手もとは、まだ暗い。
父は、池の岸に腹這いになって、水底の藻草を叉さ手でで掻きまわしている。餌にする藻もえ蝦びを採っているのである。
藻の間を掬すくった叉手を、父が丘おかへほおりあげると、私は網の中から小蝦を拾った。藻と芥あくたに濡れたなかに、小さな灰色の蝦がピンピン跳ねている。
母は、かまどの下で火を焚きはじめたらしい。池のあたりまで薪のはねる音が聞こえてくる。昧まい暗あんから暁へ移った庭へ、雄おん鶏どりが先へ飛び降りて、ククと雌めん鶏どりを呼んだ。
初夏とはいうけれど、時によっては水霜も降りるこの頃では、朝の気は私の小さな手に冷たかった。
﹃もう、行こうよ!﹄
私は、いくども父を促した。けれど父は、
﹃待て待て、餌が少ないと心細い――いい子だな﹄
と、言ってなおも、叉手を忙しく動かして池の水を濁している。
それは私が小学校へ入学して間もない時であったから、七、八歳の頃であったにちがいない。私はそんな小さい時から、父のお供をして若鮎釣りに使う餌採りの相手をさせられた。海から下総の銚子の利根の河口へ入って、長い旅を上州の前橋近くまで続けてくる若鮎の群れは、のぼる途々、淡水にすむ小蝦を好んで餌にするのである。だから、その頃まだ加賀国や土佐国で巻く精巧な毛けば鈎りが移入されなかった奥利根川の釣り人は、播州鈎や京都鈎に藻蝦の肉を絞り出し、餌としてつけたのであった。
若鮎の群れは、鈎先につけた蝦の肉を見ると、競い寄って食った。鈎の種類など選ぶ必要はないほど、数多い鮎が下流から遡のぼってきたのである。
竿は、薮から伐り出したばかりの竹でもよく、場合によれば桑の棒でもこと足りた。近年のことを想えば嘘のように釣れた。
朝の飯を食べると、私はちょこちょこと父の後にしたがった。前橋から下流一里ばかりの上新田の利根河原へ行ったのである。
父は、三十歳前後の、勘かんのいい盛りであったのだろう。私は、河原の玉石の上へ腰をおろして、竿さばき鮮やかな父を眺めた。いまから想い出しても、父は釣りが上じょ手うずであったと思う。二間一尺の小鮎竿を片手に、肩から拳こぶしまで一直線に伸ばして、すいすいと水面から抜き上げる錘おもりに絡んで、一度に二尾も三尾も若鮎が釣れてくる。そのたびに、幼い私は歓声をあげて、網魚び籠くの口を開けては、父の傍らへ駆け寄った。
私は、父より先にお腹が減った。包みから握り飯を出して頬張ったのを顧みて、父は、
﹃はじめたね﹄
と、言って竿の手を休めた。そして、竿を石の上へ倒しておいて、私と並んで小石の上へ胡あぐ座らしたのである。
五月の真昼は、何とすがすがしい柔らかい風が吹くことであろう。小石原から立つ陽かげ炎ろうがゆらゆらと揺れる。砂原の杉すぎ菜なの葉末に宿やどった露に、日光が光った。
眼の前の、激流と淵の瀬脇で、ドブンと日本鱒ますが躍り上がった。一貫目以上もある大物らしい。
日本鱒も、川千鳥と同じように、若鮎が河口へ向かうのと一緒に、遠い太平洋の親潮の方から、淡水を求めて遡ってくるのである。
夷えび鮫すざめが、鰹かつおの群れと共に太平洋を旅して回るのは、鰹を餌食とするためであるが、日本鱒も若鮎を餌にしながら大河を遡る。だから、利根川筋では、昔から若鮎を餌に使って日本鱒を釣っていた。
﹃お父さんが、お弁当を食べる間、お前が釣ってごらん﹄
私は、父がこう言ってくれる言葉を、朝から待っていたのであった。
軽いとはいっても、子供には力負けのするような父の竿を握って、私は錘おもりを瀬脇へ放り込んだ。父のするように、竿先を少しずつ次第に水面近くへあげてくると、ゴツンと当たりがあった。びっくりするような強引な当たりである。
はじめて釣り竿を持った幼い私に、余裕も手加減もあろうはずがない。当たりと一緒に、激しく竿先を抜きあげると、大きな魚が宙に躍った。私は、夢中になって魚を丘へ振り落としたのである。そして、石の間を跳ね回る魚を双手で押さえつけた。
それは、若鮎ではなかった。腹に一杯卵を持った紅色鮮やかなはやであった。子供の私の眼に一尺以上もある大物に見えたのである。鼓動が鳴った。手がふるえた。
父は、ただ手を拱こまねいて顔も崩れそうに笑っていた。そして、
﹃逃がすな、逃がすな﹄と、声援して﹃よくもまア、こんな細い糸であがったものだ﹄、こう言葉を続けて感嘆した声が、いまでも私の耳の底に残っている。
私が、生まれてはじめて魚を釣ったのは、この時である。回顧すれば遠い昔だ。四十年前にもなる。
このほども故郷の村へ帰って、崖の上から昔の河原を望んだが、流れを遮さえぎる鬼岩は、その頃と変わらぬ安山岩の荒い肌を、激流の面へ現わして、白い飛沫を空に撒いていた。
河原の青い玉石も、松の黒い葉も、杉葉の浅緑も、幾十年の彩いろどりを、晩春の陽のなかへ漂わせていた。
だが、優しい父はいない。ただ、遙かに遠い想い出ばかりが残るのである。