文ぶん吉きちは、ある夏休の末のこと、親おや不しら知ずこ子し不ら知ずの海岸に近い、従いと兄この家へあそびに行きました。 そして、毎日従いと兄こと一緒に、浜へつれて行つてもらつて、漁れふ夫したちの網をひくのを見たり、沖の方に、一ぱいにうかぶ帆舟を眺ながめたりしました。磯いそにうちよせてくる小さざ波なみに、さぶ〳〵足を洗はせながら、素足で砂の上を歩くのは、わけてたのしいことでした。 二三日するうちに、文吉は、すつかり、海になれました。従いと兄こにつれてもらはなくとも、ひとりで浜へ出かけるやうになりました。 ある日のこと、朝御飯をたべると、すぐに、文吉は浜へ出かけて行きました。からりとよく晴れた日で、お日さまは、沖の方を、あかるくてらしてゐましたけれど、近く山を背負うた浜のあたりは、まだひや〳〵した蔭かげになつてゐました。 やがて、お日さまの光は、沖の方からだん〳〵岸へ近づいてきました。砂地一めん、パツとあかるくなりました。文吉は、いつさんに、そのあたたかい光の方へ駈かけて行つて、岩の出鼻をまがつたとき、どんとぶつかつたものがありました。それは笈おひづるを背負うた、一人のおぢいさんでした。文吉もおぢいさんも、一しよに砂の上に、ころげました。そして起きあがるときには、文吉がおぢいさんに抱きおこされてゐました。 ﹁ヤレ〳〵かんべんしてくれよ。わしは、今一しんに、さがしものをしてゐたのでのう。﹂ おぢいさんは、しはがれ声でいひながら、文吉のきものについた、砂をはらつてくれるのでした。文吉は、びつくりした顔つきで、おぢいさんのするままになつてゐました。 おぢいさんは、もはや六十あまりの年ごろで、額にふかい皺しわがきざまれて、目はおちくぼんでゐました。おぢいさんは、文吉の顔を見て、 ﹁ウム、よいお子ぢや。﹂ といひました。そのまま、後をふりかへるでもなく、とぼ〳〵歩いて行きました。 お日さまは、山の上に高くのぼりました。砂地はぽか〳〵あたたかくなりました。文吉は岩のかげに寝そべつて、 ﹁へんなお爺ぢいさんだな。一体何をさがしてゐたのかな。﹂ そんなことを考へてゐましたが、白帆のうかんだ、うつくしい海のながめは、すつかり、文吉の心をうばつてしまひました。 それから、一時間ばかりもたつたころでした。 文吉は、砂地の上に寝そべつたまま、むしんに、口笛を吹いてゐました。海は大そうしづかで、時たま、磯いそ波なみがザザアーと、うちよせる音がきこえます。文吉は、じぶんの口笛の調子と、それに入りまじつてくる海の唄うたに、ぼんやりと、聞き入つてゐましたが、そのとき、なむあみだぶつ〳〵と、聞きおぼえのあるしはがれ声が、きこえました。文吉は、はねおきました。 もう遠く、行つてしまつたことゝ、おもつてゐた笈おひづるのおぢいさんが、また、やつてきたのでありました。 ﹁どうも、心のこりでのう。もう一度さがしにひきかへしてきた。﹂ おぢいさんは云いひながら、何か一しんに、さがし出さうとするやうすで、前こごみに、そこらを歩きまはつてゐます。 ﹁何をさがすの?﹂ 文吉は、たづねました。 ﹁親しん鸞らんさまの石ぢや。﹂ ﹁しんらんさまの石?﹂ ﹁ウム。親鸞さまの石ぢや。﹂ おぢいさんは、時々、砂地にころがつてゐる石ころをひろひあげて、ためつすかしつして見ては、ポンとなげすててしまひます。 ﹁だめぢや、これもさうぢやない。﹂ 文吉は、ふと、じぶんの足もとに、波にみがかれた、きれいな石ころが目にとまつたのをひろひあげて、 ﹁これぢやないの。﹂ といひますと、おぢいさんは、 ﹁ドレ〳〵。﹂と一目見て、首をふりました。 ﹁イヤ、ちがふ。﹂ ﹁しんらんさまつて何?﹂ 文吉は、たづねました。 ﹁親鸞さまは、むかしのお上しや人うにんさまぢや、生いき仏ぼとけさまぢや。﹂ おぢいさんは、前こごみにとぼ〳〵歩きながら、いひました。 ﹁それが石をどうしたの。﹂ ﹁親鸞さまが、ここをお通りになつた。たつといお方ぢやけど、かうして、わしのやうな遍路すがたでな。それが、おそろしく海の荒れた日で、親は子知らず、子は親知らずといふ難所ぢや、そら、あそこに見えるぢやろ。﹂ とおぢいさんは、崖がけが海に迫つたところを指ざして、 ﹁あそこに見えるだろ、あの洞ほらの中へお上人さまはお入りになつた。ところが、大きな波があとから〳〵寄せてきて、お出いでになることができない。七日七晩、洞ほらの中でおすごしになつた。そのあひだ、お上人さまは、南なむ無あみ阿だ弥ぶ陀つ仏な々む々あ々み々だ々ぶ々つと、石ころを拾つては、一字々々おしるしになつた。七日七晩といへば、えらい数ぢやろとおもふが、それが、このわしの目には一つも見つからぬ。申しわけのないことぢやて。﹂ おぢいさんの目は、そのとき、涙なみだぐんでゐました。 ﹁わしは、もう行くとせう。﹂ と力ないこゑで、 ﹁ぼんち、おまへは、よい子ぢや。せいだして、さがすがよいぞ。﹂ かういつて、波うちぎはの細みちづたひに、また歩いて行くのでした。文吉は、ぼんやり見送つてゐました。その笈おひづる姿が、むかうの岬みさきのはしにかくれるまで。 ﹁ぼくは、あしたは家へかへるんだ。親鸞さまの石をさがさうたつて駄だ目めだがな。﹂ さう考へると、たまらなく悲しくなりました。 その夕方、文吉は、親鸞さまの石のことを従いと兄こにたづねますと、 ﹁馬ば鹿かだな。おまへ、そんなことほんとにしてゐるのか。﹂ と従いと兄こは笑ひました。 ﹁だつて、お遍路さんがさういつてゐたもの。﹂ ﹁まだそんなことをいつてゐる。親鸞上人はいつの人だとおもふ。七百年もむかしの人だぜ。﹂ ﹁だつてお遍路さんは、ほんきにさがしてゐたもの。﹂ ﹁お遍路さんなんて、何も知らないさ。ぼくのいふことが、うそだとおもふなら、学校へ行つて、先生にきいてみな。﹂ 文吉はうなづきました。文吉の学校の先生は、文吉の問に、何と答へて下さるでせうか。