木村芥舟瘠我慢の説福沢先生を憶う

　左の一篇は木きむ村らか芥いし舟ゅう翁おうの稿こうに係かかり、時じじ事しん新ぽ報うに掲けい載さいしたるものなり。その文中、瘠やせ我がま慢んの説せつに関かん係けいするものあるを以て、ここに附ふ記きす。

　明治三十四年一月廿五日、予よ、先生を三み田たの邸やしきに訪といしは、午後一時頃なり。例れいの通り奥おくの一ひと間まにて先生及び夫人と鼎てい坐ざし、寒かん暄けんの挨あい拶さつ了おわりて先生先ず口を開き、この間あいだ、十六歳の時咸かん臨りん丸まるにて御おと供もしたる人来きたりて夕方まで咄はなしましたと、夫人に向むかわれ、その名は何なんとか言いしと。予、夫それは留とめ蔵ぞうならんといえば、先生、それそれその森もり田た留蔵……それより談だん、新旧の事に及ぶうち、予今こん朝ちょうの時事新報に出いでたる瘠やせ我がま慢んの説せつに対する評ひょ論うろんについてと題する一篇に、旧きゅ幕うば政くせ府いふの内情を詳しょ記うきしたるは、いずれ先生の御おは話なしに拠よりたるものなるべし、先生には能よくもかかる機きみ密つを御ごし承ょう知ちにて今日までも記きお憶くせられたりといえば、先生、いや私が書しょ生せい仲なか間まには随ずい分ぶんかようなる事に常つね々づね注ちゅ意ういし、当時の秘ひみ密つを探さぐり出し、互に語かたり合いたることあり、なお洩もれたる事こと柄がらも多かるべし、ただ遺いか憾んなるは彼かの脇わき屋や某が屠とふ腹くを命ぜられたる事を聞き、かかる暴ぼう政せいの下に在ありては何い時ついかなる嫌けん疑ぎをうけて首を斬きられんも知れずと思い、その時筐きょ中うちゅうに秘ひし置おきたる書しょ類るいは大たい抵てい焼やき捨すてました、今日と成なりては惜おしき事をしましたと談だん次じ、先生遽にわかに坐ざを起たちて椽えんの方に出いでらる。その挙きょ止し活かっ溌ぱつにして少しも病びょ後うご疲ひろ労うの体てい見えざれば、予よ、心の内に先生の健けん康こう全く旧きゅうに復ふくしたりと竊ひそかに喜びたり。　夫人云いわるるよう、この頃用よう便べんが至いたって近くなりまして、いつもあの通りで困こまりますと。やがて先生座ざに復ふくされ、予、近日の飲いん食しょく御ごき起き居ょ如いか何んと問えば、先生、左さゆ右うの手を両りょうの袖そでのうちに入れ、御ごら覧んの通り衣きものはこの通り何んでも構かまいませぬ、食物は魚さかな并ならびに肉にく類るいは一切用いず、蕎そ麦ばもこの頃は止やめました、粥かゆと野やさ菜い少し許ばかり、牛ぎゅ乳うにゅう二合ほどつとめて呑のみます、すべて営えい養よう上じょうの嗜しこ好うはありませんと。この日、先生頗すこぶる心こころ能よげに喜きし色ょく眉び宇うに溢あふれ、言語も至いたって明めい晰せきにして爽そう快かいなりき。　談だん、刻こくを移して、予よ、暇いとまを告げて去らんとすれば、先生猶なおしばしと引ひき留とめられしが、やがて玄げん関かんまで送り出られたるぞ、豈あに知しらんや、これ一いっ生しょうの永えい訣けつならんとは。予が辞じき去ょの後、先生例の散さん歩ぽを試こころみられ、黄こう昏こん帰きて邸い、初しょ夜や寝しんに就つかれんとする際発はつ病びょう、終ついに起たたれず。哀かな哉しいかな。　嗚あ呼あ、先生は我国の聖せい人じんなり。その碩せき徳とく偉いぎ業ょう、宇宙に炳へい琅ろうとして内外幾多の新聞皆みな口を極きわめて讃さん称しょうし、天下の人の熟じゅ知くちするところ、予が喋ちょ々うちょうを要せず。予は唯ただ一いっ箇こじ人んとして四十余年、先生との交こう際さい及び先生より受けたる親しん愛あい恩おん情じょうの一いっ斑ぱんを記しるし、いささか老ろう後ごの思おもいを慰なぐさめ、またこれを子孫に示しめさんとするのみ。　予の初めて先生を知しりしは安あん政せい六年、月日は忘わすれたり。先生が大阪より江戸に出で、鉄てっ炮ぽう洲ずの中なか津つは藩んて邸いに住すまわれし始めの事にして、先生は廿五歳、予は廿九歳の時なり。先生咸かん臨りん丸まる米べい行こうの挙きょありと聞て、予が親しん戚せき医いか官ん桂かつ川らが氏わしを介かいしてその随ずい行こうたらんことを求められしに、予はこれ幸さいわいの事なりと思い、直ただちにこれを肯がえんじ、一見けん旧きゅうのごとし。　翌年正月十九日の夕、共ともに咸かん臨りん丸まるに乗のり組くみて浦うら賀がわ湾んを出しゅ帆っぱんしたり。先生は予がこの行こうに伴ともないしを深ふかく感かん謝しゃせらるるといえども、予の先生に負おうところ、かえって大だいにして大おおいに謝しゃせざるべからざるものあり。それを如いか何んというに、この時洋よう中ちゅう風ふう浪ろう暴あらくして、予が外ほかに伴いたる従じゅ者うしゃは皆昏こん暈うん疲ひは憊いして、一人も起たつこと能あたわず。先生は毫ごうも平日と異ことなることなく、予が飲いん食しょく起き臥がの末に至るまで、力を尽つくしこれを扶たすけ、また彼かの地ちに上じょ陸うりくしたる後も、通つう弁べんその他、先生に依いら頼いして便べん宜ぎを得たること頗すこぶる多ければなり。　その年閏うるう五月五日、咸かん臨りん丸まるは無ぶ事じに帰きち朝ょうし、艦かんの浦うら賀がに達たっするや、予が家の老ろう僕ぼく迎むかいに来きたりし時、先生老ろう僕ぼくに向い、吾わが輩はい留るす守ちゅ中う江戸において何か珍ちん事じはなきやと。老ろう僕ぼく額ひたいを蹙しかめ、有あり有り、大たい変へんが有りたりという。先生手を挙あげて、そは姑しばらく説とくを休やめよ、我まずこれを言わん、浮ふろ浪うの壮そう士しが御ごろ老うじ中ゅうにても暗あん殺さつせしにはあらざる歟かと。老僕聞て大に驚おどろき、過すぐる三月三日、桜さく田らだの一いち条じょうを語かたりければ、一船ここに至りて皆はじめて愕がく然ぜんたり。　予が新しん銭せん座ざの宅たくと先生の塾じゅくとは咫しせ尺きにして、先生毎日のごとく出しゅ入つにゅうせられ何事も打うち明あけ談ずるうち、毎つねに幕ばく政せいの敗はい頽たいを嘆たんじける。間まもなく先生は幕府外がい国こく方かた翻ほん訳やく御ごよ用う出しゅ役つやくを命ぜらる。或日、先生、役所よりの帰き途と、予が家に立たち寄より、今日俸ほう給きゅうを受取りたりとて、一いち歩ぶぎ銀ん廿五両包づつみ二個こを手てぬ拭ぐいにくるみて提さげ来られ、予が妻さいに示しめし、今きょ日う貰もらって来ました、勇ゆう気きはこれに在りとて大たい笑しょうせられたり。　また或ある時とき、市中より何か買かい物ものをなして帰かえり掛がけ、鉛えん筆ぴつを借り少しば時らく計けい算さんせらるると思ううち、アヽ面めん倒どうだ面倒だとて鉛筆を抛なげうち去らる。　或日、老ろう僕ぼく、先生の家に至りしに、二三の来らい客かくありて、座ざし敷きの真中に摺すり鉢ばちに鰯いわしのぬたを盛もり、側かたわらに貧びん乏ぼう徳とく利り二ツ三ツありたりとて、大おおいにその真しん率そつに驚き、帰りて家かじ人んに告つげたることあり。　先生は白はく皙せき長ちょ身うしん、一見して皆その偉いじ人んたるを知る。されば先生は常に袴はかまをも着せず、一いち書しょ生せいの風ふう体たいなるにかかわらず、予が家の婢ひぼ僕く等ら皆尊そん敬けいして、呼ぶに先生を以てし、門もん番ばん、先生を見れば俄にわかに衣を纒まといてその裸らた体いを蔽おおいて礼れいを為なせり。　先生の親しん友ゆうに高たか橋はし順じゅ益んえきという医い師しあり。至いたって莫ばく逆げきにして管かん鮑ぽう啻ただならず。いつも二人相あい伴ともないて予が家に来り、互たがいに相あい調ちょ謔うぎゃくして旁ぼう人じんを笑わしめたり。一日、予が妻、ワーフルという菓か子しを焼やき居たりしを先生見て、これは至しご極く面おも白しろし、予もこの器きか械いを借しゃ用くようして一ツやって見みたしとのことにつき、翌日これを老ろう僕ぼくに持もたせ遣つかわしければ、先生大おおいに喜び、やがて自みずから麺めん粉ふん﹇＃﹁麺粉﹂は底本では﹁麺紛﹂﹈に鶏けい卵らんを合せ焼やき居られしが、高橋も来りてこれを見て居けるうち、鶏卵の加かげ減ん少し度どに過すぎたる故ゆえ、ぱちぱちと刎はね出だし、先生の衣いふ服くは勿もち論ろん、余よて滴き、高橋にも及びしかば、高橋例れいの悪わる口くちを言出せば、先生、黙だまって見て居おれ、その代かわりに我れ鰻うな飯ぎめしを汝なんじに奢おごらんと。高橋その馳ちそ走うをうけ、これにて少し腹はらが癒いえたとて去りたりと。この高橋は洋よう学がくにも精せい通つうし、後こう来らい有ゆう望ぼうの人なりけるに、不ふこ幸うにして世を早はやうせり。先生深く

惜えんせきし、厚く後こう事じを恤めぐまれたりという。　慶けい応おう義ぎじ塾ゅくはこの頃ころ、弟子いよいよ進すすみ、その数すでに数百に達し、また旧日の比ひにあらず。或ある夜よ、神しん明めい社しゃの辺ほとりより失火し、予が門もん前ぜんまで延えん焼しょうせり。先生の居きょ、同じく戒かい心しんあるにもかかわらず、数十の生せい徒とを伴ともない跣せん足そく率そっ先せんして池いけ水みずを汲くみては門前に運び出し、泥でい塗とま満んし身ん消しょ防うぼうに尽じん力りょくせらるること一いっ霎しょう時じか間ん、依よって辛かろうじてその災さいを免まぬかれたり。その後暴ぼう人じん江戸市しが街いに横おう行こうし、良りょ家うかに闖ちん入にゅうして金銭を掠かすむるの噂うわさありし時も、先生頗すこぶる予が家を憂ゆう慮りょせられ、特に塾じゅ員くいんに命めいじ、来きたって予が家に宿しゅ泊くはくせしめ、昼ちゅ夜うや警けい護ごせられたることあり。その厚こう意い今なお寸すん時じも忘わするること能あたわず。　江戸開かい城じょうの後、予は骸がい骨こつを乞こい、しばらく先生と袂たもとを分わかち、跡あとを武ぶし州ゅう府ふち中ゅうの辺に屏さけ居るに、先生は間かん断だんなく慰いも問んせられたり。　明治四年八月、予再ふたたび家を東京に移うつすに及び、先生直ただちに駕がを抂まげられ、いわるるよう、鄙ひ意い、君が何事か不ふり慮ょの災さいあらん時には、一いっ臂ぴの力を出し扶ふじ助ょせんと思い居おりしが、かくてはその災さい害がいを待つに同おなじくして本ほん意いに非ざれば、今より毎年寸すん志しまでの菲ひひ品んを呈ていすべしとて、その後は盆ぼんと暮くれに衣いぶ物つ金きん幣へい、或は予が特に嗜しこ好うするところの数種を添そえて※おく﹇＃﹁貝＋兄﹂、97-15﹈られたり。またその時予が妻さいに向むかって、今日福沢諭吉は大だい丸まるほどの身しん代だいに成りたれば、いつにても予が宅に来て数日逗とう留りゅうし、意を慰なぐさめ給うべしとなり。　明治十四年九月、予は従来筆ひっ記きし置おきたる小冊を刊かん行こうし、これを菊きく窓そう偶ぐう筆ひつと名づけ世に公おおやけにせんと欲し先生に示したれば、先生これを社しゃ員いんそれ等の事に通つう暁ぎょうせる者に命じ、印いん刷さつ出しゅ板っぱんの手続きより一いっ切さい費ひよ用うの事まで引ひき受うけられ、日ならずして予が望のぞみのごとく美びなる冊さっ子し数百部を調ちょ製うせいせしめて予に贈おくられたり。　同二十四年十月、予また幕ばく末まつの編へん年ねん史しを作り、これを三十年史と名なづけ刊かん行こうして世に問とわんとせし時、誰たれ人びとかに序じょ文ぶんを乞こわんと思いしが、児じ駿しゅん、側かたわらに在ありて福沢先生の高こう文ぶんを得ばもっとも光こう栄えいなるべしという。然しかれども先生は従じゅ来うらい他人の書に序じょを賜たまいたること更になし、今強しいてこれを先生に煩わずらわさんこと然しかるべからずと拒こばんで許さざりしに、児じ竊ひそかにこれを携たずさえ先生の許もとに至り懇こん願がんせしかば、先生速すみやかに肯こう諾だくせられ、纔わずか一日にして左のごとくの高こう序じょを賜たまわりたるは、実に予の望ぼう外がいなり。

　木村芥舟先生は旧きゅ幕うば府くふ旗き下かの士にして摂せっ津つの守かみと称し時の軍ぐん艦かん奉ぶぎ行ょうたり。すなわち我開かい国こくの後、徳川政府にて新あらたに編へん製せいしたる海軍の長ちょ官うかんなり。　日本海軍の起きげ源んは、安政初年の頃ころより長崎にて阿オラ蘭ンダ人じんの伝つたうるところにして、伝でん習しゅうおよそ六七年、学生の伎ぎり倆ょうも略ほぼ熟じゅくしたるに付つき、幕ばく議ぎ、遠えん洋ようの渡航を試こころみんとて軍ぐん艦かん咸かん臨りん丸まるを艤ぎそ装うし、摂津守を総そう督とくに任じて随ずい行こうには勝かつ麟りん太たろ郎う︵今の勝安やす芳よし︶以下長崎伝でん習しゅ生うせいを以てし、太平洋を絶わたりて北ほく米べい桑サン港フランシスコに徃ゆくことを命じ、江戸湾を解かい纜らんしたるは、実に安あん政せい六年十二月なり。首しゅ尾び能よく彼ひが岸んに達して滞たい在ざい数月、帰航の途とに就つき、翌年閏うるう五月を以て日本に安あん着ちゃくしたり。　これぞ我大日本国の開かい闢びゃく以いら来い、自国人の手を以て自国の軍ぐん艦かんを運うん転てんし遠く外国に渡わたりたる濫らん觴しょうにして、この一いっ挙きょ以て我国の名めい声せいを海外諸国に鳴らし、自おのずから九きゅ鼎うてい大たい呂りょの重おもきを成したるは、事実に争うべからず。就なか中んずく、木村摂津守の名は今なお米国において記きろ録くに存し、また古ころ老うの記きお憶くする処ところにして、我海軍の歴史に堙いん没ぼつすべからざるものなり。　当時、諭吉は旧きゅう中なか津つは藩んの士族にして、夙つとに洋よう学がくに志し江戸に来て藩はん邸てい内ないに在りしが、軍艦の遠えん洋よう航こう海かいを聞き、外がい行こうの念ねん自みずから禁ずる能あたわず。すなわち紹しょ介うかいを求めて軍ぐん艦かん奉ぶぎ行ょうの邸やしきに伺しこ候うし、従じゅ僕うぼくとなりて随ずい行こうせんことを懇こん願がんせしに、奉行は唯ただ一いち面めん識しきの下もとに容たや易すくこれを許ゆるして航こう海かいの列れつに加わるを得たり。航海中より彼かの地ちに至いたりて滞たい在ざい僅きん々きん数箇月なるも、所しょ見けん所しょ聞ぶん一として新あらたならざるはなし。多たね年んら来い西洋の書を読よみ理りを講こうじて多少に得たるところのその知ちけ見んも、今や始めて実じつ物ぶつに接して、大おおいに平へい生ぜいの思しそ想う齟そ齬ごするものあり、また正しく符ふご合うするものもありて、これを要ようするに今度の航海は、諭吉が机きじ上ょうの学がく問もんを実じつにしたるものにして、畢ひっ生せいの利益これより大なるはなし。而しこうしてその利益はすなわち木村軍ぐん艦かん奉ぶぎ行ょう知ちぐ遇うの賜たまものにして、終ついに忘わするべからざるところのものなり。芥舟先生は少小より文ぶん思しに富とみ、また経けい世せいの識しきあり。常に筆ひっ硯けんを友として老おいの到るを知らず。頃けい日じつ脱だっ稿こうの三十年史は、近きん時じおよそ三十年間、我外がい交こうの始しま末つにつき世間に伝つたうるところ徃おう々おう誤ごび謬ゅう多きを憂うれい、先生が旧幕府の時代より身み躬みずから耳じぶ聞ん目もく撃げきして筆記に存そんするものを、年月の前後に従したがい順じゅ次んじに編へん集しゅうせられたる実じつ事じだ談んなり。近年、著ちょ書しょの坊ぼう間かんに現わるるもの甚はなはだ多し。その書の多き、随したがって誤ごぶ聞ん謬びゅ伝うでんもまた少なからず。殊ことに旧政府時代の外がい交こうは内治に関かん係けいすることもっとも重じゅ大うだいにして、我国人の記きね念んに存そんすべきものもっとも多きにもかかわらず、今日すでにその事じじ実つを失うは識者の常に遺いか憾んとするところなりしに、この書一ひと度たび世に出いでてより、天てん下か後こう世せいの史し家かをしてその拠よるところを確かく実じつにし、自みずから誤あやまりまた人を誤るの憂うれいを免まぬかれしむるに足たるべし。　先生、諭吉に序じょ文ぶんを命めいず。諭吉は年ねん来らい他人の書に序じょするを好このまずして一切その需もとめを謝しゃ絶ぜつするの例なれども、諭吉の先生における一身しん上じょうの関かん係けい浅あさからずして旧きゅ恩うおんの忘るべからざるものあり。よってその関かん係けいの大たい概がいを記しるして序文に代かう。明治二十四年十月十六日、木村旧軍艦奉ぶぎ行ょうの従僕福沢諭吉　誌しるす

　同二十六年七月、予腸ちょ窒うチ扶フ斯スに罹かかりたるとき、先生、特とくに駕がを抂まげられ、枕まく辺らべにて厚く家人に看かん護ごの心ここ得ろえを諭さとされ、その上、予が自みずから搗つきたる精せい米まいあり、これは極ごく古こま米いにして味軽く滋じよ養うも多ければ、これを粥かゆとしまた鰹かつ節ぶしを煮に出だして用もちうれば大に裨ひえ益きあればとて、即そく時じ、价しもべを馳はせて贈おくられたるなど、余は感かん泣きゅう措おくこと能あたわず、涕てい涙るいしばしば被ひを沾うるおしたり。また先生の教おしえに従したがいて赤十字社病院に入いりたる後も、先生来らい問もんありて識しるところの医いか官んに談じ特に予が事を託たくせられたるを以て、一ひと方かたならず便べん宜ぎを得たり。数旬を経へて病やまい癒いえて退たい院いんせんとする時、その諸費を払はらわんとせしに院いん吏りいう、君の諸しょ入にゅ費うひは悉しっ皆かい福沢氏より払はらい渡わたされたれば、もはやその事に及ばずとなり。　後のちまた数旬を経へて、先生予を箱はこ根ねに伴ともない霊れい泉せんに浴よくして痾やまいを養わしめんとの事にて、すなわち先生一いっ家か子しじ女ょと共に老ろう妻さい諸もろ共とも、湯ゆも本との福ふく住ずみに寓ぐうすること凡およそ三旬、先生に陪ばいして或は古こふ墳ん旧きゅ刹うさつを探さぐり、また山を攀よじ川を渉わたり、世の塵じん紛ふんを忘れて神しん洞どう仙せん窟くつに遊ぶがごとく、大おおいに体たい力りょくの重量を増ますに至れり。嗚あ呼あ、先生何なんぞ予を愛あいするの深くして切せつなるや。予何の果かほ報うありて、かかる先生の厚こう遇ぐうを辱かたじけのうして老ろう境きょうを慰なぐさめたりや。要するに、予の半はん生せい将しょ死うしの気力を蘇そし、やや快こころよくその光こう陰いんを送り、今なお残ざん喘ぜんを延のべ得たるは、真しんに先生の賜たまものというべし。　以上記きするところは、皆予が一いっ身しん一いっ箇この事にして、他人にこれを示しめすべきものにあらず。またこれを記しるすとも、予が禿とく筆ひつ、その山よりも高たかく海よりも深ふかき万分の一ツをもいい尽つくすこと能あたわず。またせめては先生の生せい前ぜんにおいて、予がいかにこの感かん泣きゅうすべきこの感かん謝しゃ﹇＃﹁感謝﹂は底本では﹁感射﹂﹈すべき熱ねっ心しんと、いかにこの欣きん戴たいし惜おかざる衷ちゅ情うじょうとを具つぶさに言いいも出いでずして今日に至りたるは、先生これを何なんとか思われんなどと、一いち念ねんここに及ぶ毎ごとに、胸むね裂さけ腸はらわた砕さけて、真しんに悔かい恨こん已やむ能あたわざるなり。