嘉永のはじめ︵嘉永二年十月︶のことでござった。西国のさる大藩の殿様が本国から江戸へ御帰府の途次、関の宿の近くに差懸った折、右の方のふぐりが俄に痒くなった。蕁いら草くさの刺さし毛げで弄いらわれるような遣瀬なさで、痒味辛つら味は何にたとえようもないほどであった。しばらくの間は袴の上から押おし抓つねってなだめていられたが、仲々もって左様な直ちょくなことではおさまらない。御袴の裾をもたげ、双方の御手でひきちがえ掻っていられたことであったが、悩みは弥いや増ますばかり、あたかもふぐりに火がついて乗物いっぱいに延びひろがり、いまにその中に巻きこまれてしまうかと思うような現うつつなさで、追々、心しん気き悩乱してとりとめないまでになった。 御駕籠脇の徒士は只ならぬうめき声を聞きつけ、何事ならんと覗いみるところ、こはいかに殿様には裾前を取散したあられもない御姿にて、悶もだえ焦こがれるばかりに身を押揉み、なにやらん不思議なことをせられていられる態てい、まことに由々しく見えた。 道中奉行は行列をとめ、山添椿庵という御側医者に御容態を伺わせたが、只、﹁痒い、痒い﹂とわめかれるばかりで手の施しようもない。殿様には若年の折から驚きょ癇うかんの持病があられるので、大方はそのことと合点し、匆々、関の御本陣へ落着するなり、耳盥に水を汲ませて頭ずね熱つの引下げにかかったところ、殿様は﹁おのれは医者の分際で、病の上下も弁えぬのか﹂といきられ、片膝をあげてふぐりを見せた。山添は目をそばめて熟つく々づくと拝見いたすところ、右の方のふぐり玉が、軍鶏の卵ほどの大きさになって股間にのさばりかえっているのに、先ずこれはと仰天した。とても人間の身につくものとは思えない。強いて附こじ会つければ、癩かた者いの膝頭とでも言うべき体裁だが、銅の色してつらつらに光りかがやく団だん々だんたる肉塊の表に、筋と血の管の文あやがほどよく寄集まり、眼鼻をそなえた人の面つら宛さな然がらに見せている。頭に婆ば娑さたる長ちょ毛うもうを戴き、底意ありげな薄笑いをしているところは、張継が﹁楓橋夜泊﹂の寒山拾得の顔にその儘であった。 ﹁病やま草いの紙そうし﹂という絵巻物のあることは御存じであろう。鼻頭の黒き男、眠られぬ女、風病の男、小舌のある男、肛門のない男、また数ある男、男ふ女た両な性りの人、頭のあがらぬ法師、息の臭い女など十五段に白描の写しを合せ、十六段一巻となっている。他に侏儒と背高男の掛軸、鶏に眼を突つかせる女、悪夢に襲われる男の三図がござる。﹁餓鬼草紙﹂、﹁地獄草紙﹂と同じく、詞ことばは寂蓮、絵は土佐光長の筆と言伝えられている。世に厭わしき病気の数々を描き列ねたは、人間の病苦や六道三世の因果の理を示したものであろうか。山添も古医方家の流を汲むものであるから、六道絵には巨細に通じていたが、光長の思い忘れか執筆の手落か、ついぞこういう病相を見かけなかったので、一段と当惑したことであった。 山添は取敢えず塗薬を差上げ、宿々の泊とまりで、罨あん方ぽうしたり冷したり、思いつく限りの手当をぬかりなくやってみたが、ふぐり玉は一日ごとにふくれむくみ、掛川の宿では、とうとう雁がんの卵ほどに成上り、この先どれほど大きくなるかと思えば、心も身に添わぬほどであった。 式根島の大おほ陰ふぐ嚢り﹇#ルビの﹁おほふぐり﹂はママ﹈というは、以前聞いたことがあった。高湿因循の海辺に起る風土の病やまいで、足は描ける象の脚の如くに肥え、ふぐりは地に曳くようになるというが、これがそれとも思えぬから、山添は山添だけの智慧で、どうやら梅ばい瘡そうの所以らしいと見込みをつけた。 天保以来、殿様も格かく落おちにて、銭の出る遊びを厭いたまい、下げじ値きの小格子で早乗打を遊ばされる。浜町河岸に御殿のある因幡のさる殿様、小石川の第六天に上邸のある阿波のさる殿様、それにこの殿様は三幅対といわれる締り屋で、その上いささか狡わる猾ごすく、深川へ遊びにお出のときは、芸者どもの祝儀を奉書紙に包んで恭しく水引を掛け、金何百疋と大だい々だいと書いたものを用意なされて一同に下される。茶屋芸者は何事かと恭しく頂戴に及び、さて御包をといて﹁まあ、たった﹂と言ったきり、開いた口が塞がらなかったという話がある。またいつかは深川の平清で遊ばれての帰り、お家来に、﹁うちゃのう、歩いて帰りたいが、道が判らんでの、そちが跡からついてまいって、間違ったら教えてくれや、一遍歩いて見たいでのう﹂とおっしゃって、仲ノ町を歩いて帰られた。つまりは帰りの駕籠代を惜しまれたので、そういう細かい掛引をされたのだと知れた。一事が万事で、山添の見るところは大凡外れはないものと思われたが、こういう御容態では、古医方家の山添の手に負えない。殿様のふぐり玉が鵞鳥の卵ほどになったら進退をきめようと覚悟していたが、小田原の本宿で予想通りの大きさになったので、はやこれ迄と、夜にまぎれて逐電してしまった。 殿様は入府になるなり、下邸に逼塞し、元日の参賀にも、十一日の具足祝いにも上らず、大おお物ものを抱えて鬱々としてござった。 極月の二十八日に江戸へ帰りつきけり。道すがらも痛みつつ、帰りての後は、歩むことさえわずらわしく成り、垂れ籠めてのみありける。多くの医くす師しを招き、種くさ々ぐさ、よしということの限りをつくしたれど、ふぐり玉、日に日にただ大きうなりもて行くにつけて、折々、痛み悩むこと更にやむときなし。かかる病なん、終ついにその痛むところ、蓮はちすの花の開くがごとく壊えみ崩れて腐り行けば、命幾日もあらずというを聞くにも、今は幾いく許ばくならずその界さかいに至らんと思えば、いとど安き心なし。云々とは、殿の御日記の一節であった。 閏二月のさる日︵二月八日︶、将軍家には典医領伊東玄朴をもって御見舞になり、翌日、奥医者並大槻俊斎と戸塚静海を遣わして蘭方の診断させた。同じ蘭方といっても、大槻は江戸仕立、戸塚は長崎仕立で、診立ての違いはあったが、少しも早く病根を摘出しなければ、生命の危殆に及ぶだろうというところでは同じであった。 ふぐり玉とは、そもいかなるものかというに、是に就いては﹁たあへるあなとみあ﹂と、えさりうすの﹁解剖学﹂に精細に記述されている。即ちそれは扁平、楕円形の肉質であって、内面、外面、上端、下端、前縁、後縁を有つ。重さ、大約して十五ガラム、長さ一寸三分位、幅一寸、厚さは七分ほど也。縦軸は外前方に向い、左のふぐり玉は右よりも稍々低位にあるが通例なり。ふぐり玉の表は靱つよく平滑なる白色の膜にして、その下に血管膜と縦横の中隔に隔てらるる数多の葉あり。小葉を充すは直細精管にして、一端は盲端に終り、他端は縦隔中に吻合して網状となる、とある。扨、ふぐり玉の腫瘍には瘡毒、癌種による悪性のもの、高熱、外傷による良性のものとの別があり、猶また局所の肥大には繊維腫、液腫、軟骨腫、骨腫、筋腫に分けられるが、無痛のものにあっては、癌腫の疑いを残すが多く、また良性の肉腫に於ても漸次大を増して小しょ児うに頭ずだ大いに達し、精系に進入して悪性腫瘍に転位するもの故、有痛無痛に関らず、肥大の形勢にあるものは、可あい相なる成べくは速かに摘出するがよいとある。 そうそうするうちに、その月の末つ方、殿の御おも物のは成人の拳ほどの大きさに生長いたした。御痛みの方は以前ほどにはないようであったが、過大の一いち物もつを甚いたく御憎しみになり、あおのけに寝たまま、﹁こやつめが、こやつめが﹂と飽あく期ごもなく罵られるようになった。殿が御おも物のにたいする辞じ宜ぎもさることながら、この儘に捨て置いては、鉄てつ丸がんの重さに引かれ、明日にも地獄の底へ落入られるやのあやうい境界に立到った事故、いずれとも匆々に処置いたさねばならぬ羽目になった。殿におかれても、始めがほどは、手荒な取扱いを厭われるげな気味合で、自然と話を外らされるふうであったが、此の態に及んでは、流さす石がに観念の臍ほぞを据えられたものとみえ、さる日、お側小姓に﹁短冊を持て﹂とお命じになり、あおのけに寝たまま筆をとって、
身を責むる讐をば斬りつ更にまた
よき敵もがな組打ちにせむ
よき敵もがな組打ちにせむ
という一首を大槻にお下渡しになったは、早くも療後の馬上の組打を意図してござる証拠にて、勇ましとも勇ましきかぎりであった。
その頃の日記に、
さらば如何にすべきと問とうに、その悪しき玉を切り捨つる法はあれども、未だ我国にて行いしことのなければ、容たや易すからずと医くす師しは言う也。されど、とにもかくにも此のまま過ぎ行くは、死ぬべき道に出いで立たち行ゆくにて、立帰る期のあらざるを、いかでかその術を行いてよ。療いする術あるを聞きながら、ただに死ぬを待つこそ烏お滸こならめ、その術ようせずば死なんのみ。さりとても戦いの命を縮むるまでにて、ついに苦しみ悩むかぎりを尽して死なんにまさりぬべしと切に乞う心となりぬ。
殿の御存念がかようにある上は、医師の方に逡巡のあるべきいわれはなく、大槻﹁いろいろと取調べ、更速に着手いたしましょうずるが、独、暫時、実検の時を給え﹂と申して退った。
翌日の夕景、下谷御徒町和泉橋通りなる伊東玄朴の宅に、江戸の蘭方医二十余名が参集し、御物摘出の外科方を相談した。杉田玄白、前野良沢の﹁解体新書﹂が翻刻されてから七十年、その後、﹁内科撰要﹂や﹁医範提綱﹂というような良知が出て、いよいよ繁栄の趣になったが、蘭方外科は名目ばかりで、膏薬と塗薬のほか何事も得出来ず、華岡流の外科も脱疽、兎みつ脣くちの手術を行なう底のところに止っている。腫瘍のふぐり玉を切取る技は、ぱれいの術書に見えているが、鎖肛、鎖陰を開切するのと事がちがい、男の大事な個所へ切尖を入れる難儀な術でござるゆえ、手引草だけでは事が運ばなんだも道理であった。
その日、参集した蘭方医家の主なる者は、長崎仕立のほうでは、伊東玄朴をはじめとして、竹内玄洞、本間玄調、入沢貞意、戸塚静海、石井宗謙、江戸仕立のほうでは箕作阮甫、高須松寧、大槻俊斎、坪井信良、川本幸民などで、いずれも蘭法で一家をなした大家名手ばかりであったが、如何せん経験のないことで、これぞという成案もなかった。いろいろと議論が出たが、そのうちに、某それがしが﹁獺かわうその内臓は人間とよく似ていると申し、過ぐる頃、山脇東洋などは度ど々ど解剖の資料にいたしたよしでござった。肝臓、腎臓が似ているなら、ふぐりの構造も同様であろうと思われる。手始めに獺を集めて剖刀を試されたら如何﹂というたが、山脇は﹁臓志﹂という医書で、獺の内臓は人間の内臓とは似てもつかぬことを宝暦のむかしに明らかにしている次第だったから、意見としてもこれは迂濶なものであった。また一人は﹁この程、去勢術に関する医書を手に入れました。主として、牛馬の睾丸または卵巣を割かっ去きょする術を詳述したものでござるが、その医書によって、牛馬のふぐりを試みられたら、いくらか手心がわかろうではあるまいか﹂と尤もらしい説を立てたが、大槻にしても戸塚にしても、その辺にぬかりのあろうわけはなく、如月のはじめ頃からそれぞれ牛馬について十幾度の実検をしているが、止血の方法がうまくいかず、とりわけ性器の完成した壮年の牛馬は夥しく出血して倒れてしまう。灼切り法というのも試みたが、施術後の保定にも不確なところがあるゆえか、幼年の孱弱なものは一匹も助からなかった。大槻、戸塚の実検はまだその辺のところで停滞しているが、殿様の御物は一日といえども待ってはくれぬ。今日の参集も、こういう態たらくではとてものことは望めない。この上は、おのれら二人の力で、日毎に肥えまさる悪性の御おも物のと駆けくらべをするほかはないと決意したことであった。
ほどほどに参集も終り、一同が追散したあと、別室に伊東玄朴、戸塚静海、林洞海、大槻俊斎、三宅良斎、玄朴の弟子が二人、この七人が居残ったところで、玄朴が思入れ深く、﹁左そ右うもあれ、今日こそはえらい恥をかいたよの、つくづくと思い知らされたわな﹂と言うた。戸塚は意外に思うてなぜかと問い返した。そこで玄朴がまた言うた。
﹁前野、杉田の両先覚が、自ら剖刀をとって、われらのために人体の秘ひい隠んを説き明あかしてくれられたが、その後、七十と何年、蘭方医おおよそ三百人、内外の末流に跼きょ蹐くせきして、ただの一人も執刀術の勉強に身を挺したものがなかったというは、まことにもって不思議なことであったよ。剖刀外科には手てび引きがない、手心がわからぬ、道具がない、手が廻らぬ、どうの候のと言うて、この久しい間、うまいこと逃げ居ったわ。今日の参さん集じゅうでさえ、では拙者が、おのれが、私が、身に引受けて仕ろうと言い出たものは一人もなかったぞ。このたびの馬鹿げたふぐりが例になろうか。ふぐりなどはどうでもいいのじゃ、むずかしかろう、難儀だろう、いかさま手に合わぬだろうが、解剖の技さえ心得ていればみすみす助けられる命を、おのれの卑怯と怠慢から、よくもまあ眼をつぶって見捨てて来たぞ。何千、いや何万、数えきれたものではなかろうてや。方々、如何、思召される。なんという無慙なこと。悪逆無道、酷薄無情、これ以上の地獄の沙汰はあろうずるまい。これが人間の貴い命を預る医者の精神であろうか。恥入った、赤面背汗のいたり、辛うて身悶えするばかりじゃ。其そこ許もとらに言うているのではない。自らに語り聞かしておるのでござるじゃが﹂そう言うて、膝に手を置いてさしうつむいた。
皆々、おのれの心の中を見抜かれたような心地がし、粛然とし、打萎れ、つくづくとなり、その後あとで、力を合せて解剖の勉強に出精しようと誓い合ったことでござる。大槻、戸塚はもとより、竹内、林、また三宅も某それがし殿とののふぐり玉にかかわりあい、それぞれの見識にしたがって勉強しているわけであったが、皆がてんでにおなじような実検をしていても効かいないことだから、各々の分担をきめ、それぞれの受持で知識を深めるほうがよいと言う意見が出て、あらためて持役をきめた。
伊東玄朴 差図役、相談役
戸塚静海 執刀
大槻俊斎 監察
竹内玄洞 施薬
林 洞海 助手
三宅良斎 同
戸塚静海 執刀
大槻俊斎 監察
竹内玄洞 施薬
林 洞海 助手
三宅良斎 同
そこで玄朴が言うには、﹁前野、杉田の両先生、その以前では山脇東洋が、人体の内臓に刀を入れたじゃが、どちらも構造を見識するにとどまり、のみならず扱われたは、どちらも絶ぜっ死しの屍むくろであった。回生を意図して、生せい体たいのそれも陰嚢に刀を入れるなどは、わが国の医術がはじまって以来、これが最初のことじゃ。言うまでもないが、一世を劃する試みとなるわけでござる。われらの名聞など、どうあろうとさしかまいはないが、このたびばかりは、なんとしても仕終わせねばならぬ。万一にも仕損じたら、この先、蘭方外科は何とあるであろう。それでは困るから、取掛るからには、手ぬかりのないように、万全を期さねばならぬ。まず施術の時期だが、それについて戸塚氏に御意見があったら承っておきたい﹂。戸塚の意見は、かすとらちおんの医書には去勢の術は寒暑の候はいずれも不可、春、秋、殊に早春がよいとあった。これは牛馬のことで、殿のふぐりは譬えにならないようなものだが、なんといっても施術の器具が思うようでなく、消毒の方法も不備だから、感染の恐れの少ない季節を選びたい。なおその上、寛怠に似て恐縮だが実はまだ研究が十分でない。行届きかねるところもある。自信もないのに執刀するのは、天を懼れざる仕方だから、ならば一日でも先へ繰延したいのが真意だということであった。
幸いなるかな、殿でん上じょうの御腫物は良性でござって、梅瘡にも、労ろう性しょうにも、癌腫にもその方の悪性の筋をひいていないから、仮りに小しょ児うに頭ずだ大いの極度に及ぶにしても、そこまで行くには半年や十月の余裕があるものと見てよい。願われるなら、十月の初秋の候に事を挙げたいと存念を披瀝した。玄朴考えて、﹁大槻氏、其許は最初からの関かか係りあいだが、御ンふぐりのふくれぐあいを測っていられたろうか。書き留めたものでもあったら、ちょっと見たい﹂と言うたら、大槻は書附をだして、何月何日には何寸何分、何日には何分と読みあげた。玄朴、聞いてから、指を折って数えていたが﹁うむ、今のところはまず鷺の卵ぐらいか。十月となると、鶴つるの卵ほどになろうかな。よし、十月にきめよう。それはいいが、御先方はむずむずしていられるところだから、悠長めかした話に御同心になるであろうか﹂そこで戸塚、﹁明らさまに申したら、御承服なさるはずはございませぬから、ただ、そのうちに、とだけお答えしておきます。なにをお問いになられても、そのうちに。余のことは一切申しあげず、十月までは、そのうちにそのうちにで押し通すつもり﹂そういうことで相談が結着した。
三月もすぎ、四月終り、五、六、七と月を越して、八月となった。殿の御おも物のはますます増長し、小こま枕くらほどになったことで、あおのけに寝た腹の上に、ふぐりが大々と盛りあがり、石灯籠の子持笠のように見えた。殿はうちつづく暑気に悩んでほとほとに倦うんじられ、﹁おのれらは、そのうちにとばかりぬかしおるが、おれをば、ふぐり玉の下敷にして殺す気かのう。うちゃもう、この上は堪こらえてつかわさぬぞ﹂などとのたまい、桐の夏枕を掴み投げにし、大荒れに荒れたもうた。
そうするところに、殿のふぐり玉に殉死をねがうものが出てきた。戸塚が牛馬のふぐりに執刀を試みていることが、風のように洩れだし、施術が遅れるのはそのせいなりと独り嚥込みし、気の早いのから順番に願書を上げたものであった。
八月 七日 杉浦 三蔵 御側調役
同 九日 生島 孫太 取次下番
同 十二日 矢部国四郎 調役並
同 同 多門 孝平 物頭添役
同 十五日 石井久之助 使番並
同 九日 生島 孫太 取次下番
同 十二日 矢部国四郎 調役並
同 同 多門 孝平 物頭添役
同 十五日 石井久之助 使番並
殉死願は続々と出て、九月中には二十六人にまでなったが、もとより聞かれるような願いでないから、一、二日手許に止めて置いて、夫々に差戻した。そうすると、こんどは大槻や戸塚の帰途を擁して強請するものが出てきた。いちど出したふぐりが、たやすくひっこまされるかということなのだが、いきり立った荒れ玉をおしなだめるのに、大槻も戸塚も大方汗をかいた。
施術は十一月四日の正午から下邸の中ノ書院で行なわれることになり、戸塚、大槻、林、竹内の四人が前日から泊りこんで万般の準備にとりかかった。欄間の塵を払い、残る方なく清掃し、書院の真中に畳を五畳積みあげて清浄な白布で蔽い、そこを施術の場所にした。畳を重ねて台をつくるのは、この日がはじめてではない。むかしから順天堂の一派がやっていた方式であったが、切腹の場に似ていると言って、重役からきつい文句が出た。
そちらの一角はようようのことで切崩したが、ここに意外な障りが起った。殿は御おん二十八歳、倭子という奥方があられるが、まだ嫡子がない。こういう御境界は前々から知れ切っていたから、一人旅の遍路の笠にも同行二人と書きつけるごとく、いやまた唐からの車は一輪で用を弁ずるがごとく、右は失っても左さえあれば、一個をもって二個の役を果すべき証しょ跡うせきを二人からさまざまに申上げ、御親類一同も御納得になったことであったが、今日という今日になって、御母堂の筋から、外科の施術をとりやめて散ちらす方を考えよと、取次をもって仰せだされた。
大槻と戸塚は中ノ書院の入側に坐って顔を見合っていたが、そのうちに大槻﹁いまになってかような御沙汰を受けるのは困る。お目にかかって申しあげようではないか﹂と立ちかかった。戸塚は﹁それはわかっているが、奥の刀自さまは国学の造詣の深いお方だと言うから、生仲なことでは御納得になるまいぞ﹂と言うたら、大槻は﹁そのことだ。とても理で押せまい、欺してしまうのよ。まあ行こう﹂と、戸塚を誘って奥へ上った。大槻はかれこれと去さり気げない体で世間話をして居って、そのあとで急に思いついたように﹁万葉集の巻ノ七に、伊勢の海のあまの志し摩ま津づが鮑あわ玉びだま、取りて後のちもが恋の繁しげけんという和歌がございます。一般には、藤原ノ淡海公と志摩の玉取りの故事を読んだものと言うことになって居りまするが、わたくしどもは、あれを医学の歌だとして居ります。あまとあるは、海に潜る海女にてはなく、古いにしえは海辺の遊女の異名であった蜑あまを指したもので﹂。刀自殿は異いな顔をして﹁それまた、変った御説よの﹂と乗出してこられた。すると大槻﹁往古は陸路の便が少なく、旅行はおおむね海路によりましたが、旅人の鬱を散ずるため、港々に蜑という遊女が居って、船が港へ入ると、小舟に乗り、あるいは岸に立って客を招んだよしでございます。伊勢の海の歌にある鮑玉とは人間の精髄のことで、男にあっては鰒ふぐ玉りだま、女にあっては鮑あわ玉びだま。その頃、蜑を抱えまするとき、前もって一方の鮑玉を切取る例がござったが、蜑どもにしては、鮑玉の一方が残って居れば、いつでも想う人の子を孕むことができるというその心をうたったものと解して居ります。とりとめもない話でございますが、なにせよ古い頃のことで﹂そう言って、恭しくお辞儀をしたものであった。
さてその間、なにやかとごたごたしたが、自然のうちに御差止が許ゆれ、翌日︵十一月四日︶の正午から我が国はじまって以来のふぐり外科の施術にとりかかった。昼の午の刻から暮れ切るまでかかり、見ん事、殿の御ごほ宝うぞ蔵うから腐れ宝ほう珠しゅをとりいだした。その次第は、殿の日記に見えてござる。
切るところを見定めんとするなるべし。まず畳五畳ばかり重ねた上に寝させたり。刀を執るものは戸塚静海を長として、林洞海、三宅良斎なり。伊東玄朴かたわらにありて、何くれとなく計らい定む。大槻俊斎はおのれの胸をば右の手でしっかりとおさえつけ、左の手に蘭書を持ち、一寸の誤ちもあらせじと心を配るなりけり。竹内玄洞は薬のことを司れるが、おのれが顔を見つつ、心地いかにいかにと問うなり。玄朴の教え子二人、左右の足をおさえて動かさず、洞海の教え子ら、水よ布よ、と役送す。かくて刀をとりはじむ。
静海、刀をおろし、陰茎の脇、ふぐりの右の方を五六寸も截きり割りたりとか。おのれにはただ冷水を注ぐかと思われぬ。この時、午うまの刻の鐘きこえけり。さて、今は切りたる中を開きて見定むるなるべし。時として身のうちに響くこともありけれど、左さのみ痛しとも堪えがたしとも思われず、折々﹇#﹁折々﹂は底本では﹁折折﹂﹈、水注ぎ洗うが冷ひや々ひやと覚えらる。人々、さまざまに計らいて精せい系けいを糸にて結びたるときは、命の限りとばかりにて、腹の中の物を差入れらるる心地ぞせられける。ほどなく切捨てたるにや、その心地も直なおりぬ。
扨、あしき玉を取り出すとて、左右は纒いたる筋を切るに、二度三度は響きつれど、なにばかりの事もなし。明暮れ心にかかり、片時も忘れざりし根を断ち、玉をぬき出したるなれば、たとえんにものなく、清すが々すがしくおぼえける。今は更に、千ちと歳せの命、継ぎたりと心の落おち居いたるにや、疵口を縫いつくろう折、仲々、堪えがたくて人々に笑われたりき。このとき全く日暮れたり。
とり出したる玉を見るに、少し裏うら平たいらみて、長きところ五寸余り、幅は四寸ばかりにて、ところどころ高低ありて形を失い、裁ち割りて見るに、玉の性変じていたく色も乱れ、いまや腐れ出ずべきさまなり。重さ百匁余りもありしとか。さもあれ、仰向けに寝よといわれ、昼より暮れ過ぎまで押えつけられ、動きもさえならざりし事とて、腰痛みて苦しけれど、念じて、そのまま粥など吸う。
六日、七日、おなじ心地なり。八日の日、いかにしけむ、尿の出あしくなりて、日に一度、夜に一度ばかり出るに、いたく悩まし。十日になりて、洞海、思いだして、縫いたる糸の引詰まったるがありと言いて切捨てたれば、瞬く間に心地よく出てきにけり。これより後、なんの障る事なく、十五、六日には食物の戒いましめもいささか緩り、疵口も大方癒着し、今はただ日を数えて全く癒えなん事を待つばかりになんありける。