一
飯倉の西にあたる麻布勝手ヶ原は、太田道灌が江戸から兵を出すとき、いつもここで武者揃えをしたよし、風ふ土ど記きに見えている。大たい猷ゆう院いん殿でんの寛永の末ごろは、草ばかり蓬々とした、うらさびしい場所で、赤羽の辻、心光院の近くまで小おや山ま田だがつづき、三田の切通し寄り、菱ひしや河こう骨ぼねにとじられた南下さがりの沼のまわりに、萱葺きの農家がチラホラ見えるほか、眼をさえぎるほどのものもないので、広漠たる原野のおもむきになっていた。 六月はじめのある日、この原にオランダ人献上の大だい臼きゅ砲うほうを据えようというので、御鉄砲御用衆といわれる躑つつ躅じの間詰づめのお歴々が、朝がけから、露もしとどな夏草を踏みしだき、間けん竿ざおを持った組下を追いまわして、射場の地じ取どりをしていた。 和流砲術の大家、井上外げ記き正まさ継つぐ、稲富喜太夫直なお賢かた、田たつ付け四郎兵衛景かげ利としの三人が鼎かなえのかたちになって床しょ几うぎに掛け、右往左往する組下の働きぶりを監察していた。 井上外記は播はり磨ま国英お賀が城主井上九郎右衛門の孫で、外記流の流祖である。鉄砲の射撃にかけては、精妙、ならぶものなしといわれた喜太夫の父、一夢斎稲富直家が慶長十六年に駿すん府ぷで死んでから、外記が天下一の名人の座についた。 大阪役ののち秀忠に仕え、大おお筒づつ役として八百石、家光の代に御鉄砲御用衆筆頭大筒方兼帯を仰付けられ、世せろ禄く千八十石、役料三百俵、左太夫と通称する、代々、世せし襲ゅうの家筋になり、同役、御用衆のうち、鉄砲磨みがき組支配田付四郎兵衛景利とともに大小火砲、石いし火び矢や、棒ぼう火び矢や、狼のろ煙し、揚あげ物もの、その他、火術の一般を差配することになった。 稲富喜太夫は、父から稲富流の秘伝をうけて独得の技芸を身につけ、町ちょ打ううちといって、大砲の遠距離射撃にかけては、名人の域に達していたが、父が家康の抱だきかかえを脱して、尾張侯に仕えたため、喜太夫は秀忠の代になっても、依然として、新参同様の扱いをうけ、寛永も中頃になって、ようやく御鉄砲玉たま薬ぐすり奉行に任官し、高六百石、焼やけ火ひの間ま詰づ﹇#ルビの﹁まづ﹂は底本では﹁まづめ﹂﹈めになった。 玉薬奉行というのは、鉛、煙硝の丁ちょ数うす分うぶ合んごうや火薬の製造を取締まる与力並みの職分である。喜太夫は砲術のほか、大砲張立︵鋳造︶の諸元にも通饒しているので、おのれの技術に満々の自負をもち、父が身の処置を軽々しくしなかったら、御鉄砲御用衆筆頭の職分は、当然、稲富家に下し置かれていたろうと思い、その辺に、尽きぬうらみを抱いていたが、世襲ときまった職分を侵おかすセキはない。子の喜三郎直之を督励して、砲術と大砲張立の技を練磨させることで、ひそかに鬱屈をいやしていた。 陽がのぼるにつれて、暑気が強くなった。野のづ面らいちめんに草いきれがたち、蒸風呂のなかにでもいるようで、腹ふく背はいから、ひとりでに汗が流れ走る。 地取りが終ると、磨みが組きぐみの同心は大工どもを急がせて、試射の標的になる小屋の建たて前まえにかかった。オランダ商館長のカロンの仕しよ様うには、間口十二間、奥行十五間の地面に、相向いに五軒の小屋を建て並べ、そこから四町ほど離れたところに、大臼砲を据える土壇をつくるように指示されているが、オランダの東印度会社がお上に献上しようという臼砲なるものは、いかにもひとを馬鹿にした代しろ物もので、図体こそは厖大だが、玉たま割わり︵実質弾の直径と口径の比率︶も出であ合い︵照準線と軸とう線じくせんとが交叉する一点にたいする砲口からの長さ︶もあったものではなく、竹筒でも事はすむ狼のろ火しの打揚筒を、桁はずれに大きくしたというものにすぎない。 それは、まったくもって、厖大なものであった。 軽子、曳方が三百人もかかって、箱根の石いし高だか道をひきおろし、神田誓せい願がん寺じ前の松浦侯の上かみ邸やしきにおさまったところを拝見に出かけたが、臼砲の口径は一尺二寸、砲身の長さは十五尺もあるという、思いもかけぬ大おお物ものだったので、みなみな、﹁これは﹂といったきり、しばらくは、あいた口がふさがらなかった。 商館長のカロンの守かみは、気味の悪いくらい達者な日本語で、 ﹁モルタール……すなわち、この薬やげ研ん型の大砲は、差しわたし一尺五寸、重さ五十六カティ、日本の貫目にして六貫七百二十目の炸さく弾だんを打ちだし、八百歩のむこうにある目標を微塵にうち砕くとでござる。この大砲は、炸弾を天頂から落し、大遮しゃ蔽へい物ぶつ、あるいはまた、城郭のうしろにいる敵を殺傷するゆえをもって、天てん砲ぽうとも申す﹂ と、真顔になって註釈したが、そういう一瞥べつのうちに、東印度会社の念の入った魂胆を見ぬいてしまったので、外記も、四郎兵衛も、苦笑するばかりで、誰一人、相手にはならなかったのである。 天砲の註釈は、いらぬことであった。明みん朝ちょうの中期に升しょ何うか汝じょ賓ひんが漢文で書いた西洋火攻神器説を読んで、早くから臼砲の諸元を知っていた。一尺二寸の口径にたいして、十五尺という砲身は必要以上に長すぎる。この砲から六貫七百二十目の玉を四十五度以上の仰角で打ちだせば、持もち矢やぐ倉ら︵最大射程︶は二町半がせいぜい。つまるところ、この臼砲は厖大に仕立てることによって、故意に諸元を狂わしてあるが、それは臼砲の効用を好戦的な日本人に知らせたかったからだと、咄とっ嗟さにオランダ人の心情を看破した。 そのとき、田付四郎兵衛は、ほとほと愛憎をつかして、 ﹁オランダ人どもは、御忠節の、御奉公筋のと、しおらしいことを吐ぬかしておるが、これで底が知れた﹂ と苦りきった顔でいった。 こういう次第で、カロンの愚かな臼砲は、御鉄砲御用衆から、あっさりと見離されてしまったが、こうなるまでには、オランダ人の側にも、言い知れぬ辛い事情があったのである。 寛永十五年の正月、島原の乱のとき、そのときの商館長クッケルバッケルが幕府から督促をうけて、原城の攻撃に参加することになり、館員の一人だったフランシスカス・カロンがデ・リィプ号に乗って、出丸の砲撃を指揮した。 原城の出丸は、鴨の首のかたちに海に突きだした尾崎の突端、裾通りに狭い細ほそ谷たにをへだてたむこうの松林の中にあり、橋本左京というのが出丸の大将で、千人ばかりで守り、鍋島信濃の軍勢が攻せめ口ぐちをとっていた。 はじめのうち、カロンはデ・リィプ号の甲板から小さな五ポンドの旋回砲で砲撃していたが、出丸に立籠っている女や子供は、恐れるようすもなく、 ﹁サンチャゴ︵南無八幡というほどの意︶﹂ と口々に叫びながら、出丸の馬うま出だしから細谷の浦へおり、足るほどに磯草を採ったり、磯辺に跪ひざまずいてパーテル・ノステルの祈祷を唱えたりする。それぞれの目鼻だちがはっきり見えるほどの距離なのだが、死角になっているので砲撃の効果をあげることができない。 デ・リィプ号には、松平伊豆、戸田左門、長崎奉行、長崎御代官、鉄砲御用衆の面々が砲撃の効果を冷然と観察している。カロンは窮地におちいり、尾崎の東のわずかばかりの平地に五ポンド砲を据え、細ほそ谷たにごしに出丸を砲撃したが、それでもだめ。松浦肥前が見かねて、十二ポンド砲と四門の加カノ農ンほ砲うを平戸から送ってよこしたが、それが、いっそういけないことになった。というのは、それらは、寛永四年に、台湾の前総督ピーテル・タイエットが、うやうやしく献けん上じょうしたものだったが、が磨滅した、役にもたたぬ廃物同様の古砲だったので、家光は激怒して、そっくりつっ返させたその四門の加農砲だったのである。 カロンは知らなかったが、中とうちゅうに歪ゆがみか疵があったのだとみえ、最初の一発で砲口が破裂し、砲手が砲身の破片で腹をうちぬかれ、砲座の外側、東の竹柵に叩きつけられて即死するという散々な始末だったので、オランダ人の信用を恢復するため、日本人に見せてはならないことになっていた榴シュ霰プラ弾ネルを百人ばかりの磯浦の女子供の中へ打ちこみ、砲撃の効果をあげることに成功した。 御鉄砲御用衆、というより日本人は、生れてはじめて破裂弾というものを、その目で見た。鉛えん小しょ弾うだんと鉄釘を充じゅ填うてんした一発の榴霰弾が、一挙に三十人以上の人間を炮殺するすさまじい光景に接して、酔い痴しれたるがごとくに陶然とした。井上の子の半十郎と稲富の子の喜三郎が、外記の命令で榴霰弾の扱い方を実習した。それは、落城間近い、二月のはじめごろだったが、射っても、射っても、 ﹁サンチャゴ・サンタマリア﹂ と絶叫し、手をつなぎながら馬うま出だしから飛びだしてくる女子供を、数も知れぬほど榴りゅ霰うさ弾んだんの餌食にした。二
商館長に任命されたカロンは、寛永十六年の二月中に、平戸で、余儀なく臼砲の鋳造をせねばならぬ羽目になった。原城の攻撃は、平射砲でなくて曲射砲だったら百倍の効果をあげていたろうと、口を辷らしたのが松浦侯の耳につたわり、今こん年ねんの参府のお土産はそれにしようと、勝手にひとりぎめして、紐ひも差さしの山やま裾すそに、さっさと鋳造所をこしらえてしまった。 東印度会社の内規で、日本人のために大砲を鋳造すること、大きな射程をもつ蛇だほ砲う及び臼砲の諸元を日本人に洩らすこと、砲手を送ることは厳禁になっていたので、カロンは進退に窮したが、謝絶する措そ辞じを思いつくことができなかったので、ハンス・ウォルフガングという砲工と相談して、禁令に抵触せぬ、﹁たぶん弾丸の飛びださない﹂非実用の臼砲を設計し、三月の中旬ごろまでに鋳造を終えたが、御鉄砲御用衆の何気ない一瞥で、わけもなく看破されてしまった一埓らつは、さきにしるしたとおりである。 三月二十四日、カロンはオランダ人の砲手二名を連れ、大小通つう詞じ、松浦家の諸役人、お徒か士ちなど百二十人に附添われ、青銅の大臼砲二門、鉄製の象しょ限うげ儀んぎ四個、前車二、充弾、空弾、爆弾四〇個、小臼砲︵これも実用にはならぬ古物だったが︶一門、前車一、榴弾三〇個など、全量七百五十貫に及ぶ大荷物を抱え、海路、平戸を出発した。四月三日、大阪着、それから三百人にあまる軽子、曳子が、ろくでもない大荷物にとりつき、東海道を江戸に上った。 四月末日、江戸に着いた。臼砲と附属物は松浦侯の上邸におさまり、カロンと砲手は、本石町三丁目、長崎屋源右衛門の旅宿に落着いた。相あいなるべくは、試射などといううるさい手続きはぬきにして、このまま徳川家の武器庫におさまることをカロンは希望していたが、幕府の大筒方は底意地悪く、領りょ収うしゅう発射の公開を要求してやまない。砲工のハンスは、ときには弾た丸まが出ることもあるとうけあってくれたが、砲手たちは自信がないので、尻込みばかりしている。カロン自身も、不幸な災厄を避けたい気があって、六月の中頃まで、あれこれと試射の方法を論議することに日を費ついやし、ひたすら遷延の策を講じていたのである。三
稲富喜太夫は、真まっ向こう額びたいを六月の太陽に焼かれて汗みずくになり、井上外記の因いん業ごう面づらを眼の隅からながめては、ひとりで腹をたてていた。 この暑気に、虎の皮の大おお衿えりのついた緋ひら羅し紗ゃの胴どう服ふくを着こんでいるのが、馬鹿らしくてならない。地肌の透けて見える精のない薄うす白じら髪がを、真さな田だの太紐で大おお段だんの茶ちゃ筅せんに結いあげ、元亀天正の生残りといった体ていで、健骨らしく見せかけているが、柄にもなく色染めの皮足袋などをはいているところからおすと、内ない実じつは、意外に軽薄なので、装なりだけで高こう家けを気取っているのかもしれない。 カロンの臼砲に関する一件は、田付四郎兵衛から大目付井上筑後をもって、お上かみに申しあげたところ、いたくお腹立ちになり、このたび参府の甲カピ比タ丹ンには逢うまいと仰せられたげなに、洩れ聞いている。 お上が寛かん濶かつに思い捨てられたのなら、こちらも悪い冗談と、笑ってすませればよろしからん。どのみち、玉は出ぬとわかっているものを、さかしらだてて、領うけ収とりの、試ためし射ちのと騒ぎまわる爺じじいの気が知れない。さしたる貫かん目めも持ちあわさぬくせに、なにかにつけて差し出で、おしつけがましく取り仕切る癖があるのは、勘弁なりかねる。 ﹁御支配、朝あけから焙あぶられつづけでは、御老体にさわりましょう。チト日蔭に入って、涼まれては、いかが﹂ 喜太夫がいうと、外記は俗にグリ眼まなこという眼で、ジロリと喜太夫の顔を見て、 ﹁沼ぬま尻じりのあたりは、涼すず気けがあろうから、身の皮を剥はいでなりと、風に吹かれて来るがよい。おれに参しん酌しゃくはいらぬ﹂ と吐きだすように言い切った。喜太夫は笑って、 ﹁これは恐れ入る。ご腹ふく立りゅうのように見受けますが、手前の申したことが、お気にさわりましたか﹂ ﹁いやいや、いっこうに……ときに稲富、貴様は、いつぞや、五貫目玉の五十町射ちをねがい出たが、ついでのことに、オランダ人の大砲を射うってみる気はないか。伜の半十郎には、今朝ほど申しつけておいたが、やる気があるなら、二人で腕をくらべてみるか﹂ ﹁や、それは﹂ ﹁それはというのは、否いやということか。そういう思しあ案んが顔おは見たくない﹂ 喜太夫は恐れる気味で、 ﹁否いやとは申しませんが、なにぶんにも、心得のないことで﹂ ﹁心得がなければこそ、試して見ようとは思わぬのか。朝あけから、床几に縛りつけて、射場の地取りを見せておいたが、貴様には、この謎がとけなかったそうな﹂ ﹁とても、そこまでのことは……しかしながら、玉の出ぬ大筒は射てぬはず。これは、近頃もって難題にございますな﹂ 和流砲術の装薬の定め方は、玉目百匁について、火薬四十匁の割になっているが、相手は諸元を狂わせた得態の知れぬ大おお物もので、装薬の割が一匁ちがっても、砲身といっしょにすっ飛ばされる恐れがある。喜太夫としても、そこまで危険をおかす気はないから、そういって逃げにかかったが、外記はゆるさず、 ﹁玉が出ぬとは、なにによって詮せんじつけた。玉割はどうだろうと、持もち矢やぐ倉らを測はかって射ちあげるくらい、なにほどのことがあろうか。貴様が否なら、伜の喜三郎にやらせる。そのかわり、嚮きょ後うご、砲術に関するかぎり、一切、大きな口をきくな。火薬箪笥を抱えて、土ぬり蔵ごめのなかにひっこんでいるがよかろう﹂ と憎にく体ていに罵った。 田付四郎兵衛は、浅黄木綿の袴の膝に手を置き、温和な微笑をうかべながら、二人の争論を聞いているばかりで、頼みにならない。喜太夫は、そのとき勃然たる怒りを感じ、いつになく、手強く言い返した。 ﹁手前のことは、ともかくとして、伜めに難題をいいかけることは、平に、ごめんねがいとうござる﹂ ﹁ふむ、それが一夢斎の伜の言い草か。よしよし、貴様は相手にならぬ。なんというか、喜三郎に聞いてみよう﹂ 砲座になる土壇の切り取りをしている同心どもの居るほうへ向って、 ﹁半十郎、喜三郎﹂ と呼びかけると、半十郎と喜三郎が、野袴の裾をひるがえしながら、こちらへ走り寄ってきた。 半十郎は大筒役組下同心、喜三郎は玉薬奉行属役、どちらも焼やけ火ひの間まづ詰めで、同年の二十五歳である。 ﹁喜三郎、貴様は鳥居甚左衛門について自得流の棒ぼう火び矢や︵擲てき弾だん筒︶の法を学んだそうな﹂ ﹁御意にございます﹂ ﹁棒火矢の抱かかえ打うち方かたは、天砲の天頂打ちとおなじ理合であろう。明日、天砲の試し射ちをしてみるがいい。半十郎もやる。カロンが平戸から連れてきたウールフとかいう砲手は、おのれの名もかけぬような文盲で、数理究理に関することは、なにひとつ知らぬが、六貫七百二十匁の玉を、わずか七百匁の火薬で、四町先へ飛ばせるといっている。偽りなら、それでよし。いうとおりのことをやってのけたら、貴様もやれ。カロンの天砲の装薬の定め方は、玉目百匁について、火薬十匁の割と知れた。むずかしいことはあるまい﹂ といった。半十郎と喜三郎は思いこんだ顔つきになって、 ﹁仰せのとおりにいたします﹂ と、こたえた。四
カロンの臼砲の領りょ収うしゅう﹇#ルビの﹁りょうしゅう﹂は底本では﹁りょうしょう﹂﹈発射は、六月二十一日、勝手ヶ原の射場で行われた。御鉄砲方、大筒役、火薬奉行の組下、与力、同心、属役は、日の出前に射場に集合した。 松浦侯の三ツ星ぼしの家紋のついた幕舎の床几に、老中阿部対馬、牧野内たく匠みの頭かみ、堀内加賀、目付兼松五郎左衛門、松浦侯などがいた。 カロンの大臼砲は、御鉄砲御用衆の予期どおりに、かなりいい加減なものであった。第一弾は、一町ほどしか飛ばず、小田山の中に落ちこんで、十七尺ほどの深い穴をあけ、水田の泥や苗を空中高く噴きあげた。第二弾は砲腔と薬室の間で爆発したので、砲口から帯のような火炎が迸ほとばしり出て、土壇のまわりの幕を焼いたうえ、ウールフは顔と手に大火傷を負った。第三弾は小臼砲から射ちだされたが、充弾が空中で炸裂し、稲妻のような青白い彩光が射場の上に閃きわたった。 カロンの一行は、心光院で昼食をし、午後からまた試射を続行したが、どの弾丸も標的の小屋まで届かない。カロンはあきらめたのだとみえ、生き残った不機嫌な大臼砲を日本人の手にひき渡した。 喜三郎は同心の座から立ち出ると、老中の幕舎に敬礼し、臼砲の最初の伝習にとりかかった。 喜三郎は、思いのほか、要領よくやってのけた。まず砲口を四十五度の仰角にひきあげ、薬室に火薬を込め、その上に槇まい肌はだを巻いてつくった丸い板を置き、榴弾を入れ、湿った草を榴弾と砲腔の隙間に固く詰めこんだ。 喜三郎は、四分ぶん円えんの目めも盛りか環んを見ながら、射程を測っているふうだったが、半十郎のいるほうへ振返り、誇るかにも見える、高慢な態度で軽くうなずいてみせると、前方から導火管に火をつけた。 弾丸は大きな弧を描きながら四町ほども飛び、向い並びの前測の標的に命中して、猛烈な勢いで燃えあがった。 喜太夫の喜悦ぶりにひきかえ、外記はひどく不機嫌な顔をしていた。外記は、なにを考えていたのか、半十郎にもわかりかねたが、このときの印象は、心のどこかにとまって、外記が死んだあとも、長いあいだ、忘れることができなかった。 喜三郎と代って、半十郎が砲座に上ったが、国友村の鉄砲鍛冶の家で、曲りなりにも天砲を張立てた経験があるので、手心のわからないものに立ちむかう不安はなかったが、張立ての大筒を試射するときに襲われる、身震いの出るような心の勇いさみは、なぜか、すこしも感じられなかった。 半十郎は砲身をひき起し、装薬にとりかかったが、気持の沈滞はいよいよ深まるばかり。そのうちに、手を動かすのも、もの憂いような放心状態になった。土壇のまわりが、急に黄昏れてきて、沼のほうから吹いてくる風が、ぞっと身に沁みた。 島原の乱のあと、大砲の張立てが皆無になり、久しく領収発射をしたことがなかった。たぶん、そのせいで、気持が乱れるのだろう。どれほどの時がたったのか、知らない。それは、じぶんで考えるほど、長い時間ではなかったのだろうが、その間かん、じぶんの眼がなにを見ていたのか、まったく記憶がない。しかし、手だけは機械的に動いていたのに相違ないので、ふと夢想から醒めると、なにひとつ手落ちなく装填の作業が終っていて、導火管に火をつければいいだけの状態になっていた。 重量のある実質弾を、火薬の力でふっ飛ばす瞬間の感覚は、いくど繰返しても、いつも新鮮である。半十郎が火繩の火を導火管の口火に移そうとしたとき、風のなかに、パーテル・ノステルの祈祷の声を聞いた。その一転瞬の間に、尾崎の断崖を背景にして、モヤモヤした砲煙の間から浮きあがってきた、清らかな、世にも美しい女にょ人にんの顔をありありと見た。 火繩を持った半十郎の手が、宙に浮いたまま、硬直したように動かなくなった。自分は、砲術と大砲の領収を世職にする家に生れたのだが、これでもう、生涯、大砲から玉を打ちだす能力を失ったのだということを、このとき、はっきりと自覚した。事実、なにか目に見えぬ力が、半十郎の手をおさえこんでいるふうで、いくら火繩を振りまわしてみても、どうしても導火管に火を移すことはできなかった。 正しょ保うほ三年の九月、父、外記が、小栗長右衛門の邸で、長坂と稲富喜太夫を突き伏せ、おのれもまた、腹背から刺されて死んだ。 前日、外記は、例の五十町射ちの件で、喜太夫と躑躅の間で争論した。田付四郎兵衛なら知らず、貴様の技倆では、五貫目玉の五十町射ちは覚束なかろうと、満座のなかで手きびしくやりつけたので、喜太夫も勘弁ならず、この日頃、鬱積していた怒りを一時に爆発させて、思うさまに言い返した。長坂と鷹たか匠じょ頭うがしらの小栗長右衛門が割って入って、ほどよく双方を宥なだめたが、おさまりそうにも見えないので、長坂の邸へ外記と喜太夫を連れこみ、小栗のほかに、小十人頭の奥山茂左衛門も呼んで、二人に和解の盃を交換させた。瓶へい子しと盃を二人の前に別々に置いてまず一杯飲み、そののち、たがいに酌をして、更に一杯飲み、喜太夫の飲んだ盃を外記に差させた。目下から目上に盃を差すのは礼儀ではない。外記は面白くなく思ったが、怒りを胸におさめ、その日は、なにごとも言わずに帰った。 翌日、鷹匠頭の小栗の邸で、重ねて和解の宴を張ることになり、長坂、奥山も寄って、にぎやかな酒宴になったが、宴果ててから、長坂は喜太夫をとめ、外記だけを先に帰そうとしたので、外記は、扱いの不束さに立腹し、いきなり脇差をひき抜き、長坂をおし伏せて、衿から咽の喉どもとへ刺し通した。五
長坂は、
﹁心得た﹂
といって、抜きあわせたが、深手のために働けず、外記の額に薄手を負わしただけで、そこへ倒れた。喜太夫は、これを見るなり、
﹁長坂だけはやらぬぞ﹂
といって、脇差をぬいて外記に斬りかけたが、外記は肩を斬られながら、喜太夫を突き伏せた。
奥山は、つづきの小部屋で酔い倒れ、小栗は茶室で茶を点たてていたが、座敷の物音を聞きつけて来て見れば、長坂と喜太夫がすでに絶命している。外記は奥山を斬ろうというので、つづきの小部屋へ行き、刀を振りあげて斬りかけようとしたひょうしに、刀を鴨居へ切りこんでしまった。外記が刀を抜きとろうとしているのを、小栗が後から外記の脇腹へ突通す。奥山は、起きあがって、前から頭に斬りつけ、あとは次第もなく、めちゃめちゃに突刺し、二人で外記を斬り殺したということであった。
九月の二十六日、稲富、井上とも、世禄お取上げ、半十郎と喜三郎は士籍から削り、鍛冶師の扱いになる旨、達しがあった。
夕方、半十郎は仏間の片闇になったところに端坐して、父と稲富が、ああまで執念深く争いつづけたのは、どういうわけがあったのだろうと、考え耽っているとき、庭にむいた塀越しに棒火矢が飛びこんできた。その辺いちめんに、火ひだ玉まをこぼしながら、むやみに煙硝の煙をたちあげるので、邸のなかは煙にとじられて、もののかたちも見えないようになった。
そのとき、塀の外から、
﹁喜三郎、お見舞い﹂
と呼びかける、野太い声が聞えた。
﹁半十郎、貴様とは、互たがいに敵かたきになったぞ。おれは、これから西へ行くが、どこかの果てでめぐりあったら、五百目玉の抱え大砲で勝負をつけることにする。忘れるな﹂
半十郎は、なにをと叫び、床とこ脇わきから鉄砲をとって戸外へ走りだしたが、ちまたには夕闇ばかりで、喜三郎のすがたは、もうなかった。