五月雨がしよぼ〳〵と降りつゞいて、うすら寒い日の夕方、三郎さんは、学校からかへつて、庭向きの室でおさらひをしてゐますと、物置の方で、 ﹁三郎や、ちよいと来てごらん。﹂といふお母さんの声がしました。障子をあけて見ますと、庭さきの物置小屋の軒下に、白しろ手てぬ拭ぐひを姉さんかぶりにしたお母さんの姿が見えました。足もとに何か居ると見えて、お母さんは俯ふし目にして立つて居られます。 ﹁お母さん、何?﹂と云ひますと、お母さんは三郎さんの方を一寸見て、黙つて手招きされました。 三郎さんは台所の方へまはつて、足駄をはいて、雨のしよぼ〳〵降つてゐる中を、お母さんの傍へ走つて行きました。そこには、軒下の藁の散らばつたところに、一匹の小猫が雨にしつぽり濡れて、ぶるぶるふるへてゐるのでした。 ﹁あツ、小さな猫。どこの猫だらうね、お母さん。﹂ ﹁大方、棄て猫だらうよ。﹂ ﹁棄て猫つて?﹂ ﹁人が棄てたのよ。猫はたくさん子を生むから、それをみんな飼つておくわけにいかないからね。﹂ 三郎さんとお母さんと話してゐる声が聞えたのかどうか、小猫は哀れつぽい声で、ニヤオ〳〵と啼き出しました。 ﹁お母さん、家の猫にしたらよくない。﹂ ﹁えゝ、飼つてもいゝけれど、今にお父さんがおかへりになつたら話して見てね。﹂ その時、家の中で﹁お母さん〳〵。﹂と妹の松子さんの泣く声がしました。 ﹁松子がお目覚めだよ。﹂と、お母さんは雨の中を小走りにお家の方へ駈けて行きました。松子さんは、三郎さんにとつてただ一人の兄きや妹うだいで、ことし漸く三つの女の子です。 やがてお母さんは、お昼寝してねむさうな顔つきをしてゐる松子さんを抱いて、お家から出て来ました。 ﹁ごらん。この小さなねんね。﹂とお母さんが指ざすのを、松子さんは黙つて見てゐましたが、そのまゝお母さんの胸に顔をあてゝ、乳を吸ひはじめました。小猫はニヤオ〳〵と、啼きつゞけてゐます。 ﹁松子はねんねがお好きでないね。﹂ とお母さんはつぶやくやうに云つて、 ﹁あの、三郎や、牛ち乳ちの残りがあるから、古いお椀わんへ入れて持つておいでよ。﹂と云ひました。 三郎さんは、台所へ駈けて行つて、牛ぎう乳にゆ壜うびんに残つてゐる乳を、椀へうつして持つて来ました。小猫は、三郎さんの持ちそへてゐるお椀の乳を、大そうお旨いしさうにチウチウ音をたてゝ飲みました。お椀に半分あまりあつた乳を、みんな飲んでしまひました。乳を飲んでしまふと小猫はもう啼きませんでした。 ﹁お腹がすいてゐたのだわ、可哀さうに。﹂ ﹁だから、お母さん、家で飼はうよ。﹂と云つてゐると、家の潜くぐ戸りどが、がら〳〵とあく音がしました。 ﹁お父さんらしいね。﹂お母さんは、松子さんを抱いたまゝ急いで玄関口の方へと立つて行きました。三郎さんは、片手に空の牛乳壜を持ち、片手にそつと猫を抱きあげて、お母さんの後から駈けて行きました。 玄関のあがり口で靴をぬいでゐるお父さん︵三郎さんのお父さんは町の役所へつとめて居られました︶の鼻さきへ、三郎さんは猫をさし出して、 ﹁お父さん、これ!﹂ お父さんは小猫を一寸見て、 ﹁何だね、そんな汚ないものを。﹂と不愛想の返事でした。 ﹁だつて雨に濡れたんだもの。家で飼つておけばすぐと綺きれ麗いになるよ。ねえ、お父さん、家で飼はう。棄て猫で可哀さうだに。今、乳をくれたら、ホラ、こんなに嬉しさうに喉のどをならしてゐる――﹂ お父さんは、顔をあげてもう一度小猫を見て、 ﹁まあ、お母さんに話してごらん。﹂ 三郎さんはお母さんと顔を見合わせて、につこりしました。これで小猫は、さつそく三郎さんの家のものになりました。 小猫は、やがてまる〳〵と肥ふとつて、毛なみのうつくしい三みけ毛ね猫こになりました。家中のものは誰呼ぶとなく﹁三毛、三毛﹂と名をつけて可愛がりました。 家の人たちが御飯の時は、三毛のお椀にもきつと御ごち馳そ走うがあてがはれました。お魚でもお吸物でも家のものと同じやうに、三毛はいたゞくことができました。飼ひはじめには不愛想であつたお父さんまでが、お役所からかへつてお夕飯の時、三毛の姿が見えないと、 ﹁三毛はどうしたな。﹂などと云ひました。すると、お庭の裏口の方から、ニヤオ〳〵と甘えるやうな声をして来て、三毛はもうすぐにお父さんの膝の上へ乗つて、ころ〳〵と喉をならすのでした。 けれど、三毛が一番好きなのは、お父さんの膝よりもお母さんの膝よりも、三郎さんの小さな膝でした。三毛は、三郎さんの膝の上でよく居眠りをしては、端の方へすべり落ちさうになつて、あわてて居ずまゐをなほしたりします。それでも三毛は、その小さな三郎さんの膝の上が、一番気に入つてゐると見えました。お父さんお母さんの膝へも、自分の名まへを呼ばれる時には行つて坐りましたが、さうでない時は、きつと三郎さんの膝へ行きました。三郎さんは、三毛のやはらかいふつくらした毛なみをなでながら、雨の中にふるへてゐたあの小猫の姿を思ひうかべて、これが同じ猫だとはどうしても信じられませんでした。 子供のある家では、犬の子は肥るが猫の子は痩やせると云はれます。それは、犬の子は子供と一しよに外を駈けまはりますが、猫の子は子供のもてあそびになるからです。小さな子供は何も知りませんから、猫の胴を両手で握るやうにして高く持ちあげたり、横にふつたりしますが、あれは、猫の身になつたらお腹なかの臓ぞう腑ふがしめつけられてずいぶん苦しいことに違ひありません。 三郎さんの妹の松子さんは、はじめ三毛を飼ひはじめた頃は、三毛の姿を見るたびに、抱きあげたり、ふりまはしたりしました。けれど、それはすぐにお母さんにとめられました。 ﹁いけません〳〵。ねんねが泣きます。﹂とお母さんは、首をふりました。その代り松子さんは、お母さんから毛糸の玉をこしらへていたゞきました。その端に紐ひもをむすびつけて、お家の中をころがして歩くと、三毛はあとから追ひかけて、組みついたりほぐれたり、これは大へんよい遊びでした。毛糸の玉ができてから、松子さんと三毛は急に仲よしになつたやうに見えました。 三毛のからだは日にまし大きくなりましたが、心はいつまでも無邪気で、動くものと見ればすぐにじやれついて、ころ〳〵ころげて歩きました。庭さきに落葉が風に舞つてゐるのを見ると、三毛は縁からねらひを定めて、矢のやうにとびつきます。そして一寸にも足りない小さな木の葉を、四足で押へたり飛ばしたりして、狂ひまはつてゐるうちに、さつと強い風が吹いて来て、木の葉は空高く舞ひあがります。三毛はあわてゝ跳びついて見ますがどうしてもう手も足もとゞきません。すると三毛は、 ﹁風にはかなひませんね。﹂と云ふやうな顔つきをして、縁の方へひきかへして来ます。 三毛が三郎さんの家で飼はれるやうになつてから、丁度一年たちました。しよぼ〳〵と五月雨が降りつゞいて、庭のあぢさゐが咲き、みゝずの声がじい〳〵と聞える頃になりました。三毛は、もうすつかり一人前の大きな猫になつて、雨のふる日には、囲い炉ろ裡りばたへうづくまつて、しづかに眠つてゐます。松子さんも、この一年のうちにめつきり脊せた丈けが伸び、お昼寝して起きても、もう泣くやうなことはありませんでした。お母さんの乳も飲まなくなりました。三郎さんも大きくなりました。学校の体格検査によると脊せた丈けが一年のうちに二寸五分伸びたさうです。幼いものは皆育つて行きます。お父さんは、毎日々々お役所へ通つて居られますし、お母さんは、松子さんが乳ばなれしてから、朝夕縫物にいそしんで居られますし、家ぢう皆むつまじくたのしくありました。 ところが、この平和な家庭の上へ、ふいに黒雲がかゝつて来ました。それは、松子さんの病気です。松子さんは、ふだん丈夫で風邪をひいたこともありませんでしたが、梅雨あがりの暑い日のこと、夕方になつて、急にお腹なかがいたいと云ひ出しました。何か食物のさはりであらうと云つて、お母さんは家に買ひつけの薬を松子さんに飲ませました。けれど、少しもききめがなくて、その晩一晩ぢう、松子さんは床の中でひどく泣きつゞけました。つぎの朝になつて見ると、顔はすつかり青ざめ、息づかひは荒くなり、うん〳〵と苦しさうにうなつてゐます。 さつそく近所のお医者さんに来てもらひました。お医者さんは、松子さんの脈を見たり胸を見たりして、別にしんぱいのことはない、陽気あたりだらう、と云はれました。しかし、松子さんの容態は、だんだん悪くなりました。お医者さんからいたゞいた薬は皆吐いてしまひますし、食物は少しも喉へとほりません。時たま目をあいて、枕もとのお母さんの顔を見ては、いかにも切なさうな目つきをします。 ﹁何か欲しくないかえ。﹂と云ふと、首をふつて見せて、またうん〳〵とうなりつゞけてゐます。 次の日、お医者さんは来て見て、 ﹁今によくなるだらう。けれど子供のことだから気をつけなさい。﹂と云はれました。そして、氷で頭を冷すやうにと云はれました。その次の日に、お医者さんは来て見て、びつくりした様子でした。外よそ目めには、松子さんは、きのふもけふも同じやうに、うん〳〵とうなりつゞけてゐるので、別に変つたこともありませんでしたが、お医者さんの聴診器によると、松子さんの病気は、急に悪くなつたのださうです。 ﹁こゝ四五日が大事ですよ。﹂と云つてお医者さんは帰られました。 それから、お父さんは、毎日お役所を早仕舞してかへられ、三郎さんも学校を早くかへつて、家ぢうのものが心をあはせて、松子さんの看病をしました。松子さんの病気は、いゝとも悪いともいへませんでした。夜も昼も同じやうにうなりつゞけてゐます。うなり声の高いのはまだ身から体だに力のある証拠だ、とお医者さんは云はれますが、そばで見てゐるのはいかにも苦しくいた〳〵しいことでありました。 松子さんの病室の次の間は囲ゐ炉ろ裡りになつてゐて、このごろは、三郎さんがお母さんに代つて、そこで煮にた焚きをしました。三郎さんが一人ぽつゝりさびしさうにしてゐる膝の上には、いつも三毛のすがたが見えました。三毛は三郎さんの膝にうづくまつて、ぢつと静かにしてゐますが、次の間から松子さんのうなり声が聞えて来るたびに、耳をピク〳〵動かします。三毛も、松子さんの病気をしんぱいしてゐるやうに見えました。 松子さんが病み出してから丁度一週間目のことでした。お昼時分になりましたので、三郎さんは、いつものやうに三毛を抱いて囲炉裡で火を焚いてゐますと、次の間からお母さんが立つてきて三郎さんのわきへ坐りました。お母さんは、夜昼の看病にやつれて髪は乱れ顔は青ざめてゐました。三郎さんもお母さんも、黙つて炉の火を見つめてゐました。つぎの間からは松子さんのうなり声がたえず聞えて来ます。︵松子さんの枕もとにはお父さんがついて居られました。︶ と三毛は、何と思つたのか、三郎さんの膝をおりて、お母さんの膝もとへ行きました。お母さんは、三毛の脊中をなでて、ひとり言のやうに、 ﹁三毛や松子が可哀さうだよ。お前が身代りになつてくれたらね。﹂と云はれました。それはお母さんが何気なく云はれたことばでしたが、そばに聞いてゐた三郎さんは、何かシツクリと胸をさゝれるやうな気がして、三毛を見ますと、三毛はその時お母さんの膝へ乗らうとして片足を持ちあげてゐたのに、 ﹁ニヤオ〳〵。﹂と二声ばかり啼いて、そのまゝ、障子のすきから外へ出てしまひました。 お昼御飯ができましたので、お父さんがさきにいただき、その後で、お母さんと三郎さんがいたゞきました。︵松子さんが病気になつてから家ぢう一緒に食事することはありませんでした。︶家のものが御飯の時には、三毛も一しよに囲炉裡のすみの方へ来て坐るのでしたが、その日のお昼には、どうしたのか三毛の姿が見えませんでした。たゞ三毛のお椀の中に白い御飯が盛られたまゝになつてゐました。松子さんの看病に気をとられてゐますのでお父さんもお母さんも、三毛のゐないことには気付かれませんでしたが、三郎さんはさつきお母さんのことばを耳にしてから、何となく心が落ちつかなくて、食事中も、 ﹁三毛はどうしたらう。どうしたらう。﹂と考へつゞけてゐました。 御飯がすんでから、三郎さんは、そつと障子をあけて縁へ出ました。外は夏のお日さまがかん〳〵と照りつけて、眩まぶしいやうでした。その時、三郎さんは、庭ぢうを見まはして、向うの物置きの方へふと目をやりますと、その軒下に、何かピヨン〳〵とはね上り〳〵してゐるものがあります。三毛でした。 ﹁三毛や。﹂と三郎さんは呼んで見ました。一度呼べばすぐにとんで来るはづの三毛が、その時は、どうしたのか、二度よんでも三度よんでも、同じやうにピヨン〳〵はねつゞけてゐます。その跳ね方が、何となく只ならぬやうすです。 三郎さんは、下駄をはいて、物置きの下へ駈けて行きましたが、たちまち、 ﹁お母さん。﹂と呼びました。三郎さんの声があまり鋭かつたので、松子さんの枕もとにゐたお母さんは、お父さんと一寸目を見合せて、すぐにたつて来ました。 ﹁これ。﹂と三郎さんの指さすのを見て、お母さんはさつと顔色をかへました。三毛は大へん苦しみもがいて居るのです。目はつりあがり、胸ははげしく波うつてゐます。苦しまぎれにをり〳〵高くとびあがるのでした。 三郎さんは、われ知らず手をさしのべて、三毛のからだを抱かうとした時お母さんが後から強く肩をひきました。 ﹁あぶない、噛かみつかれるよ。﹂ お母さんは、しばらく三郎さんを抱きかゝへるやうにして立つて居られましたが、 ﹁手を出してはならないよ。﹂と云つて、一人駈けるやうにして家の方へ行きました。お母さんと入りかはりに、お父さんが出てきました。 ﹁お父さん、どうしようね。﹂と云つても、お父さんは何も云はずに、ぢつと三毛をながめてゐました。やがて、お父さんは家へ入つて、またお母さんが出て来ました。 三毛の苦しみは、いよ〳〵はげしくなるやうに見えました。胸の波立ちが一そう大きくなり、きり〳〵と身をもがいて跳ねあがるのです。三郎さんは、胸がわく〳〵として目がくらむやうな気がしました。 ﹁お母さん、どうかしてよ。﹂ と、お母さんは目に涙を一ぱいためて、 ﹁三毛や、おまへ、まあそんなに苦しむなら……いいよ。﹂とふりすてるやうに云つて、袖を顔にあてました。すると三毛は、もう一度高くピヨンと跳びあがつて、それきり動かなくなりました。 三毛は一年前、三郎さん親子のものに拾はれた物置小屋のかげで死にました。三毛が死んで一時間たたぬうちに、松子さんの苦しみは拭ぬぐつたやうになつて、すや〳〵眠りました。そして三日目ごろには、すつかり元気になつてしまひました。三毛はほんたうに﹁身代り﹂になつたのであります。