有いう一いち君は四年生で、真ま奈なちやんは二年生です。二人は競争で、毎朝涼しいうちに、夏休みの﹁おさらひ帳﹂を勉強します。今日もやつとすませたばかりのところへ、お隣の二年生の宗むねちやんが、きれいなお菓子箱をかゝへて、内庭に入つて来ていひました。
﹁ねえ、いゝものあげようか?﹂
すると二人はお縁に飛んで出て、いつしよに手を出してさけびました。
﹁おくれ、僕に!﹂
﹁あたしに頂ちや戴うだい!﹂
ところが、宗ちやんがその箱のふたを開けた時、二人はびつくりして手をひつこめました。箱の中には、まつ黒い亀かめの子のやうな、大きな甲かぶ虫とむしが五匹も入つて、モゴモゴ動いてゐたからです。
﹁びつくりした! お饅まん頭ぢゆうかと思つたら、甲かぶ虫とむしだね?﹂
有一君はすぐさういつて、箱の中をのぞきましたが、真奈ちやんは、すつかりおこつてしまひました。
﹁宗ちやんのバカ! あたし、まだ胸がドクドクしてるわ。ちつともいゝものぢやないぢやないの。そんな虫なんて、猫ねこだつて食べやしないでせう。へんな虫! いやアな虫! こんど見せたら、あたし、たゝき落して、下げ駄たでふみつぶしてやるから。﹂
すると、兄さんの有一君が笑つていひました。
﹁真奈、さうおこるなよ。これは珍しい虫なんだぞ。こゝへ来てよく見ろよ。まるで、陸軍のタンクみたいだぞ。こいつ、頭に鹿しかの角のやうな甲かぶとを冠かぶつてるし、六本の足には釣つり針ばりみたいな鈎かぎ爪つめをもつてる。力が強いんだぞ。――うん、いゝこと思ひついた。﹂
それから有一君は、真奈ちやんに、小さいおもちやの汽車や、電車や、自動車や、大砲や、タンクや、乳母車などを、ありつたけ持つて来るやうにいひつけました。
﹁ね、早く持つておいでよ。甲虫に引かすんだから。とつても面白いんだぞ。﹂
﹁ぢや、待つてゝ。﹂
さう云つて真奈ちやんが、子供部屋へおもちやを取りに行くと、有一君は女中部屋へ、甲虫をくゝる糸をもらひに行きました。
﹁甲虫をくゝるんですね。おもちやの車を引かすんですか。ぢや、赤い糸が、きれいでいゝでせう。だけど、甲虫はおつかなくて、なか〳〵くゝれませんよ。わたしがくゝつてあげませうよ。﹂
さういつて、十五になる小さい女中のお君きみは、針箱から赤い糸を出すと、有一君についてお縁に出て来ました。ねえやのお君は、自分もすつかり遊びたくなつてしまつたのです。
お君も小さい頃、よく田舎の森や林で甲虫を取つて来てマッチの箱を引かしたりして遊んだことがあつたからです。
お縁に来てみると、甲かぶ虫とむしの箱のわきに、ブリキやセルロイドで作つた小さな車のおもちやを、真ま奈なちやんがドッサリ持つて来てゐました。
﹁あらまあ、大へんなおもちやですね。﹂
お君きみはさう言ひながらお縁に坐すわつて、箱の中をガサゴソとはひまはつてゐる甲虫をつまんで、すぐ一匹づゝ、赤い糸で首のところをくゝつてしまひました。それからお君もいつしよに、みんなで甲虫に車を引かせました。
甲虫は六本の足をひろげて、釣つり針ばりのやうな鈎かぎの爪つめをどこへでもひつかけて、赤や青や黄や紫の自動車や汽船や大砲やタンクや乳母車を、五つも六つも、いつしよにひいて、ゾロッ・ゾロッと、お縁をはつて行きます。
﹁強いなあ。﹂
﹁面白いなあ。﹂
みんなよろこびました。
﹁オリンピックをさせてごらんなさい。もつと面白いから。五匹を一列に並べて。﹂
お君がさういふと、すぐ、みんなでその通りにしました。そして大騒ぎになりました。台所からお母様が、ねえやのお君をお呼びになつても、有一君と真奈ちやんはお君を行かせませんでした。みんな甲虫の尻しりをたゝいて、応援しなければならなかつたからです。
﹁だめ〳〵、お母さん。ねえやも応援してるんだから。今、オリンピック大会が始まつてるんだよ。﹂
﹁お母さんも来てごらん。日本の甲虫が第一着になりさうなの。早く来て応援してよ。フレー〳〵日本選手!﹂
﹁フレー〳〵、甲虫!﹂
その声を聞いて、お母様も見に来られました。そして甲虫が五つも六つものおもちやの車をひいて、尻を指先でたゝかれながら、エッチラオッチラとオリンピックをさせられてゐるのを、可哀さうに思はれました。
﹁まあ、可哀さうに。誰だれがこんないたづらを考へ出したの? 競争させるんでしたら、車を一つぐらゐになさいよ。﹂
お母様はほそい眉まゆを寄せて、ほんとに可哀さうな顔をなさいました。そこで真奈ちやんは、すぐ自分の応援してゐる甲虫の車をみんなはづし取つて、その代りに、自分の指にはめてゐたあはびの貝かひ殻がらで作つたきれいな指ゆび環わをぬいて、赤い糸の端つこにむすびつけました。
﹁ほら。あたいの甲虫は、こんなにきれいなものをひつぱるのよ。早いでせう。﹂
真奈ちやんは得意です。
﹁よし、僕のは強いんだから、もつといゝものをひつぱるんだ。ねえ宗むねちやん。﹂
﹁うん。﹂
﹁いゝもの、持つて来よう!﹂
その時お母さんとお君が出て行きましたので、有一君は自分の部屋へ行きましたが、何もいゝものが見つかりません。そこで鉛筆とナイフを持つて来て、甲虫の赤い糸にくゝりつけましたが、真奈ちやんの甲虫には勝てません。そこで真奈ちやんの甲虫を、指先でひつくりかへしてしまひました。
﹁ひどいわ、兄にいちやん。兄ちやんのもひつくりかへしてやるわ。﹂
でも真奈ちやんは、おつかなくて手が出せません。自分の甲虫も起してやれないのです。
ひつくりかへされた甲かぶ虫とむしは、仰向けになつたまゝ、六本の太い足をモゴ〳〵動かすばかりで、どうしても起きられません。そのうち固い甲かう羅らのやうな黒い翅はねを開いて、その中から、茶色の薄絹のやうな翅を出して、ブルル・ブルルとふるはせ出しました。と思ふ間にくるッと起きあがり、そのまゝ空中に飛びあがると、ブルルンといふ翅はお音とを立てながら、お縁を飛び出して、庭の空にまひあがつてしまひました。真ま奈なちやんの大切な小さい指ゆび環わを、赤い糸の先にブラ下げたまゝ。
みんなポカンとして見てゐるうちに、甲虫は庭の空を横切つて、垣かき根ねの隅すみにある、大人の一ひと抱かかへもある、高い〳〵柿かきの木のてつぺんの枝にとまつてしまひました。指環がキラ〳〵しながら、ブランと下つてゐます。
﹁あッ!﹂
みんなびつくりしました。大騒ぎになりました。庭に出て高い枝を見あげましたが、物もの干ほし竿ざをだつてとどきさうにはありません。もし、も一度とんだら、どこまで逃げて行くかわかりません。
お母さんを呼び、お父さんを呼んで来ました。けれど、お母さんはまぶしさうに見あげるばかりですし、中学校の英語の先生であるお父さんは、昔から木登りなんか少しも出来ないので、みんな見あげてはさわぐだけです。真奈ちやんは泣けさうになつて来ました。
﹁ねえ、お父さん、指環をとりもどして。ねえ、真奈のだいじな、だいじな、広ひろ島しまの伯を母ばさんから頂いた指環ですもの。ねえ、ねえ。﹂
お父さんは困つてしまひました。柿の木の根元に立つて見あげると、なるほど十メートルばかり上に赤い糸にブラ下つた小さい指環が、キラリ・キラリと光つてゆれてゐます。けれど、登つて行くことは出来ないし、物干竿なんかではどうにもなりません。
お母さまも困つてしまひました。
﹁あなたにも、あれを取ることは出来ませんか? いゝ智ち慧えは出ませんか?﹂
﹁少し高すぎるからな。木登りは出来ないしな……ハハア。﹂
そこへ、裏庭の方から、ねえやのお君が出て来ました。そしてニコ〳〵しながら、ひとりごとのやうに小声でいひました。
﹁とつてあげませうか? あの柿の木へ逃げて行つたんですか?﹂
すると真奈ちやんが、すぐお君のそばへとんで行つて、お君の袖そでをひいて、指環のブラ下つてゐる真下へつれて行つていひました。
﹁ほら、見えるでせう。あんな高いところへ、逃げて行つちやつたんだけど、とれる? ねえやにとれる?﹂
﹁とれますとも。登つて行けば、すぐとれますよ。﹂
さういつて、ねえやはニコ〳〵笑つて、
﹁でも、みんな見てゐらつしやると恥かしいわ。わたし一人なら、すぐ登つて取るんだけど。﹂と、いひました。
﹁あら、ねえやにとれるッて! お母さん、お父さん、ねえやは木登りが出来るんだつて! あの指環ぐらゐ、すぐ取つてくれるんですつて!﹂
真奈ちやんがさわぐので、お君はまつ赤な顔をしてしまひました。
﹁さうを。おまへ、ほんとなの?﹂
お母様がさうおつしやると、お父様も有一君も、ねえやをほめました。
﹁さうかねえ、木登りが出来るのかねえ? だが、あれを取つて来られるのかァ?﹂
﹁ねえやはえらいんだねえ、お父さんよりもえらいや!﹂
ねえやのお君は、都会の人はみんな賢くて、えらいんだと恐れてゐましたが、なんだか案外つまらない者のやうな気がして来るのでした。このくらゐの柿かきの木に登れないやうな、意い気く地ぢのない大人なんかに、イザといふ時に何が出来よう、といふやうな気がして来るのでした。わたしなんぞは、田舎にゐる時、子守をさせられながらも、よくこつそりと、もつと高い木にも登つてゐたのにと思ひました。
﹁ほんとに取りたいんでしたら、ほんとに取つて来てあげませうか?﹂
お君は、真ま奈なちやんにさういひました。
﹁ほんとに取つて!﹂と、真奈ちやんが、せがみました。
﹁だけど、おまへ、ほんとに木登りが出来るの? おつこちたら大へんですよ。﹂と、お母様が心配さうにいひました。
﹁あぶないぞ。ほんとに大丈夫なのか?﹂と、お父様も心配さうにいひました。
﹁いゝよ、大丈夫なんだよ。ねえ、ねえや。早く登れ。僕、下から見てゐてやるから。﹂と、有一君は励ましました。
ねえやはニコ〳〵笑ひながらほんとに登つて取つて来てみせようと決心しました。
﹁ぢや、ほんとに取つて来てあげませうね。﹂
さういふと、ねえやは両手の内側に唾つばきをつけ、足裏にも唾をつけて、太い柿の木の幹にかゝへつきました。そして雨あま蛙がへるが幹によぢ登る時と同じやうに、手と足とを伸したり縮めたりして、だん〳〵上へ上へと登つて行きました。
みんな不思議さうに、ぢつと見あげて突つ立つたまゝです。もし一本の手か足かゞ離れたなら、たちまちドスーンと落ちるにきまつてゐると思ふと、誰だれも何も言つてはゐられなかつたのです。
ねえやは、だん〳〵上へ上へと登つて行つて、大きな枝に足をかけました。そしてしばらくぢつと休みました。それからまた、よぢ登りはじめました。もう指ゆび環わに手が届きさうです。
下で見てゐる者たちは、ハラハラしました。もし今、あの甲虫が飛び出したら、もうそれきりですし、もしその拍子に、ねえやが手でも離したら、それこそ大へんなことが、今すぐ持ちあがるぞと思ふのでした。
けれど、ねえやは、落ちつきはらつて、だん〳〵上へ登つて行きます。
ねえやは、たうとう赤い糸にブラ下つてゐる指ゆび環わを、右手でつかみました。と同時に、今度は甲かぶ虫とむしがブラッと、お君の手から下にブラ下りました。幹にとまつてゐた甲虫をひきむしつたのです。
﹁あゝ、よかつた!﹂
真ま奈なちやんとお母様とが、殆ほとんど一時によろこんでさけびました。
﹁さわぐな。これからが危いのだ。気をゆるめるな、お君。﹂
落ちついて、お父様がいひました。
お君は落ちつきはらつて、はじめて真下にゐるみんなを見下しました。そして自分の足下に、仰向いてゐる旦だん那なさまの口くち髭ひげのある顔や、奥さまの白おし粉ろいをつけて眉まゆ墨ずみを引いた顔や、坊ちやん嬢ちやんのきれいな顔などを見た時、なんともいへぬ可を笑かしさと気の毒さを覚えて、思はずニヤニヤッと笑ひました。
お君は、はじめて自分がみんなにも負けないだけの、ある強い力を持つてゐるといふことが感じられ、急に大胆な気持になれるのでした。そしてこの心持を忘れずに、住みにくい苦しい世の中を、元気にわたつてゆかねばならぬのだと、おぼろげながら考へるのでした。
﹁とれましたよ。だけど投げると、また飛んで逃げるかも知れないから、持つておりてあげませう。﹂
お君はニコ〳〵笑つたあとでさういふと、スルスルウと、太い幹をすべりおり、下に脱ぎ揃そろへてゐた自分の下げ駄たの上へ、両足をおろしました。
﹁ほれ、お嬢さん。もう飛ばさないやうになさいな。﹂
下におりると、お君はさういつて、指環のついてゐる甲虫を、真奈ちやんに渡しました。そしてみんなが感心して、ほめるのを聞かうともせずに、すぐ、だまつて裏口の井戸端の方へ行つてしまひました。
みんなは、それを見ると、またほめました。
﹁えらい娘こだね、お君は。﹂
﹁さうですわ。だまつてゐますけど、あの娘こはしつかりしたところがありますね。﹂
﹁さうさ。お父さんなんかよりえらいや。女の子のくせに、あんなとこまで登れるんだもの。﹂
﹁ねえやは、ゴウケツね。﹂
真奈ちやんがさう言つたので、みんな笑ひ出しました。笑ひながら、みんなお縁から座敷へあがつて来ました。