、それまでは、そして一対の目が物におびえて空虚を見つめる時のくるまでは、人間のこころは故郷を失ったのである。
ムンクはこれらの何ものをも知らずに、漫然と画布に命じて、嫉妬といい、叫びといい、心配の感じといい、また灰とよび、発熱と称している。しかしその底を尋ねれば、そこには常に一つの物がかくれている、それはものにおびえた人間性である。﹂
これらのものはわれわれの十年前の記録である。
彼の描くものの核心は、存在の愚直なる偶然性を変形して、ほとんど動きのとれない運命のようなものにしてしまった点にあるらしく、ただそれだけのことらしい。何ものか失われたる世界への恐れに充ちた承認であり、これから始まろうとする空虚の承認でもある。
ライフェンベルグはそれについていう。﹁その中には偉大な準備が現われている。そうして都会の子が、ついに荒涼たる地面の回顧から逃れることのできなかったことを、一瞥をもって把えている。狂乱は彼の内部にある。彼が大都会で、ガス燈の光の中で、アスファルトの上で、カフェの中で描いたものの後には、文明の表皮を透して、巨大な北欧の風物が身を起している。﹂
一九二〇年より一九三〇年の歴史は人類の苦しい、しかし偉大な準備であったともいえるであろう。内省的個人の究まれる終結、何ものに対しても残留する懐疑の重さ、聖にまでももたらされたる憂愁、いわばそれは自我の破産である。カントの理性を導火とし、フィヒテの自我を爆薬とし、ルッソーの自然を坑道とし、フランス革命の硝煙をもって戦いとった自我の自由が、百年の中にかくももろく潰滅しようと誰が思いえたであろう。一八三〇年の七月にハイネたちが北海の浪を焔をもって充たしうるとまで叫んだあの情熱が、かくもはやく燃焼しつくし、一かたまりの底あつい灰と化しようと誰が考ええたであろう。
しかし、事実は事実である。
限界を越えたる自我の自由が経済領域で犯せる越権、芸術において、哲学において、道徳において犯せる越権が、それに価する刑罰を課した。人は天才の名によって、非合理性の問題を意味づけんとし、恣意が独創の外貌をつけはじむる時、すでに情熱は一つの発熱をもたらし、不安と灰の感触の中に浸されたのである。そこに一九二〇年代の青白い憂愁と、高雅なる陰鬱がある。
狂えるムンクはその一つの記録である。
それは集団の組織の中にみずからを要素とする道を知らない、偉大なる個人の記録である。破砕せる巨大なる個人の記録である。歴史の深さはそこにある。
ゲオルゲ・グロッスはすでに別の道を歩む。彼はすでに彼でなくして、社会的集団のいっそうの視覚を自己代表する。諷刺画とのみそれはいいえない。それはそれで一つのカラクテールである。
それが資本主義的外貌をもつとはいえ、時代はすでに集団的性格をその交渉の単位としている。結社、会社、工場、学校、軍隊、新聞、雑誌などのすべてがそれである。
いわばそれは新しき未知なる秩序へのあらゆる試射であり、実験である。日々が、歴史それみずからリポートをおのれみずからに報告するところの実験体である。
人間の憧るる、この新しき未知なる秩序と統制、これが動けるロゴスであり、形成されんとするモルフェでもある。それは朗らかといわんにはあまりにももの醒めたる凄みと精緻性をもっている。あたかも強靱、巨大、精巧なる機械が私たちに喚びかけるものがそれである。われわれは性急にライプニッツの予定調和を信ずるものではないけれども、この社会的集団的性格が構成せる物理的集団的性格があまりにも相互等値的に射影的でもあるのに驚異を感ずるものである。そしてこの物理的集団的性格は社会的集団的性格に向って、可逆的に喚びかけをもつ。
リップスの感情移入はコーヘンが指摘するごとく、ロマンティクの同一哲学の系統をあきらかに引いている。いわば自我の物に融合する根本的契機の心理学的演繹である。自我と物が個物として相対し、主観と客観、形式と内容と対立すればこそ、そこに統一と多様もあるのである。それはカッシラーの指摘した実体概念的思惟方法である。機能概念的考え方をもってすれば、いわばすでに自我は一瞬一瞬無限により深い組織と関連体に展開していくところの関係の無限なる射影面にしかすぎない。そこには唯函数論組織構成があるのみである。