汽船が太平洋を横断するまで

服部之総




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――カール・マルクス




 


 
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東洋航路 The Peninsular & Oriental Steam Navigation Company(P & O), 1837
大西洋航路 The Cunard Company, 1838
太平洋航路 The Pacific Steam Navigation Company, 1840
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「投錨地の付近といわず、およそ湾岸全体、人影一つなかった……ふなべりを猛禽や渡鳥がかすめた。かしの森には野獣の列がゆききしていた。潮に乗ってしずかに湾頭を去らんとするとき、北岸のみぎわに鹿がならんで、いぶかしそうに見送ってくれた」。
 
 
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 リャザノフが『シナ・インド論』の序文中に引用する箇所はちょうどこの次の行からであるが、十九世紀の極東市場史なかんずく日本開国問題を考察する場合には、太平洋に関するマルクスのこの予言部分はことに重要である。ここには的確な予言とともに、一八四八年を見送った偉大なる革命家の心情もまた吐露されている。だがカリフォルニアの金鉱を契機として方向を規定されたアメリカの繁栄にもかかわらず、ヨーロッパの革命を迎えることもなく英国がその優越を保持しえたについては、五〇年のマルクスにも、いわんやいかなるマルクス批判家にも、予見できないその後の原因があった。それはともかく、事態は数年の間ことごとくマルクスの予言を実現していった。そしてその途上に、日本開国問題が横たわっていた。

四 米国海軍委員会の報告


 パナマ地峡で連絡されたニューヨーク・サンフランシスコ間の太平洋郵船パシフィック・メイルは、四九年二月の処女航路以来非常な景気だった。「パナマ」「オレゴン」「ゴールデン・ゲート」「コロンビア」などの当年切っての優秀船が就航して太平洋横断いつでも来いと待構えた。事実これらの船の大部分が後日ヨコハマへ入ってくる。
 ところで、左の一文は、太平洋汽船航路設定に関する建白書にたいしてなされた米国海軍委員会の報告である。
「カリフォルニアの獲得はシナとの通商交通にとって閑却すべからざる利便を与えた。汽船によればサンフランシスコ湾からシナにいたる航海を定期に二十日間をもって行いうるものと信じられる。現在行われているパナマ地峡の連絡路によるときは、我国西海岸(カリフォルニア)と大西洋諸都市(ニューヨークその他)の交通は三十日強である。
 かくて太平洋上の汽船路設定はニューヨークをマカオから六十日もかからない距離に置くこととなろう。
 帆船によるシナ貿易はケープホーンを迂回するとき、長期の航海日数を要するため非常な不便をめている。一往復平均十ヶ月を費すものと仮定してよい。これに対してヨーロッパ・シナ間の往復は、平均満十二ヶ月を要するものと考えられる。
 現存の諸便益を利用し、これに加えるに建白書が提案している太平洋ラインをもってすれば、リヴァープール・シナ間の交通は六十日に縮少され、かくてロンドンからシナにいたる冒険的な往復路は、合衆国を経過することによって五ヶ月以内に縮少されることを得、現在の所用日数を半減してなお余りあるものとなる」。
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「……アメリカ通商のためその湊港を開き、かつサンフランシスコより、上海広東に通路すべき蒸汽船のため、松前、対馬、琉球の地に、石炭場を設る趣向を促し、もしその談判を将軍の方および執政が拒むにおいては、日本政府承服に及ぶまで、その都府にボムベンおよび焼玉を放発して、国中の湊港を閉塞し、うらみを日本国に晴さん、この意しきりにやまざる所なり云々」(一八五〇年、元ニューヨーク州外事局長A・H・パーマーより、長崎オランダ商館長レフィーソンに送った私信、実質は非公式の外交文書である)。
 つぎは五一年六月十日付の海軍中佐ジェームス・グリンの建議案。彼はブレブル艦長として四九年に長崎へ乗込み、ラゴダ号事件に関して強硬な態度をとっている。やはりカリフォルニア・シナ間の汽船定期航路を開始するためには米日間に通商条約を締結する必要があるゆえんをべ、「この手段早晩必ず着手を要するものにして、もし平和的手段によりて成功を見ざる時は、兵力に訴うるも必ず成就せしめざるべからず」と力説している。
 同年、いよいよ正式に日本問題を解決すべく、米国東インド艦隊司令長官オーリックを特使に任じたときの公式対日要求条項は、五〇年以前のもっぱらなる要求だった米捕鯨船遭難者の救助と自由貿易の二項目にあわせて、最後に五〇年代の新たな項目たる米支間横断汽船用の貯炭所問題が掲げられている。
 持前の癇癖にたたられて中途で免職になったオーリックに代って、いよいよペリーの幕だ。五二年十一月のペリーにたいする訓示中、左の箇条書の部分を、マルクス前掲文と参照すると興味がある。
「(一) 近時汽力による太平洋横断航路開かれし事(開かれんとするの誤か? 事実まだ開けてはいないのだ。田保橋氏『外国関係史』を参照)
 (二) 合衆国が太平洋沿岸に広大なる植民地を獲得せし事
 (三) 該植民地に金鉱の発見せられし事
 (四) パナマ地峡の交通頻繁となりたる事、は、東洋諸国と合衆国との関係を著しく密接ならしめたり云々」。
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船名      John T. Wright
船長      Watson
トン数     370
船籍及船種   American steamer
出港地     San Francisco
入港日     June 8th
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(1) 米墨戦争と同時にコロン・パナマ鉄道が企画されて五五年に完成した。
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(3) 当時東洋貿易に従事していた英人ミチー・アレキサンダーの著書は米船の三角路が英船の往復路に比して約倍の積荷高を稼いだと記しているが(The Englishman in China, p. 230)、当時のカリフォルニア州貿易を顧みるとき、差額はもっと大きかったろうと思われる。

(4) P. Smith, Western Barbarians, p. 135 スミス氏はまた、前記太平洋郵船の横断就航を六五年にはじまると記している。商船史の権威 W. S. Lindsay の書は船名をあげずたんに六七年と記し――History of Merchant Shipping, p. 154――, Rogers の近書 Pacific は本文記載の船名日月をあげている。是非を決定する基本資料を私は知らない。なお、本文中工芸学に関する部分は、カーカルディの『英国船舶史』によった旨記しておく。







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