一月一日の時事新報に瘠やせ我がま慢んの説せつを公おおやけにするや、同十三日の国民新聞にこれに対する評ひょ論うろんを掲かかげたり。先生その大たい意いを人より聞き余よに謂いいて曰いわく、兼かねてより幕末外交の顛てん末まつを記きさ載いせんとして志を果はたさず、今評論の誤ごび謬ゅうを正す為ためその一端を語かたる可べしとて、当時の事情を説とくこと頗すこぶる詳つまびらかなり。余すなわちその事実に拠より一文を草し、碩せき果かせ生いの名を以てこれを同二十五日の時事新報に掲けい載さいせり。実に先生発はつ病びょうの当日なり。本文と関かん係けいあるを以て茲ここに附ふ記きす。
石河幹明
瘠我慢の説に対する評論について
去る十三日の国こく民みん新しん聞ぶんに﹁瘠我慢の説を読む﹂と題だいする一篇の評ひょ論うろんを掲かかげたり。これを一読するに惜おしむべし論者は幕ばく末まつ外交の真しん相そうを詳つまびらかにせざるがために、折せつ角かくの評論も全く事実に適てきせずして徒いたずらに一篇の空くう文もん字じを成なしたるに過ぎず。
﹁勝かつ伯はくが徳川方の大将となり官軍を迎むかえ戦いたりとせよ、その結けっ果かはいかなるべきぞ。人を殺ころし財ざいを散さんずるがごときは眼前の禍わざわいに過すぎず。もしそれ真しんの禍は外国の干かん渉しょうにあり。これ勝伯の当時においてもっとも憂ゆう慮りょしたる点にして、吾人はこれを当時の記きろ録くに徴ちょうして実じつにその憂慮の然しかるべき道どう理りを見るなり云うん々ぬん。当とう時じ幕府の進歩派小おぐ栗りこ上うず野けの介すけの輩はいのごときは仏フラ蘭ン西スに結びその力を仮かりて以て幕府統一の政まつりごとをなさんと欲ほっし、薩さっ長ちょうは英国に倚よりてこれに抗こうし互たがいに掎きか角くの勢いきおいをなせり。而しこうして露国またその虚きょに乗じょうぜんとす。その危き機き実に一いっ髪ぱつと謂いわざるべからず。若もし幕府にして戦せん端たんを開かば、その底てい止しするところ何いずれの辺へんに在るべき。これ勝伯が一身しんを以て万ばん死しの途に馳ち駆くし、その危きき局ょくを拾しゅ収うしゅうし、維新の大業を完かん成せいせしむるに余力を剰あまさざりし所ゆえ以んにあらずや云うん々ぬん﹂とは評論全篇の骨こっ子しにして、論者がかかる推すい定ていより当時もっとも恐るべきの禍わざわいは外国の干かん渉しょうに在りとなし、東西開かい戦せんせば日本国の存そん亡ぼうも図はかるべからざるごとくに認め、以て勝氏の行こう為いを弁べん護ごしたるは、畢ひっ竟きょうするに全く事実を知らざるに坐ざするものなり。
今当とう時じにおける外交の事じじ情ょうを述べんとするに当り、先まず小おぐ栗りこ上うず野けの介すけの人と為なりより説とかんに、小栗は家いえ康やす公こう以来有ゆう名めいなる家いえ柄がらに生れ旗き下か中の鏘そう々そうたる武士にして幕末の事、すでに為なすべからざるを知るといえども、我わが事つかうるところの存そんせん限かぎりは一日も政府の任を尽つくさざるべからずとて極きょ力くりょく計けい画かくしたるところ少なからず、そのもっとも力を致したるは勘かん定じょ奉うぶ行ぎょう在ざい職しょ中くちゅうにして一身を以て各方面に当あたり、彼かの横よこ須すか賀ぞう造せん船じ所ょの設せつ立りつのごとき、この人の発はつ意いに出いでたるものなり。
小栗はかくのごとく自みずから内外の局きょくに当あたりて時の幕ばく吏りち中ゅうにては割合に外国の事じじ情ょうにも通じたる人なれども、平へい生ぜいの言ことに西洋の技ぎじ術ゅつはすべて日本に優まさるといえども医いじ術ゅつだけは漢かん方ぽうに及ばず、ただ洋よう法ほうに取るべきものは熱ねつ病びょうの治ちり療ょう法ほうのみなりとて、彼かの浅あさ田だそ宗うは伯くを信ずること深ふかかりしという。すなわちその思しそ想うは純然たる古こり流ゅうにして、三みか河わ武ぶ士し一片の精せい神しん、ただ徳川累るい世せいの恩おん義ぎに報むくゆるの外他た志しあることなし。
小栗の人じん物ぶつは右のごとしとして、さて当時の外国人は日本国をいかに見たるやというに、そもそも彼かの米国の使しせ節つペルリが渡とら来いして開かい国こくを促うながしたる最さい初しょの目的は、単に薪しん水すい食しょ料くりょうを求むるの便べん宜ぎを得んとするに過ぎざりしは、その要よう求きゅうの個かじ条ょうを見るも明めい白はくにして、その後タオンセント・ハリスが全ぜん権けんを帯びて来るに及び、始めて通つう商しょ条うじ約ょうやくを結び、次ついで英露仏等の諸国も来りて新条約の仲なか間まい入りしたれども、その目的は他に非ず、日本との交こう際さいは恰あたかも当時の流りゅ行うこうにして、ただその流行に連つれて条約を結びたるのみ。
通つう商しょ貿うぼ易うえきの利りえ益きなど最初より期するところに非ざりしに、おいおい日本の様よう子すを見れば案あん外がい開ひらけたる国にして生きい糸とその他の物ぶっ産さんに乏とぼしからず、随したがって案外にも外国品を需じゅ用ようするの力あるにぞ、外国人も貿易の一点に注ちゅ意ういすることと為なりたれども、彼等の見みるところはただこれ一個の貿ぼう易えき国こくとして単にその利りえ益きを利せんとしたるに過すぎず。素もとより今日のごとき国こく交こう際さいの関かん係けいあるに非ざれば、大たい抵ていのことは出で先さきの公使に一任し、本国政府においてはただ報ほう告こくを聞くに止とどまりたるその趣おもむきは、彼かの国々が従来未みか開いこ国くに対するの筆ひっ法ぽうに徴ちょうして想そう像ぞうするに足たるべし。
されば各国公使等の挙きょ動どうを窺うかがえば、国際の礼れい儀ぎ法ほう式しきのごとき固もとより眼がん中ちゅうに置おかず、動ややもすれば脅きょ嚇うか手くし段ゅだんを用い些ささ細いのことにも声を大だいにして兵力を訴うったえて目もく的てきを達すべしと公言するなど、その乱らん暴ぼう狼ろう籍ぜき驚くべきものあり。外国の事じじ情ょうに通ぜざる日本人はこれを見て、本国政府の意いこ向うも云うん々ぬんならんと漫みだりに推すい測そくして恐きょ怖うふを懐いだきたるものありしかども、その挙きょ動どうは公使一個の考かんがえにして政府の意い志しを代だい表ひょうしたるものと見るべからず。すなわち彼等の目もく的てきは時じ機きに投じて恩おん威い並ならび施ほどこし、飽あくまでも自国の利りえ益きを張はらんとしたるその中には、公使始めこれに附ふず随いする一いち類るいの輩はいにも種々の人じん物ぶつありて、この機きか会いに乗じて自みずから利りし自じ家かの懐ふところを肥こやさんと謀はかりたるものも少なからず。
その事実を記しるさんに、外国公使中にて最さい初しょ日本人に親したしかりしは米公使タオンセント・ハリスにして、ハリスは真実好こう意いを以て我わが国くにに対したりしも、後こう任にんのブライン氏は前任者に引ひき換かえ甚はなはだ不ふし親んせ切つの人なりとて評ひょ判うばん宜よろしからず。小おぐ栗りこ上うず野けの介すけが全ぜん盛せいの当時、常に政府に近ちかづきたるは仏国公使レオン・ロセツにして、小栗及び栗くり本もと鋤じょ雲うん等とも親したしく交こう際さいし政府のために種々の策さくを建てたる中にも、ロセツが彼かの横よこ須すか賀ぞう造せん船じ所ょ設立の計けい画かくに関かん係けいしたるがごとき、その謀ぼう計けい頗すこぶる奇きなる者あり。
当時外国公使はいずれも横浜に駐ちゅ剳うさつせしに、ロセツは各国人環かん視しの中にては事を謀はかるに不ふべ便んなるを認めたることならん、病やまいと称し飄ひょ然うぜん熱あた海みに去りて容よう易いに帰らず、使を以て小栗に申出ずるよう江戸に浅あさ田だそ宗うは伯くという名めい医いありと聞く、ぜひその診察を乞こいたしとの請求に、此この方ほうにては仏公使が浅田の診しん察さつを乞こうは日本の名めい誉よなりとの考にて、早さっ速そくこれを許ゆるし宗伯を熱海に遣つかわすこととなり、爾じら来い浅田はしばしば熱海に往おう復ふくして公使を診しん察さつせり。浅田が大たい医いの名を博はくして大おおいに流行したるはこの評ひょ判うばん高かりしが為ためなりという。
さてロセツが何なに故ゆえに浅田を指名して診しん察さつを求もとめたるやというに、診察とは口こう実じつのみ、公使はかねて浅田が小栗に信用あるを探たん知ちし、治ちり療ょうに託してこれに親したしみ、浅田を介かいして小栗との間に、交こう通つうを開き事を謀はかりたる者にて、流さす石がは外交家の手しゅ腕わんを見るべし。かくて事の漸ようやく進むや外がい国こく奉ぶぎ行ょう等は近きん海かい巡じゅ視んしなど称し幕府の小軍艦に乗じょうじて頻ひん々ぴん公使の許もとに往おう復ふくし、他の外国人の知しらぬ間に約やく束そく成せい立りつして発はっ表ぴょうしたるは、すなわち横よこ須すか賀ぞう造せん船じ所ょの設立にして、日本政府は二百四十万弗ドルを支しし出ゅつし、四年間継けい続ぞくの工事としてこれを経けい営えいし、技師職工は仏人を雇やとい、随したがって器きか械い材ざい料りょうの買入までも仏人に任まかせたり。
小栗等の目もく的てきは一いち意い軍備の基もといを固かたうするがために幕末財ざい政せい窮きゅ迫うはくの最さい中ちゅうにもかかわらず奮ふるってこの計けい画かくを企くわだてたるに外ならずといえども、日本人がかかる事には全く不ふあ案んな内いなる時に際し、これを引ひき受うけたる仏人の利りえ益きは想おもい見るべし。ロセツはこれがために非ひじ常ょうに利したりという。
かくて一方には造船所の計けい画かく成なると同時に、一方において更さらにロセツより申もう出しいでたるその言に曰いわく、日本国中には将しょ軍うぐ殿んで下んかの御ごり領ょう地ちも少からざることならん、その土地の内に産さんする生きい糸とは一切他たに出いださずして政府の手より仏国人に売うり渡わたさるるよう致いたし度たし、御ごし承ょう知ちにてもあらんが仏国は世界第一の織おり物もの国こくにして生糸の需じゅ用よう甚はなはだ盛さかんなれば、他国の相そう場ばより幾割の高こう価かにて引受け申すべしとの事なり。一見他に意い味みなきがごとくなれども、ロセツの真しん意いは政府が造ぞう船せん所じょの経けい営えいを企くわだてしその費用の出しゅ処っしょに苦しみつつある内情を洞どう見けんし、かくして日本政府に一種の財ざい源げんを与あたうるときは、生きい糸とせ専んば売いの利益を占しむるの目もく的てきを達し得べしと考かんがえたることならん。
すなわち実際には造船所の計けい画かくと聯れん関かんしたるものなれども、これを別べつ問もん題だいとしてさり気げなく申もう出しいだしたるは、たといこの事が行われざるも造船所計けい画かくの進しん行こうに故こし障ょうを及ぼさしむべからずとの用よう意いに外ならず。掛かけ引ひきの妙みょうを得たるものなれども、政府にてはかかる企たくらみと知るや知らずや、財政窮きゅ迫うはくの折おり柄から、この申もう出しいでに逢うて恰あたかも渡わたりに舟ふねの思おもいをなし、直ただちにこれを承しょ諾うだくしたるに、かかる事こと柄がらは固もとより行わるべきに非ず。その事の知しれ渡わたるや各国公使は異いく口どう同お音んに異議を申込みたるその中にも、和オラ蘭ンダ公こう使しのごときもっとも強きょ硬うこうにして、現に瓜ジャ哇ワには蘭らん王おうの料りょ地うちありて物ぶっ産さんを出せども、これを政府の手にて売うり捌さばくことなし、外国と通つう商しょ条うじ約ょうやくを取結びながら、或ある産さん物ぶつを或る一国に専せん売ばいするがごとき万ばん国こく公こう法ほうに違いは反んしたる挙きょ動どうならずやとの口くち調ょうを以て厳きびしく談だんじ込こまれたるが故ゆえに、政府においては一いち言ごんもなく、ロセツの申出はついに行おこなわれざりしかども、彼が日本人に信ぜられたるその信しん用ようを利用して利を謀はかるに抜ぬけ目めなかりしは凡およそこの類たぐいなり。
単に公使のみならず仏国の訳やく官かんにメルメデ・カションという者あり。本来宣せん教きょ師うしにして久しく函はこ館だてに在あり、ほぼ日本語にも通つうじたるを以て仏公使館の訳官となりたるが、これまた政府に近ちかづきて利したること尠すくなからず。その一例を申せば、幕府にて下しもノ関せき償しょ金うきんの一部分を払うに際し、かねて貯たくわうるところの文ぶん銭せん︵一文銅銭︶二十何万円を売り金きんに換かえんとするに、文銭は銅どう質しつ善ぜん良りょうなるを以てその実じっ価かの高きにかかわらず、政府より売出すにはやはり法ほう定ていの価格に由よるの外なくしてみすみす大損を招かざるを得ざるより、その処しょ置ちにつき勘かん考こう中ちゅう、カションこれを聞き込み、その銭ぜにを一手に引ひき受うけ海外の市場に輸出し大おおいに儲もうけんとして香ホン港コンに送りしに、陸りく揚あげの際に銭ぜにを積つみたる端たん船せん覆ふく没ぼつしてかえって大に損そんしたることあり。その後カションはいかなる病びょ気うきに罹かかりけん、盲もう目もくとなりたりしを見てこれ等の内情を知れる人々は、因いん果が覿てき面めん、好よき気き味みなりと竊ひそかに語かたり合いしという。
またその反はん対たいの例を記しるせば、彼かの生なま麦むぎ事じけ件んにつき英人の挙きょ動どうは如いか何んというに、損そん害がい要よう求きゅうのためとて軍艦を品川に乗のり入いれ、時間を限かぎりて幕府に決けっ答とうを促うながしたるその時の意い気き込ごみは非ひじ常ょうのものにして、彼等の言を聞けば、政府にて決答を躊ちゅ躇うちょするときは軍艦より先まず高たか輪なわの薩さっ州しゅ邸うていを砲ほう撃げきし、更さらに浜はま御ごて殿んを占せん領りょうして此こ処こより大城に向て砲ほう火かを開き、江戸市街を焼やき打うちにすべし云うん々ぬんとて、その戦せん略りゃくさえ公こう言げんして憚はばからざるは、以て虚きょ喝かつに外ならざるを知るべし。
されば米国人などは、一個人の殺さつ害がいせられたるために三十五万弗ドルの金額を要求するごとき不ふほ法うの沙さ汰たは未いまだかつて聞かざるところなり、砲ほう撃げき云うん々ぬんは全く虚きょ喝かつに過すぎざれば断じてその要求を拒きょ絶ぜつすべし、たといこれを拒きょ絶ぜつするも真しん実じつ国と国との開かい戦せんに至いたらざるは請うけ合あいなりとて頻しきりに拒きょ絶ぜつ論ろんを唱となえたれども、幕府の当局者は彼の権けん幕まくに恐きょ怖うふして直ただちに償しょ金うきんを払はらい渡わたしたり。
この時、更さらに奇きか怪いなりしは仏国公使の挙きょ動どうにして本ほん来らいその事件には全く関かん係けいなきにかかわらず、公然書面を政府に差さし出いだし、政府もし英国の要求を聞きき入いれざるにおいては仏国は英と同盟して直ただちに開かい戦せんに及およぶべしと迫せまりたるがごとき、孰いずれも公使一個の考かんがえにして決して本国政府の命めい令れいに出でたるものと見るべからず。
彼かの下ノ関砲ほう撃げき事じけ件んのごときも、各公使が臨りん機きの計はからいにして、深き考ありしに非ず。現げんに後日、彼の砲撃に与あずかりたる或ある米国士官の実じつ話わに、彼の時は他国の軍艦が行ゆかんとするゆえ強しいて同行したるまでにて、恰あたかも銃じゅ猟うりょうにても誘さそわれたる積つもりなりしと語りたることあり。以てその事情を知るべし。
右のごとき始しま末つにして、外国政府が日本の内乱に乗じょうじ兵へい力りょくを用いて大おおいに干かん渉しょうを試みんとするの意い志しを懐いだきたるなど到とう底てい思おもいも寄らざるところなれども、当とう時じ外国人にも自おのずから種々の説を唱となえたるものなきにあらずというその次しだ第いは、たとえば幕府にて始めに使しせ節つを米国に遣つかわしたるとき、彼の軍艦咸かん臨りん丸まるに便ぴん乗じょうしたるが、米国のカピテン・ブルックは帰国の後、たまたま南北戦争の起るに遇あうて南軍に属し、一種の弾だん丸がんを発はつ明めいしこれを使用してしばしば戦功を現あらわせしが、戦後その身の閑かんなるがために所いわ謂ゆる脾ひに肉くの嘆たんに堪たえず、折おり柄から渡とら来いしたる日本人に対し、もしも日本政府にて余よを雇やと入いいれ彼かの若わか年どし寄よりの屋やし敷きのごとき邸てい宅たくに居るを得せしめなば別べつに金かねは望まず、日本に行ゆきて政府のために尽じん力りょくしたしと真ま面じ目めに語りたることあり。
また維新の際にも或ある米人のごとき、もしも政府において五十万弗ドルを支しし出ゅつせんには三隻せきの船を造つくりこれに水雷を装そう置ちして敵てきに当るべし、西国大名のごときこれを粉ふん韲さい﹇#ルビの﹁ふんさい﹂は底本では﹁ふんせい﹂﹈する容よう易いのみとて頻しきりに勧かん説せつしたるものあり。蓋けだし当時南北戦争漸ようやく止やみ、その戦せん争そうに従事したる壮そう年ねん血けっ気きの輩はいは無ぶり聊ょうに苦しみたる折おり柄からなれば、米人には自おのずからこの種しゅの輩はい多おおかりしといえども、或あるいはその他の外国人にも同どう様ようの者ありしならん。この輩のごときは、かかる多たじ事ふん紛ざ雑つの際に何か一ひと仕しご事として恰あたかも一杯の酒を贏かち得うれば自みずからこれを愉ゆか快いとするものにして、ただ当人銘めい々めいの好こう事ずし心んより出でたるに過ぎず。五十万円ママを以て三隻の水すい雷らい船せんを造り、以て敵を鏖みなごろしにすべしなど真に一場じょうの戯ぎげ言んに似にたれども、何いずれの時代にもかくのごとき奇きだ談んは珍らしからず。
現に日にっ清しん戦せん争そうの時にも、種々の計はかりごとを献けんじて支那政府の採さい用ようを求めたる外国人ありしは、その頃の新しん聞ぶん紙しに見えて世人の記きお憶くするところならん。当時或る洋学者の家などにはこの種の外国人が頻しきりに来らい訪ほうして、前記のごとき計けい画かくを説き政府に取とり次つぎを求めたるもの一にして足たらざりしかども、ただこれを聞きき流ながして取とり合あわざりしという。もしもかかる事じじ実つを以て外国人に云しか々じかの企くわだてありなど認むるものもあらんには大なる間まち違がいにして、干かん渉しょうの危険のごとき、いやしくも時の事情を知しるものの何なん人ぴとも認めざりしところなり。
されば王おう政せい維いし新んの後、新政府にては各国公使を大阪に召しょ集うしゅうし政府革かく命めいの事を告げて各国の承しょ認うにんを求めたるに、素もとより異い議ぎあるべきにあらず、いずれも同意を表ひょうしたる中に、仏国公使の答は徳川政府に対しては陸軍の編へん制せいその他の事に関し少なからざる債さい権けんあり、新政府にてこれを引受けらるることなれば、毛もう頭とう差さし支つかえなしとてその挨あい拶さつ甚はなはだ淡たん泊ぱくなりしという。仏国が殊ことに幕府を庇ひ護ごするの意なかりし一証しょうとして見るべし。
ついでながら仏公使の云うん々ぬんしたる陸軍の事を記しるさんに、徳川の海軍は蘭らん人じんより伝でん習しゅうしたれども、陸軍は仏人に依いら頼いし一切仏ふっ式しきを用いていわゆる三さん兵ぺいなるものを組そし織きしたり。これも小おぐ栗りこ上うず野けの介すけ等の尽じん力りょくに出でたるものにて、例の財ざい政せい困こん難なんの場合とて費用の支しし出ゅつについては当局者の苦くし心ん尋じん常じょうならざりしにもかかわらず、陸軍の隊たい長ちょう等は仏国教師の言を聞きき、これも必要なり彼かれも入用なりとて兵器は勿もち論ろん、被ひふ服く帽ぼう子しの類に至るまで仏国品を取とり寄よするの約やく束そくを結びながら、その都つ度ど小栗には謀はからずして直ただちに老ろう中じゅうの調ちょ印ういんを求めたるに、老中等は事の要よう不ふよ要うを問わず、乞こわるるまま一々調ちょ印ういんしたるにぞ、小栗もほとんど当とう惑わくせりという。仏公使が幕府に対するの債さい権けんとはこれ等の代だい価かを指さしたる者なり。
かかる次しだ第いにして小栗等が仏人を延ひいて種々計けい画かくしたるは事じじ実つなれども、その計画は造船所の設立、陸軍編制等の事にして、専もっぱら軍ぐん備びを整うるの目もく的てきに外ならず。すなわち明治政府において外国の金かねを借り、またその人を雇やとうて鉄道海軍の事を計けい画かくしたると毫ごうも異ことなるところなし。小栗は幕末に生れたりといえども、その精せい神しん気きは魄く純然たる当年の三みか河わ武ぶ士しなり。徳川の存そんする限りは一日にてもその事つかうるところに忠ならんことを勉つとめ、鞠きっ躬きゅう尽じん瘁すい、終ついに身を以てこれに殉じゅんじたるものなり。外国の力を仮かりて政府を保ほぞ存んせんと謀はかりたりとの評ひょうの如ごときは、決けっして甘かん受じゅせざるところならん。
今仮かりに一歩を譲ゆずり、幕末に際さいして外がい国こく干かん渉しょうの憂うれいありしとせんか、その機きか会いは官かん軍ぐん東とう下か、徳川顛てん覆ぷくの場合にあらずして、むしろ長ちょ州うし征ゅう伐せいばつの時にありしならん。長州征伐は幕府創そう立りつ以来の大だい騒そう動どうにして、前後数年の久ひさしきにわたり目もく的てきを達するを得ず、徳川三百年の積せき威いはこれがために失しっ墜ついし、大名中にもこれより幕ばく命めいを聞かざるものあるに至りし始しま末つなれば、果はたして外国人に干かん渉しょうの意あらんにはこの機きか会いこそ逸いっすべからざるはずなるに、然しかるに当時外人の挙きょ動どうを見れば、別に異ことなりたる様よう子すもなく、長州騒そう動どうの沙さ汰たのごとき、一般にこれを馬ばじ耳とう東ふ風うに付し去るの有あり様さまなりき。
すなわち彼等は長州が勝かつも徳川が負まくるも毫ごうも心に関かんせず、心に関するところはただ利りえ益きの一点にして、或あるいは商人のごときは兵へい乱らんのために兵へい器きを売うり付つくるの道を得てひそかに喜よろこびたるものありしならんといえども、その隙すきに乗じょうじて政治的干かん渉しょうを試こころみるなど企くわだてたるものはあるべからず。右のごとく長州の騒そう動どうに対して痛つう痒よう相あい関かんせざりしに反し、官軍の東下に引ひき続つづき奥羽の戦せん争そうに付き横浜外人中に一方ならぬ恐きょ惶うこうを起したるその次しだ第いは、中国辺にいかなる騒そう乱らんあるも、ただ農のう作さくを妨さまたぐるのみにして、米の収しゅ穫うかく如いか何んは貿易上に関係なしといえども、東北地方は我国の養よう蚕さん地ちにして、もしもその地方が戦争のために荒あらされて生糸の輸ゆし出ゅつ断だん絶ぜつする時は、横浜の貿易に非常の影えい響きょうを蒙こうむらざるを得ず、すなわち外人の恐きょ惶うこうを催もよおしたる所ゆえ以んにして、彼等の利害上、内ない乱らんに干かん渉しょうしてますますその騒動を大ならしむるがごとき思おもいも寄よらず、ただ一日も平へい和わか回いふ復くの早はやからんことを望みたるならんのみ。
また更さらに一歩を進すすめて考かんがうれば、日本の内乱に際し外国干かん渉しょうの憂うれいありとせんには、王おう政せい維いし新んの後に至りてもまた機きか会いなきにあらず。その機会はすなわち明治十年の西せい南なん戦せん争そうなり。当時薩さっ兵ぺいの勢いきおい、猛もう烈れつなりしは幕ばく末まつにおける長州の比ひにあらず。政府はほとんど全国の兵を挙あげ、加くわうるに文明精せい巧こうの兵へい器きを以てして尚なお容よう易いにこれを鎮ちん圧あつするを得ず、攻こう城じょう野やせ戦ん凡およそ八箇月、わずかに平へい定ていの功こうを奏そうしたれども、戦争中国内の有あり様さまを察さっすれば所しょ在ざいの不ふへ平いし士ぞ族くは日夜、剣けんを撫ぶして官軍の勢いきおい、利ならずと見るときは蹶けっ起き直ただちに政府に抗こうせんとし、すでにその用よう意いに着ちゃ手くしゅしたるものもあり。
また百ひゃ姓くしょうの輩はいは地ちそ租かい改せ正いのために竹ちく槍そう席せき旗きの暴ぼう動どうを醸かもしたるその余よえ炎ん未いまだ収おさまらず、況いわんや現に政府の顕けん官かん中にも竊ひそかに不平士族と気きみ脈ゃくを通じて、蕭しょ牆うしょうの辺へんに乱らんを企くわだてたる者さえなきに非ず。形けい勢せいの急きゅうなるは、幕末の時に比ひして更さらに急なるその内ない乱らん危きき急ゅうの場合に際し、外国人の挙きょ動どうは如何というに、甚はなはだ平へい気きにして干かん渉しょうなどの様よう子すなきのみならず、日本人においても敵てき味みか方た共ともに実際干かん渉しょうを掛けね念んしたるものはあるべからず。
或は西南の騒そう動どうは、一個の臣しん民みんたる西郷が正せい統とうの政府に対して叛はん乱らんを企くわだてたるものに過ぎざれども、戊ぼし辰んの変へんは京都の政府と江戸の政府と対たい立りつして恰あたかも両政府の争あらそいなれば、外国人はおのおのその認みとむるところの政府に左さた袒んして干かん渉しょうの端たんを開くの恐おそれありしといわんか。外人の眼を以て見みるときは、戊ぼし辰んにおける薩さっ長ちょ人うじんの挙きょ動どうと十年における西郷の挙動と何の選えらむところあらんや。等ひとしく時の政府に反はん抗こうしたるものにして、若もしも西郷が志こころざしを得て実じっ際さいに新政府を組そし織きしたらんには、これを認むることなお維いし新んせ政い府ふを認めたると同様なりしならんのみ。内乱の性せい質しつ如いか何んは以て干渉の有う無むを判はん断だんするの標ひょ準うじゅんとするに足たらざるなり。
そもそも幕末の時に当りて上かみ方がたの辺に出しゅ没つぼつしたるいわゆる勤きん王のう有ゆう志し家かの挙動を見れば、家を焼やくものあり人を殺ころすものあり、或は足あし利かが三代の木もく像ぞうの首を斬きりこれを梟きょうするなど、乱らん暴ぼう狼ろう籍ぜき名めい状じょうすべからず。その中には多少時じせ勢いに通じたるものもあらんなれども、多数に無ぶぜ勢い、一般の挙動はかくのごとくにして、局外より眺ながむるときは、ただこれ攘じょ夷うい一偏の壮そう士しは輩いと認めざるを得ず。然しからば幕府の内情は如いか何んというに攘じょ夷うい論ろんの盛さかんなるは当時の諸しょ藩はんに譲ゆずらず、否いな徳川を一藩として見れば諸藩中のもっとも強きょ硬うこうなる攘じょ夷うい藩というも可なる程ほどなれども、ただ責せき任にんの局に在あるが故ゆえに、止やむを得ず外国人に接して表ひょ面うめんに和わし親んを表したるのみ。内実は飽あくまでも鎖さじ攘ょう主しゅ義ぎにして、ひたすら外人を遠とおざけんとしたるその一例をいえば、品しな川がわに無むえ益きの砲ほう台だいなど築きずきたるその上に、更さらに兵ひょ庫うごの和わだ田みさ岬きに新砲台の建けん築ちくを命じたるその命を受けて築ちく造ぞうに従事せしはすなわち勝かつ氏しにして、その目もく的てきは固もとより攘じょ夷ういに外ならず。勝氏は真しん実じつの攘夷論者に非ざるべしといえども、当とう時じの勢いきおい、止やむを得ずして攘夷論を装よそおいたるものならん。その事じじ情ょう以もって知るべし。
されば鳥と羽ば伏ふし見みの戦争、次ついで官軍の東下のごとき、あたかも攘じょ夷うい藩はんと攘夷藩との衝しょ突うとつにして、たとい徳川が倒たおれて薩長がこれに代わるも、更さらに第二の徳川政府を見るに過すぎざるべしと一般に予よそ想うしたるも無む理りなき次しだ第いにして、維いし新ん後ごの変へん化かは或あるいは当局者においては自みずから意いが外いに思うところならんに、然しかるに勝氏は一身の働はたらきを以て強しいて幕府を解かい散さんし、薩長の徒とに天下を引ひき渡わたしたるはいかなる考かんがえより出でたるか、今日に至りこれを弁べん護ごするものは、勝氏は当時外がい国こく干かん渉しょうすなわち国家の危き機きに際して、対世界の見けん地ちより経けい綸りんを定めたりなど云うん々ぬんするも、果はたして当とう人にんの心しん事じを穿うがち得たるや否いなや。
もしも勝氏が当時において、真しん実じつ外国干渉の患うれいあるを恐れてかかる処しょ置ちに及びたりとすれば、独ひとり自みずから架かく空うの想そう像ぞうを逞たくましうしてこれがために無むえ益きの挙きょ動どうを演じたるものというの外なけれども、勝氏は決してかかる迂うか濶つの人物にあらず。思うに当時人じん心しん激げき昂こうの際、敵軍を城下に引ひき受うけながら一戦にも及ばず、徳川三百年の政府を穏おだやかに解かい散さんせんとするは武士道の変へん則そく古今の珍ちん事じにして、これを断だん行こうするには非常の勇ゆう気きを要すると共に、人じん心しんを籠ろう絡らくしてその激げき昂こうを鎮ちん撫ぶするに足たるの口こう実じつなかるべからず。これすなわち勝氏が特に外交の危き機き云うん々ぬんを絶ぜっ叫きょうして、その声を大にし以て人の視しち聴ょうを聳しょ動うどうせんと勉つとめたる所ゆえ以んに非ざるか、竊ひそかに測そく量りょうするところなれども、人々の所しょ見けんは自おのずから異ことにして漫みだりに他より断だん定ていするを得ず。
当人の心しん事じ如いか何んは知るに由よしなしとするも、左さるにても惜おしむべきは勝氏の晩ばん節せつなり。江戸の開かい城じょうその事甚はなはだ奇きにして当局者の心しん事じは解かいすべからずといえども、兎とに角かくその出でき来あ上がりたる結けっ果かを見れば大だい成せい功こうと認めざるを得ず。およそ古今の革かく命めいには必ず非常の惨さん毒どくを流すの常にして、豊とよ臣とみ氏の末まつ路ろのごとき人をして酸さん鼻びに堪たえざらしむるものあり。然しかるに幕府の始しま末つはこれに反し、穏おだやかに政府を解かい散さんして流りゅ血うけつの禍わざわいを避さけ、無む辜この人を殺さず、無むよ用うの財ざいを散ぜず、一方には徳川家の祀まつりを存し、一方には維新政府の成せい立りつを容よう易いならしめたるは、時じせ勢いの然しからしむるところとは申しながら、そもそも勝氏が一身を以て東西の間に奔ほん走そう周しゅ旋うせんし、内外の困こん難なんに当あたり円えん滑かつに事を纒まとめたるがためにして、その苦くし心んの尋じん常じょうならざると、その功こう徳とくの大だいなるとは、これを争あらそう者あるべからず、明あきらかに認みとむるところなれども、日本の武ぶし士ど道うを以てすれば如い何かにしても忍しのぶべからざるの場合を忍んで、あえてその奇きこ功うを収おさめたる以上は、我わが事ことすでに了おわれりとし主家の結末と共に進しん退たいを決し、たとい身に墨すみ染ぞめの衣ころもを纒まとわざるも心は全く浮うき世よの栄えい辱じょくを外ほかにして片かた山やま里ざとに引ひき籠こもり静に余よせ生いを送るの決けつ断だんに出でたらば、世間においても真実、天下の為ために一身を犠ぎせ牲いにしたるその苦くち衷ゅう苦くせ節つを諒りょうして、一点の非ひな難んを挟さしはさむものなかるべし。
すなわち徳川家が七十万石の新しん封ぽうを得て纔わずかにその祀まつりを存したるの日は勝氏が断だん然ぜん処しょ決けつすべきの時じ機きなりしに、然しかるにその決断ここに出でず、あたかも主家を解かい散さんしたるその功を持じさ参んき金んにして、新政府に嫁かし、維新功臣の末まっ班ぱんに列して爵しゃ位くいの高きに居おり、俸ほう禄ろくの豊ゆたかなるに安やすんじ、得とく々とくとして貴きけ顕ん栄えい華がの新しん地ち位いを占めたるは、独ひとり三みか河わ武ぶ士しの末流として徳川累るい世せいの恩おん義ぎに対し相あい済すまざるのみならず、苟いやしくも一個の士人たる徳とく義ぎ操そう行こうにおいて天下後世に申もう訳しわけあるべからず。瘠やせ我がま慢ん一篇の精せい神しんも専もっぱらここに疑うたがいを存しあえてこれを後世の輿よろ論んに質たださんとしたるものにして、この一点については論ろん者しゃ輩はいがいかに千せん言げん万ばん語ごを重かさぬるも到とう底てい弁べん護ごの効こうはなかるべし。返かえす返がえすも勝氏のために惜おしまざるを得ざるなり。
蓋けだし論者のごとき当時の事じじ情ょうを詳つまびらかにせず、軽けい々けい他人の言に依よって事を論ろん断だんしたるが故ゆえにその論の全く事実に反はんするも無む理りならず。あえて咎とがむるに足たらずといえども、これを文字に記しるして新聞紙上に公おおやけにするに至りては、伝つたえまた伝えて或は世人を誤あやまるの掛けね念んなきにあらず。いささか筆を労ろうして当時の事実を明あきらかにするの止やむべからざる所ゆえ以んなり。