一 國語は國民の神聖なる徽章
元ぐわ來んらいわが日にほ本ん語ごは甚はなはだ複ふく雜ざつなる歴れき史しを有いうする。
大だい體〳〵に於おいてその大だい部ぶぶ分んは太たい古こより傳でん來らいせる日にほ本んこ固い有うの言げん語ご及および漢かん語ごをそのまゝ取とり入いれたもの、またはこれを日にほ本んく化わしたもので、一部ぶは西せい洋やう各かく國こく例たとへば英えい、佛ふつ、和わ、獨どく、西せい、葡ほ等とうの諸しよ國こくの語ごから轉てん訛くわしたもの、及および梵ぼん語ごけ系いその他たのものも多たせ少うある。
近きん來らい世せか界いの文ぶん運うんが急きふ激げきに進しん展てんしたのと、國こく際さい的てき交かう渉せふが忙いそがしくなつたのとで、わが國くににおいても舊きう來らいの言げん語ごだけでは間まに合あはなくなつた。
殊ことに新あたらしい專せん門もん的てき術じゆ語つごはおほくは日にほ本んく化わすることが困こん難なんでもあり、また不ふか可の能うなのもあるので便べん宜ぎじ上やう外ぐわ語いごをそのまゝ日にほ本ん語ごとして使しよ用うしてゐるのが澤たく山さんあるが、勿もち論ろんこれは當たう然ぜんのことで、少すこしも差さし支つかへはないのである。
併しかしながら、永ながくわが國くにに慣くわ用んようされた歴れき史しのある我わが國こく語ごは、充じう分ぶんにこれを尊そん重てうせねばならぬ。
國こく語ごは國こく民みん思しさ想うの交かう換くわん、聯れん絡らく、結けつ合がふの機きく關わんで、國こく民みんの神しん聖せいなる徽きし章やうでもあり、至しは寶うでもある。
不ふそ足くな點てんは適てき當たうに外ぐわ語いごを以もつて補ほじ充うするのは差さし支つかへないが、ゆゑなく舊きう來らいの成せい語ごを捨すてゝ外ぐわ國いこ語くごを濫らん用ようするのは、即すなはち自みづからおのれを侮ぶじ辱よくするもので、以もつての外ほかの妄まう擧きよである。なかんづく一國こく民みんの有いうする固こい有うめ名いは最もつとも神しん聖せいなもので、妄みだりに他たから侵おかされてはならぬ。
曾かつて寺てら内うち内ない閣かくの議ぎく會わいで、藏くら原はら代だい議ぎ士しが總そう理りだ大いじ臣んから﹁ゾーバラ君くん﹂と呼よばれて承しや知うちせず、﹁これ猶なほ寺てら内うちをジナイと呼よぶが如ごとし﹂と抗かう辯べんして一場ぜうの紛ふん議ぎを釀かもしたことがあつた。
これは一時じの笑せう話わに過すぎぬが、こゝに看かん過くわし難がたきは、わが日にほ本んの稱せう呼こである。
わが國こく名めいは﹁ニホン﹂または﹁ニツポン﹂である。外ぐわ人いじんは思おもひ〳〵に勝かつ手てな稱せう呼こを用もちゐてゐるが、それは外ぐわ人いじんの自じい由うである。
併しかしわが日にほ本んじ人んが外ぐわ人いじ等んらに追つゐ從じうして自みづから自じこ國くの名なを二三にするのは奇きく怪わい千萬ばんである。英えい米べい人じんの前まへには﹁ジヤパン﹂と稱せうし、佛ふつ人じんに逢あへば﹁ジヤポン﹂と唱となへ、獨どく人じんに對たいしては﹁ヤパン﹂といふは何なんたる陋ろう態たいぞや。
吾ごじ人んは日にち常ぜう英えい國こくを、﹁イギリス﹂、獨どく國こくを﹁ドイツ﹂と呼よぶが、英えい獨どく人じんは吾ごじ人んに對たいして自みづから爾しかく呼よばないではないか。
日にほ本んじ人んち中うには今こん日にちでもなほ外ぐわ人いじんに對たいして臺たい灣わんを﹁フオルモサ﹂、樺かは太ふとを﹁サガレン﹂、朝てう鮮せんを﹁コレア﹂旅りよ順じゆんを﹁ボート・アーサー﹂、京けい城ぜうを﹁シウル﹂新にひ高たか山やまを﹁マウント・モリソン﹂などといふ者ものがあるのは不ふつ都が合ふである。
露ろこ國くでさへ、曾かつてその首しゆ府ふのペテルスブルグは外ぐわ國いこ語くごであるとて、これを自じこ國く語ごのペテログラードに改かい名めいしたではないか。
二 母語の輕侮は國民的自殺
日にほ本ん固こい有うの地ちめ名いを外ぐわ國いこくになぞらへて呼よぶことも國こく辱じよくである。
例たとへば、曾かつて日にほ本んを﹁東とう洋やうの英えい國こく﹂などとほこり顏がほにとなへたことがある。飛ひ騨だと信しな濃のの境さかひを走はしる峻しゆ嶺んれいを﹁日にほ本んアルプス﹂などと得とく意いが顏ほに唱となへ、甚はなはだしきは木きそ曾が川はを﹁日にほ本んライン﹂といひ、更さらに甚はなはだしきは、その或ある地ちて點んを﹁日にほ本んローレライ﹂などといつたものがある。
この筆ひつ法ぱふで行ゆけば、富ふじ士さ山んを﹁日にほ本んチンボラソ﹂と呼よび、隅すみ田だが川はを﹁日にほ本んテムズ﹂とでもいはねばなるまい。
日にほ本ん古こら來いの地ちめ名いを、郡ぐん町てう村そん等とうの改かい廢はいと共ともに變へん更かうすることは、或ある場ばあ合ひにはやむを得えないが、古いにしへの地ちめ名いに古いにしへの音おん便びんによつて當あて篏はめられた漢かん字じを妄みだりに今いまの音おんに改かい讀どくせしめ、その結けつ果くわ地ちめ名いの改かい稱せうとなるが如ごときは甚はなはだ不ふよ用う意いなことである。
例たとへば山やま城しろの﹁サガラ﹂は最もつともこれに近ちかい音おんを有いうする相︵サング︶樂︵ラー︶の二字じによつてあらはされたのが、今いまは﹁ソーラク﹂と讀よませてをり、能の登との﹁ワゲシ﹂は最もつともこれに近ちかい音おんを有いうする鳳︵フング︶至︵シ︶の二字じによつて示しめされたのが、今いまは﹁ホーシ﹂と讀よむ者ものがある。
その他た伊い賀がのアベ︵阿あは拜い︶は﹁アハイ﹂となり信しな濃ののツカマ︵筑摩︶は﹁チクマ﹂となつたやうな例れいはなほ若じや干くかんある。
この筆ひつ法ぱふで行ゆけば、武むさ藏しは﹁ブゾー﹂、相さが模みは﹁ソーボ﹂と改かい稱せうされねばならぬ筈はずである。
尤もつとも、古いにしへの和わめ名いに漢かん字じを充じう當たうしたのが、漢かん音おんの讀よみ方かたの變へん化くわに伴ともなうて、和わめ名いが改かい變へんせられた例れいは、古こだ代いから澤たく山さんある。
例たとへば、平へい安あん京けうの大だい内ない裡りの十二門もんの名なの如ごときで、その二三を擧あぐればミブ門もん、ヤマ門もん、タケ門もんは、美みぶ福も門ん、陽やま明も門ん、待たけ賢も門んと書かかれて、つひにビフク門もん、ヨーメイ門もん、タイケン門もんとなつたやうなものである。
和わめ名いに漢かん字じの和わく訓んを充じう當たうしたものが、理りい由うなく誤ごく訓んされた惡あく例れいも可かなりある。
例たとへば、羽うぜ前んの﹁オイダミ﹂に置賜の文もん字じを充じう當たうしたのが、今いまは﹁オキタマ﹂と誤ごく訓んされてゐる。
この外ほか、古いにしへの地ちめ名いを、理りい由うなく改かい廢はいした惡あく例れいも澤たく山さんある。
例たとへば、淡あは路ぢと和いづ泉みの間あひだの海うみは、古こら來い茅ち渟ぬの海うみと稱せうし來きたつたのを、今こん日にちはこの名めい稱せうを呼よばないで和いづ泉みな洋だまたは大おほ阪さか灣わんと稱せうしてゐる。
尤もつとも﹁チヌノウミ﹂は元ぐわ來んらい和いづ泉みの南なん部ぶのチヌといふ所ところの沖おきを稱せうしたのではあるが‥‥。
また有いう名めいなる九州しうの有あり明あけ灣わんを理りい由うなしに改かい竄ざんして島しま原はら灣わんなどとゝなへてゐるものもある。
三 外語濫用からパパ樣ママ樣
以いじ上やう日にほ本んの固こい有うめ名い、殊ことに地ちめ名いについて、その理りい由うなく改かい惡あくされることの非ひなるを述のべたが、ここに更さらに寒かん心しんすべきは、吾ごじ人んの日にち用よう語ごが、適てき當たうの理りい由うなくして漫まん然ぜん歐おう米べい化くわされつゝあるの事じじ實つである。
これは吾ごじ人んが日ひ々ゞの會くわ話いわや新しん聞ぶんなどにも無むす數うに發はつ見けんするが、例たとへば、近ちかごろ何々日といふ代かはりに何々デーといふ惡あく習しふが一部ぶに行おこなはれてゐる。
わざ〳〵デーといはずとも、日といふ美うつくしい簡かん單たんな古こら來いの和わ語ごがあるのである。
また例たとへば、父ふ母ぼはとと樣さま、はは樣さまと呼よんで少すこしも差さし支つかへなきのみならず、却かへつて恩おん愛あいの情ぜうが籠こもるのに、何なにを苦くるしんでかパパ樣さま、ママ樣さまと、歐おう米べいに模もは倣うさせてゐるものが往わう々〳〵ある。
外ぐわ國いこ語くごを譯やくして日にほ本ん語ごとするのは勿もち論ろん結けつ構こうであるが、その譯やくが適てき當たうでなかつたり、拙せつ劣れつであつたり不ふつ都が合ふなものが隨ずゐ分ぶん多おほい、新あらたに日にほ本ん語ごを作つくるのであるから、これは充じう分ぶんに考かう究きうしてもらひたいものである。
劣れつ惡あくなる新しん日にほ本ん語ごの一例れいに活動寫眞といふのがある。
これはキネマトグラフの譯やくであらうが、何なんといふ惡あく譯やくであらう。支し那なはさすがに文も字じの國くにで、これを影戯と譯やくしてゐるが、實じつに輕けい妙めうである。
文ぶん章しやうの章しや句うくにおいても往わう々〳〵生せい硬かうな惡あく譯やくがあつて、甚はなはだしきは何なんの事ことやら分わからぬのがある。
﹁注ちう意いを拂はら﹇#ルビの﹁はら﹂は底本では﹁けふ﹂﹈ふ﹂だの﹁近ちかき將しや來うらい﹂などは、おかしいけれどもまだ意い味みが分わかるが、妙めうに持もつてまはつて、意い味みが通つうじないのは、まことに困こまる。
これ等らは日にほ本ん語ごを蹂じう躙りんするものといふべきである。
ひるがへつて歐おう米べいを見みれば、さすがに母ぼ語ごは飽あくまでもこれを尊そん重てうし、英えい米べいの如ごときは至いたるところに母ぼ語ごを振ふりまはしてゐるのである。
ドイツでも曾かつてラテン系けいの言こと葉ばを節せつ制せいしてなるべく、自じこ國く語ごを使しよ用うすることを奬せう勵れいした。
どれだけ勵れい行かうされたかは知しらぬが、その意い氣きは壯さうとすべきである。
四 漫然たる外語崇拜の結果
我わが輩はいが曾かつてトルコに遊あそんだ時とき、その宮きう廷ていの常ぜう用よう語ごが自じこ國く語ごでなくして佛ふつ語ごであつたのを見みておどろいた。
宮きう中ちうの官くわ吏んりが互たがひに佛ふつ語ごで話はなしてゐるのを見みてトルコの滅めつ亡ばう遠とほからずと直ちよ感くかんしたのである。
インドにおいては、地ち理り歴れき史しの關くわ係んけいから、北ほく部ぶと南なん部ぶとでは根こん本ぽんから言げん語ごがちがふので、インド人じん同どう士しで英えい語ごを以もつて會くわ話いわを試こゝろみてゐるのを見みてインドが到たう底てい獨どく立りつし得えざるゆゑんを悟さとつた。
昔むかし支し那なにおいて塞さく外ぐわいの鮮せん卑ひぞ族くの一種しゆなる拓たく拔ばつ氏しは中ちう國ごくに侵しん入にふし、黄こう河かり流うゐ域きの全ぜん部ぶを占せん領れうして國くにを魏きと稱せうしたが、魏きは漢かん民みん族ぞくの文ぶん化くわに溺でき惑わくして、自みづから自じこ國くの風ふう俗ぞく慣くわ習んしふをあらため、胡こ語ごを禁きんじ、胡こふ服くを禁きんじ、姓せい名めいを漢かん式しきにした。
果くわ然ぜん彼かれは幾いくばくもなくして漢かん族ぞくのために亡ほろぼされた。獨ひとり拓たく拔ばつ氏しのみならず支しな那さく塞ぐわ外いの蠻ばん族ぞくは概おほむねその轍てつを履ふんでゐる。
わが日にほ本んみ民んぞ族くは靈れい智ち靈れい能のうを有もつてゐる。炳へい乎こたる獨どく特とくの文ぶん化くわを有いうしてゐる。素もとより拓たく拔ばつ氏しや印いん度どじ人んやトルコ人じんの比ひではない。
宜よろしく自じこ國くの言げん語ごを尊そん重てうして飽あくまでこれを徹てつ底ていせしむるの覺かく悟ごがなければならぬ。
然しかるに今こん日にちの状ぜう態たいは如いか何ゞであるか、外ぐわ語いご研けん究きうの旺わう盛せいはまことに結けつ構こうであるが、一轉てんして漫まん然ぜんたる外ぐわ語いご崇すう拜はいとなり、母ぼ語ごの輕けい侮ぶとなり、理りい由うなくして母ぼ語ごを捨すて、妄みだりに外ぐわ語いごを濫らん用ようして得とく意いとするの風ふうが、一日にちは一日にちより甚はなはだしきに至いたつては、その結けつ果くわは如いか何ゞであらう。これ一種しゆの國こく民みん的てき自じさ殺つである。
切せつに希ねがふ所ところは、わが七千餘よま萬んの同どう胞はうは、亘たがひに相あひ警いましめて、飽あくまでわが國こく語ごを尊そん重てうすることである。
若もし英えい米べい霸はを稱せうすれば、靡ひぜ然んとして英えい米べいに走はしり、獨どく國こく勢せい力りよくを獲うれば翕きう然ぜんとして獨どく國こくに就つき、佛ふつ國こく優いう位ゐを占しむれば、倉さう皇こうとして佛ふつに從したがふならば、わが獨どく立りつの體たい面めんは何いづ處こにありや。
人ひと或あるひはわが輩はいのこの意いけ見んを以もつて、つまらぬ些さ事じに拘こう泥でいするものとし或あるひは時じせ勢いに通つうぜざる固ころ陋うの僻へき見けんとするものあらば、わが輩はいは甘あまんじてその譏そしりを受うけたい。そして謹つゝしんでその教をしへを受うけたい。
(完)
(大正十四年一月「東京日々新聞」)